メッセージ - 「セラ」の名人ダビデ(詩篇3篇)
「セラ」の名人ダビデ(詩篇3篇)
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詩篇3篇の表題は「ダビデがその子アブサロムを避けてのがれたときの歌」である。
聖書で、詩篇の中の「表題」部分は、節として数えられない訳は多い。しかし元々、ユダヤ人の聖書の詩篇には、表題もそのまま記載されている。
章節に分けたり、節にも数えずに表題として分類したりするのは、異邦人的な分類なのだ。ユダヤ人は聖書を全て「そのまま」受け入れる。
3:1 主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、
詩篇3篇の最初の2節は、内容からして、暗くなる状況である。
何しろ、ダビデは、その子であるアブシャロムにクーデターを起こされ、彼に同調する敵対者が多く起こり、ダビデは王座から降りてエルサレムから逃げている状況だ。
ある者は、落ちぶれて都落ちして行くダビデにつきまとい、呪いの言葉をかけながら石を投げてついて来た。(2サムエル記16:5-14)
しかしダビデは、それを甘じて受け入れている。
なぜなら、アブシャロムの謀反も、ダビデの罪の結果であり、身から出た錆だからだ。
16:11 ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。
16:12 主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない」。
ダビデがこの時味わっている苦痛の大本は、ダビデ自身の罪だった。
彼がウリヤの妻に手を出し、身ごもらせ、彼女の夫であるウリヤをわざと激戦区に送って剣で死なせたために、彼には性的な呪い、すなわち「いのちの呪い」と、剣の呪いとに、つきまとわれてしまう事になる。(2サムエル記12:7-12)
しかし彼は自分の犯した罪ゆえに日夜涙を流して自分の犯した罪を悲しみ(詩篇6篇)、神に悔い改めの祈りを祈った。(詩篇51篇)
自分が犯した罪を認め、悔い改める人を、主は、赦して下さる。
確かに、主は赦して下さる。しかしながら、その本人が犯した罪の刈り取りは、しなくてはならない。
その刈り取りが、この度の災いなのである。ダビデはそれを、身に甘んじて受けた。
3:2 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。〔セラ
この時の多くの人々の、ダビデに対する評価は、ダビデはもうだめだ、彼からは神の助けは去った、というものだった。
しかし、悔い改めたダビデは、この告白をした後、「セラ」を宣言する。
セラ(סֶלָה)。
それは、当時のオーケストラにおいて特定の指示をするサインで、詩篇には何度も出てくる言葉であり、以下の3つの意味がある。
1,Stop and Listen。止めて、聞きなさい
2,Change Tone。トーンを上げなさい、転調しなさい
3,Change the Mood。雰囲気を変えなさい
確かにダビデはこの時、絶望的状況で、多くの人々は彼に「救いが無い」と判断している。
しかしダビデはここに、セラを入れる。
心に渦巻く心配事やつぶやきはストップし、神の言葉に聞きなさい!
暗く低い声は、トーンを上げなさい!
ムードチェンジしなさい!
と。
彼はこの最初の「セラ」で、暗澹とした状況告白から、信仰告白へと転調する。
3:3 しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。
ダビデは雰囲気を変えた。
不利な状況を見つめて思い巡らす事を止め、主に心を向けた。今までダビデを何度も救って下さった、彼の主へと。
ダビデは、若かりし頃から何度でも、主こそわが盾、わがやぐら、と告白した。
その都度、主は彼を守ってくださった。
3:4 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。〔セラ
ダビデは「聖なる山」から、と言っている。
彼はこの時、聖なる山、すなわち、神の箱がある礼拝する場から逃げて離れていく途中だった。
彼は信じていたのである。
自分は今、やむを得ず、聖なる山から離れて行く。
しかし主は、必ず自分をあの山に戻して下さり、そして再び、自分はあそこで礼拝ができるのだ、と。
『アビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。』(2サムエル記15:24-25)
彼はいつでも礼拝を慕い求める人だった。
礼拝の場から、聖なる交わりから遠ざかっている時、私達もダビデのように告白すべきである。
彼は後に、見事エルサレムに戻り、礼拝を捧げ、再び王座についた。
ダビデは、信仰告白により、変わったのだ。
3:5 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。
3:6 わたしを囲んで立ち構える/ちよろずの民をもわたしは恐れない。
4節の二回目のセラ以降、再びダビデの心に変化が起きている。
5節のふす、眠る、目を覚ます、これら3つの動詞は、いずれも完了形である。
完了形とはすなわち、「これはもう成った」という信仰告白であり、そして実際、彼はあの状況下であっても、安息して眠り、快く起きる事ができるようになったのだ。
彼は自分の心配から解放され、その後はむしろ、彼に敵対している彼の息子アブシャロムのほうを心配している。
この詩篇3篇は、ユダヤ人の中では、朝祈る祈りとされている。
こんな状況下でも、安息して眠り、平安の内に起き上がったダビデのようになりたいと、彼らは朝の祈りにしたのだろう。
ダビデはまさにムードチェンジのプロである。
彼のデビュー戦であるゴリヤテとの戦いでも、彼の信仰告白を境に、それまで40日も無割礼の者にいたぶられていたイスラエルの雰囲気を、がらりと変えてしまった。(1サムエル記17章)
ダビデは最後に、自身の願いを祈っている。
3:7 主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。
私達は何かと、自分の願いを先に祈りたいと思いがちだが、しかし私達もダビデにならい、まずムードチェンジを自分自身に命じるべきである。
暗いムードをそのままめぐらしてチェンジする事なく、ひたすら暗い願い事ばかりつらつら申し述べても、何も変わる事はない。
その「暗い思い巡らし」はストップし、ムードチェンジのために信仰告白をし、安息の実体を得る。それがまず先決なのだ。
3:8 救は主のものです。どうかあなたの祝福が/あなたの民の上にありますように。〔セラ
この8節の言葉は、さすがダビデ、偉大な王だ、と思える言葉である。
この時ダビデは王座を追われ、もう王ではない、王はアブシャロムだ、と人々から思われている時であるが、ダビデはこんな時に、民のため、執り成し祈っているのである。
この執り成しの相手には、当然、敵対して来る息子アブシャロムも入っている。
ダビデは、この圧倒的不利な情勢でも、彼の部下には、息子アブシャロムはやさしく扱うよう命じている。
ダビデは今までの戦いの経験から、主に告白し、平安が与えられたなら、こちらがどんなに不利に見える戦いでも、必ず勝つとわかっていたからだ。
自分を殺そうとする敵のため、そして自分を捨てた民のためにさえ、執り成し祈る。まさに王の中の王の性質である。
クーデターを起こしたアブシャロムのほうは、結局、ダビデの元に帰らぬ人となってしまった。
ダビデは最後、再びセラの言葉で詩篇3篇を閉じている。
祈って信仰告白した後は、世へと出て行って、実際にその働きをしなくてはならないからだ。
私達は祈りだけで一日を過ごすものではない。そんな事をしていたら、仕事が出来ない。
御言葉を宣言し、信仰を告白したなら、立って出て行き、神の国のわざを為して行かなくてはならない。
だからムードチェンジして、行きなさい、という事で、最後にセラを入れたのだろう。
私達も世においては、色々な戦いがある。ダビデほどではないにしても、敵に取り囲まれる事もある。
しかし、今まで諸々の事がお起きる都度、守って来られた主に心を向け、信仰告白する時、心は代わり、状況も変わっていく。
私達もダビデのように、ムードチェンジのプロとなり、信仰告白のプロとなり、そして敵のためにさえ執り成すものとなりたい。