メッセージ - 見たこともないような全く新しいことをしておられる主(イザヤ43:19)
1月の御言葉 イザヤ43:19
「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。」(イザヤ43:19)
今年最初のニューイヤーズ・イブ礼拝で、新年が明けた時のメッセージで示された御言葉は、アブラムに対する主の言葉、「恐れるな、(アブラム)よ。わたしは(あなた)の盾であり、(あなた)への、はなはだ大いなる報酬である。」(創世記15:1 逐語訳)でした。 主を自分の盾とし、主を自分の相続とし、報酬とする人が受ける報いは、非常に大きい! その報いの第一弾は、「主は全く新しくしてくださる」、です。
今月の御言葉、イザヤ43:19をより詳細に訳すと、以下のようになります。
「見よ。わたしは(今まさに)行っている。(これまでになかった全く)新しいことを。
今、芽生えているではないか。あなたはそれを知ろうとして行かないのか?
わたしは置く。荒れ地に道筋を、また乾いた地に川々を。」
すなわち、神ご自身が、今まさに行動を起こして新しいことが芽生えておられ(進行形)、しかも神は、
「あなたはそれを知ろうとしていないのか?」と、問いかけておられます。すなわち私達に、受け身で観察をするのではなく、信仰による洞察と応答を自分から積極的にしなさい、と、促すニュアンスになっています。
主は、主がなさろうとしている新しい事を積極的に知って行こうという姿勢を私達に求めておられるのです。
最近、1189テフィリンでは、伝道者の書を暗唱していますが、ソロモンはそこで真逆な事を言っています。
すべてのことは物憂く、日の下に新しいものは一つもない。これは新しい、と言われるものがあっても、それははるか先の時代に既にあったもので、それはもう記憶には無く、これから起こることも後の時代の人々の記憶には残らない。。。全てはむなしい、と。 私達はソロモンの言葉に同意するでしょうか?それとも??
忘れてはならない事は、これは、神様から段々離れて行ったソロモンが晩年に書いたもので、つまり、神から離れた人間が叡智を極めた結果、最終的に行き着く思想が、この伝道者の書である、という事です。
神様を「抜き」にして、世の知恵、世の富、世の楽しみを味わい尽くす者の行き着く先が、伝道者の書の思考ですが、それに対し、「主こそわたしの報酬」としている人に、主が準備しておられる報いは絶大です。
主に望みを置く人の行き着く先は、黙示録21-22章に記された永遠のいのちの喜びと、新しい希望です。
主は、言っておられます。これまでになかった全く新しいことを、今、まさに構築中だ、と。今、それが芽生えているではないか、と。外の桜は、今は枯れ枝のように見えますが、見た目はそうでも、その中では芽生えの準備を着々と進めています。 それと同じで、たとえ今、主がなさろうとしておられる事が見えず、枯れているかのように見えても、主は着々と、見た事の無いようなものを準備しておられ、それはある時、華やかに開花します。主は「あなたはそれを知ろうとして行かないのか?」と、私達の積極性を求めておられます。
主は言われます。「わたしは置く。荒れ地に道筋を。乾いた地に川々を。」と。 荒れ地は道なき所ですが、主は、そこに「道(デレク:道筋、方法、通り道)を設けてくださいます。どんなにめちゃくちゃで、道筋も方法も見いだせないところでも、私達の報酬であられる主は、そこに道筋を、方法を、通り道を置かれます。
また、乾いて生命なき所に、豊かさや命の象徴である川々(複数形)を置いてくださいます。
続く20節では「野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる」と書いてあります。たとえジャッカルのように荒々しく、弱いものを集団で食い物にするような者でも、あるいはだちょうのように、知恵も愛情も無い者であっても、主を知り、主をあがめるようになる、と書いてあります。 これこそ、主に望みを置く者の受ける報いであり、それは今までに一切なかった、全く新しいつくりかえが、主によって為されるからです。
しかし、世のものや、過ぎてしまった過去など、神ではないもの、すなわち、すたれるべきものに見入って、目を留め続けているなら、新しいものが来ても気づかないものです。ソロモンのように、神を除外した自分だけを見つめ続けていると、堂々巡りから脱出できません。 しかし、主を自分の「報い」とした人は、主が用意してくださる新しい命、新しい歩みの中を進むことができます。主を自分自身の「報い」として定め、今まで見たことも聞いたこともないような、全く新しい報酬を得ていく今年の皆さまでありますように!
