メッセージ - 全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
全く新しく歩み出して行くこの日(1ペテロ3:21)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日、主の導きにより、洗礼を受ける恵みにあずかった聖徒達がいる。当教会は、洗礼準備会の学びを比較的入念に行うが、それは、花嫁は嫁ぐ前に相手を知る必要があるように、私達もバプテスマ(洗礼:浸しこむ意味)によって、「ひとつ」となっていく相手であるイエス・キリストを、よく知る必要があるからだ。
学びの中で、神について、罪について、人を罪と死に陥れた敵・サタンについて、そして罪と死とサタンから救って下さるイエス・キリストについて学び、さらには復活について、永遠について学び、そして、信じた人はいかに神を中心とした生活をして行くべきかなど、キリスト者としての歩みの基本をしっかりと学ぶ。
これはとても有益なひと時で、既に洗礼を受けられた方も多く参加して来られた。それは、私達とひとつとなられるお方イエス様を知れば知る程喜びが増し加わり、真理を知れば知る程自由にされていくからだ。
キリスト者の原則は、神が「おられる」事を信じ、救い主イエス様を主とし、彼と共に歩み続ける事である。
『神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者(イェヒエ・アシェル・イェヒエ)」。』(出エジプト記3:14)
神の「有る」(「ハヤー」の一人称単数未完了)は、過去・今・未来を超越した、永遠の「有る」である。
その、神の圧倒的な「存在させる力」が、全ての存在を存続せしめ、全て命ある者を生かし、そして私達が「神の似姿」として考え、判断し、行動する者として、存続させている。イエス様は、ご自身について「わたしは有る(エゴ・エイミー)」と何度も言って、彼こそ、人を生かし、いのちを有らせる者である事を証された。
『もしわたしが「そういう者である(エゴエイミー)」事をあなたがたが信じなければ罪のうちに死ぬ事になる…よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前から「わたしはいる(エゴエイミー)」』(ヨハネ8:24,58)
この、キリストを信じた人達の群れが教会であり、教会の土台の岩は、イエス様を生ける神の御子と告白する所にある。陰府が戦いを挑んで来てもそれを打ち負かすのが教会であり、また教会には天の鍵が与えられており、二人でも三人でもイエス・キリストの名の元に集って、共に心合わせて祈るなら、その祈りは天において繋がれ、あるいは天において解かれるほどの権威があるのだ。(マタイ16:15-19, 18:18-20)
神を礼拝する事と、教会につながり続ける事は、信仰者にとって、パンを食べるごとく必要不可欠である。
洗礼によって肉体の汚れが取り除かれる訳ではない。洗礼を受ける事はゴールではなくスタートである。
洗礼を受けても、なおも苦々しい不義の絆に留まり続けたのが、魔術師シモンである。(使徒8:9-24)
また、イエス様の弟子となって、人々に洗礼をさずける立場にあったはずのイスカリオテのユダは、イエス様と3年半も一緒にいながら、心はずっと「世」に結ばれ続けた挙句、十字架の場面ではサタンへと心を結び付け、イエス様を売り渡してしまった。私達は洗礼を受けたからと言って、彼らのようになってはならない。
『この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い(エペロテーマ:問、訴え、誓い)求めることです。』(1ペテロ3:21新共同訳) つまり洗礼は、神に繋がり続けて行く事を決心し、良い心をもって神に向かって生き続けて行くと神と人との前で表明する事であり、その決心にあって生きる事の出発点である。
パウロも言っている。 『神の義は、その福音の中に啓示され、「信仰に始まり信仰に至らせる(エック・ピステオス・エイス・ピスティン)」。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてある通りである。』(ローマ1:17)
ここは「信仰は”所有する事”によって始まり、信仰(の目指す目的地)へと行き続ける」、という意味である。
だから、義人とは、洗礼を受けた者ではなく、イエス様に自らを結びつけ、その信仰を所有し続けながら、生きる者だ。コンクリートは、形作りをしてそのまま放置するなら、良い形であれ悪い形であれ、そのまま固まって行くように、人も、日々摂り入れる言葉・心に巡らす言葉と行動によって、その方面へと固まって行く。
それ故、私達キリスト者は、神の言葉によって固められていくべきだ。それまで、いかに悪意ある言葉によって傷つけられ、自分の思考パターンや考え方がどうしようもなく暗くマイナスな方面へと固まってしまったとしても、人をいのちある存在とさせた、力ある神の言葉に浸され続けるなら、改善しないはずは無い。
バプテスマは、今まで造り上げられて固まってしまった古く罪深い人生を一旦終わらせ、イエス・キリスへの全く新しい「いのちの歩み」始めて行く事の決心である。この度、洗礼を受けられた皆さんも、既に受けられた皆さんも、共に集い、キリストにあって日々新しくされ、いのちに溢れて行く皆さんでありますように!