メッセージ - 残り物を主に捧げていないだろうか?(ローマ12:1-2) 水曜夜礼拝
残り物を主に捧げていないだろうか?(ローマ12:1-2)
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【概要】
あなたがたが盲目のものをいけにえとして捧げる。それは悪い事ではないのか? 足なえや病気のものを捧げるとき、それは悪くないのか? さあ、それをあなたの総督に差し出してみよ。 彼はあなたを喜び、あなたを受け入れるだろうか? 万軍の主は言われる。 (マラキ1:8直訳)
ローマ12:1-2
創世記2:3
マラキ1:6-13
ヨハネ4:21-24
ルカ6:38
マタイ13:8
詩篇37:1-2
【戒めの言葉】
自分の好きなことで疲れ切った状態や上の空の状態で礼拝の場に臨むなど、余り物や不完全なものを神様に捧げるような形だけの礼拝をしてはいけません。
【勧めの言葉】
この世の価値観という鋳型にはめ込まれるのではなく、御言葉によって心を一新し、自らを神様に喜ばれる生きた供え物として捧げましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
神様よりも自分の用事や世の中のことを優先し、足のなえた動物を捧げるような怠けた態度で礼拝に出ていなかったか、今一度自分の心を点検し、悔い改めましょう。
【***詳細***】
礼拝の初めに、皆でローマ12:1-2の御言葉を宣言しました。
「そういうわけですから、兄弟たち、私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
そして、礼拝の時間を最高のものとして過ごせるよう、私たちの思いや心、体を主にお捧げし、神様からの恵みをいただけるよう祈りから始まりました。
私たちは神様のものになりました。私たちが受け継ぐ財産、つまり私たちにとっての最高のご褒美は、お金や土地のようなものではなく、神様ご自身です。このことを深く知り、実感していくべきです。何億円というお金や不動産を得ることよりも、神様ご自身を受け継いでいることのほうが、どれほど幸せなことでしょうか。このことを実感すればするほど、お金や老後の安心などをはるかに超えた平安と安息を得て、「今ここにいていいんだ」という確信に満たされるはずです。神様がいない人は、実績やお金の残高がないと不安になり、右往左往してしまいます。そして、頑張らなくてもいいところに力を注いで、結果的に無駄遣いをしてしまうのです。ですから、私たちは何が本質なのかをしっかりと捉え、イエス様を中心とする生活を送るべきです。
イエス様を礼拝することが、私たちの生活の中心にならなければなりません。神様は天地を創造された時、7日目を安息日として聖なる日と定められました(創世記2:3)。この世のあらゆるゴタゴタやトラブルは横に置いて、神様との完全な交わりと平安を守る日です。現代の私たちにとっては、日曜日が主を礼拝すべき主日です。この日には、世の中のさまざまな事情を置き去りにして、神様を第一に覚え、神様と交わるべきです。そうすれば必ず祝福されます。
しかし、日曜日に世の中の仕事を持ち込み、「6日働いて1日休むより、7日全部働いた方が稼げる」と考えた人たちは、どんどん衰退していきました。アメリカがかつて右肩上がりで発展したのは、日曜日に行う礼拝を忠実に守ったからです。しかし、その礼拝をおろそかにし始めた時から、国に影が見え始めました。私たちも、神様を第一にして礼拝を捧げることを、何よりも優先しなければなりません。
ローマ12:1-2には「霊的な礼拝」という言葉が出てきます。これは原文の意味からすると「理にかなった礼拝」「筋の通った礼拝」という意味です。では、何が筋の通った礼拝なのでしょうか。それは、私たちの体を神様に受け入れられる、清く生きた供え物として捧げることです。ここで言う「体」とは、肉体だけでなく、魂も心も霊も含めた全身全霊のことです。ですから、ただ体が礼拝の場にいるだけでは不完全です。思いも心もすべて神様に向け、神様への愛をお捧げすることが重要なのです。
また、「この世と調子を合わせてはいけません」と言われています。これは、世の中の鋳型にはめ込まれてはいけないということです。溶けた金属を鋳型に流し込むと、その形の像が出来上がります。世の中は、「子どもはこうあるべき」「社会人はこうあるべき」といった鋳型に私たちをはめ込もうとします。もしそれが神様に敵対するような鋳型であるなら、決してはめ込まれてはいけません。私たちは、キリストに似た姿へと作り変えられることを求めるべきであって、この世の鋳型を優先してはならないのです。
何が完全であり、何が神様に喜ばれることなのかをわきまえ知るために、心を一新して自分を変えなさいと言われています。世の中の考え方を一新し、御言葉を中心とした新しい志を持ちましょう。
「自分を変えなさい」という言葉は、原文では受動態で書かれており、「変えられ続けていきなさい」という意味です。つまり、心を一新させれば、あとは受動的に変えられ続けていくのです。私たちの責任は、世の中の邪悪な考え方を捨て、御言葉を中心とした考え方に自分を当てはめ続けることです。自分の力で自分を変えることはできません。御言葉に自分を当てはめていくことで、変えられ続けることが可能になるのです。「自分で変わらなきゃ」と努力するよりも、「御言葉にこう書いてあるから、それに自分を当てはめよう」と考える方が、何百倍も効果的です。真の礼拝者とは、自分のやりたいことではなく、御言葉に何と書いてあるか、神様が喜ばれることは何かを求め、そこに自分を当てはめていく人のことです。
一方で、神様が「このような礼拝はダメだ」と指摘された例が、マラキ書の1章(マラキ1:6-13)に書かれています。神様は、「もし私を父とし、主人としているなら、私への尊敬はどこにあるのか」と問いかけられました。当時の人々は「ちゃんと礼拝を捧げています」と言い訳しましたが、神様はこう言われました。「あなた方は祭壇に汚れたパンを捧げている。目が見えない動物や、足のなえた動物を捧げているではないか。そんな不完全なものを総督にプレゼントして、喜ばれるだろうか」。人間でさえ喜ばないような不完全なものを、神様の御前に捧げていることを咎められたのです。
神様はそのような形だけの捧げ物を喜ばれません。「誰か、祭壇の火を消してくれる者はいないのか。そんな捧げ物は私の祭壇に持ってくるな」とまで怒られました。心の中では「良い動物は自分のために取っておいて、価値のないものを捧げよう」と考えていることを、神様は見抜いておられたのです。マラキ1には、余り物や盲目のものを神様の御前に捧げてはならない、それは喜ばれないと明確に記されています。
私たちも同じようなことをしていないでしょうか。自分の好きな動画やスマートフォンを見続けて目が疲れ切り、霊的にも盲目になったような状態で礼拝に来ていないでしょうか。自分の好きなことには体力を使い果たし、いざ礼拝の時間になると上の空になったり、忙しいからと礼拝から離れてしまったりしていないでしょうか。それは、余り物を神様に捧げているのと同じです。
イエス様は、真の礼拝についてヨハネ4:23-24でこう言われました。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
また、ローマ12:1-2にあるように、全身全霊を清い供え物として捧げるのが理にかなった礼拝です。自分の好きなことを散々やって、その残りカスのような状態で、うつらうつらと居眠りしながら捧げる礼拝を、神様は喜ばれません。生きておられる神様に対して、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛を捧げることこそ、求められている真の礼拝なのです。
マラキ書の時代には、自分の方が清くて礼拝の場が汚れているかのように振る舞ったり、戒められると「なんとうるさいことか」と心の中で軽蔑したりする人々がいました。彼らは盗んだものや足のなえたものを捧げていましたが、神様がそれを喜んで受け取られるはずがありません。
皆さんが今、礼拝の場にいる態度は、果たして神様の御前に届くものでしょうか。もし世の中の偉い総理大臣などと対面する時の態度のほうが、神様と向き合う時の態度よりも立派であるなら、それは神様よりも世の中を優先していることになります。神様の御前では、心を尽くして愛する礼拝を捧げるべきです。
イエス様は、サマリヤの女からの質問に対して「この山でもなく、エルサレムでもない」と答えられました。形式や場所ではなく、四六時中いつでも「霊とまこと」をもって神様を敬っているかどうかが問われているのです。神様は私たちの心の内をご覧になり、神様と一つになっている人に目を留め、その人をこの時代の立役者にしてくださいます。ふさわしい心を持つ人には、多くのことが任されるようになり、忠実に果たすことでさらに多くの働きが委ねられていきます。
「この程度でいいや」「適当にやって他の人に任せよう」という怠け心は一切捨て去りましょう。
神様が求めておられるのは、私たちの思い、心、体、感情のすべてを委ねる礼拝です。すべてを捧げたら自分のものがなくなって損をする、などと考えてはいけません。ルカ6:38にあるように、神様は「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに」して与えてくださるお方です。マタイ13:8にあるように、私たちが1を捧げれば、神様は30倍、60倍、100倍にして返してくださいます。
心から神様にすべてを捧げ、神様からさらなる祝福を与えられ、尊い働きに用いられる喜びに満たされますように。そして多くの富や人々が託され、神様の働きを進めていく者となれますように祝福します。
【結論】
私たちの全存在(霊・魂・心・体)を神様に喜ばれる生きた供え物として捧げることこそが、真の礼拝です。世の中の価値観という鋳型にはめられることなく、常に御言葉に自らを当てはめて心の一新を図りましょう。疲弊した状態の余り物や不完全なものを捧げるのではなく、「霊とまこと」をもって最上の礼拝を捧げる時、神様は私たちに豊かな祝福と大いなる使命を委ねてくださいます。
