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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:恐れと慎みをもって、主の聖なる集いに入れ(申命記17:1-7):右クリックで保存

『すべて傷があり、欠けた所のある牛または羊はあなたの神、主にささげてはならない。そのようなものはあなたの神、主の忌みきらわれるものだからである。』(申命記17:1)
主は、欠陥の捧げ物を平気で捧げるような、主を軽んじる者を、忌み嫌われる。
それ故、私達が礼拝を捧げる時、賛美や祈り、献金を捧げる時は、主に対してする事を忘れてはならない。
主は、私達自らの体を、きよい、生きた供えものとして捧げるよう命じており、それこそが真の、霊的な礼拝だからである。

また私達は、主の忌み嫌われるものを抱えたままで、主の御前に出るべきではない。
『主の憎まれるものが六つある、否、その心に、忌みきらわれるものが七つある。すなわち、高ぶる目、偽りを言う舌、罪なき人の血を流す手、悪しき計りごとをめぐらす心、すみやかに悪に走る足、偽りをのべる証人、また兄弟のうちに争いをおこす人がこれである。』(箴言6:16-19)
礼拝者や奉仕者を量るような、高慢な目を持ったまま礼拝に参加する事は、主に嫌われる事である。
偽りを言う舌や、悪に走る足手を改めないまま、何事もないかのように御前で賛美したり祈ったりするとしたら、それらは主に忌み嫌われる事である。
悪い事を思い計る心や、兄弟姉妹同士を敵対させるよう仕向ける心を持ったまま、御前に出るとしたら、その人の賛美や祈り、奉仕を、主は吐き出される。

捧げ物を捧げる時、新鮮な物と傷んだ物の二つが手元にある時、もし、誰も見ていないと思って、傷んだ方を捧げるとしたら、その人は、献金や奉仕を、自分の資産の「マイナス」として考える人であり、主を信頼する心も、主に対する恐れも無い証拠である。
主は生きておられ、実際に「在る」お方である。
主に捧げる事をマイナスとして計るなら、主はマイナスで返されるが、主に捧げる事をプラスとして考える人には、主はさらに増し加えて下さるのだ。

『あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。
そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。』(申命記17:2-5)

もし、死刑に処するべき罪(出エジプト記21章、レビ記19章)が発覚した場合は、まず、よく調査しなくてはならない。
死刑に処するには、二人または三人の証人が必要である。
「二」は、証人の数であり、二人の御使がソドムの罪を目の当たりにして、主はソドムを滅ぼしたし、また、イエス様が復活された時も、二人の御使いによって、あかしされた。

『ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。』(申命記17:6)
ふたりの証人または三人の証人の証言によって物事が確定するのは、新約の教会でも同じで、イエス様も、パウロも言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

兄弟姉妹が罪を犯すのを見た場合、いきなり、教会や大勢の人達の面前でそれを糾弾するという事を、してはならない。
その人を立ち直れなくしてしまう事になりかねないし、また、早とちりして間違った訴えをしてしまうなら、その人本人の恥となってしまうし、兄弟姉妹の平和に波風を立てかねないからだ。
だから、そうした事を見たなら、まず、行って、「二人だけの所で」戒めるべきである。それでその人が悔い改めたなら、兄弟を得たのである。
しかし、もし本人が意図的に罪を犯し、好き好んでやっていて悔い改めないなら、さらに、もう二人三人を連れてきて戒めるのである。
それでも聞かないなら、教会で公に戒め、それでも聞かないのであれば、「主にある兄弟姉妹」の扱いからその人を解くのである。
それが、教会における戒めとさばきの手順である。

『よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。』(マタイ18:18-20)
イエス様の名のもとに集まるなら、そこに、イエス様がいるのだ。
イエス様は、確かに生きておられ、私達の内におり、そして二人また三人の主の名による集いにおられる。
そして、教会がつなぐ事は、天でもつながれ、教会が解く事は、天でも解かれるのである。
だから私達はそのつもりで、教会での交わりを、恐れと慎みをもって為すべきであり、至る所で主イエスの名による集いを為すべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:トップたる者の人選(申命記16:18-22):右クリックで保存

約束の地に入った暁には、それぞれの町の長を任命する事を、モーセは命じている。
『あなたの神、主が賜わるすべての町々の内に、部族にしたがって、さばきびとと、つかさびととを、立てなければならない。そして彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたより見てはならない。また賄賂を取ってはならない。賄賂は賢い者の目をくらまし、正しい者の事件を曲げるからである。ただ公義をのみ求めなければならない。そうすればあなたは生きながらえて、あなたの神、主が賜わる地を所有するにいたるであろう。』(申命記16:18-20)

モーセの言う”長たる者”を選ぶ際の選考基準は、「正しい人」であり、さばきを曲げたり、人をかたより見たり、賄賂を受け取ったりする事を禁じている。
普通、人々の上に立つ長を選ぶ際は、知識や経験があったり、有名な人や、人を統率するのがうまい人などを選ぶものだが、モーセは、能力的な面よりもむしろ倫理的な面のほうを強調している。
なぜなら、かつてモーセは、長たる者の人選で、痛い目にあっているからだ。

エジプトを出てまだ間もない頃、モーセのしゅうと・イテロが来て、モーセが何もかも一人で背負い込むのを見て、民の長を立てるようアドバイスした。
『モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。
また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。』(出エジプト記18:17-22)

イテロのこのアドバイスは、実に理にかなっている。
そして、民の長を選ぶ際の選考基準は、「有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人」だとしている。

それなのにモーセは、イテロのアドバイス通りに選考しなかった。
『そこで、わたしは、あなたがたのうちから、知恵があり、人に知られている人々を取って、あなたがたのかしらとした。すなわち千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長とし、また、あなたがたの部族のつかさびととした。 』(申命記1:15)
モーセは、神を畏れる人でもなく、誠実な人でもなく、不正の利を憎む人でもなく、「知恵があり、人に知られている人々」を取ったのだ。

その結果、民は、神に信頼せず、神がおられる事を度外視して、自分で出来うるベストな方法を模索したり、八方塞がりな状況になると、モーセに当たり散らしたり、しまいには、神様が「行け」と言っている約束の地を目前にしながら、「自分にはそんな力が無い」と、エジプトに帰ろうと言い出し、信仰によって進もうとしているモーセやヨシュア達を、石で撃ち殺そうとまでした。(民数記14章)
また、モーセが上に立つのを気に食わなかったコラと共にモーセに反逆したのは、”名のある者たち”二百五十人だった。(民数記16:2)

私達は、組織の人選をする上では、”神を恐れる人格者”よりも、多少不正をしようとも、”出来る人”のほうを選びやすい。
世の社会ではそれで良くても、神の国の事柄を為すトップとすべきは、真っ先に、”神を恐れる人”でなければならない。
なぜなら神の国の事柄は、力や効率よりも、霊的純粋さこそ大切だからである。
実際、初代教会でも、トップの選考基準として「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人(行状が良い人。「有名」という意味ではない)」を提示している。(使徒6:3)

現代の教会の、分裂や、不毛な”働き”の乱発など、多くの問題の原因は、トップに据えるべきでない人を、トップに据えてしまっている所にある事が多い。
教会などミニストリーの奉仕者に据えるべきは、御霊の実(愛、喜び、平安、、、誠実、柔和、自制など。ガラテヤ5章)をしっかり結んでいる人で、御言葉の知恵に満ちた人、社会においても行状が良い事で評判の人である。(使徒6:3)
モーセはかつて、長たる者の人選に誤り、荒野の放浪の元をつくってしまった。
私達は、奉仕者の人選を、世と同じにしてはならない。

蛇 - 踏み砕かれるべき者(創世記3:14-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

エバを欺き、人類全体に罪と死を導入してしまった蛇(サタン)に対し、主は、呪いを宣言した。
蛇(サタン)は、どの獣よりも呪われ、一生、腹で這いつくばって地を生き巡り(ヨブ1:7)、食いつくすべき「ちり(アファー:土、泥:人の組成)」を探しまわる事になった。(1ペテロ5:8)
神の息吹(霊)なき人は、ちりに過ぎず、蛇のえじきなのだ。神である主は、蛇にだまされて死に陥り、神の似姿からかけ離れた「ちり」になってしまった人間を救うため、救いのご計画を早速立てられた。
世界の救い主であるイエスキリストの誕生が、最も最初に預言された箇所は、どこだろうか。アダムとエバが全人類に罪と死をもたらしたのは創世記3章6節だが、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節である。
エバが蛇にそそのかされ、禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫(種)の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」と言われた。

創世記3章15節。この短い箇所は、実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節にあると言っても、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から、黙示録20章までの長い部分は、必要無かっただろう。
創世記2章以前と、黙示録21章以降は、神と人との隔てが一切無く、神と人とが永遠に共に住み、罪も、死も、呪いも、一切無い世界である。神の目的は、人類を、本来あるべき姿である「そこ」へ戻す事なのだ。
全人類は、この事件以降、神から離れ、蛇(サタン)に思うままに支配され、自ら善悪判断をしながら生きなくてはならなくなってしまったが、エデン追放以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、「女の子孫(単数形の種)」を神が備え、彼をして蛇の頭を砕かせ、全被造物に救いをもたらす「救い」の歴史なのだ。

神は、堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、そのアブラハムの子孫によって全人類は祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に律法を預けて、神の義の基準を明示し、忠実なしもべダビデから永遠に続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデの末から、キリストが生まれた。
聖書の最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「女の子孫」の預言は、このメシヤであるイエスキリストの誕生によって、成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、いつも共におられたのだ。罪を犯し死の呪いに陥ってしまった人間を、決して見捨てる事なく。

「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はキリストに、ある程度のダメージを与えるが、キリストは、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
イエス様は何によって勝利したか。それは十字架の死に至るまでの従順によってである。(ピリピ2:8)
第一のアダムは、御言葉への不従順によって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった。
しかし第二のアダムは、十字架の死に至るまでの従順によって勝利し、このキリストに連なる、全て御言葉に従順な人には、罪の赦しと、死の体からのよみがえりと、永遠のいのちが与えられる。
私達に必要なのは、イエス・キリストへの信仰と、自分の十字架を負って主について行く従順である。
『あなたがたの従順は、すべての人々の耳に達しており、それをあなたがたのために喜んでいる。しかし、わたしの願うところは、あなたがたが善にさとく、悪には、うとくあってほしいことである。平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。』(ローマ16:20)
主は、善にさとく悪にうとく、御言葉に従順な人の足を用いて、サタンを踏み砕かせて下さるのである。

人の道は、エデンの園以来、二つに一つだ。すなわち、善悪判断の木を選ぶか、それとも、十字架といういのちの木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも退けて、死を選ぶか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:男子は年に三度、祭りにのぼる(申命記16:9-17):右クリックで保存

続いて、「七週の祭り」についての指示である。
『また七週間を数えなければならない。すなわち穀物に、かまを入れ始める時から七週間を数え始めなければならない。そしてあなたの神、主のために七週の祭を行い、あなたの神、主が賜わる祝福にしたがって、力に応じ、自発の供え物をささげなければならない。』(申命記16:9-10)
この七週間は、ちょうど穀物の収穫の時期に相当する。
すなわち、この七週が始まる除酵祭は、大麦の収穫の時期であり、七週の祭りの時期には、小麦の収穫の時期である。

そして、ここで命じられている事は、それらの収穫を、家族や身寄りのない人、主の働き人達と一緒になって、主の前で喜び楽しむ事である。
『こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。あなたはかつてエジプトで奴隷であったことを覚え、これらの定めを守り行わなければならない。』(申命記16:11-12)

七週の祭りは、春〜初夏にかけての穀物の収穫祭であるのに対し、秋の果物の収穫祭は、「仮庵祭」である。
『打ち場と、酒ぶねから取入れをしたとき、七日のあいだ仮庵の祭を行わなければならない。その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:13-15)

この祭りは、イスラエルの祭りの中では、最も盛大に行われる祭りで、民数記29章を見ると、その7日間に捧げられる捧げ物の総数は、かなりの数にのぼる事が分かる。
この祭りの7日間、イスラエルの民は仮小屋を作り、その小屋の中は、あらゆる果物や地の産物で飾る。
その香りを嗅ぎながら、主に感謝を捧げつつ、兄弟姉妹たちと小屋の中で過ごすのだ。
聞いているだけでも、わくわくするような祭りであるが、どういうわけか、ヨシュアの時代からバビロン捕囚後までの長い間、この祭りは、ずっと疎かにされていたようだ。(ネヘミヤ記8:13-18)

やはり、人が神から離れる時は、献金など「主へ捧げ物」を真っ先に投げ出してしまうのかもしれない。
しかし、人が喜んで捧げるのであれば、主は喜びと祝福を大いに増し加え、押入れ揺すり入れして与えて下さる。
『主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。』(申命記16:15) と記されている通りである。

『あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。』(申命記16:16-17)
年に三度、イスラエルの男子が皆、エルサレムに集中してしまうと、その間、男手は各地から無くなってしまう。
その間、敵が攻めて来たらどうするのか、という心配があるかもしれないが、主は、その心配をも払拭しておられる。

『わたしは国々の民をあなたの前から追い払って、あなたの境を広くするであろう。あなたが年に三度のぼって、あなたの神、主の前に出る時には、だれもあなたの国を侵すことはないであろう。』(出エジプト記34:24)
これらの祭りを、しっかりと忠実に行っているのであれば、敵が狙って攻めてくる事は無い、と、主ははっきり約束しておられるのだ。

日本には、江戸時代に「参勤交代制」があったが、それは、国のトップが、自分の配下の者を貧しくさせる事によって、反逆する意欲を削ぐためだった。
主は、その真逆をされる。
イスラエルの男子が、年に3度、主が定められた所で、礼拝をする事によって、イスラエルはますます祝福され、喜びに溢れ、また、敵に勝利したように、主は私達をも、ますます富ませ、喜ばせ、勝利させるために、しっかり礼拝するよう命じておられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
霊的VIP対応される人の性質(使徒8:26-40):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
犬と豚とこなきじじい(マタイ7:6):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
太陽も月もいらない光の世界(黙示録21:22-27):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:アビブの月の祭り(申命記16:1-8):右クリックで保存

申命記16章では、イスラエルの祭りについての指示が与えられており、今回はアビブの月(ユダヤの第一月、太陽暦では三、四月)に行われる祭りを見て行きたい。

『あなたはアビブの月を守って、あなたの神、主のために過越の祭を行わなければならない。アビブの月に、あなたの神、主が夜の間にあなたをエジプトから導き出されたからである。』(申命記16:1)
イスラエルの祭りの中で、最も重要な祭りが、過越の祭りである。
この祭りは、血潮のしるしの内に匿われていたイスラエルには、滅びが「過ぎ越し」、ただ主がエジプトが打たれた出来事を覚える祭りであり、アビブの月の十四日の夕暮れに、小羊をほり、その血を、家のかもいと門柱にしるしとしてつけ、家の中で、そのほふられた小羊を食す。

この、ほふられた子羊は、イエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)

なぜ、ほふられた小羊が、このように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
それ故、この祭りは、イスラエル民族だけでなく、私達も含む、全被造物にとって、重要なものである。

『種を入れたパンをそれと共に食べてはならない。七日のあいだ、種入れぬパンすなわち悩みのパンを、それと共に食べなければならない。あなたがエジプトの国から出るとき、急いで出たからである。こうして世に生きながらえる日の間、エジプトの国から出てきた日を常に覚えなければならない。その七日の間は、国の内どこにもパン種があってはならない。また初めの日の夕暮にほふるものの肉を、翌朝まで残しておいてはならない。』(申命記16:3-4)

ここは、過越の小羊がほふられる日を起点に7日間行われる「種入れぬパンの祭り(除酵祭)」についての指示である。
この祭りの最初の日、家の中からはパン種を徹底して取り除き、続く七日間、どんな仕事もしてはならず(その食事を作る事以外)、種を入れぬパンを食べながら安息する。
パン種は、聖書では良くない意味として用いられる。
なぜなら、パン種は生地を発酵させて外見を膨らまし、純粋さを失わせるからだ。

このパンは、「悩みのパン」と呼ばれており、苦菜が添えられて食べる。
イスラエル民族は、この祭りの期間、純粋な「悩みパン」のみを食べ続ける事によって、純粋な御言葉のみによって養われる事を学び、自分達も、かつてエジプトの地で「悩んで」いた事を、そして、主が大いなる救いによって救って下さった事を、覚えるのである。
また、この「悩みのパン」を食べる時期は、ちょうどキリストが苦難を受けられた時期とも一致しており、苦難を受けられたキリストをもあらわしている。

『あなたの神、主が賜わる町の内で、過越の犠牲をほふってはならない。ただあなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、夕暮の日の入るころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越の犠牲をほふらなければならない。そしてあなたの神、主が選ばれる場所で、それを焼いて食べ、朝になって天幕に帰らなければならない。』(申命記16:5-7)

過越の犠牲をほふれるのは、主がゆるされた場所のみであり、それは後の時代、エルサレムという場所と定められた。
また、過越の犠牲をほふる時刻は、ヨセフスによれば午後三時を常としていたようであり、それは、イエス・キリストが十字架上で、御父に霊をお渡しになった時刻と一致している。

私達の身代わりとなって下さったお方は、唯一、あの十字架上でほふられたイエス・キリストのみであり、それ以外に、救いは無い。
『あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。』(使徒4:10)-12

礼拝説教メッセージ音声:初物は主のもの(申命記15:19-23):右クリックで保存

『牛、羊の産む雄のういごは皆あなたの神、主に聖別しなければならない。牛のういごを用いてなんの仕事をもしてはならない。また羊のういごの毛を切ってはならない。あなたの神、主が選ばれる所で、主の前にあなたは家族と共に年ごとにそれを食べなければならない。』(申命記15:19-20)
動物も人も、全て「男の初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる。
だから、初物を主に捧げた事によって、それに属する全ても「主に捧げられた」とみなされるのである。

罪は、人類全ての代表選手であるアダムによって入り込み、こうして、一人の人を通して、人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
しかしキリストは、人類全ての身代わりとなって、十字架上で罰を受け、死んで下さった。
そのキリストを、私達の主とし、私達の「代表選手」とする事によって、キリストが受けられた罰も、死も、よみがえりも、全て私達も「した」と、御父の前でみなされるのである。
そればかりでなく、キリストが成就して下さった律法も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と見なされるのだ。

また、初子であっても、傷物は主に捧げてはならない、と、されている。
『しかし、その獣がもし傷のあるもの、すなわち足なえまたは、盲目など、すべて悪い傷のあるものである時は、あなたの神、主にそれを犠牲としてささげてはならない。町の内でそれを食べなければならない。汚れた人も、清い人も、かもしかや、雄じかと同様にそれを食べることができる。』(申命記15:21-22)

私達は、総理大臣や大統領に対して、傷物のものや、賞味期限切れのものを、プレゼントできるだろうか。
私達は、目に見える人間は普通に敬えるのに、目に見えない神は、あたかもいないかのように思ってしまい、無意識的に軽んじやすい。
しかし、主こそ総理大臣や大統領よりも大いなる方であり、何よりも恐れ敬うべき方である。
『わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。ところがあなたがたは『われわれはどんなふうにあなたの名を侮ったか』と言い、汚れた食物をわたしの祭壇の上にささげる。またあなたがたは、主の台は卑しむべき物であると考えて、『われわれはどんなふうに、それを汚したか』と言う。
あなたがたが盲目の獣を、犠牲にささげるのは悪い事ではないか。また足のなえたもの、病めるものをささげるのは悪い事ではないか。今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:6-8)

神はいない、と、みなしている人にとって、神に捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為であると見なすものだ。
だから彼らにとって、きず物や無価値のものを神に捧げるほうが、エコで効率的、という事になり、傷のない良いものは自分のために残そう、という事になるのだ。

しかし、あいにく、神は生きておられ、私達を創造された聖なる尊きお方であり、決してエコで省けるようなお方ではない。
私達の一挙手一投足を見ておられ、心の動機も見ておられる、全能なるお方である。
だから、主を軽んじた捧げ物は、主に忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。

主を軽んじるような捧げ物を、主は「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)

私達は、物やお金に限らず、礼拝や奉仕においても、「残りカス」を捧げてはならない。
世で遊ぶ事に疲れて、肝心の礼拝を休んでしまったり、礼拝の時は居眠りしてしまうとしたら、「残りカス」を捧げているのだ。
私達は、しっかりと自分を管理し、最も力のみなぎった自分自身という「初物」を、きよい供えものとして、主に捧げるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の民に搾取されっぱなしは無い(申命記15:12-18):右クリックで保存

『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

主は、人がいつまでも人の奴隷である事を、良しとしない。
六年仕えたなら、第七年には自由にしてやらなければならないと命じておられる。
そして、彼らを自由にした時には、必ず彼らが自立して家庭を築き、家族をしっかり養っていけるようにしてやるべきであり、その手元に何も残さずに出すような事はしてはならない。

だから、現代日本のように、6年以上働いても、家を買うどころか、結婚して子供を生む事さえままならないような労働条件は、奴隷以下であると言える。
そのように、人の弱みにつけ込んで不当に搾取をする事は、「ほふられる日のために災いを積み上げる」事である。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。』(ヤコブ5:4-5)
という事は、今日本は、何千万人という人々の未払い賃金が、主に向かって叫び声を上げている事になる。
日本に次から次へと災いが降りかかるのは、偶像崇拝など主の忌み嫌われる事を幾つもしているからだが、その理由一つに、この「不当な搾取」がある事は確かだ。

神の民は、搾取されっぱなし、やられっぱなし、という事は無い。
エジプトで400年間奴隷だったイスラエルに対し、主は、エジプトからはぎ取るよう命じられ(出エジプト記3:22)、事実、その通りになった。
ヤコブも、ラバンの元で7年間ラケルのために、さらに7年間レアのために、さらに6年間、一人立ちするための財産を得るために、ラバンの持ち物の面倒を見たが、ラバンはヤコブが何をしても祝福されるので、彼を去らせる事を嫌がり、また、彼に報酬を与える事も惜しんで、何度も報酬の条件を変えた。
しかし主は、ヤコブがいいように搾り取られる事を赦さず、ヤコブのために弁護して下さり、ヤコブは祝福され、多くの物持ちになって、無事、ラバンの元を去る事が出来た。(創世記31章)

『あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主があなたをあがない出された事を記憶しなければならない。このゆえにわたしは、きょう、この事を命じる。』(申命記15:15)
イスラエルはかつて奴隷であった事を、いつも覚えていなくてはならない、と、命じられているのは、奴隷を雇うまでに祝福された時、彼らにきつく当たらせないためである。

自分の元にいる奴隷が、とても有能であるなら、ラバンがヤコブを去らせなかったようにしたくなるのが実情であるが、それは主の命令に反する事である。
奴隷を自由にしてやった後の、自分の家や事業の心配は、全く無用である。なぜなら、次のように、祝福の約束があるからだ。
『彼に自由を与えて去らせる時には、快く去らせなければならない。彼が六年間、賃銀を取る雇人の二倍あなたに仕えて働いたからである。あなたがそうするならば、あなたの神、主はあなたが行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。』(申命記15:18)

日本には奴隷制度は無く、一見、日本には奴隷は一人もいないように見えるが、実は、人は誰しも、何かしらの奴隷である。
『あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:16)
皆さんは、何の奴隷だろうか。
私達キリスト者は、キリストの奴隷であるべきである。

『その人があなたと、あなたの家族を愛し、あなたと一緒にいることを望み、『わたしはあなたを離れて去りたくありません』と言うならば、あなたは、きりを取って彼の耳を戸に刺さなければならない。そうすれば、彼はいつまでもあなたの奴隷となるであろう。女奴隷にもそうしなければならない。』(申命記15:16-17)

それまで仕えて来た奴隷が、いつまでもその主人の元にいたい、という場合、その奴隷の「耳」を、きりで戸に刺し貫いて打ち付ける、というのは、実に興味深い。
皆さんは、主人であるキリストの元を去りたいだろうか?
去りたくないのであるなら、皆さんの「耳」は、キリストの家の扉へと、打ち付けるべきである。
主の宮において、いつも主に耳を開き、いつも主の門にいて耳をすましているなら、皆さんは、いつまでも主の門で仕える主のしもべなのだ。

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