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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主に逆らった罪の数々も思い起こせ(申命記9:7-21):右クリックで保存

『あなたは荒野であなたの神、主を怒らせたことを覚え、それを忘れてはならない。』(9:7a)
主がイスラエルに、カナンの良い地を得させて下さるのは、あなた方が正しいからではない、と、モーセは三回繰り返した。むしろイスラエルは、主に逆らい通しで、うなじのこわい(頑なな)民だ、と指摘し、イスラエルが今までいかに主に逆らい、主を怒らせてきたかを、詳細に思い起こさせている。

私達も、自分が主に逆らって来た数々を思い返し、その過去と正面から向き合う事は、有益である。
自分がいかに、主の御前に醜い事をして来たか、どんな迷惑を、神と人とに為して来たかを、真正面から見つめ、それを悲しみ、悔い、もう二度と神と人とを悲しませる事をすまい、と決心するのだ。
自分がして来た、悪しき事の数々にも関わらず、主は、いかに良き事をして来てくださったのか。
それを知れば知るほど、私達は、自分に与えられた冠は、全て主の御前に投げ出し、ただ、主にひれ伏す以外には無い事を、知るのである。

自分がして来た恥ずべき事を、指摘されるのを嫌がったり、そこから話題を逸そうとしたり、あるいは、指摘している人のほうを逆に訴え、攻め立てる者がいるが、そのような人は、いつまで経っても恵みの深みに入る事は出来ず、呪われた生き方から脱却出来ない。
自分の罪と向き合う事をしないから、罪は相変わらず手付かずのまま残ったままで、その罪が神との隔ての壁となり、祝福の窓は、閉じられたままだからだ。
アダムやカインが、神様から罪を指摘された時、自分の罪を認めるのではなく、逆に神を訴え、それによって呪いが確定してしまったように、罪を認めず、逆に、神や人を訴え出るのは、呪いとさすらいと拒絶を受けるべき性質である。

『あなたがたはエジプトの地を出た日からこの所に来るまで、いつも主にそむいた。またホレブにおいてさえ、あなたがたが主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを滅ぼそうとされた。わたしが石の板すなわち主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために山に登った時、わたしは四十日四十夜、山にいて、パンも食べず水も飲まなかった。』(申命記9:7-9)
モーセはまず、四十年前、イスラエルがホレブ山のふもとで、主を怒らせる事をしたのを思い起こさせた。

モーセは主から契約の板をいただくために、四十日四十夜断食し、主に求めた。
それなのに民ときたら、モーセが早く無事に山から戻ってくるのを祈るのでもなく、あのモーセという者がどうなったか分からないから、私達のために、先立っていく神々を作ってくれ、と、アロンに頼んだ。(出エジプト記32:1)

『そしてわたしが見ると、あなたがたは、あなたがたの神、主にむかって罪を犯し、自分たちのために鋳物の子牛を造って、主が命じられた道を早くも離れたので、わたしはその二枚の板をつかんで、両手から投げ出し、あなたがたの目の前でこれを砕いた。』(申命記9:16-17)

契約の石板は、あまりに「聖」であり、罪ある人間が、その前に立つなら、たちまち「聖」に打たれて死んでしまう。
サムエルの時代、多くの人が石の板を、そのまま見てしまった故に死んでしまったし(1サムエル6:19)、ウザは、契約の箱が倒れそうなのを、手で押さえただけなのに、容赦なく打たれて死んだ。(2サムエル6章)

モーセが主からいただいた石の板に、真っ先に書かれてあった事は、十戒の第一戎、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」、その次に書かれてあるのは第二戎「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」である。
民は早くも、それらを破ってしまった。
この聖なる石板が、むき出しのまま、罪を飲み食いしている彼らの前にあらわれたとしたら、彼らはたちまち打たれ、誰も残らなかった事は、容易に想像出来る。
だから、モーセが石板を割ったのは、怒りに任せてというより、民を憐れみ、主に執り成すためだったのではなかろうか。

『そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。これはあなたがたが主の目の前に悪をおこない、罪を犯して主を怒らせたすべての罪によるのである。主は怒りを発し、憤りを起し、あなたがたを怒って滅ぼそうとされたので、わたしは恐れたが、その時もまた主はわたしの願いを聞かれた。』(申命記9:18)
モーセは民のために執り成すために、再び四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。

イエス様も、悪魔の試みを受けるために荒野へ出て行き、四十日四十夜、パンも食べず、水も飲まなかった。
荒野の民は、誘惑されもせずに、四十日で堕落してしまったが、イエス様は、人として悪魔の誘惑を受け、人として悪魔に勝利した。
それによって、イエス様は私達に、悪魔に勝利する術を、手本として示して下さった。すなわち、御言葉の剣による勝利の方法である。(マタイ4章)

誘惑に遭った時は、歯を食いしばって誘惑を耐えても、無意味である。
その時は、私達もイエス様のように、御言葉の剣を差し出す事によって、悪魔に勝利出来るのだ。
私達は、人間的ながんばりによって誘惑に勝つのではない。御言葉を信じ、信仰をもってそれを宣言する事によって、誘惑と悪魔とに勝利するのだ。

礼拝説教メッセージ音声:私達が正しいからではない(申命記9:1-6):右クリックで保存

イスラエルが、これから攻め込もうとしている地は、イスラエルよりも大きく、強い国々である。
そして、彼らの親の世代から『アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか』と言われるのを、彼らは子供の時から聞かされていた。(申命記9:1-2)
不信仰な親によって、「できっこない」という否定的な思考パターンが刷り込まれているとしたら、それは、祝福への歩みの、大きな妨げととなってしまうものであるが、モーセの次の言葉は、その強力な刷り込みを打ち破らせる。

『それゆえ、あなたは、きょう、あなたの神、主は焼きつくす火であって、あなたの前に進まれることを知らなければならない。主は彼らを滅ぼし、彼らをあなたの前に屈伏させられるであろう。主があなたに言われたように、彼らを追い払い、すみやかに滅ぼさなければならない。』(申命記9:3)

信仰をもって進む時、戦うのは私達ではなく、主である。
主が焼きつくす火となって先んじて進み、主が戦い、主が勝利して下さるのだ。
だから私達も、いかに親から、不信仰で否定的な言葉の刷り込みがあったとしても、私達自身が主に信頼し、前進するなら、そうした、強烈に植えられたマイナスなものは、あっけない程簡単に打ち破られ、今まで勝てなかった敵に勝利し、今まで入れなかった領域に、入って行けるようになるのである。

そうなるためには、私達自身が実際、信仰によって一歩踏み出す必要がある。
契約の箱をかつぐ祭司が、水いっぱいたたえているヨルダン川へと、一歩足を踏み入れたら、川は堰き止められて行ったように(ヨシュア記3章)、主の御業は、私達の信仰と共に働くものであるからだ。

「アナクの子孫の前に、だれが立つことができようか」と言った、あの、四十年前の不信仰世代のように、恐れて退くなら、荒野の四十年の放浪が、前途に待ち構えている。
『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。』(ヘブル10:38-39)
しかし、私達がもし信じて、主の御心に従って行くなら、主の御業は必ず為され、必ず祝福が待っている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記9:4)
主がイスラエルを勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地の先住民が、邪悪なためだ。
これらの国々は、アブラハムの時代からずっと、何百年も悪を行っており(創世記15:16)、ついには、主の憐れみの期間が尽きてしまったため、主はこれらの国々を、イスラエルを用いて、滅ぼすに任されたからだ。

『あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。』(申命記9:5)
モーセは同じ事を、繰り返して言っている。
あなたがその地を得られるのは、あなたがたが正しいからではなく、心がまっすぐだからでもない、と。
むしろ、彼らがその良き地を得る事が出来る、もう一つの理由は、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの、信仰の故である。
親の代が信仰をもって主に仕えるなら、確かに、その人自身も、その子・孫も、祝福される。
ただし、もし子や孫の世代が、主に逆らうのであれば、その世代は、確かに呪われてしまう。

『それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:6)
モーセは、これで三度、同じ事を繰り返して言った。「あなたが正しいからではない」と。
むしろ、あなた方は強情である、本来なら、こんな良い目を見させられるには値しない者達だ、と。

私達も同じだ。
罪ある人間である私達は、本来、主の愛を受けるに値せず、主の憐れみや恩恵にあずかれるに値しない者である。
それなのに、主は私達を愛し、憐れみ、救って下さった。
それはただ、神は愛であられるからだ。
私達が正しいからでも、他より優れているからでは、決してないのだ。

主は、自分を正しいとするような傲慢な人は、放って置かれる。
むしろ、自分は救いを必要としている罪人だという自覚のある人を、救われる。
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

礼拝説教メッセージ音声:成功した時こそ気をつけよ(申命記8:11-20):右クリックで保存

『あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなければならない。あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。』(申命記8:11-14a)
モーセがここでも再度注意しているように、私達は、成功したり、富が増し加わった時こそ、最も気をつけるべきである。

アブラハムは、主がエジプトから金銀や家畜をたくさん得させて、ベテルに帰らせて下さった時、彼はかつて祭壇を築いた場所で、主を礼拝した。(創世記13:1-4)
彼は、富が増し加わった時でも、主を恐れ敬い、礼拝する事を忘れなかったが、甥のロトは、富が増し加わった事が逆に災いとなってしまった。

ロトがアブラハムと共に、生まれ故郷を離れてアブラハムについて行ったのは、アブラハムが主から祝福されているのを見、何をしても祝福される彼について行くなら、祝福のおこぼれにあずかれる、と思っていたのかもしれない。
ともかくロトは、アブラハムについて行って、実際に多くの富を手に入れた。
しかし、富を手に入れた彼は、祝福の元であるアブラハムと、彼が恐れ敬っているアブラハムの神・主と共にいる事よりも、自分が、たくさん得た富の「オーナー」である事のほうを優先させ、アブラハムから離れて行き、そして、不品行の町ソドムが「主の園のように」潤っているのを見て、そちらの方に行ってしまった。

結局ロトは、主がソドムを滅ぼされる時、娘二人と、着の身着のまま、命からがら逃げる事となり、彼の財産は全て、ソドムと共に滅んでしまった。
ロトの妻も、滅んでいくソドムを見続けたままの姿勢で塩の柱となってしまい、ソドムと一緒に滅んでしまった。
だから私達も、富が増し加わった時にこそ、注意して、主から離れないようにすべきである。

『主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。』(申命記8:14b-16)
ここでもモーセが、主がイスラエルの民に具体的に何をして下さったのかを思い起こさせているように、私達も、主が何をして下さったかを、いつも思い返すべきである。
私達は主に対しても、主にある兄弟姉妹に対しても、恩知らずになってはいけない。
『あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。』(申命記8:17-18)

私の聖書の、この箇所には、ある聖徒の名前と日付が記されている。
その聖徒は当時、ある事業をしていて、その事業はあまりうまく行っていない時だったが、上記の言葉を宣言し、主が自分達を成功させて下さった暁には、決して自分の力で富を得たとは考えるまい、主が荒野のような状況で信仰を鍛えさせ、私達に富を得る力を与えて下さり、そしてついには自分達を幸せにして下さった主の導きを、決して忘れるまい、と、宣言したので、私はその信仰の告白を嬉しく思い、後の日に、この聖徒が幸いを得た暁には、「この御言葉の通り主は真実でしたね」と伝えたいと思ったので、そこに記したのだ。
実際に翌年、その事業は祝福された。
しかし残念ながら、祝福されて以来、その聖徒は、礼拝を捧げに来る事を、ぱったりと止めてしまった。
事業がだんだん衰退して行っても礼拝に来ることはなく、ほどなくしてその事業を畳み、どこかへ行ってしまった。

主を信頼し、信仰をもって御言葉を宣言するなら、主は必ず、100%、最善を為して報いて下さる。
しかし大切なのは、その後、私達が主を忘れず、当初の信仰をキープし続けていられるかである。
主に信頼して行った結果、主から幸いを頂いた、という所までの経験は、結構多くのキリスト者がしている。
しかし、その最初の信仰をキープし続けて、祝福を頂き続ける事も、同様にコンスタントにキープしていられるクリスチャンは、少数になってしまう。

『もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないからである。』(申命記8:19-20)
英語の聖書KJVでは「ye shall surely perish. 」と、非常に強い表現である。
そうするなら、あなたは必ず、perish(突然または非業な死に方で死ぬ)と。
滅びるための手っ取り早い方法、それは、主を忘れて、他のものにより頼み、主よりもそちらを拝む事である。
全ての祝福の元である主を忘れ、他の神々、あるいは、皆さんにとって神以上に拠り頼む存在を見つけ、そちらの方に従い仕えるとしたら、必ず滅びてしまうのだ。

成功した時こそ、努めて主を思い出し、主に感謝するように、気をつける事。私達はこれを忘れないでいたい。

礼拝説教メッセージ音声:四十年の荒野の経験を忘れるな(申命記8:1-10):右クリックで保存

『わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。』(申命記8:1)
これと同じ事は、既に、申命記4:1において、また、5:32-33や、6:1-3において、繰り返し命じられている。
主の命令には必ず報いがある。
それを守って行うなら、いのちを得て、いのちが増し加わり、主が誓われた地に入り、それを自分の所有とすることが出来るが、主の命令を軽んじ、守り行わないなら、主が誓われた地から吐出され、死と呪いの実を刈り取る事になるため、モーセは繰り返し命じているのである。

『あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。』(申命記8:2)
主は確かに、私達に苦しい所を通らせる事がある。
それは、私達を試み、私達の心の内にあるものを、あらわにするためである。

主は、私達の心の内を全てご存知であるから、わざわざそんな事する必要は無いのでは、と思うかもしれないが、もし、私達がまだ悪い事を「行って」いないのに、心の内で悪い事を思った、という咎で罰されるとしたら、それは不当だ、と叫ぶだろう。
しかし、もし私達が実際に行った事によって裁かれるとしたら、それは正当な裁きであり、私達は何の言い訳も出来ない。

主は、行いの実によって報いをされるお方である、と書かれてある。
『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 』(エレミヤ17:9)
だから私達は、口先だけでなく、行いによって良き実を結び、主イエスにあって歩み、悪い実を結ばせないよう、心構えしておくべきなのだ。

『それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。』(申命記8:3)
イスラエルの民は四十年、荒野で苦しみ、試みられ、そうして主は、人はパンによって生きるのではなく、神の御口から語られる御言葉に生きるという事を、教育された。

そして、イエス様が四十日、荒野で苦しみ、試みにあわれた時、試みる者に対して主が真っ先に突きつけた御言葉の剣が、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる』である。(マタイ4:4)
人間ではない獣は、パン(食物)だけで生きているであろう。しかし人には、主の息吹が宿っている。
神の口から出るすべてのことばこそ、人には必要であり、誘惑する者に対しても、この言葉を突きつける事によって、私達は獣とは違う事を宣言するのである。

『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。』(申命記8:4-5)
主は、神の民が、ぼろぼろの古い服をまとって、みずぼらしくしている様を、主の敵に見せるようなお方ではない。
主は私達を敵の前で油を注ぎ、装わせて下さるお方だ。
「天はやがて煙のように消え失せ、地は衣のように古びる。しかし、主の義はとこしえに続く」と、イザヤ51:6-8に記されている通り、服は元々、古びるものである。
しかし、神の民の衣は古びなかった、という事は、神の民は、決して古びる事の無い主の義を着ている事を、あらわしている。

『あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。』(申命記8:10)
私達は満ち足りた時こそ、感謝すべきである。
主の御言葉によって生きるべき事を忘れず、末永く幸いと祝福に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:勝って兜の緒を締めよ(申命記7:17-26):右クリックで保存

『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。すなわち、あなたが目で見た大いなる試みと、しるしと、不思議と、強い手と、伸ばした腕とを覚えなさい。あなたの神、主はこれらをもって、あなたを導き出されたのである。またそのように、あなたの神、主はあなたが恐れているすべての民にされるであろう。』(申命記7:17-19)

私達は、目の前に敵がいたり、実際に問題が起きてそれと戦わなくてはならない時、何かと恐れに捕われ主を忘れやすいが、その時こそ、主が今まで為して下さった良き事を、思い起こすべきである。
ダビデも「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と、自らの心に言い聞かせ、信仰を奮い立たせた。

皆さんは、今までの人生で、主に信頼して失望させられた事は、あっただろうか。
もし、主に失望させられた、という思いがあるとしたら、よく思い返してみると、荒野での40年の放浪の原因を作ったあの世代のように、実は、自分が主に信頼しておらず、手前勝手な行動を取って、荒野の放浪のような実を刈り取っている事に対して、主に逆恨みしているだけだったりする。
主はいつでも、いつまでも、真実である。

モーセは今一度、民に「恐れてはならない」と言っている。
そして、主が良くして下さった事を忘れるな、主が敵に対して恐るべき御業を働かせて、救いだして下さった事を思い起こせ、と言っている。
主が良くしてくださった数々を数えるなら、「この問題も、主が必ず最善へと導いて下さる」と希望が湧いて来て、そして実際、その通りになるのだ。

『あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送って、なお残っている者と逃げ隠れている者を滅ぼしつくされるであろう。』(申命記7:20)
私達が戦う時、主も共に戦って下さり、勝利を与えられる。
そればかりでなく、私達が取り逃がした敵さえ、主がくまばちを送って、滅ぼし尽くして下さる。
私達は思う。主がはじめからくまばちで一気に滅ぼし尽くしてくれればいいのに、と。
しかし、人生で為すべき物事の全ては、主とのコラボレーションであり、私達自身が実際に信仰を働かせ、主に命じられた通りに出て行き、主とともに勝ち取る必要があるのだ。

『あなたの神、主はこれらの国民を徐々にあなたの前から追い払われるであろう。あなたはすみやかに彼らを滅ぼしつくしてはならない。そうでなければ、野の獣が増してあなたを害するであろう。』(申命記7:22)
私達は、目の前にいる敵や、問題課題に対しても、主が今すぐ目の前から滅ぼし尽くし、なくして下さればいいのに、と思うかもしれない。
しかし、そうされないのに理由がある。
それは、滅びるべき敵が一気に滅びる事によって環境も一気に変わり、私達や周辺環境を害する「別の敵」がはびこる事の無いためだ。

主と共に歩むならば、勝利がある。しかし、勝利した場合にこそ、もっとも気をつけるべき事がある。
『あなたは彼らの神々の彫像を火に焼かなければならない。それに着せた銀または金をむさぼってはならない。これを取って自分のものにしてはならない。そうでなければ、あなたはこれによって、わなにかかるであろう。これはあなたの神が忌みきらわれるものだからである。あなたは忌むべきものを家に持ちこんで、それと同じようにあなた自身も、のろわれたものとなってはならない。あなたはそれを全く忌みきらわなければならない。それはのろわれたものだからである。』(申命記7:25-26)

私達は成功した時、勝利した時こそ、注意しなければならない。
実際、ヨシュア記において、強固な城塞都市エリコの大勝利の直後に、イスラエルの内に油断が生じ、アカンによる失敗があった。(ヨシュア記7章)
イスラエルが主に従順し、指導者であるヨシュアに言われた通りを、守り行った時、いかにエリコという城塞都市が強大であろうとも、犠牲者は一切出なかったようである。
しかし、自分達の身内にいる、アカンの「むさぼり」によって、実際に三十六名という犠牲者が出た。

私達が主に従順する時、主の敵は、敵とは言えない。
主が必ず勝利を与えて下さるからだ。
敵とはむしろ、私達の内にいる。それは、むさぼりであり、主に従順しない心である。

私達は、それまで手にした事の無かったような、富を手にした時、力や権力を手にした時、今まで知らなかった誘惑もまた存在する事を、忘れてはならない。
ダビデは羊飼いであった時、まさか自分が将来、人妻を手に入れたいがために、その夫を激戦区に行くよう命じ、敵の手で謀殺するなどとは、考えもしなかっただろう。
勝利した時、富を手にした時、力や権力を手にした時こそ、まさに、気をつけるべきである。
モーセはそのために、前もってしっかりと戒めを与えたのだ。
私達も、主から戒めを受ける時、祝福の地に入る準備が、ますます整えられて行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:祝福されるには(申命記7:12-16):右クリックで保存

『あなたがたがこれらのおきてを聞いて守り行うならば、あなたの神、主はあなたの先祖たちに誓われた契約を守り、いつくしみを施されるであろう。あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたの数を増し、あなたに与えると先祖たちに誓われた地で、あなたの子女を祝福し、あなたの地の産物、穀物、酒、油、また牛の子、羊の子を増されるであろう。あなたは万民にまさって祝福されるであろう。あなたのうち、男も女も子のないものはなく、またあなたの家畜にも子のないものはないであろう。』(申命記7:12-14)

祝福されるための条件、それは、もう何度も語られている通り、主の御言葉を聞いて、それを守り行う事である。
申命記28章や、レビ記26章には、御言葉を守り行った結果に与えられる祝福の明細と、そしてその反対の、御言葉を軽んじ守り行わなかった場合に与えられる呪いの明細とが、事細かに示されている。

主の御言葉を聞いて、守り行うなら、その人の土地は豊かな産物で満たされ、仕事は祝福される。
『もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ26:3-5)
麦の収穫は春に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろであるから、麦打ちが春から秋までずっと続く程、また、ぶどうの取り入れが種まきの時期まで続く程の、大収穫が与えられる、という事である。

『わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。』(レビ記26:6)
イスラエルの近辺は、古くから戦争の多い所で、また、熊や獅子などの獣も出没する所である。
そのような危険な場所にあっても、主の御言葉を守り行うのであれば、それら全ての危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。

また、敵への勝利の約束が与えられている。
『あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。』(レビ記26:7-8)
実際、聖書には、主に忠実なわずかな人数が、圧倒的多数の敵に勝利した記事が幾つもある。

『わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。』(レビ記26:9-10)
主の御言葉を守り行うなら、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無い。
新しい収穫物を倉庫に入れる時、そこには昨年穫れた作物がまだ残っており、それを捨てる、という事が、毎年あるのだ。

主の御言葉を守り行う事によって、確かに色々な祝福はあるが、その祝福の中で、最たるものは、「主に愛される事」である。(申命記7:13)
主に愛される人は、どういう人か。
『わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。』(ヨハネ14:21)
主の御言葉を聞いて、それを守り行う人が、主に愛される、というのは、結局、旧約も新約も同じである。
イエス様が言われた最も大切ないましめも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」であった。

私達にとって大切な事は、「良いこと」をするよりも「良い方」である主を愛する事である。
主を愛さない人は御言葉を軽んじ、御言葉の抜け道を考え出して御言葉を守り行えない事の言い訳をしたり、自分で作った神学を人に押し付けたりする。
しかし、主を愛する人には、さらに守る力が与えられ、あらゆる面で、ますます富む者となって行き、敵に勝利するのだ。

『主はまたすべての病をあなたから取り去り、あなたの知っている、あのエジプトの悪疫にかからせず、ただあなたを憎むすべての者にそれを臨ませられるであろう。』(申命記7:15)
主は、主を愛する人の敵に、エジプトの災いを送られる。しかし、主を愛して主に愛される人には、そのような災いには主が遭わせない。
主は言われた。「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである。」(出エジプト記15:26)

また、受けている祝福をキープするためには、私達の内に、主の憎まれるものを持ち込まない事である。
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。また彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたのわなとなるからである。』(申命記7:16)
もし、キリストを信じているのに、何しても成功しない、という事であるなら、滅ぼし尽くすべきものを、自分の中に相変わらず持ち続けていないか、点検すると良いかもしれない。

これら祝福の条件は、既に何度も聞いている通りで、モーセも何度も同じことを繰り返しているが、実際に守り行う人は少ないようである。
主を愛し、主の御言葉を聞いて、それを守り行い、ここに記されている全ての祝福で覆われる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:人の思いをはるかに超えた神の愛(申命記7:7-11):右クリックで保存

神はなぜ、イスラエルを特別視し、愛されたか。
その理由は、人間の感覚で納得の行くものではない。
『主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである。』(申命記7:7-8)

神がイスラエルを愛されたのは、イスラエルが他よりも優れているからでも、他より正しいからでも、ない。
神が私達を愛されたのは、私達が他よりも優れているからでも、他より正しいからでも、ない。
神は愛だから。
ただそれが、理由である。
『神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。』(1ヨハネ4:9-10)

私達の側には元々、聖なる神に愛される理由なぞ、何も無い。
むしろ、神の怒りを引き起こす罪深さだけがある。
罪の中に生き、神の愛と憐れみを受けるに相応しくない私達であるが、神は、ただ一方的に私達を愛し、ひとり子を世に遣わし、彼によって私達を生きるようにして下さった。その事によって、私達に、神は愛であられる事が分かった。

すなわち、神は、私達がまだ敵であった頃、ひとり子を身代わりとして私達のために捧げて下さったのである。
『わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。』(ローマ5:6-8)
神の愛は、まさに、人間の感覚をはるかに超えている。

『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)

神がイスラエルに、約束の地を与えられ、その地の先住民に勝利させて下さるのは、イスラエルが正しいからではない。
その地に元々いた住民が、邪悪だからだ。
その事は、アブラハムの時代に、既に主が言っておられた。(創世記15:16)

神は、このイスラエルの先祖・アブラハムの信仰と従順の故に、イスラエルを愛された。
『それゆえあなたは知らなければならない。あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして、彼を愛し、その命令を守る者には、契約を守り、恵みを施して千代に及び、また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを。主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる。』(申命記7:9)
アブラハムは神を信じ、それが義とされた。そして、自分のひとり子を捧げる程に、主への信仰を示したからこそ、神はアブラハムの子孫を祝福されたのだ。
そして、その恵みは千代まで、と約束されている。
それ程に愛を示して下さった神に、なお反逆するとするなら、当然、滅びが待っている。
『それゆえ、きょうわたしがあなたに命じる命令と、定めと、おきてとを守って、これを行わなければならない。』(申命記7:11)

礼拝説教メッセージ音声:滅ぼし尽くすべき敵(申命記7:1-6):右クリックで保存

『あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。』(申命記7:1-2)

ヨシュア記の快進撃を読んでいると、イスラエルは、とても弱い敵と戦っていたかのように見えるが、決してそうではない。
ここに記されている通り、これら7つの民は、イスラエルよりも数多く、強かった。
実際に40年前、彼らの父の世代は「こんな強い民とは戦えない」と恐れ、夜通し泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した程だった。

しかし主は言われる。
『あなたは心のうちで『これらの国民はわたしよりも多いから、どうしてこれを追い払うことができようか』と言うのか。彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロと、すべてのエジプトびととにされたことを、よく覚えなさい。』(申命記7:17-18)
主の言葉は、出エジプトした父の世代の時も、それから40年経った申命記の時代も変わらない。約束の地へ行って、滅ぼすべき民を、滅ぼし尽くせ、である。
実際、主が言われた通りに、聞き従って行くなら、あのヨシュア記の快進撃となる。
しかし、恐れをなして退くなら、民数記の荒野の40年の放浪となるのだ。

主の約束を信じ、命令どおり行くなら、必ず勝利が待っているが、そこで、イスラエルが気をつけなくてはならない事がある。
『また彼らと婚姻をしてはならない。あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、ほかの神々に仕えさせ、そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。むしろ、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かなければならない。』(申命記7:3-5)

主の怒りを引き起こすような習慣に染まり切った、異邦の男や女とは、結婚してはならない。
実際、二万四千人が倒れたペオルの事件やコズビの事件の原因は、異邦の女との結婚が元であり、イスラエルの中に、みだらな事や偶像礼拝が、はびこったためだ。

『あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。』(申命記7:6)
主は、主の民を「聖なる民」「自分の宝の民」とされた。それはキリストにある私達も同じである。
だから、先住民がそこで行っていた汚れた行いの、痕跡すら残してはならないし、私達も以前のような暗闇の生き方を捨て去るべきなのだ。

人は思う。
邪悪な民を滅ぼすのに、主はなんでわざわざ人の手に任せたりするのか。主がソドムを一瞬にして火で焼き滅ぼしたように、それをしてくれればいいのに、と。
そうしてくれれば自分達は戦争に行く必要は無いし、誘惑の元凶とも相対さずに済むし、不従順に陥ってしまう危険性も無いのに、と。

まず覚えておくべきは、主は、見境なく火を降して一気に滅ぼすようなお方ではない。
実際、ソドムの時も、問答無用で滅ぼす事をしなかった。
主は、ソドムを火で滅ぼす前に、アブラハムの執り成しを聞かれたし、また、ちゃんと使いを遣わして義人がそこにいるかを確認し、ロトを逃してから、火を下された。
主は、主に立ち返る異邦人が救われる余地も、残しておられるのだ。それで、遊女ラハブとその家族は救われた。

また主は、あえて誘惑となりそうなものを人の前に置き、その人自身の自由意志によって、それを拒否するよう、命じられる。エデンの園に、いのちの木の他に、善悪知識の木を生えさせたように。
なぜなら神は、人間をロボットのようにではなく、自由意志を持った「神の似姿」として創造され、地を支配するよう創られたからだ。
親が学校に居座って、四六時中、子供の隣で手取り足取り指示したり便宜を図っていたりしたら、子供は不健全に育ってしまうように、主は、人間をご自身の「子」として扱われ、子の領分では、子の自由意志に任せているのだ。
子が自ら親のアドバイスに従って行動するなら、学校での生活も自然と充実して行くように、私達も、この世界において、御言葉のアドバイスに従って行動するなら、この世で大いに祝福されるのだ。

主は、滅ぼすべき民を聖絶するよう命じた。
同じように、私達の内にも、滅ぼし尽くすべきものがある。
『だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。これらのことのために、神の怒りが下るのである。』(コロサイ3:5-6)

出エジプトしたイスラエルの民が、約束の地に巣食う先住民には「絶対かなわない」としりごみしたように、私達も、思うかもしれない。自分の内に巣食う、この情欲や不品行、これらと戦っても絶対にかないそうにない、と。
しかし、主ご自身が強敵と戦い快進撃したように、私達も、主に従順し服従し続けるなら、私達の内に巣食う情欲や不品行などは、御霊がそれらを殺し、快進撃し、今まで入れなかった幸いな領域にやすやすと入って行けるのだ。
「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13)

私達には、二つの選択がある。肉に従って生きるか、御霊に従って生きるか。
もし主に頼り、御霊に従って生きる決断をするなら、主が働いて下さり、今までの私達には決して出来なかった事がすんなり出来るようになり、罪と死に勝利し、多くの祝福を勝ち得る事が出来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:子供たちへの信仰のQ&A(申命記6:20-25):右クリックで保存

今回の箇所では、子供からこう質問されたら、こう答えなさい、という、Q&Aを示している。
『後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、「われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか。」』(申命記6:20)

子供が信仰についてする質問は、時に、本質を突いて鋭い。
皆さんは、子供に限らず、未信者から信仰について質問された場合に、答える準備は出来ているだろうか。
ペテロは言っている。
『また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。』(1ペテロ3:15-16)
故に、キリスト者は日々、いつでも私の望みについて、やさしく、慎み深く弁明できるよう準備しておくべきであり、また、あかしのため、そして主キリストがそしられないために、良い生活を心がけるべきである。

信仰に関する質問をされた時は、自分は以前どのような状態で、主はそんな私達に、何をして下さったか。それをまず説明すると良い。
『その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。』(申命記6:21)
イスラエルはかつて、エジプトの奴隷だった。主はそこから力強い御手で救い出された。
私達も以前は、罪に縛られ、サタンの奴隷状態だった。しかし主は、そこから偉大な御手によって救い出して下さった。
その過程がエペソ書2章に詳しく記されている。

『あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。』(エペソ2:11-13)
これが、主が私達に為して下さった事である。
キリストは、私達の身代わりに十字架上で罰される事によって、神と私達との間の隔ての壁を打ち壊し、神との平和をきたらせて下さった。

今や私達は、主にあって、どのような立ち位置を得ているだろうか。
『あなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。』(同19-22節)

当教会では、信徒の事を「聖徒」とよく呼んでいるが、あるクリスチャンは、一般のキリスト者を「聖徒」と呼ぶのはおこがましいのでは、と言う。
確かにクリスチャンは罪を犯すし、自分が「聖なる人」だとは到底思えないかもしれないが、ヘブル2:2に「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。」と書いてあるし、エペソ書にも、あなたがたは、もはや「聖徒たちと同じ国籍の者」であり、「神の家族」である、と記されている。

私達キリスト者は、使徒や預言者という土台の上に建てられた者であり、キリスト・イエスご自身が、隅のかしら石となっているのだ。
このキリストにあって、私達は古今東西の「聖徒たち」という建物へと組み込まれ、聖なる宮へと成長し、主にあって共に建てられて、霊なる神の住まいとなって行くのである。
そのように記されているからには、私達はアーメンと言って信じ、受け入れるのが筋であって、「信じられないから」と、御言葉に変な解釈を足すべきではない。

続いて主は、イスラエルを虐げてきた敵に対し、主はどうされたのか、という事も、子どもたちに教えるよう命じられた。
『主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。』(申命記6:22-23)
主はイスラエルのために、奴隷生活を強いてきたエジプトを処罰し、そこからイスラエルを救い出して、約束の地へと導き入れて下さった。
同じように、主は私達のためにも、奴隷を強いてきた罪とサタンを処罰され、そこから私達を救い出し、永遠のいのちへと導き入れて下さった。

また私達は、何のために主を信じ、どうして主の命じられた事を守り行うかを、そして、それら主のいましめを守り行ったらどうなるかも、子どもたちにしっかりと教えるべきである。
『そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。』(申命記6:24)
主の命じられた事を守り行うなら、常に幸いであり、また、主に守られ、命を保つ事が出来る。
このように私達は、子供たちへ信仰を継承するのである。

礼拝説教メッセージ音声:祝福されるための条件(申命記6:10-19):右クリックで保存

『あなたの神、主は、あなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに向かって、あなたに与えると誓われた地に、あなたをはいらせられる時、あなたが建てたものでない大きな美しい町々を得させ、あなたが満たしたものでないもろもろの良い物を満たした家を得させ、あなたが掘ったものでない掘り井戸を得させ、あなたが植えたものでないぶどう畑とオリブの畑とを得させられるであろう。あなたは食べて飽きるであろう。』(申命記6:10-11)

主はイスラエルに、大きな美しい町々を得させ、良い物で満ちた家を得させ、良い井戸やすばらしい実りを実らせる畑を得させ、食べ飽きさせて下さる。
しかしそれらは全て、自分が頑張ったり努力したりして得たものではない。主が、得させて下さるのだ。
同じように、私達も、主の御言葉に従順し、服従するなら、主は必ず私達を、多くの良き物で満ち足らせて下さる。

しかし、祝福されて満ち足りた時こそ、私達は気をつけるべきである。
主にいつも従順するよう気をつけていた、あのダビデでさえ、満ち足りた時に、罪深い事をした。
だから以下のアグルの祈りは、自分を良く知り、とてもわきまえた祈りである事が分かる。
『わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。』(箴言30:7-9)

続いて主は「してはならない」を示した。
『あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。』(申命記6:14-15)
神が特別に目をかけたイスラエルさえ、地のおもてから滅ぼされるような罪、それは、まことの神、主を捨てて、他の神々に従う事である。
実際イスラエルは、モーセの時代には六十万以上おり、ダビデの時代には、全イスラエルには剣を使う者が百十万人、ユダには剣を使う者が四十七万人いたのに、バビロン捕囚後にイスラエルに残った民は、エズラ記によると、わずか四万ほどしかいなかった。

神と人とは、夫婦のような愛の関係にある故、他の神々に従う事は、霊的姦淫である。
私達も、赤の他人が浮気していても、痛くも痒くもないが、それが自分の伴侶だとしたら、どうだろう。
同じように神も、異邦人が偶像の神々を拝んでいても何でもないが、私達主の民が、他の神々に従って霊的姦淫を行うとしたら、主は「ねたむ神」として災いを降し、いかに栄えていようとも、たちまち落ちぶれ、無い者のようになってしまう。

また、主を試みる事、それもしてはならない事である。
『あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。』(申命記6:16)

主を試みるなら、その人は主の怒りを買って、安息に入れなくなってしまう。
「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、/そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、/いきどおって言った、/彼らの心は、いつも迷っており、/彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息に/はいらせることはしない、と誓った。」(ヘブル3:7-11)

イスラエルはマサで、水が無かった時、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みた。
その結果、主はモーセに命じ、岩から水を出させた。
岩砂漠の岩から、六十万以上が満ち足りる程の水が湧き出てくる。これは驚くべき奇跡である。
それを見ておきながら、実際飲んでおきながら、主に対して何の感謝もなく、学ぶ所ない人々は、次は肉をくれ、と言い、さらに図に乗って主を試みた。
だから主は「怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」のである。

『あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。』(申命記6:18-19)
会社の経営者は、時間給で働くアルバイトと違い、自ら市場調査をし、顧客が喜ぶ事を自主的に考えて、その通り実行するが、同じように私達も、主が喜ばれる事を自主的に考え、自ら御言葉に調べ、その通り行動すべきである。

私達は、言われた事だけを嫌々ながら行い、それ以上の事をしない「霊的アルバイト」であってはならない。
そのような人には、実入りも喜びも、やりがいも少ない。
何が御心なのか、何が主に喜ばれる事なのか、御言葉をひもといて調べてみよう、こう書いてあるからそのように行動しよう、と、自らすすんで主に喜ばれる事をする人には、『あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。』という祝福の約束があるのだ。

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