メッセージ - サタンによって徹底的に苦しめられるヨブ(ヨブ記2章)
サタンによって徹底的に苦しめられるヨブ(ヨブ記2章)
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2章でも、サタンが同じように登場する。
2:1 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
サタンは1章では神の子達に混じって主の会議に来たが、ここで再びサタンが主の前に来て、御前に立った。
地を行き巡り、ヘブライ語でシュートという言葉は、徘徊する、行ったり来たりする意味で、イスラエルの民がマナを拾い集める際に(民数記11:8)、また、ダビデがサタンにそそのかされてヨアブに命じ、ヨアブが地を行き巡ってイスラエルの人数を数えた時に用いられた語である。
サタンが地を行き巡るのは、食い物にする「ちり」に過ぎない人間を見つけるため、また、ヨブのような聖徒を訴える口実を探すためである。
サタンの性質について、黙示録に記されている。
黙示録12:9 この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
12:10 その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。
12:11 兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。
サタンは兄弟姉妹を訴える者、彼らを惑わし、主を呪わせ、主から離れさせる者である。それで天から投げ落とされた。
そして私達がサタンに勝利するすべは、12節に書いてある通り、小羊の血と、あかしの言葉によって、である。
ヨブは、素晴らしいあかしの言葉によって主に栄光を帰し、サタンの面目を失わせたが、サタンはそれでも引き下がらなかった。
ヨブは確かに素晴らしい信仰の持ち主で、なおも主の前に唇で罪を犯さなかったが、小羊の血なき人間は、いかにヨブのような「義人力」が強い人でも、最終的には籠絡してしまうものである。
私達は、ほふられた小羊キリストの血をもって、あかしの言葉で悪魔サタンに対抗しなくては、勝利できないのだ。
2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
主はサタンに対し、なおもヨブへの賛辞の言葉をかけている。
しかしサタンはなおも、ヨブを訴えたいのだ。
2:4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
2:5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
2:6 主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
主はなんと、こんなにも誠実を尽くしたヨブに対し、サタンに、彼の身体に手を加える事を許可する。
人はこれを、わからない、と言う。
しかし私達は、途中だけの議論をし出すと、延々と出口の無い迷路に迷い込んでしまう。それがヨブ記の不毛な大部分を占めるものだ。
人は何かと「神はなぜ」と言いがちであるが、忘れてはならない。願い出たのはサタンであり、ヨブをここまで徹底的に傷めつける事の首謀者も、実際に手を下したのも、サタンである、という事を。
私達はただ、主の為された「結果」を、結んだ「実」を見るべきである。
主は最終的に、ヨブにさらに深い主との交わりへと導き、さらに物質的に祝福され、さらに優れた子達を得たのだ。
ローマ8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
主が事を為す事は「最善」以下の事は無く、まさに上の御言葉の通りであり、それ以上を私達は議論する必要は無いのだ。
2:7 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
2:8 ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
絶え間ないかゆみは、痛み以上に辛いものだ、と言われている。
サタンはここまでひどい目に、好きこのんでヨブに遭わせた。主は元々、ヨブがそうなる事をしなかった。しかしサタンは、ヨブがここまでひどい、つらい目に遭わせる事を切望していたのだ。
人が何も悪いことせず、平和に暮らしているのを、めちゃくちゃにしたい。それが、サタンの望みであり、そしてそのような性質に同意し、好きこのんで無実の人・弱い人をつまづかせるような者は、足を大きな石臼に結わえ付けられて海に沈められたほうがましだ、と主は言われた。
なぜならそのような事をする者は、サタンがやがてそうなるように、ゲヘナで永遠に焼かれ苦しみ続けるからだ。
2:9 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
ヨブの妻の、信仰破棄である。彼女はサタンに用いられ、神を呪う事と、死ぬ事とを、夫に勧めた。
今まで人生を共にし、多くの子供を産み、事業の成功や資産の管理を手助けして来たであろう妻からのこの一言が、一番効いたのではなかろうか。
しかしヨブは、絶え間ないかゆみの中にあって絶叫したいはずなのに、そのような彼女に対して思いやりのある言葉をかけている。
2:10 しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
彼は妻を「愚か者」と呼ばず「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。」と、やんわり諭している。
最も辛い中にあっても、それでも妻の弱さをカヴァーするとは、なんと素晴らしい信仰の持ち主だろう。
2:11 時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。
ここに、ヨブの3人の友人達の紹介が記されている。
テマン人エリファズは、エサウの子孫だと思われ(創世記36:10-12)、「シュアハ」はアブラハムの後妻ケトラの子の名として出て来る。(創世記25:2)
「ナアマ」は,ヘブル語で「楽しみ」という意味で,聖書では,ユダに属する町の名(ヨシ15:41),あるいはカレブの子の名「ナアム」として出て来る(?歴4:15)が,関係付けることは難しい。(聖書注解)
この3人が、これから長く続くヨブとの議論をするのだが、その長い議論の中で、彼らは神という言葉は多発しても「主(エホバ)」の御名は一切、用いていない。
主エホバの御名は1章・2章には多く出てきたが、実は、3章から37章の議論の中で、主エホバの御名が出てくるのは、12:9のヨブの言葉のみなのだ。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/「主(エホバ)」の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。
獣も、鳥も、大地も、木々種々も、主エホバの御手が為した事を知っている、とヨブはその時言うのだが、ほんとうに、人間だけである。主エホバの御名を用いずに、人間的な知恵だけで人を罪定めしたり、哲学者ぶって知恵をこねくり回しているのは。
2:12 彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
2:13 こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
心身ともに酷い傷だらけヨブを訪ねた、七日七夜一緒に、声もかけず、ただただ一緒にいてくれる3人の友人達。
これをみると、なんと素晴らしい友人達か、と思う。
しかし、彼らと一緒にいた七日七夜、ヨブに何の変化があったのか分からないが、それまで、断じて口で罪を犯さず、つぶやかなかった彼が、3章以降、自分の人生を呪いはじめ、つぶやき始める。
そして3人の友人達は、主エホバの御名ぬきの、人間的な知恵や格言に基づいた議論でヨブをもっと苦しめ、失望させ、ついにはヨブをして、声を荒げて自己正当化し、3人を沈黙させるに至らせてしまう。
言ってみれば、彼らがサタンに最も用いられた、と言っても過言ではない。しかし彼らにはその自覚は無く、ヨブのためになっている、と思い込んでいるのだ。
彼らが来た動機は、ヨブを慰めるためだったが、結局その逆に、見事、ヨブをもっと苦しめたのだ。
主の御名が無く人間の格言だけの知恵は、ただ人を苦しめるだけなのだ。
それは、ヨブほどの”義人力”が飛び抜けた人をも、腐らせてしまう。
私達はヨブ記から、ますます人の弱さ愚かさを知り、ただ主により頼む事と、そして、小羊の血とあかしの言葉によって勝利する術を身につけて行きたい。