メッセージ - こっそりいい所取りしようとしてもそうは行かなかったヤロブアム(1列王記14:1-20)
こっそりいい所取りしようとしてもそうは行かなかったヤロブアム(1列王記14:1-20)
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- 執筆 :
- pastor 2016-7-7 18:27
こっそりいい所取りしようとしてもそうは行かなかったヤロブアム(1列王記14:1-20)
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預言者アヒヤを通して主から王として任命されたヤロブアムは、その与えられた権限を主のために行使せず、かえって身勝手な事をして、多くの人々を偶像礼拝へと導いてしまった。
そんな彼に、他の預言者を通してありえないような不思議・しるしが示され、主に立ち返るよう戒められても、彼は立ち返らなかった。
ソロモン王国を懲らしめる杖として王に任命されたヤロブアムであったが、結局ソロモンと同じ道を進んでしまい、ソロモンと同じ運命を辿ってしまう。
『そのころヤラベアムの子アビヤが病気になったので、ヤラベアムは妻に言った、「立って姿を変え、ヤラベアムの妻であることの知られないようにしてシロへ行きなさい。わたしがこの民の王となることを、わたしに告げた預言者アヒヤがそこにいます。パン十個と菓子数個および、みつ一びんを携えて彼のところへ行きなさい。彼はこの子がどうなるかをあなたに告げるでしょう」。』(1列王記14:1-3)
ヤロブアムは、子が病であるのに、自ら預言者の所には行かず妻に、しかも、妻が王妃だとは分からないよう変装させて行かせた。
それは彼が、この主の預言者と面を向かって会えない「やましさ」があったからである。
そのやましさは、彼自身の、今まで主に対して不忠実に生きて来た事に由来する。
自分が構築した偶像や神々に頼めば良いものを、彼はこの期に及んで、神である主に解決を求めに行くのだが、面と面を向かってではなく、こっそり行こうとした所を見ると、彼はただ解決方法や癒しだけを引き出したいという思いがあったのかもしれない。
しかし、人がどんなに変装し取り繕っても、主はその心の動機からして、全部ご存知である。
『ヤラベアムの妻はそのようにして、立ってシロへ行き、アヒヤの家に着いたが、アヒヤは年老いたため、目がかすんで見ることができなかった。しかし主はアヒヤに言われた、「ヤラベアムの妻が子供の事をあなたに尋ねるために来る。子供は病気だ。あなたは彼女にこうこう言わなければならない」。
彼女は来るとき、他人を装っていた。しかし彼女が戸口にはいってきたとき、アヒヤはその足音を聞いて言った、「ヤラベアムの妻よ、はいりなさい。なぜ、他人を装うのですか。わたしはあなたにきびしい事を告げるよう、命じられています。』(1列王記14:4-6)
預言者は、目が見えなかったのに、彼女が戸口に入る以前から、言うべき事があらかじめ与えられ、彼女である事が分かっていた。
主と、主の預言者と、あるいは、主にある交わりに参加したり関係を築こうとしたりせずに、ただ、都合の良い所だけをこっそりもらって帰ろうとする者には、主からきびしい事を告げられてしまうのだ。
『行ってヤラベアムに言いなさい、『イスラエルの神、主はこう仰せられる、「わたしはあなたを民のうちからあげ、わたしの民イスラエルの上に立てて君とし、国をダビデの家から裂き離して、それをあなたに与えたのに、あなたはわたしのしもべダビデが、わたしの命令を守って一心にわたしに従い、ただわたしの目にかなった事のみを行ったようにではなく、あなたよりも先にいたすべての者にまさって悪をなし、行って自分のために他の神々と鋳た像を造り、わたしを怒らせ、わたしをうしろに捨て去った。』(1列王記14:7-9)
「わたしをうしろに捨て去った」。つまりヤロブアムは、主を自分のうしろに置き、自分を主よりも前に置いたのだ。
私達も、悪い欲を好んで得るために、神である主をうしろへと置いてしまうような事は、していないだろうか。
それは、主が忌み嫌われる「偶像礼拝」に他ならない。(コロサイ3:5)
『それゆえ、見よ、わたしはヤラベアムの家に災を下し、ヤラベアムに属する男は、イスラエルについて、つながれた者も、自由な者もことごとく断ち、人があくたを残りなく焼きつくすように、ヤラベアムの家を全く断ち滅ぼすであろう。ヤラベアムに属する者は、町で死ぬ者を犬が食べ、野で死ぬ者を空の鳥が食べるであろう。主がこれを言われるのである」』。』(1列王記14:10-11)
この預言は、確かに後には実現するのだが、「すぐ」ではない。
なぜ、すぐではないのか。それは、主が、悔い改めて立ち返る猶予を計り与えておられるからだ。
ヨナ書を見ても分かる通り、主は、ひと度、災いの警告を発せられた場合、人がその警告を聞いて悔い改めるなら、災いを思い直されるお方である。
しかしヤロブアムは、この最終的な警告を聞いても、なお改めなかった。
全くソロモンと同様である。
『あなたは立って、家へ帰りなさい。あなたの足が町にはいる時に、子どもは死にます。そしてイスラエルは皆、彼のために悲しんで彼を葬るでしょう。ヤラベアムに属する者は、ただ彼だけ墓に葬られるでしょう。ヤラベアムの家のうちで、彼はイスラエルの神、主にむかって良い思いをいだいていたからです。』(1列王記14:12-13)
主は、全ての人の心をご存知である。
ヤロブアムの子の心が、主に向かって良い思いを抱いていた事を、主はご存知だった。
しかしそんな「良い彼」が、どうして病で死ななくてはならないのか。
人は思う。死ぬ事は災いだ、悪だ、と。
しかし「永遠」も「死後の世界」も、確かに存在する。
人は、死後の世界も永遠も分からず、この世での命が長らえる事をよしと考えるが、永遠の観点で人を導かれる主は、一人一人の「永遠の」最善を完璧にご存知である。
つまり主は、その子が悪しき王の悪しき環境の中で成長してしまう前に、命を取り上げられたのだろう。
『主はイスラエルの上にひとりの王を起されます。彼はその日ヤラベアムの家を断つでしょう。』(1列王記14:14)
この事は、次章で実際に起こってしまう。しかし、すぐにではない。
『その後主はイスラエルを撃って、水に揺らぐ葦のようにし、イスラエルを、その先祖に賜わったこの良い地から抜き去って、ユフラテ川の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシラ像を造って主を怒らせたからです。主はヤラベアムの罪のゆえに、すなわち彼がみずから犯し、またイスラエルに犯させたその罪のゆえにイスラエルを捨てられるでしょう」。』(1列王記14:15-16)
イスラエルが、ユーフラテス川の向こう側に追いやられてしまう。
それはさらに数百年の時を経て、アッシリアの時代に起きた。
失われたイスラエル10部族は、今なお、ユーフラテス川の向こうの、どこかにいる。
そして彼らは、やがては戻ってきて、イスラエルは一つにまとめられる。(イザヤ11:12、56:8、エゼキエル38:8)
『ヤラベアムの妻は立って去り、テルザへ行って、家の敷居をまたいだ時、子どもは死んだ。イスラエルは皆彼を葬り、彼のために悲しんだ。主がそのしもべ預言者アヒヤによって言われた言葉のとおりである。ヤラベアムのその他の事績、彼がどのように戦い、どのように世を治めたかは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされている。ヤラベアムが世を治めた日は二十二年であった。彼はその先祖と共に眠って、その子ナダブが代って王となった。』(1列王記14:17-20)
こうして北イスラエル最初の王の、一つの世代が終わった。
この列王記で、一貫して貫かれている法則は、主に従う王は栄え、主に従わない王は災いに満ちている、という点だ。
その法則は、現代の私達にも貫かれている。
人はみな、罪があり、間違った方向へ行く事もあるが、そんな自分を悲しみ、悔い改め、主に立ち返るなら、主はその人を憐れみ、赦して下さる。
しかしヤロブアムやソロモンのように、指摘された罪を悔い改めず、むしろ罪の楽しみにふけり、なお改めないなら、災いへと導かれてしまう。
「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」と言われたイエス様は、立ち返る事を願っておられる。
誰の死をも望んではおられない。
いつでも主の道に歩み、もし罪が指摘され、悔い改めが促されたなら、すぐに立ち返り、祝福の道を外れず歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!