メッセージ - 慈しみ深き友なるイエスと、慈しみを渇望するヨブを正論で切り刻むヨブの友人(ヨブ記6章)
慈しみ深き友なるイエスと、慈しみを渇望するヨブを正論で切り刻むヨブの友人(ヨブ記6章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2026-9-1 8:30
慈しみ深き友なるイエスと、慈しみを渇望するヨブを正論で切り刻むヨブの友人(ヨブ記6章)
メッセージ音声
概要
苦しみの中にあるヨブが友人エリファズの正論に対して答える場面を通して、真の慰めとは論理や正論ではなく「ヘセド(慈しみ・恵み)」であることを学ぶメッセージ。2026年9月1日の礼拝で語られた。
聖書箇所
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ヨブ6:1-30
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ヘブル13:1-3
慰めの言葉
イエス様はヨブの友人たちのように正論で切り刻む方ではなく、私たちの弱さをすべてつぶさに知り、慈しみをもって受け止めてくださる真の友である。
戒めの言葉
苦しんでいる人の言葉尻だけを捉えて論理的に裁くことをしてはならない。状況を勝手に推測して決めつけた言葉をかけてはならない。
勧めの言葉
落胆している者には友からのヘセド(慈しみ)が必要である。私たちは御霊に満たされ、渇きではなく潤いをもたらす者とならなければならない。
【***詳細***】
今日、恵みをいただくみことばはヨブ記6章です。最初に1節と2節を宣言します。
「ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が共に秤にかけられたら良いのに。」
慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむと呼ばれています。しかしヨブの友人たちは残念ながら、ヨブの弱さを知って憐れむのではなく、むしろヨブの言葉をそのまま額面通りに受け止めて、それに対して論理で返してしまいました。このイエス様の慈しみとはまた程遠い有様が、ヨブ記を読み進めていけばいくほど明らかにされていきます。
6章において、ヨブが答えます。前の5章ではテマン人エリファズがヨブに対して、ヨブ記3章でヨブが苦しみの中から出した言葉に対して、いわば正論で返しました。それに対するヨブの答えがこの6章です。
ヨブはかつて3章で吐き出した言葉、その言葉の内容だけで測らないで、むしろその言葉が出てきた原因である、その背後にある苦悶の重さを測ってほしい、また、夜にもたらされた破滅の絶望さ加減をこの秤にかけてほしいと願っているのです。友人たちに対して、「あなた方は私の言葉だけでなく、私のこの状況の重さ、この背景も共に測った上で話してほしい」と願っているのです。
3節を見ますと、「海の砂よりも重いだろう。だから私の言葉は激しかったのだ。まことに全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。」ヨブはこの3節において、自分の言葉が激しかった理由を説明しています。ヨブ自身も自分の言葉が激しかったことを認めているのです。
私たちは、本当に苦しみの中にある人の言葉をそのまま額面通りに受け止めて、それに対して額面通りに返すべきではありません。むしろその背景にある苦しみの重さも思いやらなくてはなりません。特に子どもの教育に携わっている私たちは本当にそうです。
残念なことに、このヨブの感覚的な言葉は、より一層、友人たちにとって格好の攻撃材料にされてしまいます。ヨブは自分の言葉が激しかったことを認めつつ、その理由を分かってほしいと切実に訴えていますが、5節以降でその切実さの理由を説明しています。
「野ろばが若草の上で鳴くだろうか。雄牛が飼い葉の上で唸るだろうか。」これは、動物は満ち足りている時に理由もなく鳴いたり唸ったりするだろうか、という意味です。ヨブが呻いているのも、激しい言葉を発しているのも理由なしではないということを訴えているのです。
6節を見ますと、「味のないものは、塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。私の喉はそれを受け付けない。それらは私には腐った食物のようだ。」ヨブに対してテマン人エリファズが言った言葉を、塩気のない食べ物に例えています。エリファズは立派な格言を用意し、神秘体験も披露しましたが、それはヨブにとっては味気もない、塩なしで食べる卵の白身のようで、到底受け入れられない、腐った食物のようだと揶揄しているのです。
8節から見ますと、ヨブは再び死を願っています。「私の願いが叶えられ、私が望むものを神がなさると良いのに。神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を断たれるのであれば、それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも私は小躍りして喜ぶ。」ヨブは主が命を取ってくださるなら、それを小躍りして喜ぶほどの喜びだと言っています。
ヨブは確かに3章で自分の生まれた日を呪いました。けれども6章でヨブが進展していることがあります。それはヨブが神様との関わりをこの言葉の中に絡めたことです。彼は主ご自身によって打たれることが自分にとって慰めだと言っています。まだ投げやりではありますが、この呟きの中に神様との関わりがあるところに、ヨブの志の進展があります。
さらに10節後半を見ますと、「私は聖なる方の言葉を拒んだことはない」と言っています。これは、ヨブ自身が罪あるものであることを否定したわけではありません。彼はもちろん全能者の前に自分は罪人だということを告白しています。ただ彼は、今この時点で聖なるお方の言葉を拒んだ記憶が一切ヨブの中にはなく、神様の前で忠実に仕えてきた記憶しかなかったのです。それは本当です。実際、主もそれを認めています。主がサタンの前で、ヨブはこんなになってまでも唇で罪を犯さなかったと認めているのです。だからヨブの言うことは一理あるのですが、残念ながらこれもまた友人たちの耳には攻撃材料の一つが増えたとしか聞こえないのです。
さらに11節から見ますと、「私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは、どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。私のうちには何の助けもないではないか。優れた知性は私から取り払われている。」ヨブは何の助けもないと叫んでいますが、ヨブの友人たちからすればこの言葉は心外だったかもしれません。友人たちはヨブを助けるために遠くから訪ねてきましたし、7日7夜ずっとヨブと一緒に言葉も発さずに寄り添ってあげました。けれどもテマン人エリファズから出た言葉がヨブを苦しめたので、ヨブがこのことを言ったのです。ヨブが求めていたものは正論ではなかったのです。エリファズが発した正論や格言は慰めをもたらすのではなく、むしろ切り刻みをもたらしました。
ヨブが切実に求めていたもの、それが14節に書いてあります。「落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。」ヨブが求めていたもの、それは友からの友情という言葉ですが、これはヘブライ語で「ヘセド」です。慈しみと訳されたり恵みと訳されたりする言葉です。落胆している者には、友からの恵み、あるいは慈しみが必要だ。それがなければ、全能者への恐れを捨てるだろうと言っています。
慈しみがないなら、弱い人は絶望して恐れ敬う心を捨て去ってしまうものです。もしも子どもの親、あるいは子どもの先生が慈しみがない親や先生だとしたら、子どもは絶望して「こんなことやってられるか」になってしまいます。まだ小さくて力がなく反抗できないうちはおとなしくしているようでも、力や言葉、知恵を身につけていくうちに、その権威に対する反逆に取って代わってしまうわけです。
幸い私たちの主は、ヘセドに満ちたお方です。「慈しみ深き友なるイエスは罪とが憂いを取り去りたもう。心の嘆きを包まず述べて、などかはおろさぬ負える重荷を。」ヨブは友人の前で心の嘆きを包まず述べた結果、テマン人エリファズの言葉が返ってきてしまいました。けれどもイエス様はそれをすべてつぶさに知りたまう方です。イエス様は慈しみ深い友なるお方です。ヨブはこの友からのヘセドを求めましたが、友にはありませんでした。しかし真の友なるイエス様はヘセド、慈しみに富んだお方です。
さらに15節以降を見ますと、「兄弟たちは水なし川のように私を裏切った。流れが去る川床のように。」この水なし川は砂漠地帯によくあるもので、雨季には川があるのですが、乾季になるとそこに行ってみても川がないのです。ヨブはこの友人たちが水なし川のようだと言いました。友人たちから恵み、ヘセドをいただけるかと思いきや、期待は見事裏切られたと言っています。
18節以降でヨブはこの様子を、砂漠地帯を旅する人になぞらえています。「隊商はその道筋から逸れ、荒れ地に登って滅びる。シェバの隊商はこれを目印とし、シェバの旅人はこれに望みをかける。彼らはこれに頼ったために恥を見、そこまでやってきて辱めを受ける。今やあなたがたはそのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見て怯えている。」隊商や旅人が荒野を旅する中で、以前記憶していた川を目指して力を振り絞って到着したら、そこに水がなかった。それを発見した人は失望して落胆して荒野で滅びるのと同じように、ヨブは訪ねてきてくれた目の前の友人たちに、荒れ地の中にオアシスのような潤いを求めていたのに、それがなかったので、とても失望したのです。
私たちは教会の中において何をもたらすべきでしょうか。ヘブル13:1-3「兄弟愛をいつも持っていなさい。また、旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは知らずに御使いたちをもてなしました。牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。」ヨブは本当に肉体の苦しみを持ち、あらゆるものを失いました。だから私たちも同じ弱さを持つ肉体を持つ者として、そういう人たちを慈しみ、憐れむべきなのです。病という牢獄にいる人、痛み・悲しみ・絶望の牢獄にいる人を私たちも思いやるべきだと、ヘブル書の記者は勧めています。
ヨブはそれが得られなかったゆえに、さらに強硬に自分の正当性を22節以降で主張しています。「私が言ったことがあるか。私に贈り物をせよと。あなたがたの財産の中から私のために賄賂をくれと。あるいは敵の手から私を救い出せ、横暴な者たちの手から私を贖い出せと。私に教えよ。そうすれば私は黙ろう。私がどのように迷い出たのか、私に悟らせよ。」ヨブはやや喧嘩腰になっています。友人たちはヨブの状況をよく知らないまま来て、ヨブの罪について指摘し、悔い改めるようにいろんな格言を用いて勧めました。けれどもヨブとしては、自分がどの罪を犯したのでこんな災いに遭っているのか全くもって心当たりがなく、むしろ神様に誠実に仕えてきた記憶しかなかったのです。悔い改めというものは、本当に自覚があってこそできるものです。けれどもヨブとしては一切その自覚がありませんでした。だからどんな格言を用いたとしても、ただただ逆効果だったのです。
ヨブは25節で言っています。「まっすぐな言葉はなんと痛いことか。あなたがたは自分で何を責め立てているのか。」ヘセドがないまっすぐな言葉は、ただただ痛いだけです。そしてそれを受けた痛みを受けた人は、さらに強硬になって、余計に頑なになって、もっと喧嘩腰になってしまうものです。私たちはこのヘセドを忘れてはならないのです。
ヨブはさらに切実に訴えます。28節以降「今、ぜひ私の方に顔を向けてくれ。あなたがたの顔に向かって私は決してまやかしを言わない。思い直してくれ。不正があってはならない。思い直してくれ。私の正しさが問われているのだ。私の舌に不正があるだろうか。私の口は破滅を見極められないだろうか。」ヨブは切実に訴えていますが、残念ながらこの言葉を受けた友人たちは、もっと理論的にヨブの言葉尻を捉えて、もっとヨブを切り刻んでいくのです。
今日学んだこと、私たちは相手の、特に傷を受けている相手、痛みの中にある相手の言葉尻だけで判断してはなりません。その背後にある心の奥底にある重さ、痛さも一緒になって測ってやるべきです。そしてとりなし、祈るべきです。大切なキーワードはヘブライ語のヘセド、慈しみ、恵みです。この恵み、慈しみを私たちは決して忘れてはなりません。このヘセドに満ちた言葉は、聖霊に満たされなくては発することができません。ただ御霊に導かれた人だけが、ヨブのような人を真に慰め、癒すことができます。
祈り:あなたのごとく慈しみ深いものになることができますように。恵みと慈しみを持って、悩んでいる人と接し、彼らに渇きではなく潤いをもたらす者でありますように。
続いて司会者からの祈り:鼻で息をしている人の中には救いがないということがあり得るとわかりました。私たちの親しい者が苦しみあう時、その人が何で苦しんでいるのだろうと原因を探り、そのことを話してはなりません。ただ、今、痛んでいる様を見て、「神様、憐れんでください。私の友人、私の親しい友を憐れんでください」と、この一言で、私たちはあなたの愛を頼り、赦しと恵みを求めるべきです。
おびただしい言葉を友人から聞かされました。そのおびただしい「じゃないか、ああじゃないか」という言葉からヨブが受け取ったのは悔い改めでもなく、心の刺さりや悲しみでもなく、勝手に並べられた正しいと思われることに、ただ腹を立てるしかありませんでした。私たちがその人の状況を推測して「こうじゃないか、ああじゃないか」という言葉には、神様の保証もなければ、その人が受けるべき恵みや慰めも一切ないということを知るべきです。
物事が起きることの一切を知っておられる方は、イエス様だけです。罪を犯した本人でさえも、自分が何をしたのかわからない。それが正解だからです。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのかわかりません」と、この一言で私たちをとりなし祈ってくださいました。イエス様がこのように定義をつけた、何をしているのかわからない私たちが、それをわきまえているなら、「こうだからそうじゃないか、ああだからそうじゃないか」ということは言えないはずです。
今日のこの箇所を通して教えられることは、状況を自分なりに判断して、勝手に並べた言葉を言ってはならないということです。私たちが把握した状況の中に真実はありません。自分が目で見て、聞いた話で状況を判断して、ああじゃないか、こうじゃないかと決めつけていたそのすべての時を、イエス様、赦してください。もう二度とその時に戻ることなく御前にいますように。その人がなんでそういうことになったのかを探るより、そのようになってしまったことを、神の前で憐れみ、とりなし祈り、憐れみを求める。これが私たちが為さなければならないことです。
結論
ヨブとその友人たちのやり取りを通して、私たちは苦しんでいる人の言葉尻だけを捉えて論理的に裁くのではなく、その背後にある痛みの重さを共に測り、ヘセド(慈しみ・恵み)をもって接するべきことを学びました。真の友なるイエス様は私たちのすべてをつぶさに知り、慈しみ深く受け止めてくださいます。私たちも御霊に満たされ、渇きではなく潤いをもたらす者として、悩む人々に寄り添う者とならせていただきましょう。
