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礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族に割り当てられた領地(ヨシュア記18:11-28):右クリックで保存
ヨシュア記18章の後半以降、残り7部族への相続地の割り当てが記されている。
その中で、真っ先にくじが割り当てられたのは、ベニヤミン族であった。
『まずベニヤミンの子孫の部族のために、その家族にしたがって、くじを引いた。そしてそのくじによって獲た領地は、ユダの子孫と、ヨセフの子孫との間にあった。』(ヨシュア記18:11)
モーセは死ぬ時、ベニヤミン族を次のように祝福している。
「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り、/その肩の間にすまいを営まれるであろう」(申命記33:12)
モーセが「その肩の間にすまいを営まれる」と預言した通り、彼らはユダ族とヨセフ族という”両肩”の間に相続地を得た。
彼らへの相続地は、あまり広い地域ではないが、後のイスラエルにとっての要所がいくつかある。
『またギベオン、ラマ、ベエロテ、ミヅパ、ケピラ、モザ、レケム、イルピエル、タララ、ゼラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギベア、キリアテ・ヤリム。すなわち十四の町々と、それに属する村々。これがベニヤミンの子孫の、その家族にしたがって獲た嗣業である。』(ヨシュア記18:25)
ギベオンやラマは、ベニヤミンの母・ラケルが死んだ所とされ、その付近に彼女の墓があったと考えられており、エレミヤは、その地方が後にバビロンによって滅ばされる事を「嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。」(エレミヤ31:15)と預言している。
ラケルは、ベニヤミンを産む時、とても難産で苦しんだため、その子を「ベン・オニ(私の苦しみの子)」と名づけたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけた。(創世記35:16-20)
ベニヤミンは、生まれたと同時に母が死んだので、母との思い出が無かったであろうが、彼の子孫は、その母が死んだ場所、墓のある場所が、主から相続地として与えられたわけである。
また、ミツパという場所は、後に、イスラエルが戦いや集会の時に集う場所として、よく用いられた。(士師記10:17、20:1、1サムエル記7:5)
そしてなんと、エルサレムも、ベニヤミンの相続地の中に含まれている。
エルサレムはダビデの町として、代々ユダ族の王が住んで来たため、ユダ族にくじが当てられたと思われがちだが、元々は、ベニヤミン族にくじが当てられた土地である。
なぜそこはユダ族が住む所となったのか。
ベニヤミン族はいつまでもエルサレムに住むエブス人を追い出さずにいた。
また、ベニヤミン人サウル王の時代になってもそこは手付かずのままであったため、結局、その後のダビデ王が、そこに住んでいるエブス人を追い払ったために、結局ダビデの町となったのだ。(2サムエル5:5-9)
そして、後にはこのエルサレムに神殿が建設され、ベニヤミン族は、神殿に礼拝しに行くのに近いというメリットが与えられた。
また、ソロモンの後の時代にイスラエルが北と南に分割された後も、ベニヤミン族はユダ族の側についたため、「主に愛される者、/彼は安らかに主のそばにおり、/主は終日、彼を守り」というモーセの預言が成就したのだ。
ベニヤミン族は、ヤコブの祝福によって、大きな力が与えられているのに(創世記49:27)、積極的に攻めて行かず、結局この狭い地域しか与えられなかった。
また、エルサレムという素晴らしい地が与えられているのに、そこも長らく攻め落とさずにいたため、ユダ族のダビデによって、先取りされてしまった。
私達は、主から与えられた力をもって、積極的に祝福を勝ち取っていくものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:いつまで行かないのか(ヨシュア記18:1-10):右クリックで保存
『イスラエルの人々の全会衆は、その地を征服したので、シロに集まり、そこに会見の幕屋を立てた。』(ヨシュア記18:1)
シロという場所は、イスラエル全領土のほぼ真ん中、エフライムの相続地の中に位置し、ここに会見の天幕が設置されて以降、ダビデの時代までそこは人々がいけにえを捧げに来る礼拝の場所となった。
ヨシュアはそこで、イスラエル全体を呼び寄せ全体会議を開いた。
『その時、イスラエルの人々のうちに、まだ嗣業を分かち取らない部族が、七つ残っていたので、ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、先祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのですか。』(ヨシュア記18:2-3)
カナンの相続地は、順番待ちして得る類のものではなく、積極的に進み行く人が、早い順に獲得するものである。
事実、ルベンやガド、マナセの半部族は、早期に求めたために早く得たし、また、ユダ族やヨセフ族は、積極的に攻め行ったために、広く良い地を得た。
これら五部族が、先に占拠してしまったから、もう残りは無かった、というものでもない。
なにしろ、主がアブラハムに約束された土地は、「エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。」(創世記15:18)という、広大な地である。
だから、もしこれら七部族が、ユダ族達のように積極的に攻め行っていたなら、聖書の巻末等にあるイスラエル十二部族の相続地図は、もっともっと広いものとなっていただろう。
しかしこの七部族は、ヨシュアが老年になったこの時まで、ずっと手をこまねいて、獲得しに行かなかった。
だからヨシュアは「主が、あなたがたに与えられた地を取りに行くのを、いつまで怠っているのか」と叱責したのだ。
キリスト者の中にも、天の御国の働きのために、積極的に自ら動いて働く聖徒もおれば、自分の手は動かさず、ただ他の兄弟姉妹が働いて得た恩恵に乗っかるのみの人もいる。
しかし自分の手を動かさない者は、着実に貧しくなって行き、努めて働く人は、確かな報いを主から得られる。(箴言10:4)
『なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、”自分の行ったことに応じて”、それぞれ報いを受けねばならないからである。』(2コリント5:10)
私達は、少しでもラクしようと考えたり、いかに手を動かさないかを思案したりするような、”けち”な考えではなく、むしろ、ユダ族やマナセ族のように積極的に多くを勝ち取り、得たものは気前よく他の聖徒達に引き継がせ、さらに積極的に勝ち得て行くものでありたい。
『人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。 』(エペソ6:6-8)
『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。 』(黙示録22:12)
メルキゼデク – 永遠の祭司(創世記14:14-24)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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今回はメルキゼデクという人物について見て行きたいが、彼はとても特異的な存在である。
メルキゼデクが登場するのは創世記14章のみで、突如アブラムに現れ、彼を祝福し、それ以降は姿を現さないが、その名は詩篇に1回、ヘブル書に8回、永遠の大祭司として登場する。
メルキゼデクが現れた創世記14章には、アブラムの第二の信仰の試練と、そして大勝利が記されている。
シヌアル(現・イラク周辺諸国)の4人の王達が集結し、現・イスラエル周辺諸国の5人の王達に戦いを挑んで、勝つのだが、その時、ソドムの中に住んでいたアブラムの甥のロトも、捕らえられてしまった。
それを聞いたアブラムは、彼の家で生まれたしもべ318人を率いて、その4人の王達に戦いを挑んだ。
今回彼は、エジプトで得た奴隷には一切頼らず、ただ自分の家で生まれたしもべだけの、信仰の小数精鋭部隊をもって相対して、見事勝利し、ロトを救い出したばかりでなく、多くの分捕り物も得たのだ。
かつて、第一の試練である飢饉が彼に襲った時、彼はエジプトに下り、愛する妻サライがパロの元に連れて行かれても、ただ指を咥えて見ているだけだったが、今回のアブラムは、信仰によって進み出た。
アブラムは、神が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。」と言われたからには、この王達の方が呪われていると信じ、神が「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と約束されたからには、自分は戦死せず、生きて、勝利し、そして必ず子孫を残す、と、信じた事だろう。
彼が相対した王達は、各国を打ち破り、略奪しながら下ってきたのだから、相当の気勢・軍勢であったろう。
それを、わずか318人で戦って勝利し、かなりの距離を追跡して多くの分捕りをしたのは、人間業ではなく、主のわざである。エジプトでの時、彼は自分の力を見て失敗したが、今回彼は自分を見ず、主の約束に信頼したため、主はその信仰に応じ、勝利を得させたのだ。メルキゼデクが彼に現れたのは、その時である。
メルキゼデクはサレムの王である。14章には今回の戦争に関わった王達の名や地名が沢山出て来るが、メルキゼデクも、サレムも、どこにも無い名であり、14章に登場する王達はその場限りの脇役だが、メルキゼデクは、詩篇でダビデが記し、ヘブル書の記者が詳細に記している。
いと高き神の祭司として突如現れ、アブラムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げた彼は一体何者だろうか。
「その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。」(ヘブル7:2-4)
義の王、平和の王であり、いと高き神の祭司として、信仰の父祖アブラハムを祝福し、彼でさえ十分の一を捧げたお方。父もなく母もなく、系図もなく、また、生涯の初めも命の終わりも無いお方。
彼は永遠の祭司であり、キリストの性質そのものである。彼こそ受肉前のキリストではないだろうか。
メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持ってアブラムを出迎えたが、それは単なる食料の差し入れではない。
パンはイエスの裂かれた体、ぶどう酒はイエスの流された血潮を意味する。イエス様は、信仰をもって御前に近づく私達にも、裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、その流された血潮の印によって定められた滅びは過ぎ越し、罪は清められ、その裂かれた体によって、真の聖所に入る事が出来るのだ。
勝利したアブラムを迎えた王が、もう一人いる。それは、主の御前に非常に罪深い、ソドムの町の王である。
ソドムの王は「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と持ちかけたが、アブラムは、いと高き神にかけてそれを辞退し、ソドムのものは一切、靴紐一本さえ取らない事を宣言した。
世の富、ことさら、ソドムのような神の前に罪深い者の富は、受けてはならない。私達は、ただメルキゼデクからいただくパンとぶどう酒を、すなわち、イエスキリストの御体と血潮のみを望むべきである。
アブラムは、世の力に頼らず主の約束のみに頼って戦い、勝利し、世の報酬は一切求めずに、ただメルキゼデクのパンとぶどう酒のみを受けた。そして彼はいと高き祭司に祝福され、十分の一を捧げた。
同じように私達も、御言葉の約束を信頼して進み出て戦うならば、主は勝利を与えて下さり、キリストご自身の裂かれた御体と、流された血潮をもって迎えて下さり、そして祝福して下さるのである。
言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨシュア記
- 執筆 :
- pastor 2014-8-2 19:27
礼拝説教メッセージ音声:言い訳をして戦いに行かない一部のヨセフ族達(ヨシュア記17:14-18):右クリックで保存
『ヨセフの子孫はヨシュアに言った、「主が今まで、わたしを祝福されたので、わたしは数の多い民となったのに、あなたはなぜ、わたしの嗣業として、ただ一つのくじ、一つの分だけを、くださったのですか」。』(ヨシュア記17:14)
ヨセフ族、すなわちエフライム・マナセ族には、既に広大な土地が与えられており、その領地の広い境界線も、既に定められている。
それなのに、ヨセフ族の”ある人達”は、ヨシュアの所に来て、くじは”ただ一つ”しかもらえなかったと、不服を申し立てている。
御心にかなった事や、御約束の成就を「求める」事は、大いに推奨されるものではあるが、今回の彼らの要求は、それとは異なるものである。
なぜなら、彼らには既に広大な良き地が約束として与えられ、あとは、彼らがそれを手に入れるための行動を起こすだけなのに、彼らはそれをせず、約束として与えられたものにケチをつけているからだ。
『ヨシュアは彼らに言った、「もしあなたが数の多い民ならば、林に上っていって、そこで、ペリジびとやレパイムびとの地を自分で切り開くがよい。エフライムの山地が、あなたがたには狭いのだから」。ヨセフの子孫は答えた、「山地はわたしどもに十分ではありません。かつまた平地におるカナンびとは、ベテシャンとその村々におるものも、エズレルの谷におるものも、みな鉄の戦車を持っています」。』(ヨシュア記17:15-16)
彼らが自分の口で告白した通り、主に祝福され、多く増え、また多くの力も与えられているのだから、その力を用いて、まだ敵がのいる相続地を切り開いて行きなさい、と、ヨシュアは言っているのだが、彼らは、いえ、相手は鉄の戦車を持っているから、できません、と言うのだ。
『ヨシュアはまたヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに言った、「あなたは数の多い民で、大きな力をもっています。それでただ一つのくじでは足りません。山地をもあなたのものとしなければなりません。それは林ではあるが、切り開いて、向こうの端まで、自分のものとしなければなりません。カナンびとは鉄の戦車があって、強くはあるが、あなたはそれを追い払うことができます」。』(ヨシュア記17:17-18)
現代のキリスト者の中にも、このヨセフ族の”ある人達”のように、「主が与えた」という御言葉の約束を頂いておきながら、そして、あとは行ってそれを勝ち得るだけでありながら、色々な言い訳ばかりをして、それをせず、かえって文句を言ったり、別のものを求めたりする”霊的怠け者”の信仰者がいる。
『なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。・・・なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。』(箴言26:13)
私達の内には、生まれながらの肉なる性質や、過去の傷、抱えている病といった、滅ぼすべき”ペリジびと”や”レパイムびと”、鉄の戦車を持った”カナン人”がいる。
しかしそれらは、私達の内におられる、まことのイエシュアであるイエス様と共に「滅ぼし可能」なのだ。
それなのに、「自分の病は鉄のようだ」とか、「自分のトラウマは戦車級だ」とか言い訳して、他人には「自分に合わせてくれ」と要求ばかりしている人は、いつまでも改善されない。そればかりか、やがてはそれらに飲み込まれてしまうのだ。
事実、士師記1章を見ると、ヨセフ族はヨシュアから言われていた通りに敵を滅ぼさなかったため、その者達は後々、力をつけてしまい、苦々しい事になってしまった。
パウロは言っている。
『こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。』(2テモテ1:6-7)
ヨシュアも、ヨセフ族に言った。あなたには既に大きな力が主から与えられている、それをもって、鉄の戦車を制圧せよ、と。
そして主イエスは、私たちに言っている。
『これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。』(ヨハネ16:33)
『全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。』(マルコ16:15-18)
『わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。』(ヘブル10:38-39)
私達に与えられた聖霊は、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊である。
それを奮い立たせ、私達の内に元から住んでいる滅ぼすべきもの、すなわち、病や過去のトラウマなどの”鉄の戦車”を、信仰によって戦いを仕掛け、追い払い、勝利し、私達の内には、ますます広大な安息の地を得て行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
杖を投げる時と蛇をつかむ時(出エジプト記4:2-5):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
笛吹けど踊らず(マタイ11:16-24):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
女が死よりも苦々しいと言う人の特徴(伝道者の書7:26-29):右クリックで保存
【概要】
伝道者の書7章26-29節を基に、ソロモンの女性観と人間の理屈について説く。
【聖書箇所】
伝道者の書7:26-29、箴言31:1-3、31:28-31、第二コリント10:4-6
【戒めの言葉】
人間の理屈に頼らず、神の知恵を求めるべき。
【勧めの言葉】
夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、神を恐れる関係を築くべき。
【***詳細***】
今日の箇所は伝道者の書7章26節から29節です。ソロモンは「私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手はかせである」と述べています。
ソロモンがこのように女性を見たのは、彼自身の経験に基づいています。ソロモンは700人の妻と300人の側女、合計1000人もの女性を持ちました。エジプトやモアブの女性など、様々な国の女性を政策や欲望のために集めました。その結果、神の国を思うよりも偶像礼拝に走る女性たちに囲まれることになったのです。
ソロモンは「神に喜ばれるものは女から逃れるが、罪を犯すものは女に捕らえられる」と言っています。結局、ソロモン自身も罪に捕らえられ、晩年には偶像の宮を建て、子供を生贄に捧げるような邪教の神殿さえイスラエルに建ててしまいました。
ソロモンは知恵を与えられましたが、さらに知恵を求めて人間の悪行や愚かさを学ぼうとしました。しかし、人間は弱く、染まりやすいものです。ソロモンも女性を極めようとして、かえって罪に染まってしまったのです。
私たちは力を異性に費やすべきではありません。箴言31章では、レムエルの母が「あなたの力を女に費やすな」と忠告しています。代わりに、夫婦は互いに一人の伴侶を大切にし、尊重し合うべきです。
エペソ書では、夫は妻を命がけで愛し、妻は夫に従うよう教えています。これが理想的な夫婦像です。一人の夫と一人の妻が互いを支え合い、敬い、守り合うことで、幸せな家庭が築かれるのです。
ソロモンは「神は人を正しいものに作られたが、人は多くの理屈を探し求めた」と述べています。人間は神の言葉に対して理屈をつけ、罪を増やしてしまいました。エデンの園でも、アダムとエバは神の戒めに理屈をつけて罪を犯しました。
私たちは理屈や謀りごとを捕らえて、キリストに従わせるべきです。第二コリント10章に「私たちは様々の理論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべての思いをとりこにしてキリストに従わせ」とあります。
人間を見ることをやめ、異性を見つめることもやめましょう。代わりに、唯一の完全な男であるイエス・キリストに目を向けるのです。キリストを見つめることで、私たちもキリストの姿に少しずつ変えられていくのです。
【結論】
神の言葉に従い、理屈ではなく信仰によって生きる。夫婦は互いに愛し合い、キリストを見つめて歩む。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヘブロン - 信仰者が仮住まいする地(創世記13:14-18):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:マナセ族の積極的な信仰(ヨシュア記17:1-13):右クリックで保存
ヨシュア記17章には、マナセ族への相続地の割り当てが記されている。
『マナセの部族が、くじによって獲た地は、次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギレアデの父であるマキルは、軍人であったので、ギレアデとバシャンを獲た。』(ヨシュア記17:1)
マキルは軍人であった(戦士であった)と記されているが、このマキルの子孫達が積極的にカナンの地を占領した活躍の様は、民数記に記されている。
イスラエルがまだヨルダン川を渡っていなかった時、ルベン、ガド族に相続地が先行して与えられたのを見たマナセは、それに便乗し、積極的にヨルダン川北東地域を攻め取ってそこに自分達の名をつけ、モーセ公認の元、堂々とそこを得たのだ。
『マナセの子マキルの子孫はギレアデに行って、そこを取り、その住民アモリびとを追い払ったので、モーセはギレアデをマナセの子マキルに与えてそこに住まわせた。またマナセの子ヤイルは行って村々を取り、それをハオテヤイルと名づけた。またノバは行ってケナテとその村々を取り、自分の名にしたがって、それをノバと名づけた。』(民数記32:39-42)
マナセ族は、男のみならず、女達も、主が約束された相続地を求める事に、積極的であった。
『マナセの子マキル、その子ギレアデ、その子ヘペル、その子であったゼロペハデには、女の子だけで、男の子がなかった。女の子たちの名は、マヘラ、ノア、ホグラ、ミルカ、テルザといった。彼女たちは、祭司エレアザル、ヌンの子ヨシュアおよび、つかさたちの前に進み出て、「わたしたちの兄弟と同じように、わたしたちにも、嗣業を与えよと、主はモーセに命じおきになりました」と言ったので、ヨシュアは主の命にしたがって、彼らの父の兄弟たちと同じように、彼女たちにも嗣業を与えた。』(民数記17:3-4)
彼女達は、まだヨルダン川を渡っていない時、父の世代が恐怖したカナン人が、まだヨルダン川の向こう側で跳梁跋扈していた時から、既に、自分達はその者共を追い出し、そこを勝ち取る事を前提に考えていた。
その地を勝ち得た暁には、自分達には男性の相続者がいないゆえ、相続地がもらえなのではと憂慮し、モーセや祭司達、全会衆を前にして、以下の事を主張したのだ。
「わたしたちの父は荒野で死にました。彼は、コラの仲間となって主に逆らった者どもの仲間のうちには加わりませんでした。彼は自分の罪によって死んだのですが、男の子がありませんでした。男の子がないからといって、どうしてわたしたちの父の名がその氏族のうちから削られなければならないのでしょうか。わたしたちの父の兄弟と同じように、わたしたちにも所有地を与えてください。」(民数記27:3-4)
主は、彼女たちの訴えを「もっとも」とされた。
なぜなら彼女たちの主張は、御言葉に叶っているからである。(申命記25:6)
主は、御言葉に叶った訴えは、正面から受け止めてくださるのだ。
思えば、彼女たちのようなケースは、イスラエルの中には他に多くあっただろう。
女の子が生まれる確率が1/2なら、五人子供がいる家庭のうち、五人全員が女の子である確率は、三十二家庭に一つある事になる。
イスラエルには、およそ六十万家庭あるので、その中で、女の子供しか生まれなかった家庭は、かなりの数あっただろう。
それでも、このツェロフハデと娘たちの名が、永遠の書物・聖書に記されたのは、彼女たちは信仰を持って進み出て、主に期待したからであり、その他多くは、期待もせず、勇気をもって訴え出もしなかったのだ。
「主から頂けない」などと言って泣き寝入りしてはならない。
間違った「謙遜」に陥ってはならない。
主はどうせ聞いて下さらない、主は蒔かない所から刈り取りをなさる方だなどと、ねじ曲がった神観を持ってはならない。
期待しない事、ねじまがった神観を持つ事は、罪であり、主はそのような人の持っているものを取り上げ、信仰をもって進み出る人に与えられる。(マタイ25:14-30)
彼女たちは、親の世代の罪の故に、荒野での放浪に四十年間付き合わされるはめになってしまった。
同じように私達も、親や同僚、上司などの罪で、とばっちりを喰らってしまうことがある。
それでも主の約束を保ち続け、それを盾にとって進み出るなら、主はいずれ豊かに報いてくださるのだ。
礼拝説教メッセージ音声:エフライム族への相続地(ヨシュア記16:1-10):右クリックで保存
ヨシュア記16-17章は、ヨセフ族の二部族への相続地の割り当てが記されており、エフライム族への割り当ては16章に、マナセ族への割り当てが17章に記されている。
ヨセフ族は、父イスラエル(ヤコブ)の祝福の故に、エフライム・マナセの二部族へと枝分かれして行った。
その祝福の次第は、創世記に記されている。
『イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
父イスラエルがヨセフの子達を祝福してくれる、というので、彼としては、長男のマナセに、より大きな祝福を与えたいので、マナセを父の右手側、エフライムを左手側に連れて来たのだが、父イスラエルは、意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、父イスラエルはわざわざ手を交差させ、意図的に、長男マナセを左手で、次男エフライムを右手で祝福したのだ。
父イスラエルは、弟のほうが兄よりも祝福されるという自分の人生経験から、そのようにしたのかもしれない。
しかし、その後の歴史は、彼が祝福した通りに、エフライムのほうがマナセよりも祝福されたかというと、そうでもなかった。
民数記には、イスラエルの人口調査の記録が、二回あり、一回目は、エジプトを出たばかりの時に行われ、二回目は、それからおよそ四十年を経た後、約束の地カナンに攻め込む直前に行われた。
その第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、二回目の人口調査(26章)では人数は逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人である。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまった程に、その四十年で減ってしまったのだ。
このように、親からより優れた祝福や預言をせっかくいただいていたのに、主の御声を軽んじ、御言葉に反して、身勝手に生きるとしたなら、主は、その与えようとしていた祝福を取り上げ、別の人にその祝福を移してしまうのだ。
確かに、親が祝福する事・牧師が祝福する事には、大きな意義がある。しかし、その人がその祝福の実体を受けるかどうかは、結局、本人次第なのだ。
『このほかにマナセの子孫の嗣業のうちにも、エフライムの子孫のために分け与えられた町々があって、そのすべての町々と、それに属する村々を獲た。』(ヨシュア記16:9)
マナセの嗣業(相続地)の内に、エフライムのために分けられた町々がある、、、実際、聖書地図を見ると、エフライムの相続地は、ヨルダン川西側のマナセ族の土地の下方に、ちょこんと付け足されたような形で、存在している。
また、聖書地図などを見ると気付くと思うが、イスラエル12部族全体への相続地は、面積的にはユダ族とマナセ族だけで、半分以上が占められて、その他の部族への割り当ては、それに比べて遥かに狭いのだ。
なぜこんなにも、相続地の広さに格差があるのか。
それは、前回学んだ通り、主が与えて下さる相続は、御約束を望み見て、積極的に攻め取る者が多くを勝ち得るものなのだ。
ユダ族やマナセ族は、相続地を積極的に攻めに行って多くを勝ち得たが、エフライムや他の部族は、積極的に攻めに行った記録は、特に無い。
私達がやがて相続する天の国も、同じである。
地上で生きている間、霊的に積極的に攻めて行かない者には、わずかな割り当てしか与えられず、積極的に攻めに行く者には、多くが与えられるのだ。
