メッセージ - いのちへと至る道(ローマ7:1-6)
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韓国語通訳有
人は、禁じられたら逆にそれをやりたくなってしまう、という習性がある。
ある子供は「コンセントにハサミを入れたらダメ」と言われ、その言葉にきっかけを得、コンセントにハサミを入れたいという欲望が生じ、結果、実際に入れてしまった。
「罪は誡めによってきっかけを得て、私のうちにすべての欲望を生じさせたのである。なぜならば、律法がなければ罪は死んでいるからである。」(8節)
私達には、ダメと言われたら逆にやりたくなる衝動に駆られる性質が、エバの時からあるのだ。
律法は私達を拘束し、キリストが解放させて下さったものであるなら、律法は罪であると言うのだろうか?(6,7節)
そうではなく、聖いものであり、善いものである。(12節)
律法は神によって与えられ、それを守ればあなたがたは生きる、と言われた。
それなのに、「生命へと至る〔はずの〕誡めそのものが、死へと至る誠めであることを、私は見いだしたのである。」(10節)
律法は全て守りきれるものではないため、私たちには死以外には無い事しか見出せないのである。
律法そのものはいのちを与えない。それなら律法とは一体何か?
律法とは、約束が与えられる子孫が来るまで、私達に違反がある事を示すために付け加えられたものであり(ガラテヤ3:19)、いのちを与える事の出来るものではない。(同21節)
律法とは、キリストへと導くための養育係であり(同24節)、キリストへと導くからこそ、律法は命へと至る道なのである。
イエス様もユダヤ人に言っている。
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)
つまり、いのちへと至る道は、?律法によって人に罪がある事が示され、?自分には救いが必要であると渇望が生じ、?キリストの救いへと導かれる、というステップがある事を見出す。
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → だから救いが必要だ、これが正しいステップのはずだが、
人は嘘をつかざるをえない → 嘘をついてはならないと書いてある → しかしそれは不可能だから、嘘も方便、善い嘘もある、
といった、人間の勝手な解釈や教えを混ぜ込む事によって、救いからはあさっての方向へと逸れてしまう。
「この御言葉はこう言っているけれど、実はこれこれの解釈があるのだ」などと言って人間的な解釈を加える者は、的を外した歩みによって、どんどん救いから遠のいてしまうのだ。
御言葉はそのままが一番、混ぜ物せずにそのままいただき、日々イエス様に救いをいただく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!