メッセージ - 幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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- 執筆 :
- pastor 2015-10-14 20:41
イザヤ書講解説教メッセージ
幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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【概要】
本日のメッセージは、イザヤ書22章に記された「幻の谷」(エルサレム)への裁きの宣告です。神からの警告や幻を軽んじ、人間の力や武器、目先の快楽に頼ったイスラエルの民の姿を通して、真の悔い改めと神への信頼に立ち返ることの重要性を学びます。危機に際して自暴自棄になるのではなく、最後まで主に望みを置き、主の言葉に聞き従う生き方を促します。
【聖書箇所】
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イザヤ22:1-14
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Iコリント15:32-34
【戒めの言葉】
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神からの幻や預言の言葉を軽んじ、それに従わないなら、厳しい裁きが臨みます。
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危機が迫る時、武器や人間の知恵に頼り、それらを計画し備えた神ご自身に目を向けないことは愚かなことです。
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「どうせ明日は死ぬのだから」と享楽にふけることは、神の救いの力を軽んじ、悔い改めの機会を自ら放棄する行いです。
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悪い交わりは良い習慣を損ないます。神を恐れない者たちの言葉に耳を傾け、同調してはなりません。
【悔い改めの促しの言葉】
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主が警告し、悔い改めを呼びかけられる時、泣き悲しみ、頭を丸め、荒布をまとい、心から罪を告白し主に立ち返るべきです。
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どんなに絶望的な状況に見えても、自暴自棄にならず、最後まで主に望みを置き、助けを求めなさい。主は悔い改める者を決して見捨てません。
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過去の過ちを認め、主に赦しを請い、主の前に清く正しい生活を送る決意をしましょう。
【勧めの言葉】
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主の言葉に耳を傾け、それを心に留め、従順に生きることが大切です。
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目を覚まして正しい生活を送り、罪から離れなさい。神についての正しい知識を持ちましょう。
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交わる相手を選び、互いに励まし合い、信仰の道を歩む良い友を持ちましょう。
【励ましの言葉】
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主は、私たちが犯した罪のゆえに私たちを見捨てることはありません。悪人の一人も滅びることを願わず、私たちが悔い改めて立ち返るのを待っておられます。
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主の叱責を侮らず、速やかに悔い改めるなら、主は豊かに恵みを施してくださいます。
【***詳細***】
今日、恵みをいただくみ言葉はイザヤ書の22章1節から14節です。イザヤ書22章1節から14節。初めに5節までをお読みいたします。
「幻の谷に対する宣告。これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。お前のうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ、お前のうちの見つけられたものも遠くへ逃げ去る前に皆捕らえられた。それで私は言う。『私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。』なぜなら、騒乱と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び。」(イザヤ22:1-5)
お祈りいたします。愛する主よ、今日もあなたが直接御言葉を我らに語ってください。このしもべの唇と、またこれにあずかる一人一人の耳を開いて、天の御座から流れ来る命の水、愛、憐れみ、赦しの水が豊かに我らに注がれますように。それを飲み干すことができますように。どうかこれからが、ただ、あなたの愛、憐れみ、赦し、恵み、それに満ち満ちたひと時でありますように。イエス様、助けてください。これからの一切をあなたの御手に委ねて、私たちの貴き主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。
今日のこの22章は、「幻の谷に対する宣告」と題されています。この「幻の谷」とは一体どこでしょうか。続く内容からして、これはエルサレムであることが明らかになります。エルサレムは三方を谷で囲まれており、そして非常に主からの幻が頻繁に示された都でもあります。北側以外の三方は、ケデロンの谷やヒノムの谷などに囲まれ、天然の要害となっていました。ですから、ヨシュアの時代からダビデの時代に至るまで、イスラエルはそこを異邦人から攻め落とすことができませんでした。エブス人が住んでいましたが、ダビデがそこを攻略し、それ以降は神の都、神の民の首都として、イスラエルを代表する都のような立ち位置でありました。
その幻の谷に対する宣告です。まず1節、「これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。」あまり良い言われようではありません。人々が屋根の上に登って騒いでいる、そんな光景が描かれています。
そしてこの都に対する宣告ですが、2節には、殺された者たちがたくさんいるけれども、「剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない」とあります。そのような死体がたくさん転がっているのを、イザヤは幻の中で見ています。これは、敵の剣によって殺されたのではなく、飢饉や内紛によって互いに殺し合ったり、餓死したりした人々で都が満ち溢れることを示しています。
また3節を見ますと、「お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ」とあります。指導者たちは戦いもせずに逃げ出すのですが、遠くへ逃げる前に捕らえられてしまう、そう預言されています。
イザヤがこの預言をしていた当時、イスラエルにとって最も脅威となる大国はアッシリアでした。しかし、このイザヤの預言は、アッシリアによって成就したのではなく、もっと後の時代、バビロンが大国になった時に、確かに成就しました。バビロンがエルサレムを包囲した時、この都の中では、バビロンの兵士の剣によって殺された者よりも、むしろ、わずかな食糧を奪い合って互いに殺し合った人々、あるいは飢え死にした人々で満ち溢れました。そして、3節の首領たちについても、バビロンが包囲した後、イスラエルの首領たちはこっそりと都を捨てて逃げ出しますが、すぐにバビロンの兵に見つかり、まだ遠くに逃げないうちに捕まってしまうという、このことも成就しました。
預言者イザヤはそのような、将来起こる悲惨な有様を幻で見て、それで4節でこう言います。「私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」当時のユダの人々にとっては、確かにアッシリアの脅威はありましたが、まさかここまで悲惨な崩壊が来るとは思っていなかったかもしれません。イザヤはその悲劇を前もって見て、深く嘆いているのです。
なぜなら、これらのことは5節にあるように、「万軍の神、主から来るからだ」と説明されています。「幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び」。主からの幻、主からの預言、主の御言葉が何度も何度もこの都にあったのですが、しかしイスラエルはそれに従わなかった様子が、6節以降のところに書いてあります。
「幻のない民は滅びる」という箴言の言葉がありますが、幻が示されても、それに従順しないとするならば、なおさら厳しい戒めが臨んでしまいます。神が示してくださる幻や警告に従わず、自分たちのやり方で対処しようとしたイスラエルの姿が描かれています。
6節以降を見ますと、「エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾の覆いを取った。お前の最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門に立ち並んだ。こうしてユダの覆いは取り除かれ、その日、お前は『森の宮殿』の武器庫に目を向けた。」(イザヤ22:6-8)とあります。矢筒、戦車、騎兵、兵士、盾、武器…要するに、これらのものに頼ったのです。主からの幻が示され、主から預言が示されても、目の前に戦争の危機が迫ってくると、彼らは主の言葉ではなく、自分たちの武器に頼ったのです。
9節からはこう続きます。「お前たちはダビデの町の城壁の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。」この下の池は、ヒゼキヤ王がアッシリアの攻撃に備えて作った貯水池のことです。イザヤはヒゼキヤに助言を与え、王は主により頼みつつ、地下水路を掘って貯水池を造りました。さらに10節から11節前半には、「また、エルサレムの家を数え、その家を壊して城壁を補強し、二つの城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた」とあります。様々な防衛策を講じたのです。
しかし、11節の後半にはこうあります。「しかし、お前たちはこれをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」ヒゼキヤ王の時代には、王はまず主に祈り、主により頼んでこれらの備えをしました。しかし、その後の時代の王たちや民は、これらの物理的な備え、つまり貯水池や城壁、武器といったものには頼りましたが、それらを備えるように知恵を与え、助けてくださった神ご自身のことはすっかり忘れてしまったのです。彼らは、城壁を直し、貯水池を造り、家々を数えた人間の努力は覚えていても、その全てを導き、可能にしてくださった神を覚えていませんでした。
ヒゼキヤ王の時代、彼はまず主により頼み、荒布をまとって断食し、主に祈願しました。その上で、必要な水の確保や城壁の補強など、戦争に備える措置を施しました。しかし、ヒゼキヤの後の王たちは、主により頼むことを全くせず、ただ目に見える武器や防衛設備に頼ったのです。彼らは、素晴らしい備えを「なさった方」、つまり主なる神に目を向けず、昔からこれらを「計画された方」である神を目にも留めなかったと、イザヤは嘆いています。
ヒゼキヤ王は、主にお伺いを立て、様々な指示をいただき、その通りに実行しました。その後の王たちは、ヒゼキヤが残した貯水池も城壁も武器も民の数も家々も、全て引き継ぎました。しかし、一つだけ引き継がなかったものがあります。それは、主に伺いを立てるという祈りの信仰、主に信頼する信仰です。これだけは引き継がなかった。だから、このような悲惨な結果になったのです。
どんなに多くのものを持っていても、どんなに多くの兵士がいても、どんなに自分が強いと誇っていても、主に伺いを立てる信仰を持たずに生きるならば、槍一本放つことなく負けてしまうのです。これが、不信仰に至った者の結末です。彼らは武器を集めましたが、2節、3節を見ると、その武器を一切使わずに、武器を放置して逃げたとあります。一生懸命かき集めた武器は全く役に立たず、ただ武器を集めるという骨折り損に終わり、逃げるという恥をさらしたわけです。神なしの力、神なしの武器、神なしの城壁は何の助けにもなりません。
バビロンに攻め囲まれる時、その日、主は本当に悔い改めなさい、と呼びかけられました。12節です。「その日、万軍の神、主は、泣け、悲しめ、頭を丸め、荒布をまとえ、と呼びかけられたのに」。主は、髪を剃り、荒布を身にまとい、断食し、罪を悲しんで泣き叫び、悔い改めるようにと命じられたのです。イザヤを通して語られたように、もしそのような危機が目前に来たならば、大声で「主よ、あなたの言われた通りのことが私たちに起こりました」と告白し、地にひれ伏し、自分の罪を悔い改めなさい、そうすれば何とかなる、と主は言われたのです。
なのに、13節には何と書いてあるでしょうか。「見よ、お前たちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ、食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから』と言っている。」主が悔い改めを呼びかけているまさにその時に、彼らは「どうせ助からないのだから、今のうちに楽しもう」と、やけくそになって宴会を開いたのです。家にある、今までもったいないと大切にしていた家畜を殺して食べ、飲んで騒いだのです。
この、人間の質の悪いところ、クリスチャンであっても質の悪い者は、大変なことがあった時に絶対に悔い改めません。手持ちのもので飲めや食らえやと、やけっぱちになるのです。これは、主の力を軽んじ、「どうせ私を救ってくださらないだろう、そんな力があるわけない」と、自分で自分を見限っているのです。しかし、イエス様は一度も私たちを、私たちが犯した罪のゆえに見捨てたことはありません。主は、私たちがどんなに罪を犯していたとしても、「もうこいつはダメだ」と見限って捨てたことは一度もありません。悪人の一人も滅びないことを願っているのが主です。ですから、どんなに大変なことが自分の目の前にあるとしても、自暴自棄になって自分の命を見捨ててはいけません。最後まで主に望みをかけ、悔いて主に立ち返り、助けをいただこうとする、この立ち返りの信仰が私たちには必要なのです。
主は、悔い改めなさい、泣き悲しみなさい、自分の罪を悲しみなさい、荒布をまとって、頭を丸めて、ただひたすら主に祈願しなさい、と語られました。預言者が神の言葉を預かって「悔い改めなさい。今知っている悪事をやめて、自分の好むことをやめて、ひたすら主に祈願しなさい」と叫んでいる時に、この幻の谷の民は、幻を聞くのではなく、「ごちそうだ!喜び楽しめ!どうせ明日は死ぬのだから!」と言ったのです。
だから、14節で主はこう言われました。「そこで万軍の主は私の耳に啓示された。『この罪は、お前たちが死ぬまでは決して赦されない』と、万軍の神、主は仰せられた。」神の言葉に耳を傾けず、悔い改めを拒否し続ける者たちに対する厳しい宣告です。
この「飲めや食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから」という言葉は、第一コリント人への手紙15章にも出てきます。32節から34節をお読みします。
「もし私が、人間的な動機からエペソで獣と戦ったのなら、何の益があったでしょう。もし死者が復活しないのなら、『さあ、飲み食いしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。悪い交わりは良い習慣を損ないます。目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私は、あなたがたを辱めるためにこう言っているのです。」(Iコリント15:32-34)
パウロはここで、死者の復活の望みがないなら、人生は刹那的な快楽を追求するだけものになってしまうと警告しています。「悪い交わりは良い習慣を損なう」とは、まさにイザヤ書の民が陥った状況です。「どうせダメだ」「みんなやっている」と言う人々の言葉に流され、悔い改めから遠ざかってしまうのです。皆さんの周りにも、「そのくらい平気だよ」「大丈夫だよ」と罪を軽く見る人がいるかもしれません。しかし聖書は、そのような人は「悪い友」であり、むしろ「それはダメだよ、気をつけよう」と忠告してくれる人が「良い友」だと言っています。
目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持ちなさい、とパウロは勧めています。この34節の言葉は、当時のコリント教会の中に、不信仰な者たちの言葉に影響されて、「どうせ死ぬのだから」と投げやりな生き方をしている人々がいたことを示唆しています。主は、そのような者たちに「目を覚ませ!」と呼びかけておられるのです。
友達が悪ければ良い習慣が損なわれる。交わる相手に自分も染まっていくのです。この良くない悪い友達、彼らは「どうせ明日は死ぬのだ。さあ飲み食いしようではないか」と言います。そういう人々に交じっているならば、本当に断食して悔い改めなさいと言われても、その悪い方になぜか人間はなびいてしまうのです。悪い方へと平均化されてしまう。だから本当に友達、交わる相手には私たちは気をつけるべきです。
天国の望みもなく、復活の望みもない人は、この地上での望みが全て崩れると、刹那的な快楽に走ります。しかし、天国と復活の望みを持つ人は、地上での望みが絶たれても、その永遠の望みを捨てることはできません。だから、安易に悪い行いをすることができないのです。
神様から戒めを受けても、預言者から御言葉をいただいても、それでも自分の好むこと、「飲めや食らえや、どうせ明日は死ぬのだ。いや、もしかしたら死なないかもしれない。今までずっと死なないで来たから、たまたまあの預言者は厳しいことを言っているけれども、でもどうせ明日も同じだ」などと、そのような考えに同調してはなりませんし、また皆さん自身が、そのような不信仰な者になってはいけません。
クリスチャンの中にも、「御言葉、御言葉と言っても、あれは昔の言葉だよ。この時代に合わないよ」と言う人がいます。そのような人は、今日の聖書によれば、私たちに災いをもたらす「悪い友」です。
当時の幻の谷の民、エルサレムの人々は、主からの幻や御言葉がひっきりなしに示されていたにもかかわらず、そのような悪い影響に染まり、多くの人々が預言の言葉を聞きませんでした。「泣け、悲しめ、頭を丸めて、荒布をまとえ」という幻が示されたのに、それを無視し、軽んじました。愚か者は叱責を侮るのです。そのような人は打ち叩かれ、その都から退場させられてしまいます。
彼らは、「この言葉を無視しなさい。食べて飲んで楽しもう」と言い、その言葉に従った結果、エルサレムは陥落し、国は滅びました。この時、バビロン捕囚を逃れて散り散りになった人々がイスラエルの地に戻るまで、実に長い年月がかかりました。ある計算によれば、紀元前586年のエルサレム陥落から1948年のイスラエル建国まで、約2500年です。もしテキストで3500年とあるのは、さらに古い時代からの離散を含めているのかもしれませんが、いずれにせよ、非常に長い間、国を失っていたのです。
最後に主は「悔い改めなさい」と言われました。髪の毛をむしり取りながら「ごめんなさい」と悔い改めるべき時に、「いや、悔い改めたところで何ともならないよ。助かりっこないよ。どうせ死ぬんだから、飲めや食えや、それで死のう」と言っている者たちの言葉を聞いたために、助かるべきイスラエルが助かることができず、一人一人が助かることができず、国を失い、多くの民が捕囚とされ、あるいは離散していったのです。
「やめなさい」と言われたことをやめないで軽んじると、「どうせ」という言葉に甘んじていると、自分の身に何が起きるかということを、今イエス様は、聖書の御言葉を通して私たちに教えておられるのです。「もう少し寝よう、もう少し横になろう、もう少し居眠りしよう」。その「もう少し」が、自分の身を滅ぼすことになるのです。二度としてはいけないことは、してはいけないのです。
それをやってしまって、イスラエルは滅びました。いざという時になってからでは遅いのです。主の預言、主の言葉が与えられた時に、しっかりと悔い改めて立ち返るならば、主は豊かに恵みを施してくださるのですが、主の叱責をことごとく侮ったら、もう遅いのです。災難がつむじ風のように襲う時、主を呼び求めても何の答えもなくなってしまうのです。
【結論】
幻の谷、エルサレムは、主からの豊かな幻と御言葉をいただきながら、それを無駄にしてしまいました。どうか私たちは、主からの幻や戒め、宣告をいただいたならば、それを無駄にすることなく、しっかりと聞き従いましょう。断食すべき時は断食し、悔い改めるべきことは悔い改める。そのような、飲めや食らえやという愚かな性質を私たちのうちから全く抜き取ってくださるように、主に祈り求めましょう。悔い改めるべき時にしっかりと悔い改め、私たち自身の中にある滅ぼされるべき性質を、主の御前に差し出し、滅ぼし尽くしていただきましょう。そして、主の御前に清く正しく生きることができるように、祈り求め続けましょう。
(この後、祈りと主の祈り、祝祷が続きますが、設問の指示に従い、説教内容の結論までとします。)