メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ
メッセージ概要
この1週間の間、身近な3人の死に関わったが、それについて何か語らせていただくというのは、あまりに
重い事であり、「これこれの意味がある」などと第3者的に解説できるものでもない。
しかしこの事を置いて他を語る気がしないのは、兄弟姉妹の喜びや悲しみは、キリストの体の交わりにおい
て互いに無関係ではありえず、また、これら出来事を通して学んだ貴重な事は、分かち合わなくてはならな
いと切実に思うからである。
神様の個人個人に対するお取り扱い、特にいのちに関する事柄は、本人といえど不可解なものである。
ダビデとバト・シェバの間に生まれた子は、何もしていないのに父親の罪の故に神から打たれた。
ある者が罪を犯して本人が罰されるのは理解できるが、別の者が代わりに罰されるのは、不条理に見える。
彼の死によって、生き残った多くの者達、すなわちダビデとその王国は、周辺の異国のように罪にまみれる
事から防げたが、それでは一体、その子はどうなるのか。
人は、世における行いに従っておのおの裁かれると書かれてあるため、善も悪もしないまま亡くなったその
子は裁かれる事無く、ラザロのように、世では得るに至らなかった慰めを主の懐で享受していると思われる。
親の罪故に亡くなった子の弟に当たるソロモンは、以下の言葉を残している。
「私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。
また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかっ
た者だ。」(伝道者4:2,3)
ソロモンは、世のあらゆる栄華を極め、甘いも酸いも嘗め尽くした結果、この言葉に至った。
いたずらに苦しみや罪を増し加えるためだけに生きる人生もあるため、主の御前では、「この世で生き続け
る」事が最善であるとは限らず、むしろ早く世を去ってキリストの御許に行くほうが優れている事もある。
主は死を容認しているわけではなく、サタンの唆しによって人に入ってきてしまった「死」を非常に憎まれる。
サタンはいのちを憎み、その瑞々しさ、美しさ、その躍動を、何とかして破壊しようとするが、神はいのちを
量っておられ、それに手をつける事はサタンであってもできない。(ヨブ2:6)
キリストは死に対し、サタンに対し、罪に対し、圧倒的に勝利し、主の愛から引き離す者は何者も無い。
「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そ
のほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできませ
ん。」(ローマ8:39)
もし死が全ての終わりであるならば、この世は不条理の極みであるが、キリスト者には、死の向こう側がある。
イエスがあえてラザロが死ぬまで沈黙されたのは、イエスご自身が、よみがえりでありいのちである事を私
達が知り、イエスを信じるまでに至る事が、文字通り「死ぬほど大事」だったからである。
御父の思いは天を越えて遥かに高く(イザヤ55:8-11)、御父の愛は死を超えて遥かに強い。
御父は御子を十字架から助ける事など指を動かすよりも遥かに簡単だったはずなのに、あえて沈黙された。
それは、御子の死の向こう側に、より良い「いのち」があり、私達人間を彼にあって死から開放するためだ。
子が嘲られ、罵られ、死に渡されようとしている時、沈黙して何もしないような親はいるだろうか。
人間の愛はインスタントに、子を苦しみから解き放とうとするが、父の愛は死を超えて遥かに強いのである。
しかし、単に強いだけではなく、私達の心の辛さ、言葉にならないうめきも全て受け止めておられる。
御霊は弱い私たちを助けてくださり、私達はどのように祈ったら良いか分からなくても御霊ご自身が言いよ
うもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだ。(ローマ8:26)
キリストにあって眠った者たちはよみがえらされ、主はあらゆる権威、権力、不条理を滅ぼし、そして最後の
敵である死をも滅ぼされるのである。(1コリント15:20-26)
この主に在る者は、決して滅びる事は無い。
まだ作りかけの部分もありますが、天声キリスト教会サイトを公開します。
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主は兄弟達の「一つさ」に、とこしえのいのちの祝福を命じられた。(詩133)
主はいのちを養い、はぐくみ、建て上げ、一つにするお方であるのに対し、悪しき者は告発し、いのちを食 い散らし、兄弟姉妹を相争わせ、憎しみを増長させる。
兄弟姉妹の中に悪しき者が入り込む事があるが、その見極めは結ぶ実によって(マタイ7:15−20)、また、 罪の内をあえて歩み続けようとするか(1ヨハネ3:10)によって分かる。
犬は吐いた物に戻り、豚は尊い真珠を踏みにじり、真珠を与えた者に向かって引き裂く。(マタイ7:6) 見極めのために、偽りやニセモノについて知識を蓄える必要は無く、ただホンモノの真理に親しみ、ホンモ ノなるお方に触れていれば、偽りが来た時に感覚で分かるようになる。
ホンモノの主であるイエスは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つために来た方である。
対して盗人は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのために来る。(ヨハネ10:10)。
悪しき者は人を試み、告発し、騒ぎ立て、姦淫の現場で捕らえた女を宮にまで引きずり立てた者達(ヨハネ 8:1-11)のように、良心で痛んでいるクリスチャンの痛みさえも逆に利用して、攻める道具へと代える。
イエスはどういうお方か。
罪を糾弾する事をせず、罪を覆い、赦す。
このイエスの品性の内に養われている内に、私達は聖なる者と汚れた者の違いを感覚で分かるようになる。
悪しき者からの攻撃を受けた時は、本来の権威に戻り、真理のみことばを宣言する。 私の立場: キリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせ てくださいました。(エペソ2:6)
敵の立場: 彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、 彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示録20:10)
週報左にあるリストは、キリストにあってあなたがどのような立場にあるかを宣言するのに有用である。
霊的な立場としてはキリストにある者は勝利の側、サタンは敗者の側にあり、権威的な上下関係にある。
王様ゲームの勝利者のように、主に在る者はサタンにイエスの名によって何でも命令できるのだ。 そうでないかのように見えるのはなぜか。
それは、偽りを吹き込まれており、恐れに囚われているからである。
悪魔がキリストにある者に対してできるは、思いの中に吹き込む「恐れ」や「偽り」であり、それ以上の事は神 の許可なしにはできない。
ゴキブリが出るとその部屋に入れない女性がいるが、ゴキブリには女性を部屋から閉め出す物理的力も権 威も無いのに、なぜ女性は部屋から閉め出されてしまうのか。
それは、彼女自身のゴキブリに対する恐れや、ゴキブリに触れると多大なダメージを受ける、といった、偽り の思い込みが原因であり、立ち向かわないままでいると、部屋はゴキブリに占拠されっぱなしのままである。
私達はサタンに対してそうであってはいけない! 悪魔に対する対抗手段は「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあな たがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)
この順番が重要である。
そしてエペソ6章の霊的武具を取り、御言葉の剣を持って立ち向かい、足の下に踏みにじるべきである。
霊的な武具の扱い方を教えて下さいと祈れば、主はきちんと戦い方を教えて下さる。
実は私は、その祈りを先週月曜朝に行い、土曜までに学んだ事は、まず、悪しき者は御言葉を極端に嫌う という事と、悪しき霊を叱る祈りは、例え耳に聞こえることばに出さなくても、遠隔地にあったとしても、きちん と効果がある、という事だった。
確かにサタンは色々な手を使って攻撃してくるが、主に在る私達にとって、サタンの攻撃は、より成長する ためのネタにすぎなくなるのだ。