メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
礼拝音声: 味噌からにじみ出た愛(1コリント12:18-27) 第1礼拝全体音声
第2礼拝音声:(メッセージのみ、韓国語通訳つき) 한국어예배
先週、静岡の姉妹から天声の兄弟姉妹に、と、サムジャンという合わせ味噌をいただき、賞味した。
ゆでたキャベツにごはんを乗せ、その味噌も乗せて食べるという韓国風の食べ方があるのだが、シンプルであるがとても旨く、野菜もおいしく摂れ、身も心も温かく幸せな気持ちに包まれつつ頂いた。
その幸せさは、高級レストランなどお金を積む事では決して味わえない、「聖徒を思う愛」という、世の何物よりも尊い「素材」から来るものだ。
今、この世で生きていて、聖徒の為に愛を込めて料理を作ったり、作ってくれたものを味わうことが出来るのは、「生きていて良かった」と思えるほどの幸せがあり、天における愛に満ちた交わりの前味わいである。
聖徒達の心の篭った捧げものは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物である。(ピリピ4:18)
御父が求めるいけにえは、高級食材でも膨大なお金でもなく「心」の込められたものである。
御父は何よりも富んでおられるお方なので私達がいかに富を積んで捧げたところで、たかがしれている。
主が人を間違いを犯さないロボットとして造らず、間違いを犯すかもしれない自由意志を持った「人」としておつくりになったのは、「心から」主を主を選択し、愛し、敬う者を、求めておられるからだ。
天の御国は、確かに高級素材に満ちたリッチな所ではあるが、むしろ、愛の篭った贈り物でいっぱいの、心が暖かくなる所である事の方が「売り」であり、私達に喜ばしく楽しみである事なのだ。
まことの食物はキリストであり(ヨハネ6:55)、その食物にはどれほどの愛が込められているか。
それは命を捨てるほどの愛が込められており、その食物は決して無くなる事無く、乏しくなる事も無い。
5千人以上にパンを与えた奇跡において、主は、その奇跡の源、愛の源であるイエスキリストを本来求めて欲しかったのだが、大勢の群集が求めたのは、実に、食物のパンであり、彼らが主を探して来たのは、食べて無くなる食物のパンを食べ、満腹したからだ。(ヨハネ6:26)
どれほど主は寂しい思いをされたであろうか。
私達は無くなるパンではなく、まことの食物である愛の篭ったイエスを、心から感謝しつつ頂くべきである。
サムジャンで食事しながら与えられたもう二つの事は、味噌がおいしいからといって、味噌「そのもの」が脚光を浴び奉られてはならず、味噌の作り主こそ感謝されるべきである事。
そのおいしい味噌を使い切ってしまうのを恐れるよりも、味噌の作り主に作り方を聞くべきである、という事。
その時々に与えられた人、いただいた恵みなどがなくなる事を恐れる傾向があるが、それは無くなるパンをいつも与えてくださいと求めて来た寂しい人々のようなものであり、その恵みを下さった根源なるお方により頼み、そのお方が愛をもって、無尽蔵に与えてくださる事に信頼すべきである。
私達は、キリストのからだであり、それぞれは器官であるが故、誰か特別な人だけが作り主を差し置いて大きく取り上げられてしまうのは良くない。
体はどこかをケガした時、そこに血小板や白血球が集まるが、血小板や白血球は普段何のために役に立つのか分からなくても、ケガをした時、これらはそこに引き寄せられるように真っ先に集まり、血小板は傷を塞ぎ、白血球は進入して来た悪いものを殺すために、機能する。
どこの器官が無くなっても、体はやってゆけないし、どこかだけが大きくなったり増えたりしても病んでしまう。
キリストの器官は愛の機能体であり、その内の誰か一人でも欠けてしまったら、大変であり、また、その誰かが傷ついてしまったら、周りの器官が全力を持ってそこをいたわり、癒す事に全力を注ぐ。
一切の賜物の源であり、愛を持って一つとしてくださるキリストこそ、全ての栄光を受けるに相応しいお方であり、この方のために私達は在るのである。
礼拝音声: なくなるパンとなくならないパン
イエス様の周りでは、奇跡や必要の満たしが行われる事はよくあるが、そうした物質的・心理的な必要の満たしは所詮、食べたら無くなるパンに過ぎない。
永遠に無くならないパンとは。。。続き
メッセージ音声: どっちつかず(マルコ6:14-20) 한국어예배
国主ヘロデは洗礼者ヨハネが正しく聖なる者である事を知り、その教えを喜んで聞いていたが、妻ヘロデヤのそそのかしにより結局ヨハネの首を刎ねてしまい、後にはイエスからも一言も言葉をいただけず、ゆくゆくはヘロデヤの言葉が原因で破滅に追い込まれてしまう。
私達とこのヘロデに共通している所は。。。続き
メッセージ音声: 杖1本の他何も持つな(マルコ6:6-13) 한국어예배
福音を伝えるために12弟子を派遣する時、杖1本の他は何も持たないようにと指示された。
しかし足りない物は何もなかったと、後に弟子達は告白している。
実はマタイ・ルカの平行箇所では杖さえ持って行かないように指示されている。
マルコにのみ出てくる「杖」とは一体何であろうか。。。続き
礼拝音声: 岩の上の蜜
本日は横浜フェローシップ・ホームチャペルのゆばるさんが来て下さり、突然の申し出にもかかわらず、ピアノ伴奏してくださいました。
いつもはパスターがピアノを弾きながら賛美を導いていますが、この時は歌に専念する事が出来、とても恵まれました。
メッセージは詩篇81:6-16より。
御言葉はよく噛み締め咀嚼すると、甘く麗しくなる。
乳と蜜が流れる土地は、御言葉なる主を慕い求める者に与えられる。
メッセージ音声: 受け入れ難い預言者の言葉
エリヤの時は彼の言葉があまりに難しく見え、エリシャの時は彼の言葉があまりに簡単でばかばかしく聞こえ、それぞれの奇跡は、イスラエルの中で為される事が無かった。
預言者は故郷では受け入れられないものであり、イエスは故郷の人達に殺されそうになったが、イエスの言葉は彼を救い主キリストとしない者達にとっては非道く聞こえ、抹殺してしまいたくなるものである。
信仰の家族と信仰無き血縁者(マルコ6:1-6) 한국어예배
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » マルコによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2010-9-14 6:20
メッセージ音声:信仰の家族と信仰無き血縁者(マルコ6:1-6) 한국어예배
イエスが故郷ではあまり奇跡を行うことが「おできにならなかった」のは、故郷の人達があまりにイエスを「人間」として知り過ぎていたためである。
神の御技を引き出す鍵は、人の側の信仰である。
今回は第1・第2礼拝続けての録音です。
第1礼拝は整えの礼拝として林が取り持ちショートメッセージはエレミヤ31:13より。
第2礼拝は鄭先生が聖餐礼拝を司式し、メッセージは「勝利の賛歌」と題して第2サムエル22:1-7より。
プログラムで用いた讃美・聖書箇所など
※ 週報はハングルワードプロセッサ「hwp」形式になります。
本日は礼拝の後すぐ鄭先生と教会の幾人かを連れて静岡へ案内し、さきほど帰って来たところです。
主日礼拝音声は、13日午前ごろにアップします。
今回の礼拝は、私のちょっとした導きの後、鄭先生による聖餐礼拝となります。
メッセージ音声:十分の一をもって(マラキ3:8-12)
神と人とは離れてあるべきではない。
いのちを共有して下さった神と関わる事により、人が本来あるべきだった姿に近づく事ができ、物質的にも大いなる祝福を得られる。
主はあえて「試してみよ」と言っておられるので、我々は大いにそうかどうかを試すべきである。