メッセージ - 主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)
主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 雅歌
- 執筆 :
- pastor 2019-4-24 8:50
主の言葉と絡められた人生そのものこそ、主への何よりの捧げ物(雅歌書7章)
Youtube動画
_________________
7:1 女王のような娘よ、あなたの足は、くつの中にあって、なんと麗しいことであろう。あなたのももは、まろやかで、玉のごとく、名人の手のわざのようだ。
7:2 あなたのほぞは、混ぜたぶどう酒を欠くことのない丸い杯のごとく、あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた山盛りの麦のようだ。
7:3 あなたの両乳ぶさは、かもしかの二子である二匹の子じかのようだ。
7:4 あなたの首は象牙のやぐらのごとく、あなたの目は、バテラビムの門のほとりにある/ヘシボンの池のごとく、あなたの鼻は、ダマスコを見おろす/レバノンのやぐらのようだ。
雅歌書は章を進めていくごとに、夫婦の関係がより成熟し、深まりを見せていく様がある。夫婦は、互いが共に過ごす時間を積み重ね、生活を共にしてゆく過程で、いろいろな経験をし、失敗もする事はあるが、それを共に乗り越えてゆくうちに、関係はどんどん成熟したものになっていく。
出会った当初は、みずみずしく初々しい喜びで満ちていたが、その関係はまだまだ浅く、軽いものだった。
乙女の、現実感のないふわふわした、夢見心地的な嬉しさはあったが、それは裏打ちが無い夢のように、こわれやすいものである。
彼女はある日、夜遅く帰ってきた夫を身勝手に締め出してしまい、その現実感のない心の持ち方が打ち叩かれ、高慢が剥ぎ取られ、現実的に夫を愛するべき段階へと、引き出されたのが、5章だった。
こうして彼女は、現実的に愛し、共に生きるべき夫に対する、正しい立ち位置を知って、そこに立った時、彼女の幸いは、もはや、夢のようなふわふわした現実感のないものではなく、彼女の、夫を喜ばせる性質という、裏打ちのある、実体がともなう幸いへと変化していく。
若い女性は、不安になりやすい。自分は果たして相手に喜ばれる存在なのだろうか、いつか嫌われてしまうのでは、と。しかし、相手の男性の喜びとなる術を知り、それを実践して行くうちに、自分がそれを「行っている」という事に裏打ちされた安定感を得て行く。
7章は、花婿が花嫁を褒めそやす言葉で始まるが、その内容は、今度は、彼女の足元から上に向かって体の各部分を褒めそやしている。おそらく夫の前にいる彼女は、何も覆っているものがない状態なのだろう。
成熟した夫婦になればなるほど、恥ずかしいものが何一つない関係になっていく。エデンの園において、また何も罪を犯していなかった時、互いが裸であっても何の恥ずかしい思いをしなかったように。
イエス様との関係も、そうである。イエス様の素晴らしさは、彼と「おつきあい」して行く内に、徐々に徐々に、あらわにされていく。
もし私達の側が、イエス様を軽んじていたり罪を犯していたりする間は、イエス様の事が全然あらわにされていない。もし私たちの側が、イエス様に対し覆い隠しているところがあるとするなら、親密さが全然ない状況である。
しかし私たちの側が、イエス様にあらゆる面で明け渡していくと、その明け渡して行った所をイエス様が取扱い、そしてイエス様にあって清められたその所を、褒めてくださるのだ。しかしその所を隠しているなら、そこは癒やされずそのままである。
彼女はなぜ、この男性の心を、ここまでつかんだのか。
それは前回学んだように、彼女の謙虚さと従順さである。それがあるなら、互いの関係がますます成熟していく。
7:6 愛する者よ、快活なおとめよ、あなたはなんと美しく愛すべき者であろう。
7:7 あなたはなつめやしの木のように威厳があり、あなたの乳ぶさはそのふさのようだ。
7:8 わたしは言う、「このなつめやしの木にのぼり、その枝に取りつこう。どうか、あなたの乳ぶさが、ぶどうのふさのごとく、あなたの息のにおいがりんごのごとく、
7:9 あなたの口づけが、なめらかに流れ下る良きぶどう酒のごとく、くちびると歯の上をすべるように」と。
9節に、あなたの言葉は良いぶどう酒のようだとある。
何が夫の虜にしたか。それは、言葉である。口の言葉が私を酔わせ甘くさせるのだ。
なぜ愛が慰めに満ちているのか?
愛とは、肉体によってではなく、言葉によって、表現するものである。
花嫁が花婿を酔わせるものは、外見的なボディーや美しさより、むしろ言葉であり、内面的なものこそ、男性を甘くさせ、虜にするものなのだ。
美人は3日で飽きると言う言葉がある。しかし、外見的な美しさ、肉体的な美しさよりも、むしろ、言葉が素晴らしい女性にこそ、男性はとりこになって行くのだ。
夫婦の間の言葉が麗しく、唇から流れている言葉が、ぶどう酒のようになめらかで甘いものであるなら、2人はますます1つになって行きたい、という気持ちが深まっていく。
ぶどう酒とは、よく熟成されたものである。だから口から発せられる言葉が、御言葉がその人の心や行いとよく混ざり合って、熟成された上で、醸し出されて行くならば、それは、よく熟成された良い葡萄酒のような言葉である。
ぶどう酒は、正しく管理する必要がある飲み物である。暑すぎず、寒すぎず、一定の温度に保たれたところで貯蔵しなければ、酸いぶどう酒になってしまう。もし、1日でも直射日光のあたる暑いところに置きつづけてしまうと、その1日で、だめになってしまう。
同様に夫婦も、せっかくそれまで一定の温度を保っていたとしても、一度カッとなって熱くなって暑苦しい言葉を浴びせると、その事が傷になってしまいがちなものである。
この花婿の言葉に対して、10節以降、花嫁の側の応答がある。
7:10 わたしはわが愛する人のもの、彼はわたしを恋い慕う。
10節で、私は私の愛する方のものと言っている。
2:16の段階では、真っ先に「あの方は私のもの」と言っていたが、それが6章以降では、私は私の愛する方のもの、自分の全ては、ご主人様のものです、と言うまでに成熟していた。
1コリント7:4 妻は自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは夫である。夫も同様に自分のからだを自由にすることはできない。それができるのは妻である。
自分が発する言葉も、自分の体も、全て、自分の愛する方の慰めになる、という事であるなら、私自身、この心も、体も、唇の言葉も、全てが、愛する方の喜びになって行くよう努めていこう、という気持ちになっていくのだ。
11節には、
7:11 さあ、私の愛する方よ。野に出て行って、ヘンナ樹の花の中で夜を過ごしましょう。
7:12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。
彼女は積極的に、自分の愛する方を誘っている。夜、香のする場所で共に過ごし、翌朝日一緒に働いて、一緒に花が咲いたかどうか、成熟したかどうかを見にいきましょう、と。
夫婦には、共に過ごし合って、愛を確かめあう特別な場所があるように、イエス様との関係においても、そのような特別な関係を持つ場所や時間を、それぞれが持つなら、イエス様との関係はますます麗しいものとなっていく。
朝早い時間や、1人になった時など、御言葉を開いて、イエス様と特別な関係を持つ時間を持つのだ。
そして13節では、
私の門のそばには、新しいのも古いのも、すべて最上のものである。これが全部あなたのために蓄えてものですよと、何もかもあなたのために、新しいものも古いものは蓄えたと言っている。自分の、身も心も、全てが愛する旦那さんへのプレゼントですよ、愛するあなたに、最上のものがいただけるように、蓄えました、と。
これは確かに、新婦の、新郎に対する愛の告白ではあるが、これは、私たちの、イエス様に対する愛の告白となるべきである。
マタイ13章52節
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
私達が、愛する花婿のために蓄えるものは、旧約と新約の御言葉であり、すなわち、新旧約からテフィリンして、あの方のために御言葉をたくわえていくのである。
そうして蓄えた御言葉は、私達の人生の軌跡となっていく。
私たちがかつてのあの時この時に開いた御言葉、人生の若い時、年老いた時、それぞれの時々において、信仰を混ぜ合わせて来た御言葉が、人生に織り込まれ、それがイエス様への喜びとなる。
御言葉をしっかり自分の心に頭に絡め、ただ主のために蓄えて、新しいもの古いものをすぐに取り出せる状態であるならば、それが、イエス様の喜びとなることができるのだ。
7:8 私は言った。「なつめやしの木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうのふさのように、あなたの息はりんごのかおりのようであれ。
7:9 あなたのことばは、良いぶどう酒のようだ。私の愛に対して、なめらかに流れる。眠っている者のくちびるを流れる。」
私たち自身が、愛する夫であるキリストに対して、果樹園、園となり、そこに主をお招きして、新しいものでも、古いものでも、どうぞ取ってください、と言えるような私たちとなるべきである。
新郎が、愛する花嫁の、首に抱きつきたい、乳房に手を伸ばしたい、と思うのと同じように、イエス様も、私達が蓄えたあの言葉この言葉を、とって、抱きつきたい、手をのばしたいとなっていくように、私達自身も、身も心もイエス様の喜びとなるために、御言葉を自分の人生に、練り込んで行くべきである。
イエス様との関係において、あるいは代の夫婦関係においてこのような幸いな関係を実受けていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!アーメン。