メッセージ - ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)

ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 1列王記
執筆 : 
pastor 2015-12-18 23:50

ソロモンが裁判で用いた、心を露わにする「剣」(1列王記3:16-28)
Youtube動画
メッセージ音声

ソロモンは主に「聞き従う心」を求めた故に、主に喜ばれ、主は彼に大いなる知恵と、栄誉と、富とを与えられたが、それが大いに発揮され人々に知れ渡る出来事が起こる。

『さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。』(1列王記3:16)
当時のイスラエルでは、何か事件が起きると、まずは十人の長に相談して判定してもらい、そこで解決できないならさらに百人の長、千人の長へと上訴して裁判してもらい、それでも解決できないなら、王に裁判してもらっていた。(出エジプト記18章)

『ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。
彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。
ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。』(1列王記3:17-22)

この事件は、二人きりの状況で起きたのだから、第三者の証人は望めない。
彼女たちはただ、多くの言葉で自分の正当性を主張するばかりで、物証や客観的事実を手がかりに解いていく方法を用いようとすればする程、混乱するばかりである。
この事件を担当して来たであろう長老たちは、ソロモンより人生経験が上だったとしても、皆、お手上げだった。
しかしソロモンは、物証や客観的事実に手がかりを求めず、神の知恵によって、「人の心の内を露わにするもの」を用いた。

『この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。』(1列王記3:23-25)
ソロモンが持ってきたものは、刀だった。
刀は切り分け、殺す。
しかし、神の知恵である「御言葉の剣」は、肉の心と霊とを切り分け、人の心の内を露わにする。
『神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。』(ヘブル4:12-13)
『すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。』(1列王記3:26)
この剣を前に、彼女たちは「多くの言葉のまくし立て」によって隠されていた心の内が、露わにされた。
一方は真実と愛と憐れみが、他方は偽りと妬みと殺意が。

御言葉の剣を前に、人は分断され、心の内が露わにされる。
真実を求めていた人には、真実と愛と憐れみが表面に現れ、涙したり、悔い改めたりする。
しかし悪い物事を心に蓄えている人は、「ばれたか」という悔しさと開き直り、怒りなどが露呈する。
御言葉の剣によって露呈した心の内の有様は、真実を求めていた人は、実に美しく、偽りを求めていた人は、実に醜い。

アブラハムも、「愛する息子イサクを捧げよ」という言葉の剣によって心の真実があらわにされ、一旦は失っていたイサクを信仰によって取り戻した。(創世記22章)
そうしてイサクと、後に生まれてくる彼の子孫達は皆、「主に捧げられ済みのもの」となったのだ。
私達も、救われて主のものとされるためには、御言葉という剣の前に、身も心も委ねる事が必要であり、それが、十字架の経験である。
その時、それまで生きてきた自分自身に対しては死ぬが、キリストが復活したように、私達も復活し、もはや罪には歩まない者となり、主のものとなり、永遠のものとなって、全く新しくされるのである。

『イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。』(1列王記3:28)
難解な事件は、一見、災いであるように見えたが、一転して彼の名誉を、そして、彼に知恵を与えて下さった神の名誉を、高めるきっかけとなった。
ソロモンはかつて若く、未熟で、兄のアドニヤに「自分が王になろう」とさえ言われた事もあった。しかしもはや、誰もソロモンを軽んじる者がなくなった。

彼に与えれたような主の知恵は、どうしたら与えられるだろう。
箴言2章に、その手法と順番が書いてある。
『わが子よ、もしあなたが/「わたしの言葉を受け」、わたしの戒めを、あなたの「心におさめ」、あなたの「耳を知恵に傾け」、あなたの「心を悟りに向け」、しかも、もし知識を「呼び求め」、悟りを得ようと、あなたの「声をあげ」、銀を求めるように、これを「求め」、かくれた宝を尋ねるように、これを「尋ねる」ならば、あなたは、「主を恐れることを悟り」、「神を知る」ことができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。』(箴言2:1-6)

まず、主の言葉を「受け」「心におさめ」る事。次に「耳を傾け」「心を向ける」事。また、「呼び求め」「声をあげる」事。そして、「求め」「尋ねる」事。
まずは主の言葉をただ「受ける」事から始まり、次に、耳と心を「傾ける」事、そして「口」を用いて、求めている事を告白する事、そして、宝物や銀を欲しがるような「欲しがり」さ加減で、求める事。
それをするなら「主を恐れることを悟り」「神を知る」ことが出来ると書いてある。

知恵とは何も、世渡り上手になるとか、誰をも論破できる能力といったものではなく、本質は「主を恐れる事」「神を知る事」なのだ。
主への恐れ無き「世渡り上手さ」や「論破能力」は、暴力でしかない。
主へのおそれを身につけた上で、そうしたものも与えられるのだ。

主に求め、主の知恵をいただき、それを正しく行使して、御心に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

トラックバック

トラックバックpingアドレス トラックバックpin送信先urlを取得する
メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
メッセージ音声
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2020/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

検索
Copyright ©Yokohama Voice of Christ Church 横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園?-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2022 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest