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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

マタイによる福音書講解説教メッセージ
主の日に備えて目をさましていなさい(マタイ24:29-41)
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イザヤ書講解説教メッセージ
ダマスコに対する宣告 - 神の民と交わる異邦人への憐れみ(イザヤ17章)
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【概要】

本日の説教は、イザヤ書17章をもとに、ダマスコに対する神の宣告と、罪に陥った民への厳しい警告、そして悔い改めと神の憐れみの望みについて語られています。

【聖書箇所】

・イザヤ17:1‐11(ダマスコに対する宣告、イスラエルとの関わり、そして残された憐れみについて)

【慰めの言葉】

主は、厳しい裁きの中にも、ご自分につながり信頼する人々にわずかでも憐れみのしるしを残される方です。

【戒めの言葉】

私たちは、偶像やこの世の価値観に流されると、神の民としての誇りを失い、滅びの危機にさらされるという真実を、決して忘れてはなりません。

【悔い改めの促しの言葉】

自らの罪と弱さを認め、神の前に心から悔い改めることが、救いと再生への唯一の道であることを、改めて訴えています。

【勧めの言葉】

日々の生活において、真の信仰と献身をもって神に立ち返り、世俗的な誘惑に屈しない堅固な意志を持って生きるよう努めるべきです。

【***詳細***】

本日の説教は、まず冒頭で「イザヤ書17章」を読み上げながら、ダマスコに対する宣告の御言葉に触れています。冒頭の一節では、ダマスコが「取り去られ、町で滅び、廃墟となる」と預言され、これは単に古代のシリア地方の一都市が破壊されるという歴史的出来事だけではなく、私たちの罪深い状態、すなわち神に背いた結果としての霊的な廃墟状態を象徴していると語られました。説教者は、自分たちが犯してきた罪や、神と人との関係を乱すあらゆる行為を、全面的に投げ捨て、清められた存在となるよう、神に整え直していただくことを願う祈りを捧げます。

次に、説教はダマスコというシリア地方の中心都市が、かつてアラムという国の中で果たしていた重要な役割や、北イスラエル王国との活発な交流に触れます。当時、ダマスコは文化と交流の中心地として輝いていましたが、同時にその繁栄の影で不誠実な信仰や、偶像に頼る生活が横行していたと指摘されます。すなわち、イスラエルとの交流の中で、真実の神を信じる姿勢が薄れ、他国の価値観や神々に頼ろうとする態度が見られたため、神の怒りが下される結果となったのです。説教者は、これを現代のクリスチャンに対する警告としてとらえ、世の中の享楽や誤った価値観に流されると、結局は神から受けるべき憐れみさえも遠ざかってしまう現実を告げています。

また、イザヤ書の中で語られる裁きの中には、ただ断罪だけでなく、厳しいながらもごくわずかに神の憐れみが残されるという希望のメッセージが含まれています。例えば、預言の一部では「二節以降」や「三節」において、ダマスコやエフライム(北イスラエル王国)の運命が厳しく宣告される一方で、神がわずかな残りの民に対し、栄光と救いをもたらすという描写がなされます。これは、たとえ罪深い状態にあっても、真に主に立ち返る者は神の恵みを受け入れることができるという希望でもあります。残されたわずかな実が、木の最も高い場所にあるために人には取ることができないように、神はご自身に忠実な人々を決して見捨てません。

さらに、説教の中盤では、イスラエルの民が偶像崇拝へと走り、本当に与えられた「ブドウの種」を神から受け取るのではなく、他国のものに頼ってしまったという事実が挙げられます。その結果、彼らは自分たちが育てた見かけの実(偽りの祝福)を、神の厳しい裁きによって刈り取られてしまうことが語られます。現代の私たちにおいても、社会の中で作り上げられる価値観や、自分たちが自ら築き上げた偶像に依拠する生活は、いずれ神の前で厳しく問われることとなります。説教者は、こうした危険性を具体的な例えを用いて力強く伝え、私たち一人一人に対し、本来あるべき神との正しい関係を取り戻すため、悔い改める決断を促しています。

その後、説教は国々の民や大水の轟のような勢いを例に出して、神の裁きの速さと確実さについても語られます。たとえ、どれほど巨大な勢力であっても、神がお叱りになると、それは風の前のもみ殻のように散ってしまいます。実際に、アッシリアという大国がイスラエルを囲むほどの軍勢を率いても、神の一声によってその威勢は一朝にして崩壊したという歴史的事実が示されています。これは、今を生きる我々に対し、世の権勢や自らの力に頼ることの無意味さを強調するものです。

そして、説教の終盤では、教会に属する私たちが、神の御前にふさわしい働き人として清められるべきだという決意が表明されます。私たちは、世俗の価値観に染まってはならず、神の御心に従う真実の信仰者として、日々の生活の中で自らの行いを省みるよう促されます。自分自身で築いた祭壇や作り上げた神々、さらには他国の成功や文化に傾倒することは、結局は神から離れる道であると戒められています。説教者は、今この瞬間に自分の心を神に開き、悔い改め、真の信仰に立ち返る決断をするよう、会衆一人一人に手を差し伸べています。

最後に、説教は実際の祈りの時間へと移行し、イエス・キリストの御名によって、私たちの愚かさを嘆き、悔い改めと更新を求める祈りが捧げられます。私たちは、神の御前にあって自らの弱さを認め、再び確かな信仰の歩みを始めるための内面的な変革を熱心に願わなければなりません。主の祈りをもって、日々の糧と罪の赦し、そして試練に負けない強い信仰を求めるその祈りは、現代のクリスチャンにとっても非常に大切なものであると強調されています。

 

このように、イザヤ書17章の御言葉を通して、我々は神からの厳しい警告とともに、悔い改めるならば必ず与えられる憐れみと救いの希望を学びます。世の権勢やその他のものに心を奪われるのではなく、たった一人一人が自らの内面を見つめ、神の御前に清く立つ決意を新たにするよう求められているのです。私たちがもし、一度でも立ち止まり、自分の行いと信仰を正しく省みるならば、神は必ずその心を清め、御前にふさわしい使徒として整えてくださいます。

【結論】

イザヤ書17章の御言葉は、ダマスコと北イスラエルの運命を預言するとともに、私たちに真の信仰と悔い改めの決断を迫っています。たとえ過ちや偶像に流れる時があっても、神は真心で立ち返る者に憐れみと救いの望みをお与えになります。私たち一人一人が自らの罪を認め、神の御前に清く立つ決意を新たにし、世の誘惑に惑わされることなく、真実の神の国を築く働き人として生きるよう、祈りと決意を新たにしましょう。

つくばエクレシア礼拝説教メッセージ
石女から宝石のような世代へ(イザヤ54章)
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子を懲らさない事は、子を滅びへと導く事(2サムエル記13:20-27)
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『兄アブサロムは彼女に言った、「兄アムノンがあなたと一緒にいたのか。しかし妹よ、今は黙っていなさい。彼はあなたの兄です。この事を心にとめなくてよろしい」。こうしてタマルは兄アブサロムの家に寂しく住んでいた。ダビデ王はこれらの事をことごとく聞いて、ひじょうに怒った。』(2サムエル記13:20-21)

このわずかな節から、ダビデ王が長男アムノンを普段、どのように扱って来たかが、大体想像できる。

ダビデ王は、この一連の事件を「聞いてひじょうに怒った」事は書いてあっても、その事でアムノンを懲らしたり、責任を取らせたりした記述は無い。
今回の被害者・タマルは、兄アブシャロムの家でわびしく住んでいた、という事は、ダビデは、アムノンが取るべき責任を取らせず、そのままにしていた、という事だ。
つまりアムノンは、普段から、衝動的・突発的に何かをしてしまった時も、大目に見られ、その事の責任を取らされて来なかったと想像できる。
だからあの事をたくらみ、「今回もなんとかなる」「律法にはああ書かれてあるけれど、自分はこれをしても、罰は及ばない」などと思って、事を起こしたのだろう。

確かにダビデも、律法に照らすなら、死ぬべき罪を幾つか犯している。
しかし、ダビデが赦され、生きながらえているのは、少なくとも彼は自分の罪を認め、悔い改め、そして自分が被害を与えたバテ・シェバに対しては、しっかり責任を取ったからだ。
それなのにアムノンは、お咎めなしのまま放置されてしまっている。
とするなら、それはアムノンを滅びへと至らせてしまう事だ。
『むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。』(箴言13:24)
『子を懲らすことを、さし控えてはならない、むちで彼を打っても死ぬことはない。もし、むちで彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる。』(箴言23:13-14)
『「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:5-7)

聖書は、子を懲らしたりむちを加える事によって、子から愚かさを削ぎ落とし、悪から救い出すようにと色々な箇所で示している。
しかし現代日本では、懲らしめはタブー視されている。
そのようにして育てられた子は、アムノンのように、激しく思うと歯止めが効かなかったり、何か事を犯しても、それを自分が責任を取る事をすっかり抜かしてしまうようになってしまうものだ。
ダビデは、アムノンを懲らしめたり、責任を負わせたりする事をしなかった。それが為に、彼を滅びと至らしめてしまう。

ダビデは、アムノンと同じような事をした過去を持っているため、うしろめたさがあったのかもしれない。それで強く言えなかったのかもしれないが、相手が自分と同じ罪を犯したなら、なおさら、経験した者としていっそう強く言うべきだった。
ダビデは、姦淫の罪を指摘された時、詩篇51編でこう告白している。
『あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。』(詩篇51:12-13)
彼は、もし自分を赦して下さるなら、「とがを犯した者に/あなたの道を教え」ましょう、と、この時約束している。
しかし彼はそれをしなかった。
こうして、何も取り扱われないまま、月日が過ぎていく。

『アブサロムはアムノンに良いことも悪いことも語ることをしなかった。それはアムノンがアブサロムの妹タマルをはずかしめたので、アブサロムが彼を憎んでいたからである。』(2サムエル記13:22)
タマルの兄・アブシャロムは、表向き、何もないかのように装っていたが、心はそうでななかった。
ダビデは特に何もしないまま、アムノンは平然としたまま、そして、アブシャロムは殺意の心を熟成しながら、2年の月日が過ぎて行き、そしてある日、事件が起きてしまう。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19)
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アムノンは、彼が恋い焦がれる妹のタマルと、二人きりの状況をつくり出すため、仮病を装い、妹に看護してもらいたいと、父ダビデに要望した。

そして二人きりになった時、彼は、神の国において「あってはならない事」をする。

『タマルが彼に食べさせようとして近くに持って行った時、彼はタマルを捕えて彼女に言った、「妹よ、来て、わたしと寝なさい」。タマルは言った、「いいえ、兄上よ、わたしをはずかしめてはなりません。このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。わたしの恥をわたしはどこへ持って行くことができましょう。あなたはイスラエルの愚か者のひとりとなるでしょう。それゆえ、どうぞ王に話してください。王がわたしをあなたに与えないことはないでしょう」。』(2サムエル記13:11-13)
彼らは、律法を知っていた。
イスラエルの中では、兄妹同士の間は、結婚するどころか、肉体関係を持つなど、もっての外である事が書かれてある。(レビ記18章)
だからタマルは「このようなことはイスラエルでは行われません。この愚かなことをしてはなりません。」と叫んだのだ。
タマルは、王に話しましょう、王がなんとかしてくださる、と話したが、アムノンは聞かなかった。
彼もまた、これはイスラエルの中では叶わない事だと感じていたのだろう、だからこそ彼は策を弄し、人払いをして、強引に事を遂げようとしたのだ。

『アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、タマルよりも強かったので、タマルをはずかしめてこれと共に寝た。』(2サムエル記13:14)

アムノンは力づくで事を為してしまった。
彼の父・ダビデも、同じように、王権というパワーを用いて、交わってはならない人妻と、事を為した過去がある。
交わってはならない女性に激しい欲情を抱き、力づくで、強引に、その欲求を捌けさせる。
皮肉にも、父ダビデがした罪をそのまま息子が為し、そして、ダビデの娘は強姦の被害者となった。
子供は親の背中を見て育つ。
良い事も悪い事も、親がした事を、子は見習ってするものだ。

『それからアムノンは、ひじょうに深くタマルを憎むようになった。彼女を憎む憎しみは、彼女を恋した恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った、「立って、行きなさい」。』(2サムエル記13:15)
結局これが、彼がずっと抱いていた「恋心」の正体である。
それは「これが欲しい」「あれが欲しい」「何をしてでも手に入れたい」といった、ただの「激しい情欲」だったのだ。
『欺き取ったパンはおいしい、しかし後にはその口は砂利で満たされる。』(箴言20:17)
禁断の木の実をこっそり食べる時、それは甘美な味かどうかは分からないが、一つはっきりしている事は、それは口にした途端「じゃり」に変わり、神経に触るような苦々しい思いに満たされ、取り返しがつかなくなるものである。

『タマルはアムノンに言った、「いいえ、兄上よ、わたしを返すことは、あなたがさきにわたしになさった事よりも大きい悪です」。しかしアムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、彼に仕えている若者を呼んで言った、「この女をわたしの所から外におくり出し、そのあとに戸を閉ざすがよい」。』(2サムエル記13:16)
アムノンは、ただ一度きり、ほんの数分で終わる「欲情の発散」を遂げるため、彼女の一生を台無しにし、そして事を為し終えたら、彼女を捨て去った。
それもまた当然、神の国においては、重大な違反である。

聖書において、肉体関係を結んで良いのは、唯一、結婚相手に対してのみであり、そして結婚とは、相手の伴侶に対し、自分を”唯一の異性”としてコミットする事である。
すなわち、女性は相手の男性に唯一専属的な「女性」となり、男性は相手の女性に唯一専属的な「男性」となり、相手以外に「性」は開放しないのだ。
この聖書の価値観は、以下に定められている律法からにじみ出ている。

『男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。その女には何もしてはならない。女には死にあたる罪がない。人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件だからである。これは男が野で女に会ったので、人と婚約したその女が叫んだけれども、救う者がなかったのである。』(申命記22:25-27)
このような強姦事件の場合は、「人がその隣人に立ちむかって、それを殺したと同じ事件」に相当すると言われている。
つまり、男が力づくで女性を犯す行為は、その女性を殺したも同然の行為であり、その女性の貞潔や人格、将来を殺すばかりでなく、その女性がコミットした相手の心をも、ぐちゃぐちゃに踏みにじる行為なのだ。

そしてまた、婚約前の状態で肉体関係を持ったとするなら、死刑ではなく、一生涯、相手に対しコミットする責任が生じる。
『まだ人と婚約しない処女である女に、男が会い、これを捕えて犯し、ふたりが見つけられたならば、女を犯した男は女の父に銀五十シケルを与えて、女を自分の妻としなければならない。彼はその女をはずかしめたゆえに、一生その女を出すことはできない。』(申命記22:28-29)

アムノンはようするに、律法に照らすなら、死刑に当たる罪を幾つも犯したわけである。
それを自分は王の長男だという事で、何事も特に罰されないまま、のうのうと暮らしている。
しかし、義が行われる神の国においては、そのまま何事も無く過ごせるという事は無い。

『この時、タマルは長そでの着物を着ていた。昔、王の姫たちの処女である者はこのような着物を着たからである。アムノンのしもべは彼女を外に出して、そのあとに戸を閉ざした。タマルは灰を頭にかぶり、着ていた長そでの着物を裂き、手を頭にのせて、叫びながら去って行った。』(2サムエル記13:18-19)
当時のイスラエルで「長そでの着物」は、日本の「振袖」のように、未婚の処女が着るものである。
彼女はその袖を裂き、泣き叫びながら出て行った。
もはや彼女は、アムノンの一方的な陵辱の故に、処女ではなくなってしまい、一生、ひっそり暮らしていかなくてはならないと絶望したからだ。

こうしてダビデは、強姦被害者の親、強姦加害者の親、近親相姦が起きた家の親、という、実に恥ずかしい立場になってしまった。
ダビデ王の家の中で、このような忌ま忌ましい罪が行われてしまう・・・。いかに栄光の王族の家といえども、肉欲に燃料投下し罪を放置しておくなら、その真っ只中でも忌ま忌ましい事が行われるものだ。
だから私達は、日々霊的に目を覚まして、誰も罪に陥ることが無いよう、聖徒の交わりにおいて互いに励まし合い戒め合う必要があるのだ。
『あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。』(ヘブル3:13)

遂げてはならない欲情が沸き起こる時(2サムエル記13:1-6)
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ダビデは、家の中から災いが湧き起こる事を、主から警告されていた。(12:11)
なぜなら「姦淫」という罪はいのちへの冒涜であり、家系や子孫などの「いのち」から反撃を受けるものだからだ。

『さてダビデの子アブサロムには名をタマルという美しい妹があったが、その後ダビデの子アムノンはこれを恋した。』(2サムエル記13:1)
アムノンも、アブシャロムも、ダビデがヘブロンで王だった時に生まれた子達である。
アムノンはダビデに最初に生まれた「長男」であるため、王位継承の筆頭者ではあったが、彼は良い信仰の持ち主ではなかった。

彼は異母の妹であるタマルに恋をした。
近親者との結婚は、神の民の中では「あってはならない」事である。(レビ記18章)
してはならない事、叶わない事であるなら、その欲求が沸き起こった初期の段階で、思いと意思、感情をコントロールしておけば、何でもなかったが、彼はそれをコントロールせず、情の流されるままに思い巡らし、それを募らせてしまった。

してはならない事への欲情が沸き起こった時、その事を思い巡らす事は、その欲情に対し燃料を投下する事であり、ますます燃え上がって、やがて手がつけられなくなってしまう。
若者が、叶えてはならぬ欲情に焦がれてしまう時、それを消火するために、シンプルかつ強力な方法がある。
それは、御言葉を暗記する事によって、である。
『若い人はどうしておのが道を/清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません。』(詩篇119:9)

実際、謂れのない強烈な情欲や、自己嫌悪感、深い悲しみなど、あらゆる負の思いが来た時、試てみると良い。
箴言のどこかを2,3節も暗記(あるいは暗記する努力)をするなら、その僅かな時間で、そのような思いは消えて無くなる事を体験するだろう。
実際、天声教会の80%以上の聖徒たちはテフィリンを実践し、それによって頭脳が活性化し、どうしようもない傷や性質が改善され、人格も品性も整えられている事を、日々実感している。
(御言葉教育「テフィリン」の効用について: http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2463&cid=3  http://voice.of.christ.yokohama/modules/d3blog/details.php?bid=2493&cid=3

『アムノンは妹タマルのために悩んでついにわずらった。それはタマルが処女であって、アムノンは彼女に何事もすることができないと思ったからである。』(2サムエル記13:2)
アムノンが悩んでわずらった理由は、彼女は「処女であって、何事もすることができない」点だった。
つまりアムノンの望みは、処女である彼女に、何事かをしたい、けれども、御言葉を恐れ敬う周囲の環境ゆえに、自分にはそれができない、そのようなジレンマを抱えていたのだ。
アムノンにとって、自分の肉欲のほうが御言葉よりも主人であり、御言葉は彼にとって「足かせ」以外の何者でもなかった。
自分の思いや意思、感情を御言葉の前に平服させるのが神の民のたしなみであるが、彼はそのたしなみを持っていなかった。

肉と御霊、どちらを主人とし、どちらに仕えるか。それによって、いのちを刈り取るか、それとも死を刈り取るかが決まってしまう。
『自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:8)

『ところがアムノンにはひとりの友だちがあった。名をヨナダブといい、ダビデの兄弟シメアの子である。ヨナダブはひじょうに賢い人であった。彼はアムノンに言った、「王子よ、あなたは、どうして朝ごとに、そんなにやせ衰えるのですか。わたしに話さないのですか」。アムノンは彼に言った、「わたしは兄弟アブサロムの妹タマルを恋しているのです」。』(2サムエル記13:3-4)
心の思い悩みを何でも打ち明けられる友人を、人は「貴重」「何よりの宝」と言うかもしれない。
しかし、友人関係の平和さを重視するあまり、聞き心地は良くても、御言葉には反するアドバイスをするとするなら、それがかえって滅びの元となってしまう。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。』(箴言27:5-6)
事実、この友人の「全く御言葉に基づかない助言」が、アムノンを滅ぼしてしまう事になる。

『ヨナダブは彼に言った、「あなたは病と偽り、寝床に横たわって、あなたの父がきてあなたを見るとき彼に言いなさい、『どうぞ、わたしの妹タマルをこさせ、わたしの所に食物を運ばせてください。そして彼女がわたしの目の前で食物をととのえ、彼女の手からわたしが食べることのできるようにさせてください』」。』(2サムエル記13:5)
賢い彼がした助言は、単なる「彼女とふたりきりになれる妙案」だった。
彼は、アムノンの劣情を遂げさせようとしてこの提案をしたのかどうかは分からないが、ある女性に対して情欲を持った男を、その女性と二人きりにさせるのは、決して良い助言ではない。

神の国に属する人が、結婚してはならないような相手を欲しがり、妙案と力づくでものにしてしまうのは、滅びの元である。
ノアの洪水は、神の子達が、人の娘たちのいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻とした事が発端だった。
それによって生まれた者達が、力づくの原理で地上に悪を増大させ、心に計る事がみな悪に傾くようになってしまったため、人の寿命は引き下げられ、ひいては、大洪水が引き起こさ、その世代の者達は滅びてしまった。(創世記6章)
ダビデも、結婚してはならない女性に欲情をいだき、権力で「もの」にしたが、彼はそれを悔い改めた事によって、死は免れた。
しかし、その罪の刈り取りは、子孫の中にはびこってしまう事になる。

遂げてはならない欲情への対処方法は、ただ、御言葉を摂り入れる事によってである。
私達は努めてそれを実行し、自分の家系に、罪や呪いの入り込む余地が無いようにしたい。

火曜早天祈祷会
古きを洗い流すもの - 水と血(イザヤ54:9-10)
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バテ・シェバを慰めるダビデ(2サムエル記12:24-31)
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ダビデは姦淫の罪を犯した故に、これからその報いを受けて行かなくてはならないが、主に罪を指摘された以降のダビデは、正面からそれと向き合っていく。
『ダビデは妻バテシバを慰め、彼女の所にはいって、彼女と共に寝たので、彼女は男の子を産んだ。』(2サムエル記12:24)

ダビデはバテ・シェバを通して苦い経験をしたが、それで彼女を捨て去ったり疎んじたりする事はなく、しっかり彼女を慰めた。
何しろ彼女は、ただ一方的に、ダビデの罪故に災難に引き込まれたのだから。
彼女は、体を洗っている所を勝手にダビデ王に見られ、勝手に情欲を抱かれ、一方的に呼び出され、姦淫の相手とされ、夫ウリヤは謀殺され、ただ一方的に王の妻とされた。
そして生まれて来た子は、王の罪の故に死んでしまった。
そんな目に遭わせた彼女を疎んじるなど、御前においてとんでもない事だ。
ダビデは彼女を、根気よく慰める責任がある。

『ダビデはその名をソロモンと名づけた。主はこれを愛された。そして預言者ナタンをつかわし、命じてその名をエデデア(「主に愛された」の意味)と呼ばせられた。』(2サムエル記12:25)
世界的に有名な、あの知恵に満ちた王・ソロモン王は、このようにして生まれた。

ところでソロモンは、かの事件の後、すぐに生まれたわけではない。
彼は4男であり、彼が生まれるに至るまで、色々な紆余曲折があったようである。
『エルサレムで生れたものは次のとおりである。すなわちシメア、ショバブ、ナタン、ソロモン。この四人はアンミエルの娘バテシュアから生れた。』(1歴代誌3:5)
ダビデとバテ・シェバとの間に生まれた最初の子・シメアは、ダビデの罪ゆえに主に打たれて死んでしまった。
シメアの名の意味は「聞く、うわさ」であり、彼が生まれた時、ダビデの姦淫やウリヤ謀殺について、色々なうわさ話が聞かれていたのかもしれない。
次男ショバブの名は「堕落する、反逆的な、手に負えない」という意味である。
バテ・シェバの、その時のダビデに対する態度がそうだったかもしれないし、あるいは、子は母の胎にいる時、母の状況や精神状態に影響を受けやすいものであるが、そのため子が反逆的で手に負えなくなってしまったのかもしれない。
また、3男ナタンの名は「与えられる、置かれる」という意味である。
ダビデとバテ・シェバとの間に、段々落ち着きが与えられて行ったのだろう。
そして4男、ソロモンは「平和」という意味である。
ようやく平和な心で子が生まれた事を喜び祝い、平和の子となったのかもしれない。

『さてヨアブはアンモンの人々のラバを攻めて王の町を取った。ヨアブは使者をダビデにつかわして言った、「わたしはラバを攻めて水の町を取りました。あなたは今、残りの民を集め、この町に向かって陣をしき、これを取りなさい。わたしがこの町を取って、人がわたしの名をもって、これを呼ぶようにならないためです」。そこでダビデは民をことごとく集めてラバへ行き、攻めてこれを取った。』(2サムエル記12:26-29)
元々、アンモン人との戦いが発生した時から、ダビデの怠慢がはじまり、そうして一連の事件が起きたのであるが、その間、ヨアブの活躍によって、戦いは大体の収束をつけてきた。
そしてダビデは、ヨアブの促しによって、戦いの指揮をとる立場へと戻り、勝利し、こうしてアンモンは平定された。

このように外敵は平定されたものの、次章以降、ダビデは外敵ではなく身内から、すなわち、子と子の間の問題で、苦々しい経験をしていく事となる。
姦淫は、産んで増えて行く「いのち」に対する冒涜であり、姦淫をする人は、生まれてくる子や身内の「いのち」から災いを返されてしまうものだ。

ダビデ王のバテ・シェバとの馴れ初めは、最悪に類するものだが、主は、人のそのような「最悪」を「最善」へと造り替える事ができるお方であり、彼らの間に生まれた子を用いて、主は、全人類救済のご計画を遂行していく。
罪を犯した男女の、いのちが呪われてしまった歩み。それはエデンの園以降、全人類に重くのしかかるものであるが、ダビデがバテ・シェバを根気よく慰め続けたように、人がいのちを大切にし営んで行く所なら、主はそこから救いのご計画を遂行されて行くのだ。

石女から宝石のような世代へ(イザヤ54章)
第一礼拝: Youtube動画 / 音声
賛美集会音声
第二礼拝: Youtube動画 / 音声
週報/メッセージ(説教)概要

『子を産まなかった石女(うまずめ)よ、歌え。産みの苦しみをしなかった者よ、声を放って歌いよばわれ。夫のない者の子は、とついだ者の子よりも多い」と主は言われる。』(イザヤ54:1)
なぜ主は、子を産まない女に「喜べ」と言われるのだろう。聖書は、不妊の女や、生まれる望みのない女に奇跡的に子を与え、その子が時代を変えるようになる記述が多いが、それは、母をうめかせ、祈りへと導き、その祈りとうめきによって御前に飾られた子を、御言葉と信仰によって育て、そして時代を変えるためだ。
主は、ハンナに子を産ませなかった。彼女が「声にならない程のうめきの祈り」を生むまでは。(1サム1章)
主は、その暗黒の時代にサムエルを生み落とすために、ハンナを選び、彼女に声にもならない心からの祈りを引き出すために、石女にしたのであろう。それ程までに、「祈り」と「捧げる心」は重要なのだ。
彼女がこの祈りをした時、生まれてくる子は、主に捧げられ、それによって主は、その子をご自分の御旨どおり用いる「きっかけ」を得、こうして時代の指導者でありキングメーカーであるサムエルが生み出された。
「あなたの子孫はもろもろの国を獲、荒れすたれた町々をも住民で満たす」(3節)と記されている通りである。

子を産まない女、夫のない女は、世間からの恥がつきものだが、主は、主にすがる人々に言われる。
『恐れてはならない。あなたは恥じることがない。あわてふためいてはならない。あなたは、はずかしめられることがない。あなたは若い時の恥を忘れ、寡婦であった時のはずかしめを、再び思い出すことがない。あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。』(4-5節) すなわち、主にすがる全ての人には、主ご自身が夫となり、その子にとって、主が父となり、もはや恥じる事も、はずかしめを受ける事もなくなるのだ。

この女が捨てられて悲しんでいた(6-7節)のは、昔、主から離れて好き勝手に生きていたためかもしれない。あるいはハンナのように、時代を変える子を生むための祈りを引き出すためかもしれない。
最初から主に祈り主に捧げる生活をして苦しみや悲しみを経験しないのがベストだが、たとえその中でも主に捧げ祈るなら、主はやがて悲しむ妻を引き寄せるように慰め、大きな憐れみをもって集められる。
主はノアの時代、前の邪悪なもの達は全て水で洗い流し、その後、二度とそのような裁きはしないと、虹をもって契約されたが、私達も、主イエスにあって新しく生まれ変わり、古い性質を全て洗い流したのであるなら、主の憐れみと慈しみは、二度と奪われる事は無い。たとえ山は移り丘は動いても。(8-10節)

不妊の女「うまずめ」。漢字では石の女と書くが、たとえ私達が石のようであっても、ハンナのように心から主にうめき、主を呼び求めて祈るなら、炭が圧縮されてダイヤモンドとなるように、石は宝石へと変えられる。
『苦しみをうけ、あらしにもてあそばれ、慰めを得ない者(女)よ、見よ、わたしはアンチモニーであなたの石をすえ、サファイヤであなたの基をおき、めのうであなたの尖塔を造り、紅玉であなたの門を造り、あなたの城壁を尽く宝石で造る。あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える。』(11-13節)
不妊の女、石の女、いのちを生み出す事のできなかった女は、ハンナのごとき祈りによって、宝石へと変えられ、宝石へと造り変えられた女は、子をテフィリンし、その子は世を造り変えて行く「宝石」へと育って行く。
たとえ自分の胎で産んだ子でなくても、主の教育によってその子を育てて行くなら、その子は主の前に宝石のような飾りとなる。 『その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。』(イザヤ49:21)

石女ハンナはやがて、宝石のような喜びの賛歌を主に捧げる。イエス様を産んだマリヤの賛歌のような、素晴らしい主への賛美を。私達も彼女達のように、時代を変える世代を産み、宝石のような子達を主に捧げるためには、主にうめきつつ祈る必要がある。この時代のために、この国のために。
ハンナの時代も、マリヤの時代も、暗闇の時代だったが、彼らは宝石のように輝いた。この暗闇の時代、彼女達のように宝石のように御前に輝く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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