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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存

モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)

ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。

『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。

『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。

『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)

この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。

しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。

モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。

『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)

『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)

本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。

礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存

過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)

除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。

イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)

酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。

パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。

『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。

小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。

礼拝説教メッセージ音声:過越の小羊(出エジプト記12:1-14):右クリックで保存

前回は、エジプトに対して最後の災い、初子が全て死んでしまう災いの通告をしたが、今回は、イスラエル民族への最も重要な祭り、過越祭の制定をされ、これを世々にわたって守り行うべき定めとされた。

『「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。』(出エジプト記12:2)
主はこの月(アビブの月:太陽暦では3−4月)を一年のはじめと定める程に、この一連の出来事を重要なものとしたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全世界の全ての人にとっても重要な出来事である。

この祭りの特徴は、まず子羊をほふる事、その血を家の戸のかもいと門柱にしるしとしてつけ、その家の中で、ほふられた子羊を食す事である。
言うまでもなく、このほふられた子羊はイエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)
なぜ、ほふられた小羊がこのように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。

過越祭には、イエスキリストの福音との類似性が、いくつもある。
神が定めた過越祭は、アビブの月の14日だが、それはイエス様が十字架につけられた日と一致する。
過越の小羊をほふるのは、ヨセフスによれば午後三時を常としており、イエス様も同様に、午後三時に頭を垂れて霊をお渡しになった。

『小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。』(出エジプト記12:5)
ちょうどかわいいさかりの傷のない一歳の雄の小羊が、もし皆さんの手元にいるとしたら、それに刃に当ててほふらなくてはならないなら、相当の痛みと悲しみ、惜しむ心が沸き起こるのではなかろうか。

過越の小羊は10日に用意し、14日までそれを見守る事が定められている。
人々がそれを見守る間、その犠牲とされてしまう小羊をいとおしむ心が芽生えるはずである。
キリストは一切の罪の汚れが無いお方であり、御父がキリストをほふらねばならないその悲しみ、痛みを、この過越祭を行う人も、少しながら経験したのではなかろうか。
そして祭りの夜、家の皆でその焼かれた小羊を囲み、噛み締め、味わう事によって、身代わりになって死んでくれた事、救われた事の尊さが、ひとしお迫って感じられたのではなかろうか。

現代を生きる私達キリスト者たちは、聖餐の内に、ほふられた小羊キリストを”記念して”覚えるのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを”記念する”ため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの”記念として”このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。』(1コリント11:23-26)

『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。』(出エジプト記12:7)
印が付された者は守られ、付されていない者は滅びる。それは、聖書全体に流れる救いの共通事項である。(ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)

『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。』(出エジプト記12:8)

この種入れぬパンは、申命記16:3によると、悩みのパンと表現されている。
この悩みのパンや苦菜には、色々な解釈がある。イスラエルがエジプトで経験した悩み、キリストが受けた苦しみ、罪を悔い改める悲しみ、十字架上で苦味混ぜられた盃など。
いずれにせよ、主は十字架上で、焼けるような苦しみを覚え「わたしは渇く」と言われた。
イエスを主としたイスラエル人は、過越祭を為す度に、十字架上のキリストが思い出されたのではなかろうか。

『あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。』(出エジプト記12:11)
急いで食べなくてはならないのは、これを食べた後、全イスラエルはすぐにエジプトから追い出されてしまうからである。
エジプトは世を意味している。
私達も、過越の小羊キリストをいただく時、世にいつまでも未練を残していてはならず、すぐにでも旅立てる心の状態で、いただかなくてはならない。

『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り”代々、永久の定めとして”これを守らなければならない。』(出エジプト記12:13-14)

そう、それは私達のためのしるしでもあり、代々、永遠に定められた祭りである。
今の世においても、天においても、屠られた子羊は、永遠に記念され、この小羊によって贖われた人々は永遠に、ほふられた小羊を賛美するのである。(黙示録5章)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存

【概要】

ネヘミア記9章に記された、イスラエルの民による長い悔い改めの祈りを通して、真の祈りの姿勢について学ぶメッセージ。自分の願い事を並べるのではなく、神の恵みを数え、自らの罪を告白する祈りの重要性が語られる。

【聖書箇所】

ネヘミア9:1-37、詩篇51:14-17、サムエル記上15:22(引用)

【悔い改めの促しの言葉】

私たちは神様に対して、恩を仇で返すようなことを何かとしている。自分がどんなひどいことを神様にしてきたかを告白し、へりくだる心を持つことが必要である。

【励ましの言葉】

神は憐れみ深く、恵み豊かで、怒るのに遅く、赦しに富んでおられる。砕かれた心、悔いた魂を主は軽んじられることはない。

【勧めの言葉】

主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、祝福の方へと導いてくださる。願い事ばかりではなく、主への感謝と罪の告白の祈りを大切にしよう。

【***詳細***】

私が小学生の頃、隣の男の子が授業中に消しゴムを貸してくれと言うので、私は消しゴムを貸しました。消しゴムが私に必要になったので、消しゴムを返してくれと言ったら、その人は私の目に向かって消しゴムをバーって投げつけて、私の目に当たりました。それで一年後ぐらいに、その人に「去年これこれのことをしたよな」って言ったら、その人は見事忘れておりました。

私たちが神様に対してそういうひどいことをしたこと、それは何かと忘れがちで、それでもなお消しゴム貸してくれ、鉛筆貸してくれ、そういうふうに言うのが大体人間の実情です。私たちは神様にお祈りをします。あれください、これください、消しゴムを貸してくれ、鉛筆を貸してくれと祈るんですが、でも神様の大切なところにバーンと、良くない仕方で返すこと、その消しゴムを借りたこと、恩を仇で返すようなことを、私たちは何かとしているものなんです。

そういうことをしないために、主が与えてくださった恵みを思い起こすための祈りをしたのが、今日のネヘミア記なんですけども、このネヘミア記の9章です。ネヘミア記の9章は非常に長い祈りの章で、3ページぐらいにわたる祈りです。

9章の1節から3節までお読みしましょう。「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布をつけ、土をかぶって集まった。そしてすべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した。彼らはそのところに立ったままで、一日の四分の一は彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は告白をして彼らの神、主を礼拝した。」

先週の8章のところでは、第七の月の仮庵祭の日、まず律法を朗読する祭りと、そしてまた、そのイスラエルの歴史上かつてなかったほどに、ヨシュアの時代以来かつてなかったほどの正しい仮庵祭を行って、民のうちに大きな喜びが沸き起こりました。その月のうちの24日ですから、この喜びの祝いの日からそんなに経っていないうちに、今度はこの断食をして、荒布をつけて土をかぶる集まりをしました。第七の月の24日です。ちなみに第七の月の24日は、特に何の祭りを行えという定めはないので、この民は自らこの断食の集い、荒布の悔い改めの集いをしたくて、そして彼らは集まってきたわけです。

彼らは2節、「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した」と書いてありますね。自分たちの罪と先祖の咎を告白したんです。

そしてこの6節からずっと37節まで非常に長いお祈りになるんですけども、このお祈りの非常に特徴的なところは、主がどういうお方であるかということの告白がまずあり、そして先祖に対して主はどのような恵みを与えてくださったかが書いてあり、しかし先祖たちはいったい何を主に対して返してきたか。さっきの消しゴムを貸したのに、消しゴムを目に思いっきり投げつけるような、そういう返し方をするのと似たようなことを、このイスラエル民族は神様に対してしてきたわけです。でもそれにもかかわらず、主はどう憐れんでくださったか。どのようにして祝福の地へと導いてくださったか。そしてイスラエル民族をどんなに良くしてくださったか、その恵みの数々が告白されて、しかしそうやってその安息の地で安住して肥え太っていくと、このイスラエル民族はまた何を主に対して返したか。そうした度重なる罪々をずっと告白しております。

そして非常に面白いことに、「主よ、私たちはこれこれの状況です」という告白があるのですが、この状況からお救いくださいといったお願い事が一切この長い祈りの中にはないのです。ただ先祖たちは何々をしました。しかし主、あなたはこれこれの憐れみをしてくださいました。

祈りにはいろいろな祈りがあります。賛美の祈り、感謝の祈り、罪の告白の祈り、悔い改めの祈り、お願いの祈り。今5つ、5種類挙げましたけど、皆さんお祈りという総数の時間の中で何がどれほどの割合か。大体の人はその5つの中でお願いに関する祈りがだいたい90%を占めて、あと残りの5%が感謝賛美、残りの1%ぐらいが悔い改めとか、そういう、ちょっとそれは極端な例ですけども、だいたいお願いが多いわけですね。そして悔い改めが少ない。罪の告白も少ないものです。何々してください、何々してください、それが結構多いんですけど、しかしこのネヘミヤ記の9章の祈りはほぼもう全域が、自分が何をどんなことをしたか。この災いが自分たちに降りかかるのは当然ですという、それがとうとうと記されており、また主が荒野において、またカナンの地においてどれほどの恵みを与えてくださったかがとうとうと書いてあり、そして今私たちはこれこれの状況ですという現状告白はあるんですが、しかし、そこからお救いくださいというのが0%なんですね。お願いが0%の祈りです。こんなに長いのに。

私たちはこの祈りを読むとき、本当に新鮮な気持ちになります。私たちがいかにお願い事が多くて、そして自分たちが何をしてきたか、どんな迷惑を神様に対してなしてきたか、どんなひどいことを神様になして、どんな痛い思いを主にさせてきたかが、とうとうと綴られているわけです。

詳しく見ていきますと、9章の6節から8節まで、特に9章6節が主がどのようなお方であるかということの告白から始まります。ヨシャパテの祈りもそうでした。主はまずどのようなお方からの告白で始まりました。「ただ、あなただけが主です。あなたは天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」

この7節と8節は先祖アブラハムを選ばれて、そしてこのアブラハムに対して契約を結んでくださって、そしてアブラハムとの約束を主は果たされたということをここで告白しております。

9節以降、9節から15節までは、エジプトに対してどのような災いを下されたか。イスラエルの民、9節を見ますと、「あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたはパロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行われました。これは彼らが私たちの先祖に対して高ぶった振る舞いをしていたのをあなたが知られたからです。こうして今日ある通り、あなたは名を挙げられました。」

まずイスラエル民族に対して、この彼らの先祖に対してエジプトの国がいかにひどいことをしてきたか。しかしそこからいかに主は救い出してくださったか。イスラエルにどのような恵みを注いでくださったか。主はイスラエル民族を海の中を通らせて救わせて、しかしエジプトは海の中に投げ込まれました。そして荒野においても、昼間は雲の柱、夜は火の柱によって彼らを導いてくださり、荒野においても迷うことがないように、また砂漠の日差しの中を歩くその苦しみを解くために雲の柱を用意されて、また夜は迷わないように火の柱を用意されて、この荒野を導かれたこと。そして律法をこのイスラエル民族に授けてくださり、また彼らに天からパンを与えて岩から水を与えて、そして約束の地を所有するようにと向かって行ったのですが、しかし先祖たちは罪を犯しました。

16節。「しかし彼らは、すなわち私たちの先祖は、高ぶって勝手に振る舞い、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりの頭を立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」

自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかをここで告白したのです。そしてそれにもかかわらず、自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかにもかかわらず、神様は恵み深く、情け深く、憐れみ深く、怒るに遅くと告白をしました。

ある教会から離れている方とお話をしている時、「あなたの好きな聖句はどこですか」と聞きましたところ、「これはこれです」と。普通の人から聞けば、なんでそんな災いにあっているようなところが好きなの、という感じがするんですけど、主が今私をこのように災いに取り扱っておられるからですと、その方は答えてですね。でも主はそんなにいつまでも災いのうちに身を投じておられるような神ではありませんよ。神は災いの神じゃありませんよ。憐れみ深く恵みに満ちておられる。いつまでもそのようなことをされておられない神様ですから、ですからどうかこちらの聖句の方をお勧めしますよということでお勧めしたことがありましたけれども、神様をどのようなお方かということを告白するのは大事です。

神様はただ災いを起こされるお方として告白していたら、そこから抜け出すことはできません。それは皆さんの唇からの信仰告白によって、皆さんその唇の実を皆さん刈り取るからです。このイスラエル民族は、確かに神様は私たちを災いに合わせられた。でもそれでも主はなお赦しの神であり、情け深い、慈しみ深いお方であると告白した。主がどのようなお方か。主は素晴らしいお方です。憐れみ深い方です。赦しに富み給う方です。確かに私たちが神様の目にかなわぬことをしたら、それは災いになります。しかし、そこから立ち返るのであれば、その自分のかたくなさを捨てて、主の命令に聞き従うことを選ぶのであれば、主は再び恵みを施してくださいます。

事実、この荒野の民は大きな憐れみによって導かれて、火の柱、雲の柱によって導かれて、またマナが絶えさせられることがなく、また水も尽きるということがありませんでした。荒野の地にあって、主は恵み深いお方。40年の間、主は荒野でイスラエルの民を養われたので、彼らは何の不足もなく、着物も擦り切れず、足も腫れずに導かれていくことができました。

このネヘミヤにおける祈りで、そのように告白して、そしていよいよカナンの地へと彼らが占領したことを告白しております。この先祖たちは、この子孫たち、イスラエルの子孫たちを星の数のように増やして、そして所有せよと言われた地に導き入れられました。こうしてあの地の住民、カナン人たち、カナンの地は弱肉強食の世界であり、また強力な体が大きいアナク人とかおりましたし、またエリコという城壁のある町々、エリコの他にもそういう強力な攻め落とすのが困難な町々があったにもかかわらず、このイスラエル民族に、ただ荒野を旅してきた民が攻め落とすことができて、そしてこの良い町、肥えた土地を彼らに与え、良いものに満ちた家々、また、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹がたくさん実るその乳と蜜がまさしく流れるような地へと導き上られ、そして彼らはそこで安住して、食べて満腹し、肥え太って、大いなる恵みを楽しむことができるようになりました。

しかし、しかし、彼らは反抗してしまいました。26節「しかし、彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法を後ろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして、彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加えました。そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなる憐れみによって彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」

士師の時代に突入したんですね。しかし「しかし」ですよ。「しかし」がまた続くんですよ。28節。「しかし、一息つくと、彼らはまたあなたの御前に悪事を行いました」云々とずっと悪事を行っては悔い改め、罰せられ、悪事を行っては罰せられて悔い改める。その繰り返しがずっと起こっていたわけです。その告白が29節に至るまでそれです。

30節。「それでもあなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。それで、あなたは彼らを国々の民の手に渡されました。」

ついに、このネヘミヤの時代、バビロン捕囚からやっと帰ってきたばかりです。要するに、まだ彼らは苦難の中にあったのです。異邦人の手に渡されて、異邦人の支配のもとに、このイスラエルの人たちはありました。独立国家としてではなく、それでも自治はある程度の自由はあったのですが、自治権はあったのですが、それでも異国の王たちに税金を納めなくてはならない状況でした。

31節「しかし、あなたは大いなる憐れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは情け深く、憐れみ深い神であられますから。」アーメン。

神様、災いに会っている時の神様へのイメージは、神様はひどいお方だと思いがちです。でも、このネヘミヤの時代において、彼らは神様ひどいお方だと言うことはせず、あなたは情け深く憐れみ深かったのです。私たちがこのような罪を犯しました。あの時このような罪を犯し、この時このような罪を犯しましたと告白しました。

私が子供の頃受けたあの消しゴム目にたたきつけ事件の時も、一年後にその友達に悔い改めているかなという、そういう希望もあって、「お前あの時こんなことしたね」それを見事に忘れられていたと聞いたのは、とてもがっかりしました。神様はがっかりされるんですよ。皆さんがそれまで頑なに、あの時、預言者を遣わして改めさせようとしたのに、でも、預言者を突っぱねて、逆に嘲ったり、そういうことをする時、神様に対して唾を吐いているようなものです。この時、神様が災いを立ち返らせるために起こしたのに、神様はひどいと言ってますます頑なになる。それも神様にひどいことをすることです。

私たちが悔い改め、また自分たちの罪の告白をし、私はあの時かたくなでした。主は今このような業になっていますということを告白すること。主はそのような祈りを喜ばれます。主が喜ばれるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心と詩篇の51編に書いてあります。あのダビデはナタンが遣わされた時の祈りです。

こうしてこの31節まではずっとこのネヘミヤの時代に至るまでの歴史をとうとうと告白して、そして主は恵み深いお方であることを告白し、また自分たちの先祖が、一息つくたびに度重なる悪を主に対して行ってきたということをここで告白しております。

そこで32節以降、彼らの現状を告白する祈りに入ります。32節「私たちの神、契約と恵みを守られる大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちの司、祭司、預言者たち、また私たちの先祖とあなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さいこととみなさないでください。私たちに降りかかってきたすべてのことにおいて、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」

ここで民は、自分たちが行ってきたことによる災い、それは当然の報いであることを告白しており、そして主の方が正しかった。自分たちが今まで苦しい目に遭ってきた。それは主よ、あなたが正しかったのです、という告白ですね。

皆さんの人生を思い返した時、私の人生、苦労でできなかったと。神様はこんな私の人生を苦労に満たして酷いという人は多いかもしれませんが、でも私の人生はあの時この時、神様に逆らうような自分の好き勝手を選択して神様の戒めを無視してきたなという悔い改めの祈りがもしなされていたならば、主はもっと早い時期にこんな苦労を負わなくて済んだというような人生と変えられていたことでしょう。

この自分たちの民全部に降りかかったすべての困難にどうか小さいこととみなさないでくださいと。むしろ私たちが小さいこととみなしてしまうんですよ。逆にこのイスラエルの民はそれを小さいこととみなさないでください。自分たちに降りかかってきたすべての罰の報いを、小さいこととみなさないでくださいと主に告白しました。

36節「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りとその良いものを食べるようにされたこの地で、ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちの体と私たちの家畜を思い通りに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」

ここで終わりなんですよ、この祈りは。あれって思いますね。どうか今からこの状況からお救いくださいという祈りがないんですよ。ここで終わってるんですよ。ただ自分たちは今奴隷です。あなたが与えてくださったこの地においてご覧ください。私たちは奴隷です。ただ主に対してご覧くださいという祈りをしているわけですね。助けてくださいという祈りではないんです。自分たちが今このような状況に陥っているのは当然です。助けてくださいと言うなんておこがましい。そこまで彼らはへりくだっているわけです。そのような祈りをこの回衆はしていたわけです。

荒布をつけ、断食をし、土をかぶった集まり、一日の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は主に告白をして、この告白です。自分たちが何をしてきたか。1日の4分の1といえば6時間ですね。6時間を律法の書の朗読、つまり御言葉の時間にあて、次の6時間を、自分たちの罪を、自分たちの行いをとうとうと主の御前に告白してくるという、そういう12時間に及ぶ集会の日がこの7月24日だったわけです。本当に今までにない集会ですね。

主はこのイスラエルをその後顧みてくださいます。主の御前に出るときは悔い改めた心、悔いた魂、それを主は軽んじられることはありません。詩篇の51篇14節から17節。

「神よ、私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。主よ、私のくちびるを開いてください。そうすれば私の口はあなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」

サムエルもサウルに言いました。「主は主のみことばに聞き従うことほどに、いけにえを望まれるだろうか。見よ。聞き従うことは、雄羊のいけにえにまさり、聞き従わないことは占いの罪、背くことは、偶像崇拝の罪だ」と。いかに私たちが、かたくなになること、聞き従わないこと、それを主が嫌われるか。いかに私たちが悔い改めてへりくだる心を主は喜ばれるか、はっきりしております。

皆さんの祈りは主に聞かれたいでしょうか。それであるならば、まず砕かれた心、悔いた魂に戻ることです。自分の主義主張を捨てること。なんだか今日、ここに講壇に立つのは1日で3回目なんですけど、また同じことを言ってるなって思うかもしれません。同じことを言っておりますので、主は悔い改める者のそばに侍かれます。砕かれた心を主は軽んじられません。

どうか皆さんは、聞き従う心、また自らの行いをよく点検して、主がひどいことをしたことを数えるよりも、私たちが主にひどいことをしたことを数えて、それら一つ一つを主の御前に告白して、祈るのであれば、主はその祈りを喜んでくださいます。

ちなみに私に消しゴムを投げたその人はとても苦しい状況に、今どういう状況になっていますか、なってるのかわからないんですけども、その人と電話したのがもう10年くらい前だったかな。かなり仕事の面で苦しくて転職をしたんですけど、その転職先でも苦しい目にあっているようです。ある女性と同棲を始めて家に来て、それで私は聖書にこう書いてありますよということを伝えたんですけども、その後、彼がどうなっているかわかりません。願うことなら、主に立ち返っていればいいなと思っております。

しかし、私たちは主の民は主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、そして祝福の方へと導いてくださいます。どうか皆さんは主に聞き従い、主に対してもしひどいことをしてきたことが、とか思い出して、それを告白して、そして主に柔軟になって、主に信頼して、そして祝福のうちを歩んでいく。そのような皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

ネヘミア記9章の祈りは、お願いが一切ない画期的な祈りであり、主がどのようなお方であるか、主がどれほどの恵みを与えてくださったか、それに対して私たちがどれほどひどいことを返してきたかを告白する祈りである。私たちは願い事ばかりを並べるのではなく、自分の罪を告白し、へりくだった心で主の御前に出る必要がある。主は砕かれた心、悔いた魂を軽んじられることはない。主に聞き従う生活をする者を、主は祝福の道へと導いてくださる。

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:17-24:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。

これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)

『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)

これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。

モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。

『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。

『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。

『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。

『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。

『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。

神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。

私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存

エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。

「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)

『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。

パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。

『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)

エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。

今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。

パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)

福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。

そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。

暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。

『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)

長かったアドベント(創世記3:14-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

今週より、救い主キリストの降誕を覚えて待ち望む期間「アドベント(降誕節)」が始まった。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。
アダムとエバが堕落したのは創世記3章6節、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節にてである。
エバが蛇にそそのかされ、神から禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
ここの「子孫」はヘブライ語でゼラ、単数形が用いられており、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。つまり「女の種」の言葉は、処女降誕をも暗示している。
全人類はこの事件以降、蛇(サタン)の支配下に置かれ、神から離れて自ら善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなってしまい、エデンから追放されて以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、蛇の頭を砕いて全被造物に救いをもたらす「女の子孫(単数形の種)」の降誕を待ち望む期間へと入った。
神がアブラハムを選んだのも、ダビデを選んだのも、全てこの「子孫」を、世に送り出す整えのためであり、アドベント(待降節)は実に、エデンの園から始まり、キリストの誕生までの、長い期間だったのである。

創世記3章15節、この短い箇所は実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節の事件であると言って、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から黙示録20章までの部分は、必要無かっただろう。
そして創世記2章以前も、黙示録21章以降も、神と人との隔ては一切無い世界、神と人とが永遠に共に住む世界、死も、呪われるべきものも、一切無い世界であり、神の目的は、人類をそこへ導く事である。
神は堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、全人類は、このアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に預けた律法によって神の基準を明示し、しもべダビデから、とこしえに続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデのすえから、キリストが生まれた。

「女の子孫」の預言は、メシヤであるイエスキリストの誕生によって成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、罪を犯し死とのろいに陥ってしまった人類を、決して見捨てる事はなさらず、いつも共におられた。
乙女マリヤが聖霊によって身ごもり、男の子を生んだ事によって、全宇宙という器の中に、イエス・キリストという唯一の”種”が蒔かれた。そしてこのお方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる全権が与えられた。(ヨハネ1:12)
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:6-7)

人はエデンの園にて、御言葉に逆らい、罪と死の呪いを、全被造物に招いてしまった。神はそこから、いかにして人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この「子孫」は、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
何によって勝利したか。それは死に至るまでの従順によって、すなわち、十字架によってである。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。すなわち、いのちの木を選ぶか、善悪判断の木を選ぶか。十字架という木を選ぶか、それとも目に良く、肉に良く、神のように賢くするという木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも、御言葉を退け、自分の善悪判断で生きるか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存

『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)

どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)

彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。

ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)

パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。

『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。

『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)

黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。

『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)

主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。

『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
いなごの災い(ヨエル2章):右クリックで保存

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