メッセージ - エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
メッセージ音声
【概要】
エステル記は神の御名が一度も登場しない不思議な書でありながら、異教の地ペルシア帝国で生きるユダヤ人を通して神の確かな働きを示す物語である。紀元前480年頃、民族存亡の危機からの救いを描き、日常の「たまたま」の中に働く神の精密な御手を示している。
【聖書箇所】
エステル4:14、エステル1-10章(全体)、サムエル記(聞き従うことに関する箇所)
【励ましの言葉】
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神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられないストーリーの中で、礼拝も自由にできないそういうところにおいても、神様は確かにおられ、働いておられる
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私たちの日常生活の中で、突然の奇跡や声が聞こえなくても、ごく普通の出来事、日常の中において神様は臨在しておられる
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神様は見えなくても確かに働いておられる
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あなたが今いる場所には、確かに神様の意味がある
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「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」(エステル4章)
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人生を振り返れば、神様の歯車がカチッと合っていたことがわかる時が来る
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イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です
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イエス様の名前で祈ったことを、主が実行してくださると約束されています
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主は敵の前で宴を設けてくださる方です
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長年報いが受けられていなかったかもしれないが、天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来る
【戒めの言葉】
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残してはならない悪がある
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自分の中のハマンの性質(弱い者いじめ)を根っこごと引き抜く必要がある
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中途半端な従順は、後に大きな災いの根を残す
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「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪」(サムエル記より)
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悪の芽は小さいうちに摘み取ること
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悪を憎め
【勧めの言葉】
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この時代のエステル、モルデカイとして歩むこと
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それぞれの場所で誠実に働きをなすこと
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神の民として覚悟を持って立つこと
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子どもたちに惜しまずにキリストを届ける者でありましょう
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この時代において選ばれた栄光の次世代を担う者として立ちましょう
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へりくだって主の御心を行使する者となりましょう
【***詳細***】
前回までネヘミア記を公開説教のような形で一章ずつやってきました。今日は、公開説教の後、詩編をやりたかったんですね。詩編の101編でずっと止まって、もうここ数年ぐらい公開説教が滞っていたので、続きをやろうかなと思っていたところ、そこに甲斐先生が突然「あなた今何してるの」って。それで「まあ今公開説教、今度詩編にしようと思ってるんだけど」って言ったら、なんか「エステル記」っていう声が隣の部屋から聞こえてきて、まあ、神学生宣教師がそういうリクエストしたんですけど、「うん」って思って。まあ確かにネヘミア記の次はエステル記だけどもなんて。
で、甲斐先生に言ったら、なんか突然その順番を乱すようなことするんじゃないみたいなこと言われて。それでまあ確かにネヘミア記の次はエステル記だし、まあリクエストもあったから、まあこれが導きだろうと思いまして。ということで、エステル記を今度はまた公開説教をしていきたいと思います。
今日はエステル記の概要的なところを見ていきたいと思うんですけども、まあ、エステル記を一言で表す箇所といえばどこだろうな、と思ったところ、この4章14節ですね。エステル記の4章14節をちょっと宣言したいと思います。
エステル4:14「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」
アーメン。一言お祈りします。父なる愛する主よ、エステル記から恵みをいただきたいと思います。あなたが確かにこの箇所へと導かれました。主よ、本当に折にかなった言葉があなたからいただきますことを期待し、感謝いたします。どうか取り次ぐしもべの唇、また聞く一人一人の耳を清め、通りよくしてください。あなたの御旨、それを豊かに悟ることができますように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒めたたえ賛美いたします。このエステル記なんですけども、非常に不思議な書でして、この他の書物とは決定的に違うところがあるんですけど、それはですね、何が不思議かというと、実はね、「神」という言葉、「主」という言葉が一言も出てこないんですね。この初めから終わりまで一切出てきません。ヘブライ語でのユダヤ、ヤーウェ、主の御名が出てきませんし、またエローヒムも登場しないんですね。「神がこう仰せられた」とか、「主が現れた」、「神様が答えた」、はっきり書かれてありません。
けれども、それにもかかわらず、このエステル記を読み終わった時には、確かに神が生きて働かれたのだということを、それは確信できる書でもあるんです。このエステル記から、これから一緒に恵みを受けていきたいんですけども、まずね、このエステル記の物語はいつどういう時代であるのかを押さえておきたいんですけども、この時代としてはおよそ紀元前480年頃で、場所は紀元前480年当時の世界の一番の大国である、ペルシア帝国においての物語です。
で、その時の王様の名前は、まあ、アハシュエロス王、まあ、新改訳第三版の方でアハシュエロス王、けれども、歴史上では、クセルクセス王という名前です。新改訳2017ではクセルクセスというふうに記されております。で、その領土はインドからエチオピアまで127の州に及んでいた。それほどの超大国の、その王宮の真っ只中においての物語になるんですけども。
で、エステルが王妃になったのは、およそ紀元前479年頃と言われてます。で、ネヘミアの時代とはまあどうなのか。まあ若干かぶってないんですね。ネヘミアがエルサレムに来たのは、だいたい紀元前445年ですので、エステルの時代はネヘミアよりも一世代前の方なんですね。ですから若干遡る時系列です。
ここで思い出したいのは、ユダヤ人はなんでこのエルサレムから遠く離れていたところにいたのか。これですね。まあ、留学していたわけでもないし、観光していたわけでもないし、バビロン捕囚ですね。この国、エルサレムが滅ぼされて、遠く異国の地に強制的にもう縛られて連れて行かれて、それで行ったその子孫たちがこのエルサレムから遠く離れたペルシアの方に行ったんですね。その子孫たちが、バビロンからペルシアの時代になった。そして故郷に帰ってもいいという許可もおりました。
けれども、このエステル記の時代、まだ城壁が再建されない、その92年の間のストーリーなんですね。ネヘミアとかエズラに率いられて、一部の人々はその時エルサレムに帰りはしたんですけども、けれども、帰れなかった人たちが大勢いたわけです。このエステルとかモルデカイ、まさにその帰れなかった側の人々なんですね。
ここで留めておいていただきたいのは、このエステル記は神殿があるこのイスラエル、エルサレム、神の都の中の物語ではありません。むしろそこから遠く離れざるを得なかった、異教の帝国のど真ん中で生きる人々の物語なんです。神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられない、ストーリーの中で礼拝も自由にできない。そういうところにおいての物語。果たして神様はそこにおられるのか。エステル記は「果たして神様はそこにおられるのか」という問いに対して、「おられる、確かに神様は働いておられる」というストーリーなんですね。このエステル記は。
で、エステル記はですね、もう一つ面白いエピソードは、聖書として選ばれるまで非常に揺れた一冊でもあったということですね。まあ、その理由は、この神様の御名が一つも出てこない。エローヒムも出てこない、ヤーウェも出てこない、一度も出てこない。果たしてこれ、聖書と呼べるんだろうかって昔の人々も悩んだんですね。
また、興味深いことに、あの死海のほとりで、死海写本がたくさん見つかったんですけども、で、旧約聖書39巻のうち、ただ一冊だけ、このエステル記だけが死海写本の中に一つも出てこなかったですね。で、後の時代、あの宗教改革者のマルティン・ルターもですね、このエステル記、一体どういうふうに扱うべきか、果たして本当に聖書と呼べるんだろうかって悩んだ。そういう人もまたいたんですけども、けれども、エステル記はしっかりと聖書のうちの一冊として受け止められたんですね。
それは、ユダヤ人がプリム祭というものを行っているんですね。プリム祭というのは、このエステル記に起源がある祭りです。プリム祭、民族が皆殺しの危険にあった、そこから救われた、それを祝う祭りですね。そして本当にこの神様が確かに働かれて、この民族の危機を救ってくださった、民族の危機、そこから救ってくださった。ですから、ユダヤ人としてはもう民族の記憶そのものだったんです。
で、もう一つ、さらに深い理由。それは神様の御名が書かれていないということ自体が、神様に関する重要なメッセージだということを、それを私たちに訴えてるんだということですね。私たち、今このつくばみらいという場所において信仰生活をしてるんですけども、何か奇跡が突然、空から降ってくるわけでもありませんね。神様の声が聞こえてきたわけではないですね。なんで私たちがここにいるのかって。ここを歩いていたら、阿部先生夫婦に、阿部夫婦、「この土地が主の御心の地だ」って声が聞こえたわけではなかったですね。ごく普通の出来事、日常の中において神様が臨在をして、確かにここが神様の御心の場所だって、そういうふうに確信した。
エステル記は、聖書の中でも非常にユニークな書物です。この書物の最大の特徴は、神様の名前が一度も登場しないということです。しかし、神様の名前が出てこないからといって、神様が働いておられないわけではありません。むしろエステル記は、見えない神様が確かに生きて働かれるということを、私たちに力強く示しているのです。
私たちの日常もエステル記に似ています。神様の声が聞こえるわけでもない。何か、すごい奇跡が起こるわけでもない。そんな日常の淡々とした日々の最中に、神様が確かに生きて働かれるということを、まさにこのエステル記は示しているのです。
エステル記を読み進めていくと、「たまたま」という言葉が何度も出てきます。たまたま、王妃がエステルになった。そしてたまたまユダヤ人の危機が起こった。ユダヤ人たちが断食して神様に祈った。たまたま王様が眠れなかった。たまたま王様が持ってこさせた書物が、このユダヤ人の危機を回復させる手がかりになった。たまたまエステルが王妃になっていて、そして王様に訴えることができた。
王妃エステルは命がけで断食した上で、王様の御前に進み出たところ、王様の快諾を得た。そうした「たまたま」の積み重ねの上に、確かに見えない神様の御手が働いておられたのだということを、このエステル記は訴えているのです。
この聖書66巻が皆さんの手元にあるのは、人間が選んだということではありません。神様が選んで、そしてこの聖書66巻がこうしてあるのです。そして2000年ずっと、この皆さんの手元にある聖書が聖典として皆さんの手元にあるわけです。今、神様は見えません。しかし、見えない神様は、確かに今この時、精密に緻密に働いておられる。エステル記そのものがそれを証明しているわけです。
このエステル記を起承転結的に四つに分類して見てみましょう。
まず「起」、これは1章から3章です。民族危機の種が蒔かれるところから始まります。華やかな宴会の場所から物語が始まります。王妃ワシティが王様の呼びかけに対してそれを無視するのです。そしてそれが原因になってワシティは王妃から退けられて、たまたまこのバビロン捕囚民のエステルが王妃として選ばれるのです。
その一方でハマンが力をつけてきます。悪役です。このハマンに対してユダヤ人モルデカイ、このエステルの叔父にあたるモルデカイがハマンに対して跪かない。ただそれだけの理由で、この民族全体を滅ぼしてしまおうという殺意に変わるのです。
次に「承」の部分、それは4章から5章のところです。この大きな危機の中においてモルデカイがエステルに直訴するのです。王様に直接訴えられるのはあなただけだ、と。けれどもエステルはそれを躊躇します。お呼びがかかっていない時に王様のところに行くことは、死刑になる確率が非常に高いからです。
しかしそこにおいて、聖書の中においても本当に屈指の名言が語られます。「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」。エステルは覚悟を決めます。「もし私が死ななければならないのでしたら死にます」と言って、3日の断食の後に御前に命がけで進み出ます。
そして「転」、6章から7章です。すべてがひっくり返すのです。まさに「転」、物語が本当にクライマックスを迎えるのは、王様がたまたま眠れなくなったところです。そのたまたま眠れなくなった夜、退屈しのぎに記録の書を持ってこさせて朗読させたところ、モルデカイの話が出てきました。モルデカイに対して功績があるのに、彼に対して十分な報いが与えられていなかったのです。
皆さんも長年報いが受けられていなかったかもしれません。それを天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来るでしょう。モルデカイに対しては、ある時、報いが与えられて、その報いがたまたまその夜だったからこそ、ユダヤ人滅亡の危機が回避されたわけです。すべての神様の歯車がカチッと合う時が来て、しかもこのユダヤ人、神の民に対して滅亡を企んだハマンが逆に首をかけられて、自分が立てた25mほどのポールにハマン自身がかけられて、墓穴に自分で落ちたのです。
そして「結」、8章以降です。この嘆きが喜びに変わります。このハマンが下した死の法令が、ペルシアの法令においては取り消せないところがありますが、しかしそこでモルデカイがその死の法令に勝る命の法令を発布するのです。身を守って良いという法令を新たに発布して、こうして滅亡の日は逆に勝利と解放の日に取って代わりました。嘆きの日が喜びの日に変わる。これがエステル記の見事な起承転結なのです。
この古い物語は、今、私たちに新しく命を吹き込んで、三つのことを力強く語りかけています。
まず第一に、神様は見えなくても確かに働いておられるのだということです。私たちの毎日もエステル記に似ております。神様の声を直接かけてくれるわけでもありません。奇跡が起こるわけでもない。仕事があり、家事があり、毎日食事作りがあり、毎日学校の仕込みがあり、淡々と地味な日々が続いていくように見えます。
しかし神様は確かに私たちの中に働いておられます。「たまたま」の連続の中において、私たちにとって必要な物事が起こされていきます。たまたまあのことが起きた。たまたまこの子が来た。たまたまこの授業でこれが必要になってきた。そうした連続の中に、神様は確かに働いておられるということ、これが第一です。
第二は、皆さんが今いるこの場所、それは確かに意味があるのだということです。モルデカイは、「あなたが今、王妃になっているのは、私たちが今ここにいるのは、まさにこの時のためかもしれない」と言いました。今、皆さんがつくばみらいにいるのは、まさにこの時のために神様が置いたのです。
エステルが王妃の座についたのは、このエステルの野心があったからではありません。「ぜひ私が王様のハートを射抜いてやろう」といったことは一切なしでした。まさにこのような時のためだったのです。皆さんが今いる場所、家庭、職場、学校、もろもろの場所、そこにいるのは偶然ではないのです。
一見つまらなく見える、なんで自分がこの役職なんだって戸惑うような場面であったとしても、神様は今まさにこのような時のためにここに置いておられるのだということです。それが二番目です。
三番目。それは皆さん、エステル記を通して皆さんが学ぶべきは、残してはならない悪があるということです。悪を憎め、神様は聖書において書いてあります。
このハマン、実はこのエステル記の時代よりもはるかずっと昔、サウル王の時代、サムエルが、滅ぼし尽くしなさいと言われているアマレク人のその子孫だと言われているのです。サウルが「ちょっとぐらいいいや」って、もったいないから滅ぼし尽くさなかった。ちょっと中途半端に従ったゆえに、この災いの根っこがもうずっと残って、何百年も後にこうしてハマンという悪の実が結んだわけです。
本当にサムエルが言ったこと、それは「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪だ」という言葉が重要になってきます。私たちは本当にこの自分の中の悪、皆さん自身の中のハマンの性質、皆さんを悪どい方向に持っていく、そういったもろもろはもう根っこごと引っこ抜いて、そして残してはならないのです。
このアマレクの性質、これを一言で言えば弱い者いじめです。アマレク、この出エジプトをしていたイスラエルの民、後ろから、弱い者を、落伍した者たちを略奪して、そういう性質です。これはサタンの性質そのものです。
私たちの心の中にも、放置しておけば、この民族を滅ぼしかねないような、そういう悪の根っこ、これ小さい根っことしても残しておいてはならないのです。芽は摘み取っておかなくてはなりません。
このエステル記、神様の名前は一度も出てこないのですけども、でも皆さんにも隠れた王がおられます。イエス様です。このエステル記、神様の名前が出てこないとしても、けれども、この全ページを通して、上から見たら、確かに神様が生きて働かれておられた。神の民を愛しておられた。ということを見ることができます。
私たちの人生も同じです。毎日毎日、1日1日見れば、神様果たしているのかな、神様の御手が見えない時期が続くかもしれません。けれども、人生を上から読み返して見返してみれば、確かに神様が生きて働かれたのだ。このすべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれたんだな、仕込んでおられたんだ、だから今、あの時、あの時期があったんだ、とわかる時が来ます。
神様は今まさに皆さんをこのような時のために、このつくばみらいに、横浜において、あるいはそれぞれの場所、場所においておられます。どうか皆さんはこの神様、見えないかもしれなくても、それでも神様のその御手がちゃんと働いておられるということをはっきりと見て、皆さんも今ここに置かれたエステルとして、あるいはモルデカイとして、このところにおいてしっかりと根ざして、それぞれの働き、誠実になしていきましょう。
どうか皆さんお一人お一人がこの時代のエステルとなり、モルデカイとなり、また本当にこの聖書におけるヒーローとして歩んでいく皆さんでありますように。
さらに、世界を民主主義で、イエス・キリストにある自由民主主義で再編することができますように、あなたがお守りください。トランプ大統領の心が驕り高ぶることがないように。イエス様、あなたがいつも導いてください。そして、へりくだって、主の御心を行使することができますように。
主よ、あなたが祝福してください。イランが何らかの形で、もう本当に今回落ち着いて、そして昔のペルシアに戻ってほしいと思います。なぜならペルシアはイスラエルを助けた実績がある国です。昔の本当に和気あいあいと愛し合った、助け合ったその時代の友情を戻すことができますように。
そしてイランが解放されて、今隠れクリスチャンがどんどん増えているイランが、公においてたくさんの教会が立ち、そしてイエス様を褒め称えることができますように。主よ、あなたが助けてください。
その未来、キリスト教会に、また宣教教会に、栄光の礼拝者、栄光の働き人、栄光の伝道者、栄光のリーダーを送ってください。そして、共に時代を担っていくことができる、イエス様に選ばれた働き人の集まり場所でありますように、主よ祝福してください。
子どもたちに惜しまずにキリストを届ける一人一人でありますように。そして、この時代において選ばれた栄光の次世代がどんどん運ばれてきて、そしてキリストを賛美することができますように。主よ、あなたが祝福してください。
今日一日を主にお祈りいたします。主を敬うべき人と出会わせ、そして良き御言葉に満ちた一日となりますように。私たちがイエス様に会って、良き出会いがありますように。そしてイエス様に会って土地との出会いがありますように。建物との出会いがありますように。主よ、祝福してください。
今、ICUに入っているパク執事のために祈ります。主よ、阿部先生の肺の水を抜いてくださった主よ。私の肺の水を抜いてくださった主よ。彼の肺の水も抜いてください。枯らしてください。呼吸を穏やかにし、イエス・キリストにあって立ち上がりますように。敵の前で宴を設けてくださる主にあって回復しますように。主よ祝福してください。
私の名によって祈るならば、父が聞いてくださる、私が実行すると約束してくださったイエス様のお名前で祈りました。
この時間、祈りの課題をもって主に祈っていきたいと思います。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。イエス様の名前を呼びます。
【結論】
エステル記は神の名前が一度も登場しない書物ですが、その全編を通して見えない神様の精密な御手が働いていることを示しています。私たちの日常も同じです。「たまたま」の連続のように見える出来事の中に、神様は確かに働いておられます。
私たちが今いる場所は偶然ではなく、「このような時のため」に神様が置かれた場所です。同時に、自分の中の悪(ハマンの性質)を根っこから取り除く必要があります。中途半端な従順は後に大きな災いを生みます。
見えない王イエス・キリストが、私たちの人生の全ページを通して確かに働いておられることを信じ、この時代のエステル、モルデカイとして、それぞれの場所で誠実に歩んでいきましょう。人生を振り返る時、すべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれていたことがわかる時が来ます。
