メッセージ - 王妃の衣装を身に帯びてただ王の前に立つ(エステル記5:1-2) 2026/06/09
王妃の衣装を身に帯びてただ王の前に立つ(エステル記5:1-2) 2026/06/09
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » エステル記
- 執筆 :
- pastor 2026-6-9 8:20
王妃の衣装を身に帯びてただ王の前に立つ(エステル記5:1-2) 2026/06/09
メッセージ音声
【概要】
王妃エステルが王妃の衣装を着て、命がけで王の御前に進み出た場面から、私たちがイエス・キリストの贖いの衣を着て神の御前に進み出ることの意味を学ぶメッセージ。
【聖書箇所】
エステル5:1-2、ゼカリヤ3章、第一ペテロ3章
【励ましの言葉】
私たちは本来、罪のゆえに神の御前に進み出ることができない者ですが、イエス・キリストの贖いの血という衣を着て、神の御前に進み出ることができるようになりました。
【勧めの言葉】
柔和で穏やかな霊という朽ちることのない飾りを身につけ、従順な心をもって主の御前に進み出ましょう。自分の好みや意志ではなく、霊的なプロフェッショナルである聖霊の勧めに従いましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、主の御前に臆面もなく、準備もせずに進み出てはいないでしょうか。真の王の御前に立つにふさわしい心の備えが必要です。
【***詳細***】
今日読んでいただく御言葉はエステル記の5章1節と2節です。
「3日目になり、エステルは王妃の衣装を着て、王宮の正面にある王宮の奥の中庭に立った。王は、王宮の入り口の正面にある王宮の王座に座っていた。」(エステル5:1)
今、私たちも真の王であられる主の御前に進み出ます。本来であるならば、御前に進み出るに値しない者、もしまかり間違って罪あるままで進み出るならば、打たれて死んでしまってもおかしくはないような、そのような者にもかかわらず、イエス様が贖いの衣を私たちに与えてくださったことを感謝します。
私たちは本当にこの主の御前に進み出るということについて、旧約聖書を見ますと、主の御前においそれと進み出てはならないということがわかるんですね。主のおられますところ、旧約においては至聖所でした。その至聖所に入っていけるのは年に一度、大祭司だけ、しかも贖いの血潮を携えて出なければ、打たれて死んでしまうという、それほどにまで聖なる、聖なる、聖なる神様が私たちの神なんです。
私たちは何かと馴れ馴れしいというか、図々しく進み出るようなところがありますけれども、本来であるならば、主はそういう聖なる方です。けれども、イエス・キリストという、この私たちの身代わりになって十字架で屠られてくださったお方がいるから、その方が贖ってくださったから、私たちはイエス様によって、この父なる神様の御前に進み出ることができるようになりました。
今日エステル記なんですけども、エステルもまた、本来であるならば、そのまま進み出るのであるならば死んでしまうような、そういう場所に進み出ました。けれども、エステルはしっかりとその前に身なりを整えていたんですね。王妃の衣装を着ていた、と書いてあるんですけども、彼女が着たのは王妃の衣装ばかりではなかったんですね。しっかりと3日間の断食、彼女自身が断食して祈り、またエステルが進み出るために多くの人々が、多くの神の民が3日間断食して、神様の御前に祈って、そしてこの王の御前に進み出て行くようになったんですね。
ここでエステルは、この5章1節で何をしたか。二つの動詞が出てくるんですけども、一つ目が衣装を着て、着る。そして2つ目は立つ、王宮の中庭に立ったというふうにあります。彼女がしたのはたったこれだけです。何も喋っておりません。ただ着いて、そして立っただけです。
この場面がね、最も雄弁な佇まいなんですね。雄弁というと、何か言葉を発するということを思われがちなんですけど、しかし言葉を発しない、ただ佇まいだけの雄弁さというものがあります。何も言葉を発していないけれども、そこにただいるだけで、その佇まいをもって、そこに進み出て立つだけで、雄弁に物語るものがあるんですね。
彼女は命がけでそこに立っております。王妃の衣装を着て、死の覚悟をもってそこに立っている。その有様そのものが、王様にもうすでに語りかけていたんですね。これはただごとではない。私たちも、イエス様の御前に雄弁な佇まいで進み出て立つべきです。
王妃の衣装、王の御前に立つ衣装、王の御前に立つ装いとは一体何か。この聖書ではですね、この王の御前に、あるいは自分を贖ってくださるお方の御前に晴れ着を着て、あるいは衣装をまとって進み出るという場面がいくつかありますね。ルツはこのボアズのところに行く前に、晴れ着をまとって、油を塗って、そしてこのボアズの、自分の買い戻しの権利あるお方の御前に進み出ましたし、また今日冒頭で宣言したところ、ゼカリヤ3章においては大祭司ヨシュアですね。
大祭司ヨシュアが神の御前に立っておりましたけれども、しかし最初ヨシュアが立った時、この大祭司ヨシュアの服は汚れておりました。汚物がついておりました。そのままで主の御前に立っていたから、彼を訴えるサタンがそこにもいたんですね。サタンは今にもこの大祭司ヨシュアを訴えようとしています。訴えネタが満載のヨシュアです。汚れた服を着て、そして神の御前に進み出ております。
けれども、その時、主はですね、こういうふうに言うんですね。「彼から汚れた服を脱がせなさい」って。そしてヨシュアに言うんです。「見よ、私はあなたの咎を除いた。あなたに礼服を着せよう。」アーメン。
ヨシュアは何も言ってません。許してくださいとか、そういったことは何も言っておりません。ただ、この王なる神様の御前に立ちました。サタンは訴えどころ満載ですけれども、しかし、このなんと主はですね、汚れた服を脱がせなさいというふうに言うんですね。主の御心、主の御旨、それは私たちが訴えられることではありません。
私たちはもともと神の似姿として、神の子として作られております。それが罪を犯して汚れた有様を帯びること、これは主の御旨ではありません。じゃあ一体誰がこの人間をそういう有様にしたかというと、サタンです。悪魔サタンこそ訴えられるべき。だから主はですね、このサタンに対してむしろ訴える。このヨシュアに対しては、「彼は、燃えさしではないか」というふうに主は言われるんですね。不思議な表現です。燃えさしって、もう燃え尽くした後なんですね。主は私たちを本当にこのまず罪を清めてほしいんです。
私たちがこのイエス・キリストの贖いの血をしっかりと身に帯びて、贖いの衣、それはイエス・キリストの血です。これを着て、御前に進み出るのであるならば、一切訴えられることがないんです。そして、頭に清いターバンを被らせなさいというふうに言ってくださいます。私たちは、このイエス・キリストの贖いなしで御前に進み出るとするならば、本当にこの汚れた有様で主から打たれてしまってもおかしくはないものです。
このエステル、エステルはこの王妃の衣装を着て進み出ました。これはエステルの好みの衣装じゃないですね。エステルが買ってきたものではありません。与えられた装いです。エステルが最初に王様の御前に出た時は、この宦官、ヘガイのアドバイスしたもの以外は身につけなかったというふうにありましたね。このエステル自身の好みは一つもなかった。この王様の好み、ただ王様が着飾らせたいという、そういう飾りだけを、それを身につけて進み出ること。これが王の好意を得られるその秘訣です。
この時、王妃エステル、王様から送っていただいた衣装でしょうかね。あるいは宦官、ヘガイって、王様の好みを熟知しているヘガイの勧めた衣装だったか。それはわからないんですけど、とにかく王様の好みの装いを身につけて、そして命がけで王に訴えるために、この自分の民、ユダヤ人の救いを訴え出るために、その場所に進み出ていったんです。
こうして断食で身を清め、礼装を整えて、そして王妃の衣装を着て、王の好みの衣装を着て、そして命がかかっているその場所に進み出てきたエステル。何も言わないその佇まいよ。それを見て王様はどうだったでしょうかね。
2節を見ますと、「王が中庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を得た。王は手にしている金の笏をエステルに差し伸ばした。エステルは近寄って、その笏の先に触れた。」(エステル5:2)アーメン。
王妃エステルは王の好意を得たと書いてあります。この好意を得る、これですね、実はエステル記の中で何度も出てくるキーワードなんですね。エステルにつきまとうキーワード、これは好意を得るというキーワードですね。2章9節の方で、後宮の監督官ヘガイの目にかなった、これ、好意を得ると同じ言葉です。2章15節でもね、彼女を見るすべての者から好意を受けた。ですからエステルね、誰かに妬まれたり憎まれたりするキャラクターでなくて、みんなから好意を得るキャラクターなんですね。
2章17節でも王の好意と寵愛を受けたっていうふうに書いてあります。そして今日のこの5章2節でも王の好意を得たって書いてあります。なんでこれほどまでにエステルは人から、王から好意を得るのか。好意を得る条件は何だったでしょうかね。
先週学びましたけれども、好意を得る、先週ちょうど2章を見たんですが、まず2章15節のところを見ますと、このエステルは王の宦官、ヘガイの勧めたもののほか、何一つ求めなかった。こうしてエステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。アーメン。
エステルはね、本当にこのプロフェッショナル、この王に対してのプロフェッショナルであるヘガイの勧めたもののほかは何一つ求めなかった。それでこうしてエステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。ですからエステル自身の好みは一切出さず、ただプロフェッショナルのその勧めたもの、私たちは本当に霊的なプロフェッショナルの勧めたものだけを身につけて、主の御前に進み出るべきですね。
さらにもう一つ、エステルはモルデカイが命じた通りに行っていた。モルデカイによく養育されていた時と同じように、彼の命令に従っていた。ですから、従順する心、服従する心、これがエステルのキャラクターです。ですから、エステルの美しさは外見の美しさだけではなかった。外見だけの美しさはワシュティですね。けれども、エステルは外見の美しさプラス、その内面の美しさを身に備えていたんです。
何が真の美しさか。第一ペテロ3章に書いてあります。「あなた方の飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ神の御前に価値あるものです。」(第一ペテロ3章)
女性献金の献金袋に書いてあるんですね。ですから私たちの飾り、真の飾り、確かに髪を飾ったり、金の飾りをつけたり、外面的な飾り、これは女性の嗜みであるんですけれども、しかし真の飾りというもの、それは柔和で穏やかな霊ですね。これが朽ちることのない飾りです。
その反対の性質がワシュティですね。箴言7章に騒がしい女が出てきますね。この女はね、騒がしくて御しにくく、騒がしくてかたくなで、臆面もなくて、そういう性質ですね。ルールに従わない、また敵対的な、厚かましい、これがこの女の性質、またワシュティの性質。図々しい、厚顔無恥、面の皮が厚いっていうんですかね。また、臆面もない、臆する面がないという感じですね。
エステルは内心臆する面があったかもしれません。でも王の御前に進み出ました。王のこの法令に背いていった理由にはちゃんとした理由がありました。ワシュティは、王様の呼び出しに臆面もなく断りましたね。それは彼女が王よりも、何か自分も王のように高い位置になろう、そういった傲慢さがありました。そのゆえに彼女は降ろされてしまいました。
本当にこのエステルの美しさ、それは外面的なものだけでなく、柔和で穏やかな霊、またよく聞き従う心、そしてプロフェッショナルの助言に100%従う。自分のやりたいは1%も出さない。そういうこの内面の美しさ、プラス外面の美しさ、それがあったから、だから王の好意を得て、またみんなからも好意を受けて、そしてこの栄えある地位に彼女は就かせられたんですね。上り詰めたんじゃない。他人から、王様から、神様からその地位が与えられたんです。
この地位が与えられる性質、本当にこの私たちもこの柔和で穏やかな霊、これをもって本当にイエス・キリストの御前において素直な従順な柔和の心、それを持していくのであるならば、主が私たちに汚れた重い心、そうしたものを脱がせて礼服を着せよう、晴れ着を着せようというふうに言ってくださるんですね。
この王様から支給されたこの晴れ着、服、これを着ないまま王の宴会に出るのであるならば、外の暗闇に放り出されてしまう、この王の宴会の例えでありましたね。王の宴会、そこにおいて晴れ着を着ないで来た者が一人おりました。晴れ着を持っていなかったんじゃない。王から支給されていたんですけれども、それを着ないで、この王の宴会に出たところ、追い出されてしまいました。
私たち、この礼拝という場面、本当にセレブレーションです、宴会です。そこにおいて、本当に私たちがイエス様からの贖いの衣を着ないまま、ズカズカと臆面もなく進み出たりしていないでしょうか。それは外の暗闇に追い出されてしまう性質です。
このエステルに向かって、王は金の笏を伸べて王の好意を受けました。どうか皆さんも、このイエス・キリストという真の王を前にして、本当に柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ心の中の隠れた人柄を飾りにして進み出て、そして本当にこのつくばみらいの地、この日本の地の救いのために訴え、エステルのごとく訴えて、そして、この日本に救いをもたらしていく。そのように用いられる皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステルは王妃の衣装を着て、3日間の断食をもって身を清め、何も語らずただ王の御前に立つことで、王の好意を得ました。私たちも同じように、イエス・キリストの贖いの血という衣を着て、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない飾りを身につけ、主の御前に進み出るべきです。自分の好みや意志ではなく、霊的プロフェッショナルである聖霊の勧めに100%従う従順な心を持って、この日本の地の救いのために主の御前に立ち、用いられる者となりましょう。
