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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:肉と血(申命記12:15-28):右クリックで保存

荒野の民は、約束の地に入るまでの間、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず「礼拝」を通さなくてはならなかった。
すなわち、それらを主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。(レビ記17:1-9)

しかし、約束の地に入ったなら、牛や羊、やぎも含め、好きなように肉を食べる事ができるようになる。
『あなたの神、主が賜わる恵みにしたがって、すべて心に好む獣を、どの町ででも殺して、その「肉」を食べることができる。すなわち、かもしかや雄じかの肉と同様にそれを、汚れた人も、清い人も、食べることができる。』(申命記12:15)

なぜ、約束の地に入るまでの期間は、牛や羊、やぎの肉を勝手に食べる事は出来ず、必ず「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、彼らがエジプトにいた時に染まってしまった偶像崇拝の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。(レビ記17:1-9)

エジプトでは、牛や羊、やぎなどは、崇拝の対象となっていた。
レビ記の命令が与えられた時点では、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。

イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す「毒抜き」のために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行う事を、イスラエルの民は約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。
同じように、私達も、毒抜きすべき、以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔する。
しかしそれらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来るようになる。

主は、約束の地では肉を好きなように食べることを許されたが、二点、注意しなくてはならない事がある。
一つは、牛や羊、やぎなどを「主への捧げ物」とする場合は、荒野で命じられた時のように、主が選ばれる場所でしか、食べてはならない事。(申命記12:17)
もう一つは、血を食べてはならない事。
『その血は食べてはならない。水のようにそれを地に注がなければならない。あなたの穀物と、ぶどう酒と、油との十分の一および牛、羊のういご、ならびにあなたが立てる誓願の供え物と、自発の供え物およびささげ物は、町の内で食べることはできない。あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの神、主の前でそれを食べなければならない。すなわちあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、および町の内におるレビびとと共にそれを食べ、手を労して獲るすべての物を、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。』(申命記12:16-18)

血を食べてはならない、これはノアの時代以来、主が命じられた事であるが、血は、聖書では、とても重要な意味がある事が記されている。
実際、血には多くの情報が隠されている事が、科学的にも立証されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。

血は、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。(出エジプト記24:8、マルコ14:24)
日本では印鑑は契約のしるしとして用いられるが、印鑑の押された文書は、ある種の荘厳さと説得力がある。
それに対し、契約のしるしである血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。

血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
また、血潮はきよめの役割を果たす。(ヘブル9:13-22)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては、キリストにある私達の弁護を叫び、サタンに対しては、イエスの血を流した事の罪定めを叫ぶのだ。

律法では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と言われているが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)

聖書で血潮がとても重要なものとして位置づけられている理由は、イエスの血潮の重要性を示すため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:主を喜ぶ事は力である(申命記12:5-14):右クリックで保存

イスラエルがカナンに入って真っ先に為すべきは事は「きよめ」だった。その次に為すよう命じられている事は、感謝と喜びをもって、礼拝を捧げる事である。
きよめた後に、礼拝を捧げる。この順番は大事である。
『あなたがたの神、主がその名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ばれる場所、すなわち主のすまいを尋ね求めて、そこに行き、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物と、誓願の供え物と、自発の供え物および牛、羊のういごをそこに携えて行って、そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである。』(申命記12:5-7)
私達も、主が約束を成就して下さった時には、感謝と喜びをもって礼拝を捧げ、兄弟姉妹と共に、御前で喜び楽しむべきである。

そして、礼拝を捧げる際には、人が勝手に定めた所ではなく、主が定められた所を尋ね求め、そこに行き、主が定められた通りに礼拝を捧げるよう命じられている。
『あなたがたがヨルダンを渡り、あなたがたの神、主が嗣業として賜わる地に住むようになり、さらに主があなたがたの周囲の敵をことごとく除いて、安息を与え、あなたがたが安らかに住むようになる時、あなたがたの神、主はその名を置くために、一つの場所を選ばれるであろう。あなたがたはそこにわたしの命じる物をすべて携えて行かなければならない。すなわち、あなたがたの燔祭と、犠牲と、十分の一と、ささげ物およびあなたがたが主に誓ったすべての誓願の供え物とを携えて行かなければならない。』(申命記12:10-11)

私達も、御言葉というガイドラインを無視して、自分の目に正しいと見られる事を行ってはならない。
『そこでは、われわれがきょうここでしているように、めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。』(申命記12:8)と言われている通りである。

もし、御言葉に聞くということをせず、めいめいが「これが正しい」と見える事に従って、好き勝手に振る舞うとしたら、士師記のような殺伐とした苦しみの時代に突入してしまう。
士師記の時代が、なぜ、殺伐とした時代になってしまったのか。
その理由は「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」からだった。(士師記21:25、17:6)

もしある人が「これは神に喜ばれるだろう」と思って、朝夕に冷水浴びを欠かさずするとしたら、それは神様に喜ばれるのだろうか?
答えは、ノーである。
なぜなら、「主に喜ばれるために冷水を浴びよ」などと聖書のどこにも書いていないし、むしろ、行いではなく信じる事こそ主は喜ばれる事が、聖書の至る所に書いてあるからである。

今の時代、私達が、主の御前に正しく礼拝を捧げるには、どのような手順を踏めば良いのだろうか。
それは、イエス・キリストを通して、である。
『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネ14:6)

イエス・キリスト無き礼拝は、無効である。
イエス・キリストの名によらない祈りは、無効である。(ヨハネ14:13-14)
イエス・キリストの御名以外に、救いは無い。(使徒4:12)

モーセは、主を礼拝する時は、自分の家族だけでなく、自分のしもべやはしためも、そしてレビ人も、共に主を喜んで礼拝が捧げられるようにしなさい、と、命じている。
『そしてあなたがたのむすこ、娘、しもべ、はしためと共にあなたがたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。また町の内におるレビびととも、そうしなければならない。彼はあなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないからである。』(申命記12:12)
しもべやはしためには、自分の所有物が無い。そこで、彼らも主に捧げものが出来て、共に礼拝を捧げる恵みに与れるように命じている。
それはちょうど、親が、子供も献金を捧げられるようにと、お金を持たせるのと同じである。
また、レビ人は神に仕える働き人であり、地上の仕事を持ってはならない故、彼らも共に礼拝を捧げる恵みに与かるために、彼らを招くよう命じられている。

私達も、主が願っていた事を叶えて下さった時には、必ず、主の御前に戻って感謝の礼拝を捧げ、御前で喜び楽しむ事を忘れてはならない。
礼拝は、喜びであり、神と人とが共に交わり楽しむものである。
もし礼拝の中に、喜びも無いとしたら、それはどこか間違っている。
もし礼拝に「嫌さ」「窮屈さ」があるとしたら、それは主体が「主」にではなく、自分の「行い」になっているため、そこには何の意義も見いだせないはずである。
礼拝は本来、「主」が主人公であり、主に対する感謝と喜びに満ちたものである。
そして、主を喜んで礼拝するなら、日々の生活に喜びと力が湧き起こってくる。
『主を喜ぶことはあなたがたの力です。』(ネヘミヤ8:10)

礼拝説教メッセージ音声:古き罪の性質は滅ぼし尽くせ(申命記12:1-4):右クリックで保存

『これはあなたの先祖たちの神、主が所有として賜わる地で、あなたがたが世に生きながらえている間、守り行わなければならない定めと、おきてである。』(申命記12:1)
申命記5章から11章までの所では、主の命令を守り行うなら、祝福され、守り行わないなら、呪いを受ける、という法則が、繰り返し述べられて来た。
その中で、最も重要ないましめは、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛すべき事であり、そして、主の命令を守り行うべき事が再三命じられて来たが、今回の12章から26章までの所では、具体的な生活の場面場面において、どのようにそれらを適用して行くべきかが、記されている。

『あなたがたの追い払う国々の民が、その神々に仕えた所は、高い山にあるものも、丘にあるものも、青木の下にあるものも、ことごとくこわし、その祭壇をこぼち、柱を砕き、アシラ像を火で焼き、また刻んだ神々の像を切り倒して、その名をその所から消し去らなければならない。』(申命記12:2-3)
主と共なる、きよい、新しい生活に入るために、真っ先にしなくてはならないは、「きよめ」である。
イスラエルがカナンに入って、真っ先にするべき事は、以前、その地で行われていた偶像礼拝の痕跡を、跡形もなく滅ぼし尽くし、淫らな行いの痕跡を消し去る事である。

私達も、キリスト者として、聖なる新しい生活に入るためには、以前の古い罪の性質、滅ぼしつくすべきである事を、パウロは命じている。(エペソ4章)

私達はキリストを知る以前、この世にあって虚しく歩み、知性においては暗くなり、無知と頑なな心の故に、神のいのちから遠く離れ、霊的には無感覚となり、あらゆる不潔な行いを、ほしいままに為して放縦に身をゆだねていた。
しかしキリストは、私達を罪と死の行いから離れ、義と聖とを備えた新しい人を着て生きるようにと、召し出して下さったのだ。
『あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。』(エペソ4:21-24)

そういうわけで、私達は、以前の古い生き方を捨て去るべきである。
『神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。』(エペソ4:30-32)

神は、イスラエルの民に、かつてそこで行われていた偶像崇拝の痕跡を、一切消し去るよう命じられたように、私達も、怒る事、盗む事、悪い言葉を口から出す事、また、すべての無慈悲、騒ぎ、そしり、いっさいの悪意などを、古い生き方と共に、滅ぼしつくす事が、命じられている。
それらを滅ぼし尽くして、はじめて、新しい聖なる生活を営む事が出来るのだ。

だがイスラエルは、滅ぼしつくすべき事を、徹底して行わず、追い払うべきものを追い払わず、妥協したまま、それらとの共存生活を始めかけていた頃、主の使いが現れ、言われた。
『あなたがたはわたしの命令に従わなかった。あなたがたは、なんということをしたのか。それでわたしは言う、『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わないであろう。彼らはかえってあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたのわなとなるであろう』と」。主の使がこれらの言葉をイスラエルのすべての人々に告げたので、民は声をあげて泣いた。』(士師記2:2-4)
そしてイスラエルは、暗く、殺伐とした、士師記の時代へと、突入して行ったのだ。

私達も、以前の古い性質、神に喜ばれない滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくさないでいると、主は、私達の前から敵を追い払わず、私達は敵の前で立てなくなってしまい、士師記のような、人生の荒んだ時代へと、突入してしまう。
私達が、きよい、聖なる生活をしたいと思うのなら、まず、滅ぼしつくすべきものを滅ぼしつくすべきなのだ。
以前の古い性質、すなわち、怒り、偽り、不品行をしっかり取り除き、生きている限り幸いと祝福の生活を続けていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:祝福と呪いの宣言(申命記11:22-32):右クリックで保存

モーセは再度、主の命令を、努めて守り行うように命じている。
『もしわたしがあなたがたに命じるこのすべての命令をよく守って行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、主につき従うならば、主はこの国々の民を皆、あなたがたの前から追い払われ、あなたがたはあなたがたよりも大きく、かつ強い国々を取るに至るであろう。あなたがたが足の裏で踏む所は皆、あなたがたのものとなり、あなたがたの領域は荒野からレバノンに及び、また大川ユフラテから西の海に及ぶであろう。』(申命記11:22-24)

モーセは神を、「あなたの神である主」と言っているが、皆さんは、両親を「わたしの父と母」と当然のように呼ぶごとく、皆さんの信じている神、主を、「わたしの神」と当然のように呼んでいるだろうか。
この主を「わたしの神」として愛し、主が命じられた道に歩み、つき従うなら、主は敵を、目の前から追い払われる。
いかに相手が自分達よりも強く、大きくとも、主が勝利させて下さるのだ。

私達が御言葉を守り行うなら、主は、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を踏みゆかせ、そこを与えて下さる。
その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
主の御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になり、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、狭まっていた心が開放され、出来なかった事が出来るようになって行き、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るようになるからだ。

『見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。』(申命記11:26-28)
祝福と呪い、この、とてもシンプルな二者択一は、私達の人生の前にいつもつきまとう。誰も、この二択、すなわち、神である主の御言葉に聞き従うか、それとも、それに反して生きるかという選択からは、逃れられない。
もし主の御言葉に聞き従って生きるなら、祝福され、幸いを得る。しかし、主の御言葉に聞き従わずに自分の好き勝手に生きるなら、のろいを受け、不幸せになる。
これは、誰もが例外なく、そうである。

『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く、それは、主がおよそ500年も前に、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで主が子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主を礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
主は、およそ500年も前からの約束を、誠実に果たそうとしておられたのである。

主がその500年来の約束を果たされた暁には、その重要な場所で、祝福と呪いを宣言しなさい、と、主は命じている。
具体的には、もしこれから主が命じられた事を守り行わず、主の忌み嫌われる事をするなら、呪われよ、と、自ら宣言するのである。(申命記27章)
私達も、主から幸いを受けた時こそ、油断せず、主の憐れみといつくしみを思い起こすよう、幸いを受ける前の段階から、信仰をもってシュミレーションしておくべきだ。

御言葉を守り行って生きるなら祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々宣言しつつ、恐れとまごころを持って主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:メズーザー(申命記11:13-21):右クリックで保存

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)

祝福の条件は、やはり「命令によく聞き従う事」であり、既に6章でも命じられた通り「あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕える」事である。
モーセはこの命令を再度繰り返したし、イエス様もこれは最も大切な戒めであると言われた。
これをするなら、主は、秋の雨と春の雨を時に従って降らせ、穀物や果物を豊かに取り入れさせ、また、家畜のための養いも豊かにして下さる。

『あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:16-17)

前回の箇所では、イスラエルがこれから入ろうとしている地が、どんなに素晴らしいかが、強調されていた。
そこは、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている地、主の目が年がら年中注がれている良き地であるが、しかし、もし主から離れ去り、偶像を拝むようになるとするなら、その良き地は、逆に不毛の地となり、災いと滅びの地に早変わりしてしまう。
実際、エリヤの時代のイスラエルがそうだった。(1列王記17章)
当時の王・アハブも、またイスラエルの民も、バアルやアシェラ等の偶像礼拝を盛んに行ったために、天の雨が閉ざされ、それで三年たってもなお主に立ち返ろうとしなかった。
しかし、イスラエルの民が「主こそ神です」と叫び、バアルやアシェラの預言者を殺したところ、イスラエルに雨が戻ってきた。

私達は、どんな良きポジションを得るかを求め急ぐより、もっと大切な事がある。
荒野にいようとも、乳と蜜の流れる良き地にいようとも、私達を導かれる主を愛し、主の命令を守り行う事が、はるかに大切だ。なぜなら、いかに乳と蜜の流れる豊かな地にいようとも、どんなに富や権力、名声を手に入れようとも、もし、主から心が離れ、主以外の何かを主以上に頼りとするなら、どんなに頑張っても、必ず廃れ、滅んでしまうからだ。

そして私達は、体だけ礼拝に参加すれば良いものではない。
いかに、礼拝や聖徒の交わりに欠かさず参加しても、それらの中で取り交わされる「御言葉」に対する感動や喜び、主イエス様に対する感謝も、期待する心も無いなら、ただ、聖なる時間と空間と、愛さん会のお菓子を食いつぶしているだけである。
大切なのは、どこにいるかではない。誰といるかでもない。
本人自身が、御言葉なる主イエス様と、どのように向き合うか、である。

『それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。』(申命記11:18-21)

ユダヤでは、今回の箇所・申命記11:13-21が、小型の羊皮紙に記したものを、メズーザー(ヘブル語で「門柱」)と呼ばれる小型のケースに納め、それを家の柱や門柱に打ち付けている。
それは「家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。」という命令を、そのまま守り行うためである。

しかし、御言葉を門に打ち付けたり、トイレに飾ったりする事よりも、むしろ御言葉を心に打ち付け、御言葉通りの良き行いで身を飾る事のほうが大切である。
パリサイ人は、御言葉の書かれた経札を額に結びつけ、その経札の幅を広くするなど、人に見せるためのパフォーマンスは派手にして、それでいて、正義やあわれみ、誠実という、さらに大切にしなくてはならないものを、おろそかにしている様を、主に咎められた。(マタイ23章)

大切なのは、御言葉に書いてある事を、信仰によって結びつけ、実践する事である。
そうでないなら、聞いた言葉も、益とはならない。
『福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息にはいるのです。』(ヘブル4:2-3)

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。』(申命記11:13-15)
御言葉をしっかり心に刻み、御言葉どおりの行いによって身を飾り、申命記に約束されている通りの幸いと祝福にあずかる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の目が注がれ、天の雨で潤った地(申命記11:8-12):右クリックで保存

『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)
主の御言葉を守り行うなら、実に多様な、祝福の特典にあずかれる。
今回、モーセはその特典の一部として、「強くなり」「渡って行って取ろうとする地に入り」「それを取ることができ」「そこで長く生きる事が出来る」特典を披露している。

主がイスラエルを導き入れようとしておられる地は、どんな地か。
そこは、主がアブラハムの子孫に与えようと、400年以上も前から常に目を注ぎ、準備しておられた地。
乳と蜜が溢れ流れるような、滋養に満ちた甘さが満ち溢れるような地である。
神は私達も、世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされており、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた。(エペソ1:4-5)

『あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。』(申命記11:10-12)

イスラエルの民は、荒野の旅路で、何度か、エジプトをなつかしんだ。
確かにエジプトは、ナイル川によって潤っているが、主がこれから導き入れようとしている地は、そんなものではない。
主が導き入れようとしている地は、山あり谷ありの地であるが、汗水流して労苦する所でもない。
エジプトでは、人が目をかけて畑の面倒を見なくてはならなかったが、この地は主の目が常に注がれ、主がいつも面倒を見ておられる地である。

創世のはじめ、地は、沸き上がってくる泉によって全地が潤っていたが(創世記2:16)、同じように、主が導き入れようとしておられる地は、年の始めから年の終わりに至るまで、いつも主が目を留めておられ、天の雨で潤っている地である。
神の国とは、そういう所である。
人が夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
人が知らなくても、神の国の地は、おのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。そして実がいると、すぐにかまを入れる。(マルコ4:28-29)

人が主の御言葉に従順に歩んでいた時代、まだ善悪の木から取って食べず、神から離れず、罪も死も無かった時代の土地は、年がら年中、端から端まで、主のケアが行き届いていて、あらゆる良き実が成っており、人は、どの木からでも、思いのまま取って食べて良かった。ただ、善悪の知識の木を除いて。
今の世界は、その良き世界とは、かけ離れている。人は、額に汗を流して労苦し、食を得なくてはならない。
その理由は、ひとえに、主の命令に聞き従わなかった結果である。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る。」(創世記3:17-19)

汗水流し、いばらやあざみと格闘して、苦しみつつ食を得る。
エジプトはまさに、そのような状態であった。イスラエルの民はその状態をなつかしんだが、それは世から奴隷としてこき使われ、一生苦労するパターンである。

『ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。』(申命記11:8-9)

礼拝説教メッセージ音声:主の力強さと恐ろしさ(申命記11:1-7):右クリックで保存

今回の箇所では、モーセは約束の地に入ろうとしているその世代に対し、主の民を虐げた者達に対して為された恐ろしい御業を、思い起こさせている。

『あなたがたは、きょう、次のことを知らなければならない。わたしが語るのは、あなたがたの子供たちに対してではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを知らず、また見なかった。』(申命記11:2)
エジプトから脱出した当時の成人男性は、主の大いなる御業を見、体験しておきながら、主を信じず、主に逆らったため、ヨシュアとカレブを除いて、全て死に絶えてしまった。

モーセは言っている。主の訓練と、主の大いなる事と、その強い手と、伸べた腕とを経験したのは、他の誰でもなく、あなたがただ、と。
私達も、他の誰でもなく、私自身が、主の命じられた事を守り行うべきである。
主の力強い御手のわざが働かれるのを見て経験し、主の訓練を受けたからには、それなりの責任も問われるのだ。

『また彼らは主がエジプトで、エジプト王パロとその全国に対して行われたしるしと、わざ、また主がエジプトの軍勢とその馬と戦車とに行われた事、すなわち彼らがあなたがたのあとを追ってきた時に、紅海の水を彼らの上にあふれさせ、彼らを滅ぼされて、今日に至った事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
主は、イスラエルを400年もの間虐げてきたエジプトに、モーセを使わして警告を与え、それでも頑なにイスラエルを去らせようとしなかったエジプトを、十の災いで打ち、さらには、軍勢や馬、戦車でイスラエルを追い迫ってきた者達を、紅海の水で滅ぼした。
主は明確に、神の民とそうでない者とを区別され、主の民は主のプライドにかけて守り、主の民を虐げてきた者に対しては、いつまでも悔い改めないなら、恐ろしい災いを下されるのだ。

『またあなたがたがこの所に来るまで、主が荒野で、あなたがたに行われた事(をことごとく見た。)』(申命記11:3-4)
次にモーセは、イスラエルの一人一人が、荒野で実際に体験した、主の大いなるわざを思い起こさせている。
彼らは40年の間、日々、超自然的に与えられるマナによって養われ、40年もの間、彼らについて来た岩から水を飲み、着物も磨り減らず、足も腫れなかった。そして、昼は雲の柱、夜は火の柱によって守られ、導かれて来た。
彼らは奇跡そのものを食べ、飲み、着て、導かれて歩んで来たのだ。

私達も日々、主によって養われている事を、忘れてはならない。
主は、確かに衣食住の養いを下さるが、日々キリストにあって霊的なパンを、霊的な飲み物を私達に与え、それらによって養っておられる。
『わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。』(1コリント10:1-6)

いかに神の民として神に養われた経験があろうとも、悪をむさぼるなら、主は確かにその者を滅ぼされる。
モーセはその事を思い起こさせている。
『ルベンの子のエリアブの子、ダタンとアビラムとにされた事、すなわちイスラエルのすべての人々の中で、地が口を開き、彼らと、その家族と、天幕と、彼らに従うすべてのものを、のみつくした事などを彼らは知らず、また見なかった。しかし、あなたがたは主が行われたこれらの大いなる事を、ことごとく目に見たのである。』(申命記11:6-7)

ダタンとアビラムは、モーセからの話し合いの提示を無視し、自分の天幕に引き込んでいたが、主は、彼らの足元の地の口を開き、彼らの天幕ごと地の奥深く落ちて行かせ、生きたまま、よみに降らせた。
主は確かに、主の民を虐げる異邦人に対して災いを下されるが、主の民が主に逆らった場合に下される災いは、それより、もっと恐ろしいものである。

イスラエルの民は、それらを見たのだから、主を恐れ、主の教えを子々孫々に伝えなさい、とモーセは言っている。
私達も、主の恐ろしさと力強さ、そして、憐れみ深さと、愛に満ちておられるご性質を、周りの人達に、そして子々孫々に伝えるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:心の割礼を受けよ(申命記10:12-22):右クリックで保存

『イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。』(申命記10:12-15)

主がイスラエルに、そして私達に求めておられる事、それは、心をつくし、精神をつくして主を愛し、主に仕え、主を恐れ、主の道に歩む事であり、そうするなら幸いを得る。
これは既に、幾度も聞かされた事であり、申命記の核とも言える命令である。

主の祈りや使徒信条などもそうだが、私達は、幾度も同じ事を言われたり繰り返されたりすると、次第にその内容が漠然として来て、意味を忘れてしまいがちになってしまうが、そうならないよう気をつけたい。
例えば、総理大臣など地位の高い人から、何か重要な仕事を任された時、きっと皆さんは、心をつくし、精神を尽くしてそれを思い巡らし、為すべき事を尋ね求め、粗相のないよう頑張るであろうが、皆さんは、総理大臣よりも遥かに地位の高い主の奉仕に当たる時、心をつくし、精神を尽くして、主に喜ばれる事を尋ね求め、御言葉を思い巡らし、主に対して粗相のないよう頑張っているだろうか。
私達は、繰り返す所に、慣れてくる所に油断が生じてしまいがちになるため、そこを気をつけたい。

『それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。』(申命記10:16)
割礼とは、肉を削ぎ取る事であり、肉とは、人間生来の罪に傾く性質や、神を除外した人間的な力や考え方全般である。
神はアブラハムに、男子は全て包皮の肉を切り落とす「割礼」を、契約のしるしとして与え、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、「肉を削ぎ落とす事」は、神の民としての必要条件である。(創世記17:9-14)
重要なのは、肉体に割礼を施す割礼よりも、むしろ、心の割礼である。
『というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。』(ローマ2:28-29)

心が肉に覆われているなら、すなわち、肉体的な力や世的な考え方を野放しにし、罪へと傾く性質を放置したままにしているなら、その心は罪人と何ら変わらず、神の民としての条件を果たしていない。
私達は、神から離れた思考や、自己中心的な罪深い行動パターンという「肉」を排除し、心の割礼を受けなくてはならない。

『あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。』(申命記10:17)
主は公平なるお方であり、人々を偏り見ず、在留異国人を愛される主である。

律法を読むと、あたかも主は、異邦人は容赦なく滅ぼしつくすべし、と言っているように錯覚してしまう事もある。
しかし、主が言われる「滅ぼし尽くすべき者」とは、カナン人やエブス人など、約束の地に巣食う邪悪な先住民であり、選民以外の異邦人は全て殲滅すべし、という事ではない。
主は、イスラエルの神・全能なる主を慕い求めて集う異邦人に対しては、恵み深い。
それだから私達のような、東の果てに住んでいる異邦人さえも、この主の憐れみが注がれ、主キリストにあって救われたのである。

『あなたの神、主を恐れ、彼に仕え、彼に従い、その名をさして誓わなければならない。彼はあなたのさんびすべきもの、またあなたの神であって、あなたが目に見たこれらの大いなる恐るべき事を、あなたのために行われた。あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた。』(申命記10:20-22)

イスラエルをこのように数多くして下さったのは、主である。
エジプト滞在中のイスラエルのように、一つの民族がもし虐待されるなら、普通なら人生に希望を見いだせず、結婚して子供を産む事にも消極的になり、その民族は減っていくものだが、イスラエル民族は逆にますます増えて行った。(出エジプト1:12)
まさに、主が直接介在して、いのちを増やして下さったからである。

それは、既に再三言われた通り、イスラエル人が誰よりも正しいからではない。
主が恵み深く、御心のご計画をもって、アブラハムの子孫を通して世界を救おうとされたからである。
だから主は、イスラエルに、心の覆いを取り除き、心の割礼を受けよ、と命じているのである。

私達も、心を覆っている肉的な思いを切り落とし、霊的な割礼を受け、いつも霊的感受性を清く保ち、思いを新たにしておくべきである。
どのようにしてか。
それは、キリストを通してである。
『あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。』(コロサイ2:11-15)

礼拝説教メッセージ音声:新約の主の務め(申命記10:1-11):右クリックで保存

主は、モーセの執り成しを聞いて下さった。
『その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい。また木の箱一つを作りなさい。さきにおまえが砕いた二枚の板に書いてあった言葉を、わたしはその板に書きしるそう。おまえはそれをその箱におさめなければならない』。そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り、また前のような石の板二枚を切って作り、その二枚の板を手に持って山に登った。』(申命記10:1-3)

最初に主から与えられた石板は、切り出しから彫刻まで、100%、主ご自身の手によるものだったが、民が早くも、契約違反を犯したため、モーセ自身の手によって粉々に砕かれてしまった。
しかし主は、モーセの執り成しの祈りを聞かれ、再び契約の板を与えて下さる約束をして下さった。
この板は、今度は、人の側が用意し、主の御前に持って行かなくてはならない。
そして、それを主の御前に差し出した所、主は、その板に再び御指でもって、主のさとしを刻み付けて下さった。

これらの事は、旧約と新約の有り様を、良くあらわしている。
この世界は100%、主の御手の技によって成り立っており、創世の当初は極めて良い状態だった。
しかし人は、たった一つ与えられていた約束に違反し、主が創造された、この極めて良き世界を台無しに、めちゃくちゃにしてしまった。
主イエスは、そんな罪深い人間のために執り成し、十字架上で受けられた苦しみによって神をなだめて下さった。
人は、このイエス・キリストの執り成しによって義とされた事を、信仰をもって受け入れ、そして、自らの身を主のもとへ持っていくなら、主は、御言葉をその人の心の板に書き記し、もはや、神の言葉と私達とは離れ離れになる事は無くなるのだ。

『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。・・・
人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。』(エレミヤ31:31-34)

『こうしてイスラエルの人々はベエロテ・ベネ・ヤカンを出立してモセラに着いた。アロンはその所で死んでそこに葬られ、その子エレアザルが彼に代って祭司となった。』(申命記10:6)
モーセは、金の子牛の事件の時、大祭司アロンのためにも執り成して祈り、それで、アロンも打たれずに済んだが、結局、人間の祭司は不完全であり、やがては死ぬ運命にある。
だから人には、罪のない、死の無い、まことの大祭司が必要であるが、主イエス様がそのまことの大祭司として立って下さった。
『彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。』(ヘブル7:25-27)

『その時、主はレビの部族を選んで、主の契約の箱をかつぎ、主の前に立って仕え、また主の名をもって祝福することをさせられた。この事は今日に及んでいる。そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。』(申命記10:8-9)

レビ人も、祭司と同じように、主の名をもって民を祝福するようになった。
レビ人は主の前に立って「仕える人」(英語の聖書ではミニスター)であり、現代において、ミニスターは、牧師や宣教師に限らず、キリスト・イエスにあって、主のために働く人全てが、それである。
レビ人には、土地の分け前は無く、主ご自身が分け前であるが、同じように、キリストにあって主の働き人とされた私達も、世の何物かに報酬を求めるのではなく、主イエス様ご自身を、報酬として求める者達である。

『わたしは前の時のように四十日四十夜、山におったが、主はその時にもわたしの願いを聞かれた。主はあなたを滅ぼすことを望まれなかった。そして主はわたしに『おまえは立ちあがり、民に先立って進み行き、わたしが彼らに与えると、その先祖に誓った地に彼らをはいらせ、それを取らせよ』と言われた。』(申命記10:10-11)

主はモーセに、民に先立って進み、主が約束された地へと導くよう命じられたが、民を約束の地へと導き入れたのは、ヨシュアだった。
ヨシュア、それはヘブライ語でイエシュアであり、イエス・キリストも、イエシュアである。
私達も、先んじて進み行って下さるイエシュア、キリストに導かれて行くなら、主が約束された地、天の王国へ入る事が出来るのである。

キリストにあって王族の祭司とされた私達は、ミニスターとしての自覚を持ち、人々のために執り成し、天の王国のために働く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:執り成しの祈り(申命記9:22-29):右クリックで保存

モーセは、民はホレブばかりでなく、その他の場面においても主に逆らってきた事を、思い起こさせている。

『あなたがたはタベラ、マッサおよびキブロテ・ハッタワにおいてもまた主を怒らせた。』(申命記9:22)
タベラで、民は主の耳につぶやいたために、主の火が燃えあがって宿営の端が焼かれ(民数記11:1)、マサでは、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試み(出エジプト記17:7)、キブロテ・ハッタワでは、民がエジプトをなつかしんで肉が食べたいと泣き言を言ったために、主は圧倒的な分量のうずらを与えたが、欲望に駆られた者は、激しい疫病に打たれて死に、そこは「欲望の墓(キブロテ・ハタアワ)」と呼ばれるようになった(民数記11章)。

『また主はカデシ・バルネアから、あなたがたをつかわそうとされた時、『上って行って、わたしが与える地を占領せよ』と言われた。ところが、あなたがたはあなたがたの神、主の命令にそむき、彼を信ぜず、また彼の声に聞き従わなかった。わたしがあなたがたを知ったその日からこのかた、あなたがたはいつも主にそむいた。』(申命記9:23-24)
40年前に12人の斥候を遣わした時、民は斥候の報告に恐れをなし、主が「行け」と命じられているのに、逆らって「戻ろう」と言い出した。
自分と相手とを見比べて計算はするけれど、主がおられる事は度外視して、主に期待しない事、それは、主へのそむきである。
それで四十年の荒野の放浪が確定してしまったのだ。

『そしてわたしは、さきにひれ伏したように、四十日四十夜、主の前にひれ伏した。主があなたがたを滅ぼすと言われたからである。』(申命記9:25)
モーセには、こんな民のために、四十日断食する義務も無いだろうに、と思えるのに、それでもなお、彼は執り成した。
霊的な親という立場であるなら、そのような事もある。
いかに、面倒を見ている相手がわがままで、聞かず屋であろうとも、その人の救いのために、あえてその人から、打たれ通し・与え通しとなる事がある。
その時は辛いかもしれないが、主に喜ばれる事である。なぜなら主は、誰一人滅びる事を望んでおられず、その人が立ち直って、救われて欲しいからだ。
そして、その人が立ち直ったのなら、その人からは、それこそ永遠に感謝されるであろう。

以下のモーセの執り成しの祈りは、注目に値する。
もし、皆さんが、誰か執り成し祈りたい人がいるなら、「あなたの民」を、その人の名前に置き換えて祈ってみると良い。

『わたしは主に祈って言った、「主なる神よ、あなたが大いなる力をもってあがない、強い手をもってエジプトから導き出されたあなたの民、あなたの嗣業を滅ぼさないでください。あなたのしもべアブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。この民の強情と悪と罪とに目をとめないでください。
あなたがわれわれを導き出された国の人はおそらく、「主は、約束した地に彼らを導き入れることができず、また彼らを憎んだので、彼らを導き出して荒野で殺したのだ」と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの民、あなたの嗣業であって、あなたが大いなる力と伸ばした腕とをもって導き出されたのです。』(申命記9:26-29)

モーセの祈りの中には、イスラエルの民がかわいそう、とか、彼らにはこれこれの良い点があります、など、イスラエルの何かを根拠に、イスラエルを弁護する言葉は、一切、無い。そもそも、人の側には、主に喜ばれるような根拠は、何も無いのだ。
だから彼は、イスラエル人の「何か」を元に執り成す事はせず、「主がどのようなお方であるか」という点を突いて、神にイスラエルを執り成したのである。

実際、この短い祈りの中で「あなた」という言葉が言葉が6回も出て来る。そう、あくまで主語は、主なのだ。
主は真実で、栄光をお受けになるべきお方。
だから、主ご自身が人々から嘲られるような事をするなどとんでもない。
だから、あなたのその真実にかけて、イスラエルを憐れんで下さい、アブラハムに約束されたその真実にかけて、その約束を覚えて下さい、と。
そのように、主の真実を、主の約束された御言葉を盾にして祈る祈りは、有効である。

主の御心は、誰ひとり罪の内に滅びず、救われる事である。(エゼキエル18:23,31-32、ヨハネ3:16)
それで主は、破れ口に立って、執り成して祈ってくれる人を、求めておられる。(エゼキエル22:30)
私達も、使わされた場において、執り成し祈る者として、神と人との間に立ち、日々祈るべきである。

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