メッセージ - 荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)

荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)

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執筆 : 
pastor 2016-9-7 15:00

イザヤ書 講解説教メッセージ
荒野に道を、荒地に川を設ける主(イザヤ43:14-21)
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メッセージ音声

【概要】

神はイスラエルがバビロン捕囚に遭うことをイザヤの時代から予告されていましたが、同時にバビロンを裁き、イスラエルを救い出すことも約束されていました。神は過去の罪を赦し、荒野に道を、砂漠に川を設けて、新しいことをなさる方です。たとえダチョウやジャッカルのような者であっても、主の御霊が注がれるならば、主の栄光をほめたたえる者として新しく造り変えてくださいます。

【聖書箇所】

  • イザヤ43:14-21

  • 詩篇137:1-9

  • ヨブ39章

【慰めの言葉】

神は私たちが罰を受けている時でも、私たちを見捨てず、最終的には救い出してくださる方です。心の底から「ごめんなさい」と主に祈り、赦しを求めたなら、もう罪によって責められることはありません。主の御霊が注がれるならば、いかに冷たい心を持つ者であっても、主を知り、主を崇め、新しくされることができます。

【励ましの言葉】

神は私たちの親であり、他の者が神の子どもをいじめることを決して許されません。主は、海の中に道を設け、激しく流れる水の中に通り道を設けてくださる方です。出エジプトの時のように、追い詰められた状況からでも必ず救い出してくださいます。主は新しいことをなさいます。今もうそれが起ころうとしています。乾いている人生、敵によって揉まれている人生、囚われて苦労する人生に、主は生ける水を、命の水を川々と流してくださいます。知恵が欠けている者は、誰にでも惜しげなく知恵を与えてくださる主に求めるべきです。主は豊かに与えてくださいます。

【戒めの言葉】

神に逆らい続けると、個人には人というムチが、国全体には国というムチが来ます。

【悔い改めの促しの言葉】

自分が良くないことをやって、明らかに罪の責めを受けていることが分かったなら、心の底から主に「ごめんなさい」と祈り、赦しを求めなさい。私たちは神の御前で、野の獣がやるような卑劣なこと、ジャッカルやダチョウがやるような卑劣なことをやってきました。しかし主に求めるならば、主は新しく造り変えてくださいます。

【勧めの言葉】

私たちは主の栄誉を宣べ伝えるために造られました。主がなさったわざを見て、聞いて、味わって、そして主をほめたたえるように生きましょう。先のこと、昔のことを思い出すのをやめなさい。主がなされる新しいことに目を向けなさい。赦されたことを確信し、過去の罪にいつまでも縛られることから卒業しなさい。主に聞き従おうとするならば、主は生かしてくださいます。荒野に水を、荒れ地に川を流させてくださいます。ただ主に求め続け、主にとどまり続けるべきです。

【AIによる文字起こし】

【第1部】(冒頭〜詩篇137篇4節まで)

今日、私たちが恵みをいただく御言葉は、イザヤ書43章14節から21節です。まず、14節と15節をお読みいたします。

「あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。
『あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。
わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。』」
(イザヤ43:14-15)

アーメン。

それでは、主が今日、私たちに語ってくださることを、心を開いて受け取りましょう。

このバビロンに関する預言について、まず知っておきたい大切な点があります。イザヤの時代は、バビロンが覇権を握る時代よりも、はるか以前です。イザヤの頃、バビロンはまだ興り始めたばかりで、今後の歴史の中で大帝国となる姿を、まだ十分には現していませんでした。

しかしイザヤは、この預言書の中で、やがてバビロンが台頭し、イスラエルを苦しめることを告げています。当時のバビロンは小さく、力も決して強い国ではありませんでしたが、のちに勢力を増し、横暴とも言えるほどの力を振るう者たちとなっていきます。

主は、イスラエルがバビロンに捕囚されることを、すでにご存じでした。けれども同時に、主はその先に、回復と希望の御計画を備えておられるということを、すでにこのイザヤの時代に、預言を通して語ってくださったのです。

イスラエルを苦しめる者、それがバビロンです。主は、「あなたがたのために、カルデア人を、彼らが喜び歌っている船から突き落とす」と仰せになります。これは、バビロンがイスラエルを苦しめる時が来ることを、主があらかじめ知っておられた、ということでもあります。

では、神はわざわざご自分の民に試練を送り、苦しみを与えるお方なのでしょうか。

私たちと主との関係は、しばしば親と子の関係にたとえられます。子が道を踏み外し続けるなら、親はその子を正すために、時に厳しさをもって臨みます。守りの手を一時退かれ、「自分の選びの結果を学ぶ」ことを許されることもあります。

しかし、もしそこに第三者が入り込み、「言うことを聞かないから」と、親の権威を越えて子を痛めつけるなら、親はそれを決して見過ごしません。わたしが正すことと、他者が虐げることは別問題だからです。主も同じです。ご自分の民が不従順ゆえに戒めを受けることがあったとしても、主は、外部の者がその限度を越えて虐げることを、決して許されません。

主は、のちにバビロンが「むち」として用いられることを、すでにご存じでした。個人が聞き従わないときに、時に“人”がむちとなることがあります。国全体が聞き従わないときに、時に“国”がむちとなることもあります。

けれども主は、個人であれ、国であれ、ご自分を恐れ敬い、主により頼む者を、最終的に見捨てられません。むしろ、戒めののちに、主ご自身が報いてくださるお方であることが、ここに示されています。

主は、バビロンが栄える前からすべてをご存じでした。イスラエルがやがて心を頑なにし、背信へと進み、ついに捕囚となることも、そこで罰を受け、飢えや辱めを味わうことも、さらにその捕囚の地で嘲りを受けることも──主はそれらを知っておられました。しかし同時に、その後、主がバビロンを退け、イスラエルが主に顧みられた「宝の民」であることを、明らかにされることまでも、ここであらかじめ告げておられるのです。主の御計画は、はるか先まで届いています。

この捕囚の地バビロンで何が行われたかは、聖書の他の箇所からも見えてきます。バビロンは、歌を愛する民であったかのように描かれることがあります。その代表が、詩篇137篇です。捕囚の地に移された、名もなき詩人の嘆きが、そこに記されています。

詩篇137篇を見ますと、イスラエルの民が捕囚され、悲しみの中で座し、シオンを思い出して泣いている姿が描かれています。少し1節からお読みいたします。

「バビロンの川のほとり、そこで私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。
その柳の木々に、私たちはたてごとをかけた。
それは、私たちを捕らえ移した者たちが、そこで私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、喜びを求めて、
『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。
私たちがどうして異国の地にあって、主の歌を歌えようか。」
(詩篇137:1-4)

アーメン。


【第2部】(詩篇137篇の続き〜イザヤ43:18-19の適用の途中まで)

この詩を読むと、本来、神の民であるはずのイスラエルが、捕囚の地で辱めを受けている様子が伝わってきます。支配する側と支配される側の差は大きく、バビロンの人々は面白半分に、「シオンの歌を歌ってみよ」と迫ります。礼拝の歌が、異邦人の娯楽として求められる──それは、神を恐れる者にとって耐えがたい屈辱です。

詩人は、たてごとを柳の木に掛け、歌うことをやめます。そして、エルサレムを忘れることがないように、忘れてしまうなら自分が罰を受けてもよい、というほどの強い思いを示します。4節の「異国の地にあって、主の歌をどうして歌えようか」という言葉には、主を賛美する歌を、心のない求めに従って捧げることなどできない、という魂の叫びがあります。

もちろん、ここに至った背景には、イスラエルが主に逆らい続けたという歴史があります。人には刈り取りがあり、不従順の結果として、この辱めを味わうことになった。しかし、その中にも、主を恐れ敬う者たちがいました。彼らは異国の地で主を慕い、主の正義を求めて祈り、嘆きます。

7節から9節には、極めて強い言葉で、主の裁きを願う祈りが記されています。

「主よ、エルサレムの日に『破壊せよ、破壊せよ、その基にまでも』と言った、エドムの子らを思い出してください。
バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。お前の私たちへのしわざを、お前に仕返しする人は、なんと幸いなことよ。
お前の子供たちを捕らえ、岩に打ち付ける者は、なんと幸いなことよ。」
(詩篇137:7-9)

この祈りは、私たちにとって重く響きます。しかし少なくとも、詩人が「自分の手で裁く」のではなく、主の正義に訴えていることも見落としてはなりません。「主よ、私たちの受けた恥を、あなたがご覧になっているなら、どうか正しく扱ってください」──そういう切実な訴えです。

そしてイザヤは、はるか昔から、このことを預言していました。イザヤ43章14節で、主はこう仰せになります。「わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデア人を喜び歌っている船から突き落とす。」バビロンの川辺で、船の上で喜び歌い、主の民を嘲った者たちを、主は必ず退けられる──そのことが、すでに語られているのです。

神の民は、主に背を向けるなら、確かに苦しみを刈り取ります。しかしその中で、主に立ち返り、「私は罪を犯しました」と悔い改め、さらに、敵が度を越えてのさばるとき、「主よ、どうかあなたの正義を現してください」と祈るなら、主はその祈りを顧みられます。主は、災いを通しても、幸いを通しても、ご自分が真実なお方であることを示されるのです。

イザヤ43章15節で主は、「わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である」と宣言されます。主が「聖なる方」であるとは、言葉に偽りがなく、正しく、ぶれない方であるということです。そして「創造者」であり、「王」である。王とは、民に対して責任を負う存在です。

地上の王は勝つことも負けることもあります。しかし、私たちの王である主は、決して敗北されません。私たちが自分の不従順ゆえに打ち負かされることがあっても、主ご自身が敗北することはない。主は、必ず勝利されるお方です。

さらに21節には、「この民はわたしがわたしのために造った」とあります。主は、ご自分の栄光が現されるために、民を造られました。主のわざを見、聞き、味わい、その体験を通して、主をほめたたえる者として歩むように──そのために主は私たちを召されたのです。

さて、16節と17節を読みます。

「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主は、こう仰せられる。
彼らはみな倒れて起き上がれず、灯心のように消える。」
(イザヤ43:16-17)

ここには、出エジプトの出来事が想起されます。イスラエルが追い詰められたとき、主は海を分かち、乾いた道を設け、民を渡らせて救い出されました。ところが、追撃してきた者たちが同じ道を進もうとしたとき、海は元に戻り、彼らは滅びました。主が民を救うために用いられたものが、敵にとっては裁きとなったのです。主は、このようにしてご自分の民を守られます。

しかし、18節以降で、主はまったく異なる方向のことを語り始められます。

「先のことどもを思い出すな。昔のことどもを考えるな。
見よ、わたしは新しいことをする。今もうそれが起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。
確かにわたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
(イザヤ43:18-19)

主は言われます。「先のこと、昔のことを思い出すな。考えるな。」
それは、悔い改めを否定する言葉ではありません。むしろ、悔い改めを果たした者が、いつまでも過去の罪責に縛られて生きるのではなく、赦しの恵みに立って、新しい歩みへ進めという招きです。

 

もし自分が罪を悟り、「主よ、私は悪かったのです。赦してください」と心から祈ったなら、次に必要なのは、赦されたことを信じることです。赦しをいただいた者が、なお自分を責め続け、過去の鎖に自らを閉じ込める必要はありません。主は「見よ、わたしは新しいことをする」と言われます。赦された者に、主は新しい道を開かれるのです。

【第3部】(イザヤ43:20〜結びの直前まで)

20節をお読みいたします。

「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流し、
わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」
(イザヤ43:20)

ここで主は、「野の獣、ジャッカルやダチョウも、わたしをあがめる」と仰せになります。
この表現は、聖書全体を通して見ても、象徴的な意味を強く帯びた言葉です。

荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるならば、本来そこに生きることのできない存在までもが、命を得て、主をあがめるようになる。主はそのような、根本的な変化を語っておられます。

聖書において、ジャッカルは荒廃した地に住む存在として描かれ、ダチョウはヨブ記39章などにおいて、知恵を欠き、愛情に乏しい存在として描写されています。母でありながら卵を土に残し、自らの体温で温めることもせず、踏みつけられても顧みない──その姿は、無責任さや無関心の象徴とも言えるでしょう。

母と子の絆は、本来、人間関係の中でも最も深いものです。その絆が失われた姿は、聖書において「荒れ果てた状態」の一つの象徴として語られています。

しかし主は、そのような存在でさえも、「わたしをあがめるようになる」と仰せになります。それは、彼ら自身が変わるからです。荒野に水が注がれ、乾いた地に川が流れるからです。

これは、外側の環境が少し良くなる、という程度の話ではありません。主がご自身の霊を注がれ、内側から造り替えるという約束です。

私たちは時に、自分自身の中に、荒野のような部分を見いだすことがあります。冷え切った心、愛の欠け、思慮のなさ、責任から逃げようとする弱さ。そうした姿を前にして、「自分は変われないのではないか」と思うこともあるかもしれません。

しかし主は言われます。「荒野に水を、荒れ地に川を流す」と。
それは、人が自分の力で努力して変わる、という話ではありません。主がなさる新しいわざなのです。

21節を見ます。

「この民は、わたしがわたしのために造った。
彼らは、わたしの栄誉を宣べ伝えよう。」
(イザヤ43:21)

主は、ご自分の栄光を現すために、この民を造られました。
過去がどのようなものであったとしても、主はその人を新しくし、主の栄光を証しする者とすることがおできになります。

「かつては荒れていました」「かつては知恵を欠いていました」「かつては愛に乏しい者でした」──そのような過去があったとしても、主の御霊が注がれるなら、「見よ、すべてが新しくなった」と告白できる者へと変えられるのです。

16節・17節では、主は海の中に道を設け、敵の戦車と騎兵を滅ぼされました。
しかし18節以降では、主は荒野に道を、荒れ地に川を設けると語られます。

かつては、悪しき者が裁かれ、滅びが語られました。
しかし今、主は、悔い改めて主に立ち返る者に対して、生かすことを語っておられます。

荒野に水を。
荒れ地に川を。

それは、枯れ果てた人生に、もう一度、命を流し込む主の御業です。

私たちは、自分自身を振り返り、「自分には知恵が足りない」「自分には愛が足りない」と思うことがあるかもしれません。そのようなとき、聖書はこう語ります。

「あなたがたの中に知恵の欠けた者がいるなら、
その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。
そうすれば与えられます。」
(ヤコブ1:5)

主は、求める者に、惜しげなく与えてくださいます。
分別も、知恵も、心の柔らかさも、主の霊によって与えられるのです。


【第4部】(結び)

主はなぜ、この一連の出来事をなさるのでしょうか。
なぜ海に道を造られ、敵を退けられたのでしょうか。
なぜ荒野に水を流し、荒れ地に川を設けられるのでしょうか。

それは、主が生きておられることを示すためです。
そして、私たちが主を恐れ敬い、主の栄光を宣べ伝える者として生きるためです。

どうか私たち一人ひとりが、主にあって歩み、
知恵を受け、心を新しくされ、
かつては荒れていたとしても、
今は主をあがめる者として立たされていきますように。

荒野に水を流される主が、
あなたの人生にも、生ける水を満たしてくださいますように。

 

主イエス・キリストの御名によって祝福いたします。
アーメン。

【結論】

主は、心から悔い改めた者の罪を赦し、過去の失敗や罪を思い出すことをやめるよう命じておられます。神は私たちが罪を犯して罰を受けることを知っておられますが、同時にその後の救いも用意してくださっています。神の民を苦しめる者に対して、神ご自身が報復されます。出エジプトの時に海を割って民を救われたように、主は今も私たちのために道を開き、敵を滅ぼし、私たちを守ってくださる方です。赦されたことを信じ、主が今なそうとしている新しいことに目を向けるとき、主は荒野に道を、砂漠に川を設けてくださいます。乾いた人生、敵に揉まれる人生に、主は生ける水を川々と流してくださるのです。私たちがダチョウやジャッカルのような者であったとしても、主の御霊が注がれるならば、以前のものは過ぎ去り、すべてが新しくされます。知恵が欠けている者は、惜しげなく与えてくださる主に求めるべきです。主に聞き従い、主にとどまり続けるならば、主は私たちを生かし、主の栄光をほめたたえる証人として歩ませてくださいます。この主の大いなるわざを体験し、味わい、主の御名をほめたたえていきましょう。

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