メッセージ - 主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
主の宮の栄光とは(ハガイ書2:3-9)
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週報/メッセージ(説教)概要
ハガイ書から天声教会の設立のビジョンが与えられたのは15年前の2001年だった。そして今のこの会堂が与えられ、礼拝が始まったのは、10年前の2006年だった。ちょうど節目にあたる今年、「礼拝を再建せよ」という当初のビジョンに立ち返り、「再建すべき礼拝」とは一体何であるのかを、聖書から見ていきたい。
『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。』(ハガイ2:3)
この「以前の栄光に輝く主の家」とは、ソロモンの時に建てられた神殿である。その神殿は豪華絢爛で、神殿の内面は全て、純金で覆われ、量り切れない程の青銅が用いられ、器物も全て豪奢なものだった。
しかしそれらは全て異邦人によって荒らされ、破壊され、金銀も器類も全てバビロンに奪われてしまった。
そうして70年を経て後、神殿は再び立て直されて行くのだが、破壊される前の豪華絢爛な有様を知っている老人たちは、後の有様を見て大声で泣いた。以前のような栄光はなくなってしまったと。(エズラ3:12)
しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)
神殿の栄光とは、一体何だろう。教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
彼は言う。『私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。』(伝道者の書2:11)
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。
だから、ソロモンのように巨大な建造物を造ったり、人を多く動員して事業を拡大する事に心血を注ぐ事よりも、ダビデのように心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛する事へと心血を注ぐべきなのだ。
「勇気を出せ。働け。わたしはあなたがたと共にいると、万軍の主は言われる。これはあなたがたがエジプトから出た時、わたしがあなたがたに、約束した言葉である。わたしの霊が、あなたがたのうちに宿っている。恐れるな。」(4-5節) これは、主を愛し、主を敬い、主のからだを建て上げるために山に登り、木を運んで働く働き人たちに対する言葉である(1:8)。 主は彼らに対し「恐れるな」「勇気を出して働け」と言われる。
なぜなら、共にいて、働いて下さるお方は、万軍の主であり、彼の霊が私達の内に宿って下さるからだ。
主イエス様は、彼の命令を抱いて守る人と共にいて栄光を現す、と言われた。『その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」』(ヨハ14:20-21)
主はいま一度、天と地と、海と陸とを揺り動かし、全ての国々を揺り動かして、全ての国々の宝物をこの宮にもたらし、この宮を栄光で満たす、と言われる。なぜなら、『銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。』(ハガイ2:6-9) 金は主のものであり、銀も主のものであり、主はそれらのもので豊かに満たす事は、簡単におできになる。だから外見的な豪華絢爛さよりも、何より、主を愛し求めるべきだ。
しかし私達は、金銀が欲しいから主を愛するのではない。金銀に遥かに勝るいのちを主は投げ打ってまで愛して下さったからであり、主は私達に、罪のゆるしと、永遠のいのちと、神の御前に大胆に出る事が出来る愛の関係を回復させて下さった。この御方の栄光で満ちる事をこそ、私達は仰ぎ求めるべきなのだ。
主の栄光を豊かにあらわすために用いられていく皆さんであり、教会でありますように!