メッセージ - 主の御名の力(詩篇54篇)
詩篇 講解説教
主の御名の力(詩篇54篇)
Youtube動画
_______________
詩篇54篇表題「聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの」
この表題の出来事は、1サムエル記23:19-29である。
ダビデがサウル王に追われていた時、ダビデが隠れている場所を、ジフ人がサウルに告げ口した。
それでサウル王は喜んで、ジフ人に言った。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」(1サムエル記23:21)
ジフ人は、ダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
対してダビデは、誰から救いを得ようとしたか。
詩篇54:1 神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。
54:2 神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。
ダビデは、まず神を呼び求め、「御名」によって救って下さい、と祈った。
この詩篇54篇は、最初と最後(1節と6節)が、「御名」によってサンドイッチされており、その間に「神は」「主は」と、主のご性質を宣言しており、全体を通して、神の「御名」による救いが主題となっている。
名。
それは、その相手を識別し、相手の身元を明らかにするものであり、相手の本質を表していることばである。
ダビデはそれを宣言し、主はいかなるお方であるのかを表明して行く。
54:3 高ぶる者がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。〔セラ
「高ぶる者」と訳された語ザールは「ほかの者」「異邦人」とも訳せ、特に、主の民を迫害する者、神を否定する者の事である。
ジフ人は、サウル王が主の祭司たちを虐殺したり、明らかに主の御旨に逆らう事をして来たにもかかわらず、サウルに媚びて、ダビデを売り渡そうとした。
彼らは、サウルを拠り所としたが、それに対し、ダビデは主を拠り所として宣言した。
一体どちらがいのちを長らえ、栄えるか。主はダビデに軍配をあげた事を、歴史は証明している。
ダビデはここで「セラ」を宣言した。
「セラ」は、雰囲気を変えなさい、転調しなさい、休みなさい、という意味で、今までは受身的・防御的な内容だったのが、ここからは積極的・攻撃的に変わる。
詩篇54:4 見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。
ダビデは、神は助け主、と告白したが、それはイエス・キリストによって成就した。
イエス、ヘブライ語ではイエシュア、その名の意味は「主は救い」、そのヘブライ語は「ישוע」(ユッド、シン、ヴァヴ、アイン)であるが、「ユッド」は「手」の意味、「シン」は「聖なる」あるいは「破壊された」、「ヴァヴ」は「釘」、「アイン」は「目」、の意味がある。
これをつなげると、聖なる、破壊された御方の、手の釘を、その目で見よ、という意味になる。
だから私達が「イエスよ」と呼び求める時、イエス様の十字架の贖いを見据え、救いを求めているのである。
だから、イエス様の御名の中に、この詩篇54:1-4でダビデが宣言し求めた内容は、全部、含まれているのである。
イエス様は言った。
ヨハネ14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
だから私達は、イエス様の御名によって、大胆に父なる神様に求める事が出来る。
『その日には、あなたがたがわたしに問うことは、何もないであろう。よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。』(ヨハネ16:23-24)
詩篇54:5 神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。
主の真実、それは、神を恐れぬ者、主の民を迫害する者に、力強い御腕で報いを与える。
54:6 わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。
54:7 あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。
ダビデは最後に、御名をもって、感謝をもって結んだ。
そして、敵の敗北を宣言した。
私達は祈る時、イエス様の御名によって、祈りを閉じるが、御名を単なる「閉じ言葉」にしていないだろうか。
私達はいつでも御名を呼び求め、積極的に御名によって宣言すべきである。
そうするなら、御名に込められた力強い力が私達のうちに現れるのだ。