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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

夫婦関係、親子関係、ビジネス関係成功の秘訣は、仲睦まじさ(箴言15:16-17)

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主が定められた祝福祈祷(民数記6:24-26)

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今回の箇所は、大祭司が神の民イスラエルを、このように祝福しなさい、という、祝福祈祷文です。
 
キリスト教の礼拝では、両手を上げて祝祷しますが、イスラエルの祭司の祝祷の姿勢は、それとは違います。
 
まずヘブライ語の「ש」(シン)の文字を作り出し、そのようにした状態で、両手の親指・人差し指同士を合わせて、輪をつくり、ヘブライ語の「ס」(サメク)の文字を作り出して、それを空に向けます。
それでこの祝福祈祷文は、「サメク本文」とも呼ばれています。
 
ヘブライ語のシンは「聖である」という意味があり、同時に、「滅ぼす」という意味もあります。
つまり、神様が彼らを聖別し、彼らを蝕もうとするサタンの勢力を打ち滅ぼして下さるように、と、表現します。
 
そして両手を天に向けて「サメク」の語を作って宣布する事によって、神様が彼らを囲い、守って下さるように、と、象徴的に表しています。
 
民数記6:24 「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。
 
まずサメク本文は、「祝福する(バーラフבָּרַךְ)」という動詞の、PIEL態(能動・強意、断じて**する)で始まります。
主が、断じて、あなたを祝福して下さいますように!
という、強意が込められているのです。
 
「祝福(バーラフ)」の元来の意味は、「ひざをかがめる」、そこから「ひざまずく、あがめる、祝福する、賛美する、誉め称える」の意味となりました。
 
あたかも、親が、膝をついて子供の目線に合わせ、
よく食べなさい、健康になりなさい、と、愛の眼差しで目を向けてくれるかのように、
主がお一人一人を特別扱いし、特別保護対象にして下さいますように、という、素晴らしい願いが込められているかのようです。
 
私達も自分自身の守りのために祈る事は重要ですが、何より、私達自身が、テフィリン(御言葉暗唱)をする事によって、神様の言葉というバリケードを、私達自身に張り巡らす事が、何にも増して、有効です。
なぜなら、せっかく祝福を祈ってもらっても、本人自身が、祝福の囲いから出るような性質、つまり、罪や呪いの言動をする思考パターンがあるとするなら、たとえ祝福を受けても、たちまち祝福がその人から逃げてしまうからです。
祝福は、受けるにふさわしい人にとどまり、受けるにふさわしくない人から逃げていくものです。
 
テフィリンをして、昼も夜も御言葉を口ずさみ、思いと心に御言葉のバリケードを張った状態にしている人は、呪いをみずから招いてしまうような罪の性質が、どんどん消え去って行きます。
キリストとベリヤルは共存できないからです。
 
そして、ここにおける「祝福」の内訳は、「シャーマル」(שָׁמַר)、すなわち、「守られますように」です。
 
シャマールとは、羊飼いが羊を石垣で囲って、その垣の上にさらに棘つきの植物を乗せてバリケードを張る、というのが元々の意味で、そこから、厳重に守る、という意味になりました。
ですからこの宣言は、主が、あのサメクの字のように、囲いを設け、厳重にバリケードを張って、諸々の災いや、あらゆる悪しき勢力から、守って下さいますように、という宣言です。
 
 
民数記6:25 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。
 
「恵まれるように」のヘブライ語「ハーナンחָנַן」は、元々、目下の存在に、親切にする、身をかがめる、好意を持つ、与える、などの意味があり、そこから「恵む」「憐れむ」「情けをかける」と、よく訳されます。
 
知っていたでしょうか?
私たちは、実は、神様の一方的な「ハーナン(恵み)」によって、生かされている事を。
私たちが生命を維持していく上で必要なもの、例えば空気や水、太陽、食べ物など、これらは全部、神様が一方的に与えて下さった恵みです。
 
そして、私達の「健康」も、神様から与えられている贈り物であるという事を、忘れてはなりません。
もし心臓が突然、正常に活動しなくなったなら、数分も、生きながらえる事はできません。
そうした事を意識せずに生きている人が、残念ながら大部分です。
 
その 私達の生存において、全ての必要が満たされるように、と、サメク本文の二番目の祝福として、「恵まれますように」が示されています。
 
その恩恵を、主が「御顔を照らす」事によって、私達に施してくださいます。
 
詩篇80篇では、『神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば、私たちは救われます。』という祈りが、3回も繰り返されております。(3,7,19節)
つまり、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、神様との破壊された関係は、修復されます、もとの祝福された状態に戻ることができます、主が、ご自身の御顔をわたしに照らして下さるならば、破壊された生活が、建て直され、もとの、祝福の生活に戻ることができます、という祈りです。
主が、御顔を照らして下さるなら、そのような回復が可能である、と確信して祈るのが、詩篇80篇です。
 
ですから、主の御顔の光が向けられ、神様との関係や、生活が、回復されるために、まことの光であり、御言葉であられるイエス・キリストに帰るべきなのです。
 
 
民数記6:26 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように
 
サメク本文・三番目の祝福は、主なる神様が、その御顔を私たちに「向けて(ナーサーנָשָׂא)」、平安(シャロームשָׁלוֹם)を与えられますように、という祝福です。
 
ここで、「向けて」と訳されたヘブライ語・ナーサーは、上げる、運ぶ、持っていく、などの意味があります。
いと高き神が、地に住む、低く卑しい人に向かって、御顔を「上げる」「運ぶ」とは、一体どういう事でしょうか。
それはちょうど、泣いている赤ちゃんを、母親が手で高く上げ、顔の近くへ運んで行き、顔と顔とを合わせ、じっと見つめ、赤ちゃんを安心させるような、様です。
 
平安と訳された「シャローム」というヘブライ語は、よく「平安」「安息」と訳されます。
 
基本的に、人は、安楽である事を求めますが、シャロームの平安は、その「楽」である事よりも、遥かに大きな意味を持っています。
この世の人々は、楽な状態を追求するために、お金を稼ぎ、楽な仕事を好み、楽な状態を目標として、生きます。
 
時には汚い手を使ってでも、「楽」を手に入れようともします。
しかし、そのようにして「楽」を追求する人々は、実は、神様の「シャローム」の平安を見い出す事は難しいのです。
 
サタンは、この世の富や地位、栄誉が由来の「安楽さ」をエサにして、人々を釣りますが、その目的は、人を揺さぶり、破壊し、死に至らしめる事です。
人は、サタンから、どんなに高い地位や栄誉、また富を得たとしても、真の安らぎは、得られません。
どれほどお金や地位を得たとしても、それを得るために犯してきた罪の数々が、彼らを追いかけ、ついには滅びへと導く、という事を、彼らは何となく知っているからです。
 
神様が下さるシャロームの平安は、そうした恐れが一切無い、世の何物にもまさる平安です。
それは、「楽」な状態であるか・ないかを超越した、揺るがない平安なのです。
主が与えて下さるシャロームは、たとえ、肉体的に、あるいは、金銭的に、どんなに苦しい状況であったとしても、心が100%「大丈夫だ」と、安息しているのです。
  
赤ちゃんは、お金や地位、名誉が無い、という理由では、泣きません。
ただ、お母さんやお父さんの顔が見れないと、泣きます。
そして、顔近くへと抱き上げられて、じっと見つめられると、安心して喜びます。
 
赤ちゃんには、そもそも、お金や地位といった、余計な知識は、ありません。
ただ自分を愛し、大切にし、守ってくれて、そして、全ての必要を備えてくれる、お父さんとお母さんこそ、かけがえの無い存在だと、生まれながら知っているからです。
 
また、お父さんやお母さんが、どんなに今の生活や将来や、お金の心配をしたからといって、子供は心配しません。
なぜなら子供は、お父さんやお母さんなら、なんとかしてくれる、と、信じて疑わないからです。
 
だから私達もまた、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な御言葉の乳を慕い求めるべきです。
 
『今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。』(1ペテロ2:2)
 
赤ちゃんのように主の御顔を慕い求め、そしてサタンに対しては、御言葉で完全武装した兵士となるのです。
今日も、神様が御顔を向け、シャロームを与えて下さるために、純粋な御言葉の乳を慕い求め、キリストのことばを心に豊かに住まわせる事に、最善を尽くしましょう。

主日礼拝

この宇宙で最も敵に回してはならない者たち(ヨシュア記10:1-11)

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週報/メッセージ(説教)概要

 再び、ヨシュア記から養いを得たい。前回のヨシュア記9章では、主が「滅ぼしつくしなさい」と命じられた悪辣な民族の一つ、ギブオン人が主に立ち返り、主に助けられたいがために、自分達の出所を偽って、神の民に同盟を求めに来て、救いを得た。主は、罪を悔い改めて救いを求めて来る人は、決して拒まない。
それも、もし神の民より、彼らの方の信仰が優れているなら、主は、彼らの方を弁護し、特別扱いして下さる。
 今回の10章では、主はどれほど熱心に、そのような人を擁護して下さるか、また、そのような、主により頼む人を救おうとする人には、どれほど物事をうまく進ませ、成功させ、祝福して下さるかを、見て行きたい。
 
 ギブオン人がヨシュア達と同盟を結んだ、という事を聞いた周辺の王たちは、連合してギブオンに攻撃を仕掛けた(5節)。罪深い者達と縁を切って、イエシュア(ヨシュア=イエス様)と和平を結び、救いに入ったとたん、以前仲間だった悪辣な者達が歯ぎしりして、罪の生活へ戻そうと、攻撃を仕掛けてくる。それは、救われた人達が経験する宿命と言ってもいい(1ペテロ4:3-5)。そのような時は真のヨシュアであるイエス様に助けを求めるのだ。彼らが助けを求めると、ヨシュア達はすぐ、攻撃を受けているギブオンへ急行した。主は彼らの、主の助けの中で生きたい、という気持ちを汲み取り、彼らを特別扱いされたのだ。
 
 ヨシュア達がいるギルガルから、ギブオンまでは、およそ35km。傾斜地を登って行く形となる。それを夜通し行くのは、骨が折れる行軍である。イスラエルにしてみれば、元々、ギブオンと和を講じるつもりは無く、騙された形で講じてしまったので、心情的には、救いたくなかったかもしれない。だから、このまま放置して、彼ら同士で戦わせて、互いに消耗させる、という手もあったかもしれない。しかし主は、そんな不誠実な計略で勝利させるお方ではない。主は、主に頼りを置く民のために、圧倒的な勝利で救って下さるお方だ。
 主が主の民に願われる事は、一度約束した事を忠実に守る事、そして主の翼の下に保護を求めて来た人は一人も残さず救う事である。主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからである。彼らの内には、あなたに当る事のできる者は、一人もないであろう。』(8節)
 
 私達も、時には、気乗りしない戦いに「出よ」と、主から言われ、しぶしぶ出ていく事がある。その時「なんであんな者のために苦労しなければならないのか?」と、思うかもしれない。しかし主がそう言われるなら、行くべきなのだ。従いたくない心をとりこにして、御言葉に服従して行くなら、主は莫大な勝利を下さるだけでなく、宇宙規模の奇跡さえも起こして、私達の思いを遥かに超えた結果を、用意しておられるからだ。
 事実、彼らは、この従順を通して、とても短期間に、多くの王達を一網打尽にし、多くの地を占領できた。
皆さんも、短時間で一気に、多くを獲得したいだろうか?それなら、主の示した事に、服従するべきである。
 
 彼らは夜通し、ギルガルから上って行って、敵を急襲した。主が彼らをかき乱されたので、イスラエルは彼らを激しく打った。しかも主は、彼らの上に、大きな雹を降らせ、イスラエル人が剣で殺した数よりも、雹で死んだ者のほうが、多かった(9-11節)。明らかに、天地を支配しておられる主が味方して戦われたのだ。
この宇宙で、最も敵に回してはいけないのは、主の御声どおりに聞き従う主の民である。主は太陽や月の運行を司り、雹の一粒一粒さえ命令して、主に救いを求める民を保護し、彼らを脅かそうとする者を蹴散す。
 主は、主に約束した事を忠実に全うする聖徒を全面的にバックアップし、大いなる御業を見させて下さる。
そして、それを見た救われたばかりの人は、ますます主を畏れ敬い、従うようになり、そして、主の御声に従って彼らを助けた聖徒たちも、それを機に、今まではかどらなかった事が、一気に片つくのである。
 実際イスラエルは、主に服従して彼らを助けた故に、短時間で多くの地を征服し、この地方の占領は一気に進んだ。私達は、自分の好き嫌いや世の価値観で進んで行くべきではない。主の御言葉に従って行くべきである。それまで、主ご自身が直接戦って、奇跡的な勝利を得て来たが、これからは段々、彼ら自身が戦う事になって行く。主は、まだ剣を使い始めたばかりの彼らの手を鍛え、自主的に主の御旨を為そうと働き、自分の足で走り、剣を使い、戦う、という事を徐々に学び、そうして御国の兵士として整えられて行く。
 自主的に御旨を求め、主の世界経営・歴史経営に参加し、この時代、主の御国をもたらす勇士として、政治、経済、文化、教育を支配して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

エゼキエル書講解説教

神様を中心とした土地と支配、生活(エゼキエル45章)

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神の民は、聖であるべき事、神様を中心とした歩みをするべき事が、続いて示される。
 
エゼキエル45:1 あなたがたは、くじを引き、地を分けて、それを所有するときには、地の一部を聖なる地所として主にささげよ。その長さは二万五千キュビト、幅は二万キュビトで、その区域はすべて聖なる地である。
エゼキエル45:2 そのうち聖所に属するものは縦横五百キュビトずつであって、それは四角である。また五十キュビトの空地をその周囲につくれ。
 
ここでは、主のために聖別するべき土地が制定されている。
「聖別」とは、神様のために、神の国のために、特別に確保しなさい、という事であるが、それは、私達・神の民にとって必須の事である。
 
まず、長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、聖所と至聖所のため、そして、そこで仕える祭司のためのものとし(3-4節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅一万キュビトの地は、はその周辺で奉仕をするレビ人のものとし(5節)、
続く長さ二万五千キュビト、幅0.5万キュビトの地を、イスラエルの全家のものとして(6節)、
それらの土地を聖別し、確保するべき事が命じられている。
 
神の民にとって、聖として確保された地の中心は、聖所、すなわち礼拝である。
神の民たる私達が、ここから学ぶべき事は、私達も、主のために聖別された時間、空間を確保し、礼拝を中心にした歩みをするべきだ、という事である。
 
 
エゼキエル45:7 また君たる者の分は、かの聖地と町の所有地との、こなたかなたにある。すなわち聖地と町の所有地に沿い、西と東に向かい、部族の分の一つに応じて、地所の西から東の境に至り、
 
君たる者(ナーシー:上に立つ者、王ではない)のための土地も、確保されている。
それは、この聖別された土地の西側と東側、どちらも、国境に至るまで延びる広大な土地である。
 
エゼキエル45:8 その所有の地所はイスラエルの中にある。わたしの君たちは、重ねてわたしの民をしえたげず、部族にしたがってイスラエルの家に土地を与える。
 
以上のように、主の聖所と、祭司やレビ人、イスラエルの全家に割り当てるべき、聖別された地が、そして、君主に対する土地が定められた。
 
地は、本来、主のものであって、主から人々へゆだねられたものとして、割り当てられる。
それ故、人は土地を勝手に自分のものとするべきものではない。
この地上で、旅人である私達が、仮の住まいとして生きるべき、主からの借地なのだ。
 
9-17節に、君主たる者のつとめが示されている。
 
エゼキエル45:9 主なる神は、こう言われる、イスラエルの君たちよ、暴虐と略奪とをやめ、公道と正義を行え。わが民を追いたてることをやめよと、主なる神は言われる。
 
それまでの、イスラエルの歴代の王たちは、暴虐と暴行によって人々を支配し、重税で追い立てていた。
その取り立てて集めた富を、王たちが、わがものとし、おのおのの欲望のままに使うためであった。
しかし、そのような汚れた暴虐の行いゆえに、主はバビロンを通して、全て破壊してしまった。
だから、このエゼキエルに示された神殿や、定められた定めは、ことさら、きよめに立つこと、汚れを持ち込んではならない事が、重点的に示されているのである。
 
神の民は、主から土地を相続地としてゆだねられているからには、主の聖さを汚すことはあってはならない。
また、民の上に立つべき者には、主の聖さを保ちつつ、正しく治める責任が、任されている。
 
上に立つ者は、確かに民から物品を集めるが、それは、君主たちの欲の赴くままに使い込むためではない。
民に代表して、それを、神様の元へと持って行って捧げるためである。
 
エゼキエル45:10 あなたがたは正しいはかり、正しいエパ、正しいバテを用いよ。
エゼキエル45:11 エパとバテとは同量にせよ。すなわちバテをホメルの十分の一とし、エパもホメルの十分の一とし、すべてホメルによって量を定めよ。
エゼキエル45:12 一シケルは二十ゲラである。五シケルは五シケル、十シケルは十シケルとせよ。一ミナは五十シケルとせよ。
 
ここでは、正しいはかりを基準にしなくてはならない事が、あらためて示されている。
以前は、異なるはかりを用いて、社会に不正や混乱をもたらしていたが、相手や状況によって異なる秤を用いる事を、主は忌み嫌われる。
 
箴言20:10 互に違った二種のはかり、二種のますは、ひとしく主に憎まれる。。
 
 
さらに13-15節には、民が君主に納めるべき割合が示されているのだが、民から集めたそれらは、君主が代表して主にささげるものである、という事が、重要である。
 
主の民には、本来、人間の王は、無いはずである。(1サムエル記8章)
神が王であり、人々の上に立つ君主は、人々が「主にささげる」という行いを促すために人々から集め、人々に代表してそれを主に捧げる、という役割をする者に過ぎない事が分かる。
だから、ここでは「王」ではなく「君主」という言葉が使われているのである。
 
 
18節以降、イスラエルの祭りに関する規定が続く。
 
エゼキエル45:18 主なる神は、こう言われる、正月の元日に、あなたは無傷の雄牛の子を取って聖所を清めよ。
エゼキエル45:19 祭司は罪祭の獣の血を取って、宮の柱と祭壇のかさねの四すみ、および内庭の門の柱に塗れ。
 
まずは年初に、礼拝場所のきよめをしなくてはならない。
 
エゼキエル45:20 月の七日に、あなたがたは、過失や無知のために罪を犯した者のために、このように行って宮のためにあがないをなせ。
 
あやまって罪を犯した者や、わきまえのない者がいる。
彼らは、それを罪とは知らず、意図せずに罪を犯すのだが、しかし、「知りませんでした」で済むものではない。
その贖い・償いを、きっちりしなくてはならず、そのために、犠牲の血が流されなくてはならない。
 
イエス様は、知らずに罪を犯した私達のために、十字架上で血を流し、「彼らは何をしているのか、自分でわからないのです」と言って、執りなし祈って下さった。
 
21-25節では、過越祭や種無しパンの祭り、仮庵の祭りの規定が示されるが、そこでも、君主が民に代表して捧げるべき事が書かれてある。
 
以上のように、人の上に立つ者は、神と人との間に立って、民に代わって主に捧げる事、そして、神から託された御言葉を、民に守り行わせるべき事が使命である事が示された。
神の国における「偉い人」「人の上に立つ者」は、世のそれとは違う。
決して、世の王たちがしているように、むさぼりの心をもって民草を虐げてはならない。
 
マタイ20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
マタイ20:26 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
マタイ20:27 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
 
 
神の民は、聖である事が、きよさを中心に生活する事が、要求されている。
 
1ペテロ1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
2コリント6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
2コリント6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
2コリント6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
2コリント6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
2コリント7:1 愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。

エゼキエル書講解説教

聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)

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エゼキエル44:15 しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。
エゼキエル44:16 すなわち彼らはわが聖所に入り、わが台に近づいてわたしに仕え、わたしの務を守る。
 
通常のレビ人は、もはや、この新しい神殿の聖所での奉仕には預かれない事が、前回示された。
その理由は、彼らは本来、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を、教えなければならなかった、はずなのに、彼らはそれを教えず、むしろ、民の罪、民の俗っぽさに、染まってしまかったからだ。
 
しかし、ツァドクの祭司の子孫は、そのようでなく、主の前に誠実を尽くした。
それで、ツァドクの子孫が永遠に、主の御側近くで祭司の務めをするものとして、栄光の任務が与えられた。
 
今回の箇所は、ツァドクの子孫が、祭司として、聖所で仕える際に気をつけるべき事が定められている。
ここに記されている規定は、出エジプト記やレビ記からいくつかピックアップされているが、その内訳は、特に、祭司たる者は、きよさと聖を保つべき事、汚れを帯びないようによく気をつけるべき規定に、特化されている。
 
なぜなら、祭司たるものは、主の最も近くで奉仕する者であり、人々の前で、主の聖であられる事を表し、主の栄光を示さなければならないからである。
彼らはもはや、以前、レビ人達が犯した過ちを、もう繰り返さないようにしなくてはならない。
 
エゼキエル44:17 彼らが内庭の門にはいる時は、麻の衣服を着なければならない。内庭の門および宮の内で、務をなす時は、毛織物を身につけてはならない。
エゼキエル44:18 また頭には亜麻布の冠をつけ、腰には亜麻布の袴をつけなければならない。ただし汗の出るような衣を身につけてはならない。
 
祭司が務めに入るために、聖なる領域に足を踏み入れる際、その聖なるつとめ専用の服に着替えてから入るべき事が示されている。
そこでは、毛織物を、すなわち、世の方法で血が流されて作られた着物を、身に着けてはならない。
 
動物の血が流されるようになったのは、エデンの園において、人が主のたった一つの戒めを破って以来だった。
また、人が、汗を流して土地を耕さなければならなくなった、というのも、人が神のことばに逆らい、女の言葉に従った故だった。
 
祭司は、人の前には神の代理として立ち、また、人の代表として神の前に立つ故、エデンで犯した神の言葉に対する違反の刈り取りを、身に帯びて、その務めに入ってはならない。
彼らは、罪のいけにえによって、贖われ、清められた状態で、つとめに入るからだ。
 
エゼキエル44:19 彼らは外庭に出る時、すなわち外庭に出て民に接する時は、務をなす時の衣服は脱いで聖なる室に置き、ほかの衣服を着なければならない。これはその衣服をもって、その聖なることを民にうつさないためである。
 
神の民は、確かに聖なる民ではあるが、この祭司の服は、さらに聖なるものである。
「聖」とは「切り分けられた」事の意味がある。
神の民は、世から切り分けられた者たちであり、そして祭司は、その中からさらに切り分けられた者たちであり、特に、聖所における働きは、そうである。
 
その、聖なる服を身につける事によって、聖所に入ることが出来るほどの「切り分けられた」服を着たままで、世の、俗なる者たちの前に出て、民を聖なるものとしてしまうなら、どうなるか。
祭司のように、聖と俗をわきまえない者たちが、聖別されてしまったとしたら、彼らがその身で俗なる所に行き、罪を犯し、その聖さを冒すなら、彼らが咎を負う事になってしまう。
 
 
エゼキエル44:20 彼らはまた頭をそってはならない。また髪を長くのばしてはならない。その頭の髪は切らなければならない。
 
男子が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであると、自然自体が教えている。(1コリント11:14)
また、頭を剃る行為は、死人を悼む行為と直結している。(後述)
エゼキエル44:21 祭司はすべて内庭にはいる時は、酒を飲んではならない。
 
アロンの子ナダブとアビフは、おそらく、ぶどう酒に酔った状態で聖所に入って、主の前に異なる火を焚き、主の前で焼き殺されてしまった事が、レビ記10章から見る事ができる。
 
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:6 モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。
10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。
 
以上のように、祭司は、聖なるつとめに入る際、「死ぬ事の無いように」、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならない。
主は、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現す」と言われたからだ。
祭司は、聖なる油注ぎを受けた故、聖なる場、聖なる位置を離れてはならないし、また、死んだ行いや、死んだ者に、関わってはならない事が、レビ記10章に書かれてある。
 
エゼキエル44:22 また寡婦、および出された女をめとってはならない。ただイスラエルの家の血統の処女、あるいは祭司の妻で、やもめになったものをめとらなければならない。
 
この事は、レビ記21:7にも書かれている。
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
 
祭司は、神に対して聖(切り分けられた者)であるので、きよさを保たなければならない。
一般のやもめや、一般の離婚された女は、既に、以前の「一般の男」を知っており、すなわち、既に世俗と結合されてしまっているので、「聖」である事が要求される祭司には、嫁ぐ事はできない。
だから、もしそれが祭司のやもめであるなら、めとってもよい、と言われている。
 
祭司はなぜ、ここまで、きよさを追求しなければならないのか。
その理由が以下に示されている。
 
エゼキエル44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
 
ここでは「教えなければならない」というキーワードが、2回繰り返し強調されている。
そう、祭司たるものは、神の言葉、律法を「教え」なくてはならないからだ。
 
祭司こそ、一番、聖なるものと俗なるものを切り分け、汚れたものときよいものとの区別しなくてはならない存在である。
前回の所では、それをしなければならないはずのレビ人が、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせ、そうして聖なる領域に汚れを持ち込んでしまった故に、彼らにはペナルティが課せられた。
 
本来、聖と俗を切り分け、汚れたものときよいものの切り分けを、教えるべき立場の者が、俗物となり、また汚れていたなら、会衆全体が、聖さを見失い、俗物となってしまう。
だから、祭司は、特に、きよさと聖を身に着けなくてはならないのだ。
 
エゼキエル44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわが律法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
 
祭司が、世の裁判官の役割をする理由は、彼らが神の法律を一番知っているからである。
神の民は、世の仕方、世の裁判、人間の思考で、世の裁判官にさばきを委ねてはならないのだ。(1コリント6章)
 
エゼキエル44:27 彼は聖所に入り、内庭に行き、聖所で務に当る日には、罪祭をささげなければならないと、主なる神は言われる。
 
祭司は、罪のためのいけにえを捧げて、罪の問題を解決したからこそ、聖なる務めに入ることができるのだ。
 
エゼキエル44:28 彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。あなたがたはイスラエルの中で、彼らに所有を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。
 
祭司が受け継ぐ、相続の土地は、この地上には、無い。
主ご自身が、相続地であるからだ。
彼らは畑を耕したり、海に出て漁をして食料を得るものではない。
神の働きをして、食を得る者である。
 
エゼキエル44:29 彼らは素祭、罪祭、愆祭の物を食べる。すべてイスラエルのうちのささげられた物は彼らの物となる。
エゼキエル44:30 すべての物の初なりの初物、およびすべてあなたがたのささげるもろもろのささげ物は、みな祭司のものとなる。またあなたがたの麦粉の初物は祭司に与えよ。これはあなたがたの家が、祝福されるためである。
 
ここに、「あなたの家に祝福が宿るため」と書いてある。
祭司の食物を絶やさないなら、祭司は立派に務めあげる事が出来、心置きなく祝福を祈る事ができるからである。
イサクが心置きなく祝福できたのは、おいしい食で満腹したからだった。
 
エゼキエル44:31 祭司は、鳥でも獣でも、すべて自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べてはならない。
 
祭司が食べて良い動物は、ただ、主に捧げられるためにほふられたもの、である。
世の方法で血を流し、殺したものは、祭司は食べてはならない。
 
以上、主の御そば近くで仕えるべき者の標準は、世の標準とは全く違っていた。
私達もまた、王族の祭司とされた者として、自らをきよめ、聖別するべきである。
 
1ペテロ
1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
 
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

 

エゼキエル書講解説教

主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)

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前回までの所で、主は、新しい神殿の寸法や構成を示し、聖と俗とを切り分けるべき事を、示された。
その、聖と俗とを切り分ける領域は、外庭のさらに外側の、縦横五百さおの正方形の領域であった。(エゼキエル42:20)
それが定められると、東向きの外門から、神の栄光が入ってきた。(43章)
 
エゼキエル44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。
エゼキエル44:2 彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
 
東向きの門(外庭の東向きの門)を、閉じたままにしておかなければならない理由は、イスラエルの神・主が、ここから入られたから、である。
そこでは、ただ、君主(民の上に立つ者)だけが特別に、主の前でパンを食べるために座る事ができる。
 
エゼキエル44:4 彼はまたわたしを連れて、北の門の道から宮の前に行った。わたしが見ていると、見よ、主の栄光が主の宮に満ちた。わたしがひれ伏すと、
エゼキエル44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
 
神殿には、主の栄光が満ちている。
主の臨在があり、主の栄光がある神殿における「おきて」と「規定」について、主は、「心」に留め、「目」を注ぎ、「耳」を傾けて、「心せよ」、と言われたからには、私達も心するべきである。
 
続く節から、その内訳を要約すると、その神殿において、念入りに注意すべき事とは、汚れが入り込まないように、という事であり、その宮に入って奉仕ができる者と、宮に入れても、聖所には入れない者の区別が示されており、そして、なぜ「入れない」者が出たのかの理由が、以下に示されている。
 
エゼキエル44:6 また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。
 
イスラエルの家全体は、神殿の中に、あらゆる忌み嫌うべき事を持ち込んで、主の怒りを引き起こした。
その様は既に、8章で示されていた。
そして、それらを持ち込んだ者とは、「心にも肉にも割礼を受けていない異邦人」であった。
 
その異邦人は、何が聖であり、何が俗であるのかもわきまえず、何が主に忌み嫌われるのか、という知識も無いため、主への恐れも無く、また御言葉に違反しているということも気づかないまま、大盤振る舞いして、神の忌み嫌うものを持ち込み、忌み嫌うべき事を行ったのだ。
しかも、異邦人が神殿で仕事をしてよいと許可したのは、最も神殿のきよさを守らなければならないはずの、レビ人だった。
 
現代の教会で、罠に陥りやすい事として、世の中では有能であっても、聖書の内容を知らず、神を恐れるという事を知らない人を、教会の要職につけてしまう、という事がある。
私達は、心の割礼を受けていない、肉に従って判断し行動する人を、教会の要職に据えてはならない。
そうでないと、なまじ「できる人」の説得力ある言い分によって、御言葉が阻害され、どんどん霊的にあさってな方向へ進ませ、気づいた時にはエゼキエル8章の状態になりかねないからだ。
 
神の国の事柄において、重要な事は、仕事のできる・できないではなく、神を恐れる心を持っているか・いないかである。
パウロは、肝心なのは「御霊による心の割礼」である、と書いている。
 
ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
 
現代の教会における奉仕において重要な事は、肉に従うのではなく、御霊によって突き動かされる奉仕である。
その誉れは、人に依らず、神から来る。
 
エゼキエル44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。
 
本来、レビ人、すなわち、主の働き人が、果たさなければならない聖なる務めを、彼らは果たさず、その代わり、割礼を受けていない異邦人を、働きに据えてしまったのだ。
 
エゼキエル44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
 
現代、私達は、御霊による心の割礼が無い人を、奉仕者に立てたりして、礼拝を汚してはならない。
 
以上のように、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせて、聖なる領域に汚れを持ち込ませたレビ人に対してのペナルティが、続く節に記されている。
 
エゼキエル44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
 
本来、神から迷い出た人を、真っ先に連れ戻すべきは、レビ人たちなのに、彼ら自身が、主から迷い出て、離れて行ってしまったのだ。
それでレビ人たちは、その罪を負わなければならなくなってしまった。
 
エゼキエル44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない。
エゼキエル44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
 
彼らは本来、11節のとおり、主の宮の門を、汚れた者からガードしなければならない、はずだった。
しかし彼らはガードせず、汚れた者・無割礼のものを素通りさせ、その結果、主の宮は偶像礼拝だらけになり、8章のような惨憺たる有様になってしまったのだ。
 
私達は、教会という「主の宮」を、ガードしなければならない。
もし、ある兄弟姉妹が、教会や交わりに、汚れを持ち込もうとするなら、主の働き人である私達は、ガードするべきである。
そして、私達自身という「神殿」を、私達自身が、ガードしなければならない。
主の宮である私達自身の家庭や職場に、人間関係に、また、私達の電子機器の中に、汚れを持ち込ませてはならない。
 
そのガードをしないで、神殿を魑魅魍魎の温床にしてしまったレビ人に対するペナルティ内容が、以下にある。
 
エゼキエル44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない。
エゼキエル44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。
 
レビ人は、主の宮の雑務に当ることは許されるが、祭司として、聖所で仕えることは出来ない。
私達も、汚れをガードしないままであるなら、主の働きの主要部分を任される事は、決して、無い。
たとえ人がそれを許しても、主が、その人を跳ね除けてしまわれるのだ。
 
神の国で、重要な働きを許可される人とは、たとえ、周囲がどんなに堕落したとしても、本人自身は、主に誠実を尽くし、忠実を尽くした人、のみである。
ツァドクの子孫であるレビの祭司が、まさにそうだった。
彼らは、イスラエル全体がいかに堕落しても、忠実に主に仕えたため、彼らだけは、聖所に入って重要な奉仕をする事ができる。(エゼキエル44:15-16)
 
私達は、時代がどうあれ、ツァドク一族のように、御言葉に記されている事を誠実に守り行うべきだ。
そうするなら、この終わりの時代、神の国を建て上げるために大いに、用いられる器として、用いられる用意が整うからだ。

 

主日礼拝

やがて巻き去られてしまうこの世で最も価値あるもの(1コリント13章)

第一礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 最近、祝福と成功の法則を学んでいる。前回、ロックフェラーが経済において大いに祝福された秘訣を見た。それは、彼が母の教えに従い、神の国を第一としたからだ。母から言われた通り、十分の一を忠実に捧げ、慈善のわざを惜しみなく為し、天に宝を蓄えた。それは確かに成功の法則であるが、結局、彼が祝福された根源は、やはり、その法則を教えた母の、御言葉中心の教育であった事は、否定しようがない。
 ロックフェラーが母の戒めを守ったのは、母が、彼をこよなく愛し、行いで愛を示したので、母が教える神の教えであるなら信頼して間違いないだろう、と彼が思ったから、従順し、そうして本当に祝福されたのだ。
 彼女が天に召される間際、世界一の金持ちになった息子が、間違った道に逸れず、祝福の王道から離れないように、という愛の想いが、あの10の書き残しから滲み出ている。彼は母の死後、それを忠実に守った。1929年の世界恐慌でも、母の戒め通り、多くの人を救うために財産を解放し、ロックフェラーセンター建設で多くの雇用を確保し、彼のした信仰と希望と愛のわざへの感謝が、今もロックフェラーセンターのクリスマスツリー点灯式となって語り継がれている。施しを受けた人々の感謝は、神の御前に昇るものなのだ。
 
 結局、永遠に残るものとは、ロックフェラーの母が子へと残したもの、そして、ロックフェラーが母から受け継いで、人々へ惜しみなく施したわざ、すなわち、信仰と、希望と、愛である。この世において、妻を、夫を、子供を愛し、親切にしたそのわざは、妻や夫の、子供の心にずっと残り、継がれていく。闇と絶望の時世の中で為した希望のわざも、信仰によって為した高貴なわざも、ずっと人々の心の中で、受け継がれて行く。
彼の母は、信仰と希望と愛を、彼に残した。それこそ、私達も遺産として残さなければならないものである。
 『いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』(1コリント13:13) 主の再臨と共に、やがて巻き去られてしまう、この有限の3次元宇宙で、最も価値あるものは、愛である。世の富は廃れ、知恵も力も廃れ、預言も止む。それらは、永遠なる実体の「影」に過ぎない。全ての本体であるキリストが来るなら、影なるものは巻き去られ、いつまでも残る「実体」だけが残る。
 
 愛の目指すところは「いのち」であり、愛が言いたい事は、「生きよ」「存在しなさい」である。それが神様の、私達に対する願望である。サタンは、「いのち」の対局の、愛を破壊する「善悪判断」へと誘い込み、愛のわざが、あたかも、損得勘定の「損」であるかのように吹き込んで、祝福の法則から、離れさせる。サタンが最も言いたい事は「存在するな」「死ね」である。私達は、いのちと善悪判断の2つが置かれた時、いのちを選び、「愛」と「損得勘定」が置かれた時、「愛」を選んで、サタンのわざを蹴散らす、光の勇士である。
 愛とは「関係」であり、「犠牲」であり、「時間に制約されたもの」である。やがて「あなた」と「わたし」は、別れなければならない時が来る。それまで一緒に居られる、ささやかな時間の間、私達は、相手のいのちが前進するために、力と、時間と、持てるものを投げうち、愛の犠牲を払って、今、してやれる事をするべきだ。
 愛と優しさは、イコールではない。いのちを後退させてしまう事や、御言葉の法則にかなわない事に対しては、厳しく戒め、正すのが、愛である。人をダメにしてしまう「偽りの優しさ」でごまかしてはならない。
 「あの人が、わたしが生きるために、犠牲を払ってくれた」という思い出は、闇の中に暖かく灯るともし火のような、美しい思い出として残り、その思い出は、時が経てば経つ程、感謝、喜びへと、美しく輝きを増して行く。イエス様こそ、私達をこよなく愛し、私達が生きるために、愛の犠牲を払って下さった、神の子である。
 
 この限りある人生の中、私達にできる最高の愛のわざとは、ロックフェラーの母が子へと繋いだように、永遠の愛なる神様へと繋げ、御言葉どおりに生きるようにする、あらゆる営みである。親が子へ、伝道者が神様を知らない人へ、永遠の愛なるお方・イエス・キリストを伝える愛のわざこそ、この宇宙で何よりも尊い。
 私達はまず、身近にいる相手の心に、愛されているという感覚の、暖かなともし火を灯す所から始めよう。
今、与えられている財や、力、時間を活用して。それが、愛なる主に喜ばれる事であり、そのようにする人に、主は、さらに押入れ、ゆすり入れして与えられる。もっと多くの人に、喜びのともし火を灯すために。
 天と地において最大に価値があり、評価されるものは、愛である。与えられた賜物を用いて、愛に裏付けされた信仰と希望という資産を受け継がせ、素晴らしい希望の将来を愛する人のために用意し、永遠に朽ちる事の無い冠を、日々、備えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ

お金の使い所に心が見える(ルカ12:13-34)

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12:13 群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
12:14 彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
 
私達は、お金の運用方法について、非常に関心がある。
一体、どうするのが、ベストなお金の運用方法だろう。
 
せっかく稼ぐだけ、稼いでも、自分の有意義と思える事に使えないまま、死んでしまうなら、稼いだ事がそもそも、無駄な労苦であるし、
また、せっかく稼いで、たとえ自由に使えた、としても、使い先が自分や家族を子孫を悪くして、世を悪くする方向性であったとしたら、ただ有害性をもたらしただけで、まだ稼がないほうが良かった、という事である。
 
その最たる例が、ソロモンである。
 
伝道者の書2:18 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。
2:19 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。
2:20 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。
2:21 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。
2:22 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。
2:23 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。
2:24 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
2:25 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。
2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
 
イエス様は言われる。
 
ルカ12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。
 
結局、重要なのは、
生まれてから死ぬまで、得たものを、どれだけ「有意義に使ったか」、である。
主から与えられたものを、「有効に」、活用する事。
 
ロックフェラーの年間件金額の表をみると、彼は本当に、有意義に使った事がわかる。
イエス様が言っておられる。
 
ルカ12:33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。
12:34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。
 
まさに、ロックフェラーは、それをした。
しかし多くの人は、お金について、明日について心配する。
 
12:29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。
12:30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。
12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
 
「神の国(バシレイア・トゥー・テウー)」とは、神の統治領域である。
私達が、何はさておきして、最優先で求めるべきは、職場も、家庭も、自分のデスクも、神の統治が行き渡る事、である。
 
どうやって、神の国に宝を蓄えられるか。
 
ルカ12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。
自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。
そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
 
結局、私達が残せるものは、愛である。
この世において、妻を、夫を、子供を、愛し、親切したその心は、妻の、夫の、子供の心に、ずっと残り継がれていく。
また、信仰による心によって残したものは、今も健在する。
 
1コリント13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。

花婿をとりこにする性質(雅歌4:9-16)

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詩篇講解説教

心底、主を慕い、あえぎ求めた、コラの子による詩篇(詩篇84篇)

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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
 
コラといえば、荒野で人々を扇動してモーセに逆らい、クーデターまがいの事をした者だった。
彼は巧みに多くの有力者を味方につけ、多くの人々が彼になびいた。
しかし、コラの天幕の下の地面は避け、彼は、天幕や持ち物もろとも、生きたまま地の底に下ってしまった。
結局、神ご自身が直接、彼らを退けた事を明らかにされたのだ。
 
しかし、コラの子たちは、生き残った。
なぜ、生き残れたのか?
いかに父親が、人々をそそのかす者であったとしても、彼らは心底、主を慕い求める心を持っていたため、その天幕に近づかなかったからである。
 
それで、コラの子の子孫からは、あの有名な預言者であり、キングメーカーであるサムエルが生まれた。
さらにコラの子たちは、素晴らしい数々の詩篇を生み出す。
鹿が水の流れを慕うごとく、私のたましいは主を慕います、という詩篇42篇や、
この舌は麗しき主をなめらかに語り告げる「巧みな書記の筆」です、という詩篇45篇、
また、「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と、ガールズ・ソプラノに歌わせた、力強い信仰告白の詩篇46篇など。
彼らが作った詩篇には、心の底から主をあえぎ、慕い求める事を歌ったものが多い。
 
この84篇も、彼の主を慕いあえぐ心が、ふんだんに表されている。
 
詩篇84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
詩篇84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
 
彼は、魂、心、身をもって、すなわち、全身全霊で、主を慕い、喜び、賛美する志を持っている。
パウロは、これこそ私達も為すべき「理に適った礼拝」だ、と言っている。
 
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。
 
私達も、主の宮・教会に行く時、自分の思い・心・からだ・意思・感情、全てを、聖なる捧げものとして、携えて行く時、主はその礼拝者を、喜んで受け取ってくださる。
 
詩篇84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。
詩篇84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ
 
彼は、雀やつばめが、主の家に巣を作っている様子を、うらやんでいる。
今も、嘆きの壁に行くと、アマツバメや鳥たちが巣を作っているのを見る事ができる。
嘆きの壁は、かつての神殿の壁の一部であった。
現在も、ユダヤ人は、その壁の修復工事において、アマツバメの巣の位置を損なわないよう考慮して、修復するようにしている。
 
つばめは、神殿の壁の隙間に巣作りして、卵を産み、子育てし、やがて成長すると、南国へと旅立って行き、そして、季節が巡って来ると、彼らが育った神殿に再び戻ってきて、巣作りし、卵を産み、、、という営みを、数千年も繰り返して来た。
コラの子たちは、そんなつばめを心底、羨ましい、と思った。
私達も、主の宮に巣作りし、子を産んだら、主の宮で育て上げ、そして成長したなら、遠くで身を立たせ、成功し、そして再び主の宮に戻ってきて、いのちの育みをする、そのような営みを、世々限りなく続けて行くべきなのだ。
 
詩篇84:5 その力があなたにあり、その心がシオン(צִיּוֹן)の大路にある人はさいわいです。
 
シオン(צִיּוֹן)とは、エルサレムの別名であり、特に神殿のある町を意識する事が多い。
 
なお、ヘブライ語から導き出される霊的意味は、私達・イエス様を信じる者である。
A צִיּוֹןのツァディצは「釣り針」、ユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、ヌンןは「魚」を意味する。
A’ すなわち、イエス様の十字架の「釘」づけられた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、イエス様を信じる者と言う。
 
心にシオンへの大路がある人は、主の宮に礼拝に行こう、主の宮に戻りたい、と切望する思いが開通している。
すなわち、力の源を主に置いている人で、そのような人は、どんな時代になっても、どんな状況に置かれたとしても、大丈夫である。
 
詩篇84:6 彼らはバカ(בָּכָא)の谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨(モーレ:秋の雨)は池をもってそこをおおいます。
詩篇84:7 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
 
バカ(בָּכָא)の元の意味は「バルサムの木(バーカー)」であるが、樹脂や水分をしたたらせる性質があるので、「泣く者」とも呼ばれるため、文語訳や古代訳(70人訳、シリヤ語訳)は、涙と訳している。
 
私達の人生も、涙の谷を通るような、つらい時期があるかもしれない。
しかし、心の中に、主の宮への、すなわち礼拝への直通通路がある人は、涙の谷さえ、泉が湧く所とし、そこを主が雨で潤して下さり、そして、力から力へと進まされ、ついには、シオンにおいて神とまみえるようになるのだ。
 
詩篇84:8 万軍の神、主よ、わが祈をおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
詩篇84:9 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
 
「われらの盾」「油そそがれた者」とは、王の事であり、ユダヤにおける王とは、神から権威を代行して行う者として、油注がれた者である。
その自分たちを統治する王が、神様の御心にかなった、祝福された統治をしますように、という願いがある。
 
私達にとって王とは、イエス様であり、私達の王であるイエス様の名前によって祈る祈りを、主は、聞いてくださる。
 
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
 
コラの子たちの主な奉仕は、門衛であるが、門衛は神殿の中にではなく、ずっと外に立ち続ける奉仕ではある。
しかし、少なくとも主の近くにおり、そして、主の宮と礼拝者を守る役に立っている。
そうであるからには、世のいかなる所にいるよりも、遥かに有意義である。
 
彼は、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」と言った。
つまり、主を慕い焦がれる心をもって、主の宮・教会にいる一時間は、世にいる千時間にまさるのだ。
私達は、どれくらい、主を慕い焦がれ、どれくらい、教会で過ごして来ただろうか。
 
ちなみに私は、10年以上、教会に入り浸って奉仕をして来たので、私は既に、一万年にまさる充実した日々を生きている、と、自負している。
 
彼は言った。
「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」
そう、悪の天幕には、災いがつきものである。
コラの天幕は、彼もろとも地面が裂け、落ちていってしまった。 
しかしコラの子たちは、父の悪に加担せず、その天幕から離れていたから、生き残った、という事を、忘れてはならない。
 
詩篇84:11 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
 
日は、全ての生き物に恩恵をもたらしており、私達は、太陽が無ければ、生きられない。
主は太陽のように、私達を光で照らし、暖かさで照らし、必要を満たし、健やかにして下さるお方である。
 
そして主は、私達の盾である。
盾が無いなら、敵の攻撃をすぐに受けて、やられやすい。
しかし、主は完全な盾で、この御方に依り頼むなら、決してやられる事は無い。
 
詩篇84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
 
主の民、主の奉仕者である事の「幸い」とは、何だろう。
確かに、主の民・主の奉仕者は、世において成功し、物質的・経済的にも祝福を受けるが、それにまさる幸いがある。
それは、主の御側近くにいる事、主ご自身がわたしの相続である事である。
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