メッセージ - 聖霊に満たされた人のありさま(使徒2章)
聖霊に満たされた人のありさま(使徒2章)
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週報/メッセージ(説教)概要
五旬節の日、弟子達は主が約束しておられた通り、聖霊に満たされ、他国の言葉(異なる舌)が与えられた。
聖霊充満された人、すなわち、聖霊の支配に服しその支配が行き届いた人には、どのような特徴が現れるだろう。そして私達は何を目指すべきだろう。聖霊充満されたペテロの言葉と行動から、それを学びたい。
この日、天からの激しい風のような響きと、弟子達が他国の言葉で「神の大きなみわざ」を語るのを聞いて集まって来た多くの人々は、驚き惑い、「一体これは何を”セロー(意味する、したいと思う)”のだろう」と言っていたが、ある人々はあざ笑い、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と(繰り返し)言っていた。
そこでペテロは立って(押し出されて)説教を開始するのだが、彼の説教は、御言葉に裏付けられ、人々の心を刺し、悔い改めと救いへ導くものだった。ペテロはまず、彼らが知りたがっていたこの「しるし」について説明する(14-21節)。「今は朝だから、彼らは酒に酔っているものではない・・・」。ペテロは悪意ある人のあざけりに対しては、この一言で終わらせ、この不思議は、預言者ヨエルの書の成就である事を語った。
続く22-35節は「ナザレ人イエス」についてであり、イエス様こそが説教の中心かつ大部分を占めている。
聖霊はイエス・キリストを証しする霊であり、罪について、義について、裁きについて世にその過ちを認めさせる。だから、イエス無き説教、御言葉なき説教、聖霊の「押し出され」無き説教は、力が無い。
「ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示された」(22節) この事は既に全イスラエルが知っている事だったが、彼らの中で広まっている事は、イエス様はよみがえられたのではなく、弟子達が遺体を盗んだ、という偽の情報だった。しかし、彼がよみがえる事、死に縛られていない御方である事は、前もって聖書に書かれてある通りだと、ペテロは、詩篇16篇を引用してあかししている。(25-28節)
もう一つ、彼が引用した聖書は詩篇110篇である。ダビデはキリストの復活を予め知ったため、彼の主キリストについて『彼は黄泉に捨ておかれる事がなく、またその肉体が朽ち果てる事もない』と言った。
『このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。』(32-33節) イエスこそ神と預言者に認証された救い主メシヤである事を、彼は聖書から証したが、では、その事は今の私達に何か関係あるのだろうか?大ありである!
『だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。』(36節)
イエス様を十字架につけたのは、誰だろう? 実際に手を降したのはローマ兵であり、それを指揮したのはイスラエルの指導者達だ。この、五旬節の日に集まった彼らが手を降したりした訳ではない。ここは私達も知らなければならない。罪なき神の御子キリストを十字架につけたのは、まごうことなき、私達全人類だと。
私達も、それを伝えなくてはならない。すなわち、ナザレ人イエスについて。彼は私達の罪のために十字架で死なれ、そしてよみがえられられ、神の右に上げられ、聖霊を与えて下さる事を。
人々はこれを聞いて心刺されたが、心を刺して終わりではない。ちゃんと救いの道を示さなくてはならない。
「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(38節)
こうしてこの日、三千人が仲間に加えられた。何と大胆に、立派になったペテロであろう。五十日前、人々の前でイエス様を「知らない」と誓った人物とは到底思えない。主が予め言っていた通り、聖霊に縛られ導かれるなら、本人の思いのままではなく聖霊に導かれるまま進まされるのである。(ヨハネ21:18)
救われた彼らは、使徒達の教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り、全ての物を共有にしていた。
心を一つにして毎日礼拝する所に集い、賛美し、一同の心に恐れが生じて、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれ、全ての民に好意を持たれ、主もまた、毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
これが、初代の教会(エクレシア)である。聖霊に満たされる事なしには、この事は有り得なかった。
私達もまさに聖霊を求めるべきだ。聖霊に満たされ、イエス様を大胆に証する皆さんでありますように!