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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:荒野での第一課程(出エジプト記16:1-10):右クリックで保存

イスラエルの民がエジプトを出て1ヶ月目、彼らはエリムとシナイの間にあるシンの荒野に入った。
その時、イスラエルの全会衆は、またしてもモーセとアロンにつぶやいた。
そのつぶやき内容の低俗さは、前回よりパワーアップしている。

『イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。』(出エジプト記16:3)

果たして彼らはエジプトで、肉鍋を囲んでパンに飽きたりていたのだろうか?
たとえそうだったとしても、彼らは「飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった」などと主を前に言うべきではないし、いつもパロと主の前に立ち民を導いていたモーセ達に対して「あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」などとは、言ってはならぬはずだ。

レビ記や民数記を見ると、イスラエルの民がつぶやいては災いに遭うという事を繰り返しているが、主は今回はいきなり災いを降すような事はせず、その民のつぶやきを聞いて下さり、そして言われた。
「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう。」(出エジプト記16:4-5)

イスラエルがパンや水が無い状況へと導かれた理由は、彼らが主の言葉に従うかどうか、試みるためであった。

主はなぜ、
人を試みるのか。そんなことせずに、人をそのまま両手放しで約束の地に入れれば良いのに、と思うだろうか。
しかし主は、分相応でない大きな事を、訓練も無しにいきなり預けるような事は、なさらない。
車の教習で、ハンドルを握ったことのない初心者にいきなり公道を走らせるような事はしないように、主もイスラエルに一つ一つの教習を与え、約束の地を継いで世界を祝福へと導くという、大きな”運転”ができるようになるまでに、訓練を与えておられるのだ。

その教習の第一課程は、「主が与える天からのパンを、日々、一日分を集める事。六日目には二日分を集める事」、それだけであった。
それを忠実に守るかどうか。主は見ておられた。

パンが降るのは、安息日を除けば、日毎である。
主は、信仰の初心者に、何年分もの財を一気に与えるような事は、ほぼ100%せず、日毎、主からの恵みを拾うこと、日毎、御言葉に従順する事を、地道に、じっくり体験させる所からはじめる。

人は思う。もしパンが一週間も降らなかったらどうしよう、餓死してしまったらどうしよう、と。しかし御言葉は言う。毎日パンが与えられるから、それを集めよ。六日目は二倍集めよ、と。
そうして日々、主の御言葉は必ず成って行くさまを人が見、また人が日々御言葉を守って行く事によって、主の御言葉に従順する事、主は確かで真実なお方だと信仰が強められていく事を、実地訓練していくのだ。

そのような地道な日々は、次の人には特に耐え難い毎日かもしれない。
すなわち、アクション映画の主人公のように、特殊な賜物を用いて華々しく活躍したり、何年分も不足なく暮らせるような大金がポンと与えられる事を、インスタントに求めるような人には。
主は、そのようなうずめく願望を萎えさせ、剥ぎ取る「第一課程」から始められる。
中には、そのような願望を何十年も握りしめ続けて、いつまでも第一課程を卒業できないでいる「クルシチャン」もいる。

『モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである。いったいわれわれは何者なのか。あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」。』(出エジプト記16:8)
彼らはモーセとアロンにつぶやいたつもりだったが、実は、主につぶやいていたのだ。
「いったいわれわれは何者なのか。」そう、モーセに言っても無意味である。

『それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。』(出エジプト記16:10)
イスラエルの民は全員、見た。
アロンが語り終えたタイミングで、主の栄光が雲の内に現れたのを。
主が確かに民のつぶやきを聞かれ、その栄光を表された事を、誰もが見たのである。

よく、主からの奇跡や不思議を見たがる人はいるが、それを見たからには、責任が発生する事もまた忘れてはならない。
荒野の民は、この第一課程を、どのようにこなして行ったか。次回以降に見ていきたい。

「これは御心だよ」とか「これは導きだよ」という言葉を連発する人に、ろくな信仰の人はいない・・・これは今日ある聖徒と話していて気付いた事です。

神様を道具にして自分の願望やはかりごとを正当化させようとしている人が、良く連発するみたいです。

御心とは、人間の願望やはかりごとの一切関知せぬ神様の御旨であり、導きとは、人間の願望やはかりごとの一切関知せぬ、神様が用意された"順序立て"が成っていく事だと、私は思います。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁の奉献式(ネヘミヤ11-12章):右クリックで保存

概要】

ネヘミヤ記11章と12章を通して、エルサレムの再建とその住民たちの霊的な再建について学びます。エルサレムに住むことの意義と、私たちの霊的なアイデンティティについて考えます。

【聖書箇所】

  • ネヘミヤ記11章

  • ネヘミヤ記12章

【励ましの言葉】

エルサレムに住むことを選んだ人々のように、私たちも神の国に属する者としてのアイデンティティを持ち続けましょう。

【戒めの言葉】

霊的な城壁を築かずにいると、邪悪な者たちが入り込み、私たちの聖なる領域を侵すことになります。

【勧めの言葉】

私たちの国籍は天にあり、イエス・キリストを主とする者として、日々の歩みを整えましょう。

【***詳細***】

ネヘミヤ記11章では、エルサレムに住む人々のリストと系図が記されています。エルサレムは「聖なる都」として特別な意味を持ち、そこに住むことは神に選ばれた者としての証しです。民の司たちはエルサレムに住み、他の民はくじを引いて選ばれた者がエルサレムに住むようにしました。自ら進んでエルサレムに住むことを選んだ人々は祝福されました。

このように、エルサレムの城壁が再建された後、住民たちは霊的な再建を行いました。彼らは自分たちの罪を告白し、神に対する誓いを新たにしました。私たちもまた、霊的な城壁を築き直し、神に対する誠実な歩みを続ける必要があります。

ネヘミヤ記12章では、エルサレムの城壁の奉献式が行われます。歌うたいたちが集められ、感謝の歌を歌いながら城壁を巡りました。ネヘミヤは後ろから民を見守り、彼らの行進を導きました。彼は自らの栄光を求めず、神の働きを優先しました。

この奉献式では、数多くの生贄が捧げられ、喜びの歌が歌われました。賛美の歌は、時代を超えて私たちに力を与え、神への信頼を新たにします。私たちもまた、日々の生活の中で神を賛美し、感謝の歌を歌い続けましょう。

【結論】

エルサレムの再建とその住民たちの霊的な再建は、私たちにとっても重要な教訓です。私たちの国籍は天にあり、イエス・キリストを主とする者として、霊的な城壁を築き直し、神に対する誠実な歩みを続けましょう。神の国に属する者としてのアイデンティティを持ち続け、日々の生活の中で神を賛美し続けることが大切です。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ4:7-11:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:マラの苦い水(出エジプト記15:19-27):右クリックで保存

『そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った、/「主にむかって歌え、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」。』(出エジプト記15:20)
ミリヤムはモーセやアロンの姉、という事は、彼女はこの時90歳くらいであったろう。彼女は女達の先頭に立ち、共に和して歌い踊っていた。
男も女もとても大きな喜びに満たされて、主を喜び祝っていた様子が伺える。

ところがその3日後、賛美していた唇は、つぶやきを発するようになってしまう。
エジプトの軍隊が沈んでいる紅海のほとりを出発し、緑も水もない荒涼とした岩砂漠を3日間歩き、やっと水を見つけた、と思ったら、それは苦い水だったのだ。
『さて、モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。』(出エジプト記15:22)

人は、弱い存在である。
困難の時につぶやくのは、弱さある人間としては無理もないかもしれないが、この時、イスラエルの民は、必要の満たしを求めるべき相手を間違っていた。
本来なら必要の満たしは神に求めるべきなのに、彼らは人間の指導者であるモーセに求めたのだ。

人は何かと、牧師や霊的指導者などの「人間」に頼りがちである。
なぜなら人間なら話せば聞いてくれるし答えてくれるし、ことに、相手がやさしく謙虚な人であれば、文句もぶちまけやすい。
時には、レストランのサービスがなっていないと怒鳴るような感覚で、神のサービスはなっていないと「人間」にぶちまける者さえある。

しかし、目に見える人に頼るなら、必ずと言っていいほど失望させられる。
『目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。』(ローマ8:24-25)
しかし、見えないお方である主に信頼する人は、決して失望させられる事は無い。(ローマ10:11)

神にではなく、モーセや牧師などの「目に見える人間」にいつまで経っても頼ろうとする人は、魚が釣れる人に「魚をくれ、くれ」といつも言っておきながら、自分は釣り方を覚える気が全く無い人のようである。
釣り方を自分で覚えて、より魚が捕れる技を磨くよりも、「くれ、くれ」とだけ言っている生き方は楽かもしれないが、いつまでも成長せず、いざという時は困ってしまう。
同じように、いつまでも信仰を働かせず「人間」にばかり頼っている者も、いざという時には困ることになる。

モーセは、目に見えないお方・全ての備え主である主に叫んだ。
『モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。』(出エジプト記15:25)

私達も、人生の中で砂漠を放浪した挙句に苦い水に行きあたってしまったような時は、人ではなく、主に叫ぶべきである。
そうするなら、苦い水は甘く変えられ、必要が十分に満たされるように導かれていくのである。
『こうして彼らはエリムに着いた。そこには水の泉十二と、なつめやしの木七十本があった。その所で彼らは水のほとりに宿営した。』(出エジプト記15:27)

礼拝説教メッセージ音声:モーセの歌(出エジプト記15:1-18):右クリックで保存

イスラエル民族は遂にエジプトに完全勝利し開放された。
そんな彼らが真っ先にした事は、歌だった。

『そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、/「主にむかってわたしは歌おう、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、/彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、/彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。』(出エジプト記15:1)

モーセとイスラエルの民は、主のなされた偉大な御業を、歌わずにはおれなかった。
人は感動すると、その事を言葉で伝えるだけでは飽きたらず、歌にして感動を分かち合ったり、伝えたりする。
歌とは不思議なものである。
ある歌を聞けば、すぐにその歌の時代の心情になれるし、自分が生まれていない時に作られた歌であっても、共有できる内容であれば、すぐにその歌を作った人と同じ感情になれる。

聖書は歌で満ちている。詩篇はもちろん、創世のはじめから黙示録に至るまで。
創世のはじめ、この世界の土台が造られた時、明けの星々や神の子達の喜びの歌が溢れていたのを、ご存知だっただろうか。(ヨブ38:7)
そして永遠に至る時代も、完成した聖徒達の賛美で溢れている事が、黙示録に記されている。

『主はいくさびと、その名は主。彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、/そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。』(出エジプト記15:4-5)

イスラエルの民は、つい何日か前まで、そのエジプトの指導者たちによって苦しめられていた。
その頃は自分を追いやる彼らは、決して歯向かう事の出来ない、雲の上の人のような存在だったかもしれない。
つい数時間前、彼らは圧倒的兵力を頼りに自分達を蹂躙しようと向かって来たのだが、今や彼らは、海に沈んでいる。
それは、イスラエルの内におられる、力強きお方が、そうされたから。
その喜びはどれほどであっただろう。

『あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、/流れは堤となって立ち、/大水は海のもなかに凝り固まった。敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、/分捕物を分かち取ろう、/わたしの欲望を彼らによって満たそう、/つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、/彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。』(出エジプト記15:8-10)
エジプトは、イスラエル人を殺し、分捕りものを奪う気満々だったが、主は、ご自身の「鼻の息」によって正しいさばきをなされた。

主の息、聖霊の風は、人を生かす。
アダムが創られた時も、その鼻に息を吹き込む事によって生きた人間となったし、ノアの時代も、地の上を覆う水は、主の息吹によって退かせられた。
そして今回、主はその鼻の息によって、イスラエルとエジプトをより分けられた。
主の風は脱穀場からもみがらを吹き飛ばし、有用な実は残って主の倉に納められるのである。

『主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、/だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、/ほむべくして恐るべきもの、/くすしきわざを行うものであろうか。』(出エジプト記15:11)
この歌と同じ内容が、黙示録でも、モーセと小羊の歌として歌われている。(黙示録15章)
出エジプト記でも黙示録でも一致している事は、歌う人達は、大きな患難から神によって贖われた人達で、海のほとりに立っており、神が偉大な業をなされた事を喜んで歌っている事である。

私達もまた、信仰の先人たちが作った詩と賛美と霊の歌とにより、あるいは新しい歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌うのである。
キリストのことばを豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒めつつ地上での人生を歩み、かの日には、あの白い衣を来た群衆と共にガラスの海のほとりに立ち、とこしえに神を褒め称える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:いのちと死の区別(出エジプト記14:19-31):右クリックで保存

主はイスラエルに海の中を進むよう指示し、イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。
その所は、真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いたため、両軍は一晩中、互いに近づくことはなかった。(出エジプト記14:19)
主は敵の前に立ちはだかり、主の民の盾となって保護して下さるお方である。

主は区別をされるお方である事は、天地創造以来、一貫して示されている。(創世記1章)
神はまず、混沌の中から光と闇を区別され、天と水とを区別され、水と陸地とを区別され、昼と夜とを区別された。(第一日〜第四日)
そうして区別し、物事に秩序を立てて行った後に、いのちを創造された。
まず海と空の生き物、陸の生き物を、そして最後に、神に似た者である人を創造された。(第五日〜第六日)

そして主は創造のみわざを終え、第七日に安息し、神と人とは永遠に共に生きていくはずだった。
それなのに人は神に不従順となり、地は呪われ、死が入り、神と人は断絶状態となってしまった。
神はそこから、人を元々の「はなはだ良かった」状態へと戻すために、人の中から聖なるものと俗なるものとを区別して行かれ、その完成した様は、黙示録において記されている。

今回の主の行動はその遠大なご計画の一環であり、主はこの時、アブラハムの子孫(神の民)と、エジプト(世)とを、水とかわいた所によって、いのちと死へと区別された。
『モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。』(出エジプト記14:21-23)

イスラエル民族は、主が海を分けて海の間のかわいた道を得てそこを行ったが、エジプトも同じ事をしようとその道に入り込んで来た。
しかし、肉なる者は、聖なる者と同じ道に入り込む事はかなわないのだ。
『そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。』(イザヤ35:8)

『その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。』(出エジプト記14:25)
主はエジプトに対抗して戦われた。同じように、主はキリストにあって贖われた私達の盾となり、私達の代わりに敵と戦ってくださるのだ。

『そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。』(出エジプト記14:26)
エジプトの軍隊も、パロも、ノアの時代にように、水によって滅ぼされ、ひとりも残らなかった。

水は死を意味し、そこから救い出される事はバプテスマの型である。
『天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。』(2ペテロ3:5-6)
主の御手のわざによって水の中から救い出された民こそ、新しい世界を生きる事が出来るのだ。

主はエジプトを通して栄光をお受けになる、と言われていたが、まさしくその通りになった。
同じように主は、主の敵であるサタンを最終的に滅ぼし、主の民である私達を救う事によって大いなる栄光をお受けになり、主はその民にほめたたえられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:信仰が試される時(出エジプト記14:10-18):右クリックで保存

エジプトは主が力強く大いなるお方である事を忘れ、リベンジをしようと、牙を剥き出して襲って来た。
しかし、敵がそのように必死で襲いかかってくる時は、敵の最後が近い時期である。サタンが自分の最後が近い時に、もっとも怒り狂ったように。(黙示録12章)

『パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、かつモーセに言った』(出エジプト記14:11)
イスラエルの民はエジプトから出る時、主が共におられ、守られ、導かれている故に、意気揚々としていたはずなのに、いざ、目の前にエジプトの軍隊が追って来るのを見たとたん、泣き言を叫んでしまう。

「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。(出エジプト記14:12-13)
イスラエルの民は一体いつ、モーセにそんなことを言っただろうか?
敢えて言うなら、まだ主がエジプトに一つも災いを下されていなかった時、モーセがパロと一番最初にやり取りして、かえって煉瓦焼きの労働がきつくされてしまった時だろう。(5:21)
だが、主がそれ以降、立て続けにエジプトに災いをくだされて以来、もはや誰もそんな泣き言は言わなかったはずだ。
主が御業を働かせている間は何も言わないのに、目の前の状況が芳しくなくなると、主のして下さった良きことは一切忘れ去り、それでなぜかずっと以前に自分が発言したマイナス思考な内容だけは覚えていて、さも自分の預言が的中したかのように騒ぎ出し、偉ぶり、隣の信仰の同僚さえくじかせる。

私達も信仰が試された時、彼らのように信仰の先輩に向かって「主はどこにいる」とつぶやいていないだろうか。
主が敵を順調に懲らしめている内は、喜んでついて来るのに、いざ、敵の馬や戦車が砂埃を巻き上げながら目の前に迫ってくる現実を見るや、今まで主がいかに守って下さったのか、いかに力強いお方であったかが、一瞬でどこかに吹っ飛んでしまい、いらぬ事をつぶやいてしまう。

約束の地、乳と蜜の流れる安息の地に入るには、試練を経て、信仰という代価を支払う事が必要なのだ。
私達はこのような試練の時、いかなる行動を取れば良いのだろうか。

『モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。』(出エジプト記14:13)
モーセが言った事のポイントは「恐れるな」「しっかり立て」「主の救いを見よ」「黙れ」であった。
信仰の試練の時は、まず恐れない事。しっかりとキリストという土台の上に立ち、心配事を語りたい唇は黙らせ、主の救いを見ている事である。

この時点、主は何らかの方法で救って下さる事は示されていたが、具体的にどのような方法で、というのはまだ知らなかった。
主はどのように指示されたか。

『主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。』(出エジプト記14:15-16)
主はまず、主の御前でざわついている民とモーセに「なぜ叫ぶのか」と言われ、進むように促された。
どこに歩を進めるのか? それはなんと、海にである。道が無いと思っていた所へ、行け、と主は指示される。
主はモーセに杖を差し伸べさせ、海を分け、乾いて道になった所を踏み行かせるよう指示したのだ!

『わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。』(出エジプト記14:17-18)

主は言われる。進め、と。
しかも、パロとすべての軍勢、その戦車と騎兵とによって、栄光をお受けに成る、と言われた。
どのようにしてか?
それはこの時点、モーセも民も、まだ知らない。

主の導きは、足元を照らす灯火のように、先の先まで見ることはできない事が、よくある。
その時、人は、主が具体的に何を起こされるのかは知らなくても、信頼して歩んで行く必要があるのだ。
そうして主と共に歩み続けた道を将来振り返る時、主は確かに生きて働かれ、人の知恵を遥かに越えて素晴らしい導きをなさったのだと、人は知るのである。

お言葉通りこの身に成りますように(ルカ1:26-56)
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

マリヤはガリラヤ・ナザレの地に住んでいる、ごく普通の若き処女だった。
そこへ、あのザカリヤに現れ、ザカリヤを恐れさせた御使いガブリエルが突如マリヤに現れ、言われた。
「恵まれた女よ、おめでとう(直訳:喜べ)、主があなたと共におられます」(ルカ1:28)
普通に暮らしている所に、突拍子もない人(御使い)がいきなり現れ、突拍子もない事を言われたので、マリヤは当然、一体何のあいさつかと考え込んだ。
どういう訳で自分は「恵まれた女」と呼ばれるのだろう。「おめでとう(喜べ)」とは、何についてなのだろう。
御使いは、もっと突拍子もない事を告げた。マリヤは身篭って男の子を産み、その名はイエスとつけるべき事、その子は優れた者、いと高き方の子と呼ばれ、神は彼に永遠のダビデの王位を与えられるというのだ。

処女がみごもる、というしるしはイザヤによって告げられていたが、マリヤがそれに当選した、という知らせが来た時、彼女は非常に微妙な時期だった。相手がいない時期でもなく、結婚した後でもなく、よりによって婚約期間中という最もタイミングの悪い時だったのだ。普通人の感覚では、とても「おめでとう」ではない。
モーセは神から呼び出しがかかった時、嫌がったし、ギデオンもサウルもエレミヤも、そうだった。
人は、ささやかな幸せを得たいと思う。貧しいながらも誠実な婚約者ヨセフともうすぐ一緒になろうとしている、でも、それが覆されてしまうかもしれない、最悪、拒絶された挙句、姦淫のかどで石打になってしまうかもしれない、と、マリヤが心配性だったら、そこまで先を計算しただろう。
しかし、マリヤの返答には一切そうした計算はなく、ただ単純な、しごく当然な質問を返しただけであった。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)
御使いは答えた。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。」
その子は聖霊によって、人間の力の及ばない、いと高き神の力によって、マリヤの胎に宿るのだ。
そして御使いは「神にとって不可能なことは一つもありません」と言った。
神にとって不可能は無い。そう、マリヤをその御手で包んで下さる神に、不可能は無いのだ。
処女が身ごもる、という、一見不可能な事も可能となり、愛するヨセフとの事も、社会からの目も、すべて、いと高き神の力によって守られるのだ。
そこでマリヤは言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」

マリヤは突拍子もない主の言葉にアーメンと信仰告白し、あらゆる面での守りと必要の満たしを勝ち得た。
彼女はエリザベツと話した時、嬉しくて嬉しくて賛美せずにはいられなくなり、自分は、どの時代の人々もうらやむ幸いな者だ、とさえ言って、喜び叫んだ。(46−49節)
人から見れば、それどころではない状況かもしれないが、信じる者には、世の何者も邪魔できない喜びと状況に左右されない平安に満たされる。それは、私達信じる者すべてに与えられる守りである。主のお言葉を信じる者には、その信仰告白どおりに成り、主のお言葉どおり、その身に成るのである。

私達キリストを信じる者に、主が用意しておられる事は、スケールが大きすぎて、とてつもない事である。
皆さんはキリストにあって、自分の頭に納まるささやかな幸せを得たいという低空飛行の堂々巡りを捨てて、それを遥かに上回る幸いを得る為に、信仰をもって一歩踏み出す覚悟は出来ているだろうか。
皆さんはキリストにあって、モーセよりダビデよりヨブより偉大な者だとの認識があるだろうか。(ルカ7:28)
皆さんは既に死んでおり命はキリストと共に神の内に隠されているとの認識があるだろうか。(コロサイ3:3)
パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、現在のものであれ、未来のものであれ、キリストにあって全て私達のものだとの認識があるだろうか。(1コリント3:21-22)
皆さんはキリストの中で共に復活され、共に天上に座らせられたという認識があるだろうか。(エペソ2:6)
信じる者には、イエスの御名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、毒を受けても決して害を受けず、病人に手を置けば癒される、という認識があるだろうか。(マルコ16:17-18)
私達に必要なのは、この告白である。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」御言葉をそのまま信じ、書かれてある事がそのまま信じている通り、その身になる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
栄光の家系の女-ルツ(ルツ記):右クリックで保存

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