メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
真の美しさ(エステル記2:12-23)
メッセージ音声
【概要】
本当の美しさとは、外見ではなく、真の王であるイエス様の喜びとなることを求め、その御心に従うことです。自分の価値観や好みを捨て、ただ主を恐れ敬い、従順であることこそが、神と人からの好意を受ける秘訣です。
【聖書箇所】
エステル2:12-23
箴言31:30
【勧めの言葉】
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自分の好みや価値観ではなく、真の王であるイエス様の御心を第一に求め、その喜びとなることを目指しましょう。
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自分の手柄を主張せず、霊的な指導者の教えや命令に謙虚に従いましょう。
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麗しさや外見の美しさ以上に、主を恐れ敬う心を大切にしましょう。
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たとえ今すぐ報いがなくても、私たちの行いはすべて神の年代記に記録されており、やがて必ず報いられることを信じましょう。
【***詳細***】
皆さん、こんにちは。
今日皆さんと共に見ていきたい御言葉は、エステル記2章12節から23節です。まず、12節をお読みします。「娘たちは女たちの規則に従って十二か月の期間が終わった後、一人ずつ順番に、アハシュエロス王のところにはいっていくことになっていた。準備の期間は、六か月は没薬の香油を、次の六か月は香料と女たちのための化粧品を用いて化粧することで完了するのであった。」アーメン。
愛するイエス様、今、私たちがあなたの御心にかなうもの、美しいものとなれますように。あなたが「さあ、立って出ておいで」と言ってくださるような者となりたいです。主よ、本当の美しさとは何か、外見に勝る美しさとは何かを教えてください。今、取り次ぐ僕を清め、このメッセージを受け取るお一人お一人を整えてください。礼拝に来られない方々の上に、あなたの癒しと導きがありますように。イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒め称えます。
ここ最近、エステル記から「本当の美しさ」とは何かを学んでいます。このエステル記の物語では、まずペルシャ全国から美しい娘たちが集められました。そして、その中からたった一人の王妃が選ばれるのです。たくさんの娘たちが集まりましたが、王妃になれるのは一人だけ。彼女たちは、ある意味で必死だったことでしょう。
今日の箇所、12節にあるように、彼女たちは12ヶ月もの間、徹底的にエステティックなケアを受けていました。最初の6ヶ月は没薬の香油で、次の6ヶ月は香料や化粧品で体を整え、体から良い香りが滲み出るほどでした。
ちなみに、「エステ」という言葉は、このエステル記が語源かと思いきや、実は違うようです。フランス語の「エステティック(美学)」は、元をたどるとギリシャ語の「アイステーシス(感知する、感じる)」という言葉から来ています。一方、聖書のエステルという名前は、ペルシア語で「星(スターラ)」を意味するか、あるいはバビロニアの愛と美の女神「イシュタル」に由来すると言われています。エステルの本来のユダヤ名は「ハダサ」で、これは「ミルトス」という植物を意味します。イザヤ書には「いばらの代わりにミルトスが生え…これが主の記念となる」という言葉があります。いばらのような私たちでも、主にあってミルトス、つまりエステルのように美しい存在になることができるのです。
さて、多くの娘たちが王のもとへ行きます。13節にはこうあります。
「このようにして娘が王のところにはいっていくとき、その娘の願うものはみな与えられ、それを携えて後宮から王宮にいくことができた。」
これはすごい待遇です。一年間、徹底的に美を磨き上げられ、さらに王に会うときには、欲しいものを何でも与えられたのです。彼女たちはきっと、自分の価値観で「これが一番良い」と思う最高の宝石や衣装、香水を求めて、王の前に出たに違いありません。一晩で人生が変わるかもしれない、王の心を射止められるかもしれない、そんなチャンスに全てを賭けていたのです。ハーレム(後宮)は、自分の美しさで王の心を掴もうという女性たちの気迫で満ちていたことでしょう。
しかし、その世界は非常に厳しいものでした。14節を見てみましょう。
「娘は夕方にはいっていき、朝になると第二の後宮に帰ることになっていた。そこはそばめたちの監督官である王の宦官シャアシュガズの管理のもとにあった。その女は王が気に入って指名されるのでなければ、二度と王のところにはいけなかった。」
王に気に入られなければ、二度と会うことはできません。一晩きりで、その後一生召されることなく生涯を終えた女性も多かったでしょう。その夜の王の機嫌や、ほんの偶然によって運命が左右される。多くの女性たちは、その一瞬の偶然に賭けるしかなかったのです。これは、私たちの世界にも通じる厳しさです。たった一度の面接やテスト、タイミングや偶然によって、その後の人生が大きく変わってしまうことがあります。この後宮は、まさにそうしたこの世の厳しさが凝縮された場所でした。
しかし、その中で一人、必死さを感じさせない女性がいました。それがエステルです。15節です。
「さて、モルデカイが引き取って自分の娘とした彼の叔父アビハイルの娘エステルが、王のところにはいっていく順番が来たとき、彼女は、女たちの監督官である王の宦官ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求めなかった。こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた。」アーメン。
他の女性たちが自分の好みで飾り立てたのとは対照的に、エステルは自分の価値観を一切持ち出しませんでした。彼女が求めたのは、ただ一つ、「王の宦官ヘガイが勧めたもの」だけでした。ヘガイは、王のことを誰よりもよく知るプロフェッショナルです。王の好み、好きな衣装、色、仕草、言葉遣いまで、すべてを熟知していました。エステルは、「王様は何を求めておられるのだろうか」「何が王様の心を穏やかにするのだろうか」ということだけを追求し、ヘガイの言う通りにしたのです。
そして、「こうして」という接続詞に注目してください。「こうして、エステルは彼女を見るすべての者から好意を受けていた」。彼女が好意を受けた理由は、プロフェッショナルの言うことに素直に従ったからです。
このエステルの態度は、20節にも表れています。
「エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。」アーメン。
彼女は、霊的な指導者であり、父親代わりであるモルデカイの命令にも従順でした。「おっしゃることは何でもいたします」というこの姿勢こそが、王の心を射抜き、すべての人から好意を得る秘訣だったのです。真の王妃となる人の性質は、自分の好みを押し出さず、ただ王の好みを追求することです。
これは、受験生が自分のやりたいことではなく、受験のプロの言うことを聞けば合格しやすいのと同じです。コンテストでも、専門家のアドバイスに素直に従う人が受賞するのです。
エステルは、見事に王の心を射抜きました。17節です。
「王はほかのどの女よりもエステルを愛した。このため彼女はどの娘たちよりも、王の好意と寵愛を受けた。王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。」アーメン。
ここで、元王妃ワシュティの名前が出てきます。ワシュティは王の命令に逆らい、自分の好みを通した結果、王妃の位を追われました。一方、エステルは宦官ヘガイと養父モルデカイの言葉に従いました。この「従順」のゆえに、彼女は王の心を掴んだのです。
さらに、エステルは主を恐れ敬う女性でした。彼女はユダヤ人として、神の民に敵対する者には決して頭を下げないという強い信仰を持つモルデカイに育てられました。冒頭で読んだ箴言31章30節には、「麗しさは偽り。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」とあります。
女性が美しくありたいと努力することは素晴らしいことです。しかし、クリスチャン女性にとって、それ以上に大切なのは、主を恐れ敬うこと、そして真の王であるイエス様の好みは何かを求め、その喜びになりたいと願う心です。
雅歌の中に、男性が女性を褒め称える場面があります。彼は、自分が彼女に贈った金の首飾りや宝石を身につけている彼女の姿を「美しい」と褒めるのです。男性は、自分が飾りたいと思ったものを身につけている女性を、愛おしく、美しいと感じるのです。私たちも、自分の好みではなく、誠の王であり夫であるお方の好みを身につけ、その方に喜ばれる者となりたいです。
さて、物語は21節から23節に進みます。ここに、後の大きな出来事への伏線が記されています。
モルデカイが王の門に座っていた時、二人の宦官が王の暗殺を企てているのを知ります。彼はそのことを王妃エステルを通して王に伝えました。22節には、「王妃エステルは、これをモルデカイの名で王に告げた」とあります。ここでもエステルは、自分の手柄にせず、モルデカイの名を立てています。なんと慎ましい女性でしょう。
この企ては調査され、二人の宦官は処刑されました。そして23節の最後に「このことは王の前で年代記に記録された」とあります。
この時、モルデカイは王の命を救ったにもかかわらず、何のご褒美もありませんでした。「なんで?」と思ったかもしれません。しかし、この記録こそが、後にユダヤ民族全体が危機に陥った時に、彼らを救う重要な伏線となるのです。この時点では彼は無名のままで、その功績に対する賞賛も報酬もありませんでした。
私たちも、今、自分の働きが報われていないと感じることがあるかもしれません。しかし、この物語が示しているように、神様はすべてを見ておられます。
「このことは王の前で年代記に記録された。」アーメン。
皆さんの昨日までの行い、今日の行いは、すべて天の書物に記録され続けています。人が見ていても見ていなくても、イエス様の喜びとなる行動をするとき、それは地上で、あるいは天で必ず報いられます。良いことも悪いこともすべて記録されているのです。今日の一日が、皆さんの行動が王の年代記に記され、将来の祝福の伏線となる一日でありますように。イエス様の御名によって祝福いたします。
【結論】
真の美しさとは、外見的な麗しさではなく、主を恐れ、その御心に従う従順な心にあります。エステルのように、自分の好みや価値観を手放し、ただ真の王であるイエス様が何を喜ばれるかを求めるとき、私たちは神と人からの好意を受け、真に美しい者とされるのです。たとえ今すぐには評価されなくても、私たちのすべての行いは神の書物に記録されており、最も良い時に必ず報いられます。主への従順こそが、私たちを飾る最高の宝石なのです。
真の美しさ—内面の品性と神への誠実
メッセージ音声
【概要】
ワシティ王妃とエステルの「美しさ」の違いを通して、神に喜ばれる真の美しさとは何かを学びます。それは外見的なものではなく、悲しみや痛みを知り、神の言葉によって整えられた内面からにじみ出る品格です。
【聖書箇所】
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エステル2:1-11
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エステル2:7
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エステル2:15
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第一ペテロ3:3-4
【慰めの言葉】
あなたが人知れず耐えてきたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けてきたこと、そのすべてを神様は見ておられ、それを「美しい」と見なしてくださっています。
【励ましの言葉】
今はまだ世のスポットライトを浴びていなくても、神の言葉によって内面を整えられ、誠実に歩むなら、神様はあなたを見出し、やがて時が来ればエステルのように大きく用いてくださいます。
【勧めの言葉】
人の評価や流行に惑わされず、外見の美しさを追い求めるのではなく、神の御言葉を中心とした内面の美しさ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない品性を飾りとしましょう。
***詳細***
エステルといえば「美しい」という言葉が真っ先に思い浮かびます。では、聖書が語るエステルの真の美しさとは何でしょうか。今日は、エステル記の冒頭からその秘訣を読み解いていきたいと思います。
エステル記の最初には、二人の美しい女性が登場します。一人は王妃ワシティ、そしてもう一人がエステルです。二人とも美しいと書かれていますが、ヘブライ語の原語を見ると、その「美しさ」には違いがあります。
まず、ワシティの美しさについて、1章11節にはこう書かれています。王様が王妃ワシティを人々の前に呼び出そうとしたのは、「彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と諸侯たちに見せるためであった」とあります。ここで使われている「容姿が素晴らしかった」「その美しさ」という言葉は、「見る姿が美しい」、つまり外見的な美しさを意味します。王は、自分の権力を飾り、宴会を彩るために、人々に誇示するものとしてワシティの美しさを用いようとしました。彼女の人格よりも、見た目が重視されていたのです。しかし、ワシティはその人格のゆえに、王の命令に従わず、結果として退けられてしまいました。
いつの時代も、人は見られることを強く意識します。特に現代では、SNSなどで自分の美しい姿を見せたいという欲求が強くあります。しかし、人に見せるための美しさを追い求め続けると、「SNS疲れ」という言葉があるように、疲弊してしまいます。無理が生じると、その無理は隠しきれないものです。
では、エステルの美しさはどうだったのでしょうか。2章7節を読んでみましょう。
「モルデカイは叔父の娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔立ちも良かった。モルデカイは彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル2:7)
ここでエステルの美しさを表す言葉は、ワシティのそれとは異なります。「姿も美しく」という言葉には「整えられた」という意味合いが含まれています。そして「顔立ちも良かった」というのは「見るによい」ということです。つまり、エステルの美しさは、単なる外見の美しさだけではありませんでした。それは、全体の雰囲気、にじみ出る品格、柔らかさ、柔和さといった、人格から来る「整えられた美しさ」だったのです。
聖書は、宮殿の華やかさから視点を移し、一人のユダヤ人モルデカイと、彼に引き取られた孤児エステルに焦点を当てます。エステルの物語は、美しさからではなく、両親を失った悲しみから始まります。捕囚の地で、叔父に引き取られた一人の少女の物語です。聖書は、彼女が美しいということよりも先に、彼女が悲しみを経験したことを記しています。エステルの美しさは、何不自由なく育った華やかなものではなく、悲しみや涙、孤独を知っている美しさ、痛みを通って練られた品性、練られた美しさだったのです。
モルデカイは、彼女を自分の娘として、神を恐れ敬うユダヤ人としての教育を施しました。その中で、エステルは外見だけでなく、人の痛みを理解し、思いやることができる内面の美しさを育んでいきました。彼女には、人を安心させる柔らかさがありました。15節を見ると、「彼女を見るすべての者の好意を得た」とあります。彼女といると誰もが安心し、彼女を助けたいと思うような、そんな魅力があったのです。この「好意」という言葉は、「恵み」とも訳され、「愛される柔らかさ」というニュアンスを持っています。
テレビをつければ、見た目の美しさや若さばかりがもてはやされます。しかし、外見の美しさは永遠には続きません。「美人は三日で見飽きる」ということわざもありますし、英語にも "Beauty is but skin deep"(美しさは皮一枚にすぎない)という言葉があります。外見は文字通り皮一枚のものですが、内面の美しさは違います。むしろ、主と共に歩む中で、その美しさは年を重ねるごとに深まっていきます。
使徒ペテロはこう語っています。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りとしなさい。それこそ神の御前で価値あるものです。」(第一ペテロ3:3-4)
エステルはまさにこのような女性でした。心の中の隠れた人柄が美しかったからこそ、外面的な飾りが加わったとき、さらにその美しさが輝いたのです。
この時点では、エステル自身は、自分が後に王妃となり、民族を救う器になるとは夢にも思っていませんでした。孤児として育てられ、王宮に召され、与えられた場所で誠実に生きていただけです。私たちも今はまだ、世の中からスポットライトを浴びていないかもしれません。しかし、人目のつかないところでの誠実さ、忠実さ、御言葉を大切にする姿を、神様はすべて見ておられます。主は心を見られるのです。
神様は、羊飼いの少年であったダビデの、神を信頼し敬う心を見抜かれました。同じように、神様はエステルの心に目を留めておられました。皆さんが人知れず耐えたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けたこと、そのすべてを主は見ておられ、その忠実さを「美しい」と見ておられるのです。
ワシティの美しさは「人に見せる」美しさでした。しかし、エステルの美しさは「神に見出される」美しさでした。それは、忠実で誠実な、御言葉に沿った美しさです。私たちも、神様への誠実さを最高の飾りとして、この時代に用いられるエステルのような、またモルデカイのような真の美しさを培っていきましょう。
【結論】
神様が価値あるものとされる真の美しさは、外見ではなく、試練や痛みを通して練られ、神の言葉によって整えられた内なる品性です。人に見せるための飾りではなく、神様の前での誠実さを飾りとし、人々の好意を得るような、柔和で穏やかな心を育てていきましょう。そうすれば、時が来たときに、神は私たちをエステルのように用いてくださいます。
エステル記1章12-22節
メッセージ音声
【概要】
王妃ワシティが王の呼びかけを拒んだことで王妃の座を失った出来事を通して、私たちがキリストの花嫁として主の呼びかけにどう応答すべきかを学ぶメッセージ。真の美しさとは外見ではなく、従順で柔和な心であることが示されている。
【聖書箇所】
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エステル1:12-22
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第一サムエル15:22-23
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第一テモテ2:9-11
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エゼキエル28章(ルシファーについて)
【戒めの言葉】
高慢は滅びに先立つ。王妃ワシティのように、立場や美しさのゆえに高ぶることは、神の呼びかけを拒むことにつながり、結果として祝福を失うことになる。
【勧めの言葉】
主の呼びかけに対して、「主よ、はい、ここにおります」と即座に応答する心を持つべきである。エステルのように「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という従順な姿勢が真の美しさである。
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは時として、自分の働きや立場を誇り、主に指図するマルタのようになってしまう。自分の使命に心が急ぎ、御言葉に集中している人々を呼び出してしまうこともある。主の御前に謙遜に立ち返る必要がある。
【***詳細***】
エステル記1章12節から22節、初めに12節を宣言します。「しかし、王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」。
エステル記の1章は、一人の王妃が王の呼びかけに応じなかったということが発端になって、物語が展開していきます。この王妃ワシティは、たった一度の王の招きに応えなかったことが、王妃の冠を失ってしまうほどの結果を招いてしまいました。
本当に私たちにとっての王はイエス様です。この王妃ワシティも、このアハシュエロス(クセルクセス)王も人間の王、人間の王妃でした。しかし私たちにとっての王、少なくとも私たちはキリストの花嫁であり、そしてイエス様が私たちの王です。今日のところにおいて、王が皆さんに呼びかけるとき、皆さんはどのように答えるべきかということを示しております。
このエステル記の1章は、まばゆい宴会から始まりました。このペルシア帝国は、当時インドからクシュ、アフリカのエチオピアの方面まで治める大帝国、127州を治める当時最大級の帝国でした。その王宮の中において物語が始まります。180日もの間、自分の栄光と富を誇るために宴会が開かれ、そしてさらに7日間、この王宮の庭園で全市民を招いての宴会が行われていました。
その宴会7日目のことです。王はぶどう酒で心が陽気になって、それで王妃ワシティを呼びます。王妃の冠をかぶってみんなの前に出なさい。確かにこの時の王様は酔っておられました。けれども、この王が王妃を呼んだ理由は、彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と首長たちに見せるためであったというふうに書かれてあります。
私たちの主イエス様は、私たちが贖われた時に、私たちのことを美しいというふうに呼んでくださいます。王冠をかぶらせてくださいます。本当に私たちもイエス様が、美しい花嫁よ、出ておいで、王冠をかぶって出てきなさい、もう嘆き悲しむことはやめて出てきなさい、と画家所の花婿のように呼びかける時、皆さんはしっかりとそのところから出て、王冠をかぶって出てくるべきなんです。
けれどもワシティは、この時王様がその美しさを見せなさい、王冠をかぶって出てきなさいという呼びかけに対して、それを拒みました。拒んだということを王様が聞かされた時、王様は激しく憤って、その怒りが燃え上がったのです。
このワシティとしては、ちょっと気分が乗らなかったかもしれません。なんかまた酒の肴にされるみたいなことを思ったかもしれません。あるいは、この王妃自身も女性たちの中で宴会を開いていた女性たちの間で何か話し合われていたのかもしれません。とにかく彼女は拒みました。王様のこのお言葉を拒否しました。
ここまでは大丈夫だろうという、そういったことをもしかしたら試したのかもしれません。昨日、試みという言葉について聞きましたね。試みというのは、子供が親の「してはなりません」という線にちょっとだけ、半歩だけ出て、それで親を試してみて、親が厳しい態度を取らなかったら「ああ、ここはいいんだ」と、よしここの線は確保したということで線を越え、またさらにその次の線をちょっと試してみる、ということをよくしてきます。王妃ワシティも、王様のこの呼びかけに今日はちょっとそれに応じないことを試してみようか、もしかしたらそういうことだったかもしれませんが、しかしこれが、この一度が王の怒りを招いてしまったんです。
しかも結果的には、これによって会議が召集されて、それで知恵のある人々に王様は聞いて、その会議の中で決定されたことは、この王妃ワシティはとても良くないことを王様にした、王様にしたばかりでなく王国全体に対して良くないことをしました、と。もしこのワシティが王様の呼び出しを拒絶したということが王国中に知れ渡れば、王国中のその妻たちが、王妃ワシティが夫の声を拒否したということで、甚だしい蔑みと怒りが生じるでしょう。なので、ぜひ王様こういうふうにしてください。もう王妃ワシティは王の前に進み出てはならないというお触れを出して、そしてこのことにきっちり対処するのであるならば、王国中のその妻たちは夫を軽んじることをやめるでしょう、ということがこの会議の中で出されました。
それでそれが全員の心にかなったんです。こうしてワシティは、この時もう二度と王の御前に出ることができなくなってしまって、そしてこのことが王国中に触れ広められました。
ここで本当に考えたいです。王妃という、本当に女性として最高の立場にいた人が、その座をなぜ失ってしまったのか。聖書全体を見渡すと、同じ落とし穴に落ちた存在がもう一つあるんです。それはエゼキエル書28章の方を見るとあるんですけども、もともと美の極みであった御使いルシファーです。ルシファーはもともととても美しい天使でした。けれども、その美の極み、それによって高慢になって、自分も神々の座に、神々と同じ立場になろうということで、その心が高慢になったゆえに、彼は投げ落とされたというふうに書いてあります。
本当に私たちはここから悟るべきです。本当にこの高慢が滅びに先立つものです。滅びというものは何か外側の罪というよりも、いつも私たちの内側から湧き上がって、特にこの高ぶり、高慢、これが私たちを滅ぼしてしまうことになります。
美しいこと、これは罪ではありません。立場が高いことも、それは良いでも悪いでもないんです。ただ、その高い立場を用いて、この王のために働くべきではあるんですけども、問題はその立場、美しさ、それのゆえに高慢になってしまって、私はできるから、私は美しいから、それが高慢になってしまって、そのゆえに高ぶった心のゆえに身を滅ぼしてしまうということ。これが本当に私たち自身、気をつけなくてはなりません。
私たちはワシティほど美しくはないかもしれませんけれども、本当にこの高慢というもの、私、優れているからというこの心、私、他の人よりも特別だからというこの心が滅びに先立ってしまうわけです。それでその高慢が、このワシティの高慢は、王様から呼び出された、それに対して私、王妃だよ、私、王様に並ぶ、その右左に並ぶものだよ、というそういう高慢があったんです。それで王様の呼びかけに答えないという形で表に現れました。
この王様は結局怒りに燃えましたけれども、結局このことを通してワシティは王妃という座が取り上げられてしまいました。
冒頭で宣言した言葉が第一サムエル記15章22節から23節なんですけども、そこにおいて宣言しました。「聞き従うことは生贄に勝る。聞き従うことは牡羊の脂肪に勝る。けれども、背くことは占いの罪、また強情を張ることは偶像礼拝に等しい」。強情ですね。これは偶像礼拝に等しいんです。新改訳の方では「まことに背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ」。この従わないこと、これ強情なんです。
強情を貫き通すことは偶像礼拝の罪に等しいということです。私たち、本当にこの御言葉を前にして強情を張ったら、偶像礼拝と等しくなってしまうんです。
私たちにとっての王の王はイエス様です。イエス様は皆さんのその働きっぷりよりも、むしろ従順であること、イエス様は皆さんのことを求めておられ、その従順を美しいというふうに呼んでくださるんです。
マリアとマルタがおりましたね。マルタお姉さんの方は仕事ができる人でした。仕事を優先させて、イエス様の足元に座ってイエス様のお言葉に聞き入っているマリアを指さして、「ちょっとこのマリアが何も働かないで、私だけ働いているの、それなんともお思いにならないのですか。なんか一言言ってあげてください」ってイエス様に進言したら、イエス様は「マルタ、マルタ」って2回も名前を呼んで、「あなたはいろんなことで心を忙しくしているけど、しかしマリアは何よりも一番大事なことを選んだんですよ。マリアからそれを取り上げないでください」っていうふうに言ったんです。
私たち、忙しくなったり、また仕事ができたり、もろもろするとね、本当にイエス様にさえも指図をしてしまうようになってしまう。本当に私たちはよく気をつけるべきです。イエス様は本当に優しいお方で、マルタに「お前は指図するのか」とか、そういうことは言わないで、「マリアから一番いいものを取り上げないでください」っていうふうに、本当に私たちイエス様に習いたいですね。イエス様のお心、習いたいものです。
私たちは何かと、つい「私、これだけしております。これだけの奉仕をしています」っていうことを言いたがりなところはあるかもしれません。けれども、第一テモテ2章9節から11節には書いてあること、それは本当に私たちキリストの花嫁としてどのように立ち居振る舞うべきか書いてあります。「同じように女も慎ましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、派手な髪の形とか金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい」。
本当に良い行い、これが私たちの飾りなんです。真珠や高価な諸々で身を飾るということよりも、主の目に本当に美しい飾りというのは、柔和で穏やかな心を持って良い行いで自分を飾ること。これが主の御前において何よりも美しい飾りなんです。
ですから本当に神様の御前における真の美しさ、それは外見でもない、お化粧でもなく、またあるいは高価な立場でもありません。本当にこの主からお呼びがかかったらすぐにお答えする。「主よ、はい、ここにおります。主よ、おっしゃる通りにいたします」というその心、それが聖書的な美しさです。
エステルにはそれがありました。エステルは一度も王様に「私それしたくありません」とかそういったこと言いませんでした。エステルの口癖は「王様、もしあなたのお心にかなって、そしてあなたが良しと思うのでしたら」という言葉で、エステルはいつも始めたんです。
本当に私たちもイエス様の御前において、「イエス様、もしあなたの御心でしたら、イエス様、あなたが主人です。あなたの御心がなりますように」。それがエステルの美しさ、真の美しさ、このワシティにはない美しさ。それはこの柔和で穏やかな心、従順な心。これは本当にエステルの美しさです。私たちは本当にこのエステルの美しさを身につけるべきです。
聖書は教会のことをキリストの花嫁というふうに呼んでますね。エペソ書でもそういうふうに言ってます。黙示録においても、私たちは花嫁だっていうふうに言っております。私たち、キリストの花嫁であるとするならば、本当に主がお呼びになる時はすぐに御前に従順な心を持って進み出るべきです。
このワシティは本当にこの高慢が先立って身を滅ぼしてしまいました。エステルはこの従順な心ゆえに王様から愛されました。私たちは真の王であるイエス様から、本当にこの従順な心を持って、真の王であるイエス様から愛される、そのたしなみをしっかりと身につけて、本当にイエス様から王冠がかぶせられて、「さあ美しい人よ、さあ出ておいで」、その呼びかけに応じて、イエス様の御前に、本当にこのキリストから与えられた飾り、柔和な飾りを身につけて進み出て、そして本当にイエス様から愛される皆さんでありますように。
【結論】
私たちキリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応答する従順な心を持つべきである。真の美しさとは外見や立場ではなく、柔和で穏やかな心、そして良い行いという飾りである。エステルのように「主よ、もしあなたの御心でしたら」という謙遜な姿勢を保ち、高慢を捨て、主に従順に従う者となることで、主から愛され、王冠を与えられる祝福に与ることができる。
エステル記1章1-12節 説教
メッセージ音声
【概要】
エステル記1章1-12節から、クセルクセス王の豪華な宴会とワシティ王妃の拒絶の物語を通して、神の御言葉の境界線内で生きる真の自由について学びます。人間の栄光ではなく神の栄光を求め、「思いのまま」という誘惑に陥らず、真の王イエス・キリストに従順に歩むことの大切さを説いています。
【聖書箇所】
エステル1:1-12
【戒めの言葉】
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御言葉の境界線を越えた「思いのまま」の自由は滅びに先立つ
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主を試みてはならない。小さな一線越えが大きな堕落につながる
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神抜きで人間の栄光を誇示する生き方は、最後には王の怒りを買う
【勧めの言葉】
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御言葉の秩序の中にとどまることで、真の自由と幸いを得られる
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ワシティではなくエステルのような従順さを求めよう
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礼拝の姿勢、言葉、時間の使い方において御言葉の境界線を保とう
【悔い改めの促しの言葉】
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自分の心の中の「思いのまま」を点検し、一線を越えていないか吟味せよ
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もし自分の中にワシティに似た面があるなら、それを認めて悔い改めて捨てよ
【***詳細***】
今日、恵みをいただく御言葉はエステル記の1章1節から12節です。
エステル記1章1-12節では、はじめに1節から4節を宣言します。
「クセルクセスの時代、クセルクセスがインドからクシュまで127州を治めていた時のことである。クセルクセス王がスサの城で王座についていた頃、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、180日に及んだ。」(エステル1:1-4)アーメン。
今朝も我らは御前に進み出ました。どうか我らにお語りください。御言葉をもって我らを生かし、御言葉によって清め、御言葉の道、その真実の道に歩ませてくださいますように。そうして私たちがこの邪悪な世の中においてイエス・キリストの光を輝かせることができますように助けてください。
ハレルヤ!素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。エステル記の公開説教、エステル記に入りました。前回はこのエステル記という書の全体を眺めました。不思議な書でしたね。この神様の名前、主の御名が一切出てこないけれども、確かにこのページの行間、行間に、一文字一文字の間に神様が働いておられるのを見ました。隠れた私たちの王の御手が私たちを守っているんですね。それがエステル記を通してわかるんですけども、今日は早速その本文の中に一歩ずつ入っていきたいと思います。
この物語の始まり、今日は1章1節から12節までなんですけども、ここにおいてはまだエステルは登場しません。モルデカイとか、また悪いハマンもまだ姿を見せないんですけども、けれどもこの最初の場面、ここにおいて、これから始まる壮大なドラマの伏線が全部仕込まれているんですね。物語には伏線というものが仕込まれているものですけれども、今日の箇所において、この幕開け、現代私たちはどのようにして生きるべきか、その私たちに対して何を語りかけているのか、それが今日の箇所から見ていけるんですけども、まず、この物語はクセルクセス王、新改訳第三版でアハシュエロス王、その治世から始まるんですね。
彼はこのインドからエチオピアまで127州を治める巨大な帝国の王様でした。そしてその首都がスサというところです。スサ、王様はこの治世の第3年に王宮で大規模な宴会を開くんですけども、それがなんとも桁違いな常識外れな宴会なんですね。なんと180日にも及びました。ですからおよそ半年ぐらいですね、ずっと王様はこの王の栄光とまた富を示すためにずっと、この諸国の高官たちに見せ続けてきたんですね。王の栄光、王はこんなにも富んでいるよ、こんなにも気前がいいんだよっていうのをずっと見せ続けました。
そしてその後、それが終わった後に、この首都に住むすべてのものを集めて7日間の宴会を開きました。この王宮の庭には白と紫の幕が飾られていて、大理石の柱とか銀の長椅子、金の杯、それも全部趣向が違っていて、どれもこれも素晴らしいものだったんですね。この王様の豊かな栄光、またその勢力の輝きというふうに4節を見ますとわかるんですけども、でもこれ結局神の栄光ではなくて人間の栄光なんですね。神様抜きで人のこのきらびやかさが輝くと、それは永遠のきらびやかさではないものなんですね。
私たちが今生きているこの世界も同じです。一見きらびやかに見えるところがありますね。このスマホを開くと、多くの人々がSNS上できらびやかな自分を見せておりますね。こんなにも美味しいものを食べている、こんなにもゴージャスなところに行っている、それを自慢している様がたくさんあります。でもキラキラ輝いているその有様のその大半は、神様抜きで人間が作り上げている栄光ですね。問題は、それが輝いて見えれば見えるほど、その背後に隠されている薄暗いところが実はあるものですね。エステル記は、そのきらびやかな幕の裏側を、これから容赦なく見せつけていくことになります。
特にこの8節の方を見てみたいんですけども、8節にこう書いてあります。
「しかし、飲酒は強要しないことという法に従っていた。誰でもそれぞれ自分の思いのままにさせるようにと王が宮廷のすべての長に命じていたからである。」(エステル1:8)
王様はそれぞれ自分の思いのままにさせるよっていうふうに言ってたんですね。強要しない。一昔前はお酒の席に先輩が、上司が注ぐ酒は必ず飲まなければならないという空気がありましたけども、最近は強要しないという空気になってきました。
王様、それぞれ自分の思いのままにさせるというふうに、王様がすべての長に命じていたと8節に書いてありますね。一見、優しい王様の心配りに聞こえますね。これが王様の気前の良さ、また寛大さを表しておりました。けれどもここに落とし穴が潜んでおります。望む通りにしなさい、思いのままにしなさいっていうふうに言われた時、人間はどういうふうに振る舞うか。神様を知らない人間、好きなようにしていいよというふうに、御言葉を知らない神様を知らない人間に言うとどういうふうにすることが目に見えているか。
お酒、好きにしていいよと言われた時に、あ、じゃあ節度を持って適度に飲みますって言って、節度を持って適度に飲むのが人間でしょうか。食べ物、節度を持って健康にいいように食べるでしょうか、太らないように食べているでしょうか。互いに節度を持って節度を持った口調で、また言葉遣いでお話をしたり振る舞ったりしているでしょうか。まあ、ほとんどの場合、そうではないですね。良い方向には進みません。だから街中見ると、成人病を患っている人がたくさんおりますね。限度を超えて、下品なおしゃべりがまかり通ったりして節度を超えて振る舞っているわけです。
ですから、この御言葉の秩序を構築しないままで、いいよ、好きなふうにやっていいよ、自由だからっていうふうにそういう空気を作ってしまうと、いつの間にか何をしてもいいんだっていうそういう空気に変わっていってしまいます。思いのままを許すこの空気の中において、この王様自身もこのお酒に身を委ねて節度を越えていってしまいます。そしてその流れがこの王妃ワシティにも移って、王妃にも移り、宮殿の中に移り、女たちの中に移りということがつながっていきます。
この現代社会もまさにこの思いのままが美徳とされていて、そしてそれがまかり通っていくような時代ですね。思いのままに振る舞っていいんだ。自分らしく、したいことをすればいい、誰にも強制されない。それ自体は何か一見するといいような言葉に聞こえるんですけども、けれども、神様を中心に見据えない思いのまま振る舞っていいっていうところは、必ずどこかしら暴走をしていってしまうものですね。自分は男、女、どっちでもいいんだ。今日は男、明日は気分が乗ってるから女みたいな、そういう自由にしていい、したいことをすればいいということがはびこった結果、どういうふうになるか。本当にこの社会が混乱してしまい、また子どももどういうふうに自分が自分のアイデンティティを確立すればいいのかわからなくなってしまっております。
この誰にも強制されない、自分らしく、これは美しく聞こえる言葉ですけれども、けれども、結局、自由であること、自由であることの幸いというものは、この秩序の中にとどまってこそ、真にこの自由の幸いが輝くわけですね。神様の御心のまま、神様のこの節度の中、御言葉のこの囲いの中にいてこそ、本物の幸い、幸せ、自由はあるんですけども、この神様の御言葉の囲いを超えたところにおける自由気まま、これが滅びに先立ってしまうものになってしまいます。
もう一度言いますと、神様の御言葉の囲いからはみ出た自由、これは自分の身に滅びを招いてしまうものです。
このアハシュエロス王、クセルクセス王の宴会180日、それプラス7日ずっと続いておりました。そのアハシュエロス王の宴会の目的は結局4節に書いてあるんですけども、王様自身のこの栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示すこと、これは人々に示すことでした。見せること、これが目的だということが4節見ると分かります。私はこんなに偉いんだ、私はこんなに気前がいいんだ、こんなに偉いんだって、こんなに金持ちなんだ、それを誇示するための宴会だったんですね。
それで王様はこの心が酔った時にふと思いつきます。そうだ、いろいろと富を見せてきた。じゃあ今度は自分の妻、王妃ワシティがどんなに美しいか見せよう。で、王妃ワシティを呼んでこさせようということで呼んでくるんですけども、けれどもここはクライマックスなんですね。自分の富を見せ、宮殿の豪華さを見せつけて、それでもまだ足りなかった。本当にSNSで自分を見せる時、美しく、なんか美しい自撮りができるような、そういうアプリもありますね。それは自由に加工もできます。なんかこういう風に横が大きいの太いのを縦長にすることもできますし、また何かお化粧しているかのようにも見せることもできますね。
このように自分を美しく見せることのたどり着く先は、実は醜くなってしまうんですね。高ぶりは滅びに先立ちます。心の高慢は倒れに先立つ、箴言に書いてありますね。悪魔サタンはなんで、もともと天使だったのが、サタンに堕落してしまったか。これ、自分の美しさ、これを誇示して神よりも上に立とうとしたからですね。結局、自分の美しさ、自分の素晴らしさ、これを誇示する先には滅びが待っているんです。この王の気前の良さ、それは神様抜きであるとするならば、結局、自分自身を本当に嫌な思いをさせてしまうものになってしまいます。
12節の方を見ますと、この王妃ワシティを呼んだんですけども、けれど、どういう風になったか。
「王妃ワシティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。王は激しく怒り、その憤りは彼の内で燃え立った。」(エステル1:12)
ワシティは王の呼び出しに対して「ノー」をつけました。これわざわざ王様からの7人の宦官、名前が記されている7人の宦官を通して王妃は呼び出されたにもかかわらず、王妃は自分の宴会をこの女たちの間で開いていて、そしてこの7人の宦官の呼び出し、王様からの呼び出しを「いいえ、行きません」ってそれを突きつけたんですね。
聖書がここで示している事実がはっきりしています。大切な原則が隠れています。結局、自分の好き勝手に振る舞って、高ぶって、王の命令さえも拒むものであるならば、最後には王の怒りを買ってしまうということです。私たちが真の王であるイエス様、御言葉、この限度を超えて振る舞うのであるならば、結局最後は、主の怒りを買ってしまうことになってしまいます。
本当に現代の私たちも本当にありがちな話です。ワシティはこの時いきなり「いいえ」を突きつけたのかどうか。おそらく違うはずですね。この拒む、「ノー」を突きつけるという行動の前に、もっと小さな積み重ねがあったんですね。王妃ワシティはこの何をしてもいいよっていう180日がなければ、その前だったらおそらくこういうことはしなかったはずですけども、けれども好きにしていいよという180日の後に、これがあったんですね。
本当に人間、私たち全員含めてです。何をしてもいいよ、好きに振る舞っていいよ、御言葉の範囲、範疇外で自分の思いのままでは、本当にこの王妃ワシティの罠に陥ってしまうことがあります。
聖書に試みるという言葉があるんですけども、「あなたの神である主を試みてはならない」悪魔サタンに対してイエス様が言った言葉です。試みというものは、ここまでいいよという限度、リミットがある。そのリミットを少しずつ超えて、このリミット、白黒はっきりしているリミットですけど、しかし試みというのはグレーゾーンに足を踏み入れて、それで、ここで大丈夫だったらさらにもう一歩踏み越えて、それでもなお何か許されそうな感じであるならばさらに大きな一歩を踏み越えて、そういうふうにちょっとずつちょっとずつほんの小さな線を越えていく。
最初は誰にも叱られない。叱られないということを子どもが経験すると「あ、ここは大丈夫なんだ」って言ってもう少し一歩踏み込んでくる。それでこれも大丈夫、大人は怒らないでいるとするならば、子供はどんどん大胆に大きく踏み外していってしまうようになってしまうんですね。最初だったら絶対に超えなかった線を平気で超えていってしまうようになってしまう。これは試み。子供が親を試みることを積み重ねた結果でしたね。
このワシティもおそらくその積み重ねの結果だったんじゃないかと思うんですね。少しずつ主人である王を軽んじる心が芽生えた。女たちの宴会を開いていた女たちの間で、王様ってさあ、ちょっとあれあれだよねって、そういうふうに盛り上がっていて、その女たちの宴会の世界の中でどんどん蔑む心、傲慢な心、それがどんどん芽生えていく。で、そして境界線がずらされていって、そしてその積み重ねがあの決定的な踏み外しになってしまったんです。
イエス様は荒野で悪魔から試みられた時、はっきりこう言われました。「あなたの神である主を試みてはならない」とも書いてある。アーメン。
私たちは王の王である主に対して、ここまではいいかなっていうのを繰り返してはならないですね。許されてきたじゃないか、だから自分は大丈夫なんだって、そういうふうにしていってしまうと、どんどんこの歯止しがつかなくなってしまいます。御言葉がやめなさいと告げていること、これぐらいだったらと思って、少しずつ超えていく。言葉の秩序がどんどん乱れていく。お金の使い方が乱れていく。携帯、スマホの使い方がどんどん乱れていく。そして礼拝の順守、それが乱されていく。
本当にこの試みが好きな子供、あるいは人というものが確かにおります。ここまではこうやっていいよ。そういう人はチャレンジングな言葉、チャレンジングな態度をするんですね。そのような人は本当に滅びに先立ちやすいものです。
本当に私たち、特に実際教育をしております。本当にこの御言葉の秩序、これをしっかりと保たなくてはなりません。今、私たちは神様から与えられている自由裁量があります。それを皆さんはどのように使っているでしょうか。神様、確かに私たちを奴隷としてではなく、自由人として扱ってくださっておりますけれども、その自由をどのように皆さんは使っているでしょうか。この自由は神様抜きで好き勝手していいという自由ではありません。しっかりとこの御言葉の境界線の内側で生きる本物の自由、それがあるんですね。これをしっかりと実際に伝えていかなくてはなりませんね。
本当の自由の喜び、これはこの御言葉の境界線の内側、イエス様のその守りの御翼の陰においてこそ、本当の守りと自由があるのであって、それを乗り越えた自由というものは、それは滅びが待っている自由になってしまいます。
私たちは今、主を試みてはいないでしょうか。この主を、主の権威を試みてはいないでしょうか。礼拝の姿勢や、また自分自身の口から出る言葉、あるいは自分のスマホで見るもの、時間、神様との時間、それをしっかりと皆さんは境界線を持って保っているでしょうか。強制されていないからっていうのを理由にして、少しずつ乗り越えていないか、点検したいと思います。
この本当にしっかりと御言葉の境界線を保っている人は、このワシティの結末を避けられる人ですね。ワシティはこの一件によって王妃という地位を失ってしまいました。聖書はこの空いた王妃の座に全く違うタイプの女性を、王妃に据えるということが読み進めていくとわかるんですね。エステルです。
エステル記の物語で、本当にこのまずワシティのこの拒否する、本当に試みに試みて、そして一線を越えてしまったというところの後ろ暗さから始まりました。だから、その後に来るエステルという王妃のこの従順という性質の美しさが際立っていくんですね。2章以降、本当にこのエステルの美しさが際立つのは、このワシティのこの王に対する拒否があったからなんですね。
次回以降、13節から進んでいくんですけども、本当にこの今日、まず私たちは自分の心の中の思いのまま、小さなこの一歩一線を越えてしまうという、これをしっかり点検しましょう。そして本当にこの神様の栄光ではなく、自分の栄光、これをあのサタンやこのワシティの道に倣うことなく、本当にそれはしっかりと十字架の前に置いて、そしてエステルのごとく、真の王の前に対して従順という美しさを、それを輝かせる皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
エステル記1章は、神の名が一度も登場しないにもかかわらず、神の御手が確かに働いている書の幕開けです。クセルクセス王の180日に及ぶ豪華な宴会と、「思いのまま」という自由の中で、ワシティ王妃は王の命令を拒否し、その地位を失いました。
この箇所から私たちが学ぶべき大切な真理は、神の御言葉の境界線の内側でこそ真の自由と幸いがあるということです。「思いのまま」「自分らしく」という現代社会の価値観は美しく聞こえますが、神様抜きの自由は必ず暴走し、滅びに先立ちます。
私たちは主を試みることなく、小さな一線越えを積み重ねることなく、御言葉の秩序の中で生きるべきです。ワシティの高慢と拒否ではなく、次章に登場するエステルの従順と美しさを目指しましょう。神様から与えられた自由裁量を、御言葉の囲いの中で正しく用い、真の王イエス・キリストに従順に歩む者となりましょう。
エステル記概要 - エステル記から学ぶ神の摂理
メッセージ音声
【概要】
エステル記は神の御名が一度も登場しない不思議な書でありながら、異教の地ペルシア帝国で生きるユダヤ人を通して神の確かな働きを示す物語である。紀元前480年頃、民族存亡の危機からの救いを描き、日常の「たまたま」の中に働く神の精密な御手を示している。
【聖書箇所】
エステル4:14、エステル1-10章(全体)、サムエル記(聞き従うことに関する箇所)
【励ましの言葉】
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神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられないストーリーの中で、礼拝も自由にできないそういうところにおいても、神様は確かにおられ、働いておられる
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私たちの日常生活の中で、突然の奇跡や声が聞こえなくても、ごく普通の出来事、日常の中において神様は臨在しておられる
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神様は見えなくても確かに働いておられる
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あなたが今いる場所には、確かに神様の意味がある
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「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」(エステル4章)
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人生を振り返れば、神様の歯車がカチッと合っていたことがわかる時が来る
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イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です
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イエス様の名前で祈ったことを、主が実行してくださると約束されています
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主は敵の前で宴を設けてくださる方です
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長年報いが受けられていなかったかもしれないが、天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来る
【戒めの言葉】
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残してはならない悪がある
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自分の中のハマンの性質(弱い者いじめ)を根っこごと引き抜く必要がある
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中途半端な従順は、後に大きな災いの根を残す
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「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪」(サムエル記より)
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悪の芽は小さいうちに摘み取ること
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悪を憎め
【勧めの言葉】
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この時代のエステル、モルデカイとして歩むこと
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それぞれの場所で誠実に働きをなすこと
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神の民として覚悟を持って立つこと
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子どもたちに惜しまずにキリストを届ける者でありましょう
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この時代において選ばれた栄光の次世代を担う者として立ちましょう
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へりくだって主の御心を行使する者となりましょう
【***詳細***】
前回までネヘミア記を公開説教のような形で一章ずつやってきました。今日は、公開説教の後、詩編をやりたかったんですね。詩編の101編でずっと止まって、もうここ数年ぐらい公開説教が滞っていたので、続きをやろうかなと思っていたところ、そこに甲斐先生が突然「あなた今何してるの」って。それで「まあ今公開説教、今度詩編にしようと思ってるんだけど」って言ったら、なんか「エステル記」っていう声が隣の部屋から聞こえてきて、まあ、神学生宣教師がそういうリクエストしたんですけど、「うん」って思って。まあ確かにネヘミア記の次はエステル記だけどもなんて。
で、甲斐先生に言ったら、なんか突然その順番を乱すようなことするんじゃないみたいなこと言われて。それでまあ確かにネヘミア記の次はエステル記だし、まあリクエストもあったから、まあこれが導きだろうと思いまして。ということで、エステル記を今度はまた公開説教をしていきたいと思います。
今日はエステル記の概要的なところを見ていきたいと思うんですけども、まあ、エステル記を一言で表す箇所といえばどこだろうな、と思ったところ、この4章14節ですね。エステル記の4章14節をちょっと宣言したいと思います。
エステル4:14「もしあなたがこのような時に沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたもあなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」
アーメン。一言お祈りします。父なる愛する主よ、エステル記から恵みをいただきたいと思います。あなたが確かにこの箇所へと導かれました。主よ、本当に折にかなった言葉があなたからいただきますことを期待し、感謝いたします。どうか取り次ぐしもべの唇、また聞く一人一人の耳を清め、通りよくしてください。あなたの御旨、それを豊かに悟ることができますように助けてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。主の御名を褒めたたえ賛美いたします。このエステル記なんですけども、非常に不思議な書でして、この他の書物とは決定的に違うところがあるんですけど、それはですね、何が不思議かというと、実はね、「神」という言葉、「主」という言葉が一言も出てこないんですね。この初めから終わりまで一切出てきません。ヘブライ語でのユダヤ、ヤーウェ、主の御名が出てきませんし、またエローヒムも登場しないんですね。「神がこう仰せられた」とか、「主が現れた」、「神様が答えた」、はっきり書かれてありません。
けれども、それにもかかわらず、このエステル記を読み終わった時には、確かに神が生きて働かれたのだということを、それは確信できる書でもあるんです。このエステル記から、これから一緒に恵みを受けていきたいんですけども、まずね、このエステル記の物語はいつどういう時代であるのかを押さえておきたいんですけども、この時代としてはおよそ紀元前480年頃で、場所は紀元前480年当時の世界の一番の大国である、ペルシア帝国においての物語です。
で、その時の王様の名前は、まあ、アハシュエロス王、まあ、新改訳第三版の方でアハシュエロス王、けれども、歴史上では、クセルクセス王という名前です。新改訳2017ではクセルクセスというふうに記されております。で、その領土はインドからエチオピアまで127の州に及んでいた。それほどの超大国の、その王宮の真っ只中においての物語になるんですけども。
で、エステルが王妃になったのは、およそ紀元前479年頃と言われてます。で、ネヘミアの時代とはまあどうなのか。まあ若干かぶってないんですね。ネヘミアがエルサレムに来たのは、だいたい紀元前445年ですので、エステルの時代はネヘミアよりも一世代前の方なんですね。ですから若干遡る時系列です。
ここで思い出したいのは、ユダヤ人はなんでこのエルサレムから遠く離れていたところにいたのか。これですね。まあ、留学していたわけでもないし、観光していたわけでもないし、バビロン捕囚ですね。この国、エルサレムが滅ぼされて、遠く異国の地に強制的にもう縛られて連れて行かれて、それで行ったその子孫たちがこのエルサレムから遠く離れたペルシアの方に行ったんですね。その子孫たちが、バビロンからペルシアの時代になった。そして故郷に帰ってもいいという許可もおりました。
けれども、このエステル記の時代、まだ城壁が再建されない、その92年の間のストーリーなんですね。ネヘミアとかエズラに率いられて、一部の人々はその時エルサレムに帰りはしたんですけども、けれども、帰れなかった人たちが大勢いたわけです。このエステルとかモルデカイ、まさにその帰れなかった側の人々なんですね。
ここで留めておいていただきたいのは、このエステル記は神殿があるこのイスラエル、エルサレム、神の都の中の物語ではありません。むしろそこから遠く離れざるを得なかった、異教の帝国のど真ん中で生きる人々の物語なんです。神様の気配が感じられない場所、神様という名前が全然感じられない、ストーリーの中で礼拝も自由にできない。そういうところにおいての物語。果たして神様はそこにおられるのか。エステル記は「果たして神様はそこにおられるのか」という問いに対して、「おられる、確かに神様は働いておられる」というストーリーなんですね。このエステル記は。
で、エステル記はですね、もう一つ面白いエピソードは、聖書として選ばれるまで非常に揺れた一冊でもあったということですね。まあ、その理由は、この神様の御名が一つも出てこない。エローヒムも出てこない、ヤーウェも出てこない、一度も出てこない。果たしてこれ、聖書と呼べるんだろうかって昔の人々も悩んだんですね。
また、興味深いことに、あの死海のほとりで、死海写本がたくさん見つかったんですけども、で、旧約聖書39巻のうち、ただ一冊だけ、このエステル記だけが死海写本の中に一つも出てこなかったですね。で、後の時代、あの宗教改革者のマルティン・ルターもですね、このエステル記、一体どういうふうに扱うべきか、果たして本当に聖書と呼べるんだろうかって悩んだ。そういう人もまたいたんですけども、けれども、エステル記はしっかりと聖書のうちの一冊として受け止められたんですね。
それは、ユダヤ人がプリム祭というものを行っているんですね。プリム祭というのは、このエステル記に起源がある祭りです。プリム祭、民族が皆殺しの危険にあった、そこから救われた、それを祝う祭りですね。そして本当にこの神様が確かに働かれて、この民族の危機を救ってくださった、民族の危機、そこから救ってくださった。ですから、ユダヤ人としてはもう民族の記憶そのものだったんです。
で、もう一つ、さらに深い理由。それは神様の御名が書かれていないということ自体が、神様に関する重要なメッセージだということを、それを私たちに訴えてるんだということですね。私たち、今このつくばみらいという場所において信仰生活をしてるんですけども、何か奇跡が突然、空から降ってくるわけでもありませんね。神様の声が聞こえてきたわけではないですね。なんで私たちがここにいるのかって。ここを歩いていたら、阿部先生夫婦に、阿部夫婦、「この土地が主の御心の地だ」って声が聞こえたわけではなかったですね。ごく普通の出来事、日常の中において神様が臨在をして、確かにここが神様の御心の場所だって、そういうふうに確信した。
エステル記は、聖書の中でも非常にユニークな書物です。この書物の最大の特徴は、神様の名前が一度も登場しないということです。しかし、神様の名前が出てこないからといって、神様が働いておられないわけではありません。むしろエステル記は、見えない神様が確かに生きて働かれるということを、私たちに力強く示しているのです。
私たちの日常もエステル記に似ています。神様の声が聞こえるわけでもない。何か、すごい奇跡が起こるわけでもない。そんな日常の淡々とした日々の最中に、神様が確かに生きて働かれるということを、まさにこのエステル記は示しているのです。
エステル記を読み進めていくと、「たまたま」という言葉が何度も出てきます。たまたま、王妃がエステルになった。そしてたまたまユダヤ人の危機が起こった。ユダヤ人たちが断食して神様に祈った。たまたま王様が眠れなかった。たまたま王様が持ってこさせた書物が、このユダヤ人の危機を回復させる手がかりになった。たまたまエステルが王妃になっていて、そして王様に訴えることができた。
王妃エステルは命がけで断食した上で、王様の御前に進み出たところ、王様の快諾を得た。そうした「たまたま」の積み重ねの上に、確かに見えない神様の御手が働いておられたのだということを、このエステル記は訴えているのです。
この聖書66巻が皆さんの手元にあるのは、人間が選んだということではありません。神様が選んで、そしてこの聖書66巻がこうしてあるのです。そして2000年ずっと、この皆さんの手元にある聖書が聖典として皆さんの手元にあるわけです。今、神様は見えません。しかし、見えない神様は、確かに今この時、精密に緻密に働いておられる。エステル記そのものがそれを証明しているわけです。
このエステル記を起承転結的に四つに分類して見てみましょう。
まず「起」、これは1章から3章です。民族危機の種が蒔かれるところから始まります。華やかな宴会の場所から物語が始まります。王妃ワシティが王様の呼びかけに対してそれを無視するのです。そしてそれが原因になってワシティは王妃から退けられて、たまたまこのバビロン捕囚民のエステルが王妃として選ばれるのです。
その一方でハマンが力をつけてきます。悪役です。このハマンに対してユダヤ人モルデカイ、このエステルの叔父にあたるモルデカイがハマンに対して跪かない。ただそれだけの理由で、この民族全体を滅ぼしてしまおうという殺意に変わるのです。
次に「承」の部分、それは4章から5章のところです。この大きな危機の中においてモルデカイがエステルに直訴するのです。王様に直接訴えられるのはあなただけだ、と。けれどもエステルはそれを躊躇します。お呼びがかかっていない時に王様のところに行くことは、死刑になる確率が非常に高いからです。
しかしそこにおいて、聖書の中においても本当に屈指の名言が語られます。「あなたがこの国に来たのは、このような時のためだったのかもしれない」。エステルは覚悟を決めます。「もし私が死ななければならないのでしたら死にます」と言って、3日の断食の後に御前に命がけで進み出ます。
そして「転」、6章から7章です。すべてがひっくり返すのです。まさに「転」、物語が本当にクライマックスを迎えるのは、王様がたまたま眠れなくなったところです。そのたまたま眠れなくなった夜、退屈しのぎに記録の書を持ってこさせて朗読させたところ、モルデカイの話が出てきました。モルデカイに対して功績があるのに、彼に対して十分な報いが与えられていなかったのです。
皆さんも長年報いが受けられていなかったかもしれません。それを天の真の王様が紐解いて、大きな報いをくださる時が来るでしょう。モルデカイに対しては、ある時、報いが与えられて、その報いがたまたまその夜だったからこそ、ユダヤ人滅亡の危機が回避されたわけです。すべての神様の歯車がカチッと合う時が来て、しかもこのユダヤ人、神の民に対して滅亡を企んだハマンが逆に首をかけられて、自分が立てた25mほどのポールにハマン自身がかけられて、墓穴に自分で落ちたのです。
そして「結」、8章以降です。この嘆きが喜びに変わります。このハマンが下した死の法令が、ペルシアの法令においては取り消せないところがありますが、しかしそこでモルデカイがその死の法令に勝る命の法令を発布するのです。身を守って良いという法令を新たに発布して、こうして滅亡の日は逆に勝利と解放の日に取って代わりました。嘆きの日が喜びの日に変わる。これがエステル記の見事な起承転結なのです。
この古い物語は、今、私たちに新しく命を吹き込んで、三つのことを力強く語りかけています。
まず第一に、神様は見えなくても確かに働いておられるのだということです。私たちの毎日もエステル記に似ております。神様の声を直接かけてくれるわけでもありません。奇跡が起こるわけでもない。仕事があり、家事があり、毎日食事作りがあり、毎日学校の仕込みがあり、淡々と地味な日々が続いていくように見えます。
しかし神様は確かに私たちの中に働いておられます。「たまたま」の連続の中において、私たちにとって必要な物事が起こされていきます。たまたまあのことが起きた。たまたまこの子が来た。たまたまこの授業でこれが必要になってきた。そうした連続の中に、神様は確かに働いておられるということ、これが第一です。
第二は、皆さんが今いるこの場所、それは確かに意味があるのだということです。モルデカイは、「あなたが今、王妃になっているのは、私たちが今ここにいるのは、まさにこの時のためかもしれない」と言いました。今、皆さんがつくばみらいにいるのは、まさにこの時のために神様が置いたのです。
エステルが王妃の座についたのは、このエステルの野心があったからではありません。「ぜひ私が王様のハートを射抜いてやろう」といったことは一切なしでした。まさにこのような時のためだったのです。皆さんが今いる場所、家庭、職場、学校、もろもろの場所、そこにいるのは偶然ではないのです。
一見つまらなく見える、なんで自分がこの役職なんだって戸惑うような場面であったとしても、神様は今まさにこのような時のためにここに置いておられるのだということです。それが二番目です。
三番目。それは皆さん、エステル記を通して皆さんが学ぶべきは、残してはならない悪があるということです。悪を憎め、神様は聖書において書いてあります。
このハマン、実はこのエステル記の時代よりもはるかずっと昔、サウル王の時代、サムエルが、滅ぼし尽くしなさいと言われているアマレク人のその子孫だと言われているのです。サウルが「ちょっとぐらいいいや」って、もったいないから滅ぼし尽くさなかった。ちょっと中途半端に従ったゆえに、この災いの根っこがもうずっと残って、何百年も後にこうしてハマンという悪の実が結んだわけです。
本当にサムエルが言ったこと、それは「聞き従うことは羊の脂肪に勝る。背くことは占いの罪だ」という言葉が重要になってきます。私たちは本当にこの自分の中の悪、皆さん自身の中のハマンの性質、皆さんを悪どい方向に持っていく、そういったもろもろはもう根っこごと引っこ抜いて、そして残してはならないのです。
このアマレクの性質、これを一言で言えば弱い者いじめです。アマレク、この出エジプトをしていたイスラエルの民、後ろから、弱い者を、落伍した者たちを略奪して、そういう性質です。これはサタンの性質そのものです。
私たちの心の中にも、放置しておけば、この民族を滅ぼしかねないような、そういう悪の根っこ、これ小さい根っことしても残しておいてはならないのです。芽は摘み取っておかなくてはなりません。
このエステル記、神様の名前は一度も出てこないのですけども、でも皆さんにも隠れた王がおられます。イエス様です。このエステル記、神様の名前が出てこないとしても、けれども、この全ページを通して、上から見たら、確かに神様が生きて働かれておられた。神の民を愛しておられた。ということを見ることができます。
私たちの人生も同じです。毎日毎日、1日1日見れば、神様果たしているのかな、神様の御手が見えない時期が続くかもしれません。けれども、人生を上から読み返して見返してみれば、確かに神様が生きて働かれたのだ。このすべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれたんだな、仕込んでおられたんだ、だから今、あの時、あの時期があったんだ、とわかる時が来ます。
神様は今まさに皆さんをこのような時のために、このつくばみらいに、横浜において、あるいはそれぞれの場所、場所においておられます。どうか皆さんはこの神様、見えないかもしれなくても、それでも神様のその御手がちゃんと働いておられるということをはっきりと見て、皆さんも今ここに置かれたエステルとして、あるいはモルデカイとして、このところにおいてしっかりと根ざして、それぞれの働き、誠実になしていきましょう。
どうか皆さんお一人お一人がこの時代のエステルとなり、モルデカイとなり、また本当にこの聖書におけるヒーローとして歩んでいく皆さんでありますように。
さらに、世界を民主主義で、イエス・キリストにある自由民主主義で再編することができますように、あなたがお守りください。トランプ大統領の心が驕り高ぶることがないように。イエス様、あなたがいつも導いてください。そして、へりくだって、主の御心を行使することができますように。
主よ、あなたが祝福してください。イランが何らかの形で、もう本当に今回落ち着いて、そして昔のペルシアに戻ってほしいと思います。なぜならペルシアはイスラエルを助けた実績がある国です。昔の本当に和気あいあいと愛し合った、助け合ったその時代の友情を戻すことができますように。
そしてイランが解放されて、今隠れクリスチャンがどんどん増えているイランが、公においてたくさんの教会が立ち、そしてイエス様を褒め称えることができますように。主よ、あなたが助けてください。
その未来、キリスト教会に、また宣教教会に、栄光の礼拝者、栄光の働き人、栄光の伝道者、栄光のリーダーを送ってください。そして、共に時代を担っていくことができる、イエス様に選ばれた働き人の集まり場所でありますように、主よ祝福してください。
子どもたちに惜しまずにキリストを届ける一人一人でありますように。そして、この時代において選ばれた栄光の次世代がどんどん運ばれてきて、そしてキリストを賛美することができますように。主よ、あなたが祝福してください。
今日一日を主にお祈りいたします。主を敬うべき人と出会わせ、そして良き御言葉に満ちた一日となりますように。私たちがイエス様に会って、良き出会いがありますように。そしてイエス様に会って土地との出会いがありますように。建物との出会いがありますように。主よ、祝福してください。
今、ICUに入っているパク執事のために祈ります。主よ、阿部先生の肺の水を抜いてくださった主よ。私の肺の水を抜いてくださった主よ。彼の肺の水も抜いてください。枯らしてください。呼吸を穏やかにし、イエス・キリストにあって立ち上がりますように。敵の前で宴を設けてくださる主にあって回復しますように。主よ祝福してください。
私の名によって祈るならば、父が聞いてくださる、私が実行すると約束してくださったイエス様のお名前で祈りました。
この時間、祈りの課題をもって主に祈っていきたいと思います。イエス様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。イエス様の名前を呼びます。
【結論】
エステル記は神の名前が一度も登場しない書物ですが、その全編を通して見えない神様の精密な御手が働いていることを示しています。私たちの日常も同じです。「たまたま」の連続のように見える出来事の中に、神様は確かに働いておられます。
私たちが今いる場所は偶然ではなく、「このような時のため」に神様が置かれた場所です。同時に、自分の中の悪(ハマンの性質)を根っこから取り除く必要があります。中途半端な従順は後に大きな災いを生みます。
見えない王イエス・キリストが、私たちの人生の全ページを通して確かに働いておられることを信じ、この時代のエステル、モルデカイとして、それぞれの場所で誠実に歩んでいきましょう。人生を振り返る時、すべての歯車がカチッと合って、神様が確かに働かれていたことがわかる時が来ます。
全てを砕き、全ての助けがある救いの岩キリスト(ダニエル2:26-49) 早天祈祷会 2026年3月20日(Fri)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ダニエル書
- 執筆 :
- pastor 2026-3-20 6:56
全てを砕き、全ての助けがある救いの岩キリスト(ダニエル2:26-49) 早天祈祷会 2026年3月20日(Fri)
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【概要】
ダニエルによるネブカドネザル王の夢の解き明かしを通して、歴史を支配し永遠の国を築かれる神の主権と、永遠の岩であるイエス・キリストに信頼し避け所とすることの重要性を語るメッセージ。
【聖書箇所】
ダニエル2:26-49
ダニエル2:21
ダニエル2:28
ダニエル2:31
マタイ24:6-7
黙示録6:1-8
【慰めの言葉】
【励ましの言葉】
【勧めの言葉】
【***詳細***】
今朝、私たちが恵みをいただく聖書の言葉は、ダニエル書2章26節から49節です。初めに、ダニエル書2章31節の言葉を皆さんと一緒に宣言したいと思います。「王様、あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ、その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。」
私たちの愛する主イエス様は、昨日も今日も、そしていつまでも同じお方です。ダニエルの時代も、また今日も、私たちの永遠の岩なる主として堅く立っておられることを感謝します。この神様に避け所を置く人は、決して揺るがされることがありません。どうか、この揺るがされない平安と安心を、今朝私たちが得ることができますように。
ダニエル書は、旧約聖書における黙示録とも言える書物です。終わりの時代に起こる出来事が秘められており、それが解き明かされています。ダニエル書には、ダニエルの時代から後に起こる世界の歴史が非常に正確に記されています。実際に、神様がダニエルを通して語られた預言の言葉の通りに、私たちが学校で学ぶ世界史が動いていきました。あまりにも正確に歴史が予言されているため、「ダニエル書は歴史の出来事が起こった後、紀元後200年頃に書かれたのではないか」と疑う人たちが出るほどです。しかし、それはあり得ません。なぜなら、バビロン捕囚の時代に記されたダニエル書の預言に基づき、トーラーやタルムードといった文献が後代に記されていっているからです。神様は確かに歴史の中で働いておられ、今を生きている皆さん一人ひとりの中にも働いておられます。
2026年3月19日の学びの箇所では、ダニエルがネブカドネザル王の前に連れて行かれる場面を見ました。ユダの捕囚の民の中から、「王様の夢の解き明かしができる男を見つけました」と報告されたのです。王様は、自分の見た夢のことで心がひどくかき立てられ、夜も眠れず、眠りを奪われるほどに思い悩んでいました。王様はバビロンの知恵者たちに夢の解き明かしを求めましたが、彼らは誰一人として何の役にも立ちませんでした。彼らが王様の周りで取り繕い、高い地位を得て甘い汁を吸おうとしているだけの人々であることがすっかり露呈してしまったため、王様は「バビロンの知恵者を皆、殺してしまえ」という厳しい命令を下しました。
しかし、ダニエルの知恵と思慮によってその処刑は一時的に止められました。ダニエルが友人たちと共に神様に祈り求めたところ、王様が見た夢の内容とその解き明かしが神様から与えられたのです。普通、他人が見た夢の内容など誰にも分かりません。けれども、すべての人の心を探り知っておられる神様が、その夢をダニエルに教えてくださったのです。それはダニエルたちが祈り求めたからです。皆さんも、自分では解決できない問題や課題に直面した時は、神様に祈り求めるべきです。そしてその結果、解決が与えられた暁には、ダニエルが真っ先に神様をほめたたえたように、私たちも真っ先に神様を賛美すべきです。
こうしてダニエルは王様の前に立ちました。王様はダニエルを問い詰めます。「あなたは、私が見た夢とその解き明かしを示すことができるのか。」ダニエルはまだ若者でしたから、とても緊張して震え上がるような場面だったかもしれません。しかし、ダニエルは堂々としていました。彼には神の霊が宿り、主の御手が豊かに置かれており、神様から解き明かしを与えられたという確信と、豊かに蓄えられた神様の言葉があったからです。
ダニエルは王様にこう答えます。「王様が求められる秘密は、この世のどんな知恵者にも解き明かすことはできません。しかし、天には秘密をあらわす一人の神がおられます。」そして、ダニエル2:28にあるように、「その神が、終わりの日に起こることをネブカドネザル王に示されたのです」と告げました。
ネブカドネザル王は、これまで知恵者たちの言い訳や、「神」という言葉を聞き飽きていたため、最初は膝を組んで冷ややかに聞いていたかもしれません。しかし、ダニエルが「王様、あなたが寝床で、この後何が起こるのかと思いを巡らしておられた時…」と語り出すと、王様はハッとしました。「確かに私は思いを巡らしていた。それをなぜこの若者が知っているのか」と驚いたことでしょう。
そしてダニエルは、ダニエル2:31の言葉を語ります。「王様、あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ、その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。」王様は目を見開いて震え上がったはずです。「本当にそうだ。私が見たその像は巨大で恐ろしく、私は怯えていたのだ。誰にも言っていないことを、この若者は言い当てたぞ」と。
ダニエルはさらに詳細に夢の内容を語り続けます。その像の頭は純金、胸と両腕は銀、腹と桃は青銅、すねは鉄、そして足の一部は鉄、一部は粘土でできていました。王様はダニエルの口から出てくる言葉の一つ一つに震えおののいたことでしょう。王様自身が思い出すことすら恐ろしかった、あるいは誰にも打ち明けられなかったその像について、ダニエルは正確に描写していったのです。
さらに驚くべきことに、ダニエルはこう続けます。「あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土が混じり合った足を打ちました。すると大きな音がして、足もすねも桃も胸も頭も全部が粉々に砕け散り、夏の脱穀場のもみ殻のように風に吹き払われて、跡形もなくなってしまいました。そして、その像を打った石は大きな山となって、全土に満ちました。これが夢の内容です。」
これを聞いて、王様は立ち上がり、目を見開いて震えていたことでしょう。自分の心の中にしかなかった恐れと不安を、この若者が完璧に言い当てたのです。しかし、ダニエルの言葉はこれで終わりではありませんでした。「これから、その解き明かしをいたしましょう」とダニエルは言いました。
ダニエルは一つ一つの意味を解き明かしていきます。「王様、あなたがその金の頭です。」
つまり、一番上の金の頭は、ネブカドネザル王が治めるバビロン帝国を指していました。当時のバビロンは世界最強の国であり、富、権力、政治、文化のすべてにおいて頂点に立つ黄金の国でした。しかし、どれほど黄金のように輝き、世界最強を誇る国であっても、永遠には続きません。やがて衰え、次の国が起こされるのです。神様は国を起こし、国を衰退させ、王を立て、王を退け、歴史の時を移されるお方です。
そして実際の歴史も、その通りに動いていきました。バビロンはメディア・ペルシア帝国によって滅ぼされます。像の銀の胸と両腕は、このメディア・ペルシア帝国を指しています。二つの腕が示すように二つの国の連合体であり、バビロンほどの統一感はありませんでした。
その次に青銅の国が起こります。これは歴史上のギリシャ帝国です。アレクサンドロス大王が中東からアジアまでを瞬く間に制圧し、世界を支配しました。これにより全世界の標準語がギリシャ語になり、後に新約聖書がギリシャ語で書かれ、世界中に福音が広がる土台が作られました。
さらにその下、鉄のすねが表しているのはローマ帝国です。鉄のように強く、あらゆる金属を打ち砕くような強力な国でした。すべての道はローマに通ずると言われるほど世界を統一し、交通網を整備しました。そして、このローマ帝国の道を通って、キリストの福音が全世界へと告げ知らされていくことになります。人間の目には強い国が勝って弱い国が滅びるように見えますが、神様はバビロン帝国の時代にすでにこれらの歴史をあらかじめ示しておられました。神様こそが歴史の主権を握っておられるのです。
そして、一番下の足の指先は、鉄と粘土が混ざり合った状態でした。強い部分と脆い部分が混在する現代の世界の姿を表しているというのが一般的な解釈です。しかし、さらに深い解釈があります。ヘブライ語で「混じる」という言葉は「アラブ」と発音します。つまり、アラブ諸国が世界で力を持つ時代が来ることを示唆しているとも考えられるのです。現在、アラブ・イスラム圏の人々は世界の人口の約3分の1に近づいています。黙示録6:1-8には四つの馬が登場しますが、4番目の馬の「青ざめた」という色は、ギリシャ語では「若葉色(黄緑色)」を意味します。サウジアラビアやイラクなど、イスラム諸国の国旗の多くには、この緑色が使われています。彼らが世界中に大きな影響を与え、時には剣によってキリスト教徒が迫害され、多くの殉教者が生まれてきた歴史もあります。
マタイ24:6-7にあるように、戦争や飢饉、地震の噂を聞き、人々の愛が冷え回る時代。まさに今、私たちはそのような終わりの時代のしるしを見ています。しかし、その鉄と粘土が混じり合った時代に、人手によらずに切り出された「一つの石」が飛んできて、その像を粉々に打ち砕くのです。
この「人手によらずに切り出された石」とは、永遠の岩なるイエス・キリストのことです。イエス様は人間の手によらずに処女マリアから生まれ、人間の手によらずに死からよみがえられました。このキリストが地上のあらゆる王国を打ち砕き、キリストの王国、神の国が全世界に満ちて永遠に続く大きな山となるのです。
どんなに世の中の国々が政治力や軍事力で圧倒していても、やがてすべての国を打ち砕く岩なるキリストが再臨されます。その神の国は決して滅びることがありません。ですから私たちは、この岩なるキリストにとどまり続けるべきです。
海辺の岩場に行くとカニがたくさんいます。大きな荒波が岩に打ち付けても、カニは岩の隙間にすっと隠れて、全然怖がりません。岩の隙間にいるから安心なのです。同じように、私たちの人生にどんな激しい嵐や荒波が来たとしても、この永遠の岩であるイエス様に避け所を見つけ、そこに身を隠すなら、私たちの心は平安であり、目の前に迫る危険をやり過ごすことができます。岩なるキリストがすべてを解決し、私たちを勝利と平安のうちに住まわせてくださるからです。
ダニエル2:21には「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知恵ある者には知恵を、知識ある者には知識を授けられる」とあります。ダニエルはこの神様に信頼し、ネブカドネザル王の時代だけでなく、その後のベルシャツァル王、メディアのダレイオス王、ペルシアのキュロス王の時代に至るまで、長く栄え続けました。神様は、神様に信頼する知恵ある者を立ててくださるのです。
ダニエルが夢の解き明かしをすべて終え、「この解き明かしは真実です」と締めくくった時、ネブカドネザル王はダニエルの前にひれ伏しました。ダニエルを神のように思い、なだめの香りのささげ物をささげるように命じたのです。ダニエルとしては困惑したでしょうが、王様は「まことにあなたの神は神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ」と告白しました。そしてダニエルを高い位につけ、彼の願いによって三人の友人たち、シャデラク、メシャク、アベデネゴもバビロン州を治める役人に任じられました。こうしてダニエルの信じる神様が敬われるようになったのです。
歴史を動かし、すべての秘密を明らかにしてくださる神様は、今、皆さんの中におられます。地上の王や国々は廃れますが、神様は永遠です。皆さんが、この永遠の岩であるキリストに身を寄せるなら、皆さんの人生は永遠に安泰です。私たちは皆、やがてこの地上での命を終えます。しかし、決して滅びないイエス様を主として頼るなら、キリストと共に永遠の天国で生きることができます。どうか皆さんが、この終わりの時代にあってもイエス様に信頼し、ダニエルのように栄えていくことができますように。
【結論】
地上の国々や権力はやがて砕かれ滅び去りますが、神の主権は永遠であり、歴史は神の御手の中にあります。どのような終わりの時代の混乱や人生の荒波の中にあっても、人手によらずに切り出された永遠の岩であるイエス・キリストに避け所を置き、信頼し続けること。そうするならば、私たちは決して揺るがされることなく、キリストと共に永遠の平安と勝利の中を歩むことができるのです。
天には秘密をあらわすひとりの神がおられ(ダニエル2:17-30) 早天祈祷会 2026年3月19日(Thu)
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- 執筆 :
- pastor 2026-3-19 6:12
天には秘密をあらわすひとりの神がおられ(ダニエル2:17-30) 早天祈祷会 2026年3月19日(Thu)
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【概要】
ダニエルが直面した死の危機を通して、自らの力や世の知恵に頼るのではなく、信仰の友と共に天の神に憐れみと思慮を求め、祈りによって問題を解決し神の栄光を現す生き方について学びます。
【聖書箇所】
ダニエル2:17-18
ヤコブ1:5
ダニエル2:19
ダニエル2:20-23
ダニエル2:28
ダニエル2:30
【励ましの言葉】
神様は願い求める者に、惜しげなく知恵を与えてくださり、決して遅れることなく絶妙なタイミングで助けてくださいます。
【勧めの言葉】
問題に直面したときは一人で抱え込まず、信仰の友と共に祈り、御言葉を握って神様の憐れみを求めましょう。そして解決が与えられたら、まずは神様に賛美と感謝を捧げましょう。
【***詳細***】
今朝は、ダニエル2:17-32から恵みをいただきます。初めにダニエル2:17-18を皆さんと共に宣言します。
「それからダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナンヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。彼らはこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知恵者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」(ダニエル2:17-18)
2026年3月18日の夜もダニエル書から学びましたが、この場面において語るべきことがたくさんありますので、前回の続きとしてこの箇所から始めます。
当時、ダニエルたちはネブカドネザル王に仕える身となっていました。そこにはバビロンの知恵者たちがたくさんいました。バビロンという国は、神様の価値観からかけ離れた場所であり、罪がはびこり、神様の御前において汚れたことでも平気で行っているような国でした。そんな中でダニエルたちは、神様に対する純潔をしっかりと保とうとしていました。口に入るものから、耳から入るものに至るまで気をつけ、偶像礼拝に満ちた国の中で自分自身の霊性をいかに清く保つかということを、彼らはしっかりと意識していました。
そのような状況の中で、神様はネブカドネザル王を通してご自身の栄光を現そうとされました。どのようにして栄光を現すのかというと、それは一見すると危機的な状況を通してでした。神様は、ネブカドネザル王に、心が騒いで夜も眠れなくなるような、霊が掻き立てられて辛くてしょうがないような夢を見させました。しかしあいにく、王様はその夢の内容を思い出せなかったのです。
そこで王は、バビロンの知恵者たちに「私は夢を見た。それを解き明かしてもらいたい」と言いました。しかし知恵者たちは、「まずその夢の内容をお語りください。そうすれば、解き明かしてご覧に入れましょう」と答えました。これがネブカドネザル王の怒りを買ってしまったのです。王は気づきました。「この者たちは、私が夢の内容を語ったら、適当なことを言うつもりだ。何の知恵も知識も得ていないのに、崇高なる神様に願い求めてもいないのに、今まで適当なことを連ねて知恵者扱いされ、特別待遇の甘い汁を吸ってきたのだ。こんな者たちを国にはびこらせておくわけにはいかない」と怒り狂ったのです。そして、バビロンの知恵者たちを皆殺しにしろという命令を下しました。その殺される対象の中には、ダニエルたちも入っていたのです。
ダニエルたちを殺すために、アリオクという役人がやって来ました。しかしダニエルは、思慮をもって対処しました。私たちにもこの「思慮分別」が必要です。相手の正論や勢いに対して、同じように勢いで返したら、話は破綻し、相手をさらに怒らせてしまいます。ほんの些細なことで破壊的な破滅へと関係が至ってしまうことはよくあります。夫婦喧嘩でも、テレビのチャンネルの食い違いだけで互いをなじり合い、修復不可能になって離婚に至ってしまったという話を聞くほどです。離婚だけならまだしも、この時のダニエルの状況は、バビロン中の知恵者を皆殺しにするという、シャレにならない深刻な事態でした。
これを鎮めるためには、神様から知恵と思慮分別をいただき、それをもって対処する以外に方法はありません。相手が鬼の形相で怒り狂って迫ってきた場合、皆さんは主にある平安と思慮分別をもって対処しなくてはなりません。相手の勢いに対して勢いで返したら、話はもっとこじれてしまいます。相手の意図をしっかりと探る必要があります。これはビジネスの場面でも同じです。相手が一体何を求めているのか、冷静になって本来の答えを解き明かしていかなくてはなりません。私たちは本当にこの思慮を求めていくべきです。
ダニエルたちは、自分たちの知恵や思慮には頼りませんでした。王様の夢の内容を言い当てるなどということは、人間には決してできないことだからです。適当に当てずっぽうで「王様、あなたの夢の内容はこうです」と言うのは占い師の手法であり、ここでは一切通用しません。では、ダニエルたちは何に頼ったのでしょうか。彼が真っ先にしたことは、自分たちの祈りの共同体にこの問題を持ち帰り、皆で心を合わせて祈ることでした。ダニエルは王様に取り入ろうとはしませんでしたし、コネを使おうともしませんでした。世の中の人は取り入ったりコネを使ったりしてのし上がっていくかもしれませんが、ダニエルたちはこの問題を、すべてをご存知である神様のもとへと持っていったのです。
私たちは問題が起きると、一人で抱え込んで悩んで、自分で解決しようとする性質があります。しかしダニエルは違いました。共に祈る場に問題を持っていき、そして彼らは祈りました。「どうか憐れみをください」と祈ったのです。
「彼らはこの秘密について天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知恵者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」(ダニエル2:18)
彼らは「自分たちに知恵がありますように」「自分たちが優秀でありますように」とは祈りませんでした。ただ神様の憐れみを乞い願ったのです。この憐れみは単なる同情ではありません。神様の約束に基づいたものです。聖書の至る所に「神は憐れみ深い」と書かれています。その憐れみを求めたのです。御言葉を握って祈ってください。「神様、御言葉にはこう書いてあります。だからこそ、神様、どうか助けてください」と祈るのです。御言葉は真実ですから、神様はそれに応えてくださいます。
神様は、惜しげなく求める人には、惜しげなく与えてくださいます。ヤコブ1:5にはこう書かれています。
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)
神様に願い求めるべきです。神様は願い求めたなら、惜しげなく、咎めることなく与えてくださいます。ダニエルたちは、主にある祈りの交わりの中で、兄弟たちと共に祈り、願い求めました。バビロンの知恵者たちと一緒に滅ぼされることがないようにと願い求めました。私たちも願い求めるべきです。不信仰な世の中において、王の気まぐれによって周りの人たちと共に滅ぼされてしまうような状況を、黙って受け入れてはなりません。天の神様がおられます。その神様に祈り、願い求めるべきなのです。
すると、夜の幻のうちに秘密がダニエルに啓示されました。祈りが聞かれたのです。これは遅すぎず、早すぎず、絶妙のタイミングでした。神様の助けが間に合わないということはありません。人の目には遅いと見えることがあっても、神様が皆さんを助けようとする熱心があるならば、決して手遅れになることはありません。
夜の幻のうちに秘密が示された時、ダニエルの第一の反応は何だったでしょうか。ピンと解決策がわかって、すぐに王様のところへ走っていったのではありません。彼らの第一の反応は賛美でした。
「そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」(ダニエル2:19)
ダニエルは真っ先に天の神を褒めたたえました。解決が与えられたら、すぐに神様を忘れて行動に移るというのは違うやり方です。秘密を啓示してくださった神様をこそ、まずは感謝し、賛美するべきです。ダニエル2:20-23には、彼らの感謝の祈りがわざわざ四節も紙面を割いて記されています。このことは私たちに、主から解決が与えられたら、時間を割いて、心を尽くして神様に賛美と感謝を捧げるべきだということを物語っています。
ダニエルはこう祈りました。神の御名がとこしえからとこしえまでほむべきこと。知恵と力は神のものであること。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知恵者には知恵を、理性ある者には知識を授けられるお方であること。
今、ネブカドネザル王が絶対的な権力を駆使して、バビロンの知恵者たちを短絡的に皆殺しにしようとしています。しかし、その王を立てたのは神様です。王を廃する権威を持つお方も神様です。知恵ある者には知恵を与え、理性ある者には知識を授けてくださいます。
皆さんも、主がどのようなお方であるかを、賛美や感謝の祈りの中に混ぜ込むべきです。神様は、深くて計り知れないことも、隠されていることも現されるお方だとダニエルは宣言しています。暗闇の中に隠された宝、秘められている財宝を神様が与えてくださるのです。主は暗黒の中にあるものを知り、ご自身に光を宿しておられます。
そしてダニエルは祈りました。
「私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜り、今、私たちがあなたに乞い願ったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」(ダニエル2:23)
知恵が与えられたとしたら、それは私たち由来ではなく、神様由来のものです。だからこそ、神様に感謝し賛美すべきなのです。
こうして夜の幻が示され、神様に感謝を捧げたダニエルは、早速役人のアリオクのところへ行き、「バビロンの知恵者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の御前に連れて行ってください。私が王様にその解き明かしを示します」と言いました。ダニエルは自信を持っていました。神様からありありと幻が示されていたので、王の前に出ても上がることも忘れることもないという自信があったのです。
アリオクは急いでダニエルを王の御前に連れて行き、「ユダの捕囚の中に、王に解き明かしのできる一人の男を見つけました」と告げました。ダニエルの当時の身分は、ユダからの捕囚、つまり捕虜です。王様と捕虜との間には、人間の目から見れば圧倒的な身分差があります。私たちも今、どのような社会的身分でしょうか。今の総理大臣と比べたら圧倒的な差があるかもしれません。しかし、この時代を動かしたのは、ユダの捕虜の一人であったダニエルでした。なぜなら、彼には神様の霊が宿っていたからです。
皆さんにも聖霊が宿っています。時代を動かし、王の権力を定め、あるいは廃するのは、神の霊が宿っている皆さんの側なのです。皆さんが日々祈り、悪しき霊に対して「出て行け」と宣言する働きをしています。イエス様にとどまっているならば、皆さんの方がこの世の権力よりも上なのです。イエス様は「わたしには天においても地においても、一切の権威が与えられている」とおっしゃいました。そのイエス様にあって、皆さんは世の悪しき霊や支配者たちを裁くのです。
ダニエルは王様に言いました。「王が求められる秘密は、知恵者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密を現す一人の神がおられて、この方が終わりの日に起こることをネブカドネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。」(ダニエル2:28)
天には、秘密を現す一人の神がおられます。この神様にあって解き明かせないものは何一つありません。わからないことや問題があった場合、この天におられる神様に告げて願い求め、解決をいただくべきなのです。イエス・キリストの御名によって求めるなら、喜んで与えてくださいます。私たちは何かあるたびに祈り続けるべきです。イエス様でさえ「わたしは父から聞いて行う」とおっしゃいました。私たちが神様抜きで当てずっぽうに行動するなら、それこそ手足を切り離され、家がごみの山にされてしまうような破滅に向かいます。私たちはまず神様に求めるべきです。
ダニエルはあの時すでに、「王様、あなたは寝床でこれこれを思い巡らされました」と、すべてをご存知の神様から教えられて知っていました。なぜこの秘密が現されたのでしょうか。
「この秘密が私に現されたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。」(ダニエル2:30)
ダニエルは「自分に誰よりも知恵があるからではない」と告白し、神様を前面に出しました。パウロやヨセフと同じです。ヨセフもファラオの前に進み出た時、「神が解き明かしてくださる」と言いました。なぜこの一連の騒動が起きたのでしょうか。それは神様が全世界にご自身の栄光を示されるためです。今、この世の中で騒動が起きているのも、私たちが神様に祈り求め、神様が全世界にその栄光を告げ知らせるためなのです。
今日私たちが知るべきは、まず神様に願い求めるべきだということです。皆さんの中に知恵が欠けた人がいるでしょうか。思慮を求めている人がいるでしょうか。思慮がないゆえに人を怒らせ、物事を破壊して痛い思いをしてきた人は、神様に願い求めてください。神様は惜しげなく、咎めることなく与えてくださるお方です。知恵と思慮分別を求めましょう。そして、皆さんがこの時代に平和をもたらす者として用いられ、王よりも上に立つ権威あるお方、イエス・キリストの御名によって、この世界を治めていく者となりますように。
私たちの祈りを聞いてくださる天の父なる神様。この日本の地において、あなたを礼拝する信仰が失われてしまったかのような状況の中で、私たちはしつこくあなたの御名を掴んで祈り求めています。どうか私たちの祈りを聞き、全世界に隠された宝、秘められた財宝を見出させてください。一人ひとりがこの時代のダニエルのように大いに用いられますように。そして次世代の子どもたちに、ダニエルのようなディシプリン教育を施していくことができますように。子どもたちを神様のもとに連れてくるケアの働きから、一切の妨げを取り除いてください。すべての秘密を現される神様が、私たちがなすべきことを示してくださることを感謝し、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
この世にあって直面するあらゆる問題に対して、私たちは自らの知恵ではなく、天にいます秘密を現される神様に祈り求めるべきです。祈りによって知恵と思慮分別をいただき、神様の栄光をこの世界に示していく者となりましょう。
いい加減だった事があらわにされた世の知者、真の知恵を全能者に求めるダニエル(ダニエル2:1-16) 2026/3/18 水曜夜礼拝
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ダニエル書
- 執筆 :
- pastor 2026-3-18 22:50
いい加減だった事があらわにされた世の知者、真の知恵を全能者に求めるダニエル(ダニエル2:1-16) 2026/3/18 水曜夜礼拝
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【概要】
ダニエル2:1-16を中心に、ネブカドネザルの夢騒動の中で露わになった人間の知恵の限界と、神に伺い求めたダニエルの「知恵と思慮」「祈り」の歩みをたどり、御言葉を心に蓄え主に信頼して歩む招きを示すメッセージです。
【聖書箇所】
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ダニエル2:1-16
-
ダニエル2:17-19
-
マタイ7:7-8
-
ヤコブ1:5
-
詩編37:1-2
-
ルカ18:27
【慰めの言葉】
-
世の中に解決の手立てが見えない時でも、主は先んじて働いておられ、私たちの祈りに耳を傾け、道を備えてくださる。
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神には不可能なことはありません。心が騒ぐときも、主は不安を平安へと変えてくださいます。
【励ましの言葉】
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不可能に見える課題に直面した時こそ、すべてを知り不可能を可能にされる神に祈り求めよう。御言葉を心に刻み、日々主に聞き従う者に、神は知恵と解決を与えられる。
【戒めの言葉】
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神の民でありながら御言葉に従わない歩みは、混乱と行き詰まりを招く。上辺の霊的言葉や体裁でごまかさず、神に伺いも立てずに「できません」と諦める態度を捨てよう。
【勧めの言葉】
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御言葉を暗唱し、長期記憶に蓄える習慣を持とう。ダニエルのように「知恵と思慮」をもって応対し、状況を見極め、時を願い出て、仲間とともに祈る歩みを身につけよう。
【悔い改めの促しの言葉】
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御言葉を後回しにし、祈りを怠って自力で解決しようとしてきた心を主の御前に認め、方向転換しよう。神ならぬ「空気」や人の機嫌を伺う生き方から離れ、主の御前に出て真実を求める者になろう。
【***詳細***】
今日の箇所はダニエル2:1-16です。はじめに1節を宣言します。「ネブカデネザルの治世の第2年に、ネブカドネザルはいくつかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなくなった。」(ダニエル2:1)
この一節は、神が歴史に介入し、時代を動かす起点となった出来事を示しています。王の心が騒ぎ、眠れないほどの夢。人間の力では解けない問いが、権力の頂点に立つ者を不安にさせました。私たちの時代にも、社会や個人に心を騒がせる出来事があります。人間の知恵では届かない問題があり、世の中の手立てでは解けない課題が山積みです。けれども、主に信頼する者、御言葉を心に蓄える者は、そこに神からの解決を受け取ることができます。
ダニエルの時代、神の民イスラエルは本来、神に従うはずでしたが、多くは御言葉に従いませんでした。バビロン捕囚という厳しい現実の中で、わずかな少年たち—ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザルヤ—が、御言葉を心に刻み、身を清め、神に喜ばれる者であり続けました。神はこの「少数の忠実」を通して、ご自身の栄光を世界に示そうとされました。数は問題ではありません。御言葉を真に宝とする者がいるかどうか、そこに主の働きが始まります。
本文に進みます。「そこで王は、呪法師、祈祷師、まじない師、カルデヤ人を呼び寄せ、自分の夢を告げて、その解き明かしをさせようとした。彼らが王の前に来たとき、王は彼らに言った。『私は夢を見た。私の心は、その夢の解き明かしを知ろうとして騒いでいる。』」(ダニエル2:2-3)
王は帝国中の知恵者を集めました。しかし、彼らは人間の知恵の限界を越えることができません。「カルデヤ人は王にアラム語で言った。『王よ、永遠に生きられますように。どうか夢をしもべたちにお告げください。そうすれば、私たちは解き明かしをいたします。』王はカルデヤ人に答えた。『私が決めたことは確かである。もしお前たちが、私にその夢とその解き明かしを知らせないなら、お前たちは手足を切り落とされ、お前たちの家はゴミ捨て場となる。』」(ダニエル2:4-5)
王は「夢の内容そのもの」を言わずに解き明かしを求めました。これは、人間の知恵が本物かどうかを試す厳しい要求でした。「彼らは再び答えて言った。『王はしもべたちに夢をお話しください。そうすれば、私たちはその解き明かしを示します。』王は答えた。『私は確かにお前たちが時を稼いでいると見抜いている…お前たちが夢とその解き明かしを知らせないのなら、お前たちのためには同じ法令が一つのものとして定まっている。』」(ダニエル2:7-9)
このやり取りの中で、世の知恵が無力であることが暴かれます。最終的に彼らはこう告白します。「カルデヤ人は王の前で答えて言った。『このことを王に知らせることができる者は地上にいません。どんな王、大王、統治者も、このようなことをどんな呪法師や祈祷師やカルデヤ人に求めたことはありません…このことを知らせることができるのは、神々のほかにはありません。彼らは人間と共に住んではいません。』」(ダニエル2:10-11)
ここで、神の出番が整えられます。人間の限界が露わになる時、天の知恵が輝きます。しかし王は怒り、知者たちを皆殺しにする命令を出します。「このため、命令が出され、知者たちは殺されようとした。ダニエルとその仲間たちも殺されることになった。」(ダニエル2:13)
絶体絶命です。ここでダニエルがどうしたか。「そのとき、ダニエルは王の親衛隊長アルヨクに、慎重で思慮深い言葉で答えた。『なぜそのような厳しい命令が王から出たのですか。』するとアルヨクはダニエルにその事情を知らせた。ダニエルは王のところに入り、王に願って、夢の解き明かしを示すために、時を与えてもらうように求めた。」(ダニエル2:14-16)
ここに、御言葉を心に蓄えた者の姿があります。
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「慎重で思慮深い言葉」—状況に煽られず、相手を立てつつ真相に近づく言葉を選ぶ知恵。
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「王のところに入り」—恐れに支配されず、与えられた立場で責任を果たす勇気。
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「時を求めた」—神が答えをくださると信じ、祈りのための余地を求める信仰。
ダニエルは、自分に超自然的な力があるからといって即答したわけではありません。彼は「時をください」と願いました。これは、神が解決をくださることを信じ、同時に祈りの時を確保するための行動です。実際、この後の節に進むと、彼は仲間とともに憐れみを求めて祈り、神が奥義を明らかにされます。「ダニエルは家に帰り、仲間のハナニヤ、ミシャエル、アザリヤに、この秘密について知らせ、バビロンの知者たちと共に滅ぼされないよう、この秘密のことで天の神のあわれみを乞うように頼んだ。」(ダニエル2:17-18)「その秘密は、夜の幻のうちにダニエルに明らかにされた。」(ダニエル2:19)
この流れは、私たちの人生でも同じです。心が騒ぎ、眠れない夜がある。世の知恵は解決を出せず、状況は一層厳しくなる。しかし、そこで御言葉を蓄えた者は、慎重で思慮深く応え、恐れに支配されず、祈りの時を確保します。主はすでに先んじて働いておられ、祈る者に道を開かれます。
新約の御言葉も、この歩みを力強く裏づけます。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)「あなたがたのうちに知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる神に願い求めるがよい。そうすれば与えられる。」(ヤコブ1:5)そして、「人にできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)
私たちはしばしば、カルデヤ人たちの罠に陥ります。表面的な霊的言葉を並べ、儀式めいた行いで自分を装い、究極の問いに直面すると「できません」と肩をすくめてしまう。あるいは「神ならできる」と言いながら、実際には祈らない。神ならぬ「空気」を読み、周囲の反応ばかりを気にして、主の御前に出ることを怠る。けれども、神は今日も招いておられます。真実に御前に出て、祈り求める者に、知恵と思慮を与え、道を開いてくださいます。
御言葉を暗唱し、長期記憶に蓄えることは、単なる知識の積み上げではありません。神からの知恵、思慮分別、見分ける力が養われます。状況判断が整い、目先に振り回されず、主の視点から物事を見る力が与えられます。ダニエルたちは学問に優れただけでなく、主からの知恵によって、王の時代の課題に応える器となりました。神は「人数の多さ」より「心の真実さ」をご覧になります。少数の忠実が時代を照らすのです。
では、私たちはどう応えるべきでしょうか。
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御言葉を暗唱する時間を日々の生活に組み込む。たとえば、一日一節を覚え、週ごとに復習する。
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困難に直面した時、「時をください」と言える勇気を持ち、祈るための余地を確保する。
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言葉を選ぶ。慎重で思慮深く、相手を立てる言い方を心がける。相手の意図を汲み取る思慮を養う。
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仲間とともに祈る。ダニエルは一人で抱えませんでした。教会という共同体で祈り合いましょう。
最後に、会衆で心を主に向けて宣言します。「悪を行う者に対して、腹を立てるな。不正を行う者に対して、妬みを起こすな。彼らは草のように、たちまち枯れ、青草のようにしおれるのだ。」(詩編37:1-2)怒りや焦りではなく、主への信頼と待ち望みによって歩むことを、互いに確かめ合いましょう。
主よ、あなたが何かを語ろうとされる時、またこの世に働こうとされる時、私たちの心が騒ぐほどの出来事が起こることがあります。しかし、あなたに信頼し、あなたの御言葉を蓄える者には、解決が与えられます。あなたはすでに先んじて進んでおられます。私たちはそれに従います。どうか、知恵と思慮を与え、祈る心を新たにしてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
【結論】
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人間の知恵が尽きるところで、神の知恵が輝く。ダニエル2:1-16はその舞台設定であり、祈りへの扉が開かれる場面である。
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無理難題の前で思考停止するのではなく、ダニエルのように「知恵と思慮」をもって応対し、真の神に伺い求めよう。主は求める者に惜しみなく知恵を与え、不可能を可能にされる。
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御言葉を心に蓄える者は、慎重で思慮深く、恐れず、祈りの時を確保し、神からの解決を受け取る。少数の忠実が時代を照らす。今日、御言葉を暗唱し、主に信頼して、与えられた場で神の栄光を現そう。作成日: 2026-03-18 19:18:46
エホヤキムの時代のダニエル(ダニエル書1章) 2026/03/18 水曜昼礼拝
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ダニエル書
- 執筆 :
- pastor 2026-3-18 16:30
エホヤキムの時代のダニエル(ダニエル書1章) 2026/03/18 水曜昼礼拝
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【概要】
2026年3月18日の礼拝メッセージです。神様の言葉を軽んじたエホヤキム王の悲惨な結末と、御言葉を心に刻み、世の誘惑を退けて神様から10倍の知恵と特別な祝福を受けた少年ダニエルたちの姿を対比しながら、現代において神様の栄光を現す生き方について語られています。
【聖書箇所】
ダニエル1:1-2
イザヤ45
エレミヤ22:17
エレミヤ22:19
ダニエル1:3-4
ダニエル1:15
ダニエル1:17
ダニエル1:20-21
【戒めの言葉】
神様の警告の言葉を軽んじ、自分にとって都合の悪い御言葉を切り捨てて無視するなら、エホヤキム王のように悲惨な結末をたどることになります。世の中の権力や強いものにだけなびく「霊的な風見鶏」になってはいけません。
【勧めの言葉】
ダニエルたちのように、神様の御言葉を心にしっかりと蓄え(テフィリンし)、世の中の魅力的な誘惑から自分を清く保つ決心をしましょう。そうすれば、神様は外見も内面も美しく健やかにし、他の人よりも10倍の知恵と悟りを与えてくださいます。
【***詳細***】
2026年3月18日のお昼の礼拝を始めましょう。今日の箇所はダニエル書の1章です。では、まず皆さんと共に、ダニエル書の1章1節と2節を一緒に声に出して宣言したいと思います。
「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシンアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物蔵に納めた。」(ダニエル1:1-2)
アーメン、ハレルヤ。私たちの愛する主イエス様。私たちも、神様の宝となることができますように。そして、神様から特別扱いを受ける一人ひとりとなれますように。主よ、今この時代においても、ダニエルの時代に起きたような神様の栄光が豊かに現れるしるしが、この日本という国において行われますようにと願い求めます。まず、私たち自身もダニエルのようになるための秘訣を教えていただき、またダニエルのようになった人を通して、どのような素晴らしい奇跡が行われるのかを、今日、豊かに示してください。今から御言葉を取り次ぐ私の唇をきよめ、また、このメッセージを聞くお一人お一人の耳をきよめてください。神様の御言葉が、天から滴り落ちる露のように、麗しく慕わしいものでありますように導いてください。初めから終わりまでの一切を、ただ神様の支配の御手にお委ねして、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。ハレルヤ。素晴らしい主の御名をたたえ賛美いたします。
さて、2026年3月18日の朝の礼拝では、イザヤ45章から御言葉を見て、そして少しだけダニエル書についても触れましたね。ダニエルという人は、本当にとても重要な人物です。2026年3月11日の週の礼拝でも、キム先生がダニエル書について非常に詳しく導いてくださいました。そして今日のこのお昼の時間も、ダニエルが一体どのようなことをしたのか、どんな性質を持っていたのか、そして彼が生きた時代はどのような時代だったのかについて、まず一緒に見ていきたいと思います。
ダニエルが生き、そして捕らえられていったこの時代は、1節を見ると「ユダの王エホヤキムの治世の第三年」と書かれています。このエホヤキムという王様がどういう人物で、当時がどういう時代だったのか。一言で言うならば、神様の言葉がとても軽んじられた時代でした。このエホヤキムという王様は、神様の言葉を聞いても全く悔い改めようとせず、とにかく御言葉をバカにして軽んじた、そういう王様だったのです。
当時、預言者エレミヤがこのエホヤキム王のところに「悔い改めなさい。そうしないとこの国は滅びるし、バビロンという大帝国が攻めてくるぞ」という神様からの警告の言葉を、書簡(巻物)として届けました。王様の前で、その預言の言葉を朗読する係の人が、一段落、また一段落と読み上げていきます。しかし、なんと王様は、読み上げられたその箇所をことごとく小刀(ナイフ)で切り取って、それを暖炉の火にくべて燃やしてしまったのです。家臣がさらに続きを読み上げると、王様はまたその読み上げられた部分をナイフで切り取り、火の中に投げ込んでいくという、恐ろしいことをしてしまいました。
本来なら、神様の御言葉が語られたら、自分の罪を悔い改めて、神様の御前にひれ伏し、ひざまずくべきところです。しかし、この王様は全く違いました。御言葉を小刀で切り裂いて火の中に投げ入れたのです。この王様の特徴は、「神様の言葉を軽んじること」、そして「神様を全く恐れないこと」です。警告を聞いても無視して、燃やしてしまうような人間でした。
皆さん、どうでしょうか。皆さんは神様の言葉を軽んじてはいないでしょうか。もし神様の言葉を軽んじたら、一体どうなってしまうのでしょうか。
エホヤキム王がその後どうなってしまったのか、エレミヤ書に彼の末路についての預言が記されています。まず、「彼の目と心は、自分の利益と、罪のない者の血を流すことにしか向いていない」(エレミヤ22:17)と書かれています。
歴史を見ると、その後、最初はバビロンという強力な国が攻めてきます。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれる出来事で、この時にダニエルたちを含めた一部の人たちがバビロンへと連れ去られました。この時、エホヤキム王は最初はバビロンに従うふりをしていました。口先だけでは「バビロン様、あなたに従います」と言っていたのですが、途中で手のひらを返し、バビロンに反逆してエジプトと同盟を結んでしまいます。強い国に反抗するようなことをした結果、バビロンの激しい怒りを買いました。それだけでなく、周辺の国々からも突然、イスラエルは集中攻撃を受けるようになってしまったのです。
はっきり言って、彼は霊的な風見鶏でした。どっちつかずで、勢いがある方にすり寄り、自分が有利な地位を得たと思ったら手のひらを返す。世の中の強い者にただ追従するだけ。そして何より、神様の言葉を軽んじて神様を恐れない。そんな彼が最終的にどうなったか。
エレミヤはこう預言していました。「彼はろばの埋葬をもって葬られ、引きずられてエルサレムの門の外に投げ捨てられる。」(エレミヤ22:19)
そして、この預言は見事に成就してしまったのです。王様でありながら、彼は王室の立派な墓に葬られることはありませんでした。ダビデ王から続く由緒ある王族の墓から引きずり出され、エルサレムの門の外にまるでゴミのように捨てられて、悲惨な最期を遂げたのです。
さらに、彼の息子であるエホヤキン(別名エコニアとも呼ばれます)は18歳で王になりますが、たった3ヶ月でまたバビロンが攻めてきて、王としての統治を十分にできないまま、彼もバビロンへと連れ去られてしまいました。
つまり、神様の言葉が軽んじられた時代、そして王様自身が神様の言葉を全く恐れず悔い改めなかった時代というのは、国全体が敵国バビロンに引き渡されてしまうような、最悪の時代だったのです。
そのような暗黒の時代に、ダニエルたちはバビロンへと連れて行かれました。しかし、そこには神様の深い計画がありました。彼らはそこで、神様からの特別な「英才教育」を受けることになるのです。
この時代の状況を、中学生の皆さんにも分かりやすいように例えてみましょう。
ある時、テレビで見たのですが、もともと水が澄み渡っていたきれいな池に、外来種の魚がたくさん繁殖してしまい、水が淀んで汚い池になってしまったとします。その池を再びきれいにする時、どういう作業をするか知っていますか?
まず、その池の水をどんどん抜いていきます。そして、池の底から外来種が見つかったら、それは駆除するために別の場所に取り分けられます。一方で、もともとそこに住んでいた在来種、つまり池に何の害も及ぼさない正規の生き物たちは、丁寧にすくい上げられて、きれいで安全な別のプールに移され、そこで生かされます。
そして、池の水をすっかり抜ききったところで、底に溜まったいらない泥や、外来種によって汚されたものを全部取り除いてきれいに掃除します。その後、再びきれいな水を池に満たし、保護しておいた在来種の生き物たちを元に戻すのです。そうすれば、以前の外来種は完全に排除され、汚れも消え去り、本来住むべき生き物だけが再び元気に生きられるようになります。
ダニエルの時代に起きた「バビロン捕囚」という出来事は、まさにこれと同じだったのです。本来、神様の国であるイスラエルという場所は、神様だけを信じて生きる清い人々(在来種)が生きるべき場所でした。それなのに、神様を信じない悪い考えや偶像礼拝(外来種)がはびこってしまい、王様からして神様を恐れないような状態になっていました。
そこで神様は、この汚れてしまった「イスラエル」という池をきれいにするために、ダニエルやエゼキエルのような純粋で清らかな信仰を持つ若者たちを、一時的にバビロンへと移されました。エズラやエステルたちも、そうやってイスラエルの外に連れて行かれた人々の子孫です。
神様は、本当に霊的に清らかな人たちを、一時的に別の安全なプール(バビロン)に移し、そこで彼らを特別に教育し、育てることにしたのです。そして、残された外来種や汚れた泥のような者たちだけになったイスラエルを、神様はバビロン軍によって徹底的に破壊し、神殿を焼き払い、清めを行いました。
ですから、ダニエルたちは単に「敵国バビロンに捕虜として連れて行かれた」というよりも、むしろ「人間の考えから離れ、神様からの特別な英才教育を施すために、神様ご自身が特別保護区域へと移された」と考えるべきなのです。
では、バビロンに移された彼らは、そこでどのような教育を受けたのでしょうか。3節と4節を読んでみましょう。
「王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から王族か貴族を数人選んで連れて来させた。その少年たちは身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、またカルデア人の文学と言葉とを教えるにふさわしい者であった。」(ダニエル1:3-4)
このダニエルたちは、連れてこられた時からすでに、体に何の欠陥もなく、外見がとても美しい少年たちでした。しかし、ただ見た目が良かっただけではありません。知恵に優れ、知識が豊かで、思慮深く、大帝国の宮廷で働くのにふさわしい才能を持っていました。
どうして彼らは、そんなにも素晴らしい少年たちだったのでしょうか。一体どんな教育を受けて育ってきたのか。それは、彼らのその後の行動を見るとはっきりと分かります。彼らは「テフィリン教育」を受けて育ってきたのです。
テフィリンとは、神様の御言葉を自分の身につけ、心にしっかりと刻み込むことです。なぜ彼らがそうだったと分かるのでしょうか。
普通なら、田舎の国から突然、当時の世界最高の建築物であるきらびやかなバビロンの都に連れてこられ、そこで今まで見たこともないような王様の素晴らしいごちそうやワイン、目新しいグルメを与えられたら、どうなるでしょうか。普通の少年なら、心を奪われて、「すごい!王様のごちそうだ!こんな豪華な宮殿に住めるなんて最高だ!」と浮かれてしまうはずです。
しかし、ダニエルたちは全く心を躍らせていませんでした。彼らはむしろ、「王様の食べるごちそうや飲むぶどう酒で、自分たちの身を汚すまい」と固く心に決心したのです。
普通の少年には、こんなことはできません。なぜ彼らは、王様が食べるような最高級のごちそうを見て、「これは自分を汚すものだ」と見抜くことができたのでしょうか。
それは、彼らの心の中に「何が神様に喜ばれ、何が汚れた食べ物なのか」という、神様の律法の基準がしっかりと入っていたからです。ある先生がよくこうおっしゃっていました。「御言葉が千節心に入ると、その人の中に神様が宿っているかのようになる。五千節入ると、手で触れたものがすべて自分のものになっていくような、それほど素晴らしい状態になる」と。
実は、ユダヤ教の律法であるモーセ五書(トーラー)は、全部で5845節あると言われています。ダニエルたちの中には、このトーラーの御言葉がぎっしりと入っていたのです。だからこそ神様は、彼らを容姿端麗で、知恵と知識に富む少年たちへと育て上げてくださいました。
ちなみに、御言葉が心にたっぷり入っている人は、本当に美しくなります。外見も美しくなります。聖書に出てくる女性たち、例えばアブラハムの妻サラも非常に美しかったと書かれていますし、リベカもとても美しかった、エステルもとても美しかったと記されています。
御言葉が心にあり、その御言葉に従って歩もうとする人は、外見が美しくなるだけでなく、内面も美しく磨かれます。そして知恵や知識、力に満ち溢れ、本当に聡明な(賢い)人になっていくのです。
アーメン。皆さんも、そんな聡明な人になりたいですか?「今、自分は何を言うべきか、何を言ってはいけないか」「今、どう行動するべきか」、聡明な人は非常に賢く行動することができます。皆さんも神様の御言葉をしっかりと心に蓄え、テフィリンして、この時代をより良く変えていくダニエルのような人になっていただきたいと、イエス様のお名前で祝福いたします。アーメン。
ダニエルたちは、王様の食べるごちそうと飲むぶどう酒で自分を汚さないように決心しました。その決心のゆえに、神様は彼らを大いに祝福してくださいました。さらに神様は、彼らの世話をする宦官(宮廷に仕える役人)の長であるアシュペナズの心に、ダニエルたちをかわいがり、愛する心を与えてくださいました。
ダニエルは宦官の長に、「どうか、王様のごちそうやぶどう酒で自分たちを汚さないようにさせてください。私たちは野菜と水だけでいいです」と丁寧にお願いしました。すると宦官の長は「生意気なことを言うな!」と怒るのではなく、こう言いました。
「私は王様が恐ろしいのだ。もしお前たちが肉を食べずに野菜ばかり食べていて、他の少年たちよりも顔色が悪くなり、元気を失っているところを王様に見られたら、私の首が飛んでしまう(罰せられてしまう)。」
そこでダニエルは提案します。「では、どうか10日間だけ私たちを試してみてください。王様のごちそうではなく、私たちには野菜と水だけを与えて、どうなるか見てください。」
そして、実際にそのように試してみた結果、どうなったでしょうか。15節を一緒に宣言しましょう。
「十日の終わりになると、彼らの顔色は王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、体も肥えていた。」(ダニエル1:15)
アーメン。彼らの顔色は、王様の豪華なごちそうを食べていた他のどの少年たちよりもはるかに良くなっていました。「体が肥えていた」とありますが、これは別にブヨブヨに太ってしまったという意味ではありません。非常に発育が良く、ガッチリとしていて、健康的で美しい体格になっていたという意味です。顔色が良くなっただけでなく、体つきも他の少年たちよりはるかに健康的で、いわば「イケメンでナイスボディ」になっていたのです。
主の御言葉によって魂が養われ、また自分自身の口に入れる食べ物にも気をつけること。神様が喜ばれないものや、自分の体を壊すようなものを控え、「自分は神様に喜ばれる者になりたい、神様の前にきよい者でありたい」という願いを持って、口から入る食べ物や、耳から入る霊的な情報に気をつけて生きるなら、皆さんも彼らのように顔色が良くなり、体も健康になっていくのです。
他の少年たちが、ただ美味しいものを食べてだらしない体つきになっていく中で、ダニエルたちは素晴らしい体格を保っていました。
それを見て、世話役はどうしたか。16節には「それで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと飲むはずだったぶどう酒を取りやめて、彼らに野菜を与えることにした」とあります。
その結果、彼らはさらにどうなっていったでしょうか。17節を一緒に宣言しましょう。
「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルはすべての幻と夢とを解くことができた。」(ダニエル1:17)
アーメン。このダニエルたち4人の少年には、神様から特別な「知識」と「文学を悟る力」が与えられました。つまり、並外れた文章読解力が与えられたのです。普通の人なら、3行の文章を読んでも「何を言っているのかさっぱり分からない」とお手上げになるところを、彼らは他の人より10倍も賢かったので、その3行を読んだだけで作者の言いたいことを完全に理解しました。それどころか、作者がまだ書いていないその前の3行、後ろの3行のことまで読み取ってしまうほどの深さがありました。テストなら100点満点どころか、試験官が120点を与えたくなるほどの、素晴らしい知恵の持ち主になったのです。
また、ダニエルには「すべての幻と夢とを解く力」が与えられました。人が聞いて「わけがわからない、まるで宇宙語だ」と思うような言葉の、さらにその裏に隠された意味までも、ダニエルは見事に読み解くことができたのです。
そしていよいよ、彼らの教育期間が終わり、宦官の長が彼らをネブカデネザル王の前に連れて行く日が来ました。王様が彼らと面談をしてみると、どうだったでしょうか。
20節から21節を見るとこう書かれています。
「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍も勝っているということがわかった。」「ダニエルはクロス王の元年までそこにいた。」(ダニエル1:20-21)
王様から見ても、彼ら4人に並ぶ者は一人もいませんでした。彼らは、国中にいるどんな優秀な学者や占い師(呪法師・呪文師)よりも、10倍も優れていることが分かりました。
そしてダニエルは、この後、王様が4代も交代する長い期間にわたって、ずっと最高のトップの地位を保ち続けたのです。
「10倍勝っていた」というのは、神様の「ヤード」が10倍置かれていたという意味です。「ヤード」とはヘブライ語で「手」のことです。つまり、神様の力強い御手が、彼らの上に10倍の豊かさで置かれていたということです。どうか、神様の御手(ヤード)が、皆さんの上にも10倍置かれますように。アーメン。
【結論】
今日の結論をまとめましょう。
まず、エホヤキムという王様について見ました。彼は神様の御言葉を心に留めず(テフィリンせず)、むしろ軽んじて預言の巻物を切り裂き、火にくべてしまいました。神様の警告を無視し、自分の権力と利益を優先させて不正を行いました。その結果、彼はろばの埋葬のようにエルサレムの門の外に投げ捨てられるという、悲惨な最期を迎えました。
一方でダニエルたちは、一見すると敵国バビロンに捕虜として連れて行かれたように見えましたが、実はそこは、神様が彼らを守り育てるための「特別保護区域」でした。彼らはそこで神様の特別教育を受けました。
バビロンでの「一次試験」は、苦しい迫害ではなく、「豪華なごちそう」という彼らを気持ちよくさせる誘惑でした。ダニエルたちは日頃から御言葉を心に刻んでいたため、「これは神様に喜ばれないものだ。自分の身をきよく保とう」と決断することができました。
王様のごちそうを拒否すれば死刑になってもおかしくない状況でしたが、神様は役人の心を変えて彼らを特別扱いさせました。その結果、彼らは外見も健康も素晴らしくなり、王様から見ても他の誰より10倍も優れた知恵を持つ者として認められたのです。
皆さんも、ダニエルたちのように10倍の知恵と力を持つ者になりたいですか?アーメン。
どうか皆さんも御言葉を心に蓄え、口ずさんでください。口から入る食べ物や情報にも気をつけて自分をきよく保ちましょう。
そして、この神様の言葉が軽んじられている現代において、皆さんがダニエルやその友人たちのように、世の国々を動かし、神様の栄光を豊かに現していく存在となりますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。
アーメン。愛するイエス様、私たちを呼び出してくださったことを感謝します。現代はバビロンの時代のように、神様の言葉が軽んじられる世の中です。しかし、そのような中にあっても、私たちが世の中で秀でた者、知恵深い者となり、外見も内面も健やかで美しい者へと成長させてください。
神様にあって祝福され、知恵と力が10倍となる私たちでありますように。若い世代の子供たちに御言葉の教育を施すことが、どれほど素晴らしいことでしょうか。つくばみらいの地において、この時代のダニエルやエステルのような若者たちを育んでいくことができますように導いてください。今日いただいた御言葉に感謝し、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りいたします。アーメン。
