メッセージ - 思い巡らすことばを管理しなかったサウル(1サムエル記22:6-23)
思い巡らすことばを管理しなかったサウル(1サムエル記22:6-23)
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週報/メッセージ(説教)概要
私達の思いの中には、常時、何かの「言葉」が流れているものであるが、その思い巡らす言葉の内容はいつも管理すべきだ。なぜなら私達は内外に流れる「ことば」に浸し込まれ、その内容に影響を受け、「人となり」が構築されて行くからである。サウルは、健全な主の言葉から耳を背け、その代わり、内からこみ上げて来る「妬み」「怒り」「殺意」などのサタンの好む言葉をいつも思い巡らしていたため、彼はどんどんサタンの性質を帯びるようになり、ついには取り返しのつかない、してはならない事をするようになってしまう。今回は、言葉の管理をしなかったサウルが何をしてしまったかを見て、私達も戒めを受けたい。
『サウルはギベアで、やりを手にもって・・・おり、家来たちはみなそのまわりに立っていた。』(6節)
サウルの人格の崩れ度合いは、さらに進行している。槍は人を殺める武器であり、敵に対して用いるべきなのに彼はいつも手にしている。部下を威圧するためか、気に食わない者に槍を投げつけるためであろう。
聖書を「サウル」「槍」で検索すると、彼が敵に槍を投げた記述は一切無く、ただダビデ、ヨナタンに投げ、あとは部下達を前にいつも持っているだけだ。そして最後は、彼に敵が追い迫って死ぬ間際、彼は槍にもたれていた。(2サムエル記1:6) イエス様が「剣をとる者はみな、剣で滅びる」と言われた通りである。
自分の敵サタンには槍を投げず、自分を助け養ってくれた人には槍を投げるような者であってはならない。
『あなたがたは皆共にはかってわたしに敵した。…わたしの子がわたしの僕をそそのかしてわたしに逆らわせ、道で彼がわたしを待ち伏せするようになっても、わたしに告げる者はない。』(8) 彼はすごい被害妄想に憑かれており、誰も心配しない、みんな自分に敵対している、と思っている。信仰の逆、「疑い」をいつも抱き続ける人はそうなってしまい、人が喜び笑う顔を見ただけでも、自分が嘲られたと思ってしまうものだ。
主に敵対しているのは、むしろサウルの方である。彼は既に主から王位を退けられたのに、ずっと王位にしがみつき、むしろ、油注がれた王・ダビデを殺そうと付け狙っている。もし人がおとなしく自分の「王座」から降りて、主に明け渡さないなら、逆に「王座」に支配され、振り回され、やがて「王座」に滅ぼされてしまう。
そこに、例外は無い。王座は人が座るものではなく、唯一、主イエス様が座すべき所であるからだ。
ベニヤミン人の部下達は何も言えなかったが、ただ一人、エドム人ドエグがサウルに応える。
『わたしはエッサイの子がノブにいるアヒトブの子アヒメレクの所にきたのを見ました。アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。そこで王は人をつかわし…みな王の所にきた。』(9-11) ドエグは、一杯の食物で尊いものを売り渡した、エサウの子孫である。
彼は、地位や名誉という一杯の食物ほしさに、神の祭司を告げ口する。
『サウルは彼に言った、「どうしてあなたはエッサイの子と共にはかってわたしに敵し、彼にパンと剣を与え、彼のために神に問い、きょうのように彼をわたしに逆らって立たせ、道で待ち伏せさせるのか」。』(13)
アヒメレクは唐突こんな事を言われ、暫く訳が分からなかっただろう。サウルのようにいつも被害妄想を巡らせている者は唐突に意味不明な事で人を責め、凍りつかせるものだが、それが絶対権力を持つ王であるならその国は悲惨である。サタンは歴史上、何度も王を被害妄想にさせ、多くの国々を悲惨に陥れて来た。
そもそも本来、イスラエルの王は祭司に物申す事はできないはずで、逆に王が祭司の御言葉に服従しなくてはならない。(申命記17:14-20、2歴代誌26:16-23) それなのにサウルは祭司も御言葉も、完全に自分の下に敷いてしまっている。彼は御言葉を退けた故に、王座から退けられた、とサムエルは言った。
祭司アヒメレクは、王の言葉には、事実を答え、極めてもっともな事を言ったが、『王は言った、「アヒメレクよ、あなたは必ず殺されなければならない。あなたの父の全家も同じである」。』(16) こうしてサウルは祭司を抹殺し、自ら主に伺う道を断ってしまった。それでダビデは、逆に、主に伺う祭司を得る事になる。
人は、思い巡らす内容によって人格が形成される。サウルのように猜疑心・妬み・怒りを思い巡らしているなら、サタンに似た者となって行き、断絶してはならない人を断絶し、主への道をも自ら断ってしまう。
いつも健全な主の言葉を思い巡らし、昼も夜も口ずさみ、水のほとりに植えられた木のように、時が来れば豊かに実らせ、何をしても栄える皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!