メッセージ - 立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。
『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。
交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。
ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。
主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)
エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)
「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。
今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。
主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)
『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。
こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)
エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。
彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。
エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。