メッセージ - 栄光の雲が神殿に満ちる時(1列王記8:1-11)
栄光の雲が神殿に満ちる時(1列王記8:1-11)
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『ソロモンは主の契約の箱をダビデの町、すなわちシオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムでソロモン王のもとに召し集めた。』(1列王記8:1)
神殿は完成し、全ての祭具も整えられた。
そして最後に、「契約の箱」、すなわちイスラエルの民と神との間における契約の本体、すなわち、契約の箱が、神殿の中の収まるべき所に安置される時、神殿としての役割が始まるのだ。
『そして彼らは主の箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべての聖なる器をかつぎ上った。すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。ソロモン王および彼のもとに集まったイスラエルの会衆は皆彼と共に箱の前で、羊と牛をささげたが、その数が多くて調べることも数えることもできなかった。』(1列王記8:4-5)
神殿が完成した時、イスラエルがいかに家畜が増え祝福されていたかを伺い知る事が出来る。
しかし、前回も見た通り、大事なのは、祝福の源であられる神であって、これだけの家畜が捧げられる人間がすごいのではない。
人に敢えて賞賛を与えるとするなら、それだけの祝福を主から引き出せる程の従順と愛があった所だろう。
『そして祭司たちが聖所から出たとき、雲が主の宮に満ちたので、祭司たちは雲のために立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。』(1列王記8:10-11)
人が主を愛し、敬い、主に命じられた通りを守り行う時、聖なる主の栄光が満ち溢れる。
これと同じ事は、モーセの時代にも起こった。
『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。』(出エジプト記40:34-35)
主を礼拝する所を、主に命じられた通りに建て上げる時、主の栄光は満ち溢れる。
これはモーセの時代も、ソロモンの時代も、全く同じであり、そして今、私達の時代も全く同じである。
今、聖書は言う。
『あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。』(1コリント3:16)
主の契約の箱、すなわち、主の約束の御言葉が、神殿の最も内奥なる所、すなわち、至聖所に収まった時、主の栄光が満ち満ちた。
それと同じように、私達という「神殿」の最も内奥なる部分、すなわち、私達の霊に主の約束の御言葉を収め、そして私達のからだで主の御言葉を守り行う時、主の栄光が、私達の内にも外にも、生活の全場面にも満ち満ちるのだ。
神殿の最も聖なる所に納められた契約の箱に入っている「あかしの板」は、英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。
契約の石板が女性形である事は、実に興味深い。
私達は、キリストに対しては、男も女も皆、「女」の立場である。
キリストこそ、全人類に対して唯一の主人であり、夫であり、そして教会はその妻、キリストの花嫁である。
旧約においては、神の言葉は石板に神の指によって記され、神の筆跡によって石の板に御言葉が刻みつけられたように、新約の今、神の言葉は私達の「心」に、神の指によって刻み込まれた。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の指によって、神の言葉が心に刻み込まれている。
そして新約の私達自身は、聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のように、キリストの栄光のために用いられる者であり、そして教会はキリストの花嫁である。
私達自らを、キリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行き、ますます主の栄光がこの「宮」に満ち満ちて行くのである。