メッセージ - 聖餐式と十字架の恵み - 受難週のメッセージ(1コリント11:23-32)
聖餐式と十字架の恵み - 受難週のメッセージ(1コリント11:23-32)
メッセージ音声
【概要】
受難週において、イエス様が最後の晩餐で制定された聖餐の意味を深く学びます。イエス様の裂かれた肉と流された血潮を通して、私たちに与えられた天国への道、罪の赦し、神の子としての値が与えられたことを覚え、感謝をもって歩むことが勧められています。
【聖書箇所】
第一コリント11:23-32
【慰めの言葉】
イエス様の十字架の血潮を通して、私たちの罪は清められ、神の子としての値が付けられました。悪魔サタンに対しては完璧に勝利したものとして歩むことができます。
【励ましの言葉】
罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきです。聖餐式を拒否するのではなく、イエス様の裂かれた肉と流された血潮により一層預かり、感謝をもって歩みましょう。
【勧めの言葉】
受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、イエス様に交わり続けること。聖徒の交わりから決して離れず、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかることが勧められています。
【戒めの言葉】
聖餐式にふさわしくないままで預かること、つまりイエス様を覚えないままで食卓に預かることは、自分を裁くことになります。自分自身をしっかりと吟味し、イエス様の十字架の贖いを覚えて預かるべきです。
【***詳細***】
2026年3月31日の朝、恵みをいただく御言葉は第一コリント11章23節から32節です。初めに皆さんと共に23節から26節を宣言します。新改訳の第三版にて宣言いたします。
「私は主から受けたことをあなた方に伝えたのです。すなわち主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は私の血による新しい契約です。これを飲むたびに、私を覚えてこれを行いなさい。』ですから、あなた方はこのパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(第一コリント11:23-26)
愛する主よ、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださった恵みを感謝いたします。あなたのその身代わりの死によって、私たちの罪は十字架に釘付けにされました。あなたを信じることによって、それが私たちのものとなることを感謝いたします。あなたは復活されたことを感謝します。それゆえに私たちは永遠の命の望みが与えられました。今、主よ、この受難週の中において、あなたのその十字架の死と復活を覚えることができますように。
今週は受難週です。特に今日見ていきたいのは、イエス様がその最後の晩餐において制定されたこの聖餐についてです。当時はですね、この最後の晩餐、西洋の絵画などでは、イエス様はテーブルに座って、みんな椅子に座って、その最後の晩餐に預かっている場面がよく描かれるんですけども、けれども当時のユダヤの習慣としては、みんな地べたに座って、それで寝っ転がって、それでお食事を取るという、そういう感じでした。
ヨハネがイエス様の横に横たわっていたとあるんですけども、ですからちょうどパッションという映画のような感じで、こうやってあぐらをかいて、テーブルを囲んで、それでパンが裂かれて弟子たちに配られた、そういう有様だったんですね。
その最後の晩餐において、イエス様は特に、イエス様が苦しみを受けられる前に、どんなにあなた方と一緒にこの過越しの食卓につきたかったことかとおっしゃいました。イエス様は本当にこの弟子たちを愛して、そして私たちをも愛して、私たちのためにこのイエス様ご自身が過越しの子羊となられたわけです。イエス様は十字架の上で血を流された。その血潮をもって私たちの罪を贖い、また肉を裂かれた。それは私たちの身代わりになってです。
それと同時にですね、この裂かれたことについて、キム先生が言われましたね。スキゾーというギリシャ語、これ裂く、引き裂くことによって、天国がイエス様を通して現れたんですね。イエス様という肉体、その十字架の上で裂かれた肉体という幕、その幕が裂かれたことによって天国があらわにされました。イエス様が十字架の上で息を引き取られた時、神殿の幕が真っ二つに裂かれて、そしてその至聖所、いわば神様のご臨在が露わにされたんですね。イエス様が十字架の上で肉を裂かれたゆえに、私たちに向かって天国が露わにされたわけです。
そしてイエス様はそのことを覚えるために、その十字架の苦しみを受けられる前の晩に、その聖餐式を制定されたんですね。イエス様は渡される夜、パンを取り、感謝を捧げて後、それを裂いて、引き裂いて、そして言われましたのが「これはあなた方のための私の体です。私を覚えてこれを行いなさい」と言われました。「私を覚えて」です。杯をも同じようにして言われたのは「これを飲むたびに私を覚えてこれを行いなさい」。
この「覚える」というのはですね、何も思い出として残しておきなさいということではなくて、むしろね、これを行うたびに、あたかもこの当時イエス様がその肉体を裂かれて、十字架の上でそれを裂かれたことを、あたかも目の前で見るかのようにしてそれを覚えなさい、そしてそれを行いなさいということです。ですから私たちはこの聖餐式に預かる都度、あるいは聖徒たちが共に集まってパンを裂く都度、また共に同じその飲み物を飲む都度、このことを覚えなさいということです。
ですからクリスチャンのこの集い、聖餐式のみならず、主の御名の交わり、特にこの第一コリント11章は、あなたがたはこの私の名前、イエス様の名前によって集まるその集いの中において、ふさわしくない状態だと言っています。ある人は我先にこの集いに集まって、我先にそこにある食べ物を食べて、それで後から来た人たちのために残っていない。またある人たちは先にもうぶどう酒を飲み尽くして、それで後から入ってきた人たちには残っていなくて、あなた方はもう酔っ払っている始末だ。このような交わりは果たしてふさわしいことでしょうか。
パウロは叱りました。「あなた方はこの点においては褒めるわけにはいきません」と。ですから、集う時においてはどういうふうに集うべきかというその話の流れで、このイエス様のこの最後の晩餐の場面がパウロを通して語られて、そしてその後にパウロは、だからあなた方が集まる時には、しっかりと前もって打ち合わせて、同じ時に集まって、そして食事を食べなさいということが語られたわけです。
ですから、私たちが、この初代教会以降、本当に私たちの信仰の先人たちが共にしてきたように、私たちは同じ場所に集まって、イエス様の名前によって集まって、そしてそこにおいて共に祈り、共に交わり、共にパンを裂き、これが使徒の時代からずっと続けられてきたわけですね。
私たちがですから、集まる都度、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたこと、また血を流されたこと、これをあたかも目の前で記念して覚えるがごとく、そのように私たちも集う都度、イエス様のその死と復活を私たちは覚えるべきなんです。イエス様は御体を十字架の上で裂かれました。そして、このイエス様が十字架で裂かれた肉を覚えるようにと言ってパンを与えられました。私たちはその聖餐の都度、また主を覚える都度、私たちはそれを覚えるべきです。
その肉体が裂かれたことは、私たちの身代わりとなって苦しまれるためです。そしてそれと同時に、イエス様の裂かれた肉体を通して、天国が私たちに向かって明らかになるため、私たちが天国に入るために、イエス様が十字架の上で肉体を裂かれたからこそ、天国への道が、その幕が裂かれて、そしてその入り口が開かれて、私たちはイエス様の裂かれた肉を通して天国に入ることができるのだということを覚えるべきです。
またイエス様の血、血潮は力があります。血潮は命そのものです。血潮は叫びます。私たちに対しては弁護を叫び、悪魔サタンに対しては罪定めを叫びます。この十字架の血潮を通して、私たちは悪魔サタンに対しては、私たち自身もイエス様の血潮を宣言して「出て行け」と訴えることができ、また私たちはこの血潮、イエス様の命そのものであられる血潮、このイエス様の命が与えられた血潮でもって、私たちもイエス様と同じ値が付けられた神の子として、永遠の命を受けたものとしての値が付けられたものであることを、根拠をもって主張できるんです。
ですから私たちはこのイエスの肉、またイエスの血、これを覚えるべきです。そして、「もしふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むものがあれば、主の体と血に対して罪を犯すことになる。ですから、自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」と言われてるんですけども、自分を吟味する、果たして自分がこのパンと杯をいただくにふさわしいものかどうか、吟味しなさいと言われてるんです。
よくですね、聖餐式で誤解されるのが、「私はいっぱい罪を犯してきたから、だから、このパンと杯に預かるにふさわしくないんだ。だから聖餐を受け取りません」ということですね。そんなことを言う人はですね、牧師先生に叱られるんですね。「やめなさい」ってね。むしろ罪を犯してきたからこそ、私たちはこのイエスの裂かれた肉により一層預かるべきであり、その血潮により一層預かるべきなんです。
自分自身が本当にこの罪を犯してきた、だからイエス様のその贖いが必要なんだ。イエス様が本当にこの十字架の上で裂かれた、血を流されたから、だから私はこれに感謝を持って預かりますと預かるべきなんです。それを拒否する人、霊的な状態が良くない人がよく拒否するんですけども、本当にこのイエス様の贖い、これを拒否してはならないんです。イエス様の贖いを、むしろ私たちは感謝を持っていただくべきなんです。
そして、もしそうしたイエス様を覚えるということ、イエス様を覚えている人がふさわしい人です。ふさわしくないままでというのはどういう状況か、イエス様を覚えないままでということですね。イエス様を覚えないまま、この聖徒と共に預かるべき食卓、これをただ単に食欲を満たすために、我先にと、そういうのはふさわしくないままですから、その飲み食いが、自分を裁くことになるということですね。
恐ろしいことはですね、この聖徒の食卓をね、これを軽んじて、主を軽んじて、主を覚えないで、その聖徒たちが持ち寄ったものをね、我先に食べる人ね。30節見ると恐ろしいんですね。「そのために、そんな飲み食い、ふさわしくないままで飲み食いした人が多いから、だから、その中に弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大勢います」(第一コリント11:30)。
しかし、「もし私たち自身が自分を裁くなら、裁かれることはありません」(第一コリント11:31)。ですから、私たち自身、自分自身をしっかりとね吟味し、イエスキリストにあって、本当にこの自分は罪がある人ですけれども、イエス様にあって、この十字架の贖いを通して罪が贖われるものです。だから、それを覚えるために、この食卓に、このパンに預かり、この杯に預かります。
ですから、私たちは集う都度、イエス様の十字架を覚えるべきです。イエス様の復活を覚えるべきです。そして、イエス様への感謝をいつも私たちは心のうちに持っておくべきです。私たちはこの受難週において、いや、受難週だけでなく、本当に日々イエス様の十字架を覚えて、感謝を持って、イエス様にいつも交わり、そしてまたこの聖徒の交わりから決して離れず、共にこのイエス様の復活の恵み、共にイエス様と共に天の御国に入る恵みにあずかる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
イエス様は最後の晩餐で聖餐式を制定され、私たちに「これを私を覚えて行いなさい」と命じられました。聖餐式に預かる都度、また聖徒が集まる都度、私たちはイエス様の十字架の死と復活を覚えるべきです。イエス様の裂かれた肉は、私たちの身代わりの苦しみであり、同時に天国への道を開くものでした。イエス様の流された血潮は、私たちの罪を清め、悪魔サタンに対して勝利を宣言し、私たちに神の子としての値を与えました。罪を犯してきたからこそ、イエス様の贖いに感謝をもって預かるべきであり、イエス様を覚えることがふさわしい姿勢です。受難週だけでなく、日々イエス様の十字架を覚えて感謝を持ち、聖徒の交わりから離れず、共に天の御国に入る恵みにあずかりましょう。
