メッセージ - 主の霊が激しく降って預言をした、後(1サムエル記10:1-13)
礼拝説教メッセージ音声:主の霊が激しく降って預言をした、後(1サムエル記10:1-13):右クリックで保存
『その時サムエルは油のびんを取って、サウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った、「主はあなたに油を注いで、その民イスラエルの君とされたではありませんか。あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない。主があなたに油を注いで、その嗣業の君とされたことの、しるしは次のとおりです。』(1サムエル記10:1)
サウルに王としての任職の油が注がれ、ついに、イスラエルに王が誕生した。
サムエルはサウルに、この事は主から出た事である事を明確に示すため、かなり具体的に、これから彼に起こるしるしを告げる。
『あなたがきょう、わたしを離れて、去って行くとき、ベニヤミンの領地のゼルザにあるラケルの墓のかたわらで、ふたりの人に会うでしょう。そして彼らはあなたに言います、『あなたが捜しに行かれたろばは見つかりました。いま父上は、ろばよりもあなたがたの事を心配して、「わが子のことは、どうしよう」と言っておられます』。
あなたが、そこからなお進んで、タボルのかしの木の所へ行くと、そこでベテルに上って神を拝もうとする三人の者に会うでしょう。ひとりは三頭の子やぎを連れ、ひとりは三つのパンを携え、ひとりは、ぶどう酒のはいった皮袋一つを携えている。彼らはあなたにあいさつし、二つのパンをくれるでしょう。あなたはそれを、その手から受けなければならない。』(1サムエル記10:2-4)
これほどまでに具体的かつ事細かに示されるのは、聖書の中でも珍しい。
しかしそこまでサウルに示されたのは、彼に王としての油が注がれたのは、確かに全能の主から来た事であり、主は未来の事も完全に知り、全てを支配しておられる事を彼に教えるためだ。
『その後、あなたは神のギベアへ行く。そこはペリシテびとの守備兵のいる所である。あなたはその所へ行って、町にはいる時、立琴、手鼓、笛、琴を執る人々を先に行かせて、預言しながら高き所から降りてくる一群の預言者に会うでしょう。その時、主の霊があなたの上にもはげしく下って、あなたは彼らと一緒に預言し、変って「新しい(アカー:別の、違った)」人となるでしょう。』(1サムエル記10:5)
主の霊が激しく降ると、それまでとは違った、新しい人になる。
私達も同じように、主キリストにあって、新しく造り変えられた者だ。
『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(ガラテヤ5:17)
ただし、武器を買ってもそれを装備しなければ効力を発揮出来ないように、「キリストのうちに」あり続けないなら、新しく造られた者としての効力は一切発揮されない。
サウルは、王としての任職の油が注がれたからには、その特権を正しく行使する責任も与えられたのであり、それをしないなら、せっかく主から任職の油が与えられても全く無益どころか、逆に害なすものとなってしまう。
私達も、王として、祭司として、聖なる国民としての特権が与えられている。その理由は、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方の御業を、語り伝えるためである。(1ペテロ2:9)
だから、与えられた特権を活用し、主の栄光のため・神の国の働きのために用いるなら、その人自身も、その働きも、どんどん祝福されていく。
しかしその特権を乱用し、古き罪深い生き方をし続けるなら、不信者よりも格別きびしいさばきを受けてしまう。
『主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。』(ルカ12:47-48)
聖霊が激しく自分に降る事を求めるキリスト者は、たくさんいる。
しかし結局大事なのは、それが与えられた後の、御言葉への従順である。
サムエルは続けて言う。
『これらのしるしが、あなたの身に起ったならば、あなたは手当りしだいになんでもしなさい。神があなたと一緒におられるからです。あなたはわたしに先立ってギルガルに下らなければならない。わたしはあなたのもとに下っていって、燔祭を供え、酬恩祭をささげるでしょう。わたしがあなたのもとに行って、あなたのしなければならない事をあなたに示すまで、七日のあいだ待たなければならない」。』(1サムエル記10:7)
手当たり次第、何でもしなさい。
ここを直訳するなら「あなたの手に来た事は何でもしなさい」であり、つまり、何も起きていない所から自ら何かを考え出して実行する、という事ではなく、何か事が起きたなら、それに対して何とでも対処しなさい、という事である。
主の霊に導かれる人は、自分から何か思いついた事をするのではなく、主の霊の導きに従って行動するものなのだ。
当面、サウルが従順すべき事は、彼は先にギルガルに行くべき事、そして、そこで七日の間、サムエルを待つ事だと言われた。
忍耐して待つ事が七という完全数に満ちた時、サムエルが来て燔祭と酬恩祭をささげ、その後彼が為すべき事が示されるというのだ。
しかし、結論から言うと、サムエルが来る前にサウルが勝手に燔祭と酬恩祭をささげてしまったため、その後サウルに示されるべき道は、結局分からずじまいとなってしまった。
『サウルが背をかえしてサムエルを離れたとき、神は彼に新しい心を与えられた。これらのしるしは皆その日に起った。彼らはギベアにきた時、預言者の一群に出会った。そして神の霊が、はげしくサウルの上に下り、彼は彼らのうちにいて預言した。もとからサウルを知っていた人々はみな、サウルが預言者たちと共に預言するのを見て互に言った、「キシの子に何事が起ったのか。サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」。(1サムエル記10:9-11)
サウルは実際に預言し、「サウルもまた預言者たちのうちにいるのか」という言葉が、ことわざのようになった。
預言したり、聖霊が激しく降る事を望むキリスト者は多い。
しかし、聖霊に満たされる事や、預言が言えるようになる事が、キリスト者のゴールではない。
主が約束された永遠の御国に入る事こそ、ゴールであるべきだ。
モーセの時代、主の霊が与えられて預言したイスラエルの七十人の長老たちは、果たして約束の国に入れただろうか?
彼らは不従順の故に、約束の地に入れず、荒野で死んでいった。
サムソンは、主の霊が激しく降って、すさまじい力を発揮し大活躍したがその最後はどうだっただろうか。
彼は不従順を重ねた故に、壮絶な最後を遂げた。
サウルも同じである。
いかに主の霊が激しく降り、預言したとしても、不従順を重ね続けるなら、預言も夢も幻も取り上げられ、悲惨な最後となってしまうのだ。
今は終わりの時代であり、主の霊は、しもべにもはしためにも注がれている。(ヨエル2:28-32)
そして私達キリスト者は、王として、祭司として、聖なる国民として、主に立てられており、御言葉に従順となって、与えられている特権を正しく活かす事が求められている。
それを正しく行使するなら、永遠の栄光が待っている。
しかし不従順を重ねるなら、サウルのように、かの七十人の長老達のように、約束の地に入れないまま、荒野をさまよい続けるしか無いのだ。