メッセージ - 異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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- 執筆 :
- pastor 2016-1-20 17:54
異邦人が神殿に向けて祈る場合と、戦いに際して祈る場合(1列王記8:41-45)
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ソロモンの祈りの5番目のケースは、異邦人が主の宮に向かって祈る場合である。
『またあなたの民イスラエルの者でなく、あなたの名のために遠い国から来る異邦人が、――それは彼らがあなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕とについて聞き及ぶからです、――もしきて、この宮に向かって祈るならば、あなたは、あなたのすみかである天で聞き、すべて異邦人があなたに呼び求めることをかなえさせてください。そうすれば、地のすべての民は、あなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮があなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。』(1列王記8:41-43)
主の神殿はイスラエル人だけのものではなく、異邦人も主を礼拝する場所でもある。
イスラエルの民は現在、万軍の主を伝道する事には力を注がず、ただ、自分が救われた事に満足し、閉鎖的になってしまっているが、救いはユダヤ人だけのものではなく、異邦人のものでもある。
神は元々、全人類を救うために、一人の人アブラハムを選び、彼を通して全人類を救わせようとされた。
それは、イスラエル人の先祖・アブラハムが、主から呼びだされた時に、主が既に約束されていた通りである。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。”地のすべてのやからは、あなたによって祝福される”」。』(創世記12:1-3)
ここで主が言われている通り、「地のすべてのやから」は、アブラハムによって、すなわち現在のユダヤ人を通して祝福されるはずであるが、ユダヤ人は古来から宣教に対しては消極的になってしまっている。
しかし今や、救いの福音はイエス・キリストに始まり、彼にあって救いを得た人は、次々と世界に出ていき、福音を宣教している。
異邦人の中で、一番最初にバプテスマを受ける恵みに与ったのは、エチオピア人の宦官だった。(使徒8章)
彼の、主に対する熱心は、並々ならぬものだった。
『すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。』(使徒8:27-28)
彼のような異邦人は、当時のエルサレム神殿に行っても「異邦人の庭」から先には入れないし、また彼は宦官であるため、イスラエルの民に加えられる事は律法によって禁じられている。
彼はまた、高い地位で忙しい身にもかかわらず、女王に暇をもらって、エチオピアからはるばる礼拝のため上り、しかもその帰り道、彼は舗装されていない道を走りながら、サスペンション無しの馬車の中で、イザヤ書を朗読し、御言葉を思い巡らしていたのだ。
現在でも、礼拝から帰る車の中で(しかもサスペンションつきの車で舗装された道路を走っている中で)、御言葉を朗読するような熱心な人は、そういないだろう。
彼は、どれほど熱心に主を求めていた事だろう。
それ程までに主の宮を慕い、主の御言葉を慕う彼に、主は報いられたのだ。
彼のために主はピリポを遣わし、御言葉はイエス・キリストを示している事を伝え、そうして彼は、異邦人の中で一番最初にイエスを信じ、洗礼を受ける恵みにあずかった。
まさにソロモンが祈った通りである。主を慕い求める異邦人に対しても、主は恵みを施してくださるのだ。
続いて、6番目のケースは、イスラエル人が敵と戦う時に、主に向かって祈る場合である。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』(1列王記8:44-45)
旧約聖書の中には、敵と戦う時、主に祈って勝利したケースは、何度もある。
ダビデ王は戦いに出る都度、主に求め、主から知恵と力を得て勝利したし、ヨシャパテ王やヒゼキヤ王も、到底勝ち目の無い大きな戦いの時、ただ主により頼んで祈った結果、主ご自身が戦って下さり、大勝利を収めた。
『エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った、「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」。
そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。』(2歴代誌14:9-13)
アサ王の場合は、主により頼んでいた時は、素晴らしく祝福されていたが、その内傲慢になってしまい、主を忘れてしまった後の人生は悲惨だった。
私達も、社会に出て仕事をする時、戦いがある。
時には、礼拝に行きたくても行けないまま、戦わなくてはならない状況も出てくる。
しかしそれでも、その戦いの先で主に向かって祈るなら、その場面におられる主が祈りを聞いてくださり、勝利を与えて下さるのだ。
ソロモンが祈っている通りである。
『あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道を通って出て行くとき、もし彼らがあなたの選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てた宮の方に向かって、主に祈るならば、あなたは天で、彼らの祈と願いを聞いて彼らをお助けください。』
主は何も、神殿にいつも居れる人だけの主ではない。
神殿にいつも居て、だらだら過ごして、何もしない人よりは、主に依り頼んで戦いに出る人のほうがよほど、主の御業の働かれる事を多く見ることが出来るのだ。