メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:救いとさばきの引き金(出エジプト記7:1-13):右クリックで保存
モーセは自分は口下手で、パロも言うことを聞いてくれないと前章の最後で主に嘆いたが、神はそれを憐れんでくださった。
『主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。』(出エジプト記7:1)
神はモーセを神の代理人とし、アロンを神の代弁者としてくださったので、モーセはパロと直接対話をしなくて良いようになった。
言葉はあまり発しないほうが、威厳がある。
『愚か者でも、黙っていれば、知恵のある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。』(箴言17:28)
事実、後にはエジプト人さえモーセを尊敬するようになった。
主にあっては、実は口下手の人のほうが、大いに得をするのである。
『パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。』(出エジプト記7:4)
パロがモーセ達の言う事を聞かない事、それが引き金となって、神の民を虐待していた者達の裁きが行われ、イスラエルの民には大いなる救いとなるのである。
神はいつでも預言者の口を通して御心を伝えられ、その預言の言葉は、神の救いとさばきが実現するための引き金となる。
エゼキエルの時代も、神はエゼキエルをイスラエルの見張人とし、神の代理人とした。
『それゆえ、人の子よ、わたしはあなたを立てて、イスラエルの家を見守る者とする。あなたはわたしの口から言葉を聞き、わたしに代って彼らを戒めよ。わたしが悪人に向かって、悪人よ、あなたは必ず死ぬと言う時、あなたが悪人を戒めて、その道から離れさせるように語らなかったら、悪人は自分の罪によって死ぬ。しかしわたしはその血を、あなたの手に求める。
しかしあなたが悪人に、その道を離れるように戒めても、その悪人がその道を離れないなら、彼は自分の罪によって死ぬ。しかしあなたの命は救われる。
それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。』(エゼキエル33:7-11)
神から御言葉を預かった人は、それを必ず伝えなくてはならない。伝えた後に、それを人がどう受け取るかはその人の責任で、預言者の責任ではない。
預言者を通して御言葉が発せられ、人がそれをどのように受け止めたのか。それがきっかけとなって、救いとさばきが成就するのである。
『主はモーセとアロンに言われた、「パロがあなたがたに、『不思議をおこなって証拠を示せ』と言う時、あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえを取って、パロの前に投げなさい』と。するとそれはへびになるであろう」。』(出エジプト記7:8-9)
前回のパロとの対談では、モーセは神から預っていた奇跡をパロの前で行う事はできなかったが、神はそれをフォローして下さり、今度はパロの口から「不思議をおこなって証拠を示せ」と言わせ、奇跡をモーセに行わせられた。
蛇、すなわちサタンを思いのまま解き放ったり、手の内に制したりする権威は、まさしく神の権威である。
神は、モーセには神の力が宿っている事をパロに示されたが、パロはそれを、あたかもマジックのように受け止め、エジプトの呪術師達にも同じ事を行わせた。
しかし、パロのしもべ達が投げた杖は、モーセ達の投げた杖によって飲み込まれ、神はそこにおいても偉大な力を示された。
私達も世において、邪悪な者を放つ権威(1コリント5:5)も、掴んだり追い出したりする権威(マルコ16:18-19)も、イエスキリストにあって持っており、私達の放つ羊飼いの杖は、世の者達が放った蛇をも、飲み込んでいくのだ。
パロはますます心が頑なにしてしまい、それがエジプトへさらなる災いが降りかかる引き金となってしまったように、私達も、心をかたくなにし続けてしまうと、さらに災いを招く引き金となってしまうのだ。
心かたくなにせず、主に対しては心柔軟になり、速やかに幸いを得ていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
12月号の「百万人の福音」の53ページに、私が洗礼を受けた時の
あの時はまだ高校2年の時でしたが、教会の皆によりますと、全然
洗礼式の時に着る白い先礼服姿、確かに講壇に立ってメッセージす
主にあっていつでも鷲のように若々しく、翼をかって主の空を飛び
本日は収穫感謝祭で、祭壇が大地の実りで美しく飾られました。 礼拝の後、教会の姉妹たちの職場である横浜訓盲院に、それら大地の実りたちを届けに行きました。 子どもたちが色々な野菜や果物を手にとって肌触りを感じたり、香りをかいだりして、ものすごく喜んでおり、とても嬉しかったです。 主イエスの祝福が、子どもたちや職員の先生方に豊かにありますように。
天の実りを豊かに結べ(ルカ3:1-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今日は収穫感謝祭である。主が私達に与えて下さった豊かな実りを喜び、感謝し、捧げ物をささげる祭りだが、大地に実りがあるように”天の実り”があり、それは私達が主に実らせ、主を喜ばせるものである。
すなわち、地上から悔い改める人々が起こり、悔い改めにふさわしい御霊の実を、主に実らせる事である。
「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。」(創4:3)
主は、適当な捧げ物、自己中心的で身勝手な捧げ物は、決して受け取らないお方だという事である。
皆さんが王様に召し上がっていただく食卓を整えるにあたり、もみ殻つきの米を炊いたり、栗からイガを除かなかったり渋皮をつけたまま「お召し上がり下さい」などと言えるだろうか。
ましてや、地上のどの王よりも偉大な天地を創られた主への捧げ物を、どうしてないがしろに出来るだろう。
主は捧げる「心」にこそ目を留められ、砕かれたたましい、悔い改めた心こそ、主は喜ばれる。(詩篇51:17)
主は普遍的であり、偉大であるが故に、地上の王に比べると、崇拝はされやすい。
しかし同時に、目に見えないが故に、ないがしろにされやすいお方でもある。
恵みと憐れみに満ちておられるが故に、人々からばかにされやすいお方である。
忍耐強く、いつまでも裁きをなさらないが故に、人々から図に乗られやすいお方である。
しかし忘れてはならない。地上における恵みの時、救いの時にはリミットがあり、やがて主は来られ、全て地上で行った事に応じて、さばきをなさるお方でもある事を。
恵みの時、救いの日の内に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結ばなくては、天の御国に入れない事を。
天の御国は、確かに近づいた。しかし、私達が道ぞなえをしなくては、天の御国は私達の内に成就しない。
「主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ」、即ち、全て卑屈さという谷は埋め、高慢の山は低くし、悔い改めて主の御前にへりくだる時、私達の内に、主が通られる道が整えられるのだ。(イザヤ40:3-5)
ヨハネは、群衆がバプテスマを受けにくるのを見て言った。悔い改めにふさわしい実を結べ、と。(ルカ3:8)
斧が既に木の根元に置かれている、良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれる、と。
悔い改めの実、すなわち天の実りとは、舌先三寸で結べるものではなく、実体を伴ったものである。
バプテスマのヨハネは、具体的に、持つ者は持たない者に分け与え、必要以上に取り立てず、力づくでゆすったり、無実の者を責めたりせず、自分の給料で満足せよ、と言う。(ルカ3:10-14)
悔い改めは、誰か他人がなすべき事でも、自分が手を加えず自動的に成される事でもない。
私達自身が痛みを伴ない、努力して実際に為す事であり、まず、自分のやりたい事を主の前に下ろして、主の御心に目を留め、自分中心を止めて、主中心の価値観へと方向転換(メタノイア)する事である。
私達は主に喜ばれる実を結んでいるだろうか。主に喜ばれる実とは「御霊の実」すなわち、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制である。(ガラテヤ5:22-23)
王の食卓に地の実りを出す際には、余分な皮や殻は必ず取り除くように、主の御前に自分自身を差し出す時も「肉(生来の罪に傾く性質がある肉体の力や考え方など)」という”もみ殻”は必ず取り除くべきである。
この、肉を削ぎ落とす儀式が割礼であり、現代ではバプテスマに相当する。
ヨハネは、主の道ぞなえをするために、水でバプテスマ(浸し込み)を行なっていたが、主は、私達を聖霊と火への浸し込みをされるお方で、手に箕を持ち、脱穀場をことごとく清め、麦を倉におさめ、もみ殻を消えない火で焼きつくされる。(ルカ3:16-17)
「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」(1コリ15:50)
主は決して、肉由来のもの、すなわち、アダム以来の神から離れて為した全ての人間的なわざは、受け取らない。モーセでさえ、割礼しないままに主の働きをしようとした時、殺されかけたのだ。(出4:24-31)
キリストにあって、聖霊の火で肉のものを燃やし尽くして清めていただき、御霊に歩みつつ、主が喜ばれる”天の実り”を豊かに実らせ、捧げる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
種まきと刈り入れ(詩篇126篇):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祭司の一族の成り立ちと責任(出エジプト記6:10-30):右クリックで保存
『モーセは主にむかって言った、「イスラエルの人々でさえ、わたしの言うことを聞かなかったのに、どうして、くちびるに割礼のないわたしの言うことを、パロが聞き入れましょうか」。』(出エジプト記6:12)
モーセは自分が口下手である事を幾度も言っているし、事実この時点、彼の言うとおり、パロだけでなくイスラエルの人々にさえそっぽ向かれてしまっている。
後に彼はエジプトに大きな打撃を与える者として恐れられ、多くの富を伴ってイスラエル民族をエジプトから導き出すのだが、それは、モーセの指導力や雄弁さによるのではなく、ただ神の力強い御腕による事が、誰の目にも明らかになった。
それ故、私達も希望を持つことができる。
事は、人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのだから。(ローマ9:16)
さて、6章16節から25節までは、後の祭司の一族となるレビ族の系図が記されているが、レビ族が祭司族となったその成り立ちは、中々壮絶である。
民がモーセがいない時、ほしいままに振る舞って偶像を作り、座っては飲み食いし立っては戯れた。
それを見たモーセは、イスラエル全体が滅ぼされないために、偶像崇拝をした者たちを剣で殺すよう命じたが、その時、レビ族は自分の子や兄弟達に逆らっても、主に身を捧げ尽くした故に、主によって祭司の一族に任命された。(出エジプト記32:26-30)
このように、自分の血肉や肉親よりも神を優先し、神の命令を優先する者こそ、祭司として任命される者である。
今や、私達は主イエスにあって、人類を執り成す祭司として任命されており、私達も、自分の十字架を負って主についていく事が、求められている。
『するとイエスは人々にむかって言われた、「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである。だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ8:21-23)
いかにレビ族と言えども、主が任命された祭司や預言者に逆らって立ち、反逆を試みる者には、恐ろしい罰を与えられる。
コラと仲間たちは共謀してモーセとアロンに逆らい、生きたまま地の底に飲み込まれてしまった。(民数記16章)
祭司の責任は重要で、大祭司の一族であっても、主によって殺されてしまった者もいる。
アロンの長男ナダブと次男アビフは、身勝手な火を主の前にささげたため、主の前から火が出て焼き滅ぼされ、主の前に死んでしまった。(レビ記10章)
しかも、その事件が起こった時、モーセはアロンと三男、四男に、次の事を言った。
『「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)
大祭司には厳しい責任があり、身内が主に不敬を犯して滅ぼされた場合でも、悲しみの表現をしてはならず、また、主から特別な任職をされているからには、為すべき聖なる務めの場所から離れてはならないのだ。
結局、大祭司の家系は三男エルアザルに受け継がれ、アロンが死ぬ時、大祭司の服は彼に引き継がれた。(民数記20:27-29)
エルアザルの子・ピネハスは、主の忌み嫌われる事を自分も忌み嫌うものとし、主に代わって滅ぼすべき者を彼が代わって滅ぼしたため、主に喜ばれた。
すなわち、イスラエルの民が異邦人の女と不品行をして民全体に災いが下っている時、みんなで悔い改め悲しむべき時なのに、恐れもせず、平然と不品行を続けようとしている者を、槍で刺し通して殺し、そうして疫病がイスラエルの人々に及ぶのが止んだ。(民数記25章)
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。
このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)
このように、祭司の一族、すなわち、礼拝の奉仕者や祈りの香を焚く人、聖歌隊の伴奏者や指揮者、教会の門番、宝物庫の管理など、主のつとめめを為す働き人は、主に聖別された者としての自覚をしなくてはならない。
祭司たるものは、自分の血肉や肉親よりも、主の命じられた事を第一とし、御言葉のガイドラインに沿って右にも左にもそれずに礼拝を捧げ、日々の生活を、聖なる者として送るのだ。
ナダブやアビフのように、自分流の礼拝を捧げては決してならず、油注がれた者として、私情に流されてその務めを手放してはならない。
ピネハスのように、神が忌み嫌われる事を自分の忌み嫌う事とし、滅ぼすべきは主イエスの名によって滅ぼすのだ。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:9)
皆さんは、キリストにあって王族の祭司としての自覚はあるだろうか。
礼拝説教メッセージ音声:主の側の情報開示(出エジプト記6:2-9):右クリックで保存
モーセは神の言葉を伝えた結果、パロには断られ、イスラエルの民にもかえって災いをもたらす結果となってしまい、四面楚歌状態となってしまった。
その事を訴えたモーセに、主は、ご自身がどういうお方であるのかを詳しく開示され、彼に自信を与えられた。
『神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主(エホバ)という名では、自分を彼らに知らせなかった。(あるいは「知られていなかった」)」』(出エジプト記6:2-3)
アブラハムの時代には「全能の神」としては知られていたものの、「エホバ」としても「わたしはある」という名としてもまだ知られておらず、それが開示されて行ったのは、モーセの時代以降だった。
創世記に「エホバ」という語が何度も出てくるのは、創世記は、天地創造からアブラハム達の時代に至るまでを、モーセに啓示し、モーセに書かせて下さったものだからである。
神は、時代を降るごとに、また、神との付き合いが長く深くなればなるほどに、御自身がどういうお方であるのかを示し、その全容を徐々に開示されて行く。
そして今や、神は御子を世にくだす事によってその愛を完全に開示され、キリストを通して救いの全容を明らかにして下さった。
神がモーセに現れた時は、「I AM」という名を明らかにされた。
通常の言語では「I AM」だけでは使われず、普通なら「I am savior」「I am provider」など、続く語があるはずである。
この主の御名、「I AM」は、金額欄を自由に記入できる小切手のようであり、私達は「I AM」に続く空欄に、信仰によって自由に代入する事が出来る。神は助け、神は癒し主、神は備え主、神は救い主、など。
そういうわけで、主は私達にとって全ての全てであり、主を得た事は全て以上を得たも同然である。
神はまた、大いなるさばきによって民を贖うと、モーセに言われた。
『それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。』(出エジプト記6:6)
裁きとは、裁かれる人には恐ろしいが、裁かれるべき人が行った悪事の”被害者の側”にとっては、救いである。
黙示録の21章以降は、救いが完成し、永遠の祝福の世界が記されているが、その前の20章は、裁かれるべき者たちの裁きが続くが、救いの前には、さばきがあるのである。
人は言う。神はさばきをする、ひどい、恐ろしい存在だと。
そう思う人には、自分は裁かれる側である事の自覚、すなわち、自分は神の御前では罪人である事の自覚がある、という事だ。
それなら、救われて裁かれない側に入れば、さばきを恐れなくて良いわけである。
救われる方法は、キリスト教会がいつも言っており既に聞いてきた事、すなわち、イエス様を主とする事。
自分の人生のハンドルを自分で握る事を手放し、運転席をイエス様にゆずり、イエス様に人生のハンドルさばきをしていただく事である。
神は裁かれるひどいお方だ、と信じている人は、その言葉どおり裁かれてしまう。
小切手にマイナス一億円と記載したら、その額面どおりの借金を背負ってしまうようなものである。
実際の小切手にはそんな機能は無いが、信仰の世界においては、それが起こってしまうのだ。
どうせ信仰告白するなら、主は良きお方である事を告白したほうが、断然徳である。
『モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。』(出エジプト記6:9)
労働の疲れや思い煩いでいっぱいいっぱいな時は、御言葉も、すばらしい解き明かしも、偉大な指導者の言葉も、耳に入らない。
それ故、主の御前に出る時は、自分のコンディションに気をつけるべきである。
『神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。』(伝道者の書5:1-3)
仕事を多くしてしまうと、夢によって思いが塞がれ、御言葉が入らなくなり、言葉数も多くなり、罪が増し加わってしまう。
それ故、主の御前に出る時は、整えられた心であるよう気をつけるべきだ。
そうでないと、御前に出ても罪が示され、恥じ入って御前立てなくなり、聖徒の集いから退散するのみである。
イスラエルの民は、仕事が多くなってしまった事によってモーセに示されたすばらしい事さえ聞く耳をもたなくなってしまったが、主はそんなイスラエルの成り立ちもご存知で、憐れみ、救い出して下さる。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁完成前の猛攻撃(ネヘミヤ6章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:1-3:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:どちらがなまけ者か(出エジプト記5:15-6:1):右クリックで保存
『パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。』(出エジプト記5:17-18)
パロはイスラエル民族を、繰り返し「なまけ者」と呼んだ。
日本の社会人は特にこうした言葉に弱く、会社から「なまけ者」呼ばわりされる事を恐れ、家庭や礼拝を犠牲にし、パロのれんがをせっせと作る人は多い。
しかし、考えてもみて欲しい。
パロが命じるれんが作りをせずに主に犠牲をささげに行く事と、パロのれんが作りに没頭して主へ犠牲をささげない事。一体どちらが、永遠の視点から見れば「なまけ者」になるだろうか?
私達は確かに社会的責任を果たすべきである。
しかし、主に贖われた私達の人生の中心は、主を礼拝する事のはずだ。
礼拝に行かせてくれずに、労働を強いるような主人の所には、長く留まるべきでないし、もし留まらざるを得ない事情が今あるなら、それを主に祈り、導きを求めるべきである。
イエス様がベタニヤのマルタの家で御言葉を語られていた時、マリヤという妹が、主の足もとに座って御言に聞き入っていた。
しかしマルタは、給仕を忙がしくして心を乱し、イエス様のところに来て「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください。」と言った。(ルカ10:38-42)
マルタの目から見れば、マリヤのほうがなまけ者、自分は正しい働き者。だからイエス様に、マリヤも座って聞いていないで立って働くようにと、説得させようとしたのだ。
しかし主は答えて言われた。
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(同41-42節)
イエス様の目から見れば、主が御言葉を語られている時に、忙しくしているマルタのほうが霊的になまけ者で、その仕事がいかに客人を相手する給仕の仕事であっても、主が語られる時は手を休め、御言葉を聞くことを優先しなくてはならない。
優先すべきは礼拝であり、主の足元に座って御言葉を聞く事なのだ。
パロのやり方は、サタンのやり方を如実に表している。
世は、サタンは、あたかも礼拝を捧げる事のほうが非常識でなまけ者、と思わせ、パロのれんが作り、すなわち労働は何より優先させて従事する方が正しい、社会的にしっかりしている、と思わせ、そうして人々から搾取し、疲れさせ、思考停止させる。
サタンは訴える。
奴隷にもどれ、と。
サタンは、あなたが奴隷である事の方が勤勉で徳であるかのように、社会人としてしっかりしているかのように見せるが、では、忠実に奴隷生活を忠実に続ければ、いつか労働のきつさが緩和されると思ったら大間違いで、相手はもっと図に乗り、こき使う度合いをさらに水増し要求して来る。
イスラエルの民は、その罠に落ちてしまった。
モーセが神に礼拝を捧げさせよなんて言ったからパロに嫌われてしまった、モーセは言わなければ良かったのに、私達はあのまま、おとなしく命じられた通りれんが作りだけをしていたら平和だったのに、と。
モーセもまた苦しんで、主の元に訴えて言った。
「わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません。」
主が命じられる事は、時として、人の目から見れば、明らかに効果が無い、逆に相手を怒らせてしまう、と思える時があり、そして実際にあらかじめ想像した通りの災いが自分の身に降り掛かってしまう、という事は、確かにある。
しかし、主が命じられるからには、そこで終わりでは決して無く、その向こう側に大逆転があるのだ。
ここに、信仰と忍耐を働かせる必要がある。
主に命じられた事を人が従順して行う時こそ、神の支配が私達の内に働く時であり、主の御業が成される手はずが整った事になるのである。
礼拝をおろそかにしたまま、世の働きに奔走し、神殿が廃墟のまま自分だけ板張りの家に住もうとするのは、穴の開いた袋にせっせとかき集めるようなものだ。
『あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。』(ハガイ1:6-11)
人生で最も大切にすべきは、主を礼拝すること。主の住まわれる宮である、この体という「神殿」を、主のためにきよめ、用いる事である。
そうするなら、主はあらゆる災いを叱りつけ、予期せぬわざわいによる要らぬ出費が無くなり、生活にゆとりが出来、ますます主の祝福の内を歩むようになるのである。