メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存
エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。
「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)
『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。
パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。
『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)
エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。
今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。
パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)
福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。
そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。
暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。
『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)
長かったアドベント(創世記3:14-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今週より、救い主キリストの降誕を覚えて待ち望む期間「アドベント(降誕節)」が始まった。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。
アダムとエバが堕落したのは創世記3章6節、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節にてである。
エバが蛇にそそのかされ、神から禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
ここの「子孫」はヘブライ語でゼラ、単数形が用いられており、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。つまり「女の種」の言葉は、処女降誕をも暗示している。
全人類はこの事件以降、蛇(サタン)の支配下に置かれ、神から離れて自ら善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなってしまい、エデンから追放されて以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、蛇の頭を砕いて全被造物に救いをもたらす「女の子孫(単数形の種)」の降誕を待ち望む期間へと入った。
神がアブラハムを選んだのも、ダビデを選んだのも、全てこの「子孫」を、世に送り出す整えのためであり、アドベント(待降節)は実に、エデンの園から始まり、キリストの誕生までの、長い期間だったのである。
創世記3章15節、この短い箇所は実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節の事件であると言って、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から黙示録20章までの部分は、必要無かっただろう。
そして創世記2章以前も、黙示録21章以降も、神と人との隔ては一切無い世界、神と人とが永遠に共に住む世界、死も、呪われるべきものも、一切無い世界であり、神の目的は、人類をそこへ導く事である。
神は堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、全人類は、このアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に預けた律法によって神の基準を明示し、しもべダビデから、とこしえに続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデのすえから、キリストが生まれた。
「女の子孫」の預言は、メシヤであるイエスキリストの誕生によって成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、罪を犯し死とのろいに陥ってしまった人類を、決して見捨てる事はなさらず、いつも共におられた。
乙女マリヤが聖霊によって身ごもり、男の子を生んだ事によって、全宇宙という器の中に、イエス・キリストという唯一の”種”が蒔かれた。そしてこのお方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる全権が与えられた。(ヨハネ1:12)
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:6-7)
人はエデンの園にて、御言葉に逆らい、罪と死の呪いを、全被造物に招いてしまった。神はそこから、いかにして人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この「子孫」は、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
何によって勝利したか。それは死に至るまでの従順によって、すなわち、十字架によってである。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。すなわち、いのちの木を選ぶか、善悪判断の木を選ぶか。十字架という木を選ぶか、それとも目に良く、肉に良く、神のように賢くするという木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも、御言葉を退け、自分の善悪判断で生きるか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存
『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)
どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)
彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。
ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)
パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。
『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。
『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)
黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。
『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)
主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。
『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
いなごの災い(ヨエル2章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:主を子孫に語り継げる内容(出エジプト記10:1-11):右クリックで保存
エジプトに降る第8の災いは「いなごの災い」、大量発生したばった類が地を覆うほど群生し、全ての草本類を食べ尽くしてしまう、いわゆる蝗害(こうがい)である。
殺虫剤の普及で近代の日本では見なくなったが、アフリカ諸国など国土が広大で組織的な駆虫が難しい地域では、今でも局地的に発生し、大きな被害を出している。
蝗害はエジプトでも古来から恐れられており、いなごの形をしたお守りを作って大量発生しないよう祈っていた。
『それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。』(出エジプト記10:5)
モーセ達はそう告げるとパロのもとを出て行った。かなり強気である。
『パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。』(出エジプト記10:7)
ここで家来たちは「この人はわれわれのわなとなる」と言っているが、自分達が災いを被っているのは、あたかもモーセ達によるかのような言い方である。
災いを起こしているのはモーセではないし、モーセが魔術のようなものを使って、イスラエル民族を虐げてきたエジプトに仕返しをしているのでもない。
彼らは気づいていない。自分達が頑なで、神に対して高慢であり、その罪の報いを自分達で受けているのだ、という事を。
パロは家来たちに進言されて、モーセ達を呼び戻して問うた。「行くものはだれだれか」と。
モーセは、老いも若きも、男も女も、羊も牛も、全部だ、と答えたが、パロは怒りを爆発させた。
『それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。』(出エジプト記10:11)
パロはなぜ、全員が行くのはだめだと言ったのか。
それは、もし全員が出てしまうと、人質になるような人がエジプトに残らず、イスラエルはもう帰ってこない可能性があり、そうなると、エジプトから奴隷仕事をする人が、いなくなってしまうからだ。
結局この期に及んでも、パロはイスラエル人を、奴隷としてこき使う気満々だったのだ。(14:5)
今はたまたま、モーセとかいう新参の魔術師みたいな者に苦しめられているけれど、これが過ぎたら、今まで四百年の伝統に従ってイスラエル人には奴隷仕事をさせて、自分達は楽な生活を続けられだろう、と思っていたのだ。
今回、彼らを頑なにしたのは、神だったと1節に書いてある。そして、神が彼らを頑なにした理由は、神がエジプトに行ったしるしを、子や孫に語り伝えるためだった。(2節)
神がどういうお方であるかを、子々孫々に語り継げる・・・その語り継げるべき内容には、自分達もパロのように頑なになって主を恐れず、主の御言葉にそむくようになるなら、エジプトに諸々の災いが下ったように、自分達にも災いが降る、という事も、含まれている。
『もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。』(申命記28:58)
「主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。」(申命記28:27)
神はやさしい方だと思って、何でもかんでもやりたい放題やっても、いつまでも赦してくれると勘違いしている”クリスチャン”もいるが、そのような人は、主の日が盗人のように来た時、主の御前に立ちおおせない。
私達はキリストにあってアブラハムの子孫である。しかし、そうだと言って安住してはならない。
神は石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事の出来るお方であり、神の民と言えど、神を恐れなくなり頑なさを続けていけば、滅びてしまうからである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
礼拝がつまらない人のために(ネヘミヤ記8章):右クリックで保存
礼拝を喜びに満ちたものとするために
【概要】
ネヘミヤ記8章から、イスラエルの民が律法の朗読を通して大きな喜びを得た出来事を学びます。礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあることを教えています。
【聖書箇所】
-
ネヘミヤ8:1-18
-
レビ23章
-
第二歴代誌8:12-13
【励ましの言葉】
御言葉を心から慕い求め、理解しようと努める人は、年数に関係なく急速に霊的に成長し、キリストの似姿へと近づいていきます。礼拝の時間は、主を求める心があれば、喜びで満ち溢れた時間となります。
【勧めの言葉】
礼拝において受け身の姿勢ではなく、御言葉を理解しようと積極的に努めましょう。御言葉に対して敬意を持ち、心を尽くして主を慕い求めることで、礼拝は喜びの場となります。
【悔い改めの促しの言葉】
イエス様が私たちの罪のために命を投げ出してくださったことを深く理解するとき、自分の罪を悲しみ、悔い改めることが必要です。悲しみと悔い改めを経験した人こそ、その後の喜びがより深いものとなります。
【***詳細***】
今日のメッセージは、礼拝が楽しくないという方向けに、礼拝がどうすれば楽しくなるかというお話です。ネヘミヤ記の8章を見ていきます。ネヘミヤ記8章全体を見るのですが、まず8章の終わりの方は、非常にこのイスラエルの民の喜びで終わっています。それは8章全体の出来事があったからです。
ネヘミヤ8章1節から3節をお読みします。
「民はみな、一斉に水の門の前の広場に集まってきた。そして、彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。そこで、第七の月の一日目に、祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前でこれを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。」
まず、礼拝が楽しく、喜びで満たされたものとなるためのコツは、早速1節の方からあります。民は皆、一斉に、これは直訳すると「一人の人のように」水の門の前の広場に集まってきたとあります。そして彼らは、律法の書を持ってくるように学者エズラに願ったとあります。これは学者エズラという大先生が立って、そしてイスラエルの人たちに「聞け、集まれ、そしてみんな座って聞け」というふうに言ったのではなくて、民自ら集まってきたんです。一斉に一人の人のように。そして「どうか主がイスラエルに命じた律法の書を持ってきてください」と願ったんです。
ちなみにこのエズラという学者、彼は祭司であり、このネヘミヤ記の直前の書、エズラ記にその活動が記されています。このエズラという学者であり祭司は、律法に非常に精通しており、そして、このネヘミヤより少し前に、このエルサレムに到着しました。そしてエルサレムの民を清めました。律法の書を一生懸命聞かせて、そして神は何を喜ばれ、何を嫌われるかということを民に告げ知らせて、それでイスラエルの民がこのカナン人の人たちと結婚をしてしまっているということを聞いて、非常に悲しんで、そしてその民の清めを断行しました。すなわち、民の中から異邦人と結婚してしまった家族を離婚させ、また、その異邦人たちをエルサレムの中から追放して、そして、すでに子どもが生まれてしまった、異邦人との間に子どもが生まれてしまったら、それを切り離す、自分の民から追い出すということをしました。
それは、神様の御教えに異質のものが混ざってはならないから。それで、そこから異邦人の教えを持つ女やまた子供たちをそこから切り離すことによって、そして悲しみが当然止まります。そこまでしなくていいんじゃないかという意見もありました。でも、あえて断行しました。それによってこのイスラエルは清められて、そして主に喜ばれるものとなっていったのです。
そこでこのネヘミヤが来て、この城壁が完成した後に、この第七の月一日目に祭司エズラは、男も女もすべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持ってきて、そしてこの水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで朗読をしました。この第七の月の一日、これはイスラエルの中では、身を戒めて清めをする集会の日になっています。第七の月の一日ですけど、ラッパを吹き鳴らして、そして死を記念する祭りの日です。この日に、このエズラに願って、それでこの律法の書を朗読させました。
このエルサレムの城壁が完成したのが第六の月の25日のことですので、それから5日ぐらい後のすぐ後ですね。エルサレムの城壁が完成したすぐ後です。早速、民は律法を朗読して、神様が喜ばれることは何か、神様が嫌われることは何かを求めたんですね。民自らです。
まず礼拝が喜びと楽しみになるコツのその1。皆さんの方から自主的に律法の書を慕い求めて、同じく神の御言葉、イエス様の御言葉を下に求めて、そしてそれを聞く耳を持つということです。
3節の方を見ますと、夜明けから真昼まで男や女で理解できる人たち、これは少なくとも国語能力がある高校生以上の人たちです。彼らがそれを夜明けから真昼まで、結構長い時間です。第七の月といえば9月です。太陽暦で言えば。結構日が長いんですけども、もう8時間ぐらいですね。その律法の書をずっと立って、それを聞いて耳を傾けていたんです。それはそれほど長い時間ですけれども、しかし民は疲れませんでした。あっという間だったんです。
律法の書を聞き入って、それをよく噛み締めて味わっている時間は楽しくて仕方がないのです。皆さんも聖書の学び会が2時間、3時間と続くので、ある人はとても潤っているのに、別の人は3時間も長い間座り続けている。そういうことがたまに起こるのですが、その違いは、御言葉を慕い求めているかどうか、御言葉を喜びとしているかどうかです。
心の置き所を御言葉じゃないところに置いている2時間3時間の礼拝というのは苦痛以外の何物でもないですよ。眠くて眠くて仕方がない。コツは、重い心を御言葉、イエス様に向けずに自分の考えやこれかれに向けること。そしたら、礼拝という時間は早く終わらないかなという、そういう苦痛以外の何者でもなくなります。
でも、イエス様を慕い求めて、御言葉を知りたい、もっとその御言葉の奥義を、奥深いところを知りたいと願う人にとっては、たとえ早朝から真昼までずっと礼拝だったとしても、それはあっという間なんです。礼拝が終わった後は、潤っているんですね。そういうふうにもなるでしょう。感動して。そういうふうになるんです。
5節から8節まで。
「エズラはすべての民の前でその書を開いた。彼はすべての民より高いところにいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが、大いなる神、主をほめたたえると、民はみな手を挙げながら、アーメン、アーメンと答えて、ひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」
この絵面が、まず民の高いところに、そして律法の書を広げました。当時はスクロールで巻物状だったんですけど、それを律法の書、御言葉を広げると、まず民は皆立ち上がりました。御言葉に対して、それなりの礼儀を尽くしているんですね。カトリックの教会というのは、礼拝の説教の時、御言葉が開かれる時は、その司祭が建物の上の方の階のバルコニーみたいなところでその御言葉を広げるんですけども、ちょうどそんな感じで、そしてそこに集まってくる人たちは起立して、そして見上げる形でその神さまの御言葉を仰ぎ望むんですけども、ちょうどそういう感じで、御言葉に対しての敬意を持っているんです。
御言葉への敬意を持っているのであれば、礼拝中は楽しみ、喜びとともに、また厳かな雰囲気、それを慎んで聴こうというその真剣さが生まれるわけです。そしてエズラは御言葉を朗読していくんですが、この学者エズラは、その朗読していくうちに大いなる神、主をほめたたえざるを得ない場面が何度かあったみたいですね。エズラは御言葉を朗読するうちに主をほめたたえました。すると民はみんな手を挙げながらアーメン、アーメンと答えました。このように朗読する人とまた民とが一つの一人の人みたいになって主を礼拝し、主を喜び、主をほめたたえるんです。そのような幸いな時だったわけですね。
7節。
「ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤなど、レビ人たちは民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」
この特に8節の方で「律法の書をはっきりと読んで説明したので、民はそれを理解した」とありますね。礼拝中は、単に受け身だけの姿勢では本当につまらないです。あっという間に眠くなってしまいます。でも、理解しようとして、そしてその説明を聞き入るのであれば、それが楽しみになっていきます。
皆さん、教会にある人はもう何十年単位で通っている、ある人は通ってまだ一年も経っていない、そういう状況かもしれないですけれども、しかし、年数は関係ないんですよ。御言葉をはっきりと聞こうとして、説明を聞いて、理解しようと努める人、そういう人はあっという間に成長していきます。あっという間に何十年か通い詰めた人の霊性を追い抜いて、ますますキリストの似姿へと近づいていきます。これは皆さんが体だけこの場にいるということには、それは一切関係がないんです。
身体だけいる人が礼拝という場にいなくてもよろしい。むしろ、御言葉を理解しようと努め、御言葉を聞こうと努める人にとっては、そこは喜びの場、潤いの場になり、本当に時間が経つのをあっという間に忘れてしまうほどのものなんです。
このエズラは、第七の月一日にこの律法を朗読して、そして民はそれを心から聞きたいと慕い求めてきました。9節からお読みします。
「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に説き聞かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『今日は、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたとき、みな泣いていたからである。さらに、ネヘミヤは彼らに言った。『行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者には、ごちそうを送ってやりなさい。今日は私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。主を喜ぶことが、あなたがたの力だからだ。』レビ人たちも民全部を静めながら言った。『静まりなさい。今日は神聖な日だから。悲しんではならない。』こうして民はみな、行って食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである。」
アーメン。ここで、民は涙を流して泣いています。なぜでしょうか。この涙は悲しみです。ネヘミヤもレビ人も悲しんではならないと命じています。彼らは悲しかったんです。御言葉を聞いた時。ということは、自分たちに身に覚えがあることをどんどんどんどん聞かされていったからです。
いつだったか、申命記の二十何章でしたか、呪いの箇所がありましたね。祝福と呪いの箇所。で、その呪いの箇所を朗読するだけでも10分15分かかりました。それほど長かったんですけども、その中に書いてあります。もし心を頑なにして御言葉に聞き従わないのであれば、これこれの災いに遭う。あなたがたは籠も、こね鉢も呪われて、あなたが一つの道で敵を攻撃しようとしたら、七つの道から逃げ去るようになる。もしそういう災いにあっても、なお聞き従わないのであれば、さらに恐ろしい災害に遭い、あなたの息子娘たちは囚われ人となって連れて行かれる。それでも聞き従わないのであれば、あなたの母親たちは息子娘たちを煮て焼いて食べるようになる。
そこまで書いたんですよ。律法では、モーセの律法の書で。モーセの時代でさえ、主はそういうふうにあらかじめこうなればこうなるという呪いを示されていたんですが、しかしイスラエルの民は心を頑なにして聞き従わず、自分のやりたい放題やって、そして呪いを身に受けて、すべての呪いをイスラエル人は葬儀に受けてしまったのです。
このネヘミヤ記の時代はバビロン捕囚の後の時代です。要するに敵国に捕らえられ移され、エルサレムが焼き滅ぼされて、城壁も壊されて、その後の時代にこの律法の書を改めて朝から昼間までずっと聞いていた。イスラエル人はどれほど身につまされたことでしょうね。もうモーセの時代、はるか先祖の時代からずっと主はそのように言っておられた。しかし私たちの先祖たちはそれを聞き従ってこなかった。まさに主が言われた通りだ。主は正しかった。私たちが間違っていた。それで彼らは泣いていたのです。彼らには悲しみがありました。
悲しみがあるというのは、それは良いことです。それは自分が何をしたかを理解しているか、そして自分の罪があるということを理解したからです。皆さんは主に救われたということがどれほど喜びであり、自分の罪を見たときどれほど悲しい思いをしているでしょうか。イエス様を知れば知るほど、感情が湧き起こってきます。喜びの感情、悲しみの感情、それらが湧き起こっていない人は、まだまだ理解が浅いということです。
イエス様は皆さんの罪を負って身代わりになって死んでくださって、そして皆さんの罪はチャラにされました。それを聞いたとき、ああ、ラッキーラッキーって鼻くそほじりながら、ああ、俺ラッキーだったんだ、へえ、っていう態度でいれる人は理解が浅いということですね。イエス様の痛み、イエス様の受けた屈辱、命を投げ出すほどの愛。それを聞いた時には私たちは感情が沸き起こってくるべきなんです。人間であるからには。
このメッセージの前に河合さんがある子供と母親の話をしましたね。母親の顔にありありと火傷の傷跡が残っている。その娘はその母親を世界一の美人だと先生や友達に紹介していた。母親が娘を火事から救うために火傷を負って、女性の顔に醜いその焼け跡を残した。娘はその母親を、ああラッキーラッキー、私命が助かったもんね、なんていうことだったら、皆さんはたたきたいですね、そういう娘だったら。
イエス様は、皆さんの命を救うために命を投げ出されたのです。なんで鼻くそほじりながらラッキーラッキーみたいなそんな態度でいれるでしょうね。主は。私たちは自分の罪を悲しむべきなのです。自分のそれまで行ってきた頑なさを恥じ入り、悲しみ、そして悔い改めて、そうして初めて喜びが来るのです。
信仰生活に何の喜びを見出せないという人は、まずその逆の悲しみを味わうべきなんです。悲しみを味わい、悔い改めを経験した人こそ、その喜びが深いものになる。その味わいがますます深くなっていくんです。この律法を読んだ、朗読を聞いた民は泣きました。悲しみました。でも、このネヘミヤもレビ人たちも言います。今日は神聖な日だ。祭りを祝う日だ。悲しんではならない。泣いてはならない。むしろ上等な肉を食べなさい。むしろ甘いぶどう酒を飲みなさい。そして何も用意できなかった貧しい人にはそのご馳走を送ってやって、そして共に喜びなさいと言いました。これが主の民の受ける喜ばしき分です。この祭りの日、非常に喜びが湧き起こったはずです。
12節。
「こうして民はみな行き、食べたり飲んだり、ごちそうを送ったりして大いに喜んだ。彼らが教えられたことを理解したからである。」
そうです。理解すること。これが大事です。ですから、御言葉と相対する時は、理解しようと努めること。それが大事です。理解したなら、普通の感覚を持った人間であるならば、悲しみが沸き起こることもあるでしょう。痛みが沸き起こることも、喜びが沸き起こることもあるでしょう。そうして、ますます主の奥深さ、主のその大いに偉大なお方であることを、ますます私たちは理解していくのです。
13節以降をお読みします。
「2日目に、すべての民の一族の頭たちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まってきた。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、『イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない』と書かれているのを見つけ出した。これを聞くと、彼らは自分たちのすべての町々とエルサレムに次のようなおふれを出した。『山へ出て行き、オリーブ、野生のオリーブの木、ミルトス、ナツメヤシ、また枝の茂った木などの枝を取ってきて、書かれている通りに仮庵を作りなさい。』そこで民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や庭の中、また、神の宮の庭や水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰ってきた全集団は仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それが非常に大きな喜びであった。神の律法の書は最初の日から最後の日まで毎日朗読された。祭りは七日間祝われ、八日目には定めに従って聖なる集会が行われた。」
この第七の月は非常に祭りが多い月でした。それはレビ記の23章の方にあるのですが、まず第七の月の第一日目は、先ほども言いました通り、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合の日で、そして第七の月十日は聖なる集会、身を戒めて、そして民の贖罪をする日です。そして第七の月の15日は、仮庵の祭りが行われます。仮庵の祭りを行って、そして7日間毎日集会があり、第8日目は聖なる会合をして聖なる集会を行うという、そのレビ記の23章の記述があって、ここが朗読されたんですね。祭司エズラによって。
それを聞くと、このエルサレムの住人はこぞってその通りに、やりなさいというお触れが出されます。それは、長らくこのイスラエル民族の地から断たれていた祭りでした。なんと17節、「ヌンの子ヨシュアの時代から今日に至るまで、イスラエル人はこのようなことをしていなかった」。あれ本当だったかなと思って、聖書を検索してみたところ、確かに記述がないんですね。仮庵の祭りを行ったって。唯一ヒットしたのが、歴代誌の8章のソロモンの時代ですね。第二歴代誌の8章のちょうど自分の宮殿が建て終わった時のその時。第二歴代誌の8章12節と13節。
「それからソロモンは、彼が玄関の前に建てた主の祭壇の上に、主のために全焼のいけにえをささげた。すなわち、モーセの命令通りに毎日の日課によりこれをささげ、安息日ごとに、新月の祭りごとに、年三回の例祭、すなわち種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りごとにこれをささげた。」
ついでに「ついでに仮庵の祭り」という言葉が出てきたような、そういう感じですね。ソロモンが宮殿を建てた時、それは非常に豪勢な時代でした。主の神殿に捧げられるその牛や羊たち、それはもう数えきれないほどだったから、特別に庭を聖別して、そこ全体で生贄を焼いたほど、物に富んでいる、そういう時代でした。ソロモンの時代は。でもそこに心はなかったようですね。見かけは豪勢。でも心がなかったのです。ソロモンの時代に、ソロモンはさっさと別の国に走ってしまいました。
ヨシュアの時代、その時代は、本当に民の心はまだ主に対して、主を恐れて主に対して真っ直ぐだったのですが、でもそのヨシュアのすぐ後の時代、士師記の時代からイスラエル民族は自分勝手なことをし出すようになってしまいました。その時からずっとこの仮庵祭は断たれていたのです。形式上は行われていたのですが、しかし、ここに書いてあるような、民が自分の屋根の上や広場やそういったところに仮庵を作るということを、そこまで真剣にしていなかったのでしょうね。
しかし、この17節の文を見ますと、「このイスラエル人、ヌンの子ヨシュアの時代から今日までイスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった」とあります。まだこのエルサレムの城壁が再建し終わってから1ヶ月も経っていないような、そういう時期に行われた仮庵祭です。それは本当にソロモンの時代から見れば質素な、粗末な、急いで作ったかのような粗末なものだったかもしれないのですが、しかし、大きな喜びがありました。主の御言葉を守った。忠実に行った。そこには喜びがあるんです。そこは別にゴージャスでなくても、喜びというのは沸き起こるんです。心があるのであれば。
人は祝福を求めます。富を求めます。健やかさを求めます。ゴージャスさを求めます。しかし、大切なのは主に向かう心です。真剣に主を求める心があるのであれば、その祭りは非常に喜ばしいものとなります。きっと仮庵祭、野に出て行って、木の枝を集めて、それを自分の庭とか屋根の上とかに小屋を作って、そこに寝て、イスラエルの民が仮の宿に休んでいた時期を思い巡らす、そういう祭りだったんですけど、きっと廃れていってしまったのは、何かそこまで堅苦しくやらなくていいじゃんっていう、そういう思いだったのかもしれない。
しかし、そうした思いを捨てて、たとえ世の人から見れば、堅苦しくてそこまでしなくていいんじゃないみたいなところを、あえて主のゆえに守りを行うところに喜びが湧き起こるんです。こうして、この第七の月、このイスラエルの民にとっては特別な、ささやかですけども、しかし喜びに満ちた、そして、祭りの期間を送ることができました。それは、自ら積極的に御言葉を慕い求める心があったからです。また、御言葉に対する畏敬の念、恐れがあったからです。そして、何が神様に喜ばれ、何が悲しまれ、何が憎まれるのか、その律法を読んだ時に、何が悲しまれ、何が憎まれるのか。心に悲しみが起きたからです。悲しみがあったから、そこには悲しみがなくなり、逆に喜びが湧き起こるのです。
礼拝という心を尽くして、思いを尽くして、主を慕い求める。そこには主からの喜びが湧き起こるのです。礼拝がつまらないという人は、どうか心から主を求めて礼拝に臨んでみてください。そうしたら喜びで満ち溢れる礼拝の時間がとても楽しいものになります。どうか礼拝を喜びに通し、ますます神様から祝福をいただいていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
礼拝が喜びとなるための鍵は、自ら積極的に御言葉を慕い求め、理解しようと努める心にあります。御言葉に対する敬意を持ち、自分の罪を悲しみ、悔い改める時、そこから真の喜びが湧き起こります。ネヘミヤの時代の民のように、心を尽くして主を求めるならば、たとえ質素であっても、礼拝は喜びに満ち溢れた時間となるのです。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ3:10-16:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:第七の災い-雹(出エジプト記9:22-35):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「あなたの手を天にむかってさし伸べ、エジプトの全国にわたって、エジプトの地にいる人と獣と畑のすべての青物の上に雹を降らせなさい」。モーセが天にむかってつえをさし伸べると、主は雷と雹をおくられ、火は地にむかって、はせ下った。こうして主は、雹をエジプトの地に降らされた。』(出エジプト記9:22)
今回以降の3つの災いは、モーセ自らが杖を動かして災いが降るようにしている。
この時モーセは、もはやパロに対する怖気は無く、神の代理人としての余裕と、その穏やかな口調に貫禄と気品が見える。
神はモーセの過去のトラウマを癒し、人の頑張りでは決して出来なかった事をもさせて下さった。
同じように主は、私達が過去受けた傷を癒し、解放し、権限を委任された使徒として私達を用いて下さり、余裕と気品で飾らせて下さるのだ。
『そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。』(出エジプト記9:24)
かつて無かったほどの雹の災いは、黙示録にも登場する神の裁きである。(8:7,16:21)
この災いの前日、モーセは予めアドバイスをしていたが、それに従った者は災いを免れ、そうでない者は災いを受けた。
そして神は、またもイスラエルを区別され、イスラエル人の住むゴシェンの地には雹は降らなかった。
このように主は、御言葉に従う人と従わない人、神の民とそうでない人、さばきを免れる人とさばきを受ける人の区別を、明確にされる。
『そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。』(出エジプト記9:27-28)
パロは言う。「こんどは罪を犯した」と。
「こんどは」と言うからには、裏を返せば、今まで彼の頭の中では、パロが正しくて、モーセ達と神が間違っていたわけである。
このように、頑なな者の特徴とは、自分は正しくて、自分の望む通りに動かない周りや神のほうが間違っている、とする事である。
パロが「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください」と言ったのは、激しい雹が降っている最中だった。
しかしモーセには分かっていた。「あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」(30節)
「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻は花が咲いていたからである。小麦とスペルタ麦はおくてであるため打ち倒されなかった。」(31-32節)
主は憐れみ深く、いきなり再起不能な一網打尽は、なさらない。
主から懲らしめを受けた時は、自分が滅ぼし尽くされなかった事を感謝し、主に立ち返るのが正しい作法であるが、パロとその家臣たちは、そうではなかった。
『ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。』(出エジプト記9:34-35)
株で身を滅ぼす人のパターンは、大きな損をした時に、自分にはまだあれが残っている、これを保持していれば必ずいつか巻き返す、など、根拠なき希望を頑なに持ち続けて、手放すべきものを手放さず、結局、何もかも失ってしまうものだが、パロとその家臣たちは、その滅びの行動パターンに陥り、ますます頑なになってしまったのである。
『また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。』(黙示録16:21)
私達は雹の災いを受ける人を見て、あたかも対岸の火事を見るのように、どうしてそこまで頑なになれるのかと第三者的に思うかもしれないが、人は結構、自分がこの頑なさに陥っている事が、わからないものである。
「なぜ親はあんなに厳しく、うるさく、しつこく自分を罰するのか」と思った事はあるだろうか。
それは自分が周囲に、厳しく、うるさく、しつこく迷惑を振りまいていたからに、他ならない。
頑なな者はいつもそのように、罪ある自分に気付かないまま、主から罰を受ける。
私達は災いを受けた時、自分を省みるべきである。
主は、自分の咎を悔いた人をあわれみ、労苦に報い、祝福の将来を与えて下さるお方である。(エレミヤ31:15-22)
礼拝説教メッセージ音声:主が忌み嫌われる者:高ぶる者(出エジプト記9:13-21):右クリックで保存
『主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』(出エジプト記9:13)
既に幾度も聞いている言葉だが、頑なな心には、幾度同じ言葉を言っても自分を曲げないものである。
ここまで幾度も主が同じ事を命じられているのに、ことごとくそれを反故にし、その度に災いが下されて来たのに、なお主に従う事の出来ないパロの頑なさを見る時、私達も、そのような頑なさ、すなわち「災いに遭いやすさ」が自分の内に無いか内省し、そのような性質を悔い改め、そうならないよう気をつけるべきである。
『今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。』(出エジプト記9:14-15)
主はいつでもエジプトを疫病で打って消し去る事は出来る。
しかしそれをあえてなさらないのは、彼らの内に一人でも主を恐れる人が起こされ、主の素晴らしさを多くの人が仰ぎ見、救われるためであり、主を恐れる人には主は憐れみ深く敵に対しては力強いお方である事を、世にあまねく知らせるためである。
主は、エジプトに災いが次々と下る根本原因を、パロに示された。
『あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。』(出エジプト記9:17)
エジプトに災いが次々と下る根本原因、それは、「高ぶり」である。
パロからすれば、イスラエルの民は奴隷として当然のように働くべきであり、自分はいつでも彼らを滅ぼせる立場にある、と思っており、事実、主の助けが無ければそうかもしれない。
キリスト者も基本やさしいために、世の人は威張り散らすかもしれないし、もし主がついていなければ、たちまち滅びてしまうような者かもしれない。
しかし真実な所、主は不信仰で頑なな者たちを、逆にいつでも滅ぼせる立場におり、一人でも多くが不信仰や頑なさを捨て、主に立ち返って救われて欲しいと、憐れみつつ忍耐しておられるのである。
主が最も忌み嫌われる罪、それは「高ぶり」である。
サタンはこの「高ぶり」によって地に投げ落とされた。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:12-15)
サタンの基本的性質は、自らを高くし、神のようになろうとする事、そして、自分を神よりも高く置こうとする事である。
アダムとエバも「神のようになれる」という誘惑に陥って、結局エデンの園から追い出されてしまった。
この「神のようになろう」「高くなろう」るという高ぶり、それこそサタンの性質であり、アダムやエバだけでなく、多くの人類がそれによって呪われてしまい、滅びを招き入れてしまった。
『さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」』(出エジプト記9:18-19)
ここに主の憐れみ深さがある。
パロの頑なさの故に、エジプトに災いが決定してしまった時も、パロ以外の臣民が救い出されるようにと道を示された。
『パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。』(出エジプト記9:20-21)
主を恐れ、主の御言葉に従った者は救われ、損害を出さないで済んだが、そうでないものは、災いに遭い、損害を受けてしまった。
聖書のはじめから終わりまで、主が一貫して語っておられる事は、結局そこである。
主を恐れ、主の御言葉に従う人は救われ、祝福を得るが、主を軽んじ、御言葉に従わない者は、救いを得ず、呪われてしまうのだ。
イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2012-11-26 23:45
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの盾となる主 - 第五,第六の災い(出エジプト記9:1-12):右クリックで保存
エジプトに降る第五の災いは、家畜の疫病である。
『主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。』(出エジプト記9:3)
馬、ろば、らくだは物を運搬する動物で、また牛と羊は重要な聖獣である。
主は今回、エジプトの財産と物流、そして神々を打たれたのだ。
主は今回も災いの時を予め定め、その通り実行し、また、エジプトとイスラエルを明確に区別された。
『あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。』(出エジプト記9:6)
主は予告した通りの災いを降し、エジプトとイスラエルの民を区別された。それ程鮮やかにしるしを行ったのに、パロはなお、心頑なにした。
続く第六の災いは、うみが出る腫物の災いで、ぶよの災いの時同様、パロの目の前で明示的に実行した。
『主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱい取り、それをモーセはパロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい。』(出エジプト記9:8)
かまどと言えば、イスラエルがまさに奴隷仕事としてれんがを焼いている道具である。
かまどの中からすすを取りだして空中に蒔いた所、それが人や動物、そしてモーセ達に対抗した呪法師にも、腫物の災いを及ぼした。
こうして主は、イスラエルを奴隷として用いていた道具を用い、エジプトの人々にも動物にも、そして神々にも、明示的に報復したのである。
主ご自身が、イスラエルの盾となり、戦っておられるのである。
『しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。』(出エジプト記9:12)
前の五回の災いが起きた時は、パロ自ら心を頑なにしていたが、今回、はじめて「主が」パロの心をかたくなにされた、という表現が用いられている。
人があくまで主を拒否し、頑なさを続けていると、今度は、主がその心を頑なにされるのだ。
以下、詩篇81篇に記されている通りである。
『わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」』(詩篇81:10-16)
主は人に、心へりくだって御言葉に従順となり、主の道に歩む事を望んでおられる。
人がその通りにしたなら、速やかにその敵を征服し、最良の小麦と岩の上にできる蜜で道たらせる用意が、主の側にはいつでもできているのだ。
しかし人が頑なになると、どうしても自分の道を捨てたがらず、怒り狂って神にさえ対抗し、けがしごとを言ってしまうものだ。(黙示録16章)
祝福へのもっとも近道は、主に対して心柔らかにし、いつでも御言葉を受け入れる体制でいる事である。
かたくなさは捨て去り、いつも主の御声に従順に聞き従って、いつでも祝福を頂き続けている皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
