メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
受難日早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
シモンというクレネ人(ルカ23:24-27):右クリックで保存
神の子キリストであるという真理を答えた故に有罪とされたイエス様(マタイ26:57-68)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2015-4-5 18:31
受難日前日 早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の子キリストであるという真理を答えた故に有罪とされたイエス様(マタイ26:57-68):右クリックで保存
受難週 水曜第二礼拝 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
権威の内に捕縛「される」イエス様(マタイ26:47-56):右クリックで保存
受難週 水曜第一礼拝 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ゲツセマネで祈る主と眠る弟子達(マタイ26:36-46)(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つくばエクレシア礼拝(ルカ22:14-20):右クリックで保存
火曜早天祈祷会 礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
過越のごちそうにあずかれる人の条件(出エジプト記12:43-49):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:強者になぶりものにされる人の性質(1サムエル記17:1-16):右クリックで保存
『さてペリシテびとは、軍を集めて戦おうとし、ユダに属するソコに集まって、ソコとアゼカの間にあるエペス・ダミムに陣取った。サウルとイスラエルの人々は集まってエラの谷に陣取り、ペリシテびとに対して戦列をしいた。ペリシテびとは向こうの山の上に立ち、イスラエルはこちらの山の上に立った。その間に谷があった。』(1サムエル記17:1)
この17章には、イスラエルの羊飼いの少年・ダビデが、ペリシテの巨人戦士・ゴリヤテを討ち取った、あの有名な戦いが記録されている。
『時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。』(1サムエル記17:4-7)
彼の背の高さは286cmもあり、150cmの女性2人が肩車したくらいの背丈になるだろう。
身に帯びている鎧の重さは、57キロ、中高校生一人分を身にまとっているようなものである。
彼は、ガテ出身と記されている。
ゴリヤテのような巨人の一族「アナクの子孫」は、ヨシュアの時代、イスラエルの戦士達によってほぼ根絶されたのだが、ガテの他、ペリシテの領地には若干、生き残りを残してしまった事が記されている。(ヨシュア記11:22)
この、アナクの子孫はかつて、イスラエルにとって罠となった。
ヨシュアの一世代前のイスラエルは、アナク人の大きさや、装備のすごさを見て、恐れをなした。しかし主は、必ず勝利できるという事を、様々のしるしをもって示された。
それなのにイスラエルはそれを信じず、かえって、信仰によって進み出ようというヨシュアやカレブ、モーセやアロンを、石で撃ち殺そうと言い出した。
それ故、彼らは荒野で四十年の生活を強いられ、不信仰の世代は誰一人、約束の地に入る事ができなかった。(民数記13章、申命記1章)
『あのペリシテびとは四十日の間、朝夕出てきて、彼らの前に立った。』(1サムエル記17:16)
サウルの時代も過去同様、アナク人を恐れるという「罠」に陥り、四十という日々の間、信仰者ダビデが来るまで、屈辱の日々を送らされる事になる。
『ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。』(1サムエル記17:8-9)
彼の言葉には、当然の事ながら、神である主の事は、一切無い。
ただ大上段から、一方的に、彼か勝手に決めたルールを押しつけているだけである。
『またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。』(1サムエル記17:10-11)
このような、神である主を敬う事が一切無い、世の、力強き者の言葉を鵜呑みにするなら、意気消沈し、ただなぶりものにされる日々を送るのみである。
私達は、目の前に立ちはだかる諸々の「敵」、すなわち、「現実」や「世情」などといった「ゴリヤテ」の巨大さや、力強そうな有り様を見て、恐れ、その者の突きつけてくる言葉を鵜呑みにして、意気消沈してないだろうか。
この、主を知らぬ無割礼の者が勝手に発信して来る諸々の事どもに、なぶりものにされていないだろうか。
ゴリヤテは「お前達はサウルの奴隷ではないか」と言っているが、本来、イスラエルの陣の戦士たちは、万軍の主が味方する無敵の戦士たちであるはずである。
なのに、皆、ゴリヤテの言葉を「ああそうだ」と信じて、神のしもべではなく、サウルのしもべであると鵜呑みにしてしまっている。
ゴリヤテがイスラエルの民を「サウルのしもべ」とレッテルを張ってきたように、世に流れている無割礼の流行(アイオーン)は、現実社会やメディアを通じて、レッテルを張ってくる。
「おまえ達は何々会社の奴隷ではないか、社会システムの奴隷ではないか、おまえは、あれにもこれにも勝利して、こうならないなら、お前たちの未来は無い」などと。
これらの、万軍の主への言及が一切無い、無割礼の言葉が、私達に「奴隷」である事を押し付けてくる時、私達は、真理の御言葉を、信仰を混ぜて宣言し、対抗すべきである。
自分は今、キリストと共に生かされ、共によみがえらされ、共に天上で座につかされた者達である、もはや今、私はキリストにあって、世の流行や、ゴリヤテの投げてくる言葉とは、一切関わりの無い者である、と。
『あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世の「ならわし(流行:アイオーン)」に従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ2:1-6)
ひるがえって、このゴリヤテを倒したダビデは、どんな人であったか。
『さて、ダビデはユダのベツレヘムにいたエフラタびとエッサイという名の人の子で、この人に八人の子があったが、サウルの世には年が進んで、すでに年老いていた。エッサイの子らのうち、上の三人はサウルに従って戦争に出た。その戦いに出た三人の子の名は、長子をエリアブといい、次をアビナダブといい、第三をシャンマと言った。ダビデは末の子であって、兄三人はサウルにしたがった。ダビデはサウルの所から行ったりきたりして、ベツレヘムで父の羊を飼っていた。』(1サムエル記17:12-15)
イスラエルが兵役につく事が出来るのは、20歳以上なので(民数記1:3)、その下にさらに兄が4人いた、という事は、ダビデは少なくとも15歳より下だっただろう。
ゴリヤテは、ダビデの体重より重い鎧を身につけていたのだろうし、体のサイズは、ダビデの何倍はあっただろう。
フライ級(49kg程)とヘビー級(90kg程)が戦うより、遥かに差がある戦いだ。
ダビデは羊を飼っていたが、羊飼いは、下っ端仕事の筆頭で、イエス様の時代も羊飼いは住民登録にも呼ばれなかったほどだ。
ダビデも、サムエルの食卓に招かれなかった程軽んじられていた。
ゴリヤテと見比べるに、いかに差があっただろう。
しかしすぐ後、そのダビデが、ゴリヤテを討ち取るのだ。
いかにつまらない存在として、世から見放されていたとしても、勝利の主が共におられるなら、イスラエルの誰もが恐れたゴリヤテさえ、たやすく倒されるのである。
主は弱いものを、あえて用いられる。
それはただ、主が栄光をお受けになり、人間的な強さを頼りとする人をはずかしめるためだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』(1コリント1:26-31)
主は、弱いものを用いられる。キリスト教会ではよく聞く、聞こえのいい言葉だ。
しかし主に信頼せず「現実」というゴリヤテを見て、意気消沈する人は、「ただの弱い人」終わりであり、サウルと家来達のように40という数字の間、なぶりものにされ、虐げられるのみである。
しかし、ヨシュアやダビデのように、万軍の主を頼みとするなら、主が戦って下さり、勝利するのだ。
礼拝説教メッセージ音声:音楽と霊の世界との関係(1サムエル記16:14-23):右クリックで保存
サウルは、人目を恐れる性質を取り扱わず、野放しにしたため、自分の王位が奪われそうであるならば、サムエルさえ殺しかねないような邪悪な性質を培ってしまった。
私達も、罪が戸口で慕っている時、それを主にあって取り扱わないなら、もっとに悪い事になってしまう。
『さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。』(1サムエル記16:14)
主が悪い霊を送られる、という事は、ある。
イスラエル最悪の王・アハブは、主から送られた偽りを言う霊によって戦いに出させ、それによって、彼は滅んだ。(1列王記22章)
主から悪い霊が送られる者に共通する事は、神から遣わされた預言者を何度も退け、自分の好む事を言ってくれる人を周りにはべらし、それにうつつを抜かして、健全な御言葉に耳を傾けない事だ。
『彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テモテ2:10-12)
主に良くしていただいたのに、健全な御言葉を受け入れず、思いを無防備に放置して置くなら、もっと性質の悪い霊どもが入ってしまい、その人の状態は前よりも一層悪くなってしまうのだ。(マタイ12:45)
だから、主に清めていただいて、心に、あるいは時間にゆとりが出来た時、その「隙間」は健全な御言葉や賛美で満たしておくべきだ。
さもないと、変な霊がふらっと入って来て、以前の状態どころか、もっと悪い状態へと陥ってしまうのだ。
『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。』(1サムエル記16:15-17)
霊の世界と、音楽とは、非常に密接な関係があるようだ。
サウルが最初に主の霊が激しく降った時、預言者達の一団が色々な楽器を奏でつつ預言していたし、エリシャも預言をする時、立琴をひく者を連れてこさせた事があった。(2列王記3:15)
『ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。』(1サムエル記16:21-22)
こうして、主の導きよって、主に油注がれたダビデと、主の霊が去ったサウルとが、一緒になった。
ダビデはこれより、サウルの元で活躍し、サウルに取って代わる王となって行く。
『神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。』(1サムエル記16:23)
主を敬う人が奏でるメロディや、賛美は、悪しき霊を退けさせる。
神は、賛美を住まいとされるからだ。(詩篇22:3)
音楽は、霊的な事柄と密接に関わっているゆえに、悪しき事柄にも作用しやすい。
サタンは元々、天使ルシファー、すなわち、音楽を奏でる天使だったが、自分の美しさに酔いしれて高慢になり、堕落してしまった。(エゼキエル28:12-19)
だから、特に、賛美や音楽の奉仕をする人は、高慢にならぬよう、また、主の栄光をいつも思うよう、気をつけるべきである。
黙示録を見ると、天国は、賛美で満ちている所である事が分かる。
私達は、サウルの罠に陥る事なく、心を空白にする事なく、いつも健全な御言葉に耳を傾け、時間や心に隙間が出来たなら、そこを賛美や御言葉で満たし、悪しき者が入り込む余地が、どこにもないようにしたい。
『そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。』(エペソ5:15-19)
十字架の前の宴 - 最後の晩餐で制定された聖餐(ルカ22:14-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
賛美集会音声:右クリックで保存
第二礼拝・礼拝音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
本日は教会暦では「しゅろの聖日(パームサンデー)」、すなわち、イエス様がろばに乗ってエルサレムに入城し、人々が衣服や「しゅろの葉」を置いて「ホサナ」と叫びつつ迎えた日で、その日を起点に、金曜までを「受難週」 、そして次週主日は、主のよみがえりを祝う復活祭(イースター)である。本日は十字架の死を前に、主が弟子達にもうけた宴会、「最後の晩餐」にて、主が制定された「聖餐」をよく学びたい。
『イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。』(15節) イエス様が弟子達と持たれた、最後の晩餐は、「過越の食事」である。
過越祭は、主がイスラエルをエジプトから脱出させた事を記念する祭りである。エジプト脱出前夜、主は男子の初子を全て死に絶えさせる災いを降したが、ある事をした家は「死が過ぎ越し」、一人も滅びなかった。
そのある事とは、傷の無い小羊をほふってその血を家の戸口に塗り、その家の中で「過越の食事」にあずかる事である。この小羊こそ、十字架上でほふられ、肉を裂かれ、血を流されたキリストを意味している。
血のしるしの外では、死と滅びがあったのに対し、血の内側には、ごちそうと救いがあったように、十字架上でほふられるキリストを信じる者には、死と滅びは過ぎ越し、永遠のいのちと、ごちそうに与れるのである。
『あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。』(16節) キリストは一度ほふられたが、二度とほふられる事は無い。過越はまだ神の国で成就しておらず、かの日に血潮の内にいるか、外にいるか、全ての人は、その選択をする時機にいるのだ。
『キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。』(ヘブル9:28)
キリストが二度目に来る時は、彼を待ち望んでいる人の救いのために来られるのであって、もう一度十字架にかかるためではない。だから、一度罪赦され血潮で洗われたのに、相変わらず好き好んで罪を犯し、キリストを何度も十字架につけるような者には、もはや贖いの血潮は残されていない。(ヘブル10:26)
『そして杯を取り、感謝して言われた「これを取って、互に分けて飲め。」・・・またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」』(17-18節) 神はイスラエルに過越を制定されたが、イエス様は私達に、パンと杯の聖餐を制定された。それも、イエス様を記念し、イエス様を覚えて行うように、と。
聖餐にあずかる時、イエス様の裂かれた肉と、流された血潮とを、覚える事こそ、重要だ。
罪を犯してきたかどうかが、聖餐に相応しい・相応しくないではない。御体は罪を罰するために裂かれ、血は罪を清めるために流されたから。だから罪があるなら、いっそうキリストを覚えて、聖餐にあずかるべきだ。
キリストは「取って食べなさい」と言われ、「飲みなさい」と言われた。イエス様が、いのちを差し出してまで、私達が食べられるように、また飲めるようになって下さった以上、断固、感謝していただくべきなのだ。
イエス様は、私達の身代わりになって、死なれた。感謝しても、し尽くせないものがある。私達は、キリストの流された血潮と、裂かれた肉にあずかる時、イエス様に対する感謝、恩、それをいつも覚えているだろうか。
イスラエルの民が、一歳の傷の無い、かわいい盛りの羊を、自分達の身代わりとしてほふる時、血の生々しいしるしが門にあるのを見、その小羊を食べる時、感謝と申し訳無さに、涙があふれた事だろう。
皆さんは、ほふられた小羊キリストが死なれた事の悲しさ、罪の身代わりになってくれた事の申し訳無さ、そして救われた事への感謝と喜びの「感覚」があるだろうか。キリストを覚えて、涙溢れた事はあるだろうか。
その申し訳無さや感謝や喜びの「感覚」を味わう事こそ、キリストを味わう事である。
教会において、御言葉なるキリストを学び、キリストの素晴らしさをわかちあう時、あるいは、キリストの話題で盛り上がりながら共に食卓にあずかる時、その交わりは、キリストの血と肉を分かち合う、一種の聖餐のようなものである。しかしもしキリストを分かち合うべき交わりの場において、キリストをおぼえる事抜きで礼拝したり、飲み食いするなら、その飲み食いがその人をさばく事になる。(1コリント11:17-34)
主キリストにある事をわきまえて、共に集い、共に恵みを豊かに分かち合う皆さんでありますように!
