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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言によって奮い立つ - ハガイの預言(エズラ5:1-5):右クリックで保存

※ 録音に不備がありましたため、ノイズが大きいです。

【概要】

エズラ記5章1節から5節における神殿再建の物語を通して、神の導きと預言者の役割について考察します。神の宮を建てることの重要性と、それに伴う神の祝福について学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記5章1-5節

  • ハガイ書1章1-15節

  • 第一コリント3章9節

【励ましの言葉】

神は私たちと共におられ、私たちの働きを助けてくださいます。神の宮を建て上げることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。

【戒めの言葉】

神の宮をないがしろにすることは、私たちの生活において多くを労しても少ししか得られない結果を招きます。

【勧めの言葉】

神の宮を建て上げるために、私たち一人一人ができることを行いましょう。神の宮とは私たち自身であり、神の栄光を表すために日々の生活を捧げましょう。

【***詳細***】

エズラ記5章1節から5節では、預言者ハガイとゼカリアが神の名によってユダヤ人に預言し、神殿の再建を促しました。シェアルティエルの子ゼルバベルとエホサタクの子ヨシアは、預言者たちの助けを受けてエルサレムの神の宮を建て始めました。神の目がユダヤ人の長老たちに注がれていたため、彼らの働きは止められることなく続けられました。

ハガイ書1章では、神殿が廃墟となっていることを神が嘆き、民に神の宮を建てるように命じます。神殿を建てることを怠ると、労しても少ししか得られないという呪いがもたらされると警告されます。預言者ハガイは、神の宮を建てることが神の喜びと栄光をもたらすと語ります。

第一コリント3章9節では、私たち自身が神の宮であり、神の協力者であることが述べられています。私たちはイエス・キリストという土台の上に神の宮を建て上げるべきであり、その働きは神の火によって試されます。

神の宮を建て上げることは、私たちの生活において神を第一にすることを意味します。神の宮を建てるために、私たちは日々の生活を神に捧げ、神の栄光を表すことを心がけましょう。

【結論】

神の宮を建て上げることは、私たちの信仰生活において重要な役割を果たします。神の導きと預言者の言葉に従い、神の宮を建てることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。私たち自身が神の宮であることを自覚し、日々の生活を通して神の栄光を表しましょう。

礼拝説教メッセージ音声:尊厳ある歩みをせよ(レビ記19:26-37):右クリックで保存

今回の箇所では、聖なる民として尊厳ある歩みをなすべき事、特に、異教の風習を真似てはならない事を命じている。
異教の風習は、極度に人間の尊厳を貶めるものである。

『あなたがたは何をも血のままで食べてはならない。また占いをしてはならない。魔法を行ってはならない。あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。死人のために身を傷つけてはならない。また身に入墨をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:26-28)
これらは、異教の民がしている事である。
血はいのちそのものである事は以前学んだが、その、いのちに対する尊厳を犯してはならない。
また、占いや魔法のような、悪魔由来の導きや、超自然的な力を追求してはならず、また、死人のために体を傷つけたり、入墨をしたりして、主が創造された有り様から離れるような体の改造をする事を、禁じている。
それは、主がデザインされた人間の有様を侵害する事である。

『あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである。あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:29-30)
みだらな事や、不品行が、いかに世に邪悪をもたらすか、いかに呪いを招くかは、18章で学んだ。
神の民の女性たちは(もちろん男性も)、きよい、聖なる歩みをなすべきである。
「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。」(ヘブル13:4)

『あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:31)
霊媒や口寄せは、死んだ人間にではなく、悪霊に導きを求めるものであり、その人自身の霊性を汚す行為である。
人は元々、神の似姿として創られ、私達を創られた神をこそ主とすべきであって、死人に伺いをたてようとしたり、死人の故に体や心をあえて傷つけるような事をすべきでない。
親しい人が亡くなった時は、悲しむのが、人間である。しかし、悪魔はその悲しみを利用して、人々を不健全さや束縛の中へへ引きずり込もうとするものだ。
誰が天国に行って誰が地の底に下ったか、それを詮索しても何にもならないし、知りもしないのに先走った答えをしてもならない。
大切な事は、私達の近くにある御言葉を守る事であり、今生きていている全て人が、いかにサタンの惑わしから逃れ、いかに真理を知り、いかにイエス様と共に歩んで行くか、である。(ローマ10:6-9)

『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:32)
信仰の日々を長く重ね白髪となった老人は、存在自体が証であり、多くの若い聖徒たちの慰めとなるため、彼らは尊敬すべきであり、また、多くを学ぶべきである。

『もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:33-34)
イスラエルは元々、エジプトでは寄留者だった。その事を忘れてはならず、弱い立場である在留異国人からかすめたり、虐げたりしてはならない事を命じられている。
そして私達も、今のこの世では寄留者であり、国籍は天にある事を忘れてはならず、天国人として相応しい品性と振る舞いをもって周囲と接するべきである。

『あなたがたは、さばきにおいても、物差しにおいても、はかりにおいても、ますにおいても、不正を行ってはならない。あなたがたは正しいてんびん、正しいおもり石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの国から導き出したあなたがたの神、主である。』(レビ記19:35-36)
主は公平で正しくあられ、私達にも、そのようである事を求めておられる。
誰かをえこひいきしたり、人によって態度を変えたりする事は、聖なる民のする事ではない。
『あなたがたはわたしのすべての定めと、わたしのすべてのおきてを守って、これを行わなければならない。わたしは主である』」。』(レビ記19:37)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民のいのちの扱い(レビ記19:19-25):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めを守らなければならない。あなたの家畜に異なった種をかけてはならない。あなたの畑に二種の種をまいてはならない。二種の糸の混ぜ織りの衣服を身につけてはならない。』(レビ記19:19)
主は、生き物を色々な種類に従って創造され、一つ一つをそれ自体、良きものとして完成された。
それ故、それを不服として、人為的に別種のいのちとかけ合わせる事を、主は禁じている。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。』(2コリント6:14-17)

次に、婚約相手のいる女奴隷を、別の男が寝て交わる場合について、主は教えている。
『だれでも、人と婚約のある女奴隷で、まだあがなわれず、自由を与えられていない者と寝て交わったならば、彼らふたりは罰を受ける。しかし、殺されることはない。彼女は自由の女ではないからである。しかし、その男は愆祭を主に携えてこなければならない。すなわち、愆祭の雄羊を、会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そして、祭司は彼の犯した罪のためにその愆祭の雄羊をもって、主の前に彼のために、あがないをするであろう。こうして彼の犯した罪はゆるされるであろう。』(レビ記19:20-23)
こうした場合、本来なら、男も女も両方石打ちにされるはずである(申命記22:23-27)が、女が奴隷だった場合、他人の財産に損害を与えた場合の賠償が適用され、双方が殺される事は無い。
と言っても、男が愆祭の雄羊を捧げて、それで済むという話でもない。愆祭とは、「賠償」の意味もある事を、以前習った。
その男は償いをし、その女奴隷に対しては、出エジプト記21:7-11の規定どおり養って、食物と衣服を与えることと、その夫婦のつとめを絶えさせてはならない。

『あなたがたが、かの地にはいって、もろもろのくだものの木を植えるときは、その実はまだ割礼をうけないものと、見なさなければならない。すなわち、それは三年の間あなたがたには、割礼のないものであって、食べてはならない。
四年目には、そのすべての実を聖なる物とし、それを「さんびの供え物」として主にささげなければならない。しかし五年目には、あなたがたはその実を食べることができるであろう。こうするならば、それはあなたがたのために、多くの実を結ぶであろう。わたしはあなたがたの神、主である。』(レビ記19:23-25)
ここは、約束の地カナンに入った時に、果物の木を植えた場合のその実りに対する命令であるが、このように、三年の間は誰もその実りに手を付けてはならず、四年目にはそれを「賛美の供え物」として主に捧げ、五年目から食べるようにすると、その木はとても多く実を結ぶようになる。

初物を主に捧げると、確かに、実り豊かになる。(箴言3:9-10)
律法を守っているイスラエルは、実に産物が祝福されており、現代でも、色とりどりの野菜を毎日たっぷりと食べられる。
「イスラエルは中東に位置し、国土の60%が乾燥地に覆われている。雨季は11月から4月までの間しかない。その降雨量は北部で平均700ミリ、南部では50ミリ以下である。ちなみに、農業県の新潟、高知、鹿児島の降雨量は1800ミリから2500ミリである。
この過酷な条件にもかかわらず食料自給率は93%以上を維持している。イスラエルの農業人口は8万人。一方日本の農業人口は400万人。現在の農業輸出高は21億ドルでほぼ同じだ。イスラエルは日本の50倍の生産性を持っていると言える。」(「食糧自給率」より「稼ぐ農業」!:日経ビジネスオンラインより: http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20110124/218115/?rt=nocnt)
律法を尊守すると、農産物も、科学技術も、相乗効果で祝福されるのだ。

果物の実りは、三年間は「未割礼のもの」で、四年目の実りが「賛美の供え物(holiness of praises to the Lord)」と呼ばれる事は、実に興味深い。
私達は元々、くちびるの汚れた民の中に住んでおり、世から贖い出されたままでは、未割礼の者である。
そのくちびるを、賛美に用いるとするなら、罵詈雑言や呪い、下品な冗談など、汚れた言葉を一定期間、断食すべきである。
賛美のいけにえ、すなわち、御名をたたえるくちびるの果実(ヘブル13:15)を捧げる者が、もし、罵詈雑言や呪い、下品な冗談などを、世の人と変わらずに続けているとしたら、そのような「果実」を、果たして主は受け取るだろうか。
賛美とのろいが同じくちびるから出てくるような事はあってはならない。

賛美のいけにえは、礼拝中やステージで歌っている「その時」が良ければいいというものではない。
果実は、人間の誰にも味わわせない三年間、そして、四年目には神にのみ捧げる事、それを通してこそ、実り豊かなものとなる。
それと同様に、賛美の果実も、人間の誰にも味わわせない整えの期間と、神にのみに捧げる賛美があってこそ、人々を恵みへと導く賛美ができるのである。
セミは、六年の地中生活を経て、七年目に、自由に空を駆け巡るが、その地中での6年も、全部ひっくるめた期間が、セミの一生であるように、賛美も、人前で歌う時だけが賛美ではなく、その背後にある、誰にも人間には味わわせぬ期間も、神様のみに捧げた心や思いも、それら全てをひっくるめたものが、賛美なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての人間関係(レビ記19:11-18):右クリックで保存

今回の箇所は、特に、兄弟姉妹や隣人との「関係」において、いかに「聖」を保って行くべきかが示されている。
『あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互に偽ってはならない。わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記19:11-12)
ここでも十戒がいくつか引用されている。
第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽ってはならない」、また、第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」、これらは、人と人との関係において重要な戒めであり、神の民の人間関係は、いつも真実であるべき事が命じられている。
そして、続く節では、弱い人に対する配慮が命じられている。

『あなたの隣人をしえたげてはならない。また、かすめてはならない。日雇人の賃銀を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない。』(レビ記19:13)
若かったり、没落したりして、土地や定職が持てていない日雇い人などから搾取する事は、聖なる民がする事ではない。
彼らの叫びは主が聞いておられ、そのように搾取するような者は、やがて万軍の主にほふられてしまう。
『見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。 あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。 』(ヤコブ5:4-5)
そういう意味で、現代社会は本当に呪いを招く事をたくさんしているわけである。

『耳しいを、のろってはならない。目しいの前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:14-15)
耳が聞こえない人が聞こえないのを良い事に、のろいの言葉を発したり、目が不自由な人が見えないのを良い事に、つまづかせる物を置いたりする。
そのように、知識や能力が無いのを利用して、その人を陥れたり、搾取したりする事は、聖なる民がする事ではない。
彼らが主に叫ぶ時、主が訴えを聞き入れ、そのような者の命は、そこなわれてしまう。
『貧しい者を、貧しいゆえに、かすめてはならない、悩む者を、町の門でおさえつけてはならない。それは主が彼らの訴えをただし、かつ彼らをそこなう者の命を、そこなわれるからである。 』(箴言22:22-23)

『さばきをするとき、不正を行ってはならない。貧しい者を片よってかばい、力ある者を曲げて助けてはならない。ただ正義をもって隣人をさばかなければならない。』(レビ記19:15)
強い人や多数意見に自分も流されたり、その逆の、弱者に同情したりして、黒を白としたり、白を黒としたりしてはならない。主は、公正にジャッジする事を求めておられる。

『民のうちを行き巡って、人の悪口を言いふらしてはならない。あなたの隣人の血にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。』(レビ記19:16)
誹謗中傷する事、これは、悪魔の性質である。(悪魔:「ディアボロス」のギリシア語の意味は、告発者、中傷者)
そのような者は、天から投げ落とされてしまう運命にある。(黙示録12:10)

『あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。』(レビ記19:17)
表面上は穏やかに繕ろっていても、心中はおだやかではない。それは、偽りの生活である。
もし兄弟姉妹に人をつまづかせるような性質があるのなら、面と向かって言うべきである。
『あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。 』(箴言27:5-6)

『あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。』(レビ記19:18)
隣人関係において、最も大切な戒めは、この「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」である。
イエス様も、最も大切ないましめの内の一つである事を言われた(マタイ22:39、マルコ12:31-34)し、パウロも、律法全体はこれに尽きると言っている。
『互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。 』(ローマ13:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:聖なる民としての生活(レビ記19:1-10):右クリックで保存

「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(レビ記19:2)
レビ記19章は、一見すると、十戒をはじめとした様々な規定が、雑然と並んでいるかのように見えるが、この箇所は、イスラエルの人々が日常生活において、いかに「聖なる民」とされる、いかに「聖」を保って行くべきかが、示されている。
今まで記されてきた祭儀規定は、祭司の視点で分類的に記されていたのに対し、この章は、イスラエルの一般的な「生活者」としての視点で記されていると言える。

『あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:3-4)

聖なる生活を送るための命令の中で、まっ先に命じられた事は、十戒の第五戒、母と父を敬え、である。
最も身近な権威者である父母を敬う事、それは、最高権威者である主に従う雛形であり、目で見える父母を敬えずしては、目に見えない神を敬う事ができない。
そしてそれは、末永く幸いな生活の約束を伴った命令である。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
なお、父母を敬う命令は聖書の他の箇所でも多く登場するが、「母と父」と、母を先に出しているのは、レビ記のこの箇所だけである。
父は一家の長として、権威的に先んじて敬われなくてはならないが、やはり「生活者」として最も頻繁に親しく接するのは、「母」の方なのだろう。

そしてその次の命令は、十戒の第四戒、安息日の尊守である。
世に出て働く人は、仕事に夢中になるあまり、主が聖別された安息日を忘れやすいため、順番的に先の方で命じられたのだろう。
主が礼拝するようにと定められた日を守る事は大切であるが、しっかりと「安息する」事もまた大切である。

続く命令は、十戒の第二戒、偶像の禁止である。
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの、どんな像(イメージ)も作ってはならず、それに仕えたり拝んだりしてはならない。(出エジプト記20:4-6)
偶像(アイドル、イメージ)を崇拝する、とは、まことの主以外のものを神とする行為である。
異教の寺院などに限らず、実体を持たないイメージ、すなわち、イデオロギーや論理、時にはサイエンスや神学さえ、神よりも優先した「頼りどころ」という偶像となりうる。
私達は、「神以外のものを神とする」偶像崇拝に気をつけなくてはならない。

『酬恩祭の犠牲を主にささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。 それは、ささげた日と、その翌日とに食べ、三日目まで残ったものは、それを火で焼かなければならない。 もし三日目に、少しでも食べるならば、それは忌むべきものとなって、あなたは受け入れられないであろう。 それを食べる者は、主の聖なる物を汚すので、そのとがを負わなければならない。その人は民のうちから断たれるであろう。 』(レビ記19:5-8)

ここでは、酬恩祭(和解のいけにえ)で民が守るべき事を、日常生活者の視点で命じられている。
酬恩祭(和解のいけにえ)は、神と祭司と人とが、同じ一頭の動物を共に食するもので、民が捧げるいけにえの中で、唯一、民がいけにえを食べる事の出来るものであり、約束の地に入るまでは、牛や羊、山羊を食す場合は、かならず「和解のいけにえ」という儀式を通して食さねばならない事が、一七章で規定されている。

この肉を食べる際は、捧げた当日と、その翌日は食べても良いが、三日目は食べてはならない。
それは、冷蔵が出来ない当時の、衛生的の観点から、というより、主がそのように命じられた命令を尊守するためで、日が経って肉が腐っている・いない、の問題ではなく、主がNOと言うなら、してはならず、主がYESと言うなら、するべきなのだ。

『あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。 』(レビ記19:9-10)

実りを全部独り占めする事は、汚れた人がやる事である。
聖なる主は、憐れみ深い。同じように、畑を刈り尽くさず、貧しい人々のためにとっておく事は、聖なる民の性質であり、地の実りを一粒たりとも残すまいと、畑を刈り尽くす事や、貧しい人や寄留者を憐れまない者は、聖なる民ではない。

全てのものは主のものであり、人を富ませるのも、貧しくさせるのも、畑を実らせるのも、実らせないのも、主の御手の内で為される事である。
だから私達は、与えられている恵みを、自分一人のものとせず、貧しい人には、主の代理として恵みを施し、そうする事によって聖なる主のわざに私達も加わるのだ。

主の祈り−日ごと必要な事柄(マタイ6:9-13)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

主の祈りは、真っ先に、天におられる「私達の」父なる神へ、すなわち今生きておられ、どこにいようとも見ておられ、私たちが生まれる前から、私達の成り立ちを知っておられるお方への呼びかけに始まる。
そして主の祈りの前半部分は、御名が高められるよう願い、御国すなわち「神の支配」が、私達のあらゆる面において行き届くよう願い、また、天において御心のみが成っているように、私たちという「地」にも、御心が成るように願う、そのような順序だった。
その順序は、そのまま私達が祈る時の優先順位で、自分ではなく、主をこそ優先させるべきなのだ。
神の国と神の義とを、まず第一とするなら、必要は全て備えられる事は、主も保証している。(マタイ6:33)

さて、主の祈りの後半は「我らのため」の祈りであり、その内訳は、日々、ひっきりなしに必要な事柄である。
その中で真っ先に祈るべき事は、「我らの日用の糧(原意:日毎のパン)を、今日も与え給え」である。
パン(食物)は日々必要なもので、食べない日々が幾日か続くならば、体は死んでしまう。
確かに、体の日々の必要が満たされる祈りは必要であるが、私達は肉体の必要についてだけでなく、霊的な必要も、日々備えられるべきであり、それが満たされるよう祈るべきである。
なぜなら、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による(マタイ4:4)からであり、霊において日々必要な「まことのパン」とは、イエス・キリストである。
また、日ごとのパンは「きょうも」与えられるように、と祈るのであって、何十年後でも大丈夫なような蓄えが与えられるように、とは祈らない事にも、目を向けるべきである。主は、何年も先の蓄えが備えられて、たましいに安心を言い聞かせている人に「愚か者」と言われた。(ルカ12:19)
主の御口から語られる御言葉は「日ごと」必要であり、今日受けたから明日はいらないというものでない。
人は飽き足りると、高ぶって、主を否む傾向がある。それ故、「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」(箴言30:8)というアグルの祈りは、わきまえのある的確な祈りである。

続いて「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈るよう、命じている。
主は、わざわざ私達に、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す」と、告白させている。
そう、罪の赦しは、まず「私達の側が赦す事から」始まるのだ。「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」(18:35)
私達には毎日の食料が必要なように、毎日の「赦し」も必要であり、その内訳は、まず私達の側が兄弟姉妹を赦す事であり、そうしてから、神が私達を赦して下さる事を求めるのである。

次に、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るよう命じている。
「試み」には、神様が私達を鍛えるために与えられる試練もあるが、ここの「悪」とは「悪しき者」(男性)とも訳す事が出来るため、悪魔から発せられる試みや誘惑の中から救い出して下さるように、という意味である。
イエス様も、「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハネ17:15)と祈られた。
私達が毎日食事を欠かさないように、悪しき者からの試みも、日ごとにやって来る事を、知るべきである。
エバが誘惑に引っかかってしまったように、私達は悪しき者からの誘惑にはことさら弱いものであり、日ごと、それに対抗すべきである事、また、日ごと神様からの守りを求める必要がある事を、忘れてはならない。

「国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」
最後のこの頌栄は、古い写本には欠けており、後代の聖徒達による追加とも言われているが、現代、世界中で祈られている主の祈りに、この頌栄が入れられている事を許されたのは、主である。
祈りの中に、主を誉め称える「頌栄」を入れる事は、御心にかなった事である。
「国と力と栄とは、限りなく汝のもの」という賛美は、黙示録でも、贖われた聖徒達が御座につかれた子羊を誉め称える言葉であり、私達の口から、とこしえに絶やしてはならぬ賛美である。
日々の糧も、罪の赦しも、悪からの救いも、賛美も、毎日必要なものであり、絶やしてはならぬものである。

礼拝説教メッセージ音声:乱れた性の行く果ては(レビ記18:19-30):右クリックで保存

今回の箇所では、道を外した性的不品行を禁じている。
『あなたは月のさわりの不浄にある女に近づいて、これを犯してはならない。隣の妻と交わり、彼女によって身を汚してはならない。あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。あなたは獣と交わり、これによって身を汚してはならない。また女も獣の前に立って、これと交わってはならない。これは道にはずれたことである。』(レビ記18:19-23)

性的な罪は、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。
ガラテヤ5章にある肉のリストで、真っ先に登場するのは、不品行、汚れ、好色である。
また、エペソ人への手紙でも、パウロは次のように書いている。
『不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。』(エペソ5:3)

性的な罪は、なぜ重点的に気をつけなければいけないか。
それは、性的不品行は「その身を汚す」からである。今回の箇所だけでもそれらの行いによって「汚す」という言葉は、9回も登場する。
不品行を犯すなら、その身を汚す事となり、主の臨在を離れさせる事になってしまうのだ。

『あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。』(1コリント6:15-19)

性的な交わり。それは、愛において一つ肉となる事であり、喜びと快楽を伴ったものであり、その成果として新しい命を生み出す、神の御胸に叶った、良きものだった。
しかし今や性は、ただ快楽を得る事だけが全面押し出され、愛も、いのちも軽んじられてしまった。
性的な交わりの中から、愛といのちだけが、すっぽりと抜き取られ、ただ快楽のみを得ようとする事、それは、実に大きな呪いをもたらす。

『あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。』(レビ記18:21)
モレクとは、子供を人身御供として捧げる偶像の神である。
子供をその偶像の手に乗せ、下から火を焚いて子供を焼き殺し、そのように「神に捧げる」という名目で、望まぬ命を断ったものである。そしてモレク神殿からは、子供の骨が大量に発掘されたそうである。
この「モレク」の意図は、現代の中絶と良く似ている。

日本の年間中絶数は、1950年代はなんと、100万以上だった。戦時中の死亡者数が310万だったのを見ると、かなり多い数値である。
それが近年徐々に減っていき、2005年でようやく30万台を割った。(国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集(2012)より)
事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。
現在の日本の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」だったわけである。

性は、いのちに関わる事であり、そこからいのちを抜き取って、情欲だけの、汚れたものとしてしまうと、どうなるか。
その人は呪われ、その土地から吐き出されてしまうのだ。
『あなたがたはこれらのもろもろの事によって身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い払う国々の人は、これらのもろもろの事によって汚れ、その地もまた汚れている。ゆえに、わたしはその悪のためにこれを罰し、その地もまたその住民を吐き出すのである。・・・これは、あなたがたがこの地を汚して、この地があなたがたの先にいた民を吐き出したように、あなたがたをも吐き出すことのないためである。』(レビ記18:24-28)

かつて世は、道を踏み外した行為のはびこりによって、一度滅びた事がある。
ノアの洪水の前、神の子たちは人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)

ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、、、新しく世に生まれてくるいのちたちは、暴虐に満ちた世に、無防備にただ送り出されて行く。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。

性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出されて元である。
私達キリスト者は、御言葉に従って正しく愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くためにも、福音を告げ知らせて行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の恵を無駄にするな(2コリント6:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦はなぜ良くないのか(レビ記18:1-18):右クリックで保存

『あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:3-5)

この章で、主は幾度も「わたしはあなたの神、主である」と言っており、あなたは、わ た し の お き て と 定 め に 従 っ て 歩 み な さ い、と特に強調している。
パウロも同じように、「もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。」と強調している。(ローマ10:5、ガラテヤ3:12)

もしイスラエルが、かつていたエジプトの風習に従って生きるなら、エジプトに下った災いを生きる事となり、入ろうとしている国・カナンの風習に従って生きるなら、主がカナンの人々をそこから追い払ったように、彼らもまた、祝福の地から追い出されてしまう。
しかし、彼らが主から与えられた御言葉によって生きるなら、主の中を生きるようになる。
それは私達も、同じである。
私達が、キリストにあって新しく創り変えられた者として生きるのなら、新しい永遠のいのちに生き、救われる以前の世の習慣によって生きるなら、呪いの内に生きるのだ。

エジプトやカナンの風習に染まってはならぬ。
主がその命令をされた時、真っ先に禁じられた事は、肉親や身内との性行為であった。
『あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。』(レビ記18:6-7)

ここで「肉親」という語は「肉」あるいは「肉体」という意味でもあり、創世記2:24の「人はその父と母を離れ妻と結び合い、ひとつ”肉”となる」という場面でも使われている語である。
つまり、実の母義理の母と性関係を持つ事は、母と一つ肉である"父"を辱める行為であり(7-8節)、孫娘と性関係を持つ事は、自分自身を辱める行為である。(10節)
他にも具体的に、自分の姉や妹、腹違いの姉妹、おば、息子の妻、兄弟の妻と、性関係を持つ事を禁じており、また、母と娘を同時にめとる事や、姉と妹の二人を同時にめとる事も、主は明確に禁じている。

「肉親」と交わる事は、エジプトやカナンでは、日常的に行われていた。
実際、アブラハムの妻サラは腹違いの妹だったし(創世記20:12)、ヤコブがめとったラケルとレアは互いに妹と姉だったし、モーセやアロンも、父とおばが結婚して生まれた子であった。その他にも、近親相姦の例はいくつか見いだせるが、イスラエルの民は、それほど、現地異教徒の風習に染まりやすかったのだ。

肉親と性行為を持つ事には、嫌悪を覚えるのが普通の感覚であるが、エジプトやカナンでは、そうではなかった。
それは、エジプトも、カナンも、同じ「ハム」の子孫であるが故である。

「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語(raah)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。つまりハムは、敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、それでは飽きたらず、天幕から出て兄弟たちに言いふらし、来て、見るよう、招いたのだ。
肉親、特に父親の、裸を、性的秘密を、指さし、あげつらえ、吹聴し、一緒になって中傷するのは、サタンの道であり、子々孫々が呪われてしまう道である。

身内や肉親には、親密な愛情(フィレオー)のみ抱くのが普通だが、肉親同士が性行為にまで及ぶ所には、相当の情欲(エロース)を燃え立たせなければならないはずである。
エロースは奪う愛、破滅へと導く愛である。
親子同士・兄弟姉妹同士など肉親との性行為の結果、生まれる子も、その親に当たる男女も、とても不幸な境遇を生きねばならない事は、どの時代・どの国でも同じはずである。
エジプトやカナンでは、それをおかしい事とも何とも思われず、当然のごとく行われていたが、神の民は、そうであってはならない。

不自然な情欲に駆られた結果、はびこるものは悲惨と不幸であるが、しかし、たとい、そのような境遇にあって生まれた人でも、神にあって、希望がある。
『あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:5)
イスラエル一族も、モーセも、大祭司の家系も、肉親同士の結婚によって生まれた。
しかし、彼らに与えられた神のいましめによって歩む事によって、神にあって生きるようになり、神の民として、新しい生き方を歩むようになった。
それは私達も、キリストにあって、そうである。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲(直訳:男の欲望)にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)
人は、その生まれがどのようであっても、たとい肉親同士の情欲によって生まれたとしても、男が無理矢理に思いを遂げた事によって、生まれた命であったとしても、キリストを信じた人は、肉の欲によらず、男の欲望によらず、ただ、神によって新しく生まれた者とされるのだ。
その事は、人にとって大きな慰めである。

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