メッセージ - 罪を犯した時の詩篇(詩篇51篇)
罪を犯した時の詩篇(詩篇51篇)
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詩篇第二巻で最初のダビデによる詩篇で、あの偉大な王・ダビデが信じられないような罪を犯した時、すなわち、忠実な部下・ウリヤの妻を寝取って、ウリヤを謀殺するという罪を犯した時、その悔い改めをした時の詩篇として有名である。
キリスト者の中にも、自分の罪について、この詩篇を用いて悔い改めの祈りへ導かれた方は多いのではなかろうか。
詩篇51篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」
この表題の事件が、2サムエル記12章である。
12:1 主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。
12:2 富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、
12:3 貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、彼にとっては娘のようであった。
12:4 時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、自分の羊または牛のうちから一頭を取って、自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。
12:5 ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。
12:6 かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、その小羊を四倍にして償わなければならない」。
私達にもまた、このときのダビデのように、人の悪いところはよく見えて、それをを裁き、罪定めする性質を持っており、そして、実は、自分は主の御前では、死刑に値するような罪人である事を忘れているものである。
しかしダビデに対してナタンが遣わされた時のように、私達にも聖霊が来る時、私達に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを認めさせるのだ。(ヨハネ16:8)
12:7 ナタンはダビデに言った、「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、
12:8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。
12:9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。
12:10 あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。
ダビデは、ナタンの言葉によって、ようやく、自分こそ罪を犯した者だったと告白した。
実は彼は、罪を犯したという事が、目の前にずっと、ちらついていたのだ。
詩篇51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
御前において告白していない罪がある時、なるべくそれを隠そうと、忘れ去ろうとして、いつも心が騒ぎ、平安がないものだ。
12:11 主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。
12:12 あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。
ダビデは罪を指摘された時、それを知らんぷりしたり、あるいは多くの王がしてきたように、逆ギレして、その預言者を口封じしようと抹殺するような事はせず、彼自身、心刺され、正しく告白する。
12:13 ダビデはナタンに言った、「わたしは主に罪をおかしました」。ナタンはダビデに言った、「主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。
12:14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。
ダビデは、今まで彼が黙っていて、自分の中に隠して取り扱っていなかった罪を、詩篇51篇の中で告白しはじめる。
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
ダビデは、彼自身の赦しは、自分の頑張りではなく、一方的に神のいつくしみと憐れみによるものだ、と告白している。
動詞に着目すると、「あわれみ、拭い去って下さい」(1節)、「洗いさり、きよめてください」(2節)、「(自分のとがを)知っています、あります」(3節)と願い求めている。
彼は、罪のきよめは、一方的に主の恵みによるのだと知っていたのだ。
そして彼は、誰に対して損害を与えたのか、明確に告白している。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
彼は言った。ただ主に対して罪を犯し、主の前に悪い事をした、と。そして、主のさばきこそ正しいと告白した。
聖書的な謝罪とは、このように「誰に対して」「何をしたのか」を明確に表明する事であり、そして主に対して「何をしてほしいのか」を申し上げるのである。
日本語で「ごめんなさい」という五文字をお母さんに言えば、お母さんがうるさいのが止まる、と思いこんでいる子供がいるかもしれない。
もし「ごめんなさい」を、なんでもかんでも許してもらえる魔法の五文字だと思いこんでいる節があるとするなら、その「ごめんなさい」は一体、誰に対しての、また、何をした事についてのごめんなさいなのか、ちゃんと自分自身で表明させ、その事についての償いや報いを受け入れる事も表明させる所までをするべきだ。
インターネットには、ビジネス文書のテンプレートが沢山あり、特に謝罪文や始末書、顛末書には、必ず自分がトラブルやミスを行った事を認める内容が記され、そのミスの詳細内容と、それを防止する策を、また、犯した内容によっては、ペナルティや懲罰を謹んで受け入れる意思も表明しなくてはならない。
こうしたテンプレートは、社会人生活をする上で大いに役に立つが、私達には、聖書こそ、テンプレートである。
私達が罪を犯した時、この詩篇51篇にのっとって主に告白し、悔い改めるなら、それは主の前に強力な謝罪文となる。
主は罪を赦して下さるお方であるが、罰を受け入れ、また賠償すべき事はその責務を果たさなくてはならない。
ダビデは人生の長い間、彼の罪ゆえの苦々しい代償を、ずっと支払い続けなくてはならなかった。
51:5 見よ(ヘン)、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
ダビデは、自分が生まれながらに持っている、ありありと明確に存在する罪を認めた。
そう、私達・全ての人間には、罪がある。
赤ちゃんは生まれたばかりの時は、あどけない顔をしているが、もう2,3年もして、言葉が喋れるようになり、人とコミュニケーションをするようになると、嘘をつくようになったり、相手を虐げたり、怒ったりする。
誰にも教えられていないのに、罪をするようになるのだ。
ダビデはそれを嘆いている。
51:6 見よ(ヘン)、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
主は、心の内の真実を見られる。
人は罪を犯す時、神は見えないお方なので、あたかも、誰も見ていないかのように罪を犯すが、その時、主はその行動や立ち居振る舞いのみならず、心の動きさえも見ておられる。
その人が、心から罪を犯したか、それとも罪ある自分に悲しみながら犯したかも、ご存知である。
ダビデは求めた。心に知恵を教えてください、と。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
ヒソプは、過越祭の時に、ほふられた羊の血を、門のかもいと門柱につける時に用いられ、すなわち、罪の処罰が及ばないようにするために用いられる。(出エジプト記12:22)
また、人がツァラアトからきよめられた時、きよめの宣言の時にも用いられ(レビ記14:4)、また、死体に触れた際の汚れからきよめられる時にも用いられる。(民数記19:18)
ダビデはヒソプでもって罪からのきよめを求めているのだ。
罪からのきよめには、必ず犠牲の血が流される。
ダビデもまた、犠牲なしには、彼の犯した罪からのゆるしは、なかった。
それでダビデがバテ・シェバとの間に生まれた子は、死んでしまった。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
今、私達も、罪をきよめてくださいと、救いの喜びと楽しみを返して下さいと、主イエス様の名前によって、祈り求める事ができる。
み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってくださいと。
それは、イエス様が十字架の上で流された血のゆえ、イエス様が犠牲となってくださった故である。
私達は、イエス様の流された血潮の故にゆるされた事、罪が、この御方の犠牲ゆえに成り立った事を、決して忘れたり、ないがしろにしてはならない。