メッセージ - キリスト抜き人間の最終進化形態(伝道者の書1:4-11)

キリスト抜き人間の最終進化形態(伝道者の書1:4-11)

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pastor 2014-3-22 13:31

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【概要】

伝道者の書は、神様から離れた人間が知恵と富を極めた最終形態として行き着く虚しさを描いています。しかし、キリストにある者は全く新しくされ、労苦が無駄ではない希望に満ちた人生を歩むことができます。

【聖書箇所】

  • 伝道者1:4-11

  • 詩篇19:1-6

  • ヨハネ3章

  • 第一コリント15:53-58

  • イザヤ43:18-19

【励ましの言葉】

  • キリストにある者の最終形態は黙示録20章、21章以降に描かれる希望に満ちたものです

  • 主にあって労苦は無駄ではありません

  • 朽ちる者は必ず朽ちないものを着、死は勝利に飲まれます

  • 主は全てを新しくしてくださいます

  • 神の国の最も小さき者でさえ、バプテスマのヨハネより偉大です

【勧めの言葉】

  • イエス・キリスト抜きの頑張りの人生ではなく、イエス・キリストありの楽な人生を歩んでください

  • 昔のことを思い出すのではなく、主が成してくださる新しいことに目を向けなさい

  • 御霊によって歩む者となってください

【詳細】

【第1部】(冒頭〜詩篇19篇との対比まで)

今日の箇所は、伝道者の書1章4節から11節です。まず御言葉をお読みいたします。

「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。
日は昇り、日は沈み、また元のところ、元の昇るところに帰っていく。
風は南に吹き、めぐって北に吹く。めぐりめぐって風は吹く。しかし、そのめぐる道に帰っていく。
すべてのことは物憂い。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
昔あったものはこれからもあり、昔起こったことはこれからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶に残っていない。」

この伝道者の書は、他の聖書箇所を読んでおられる方であればお分かりのとおり、非常に独特な書物です。他の多くの箇所が希望に満ち、喜びへと私たちを導くのに対して、伝道者の書は、どこか沈み込むような思いを抱かせます。読み進めるうちに、胸の奥から、言いようのない虚しさが立ち上ってくるように感じることさえあります。

ですから、この書がどのような立場から語られているのかを押さえることはとても大切です。先週も触れたとおり、ソロモンは、かつてなく、またこれからもないほどの知恵を授かった者として描かれています。その知者が、知恵と知識を尽くし、あらゆるものを見つめた末に辿り着いた結論が、「空の空、すべては物憂い」というところだったのです。

しかし同時に、ここで忘れてはならないことがあります。ソロモンは、神から離れていった人物でもあります。
ですから伝道者の書は、「神から離れた人間が、人間の知恵を極めたときに行き着く最終形態」を示している、と理解する必要があります。すなわち、「神を知らない者の到達点」を描き出している、ということです。

他方、キリスト・イエスにある者の到達点はどこでしょうか。それは黙示録です。黙示録20章、21章以降に示される、神の完成と回復、永遠の希望――そこへ向かいます。
つまり、キリストを抜きにして、世の知恵、世の富、世の楽しみを集大成した者の行き着く先が伝道者の書であり、キリストにある者の行き着く先が黙示録なのです。

ですから、伝道者の書は、ある意味で真実を語っています。むしろ、真理に触れていると言ってよい部分もあります。ただし、それは「反面教師」としての真理です。私たちは、この罠に陥らないために、前提意識をもって伝道者の書を読まなければなりません。

さて、知恵を尽くし、人間的な意味での「最終形態」に至ったソロモンは、いったい何を見るのでしょうか。
「最終形態」という言葉が出ましたので、ひとつたとえ話をいたします。蝶は、最初は卵として始まり、やがて幼虫となり、脱皮を重ねて成長し、そして蛹を経て、最後に蝶として羽ばたきます。そこには確かな変化があります。

この姿は、キリスト者にとって、希望を思い起こさせます。キリスト者の最終形態は、主によって身体さえ造り替えられ、古いものが過ぎ去り、新しいものを着せられるからです。地味に這っていたものが、やがて大空を美しく舞う――そこに救いの完成の希望が重なります。

しかし、イエス・キリスト抜きで人間が辿り着く「最終形態」は、ソロモンの言葉に現れるように、虚しさへと傾いていきます。

さて、ソロモンが何を語っているか。4節から5節を見ますと、こうあります。
「一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈み、また元の昇るところに帰っていく。」
つまり、時代は巡り巡っていく。しかし結局、何も変わらない――そう見える。そして、そのことが虚しい、と。

さらに、ヘブル語の表現を直訳的に捉えるなら、「日は昇り、日は沈み、また元の昇るところへと喘ぎつつ急いでいく」といったニュアンスさえ含む、と言われます。ソロモンは、太陽の循環を「喘ぐような営み」として見ているのです。

しかし、同じ太陽の営みを見ながら、父ダビデはまったく違う歌を歌いました。詩篇19篇を開きましょう。ソロモンが「無情だ」「虚しい」と捉えたものを、ダビデは神の栄光として仰いだのです。詩篇19篇1節からお読みいたします。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手の業を告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。
話もなく言葉もなく、その声も聞かれない。
しかし、その呼び声は全地に響き渡り、その言葉は地の果てまで届いた。
神はそこに太陽のために幕屋を設けられた。
太陽は部屋から出てくる花婿のようだ。その走路を喜び走る。
その上るのは天の果てから、行き巡るのは天の果てまで。
その熱を免れるものは何もない。」

同じ太陽を語っているのに、その描き方には驚くほどの違いがあります。
ソロモンは「日は昇り日は沈み、また元に帰る。喘ぐようだ」と見た。けれどもダビデは、「花婿のようだ。勇士のようだ。その走路を喜び走る」と歌います。

これは、「神の栄光を見いださない人の評価」と、「神の栄光をそこに見る人の評価」の違いです。ダビデは「天は神の栄光を語る」と告白し、太陽にも月にも星にも、神の御手の業を見て、それを賛美しました。花婿のように麗しく、勇士のように力強い――そのように評価したのです。

 

しかしソロモンは、すでに心が疲れ果てているかのようです。「すべては物憂い」と言い、太陽も風も川も、巡り巡るだけの空しい反復として見ています。神を抜きに見ると、万事は「無常」であり、ただ物憂い――そう結論してしまうのです。

【第2部】(風と御霊〜「万物が疲れ果てている」〜�汽灰螢鵐�15章の希望まで)

ソロモンは続けて、「風は南に吹き、めぐって北に吹く。めぐりめぐって風は吹く。しかし、そのめぐる道に帰っていく」と語ります。
風が巡り巡って再び戻る、その反復を見て、ソロモンはそこにも虚しさを見いだしました。

しかし、ここで私たちは、主イエスが語られた御言葉を思い起こします。主はニコデモに対してこう言われました。

「人は、新しく生まれなければ神の国を見ることができない。」

ところが、ニコデモはその意味を理解できませんでした。すると主はさらに言われます。

「人は、水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることができない。」

そして主は、こう続けて語られました。ヨハネの福音書3章に記されている言葉です。

「風はその思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者も、みなそのとおりである。」

「風」は、文脈によっては「霊」とも訳され得ます。御霊の息吹、と言ってよいでしょう。風は思いのままに吹き、人はその音を聞きます。しかし、それがどこから来て、どこへ行くのか――霊を持たない人、肉にある人には分かりません。

そして、御霊によって生まれる人もまた、風のようなのです。肉にある人には、その人がどこから来てどこへ向かうのかが分からない。しかし、イエス・キリストを信じる者は、霊によって生まれ、御霊がどこから来てどこへ導くのかを、次第にわきまえ知るようになります。なぜなら、その人が御霊に満たされるからです。

ソロモンは、風の巡りを見て「虚しい」と言いました。しかし、キリスト者にとって「風」は、主の御霊の息吹です。
そして、御霊によって息吹かれた者は、自分の歩みが主の御手の中にあり、万事が益となることを知っています。神を抜きにして見るならば、ただ巡り巡るだけの反復に見えるものが、主にあっては、導きとなり、恵みとなるのです。

次に、伝道者の書1章8節を見ます。

「すべてのことは物憂い。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。」

ここについて、韓国語の聖書では「万物が疲れ果てていることを、人は言い尽くすことができない」といった趣旨で訳されている、と聞きます。
万物は疲れ果てている。しかし、その疲れ果てた現実を、人間は言い尽くすことができない――それほど深く、広く、世界は「ほころび」を帯びている、という感覚です。

では、なぜ万物が疲れ果てているのでしょうか。
なぜ世界は、くたびれ、ほころび、物憂さをまとっているのでしょうか。

それは、人間の罪の結果です。

人は、目で見ても満足しません。耳で聞いても満たされません。
善悪を知る知識の実を取った人間の結論が、ここに現れています。見ることを繰り返しても、聞くことを重ねても、なお心は満たされず、いつしか「結局、何だったのか」という虚しさに落ち込みます。いくら得ても、いくら味わっても、最後に残るのは渇きです。

ソロモンほど知恵を蓄えた者でさえ、結局はこの路線――善悪の知識に立つ人間の路線の上を走り続けるしかなかったのです。いかに知識を集大成しても、そこにキリストがいないなら、その行き着く先は「死」であり「滅び」である。だからソロモンは、「すべてのことは物憂い」と言わざるを得なかったのです。

では、キリスト者はどうでしょうか。

キリスト者は、「すべての労苦は主にあって無駄ではない」という真理を知っています。
キリスト者は、「第一の死」の向こう側があることを知っています。

その希望を鮮やかに語るのが、第一コリント15章です。葬儀の場でもしばしば読まれる箇所ですが、これは単なる慰めではなく、復活の確かな希望そのものです。第一コリント15章53節からをお読みいたします。

「朽ちる者は必ず朽ちない者を着なければならず、死ぬ者は必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬ者が不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた』と記されている御言葉が実現します。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。
死の棘は罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。神は私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている。」
ここに、キリスト者の希望があります。

ソロモンは、自分が積み上げたものが指の間からこぼれ落ち、誰とも知らぬ者へと渡っていく現実を見て、「虚しい、虚しい」と言いました。朽ちていくもの、消えていくものを前に、彼は空しさを結論としました。

しかし、主イエス・キリストにある者は違います。
この朽ちる身体は、必ず朽ちないものを着ます。
死ぬ者は、必ず不死を着ます。

そして「死は勝利に飲まれた」という御言葉が、私たちの上に実現するのです。もはや死の棘も、黄泉の門も、私たちを支配することはできません。イエス・キリストが勝利してくださったからです。

 

だからこそ、イエス・キリスト抜きの人生と、イエス・キリストにある人生は、まったく異なります。百八十度、方向が変わるのです。

【第3部】(「新しいものはない」〜主が新しくされる〜結びまで)

ソロモンは、伝道者の書1章9節以降で、次のように語ります。

「昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。
日の下には新しいものは一つもない。
『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶に残っていない。
これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されない。」

ソロモンは、「日の下には新しいものは一つもない」と断言します。人間がいかに工夫を凝らし、発明を重ねたとしても、それはすでに過去にあったものの繰り返しに過ぎない、と。
「新しい」と称されるものも、実は遥か以前に存在していたのだ――それが彼の見方です。

ここから、ある人々は、「実は私たちが生きている21世紀よりも、はるか昔に高度な文明が存在していたのではないか」と考えたりもします。考古学的な遺跡を見て、電気や高度な技術さえ、すでに過去にあったのではないか、と推測する人もいます。
それが事実かどうかは、私たちには分かりません。そうだったのかもしれませんし、そうではなかったのかもしれません。

しかし、ここで大切なのは、主が何を語っておられるかです。
ソロモンは「虚しい」と結論づけましたが、主が語られる言葉は、まったく異なります。

主はこう言われます。

「先のことどもを思い出すな。
昔のことどもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。」

これは、イザヤ書43章18節以下の御言葉です。
主は、過去を掘り返し、あれこれと思い巡らす生き方から、私たちを解放しようとしておられます。過去を検証し続けること自体が悪いのではありません。しかし、それに縛られ、そこに意味を見いだそうとし続けるなら、人は結局、堂々巡りの中に閉じ込められてしまいます。

イエス・キリストを知らなかった頃の歩みは、多くの人にとって、確かに虚しいものであったでしょう。悲しみや苦しみを思い出し、その感情に浸ることもあるかもしれません。しかし主は言われます。「もう、それを続けるな」と。
「見よ、わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。」

人間は、自分の力だけで生きようとすると、過去と未来の間を行き来しながら、同じ失敗を繰り返します。かつて犯した罪を、努力や意思の力で何とか帳消しにしようとしますが、やがて同じ場所へと戻ってしまう。その繰り返しが、人間の歴史でもあります。

あるドキュメンタリーで、シンナー依存から立ち直ろうとする人の姿が紹介されていました。医師の助けによって依存を断ち切り、社会生活を取り戻したように見えたその人は、五年後のインタビューでこう語りました。「シンナーのことを一日も思い出さなかった日はありませんでした」と。
人間の力による更生には、どうしても限界があります。行動を変えることはできても、心の奥深くに刻まれた過去を消し去ることはできないのです。

しかし、キリストによる新生は違います。
キリストにある人は、「古いものは過ぎ去った」という現実を生きるようになります。過去を忘れようと必死に努力するのではなく、過去が力を失うのです。

実際、ホームレス伝道の現場で、かつて薬物に縛られていた人が、キリストに出会った後、その過去に引き戻されなくなる姿を見ることがあります。人間の更生システムは「壊れたものを修理する」ことを目指しますが、主のなさることは違います。主は、古いものを一度終わらせ、まったく新しいものを始められるのです。

人間の方法は、壊れたものを何とか修復しようとします。しかし、主の方法は、古いものを十字架に明け渡し、死なせ、そこから新しい命を与えることです。これが、イエス・キリストにある生き方です。

人間の努力だけに頼る人生は、最終的に虚しさへと向かいます。しかし、主にある人生は違います。主は、私たちを新しく造り替え、新しい力を与え、鷲のように翼を広げて上る者としてくださいました。

人は、自分の力だけでは、堂々巡りから抜け出すことができません。しかし主にある者は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。目で見たこともなく、耳で聞いたこともないものが、神を愛する者のために備えられているからです。

どうか皆さんが、イエス・キリストにあって、まったく新しい人生を歩んでください。
過去に縛られた「頑張り続ける人生」ではなく、キリストにあって与えられる「安らぎと希望に満ちた人生」を生きてください。

そのような歩みへと、主が皆さん一人ひとりを招いておられます。

 

主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
アーメン。

【結論】

私たちの人生には二つの道があります。善悪を知る知識の実のその路線で生きるか、それとも命の路線で生きるか。私たちはキリスト・イエスにあって作り変えられ、新しいものとされたことを感謝します。神の国の最も小さき者でさえも、バプテスマのヨハネよりも偉大です。なぜなら、神によって新しく作り変えられて、新しい霊が授けられ、新しい歩みにあって生き、新しい体が与えられているからです。御霊によって歩む人は、御霊が行く道を示してくださることを知っています。どうか、古い人間にあって、知識にあって、栄光、力、富、それを求めて歩む道ではなく、イエス・キリストを求めて歩む道を選び、いつでもキリストにあって最善へと導かれる者となってください。

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