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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:刺し貫かれて殺された人の対処(申命記21:1-9):右クリックで保存

今回は、刺殺体が見つかり、誰が殺したのか分からない場合の教えである。
『そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは、まだ使わない、まだくびきを負わせて引いたことのない若い雌牛をとり、その町の長老たちはその雌牛を、耕すことも、種まくこともしない、絶えず水の流れている谷へ引いていって、その谷で雌牛のくびを折らなければならない。』(申命記21:1-4)

解決困難な事件で、出番となるのは、レビ族の祭司達である。
彼らは、主の御前で仕える者であり、主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。
『そしてその殺された者のある所に最も近い町の長老たちは皆、彼らが谷でくびを折った雌牛の上で手を洗い、証言して言わなければならない、『われわれの手はこの血を流さず、われわれの目もそれを見なかった。主よ、あなたがあがなわれた民イスラエルをおゆるしください。罪のない者の血を流したとがを、あなたの民イスラエルのうちにとどめないでください。そして血を流したとがをおゆるしください。』(申命記21:6)

日本では、刺殺体が見つかって、誰が犯人か分からない場合は、時効になると、捜査が打ち切られ、そのまま事件は忘れ去られて行くが、神の支配される領域では、そのままフェードアウトという事はありえない。
イスラエルにおいてはそういう場合、最も近い町の長老たちが、祭司達の前に出て行き、たとい自分達の中にそういう事をした者がいないにしても、人の血が流されたという罪の赦しのために雌牛を犠牲にする事と、そして、その罪に関わっていない事の証言とを、しなくてはならない。

ダビデの部下ヨアブが、和平を申し出に来た将軍アブネルを、ダビデの知らない所で勝手に殺してしまった時、ダビデは、アブネルのために手厚い葬儀をし、哀歌を作って歌い、断食して、自分とその家はその罪とは関わっていない事を、そして、そのような事をしたヨアブは呪われるべきである意図を、公に示した。
そのため、『民はみなそれを見て満足した。すべて王のすることは民を満足させた。』(2サムエル3:26-39)

自分達には、無実な人の血を流す罪を犯すつもりは一切無く、これからも一切係るつもりも無く、そのような事をした者は呪われるべきだという意図を表明する事によって、周囲を安心させ、それによって、平和と尊厳の内に長く生きる事が出来るのだ。

『このようにして、あなたは主が正しいと見られる事をおこない、罪のない者の血を流したとがを、あなたがたのうちから除き去らなければならない。』(申命記21:9)
たとえ自分達はやっていないとしても、「共同体として」罪のための犠牲を捧げ、そして、自分達は潔白である事の表明をしなければならない。
それをしないのであれば、「共同体として」罪ある状態のまま、という事であろう。

「手を洗う」という行為は、自分はその罪とは関わりが無い、という、公な表明である。
ポンテオ・ピラトは、イエス様に、十字架刑を負わせる事は、自分には一切関わりが無い、と、群衆の前で手を洗って表明したが、それは間違っている。
彼が「自分には関係がない」という、その行為によって、罪なきイエス様が邪悪な者達の手に渡ったのであるし、そもそも、ピラトも、私達も、全てひっくるめて、人間の全部が、イエス様の十字架刑と関係があるのだ。
なぜなら、イエス様が十字架にかかられたのは、私達人間全ての罪の身代わりとなるためであり、イエス様がよみがえられたのは、私達キリストを信じる人全てがキリストと共によみがえり、永遠のいのちを持つためである。
だから、いくら「自分にはイエス様を十字架につけた事と関係は無い」と、何度手を洗ったところで、罪が洗い流されるわけではない。ただイエス様の流された血潮によってのみ、私達の罪は洗われるのだ。

刺殺体が見つかった時、町の長老たちが祭司たちの前に出て、雌牛を犠牲にして、その上で告白したのと同じように、私達も、まことの大祭司であり、ほふられた小羊キリストの御前に出るべきである。
そこで、自分は元々罪人であり、それをイエス様が身代わりとなって犠牲となって下さった事を、神と人との前で表明するのである。
人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのである。(ローマ10:10)

礼拝説教メッセージ音声:実を結ばせる木と結ばせない木(申命記20:19-20):右クリックで保存

続いてモーセは、長期の攻城戦となった場合の指示をしている。
長期の攻城戦は大抵、多くの犠牲を伴うものであるが、モーセはどんなアドバイスをしているか。
『長く町を攻め囲んで、それを取ろうとする時でも、おのをふるって、そこの木を切り枯らしてはならない。それはあなたの食となるものだから、切り倒してはならない。あなたは田野の木までも、人のように攻めなければならないであろうか。ただし実を結ばない木とわかっている木は切り倒して、あなたと戦っている町にむかい、それをもってとりでを築き、陥落するまで、それを攻めることができる。』(申命記20:19-20)

面白い事に、モーセは人の心配より、木の心配のほうをしているかのようだ。
主が手渡して下さった敵との戦いは、たとえ攻城戦であろうと長期になろうと、人よりも木の犠牲のほうが心配されるほどまでに、人身の損害は無い、という事が、当たり前なのだろう。
実際、主が手渡して下さった敵との戦いは、見事な程に、犠牲者はいない。(民数記31章、1サムエル13-14章、他多数)
しかし、御胸でない戦いや神を怒らせた状態での戦いは、必ず惨敗する。(民数記14:41-43、1サムエル4章、他多数)

ここの節は、訳によって意味が分かれる所で、KJVでは次のように訳されている。
「thou shalt not cut them down (for the tree of the field is man's life) to employ them in the siege(あなたはそれらを切り倒してはならない。(野の木々は、人の命であるから。)包囲戦のために”徴用”しなさい。) 」
きっとこの箇所は、人に対してだけでなく、木などの自然界に対しても、むやみに生命を奪ってはならない事を命じているのであろうが、聖書の他の箇所の「木」を「人」として照らし合わせると、色々見えてくるものがある。

『ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:7-10)

パリサイ人やサドカイ人といえば、当時の宗教指導者達であるが、ヨハネは彼らに、躊躇なく言い放った。まむしの子らよ、と。悔い改めにふさわしい実を結べ、と。
外見的に、あるいは、言っている事が、いかに立派に見えても、悔い改めにふさわしい”実”を結んでいないなら、切り倒す斧は、木の根元に置かれている。
良い実を結ばない木は、ことごとく切られて、火の中に投げ込まれてしまうのだ。

結ぶべき実とは、何か。
それは、ガラテヤ書5章に書いてある御霊の実である。

私達は、あるいは、私達が先生と仰いでいる人は、兄弟姉妹や隣人への愛があるだろうか。喜んでいるだろうか。平安だろうか。
寛容だろうか。親切だろうか。善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。柔和だろうか。自制があるだろうか。
バプテスマのヨハネは、パリサイ人やサドカイ人がこれらの「実を結んでいない」事で、彼らを見ぬいたのだろう。

豊かに結ばせるためのコツが、ヨハネ15章に記されている。
イエス様は、主こそまことのぶどうの木であり、私達はその枝、御父は農夫である事を言っている。
『わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。』(ヨハネ15:2)

私達が御神に対して、有用な実を、それも、豊かに結ばせる方法は、ただ一つ。
それはキリストに、すなわち、御言葉にしっかりとつながっている事だ。
そうでないなら、主に対して何の有用な実を結ばせる事はできず、外に投げすてられ、枯れ、集められ、火に投げ入れられるだけである。(同6節)

長期に渡る攻城戦になる時は、実を結ばせる木々が”徴用”されたように、私達も、キリストにつながり、豊かに実を結ばせるなら、主の働き人として”徴用”されるのである。
そして、神の軍の兵士として、キリストと共に、世に対し、サタンに敵対し、戦うのだ。
また、実を結ばせない木は切り倒され、邪悪な町を攻撃する際のとりでとして使われたように、主に対し有用な実を結ばせない者、肉由来の悪しき実ばかりを結ぶ者は、倒され、その持ち物は有用な実を結ばせる主の働き人達に渡され、用いられる事となるのだ。
「神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。」(伝道者2:26)

イエス様が、働きに疲れて、空腹を覚えられた時、一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかったため、その木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。
『弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。』(マタイ21:18)

イエス様の呪いの奇跡は、この、実を結ばせないいちじくの木に対してのみであったが、私達も、信じて疑わないなら、私達の前に横たわっている妨害の山に対し、海に移れ、と、イエスの名によって命じる事が出来るのだ。
そして、私達がキリストの言葉にとどまっているなら、欲しいものは何でも主に求める事が出来、それが与えられ、ますます主に栄光を捧げる事が出来るのだ。(ヨハネ15:7-8)

礼拝説教メッセージ音声:古き滅ぼし尽くすべきものは、滅ぼし尽くせ(申命記20:10-18):右クリックで保存

イスラエルから遠く離れている町々を攻撃する際は、以下のように命じられている。
『一つの町へ進んで行って、それを攻めようとする時は、まず穏やかに降服することを勧めなければならない。もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。もし穏やかに降服せず、戦おうとするならば、あなたはそれを攻めなければならない。』(申命記20:10-12)
主は、戦いの際でも、ある程度の秩序を持つよう命じており、テロのように奇襲攻撃を仕掛けたり、有無を言わせず蹂躙する事は許されておらず、まずは、穏やかに降伏する事を勧めなくてはならない。

『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。』(申命記20:13)
ここに記されてる通り、戦闘を仕掛けて良いのは、「あなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時」である。
だから、主が許されるのでなければ、戦いを仕掛けてもいけない。
ヨシヤ王は、とても良い王であったのに、戦いにおいて踏むべき手順を誤ったために、命を落としてしまった。(2歴代誌34-35章)

ヨシヤ王は、エジプトのファラオ・ネコが、他の国と戦うために行軍している所を、戦いを仕掛けようとして、出て行った。
『しかしネコは彼に使者をつかわして言った、「ユダの王よ、われわれはお互に何のあずかるところがありますか。わたしはきょう、あなたを攻めようとして来たのではありません。わたしの敵の家を攻めようとして来たのです。神がわたしに命じて急がせています。わたしと共におられる神に逆らうことをやめなさい。そうしないと、神はあなたを滅ぼされるでしょう」。』(2歴代誌35:21)
しかしヨシヤは引き返すことを好まず、かえって彼と戦うために、変装までして戦いに行ったのだが、彼は射手に射抜かれ、その傷が元で死んでしまった。

エジプトは「イスラエルから遠く離れている町々」に当たるため、戦いを仕掛けるにしても申命記20:10-15節の御言葉を適用すべきであったのに、それをせず、また、主に伺いを立てる事もしなかった。
良い行いを積んで来た王と言えども、主の命令を離れ、むやみに戦うなら、命を落としてしまう。
この出来事を、私達は教訓として、肝に命じておきたい。

なお、主が約束して下さったカナンの地へと攻め入るための戦い、すなわち、自分の生活の場を勝ち得るための戦いについては、全く別の命令が与えられている。
『あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。これは彼らがその神々を拝んでおこなったすべての憎むべき事を、あなたがたに教えて、それを行わせ、あなたがたの神、主に罪を犯させることのないためである。』(申命記20:16-18)

これらの国々の住人は、老若男女を問わず、滅ぼし尽くさなくてはならない、と、定められている。
なぜなら、この地域の人々は、アブラハムの時代より以前より、主が忌み嫌われる事を御前に積み上げ(創世記15:16)、その目盛りが、いよいよ滅ぼされるべき所へと達したからである。
イスラエルが主の命令どおり、これらの国に攻め入るなら、必ず勝利を与えて下さる。
しかしそれは、イスラエルが正しいからでも、心がまっすぐだからでも無い。逆にイスラエルの民は、主の前に強情である。
主がこれらの国を滅ぼされるのは、これらの国が、悪いからだ。(申命記9:4-6)

しかし結局イスラエルは、妥協してしまい、滅ぼすべきを、滅ぼし尽くさなかった。(士師記1章)
そのためそれが罠となり、イスラエルは偶像礼拝へと傾いてしまい、主から懲らしめを受ける事を、たびたび繰り返す歴史となってしまった。

私達にも、生活の場に残してはならない”滅ぼし尽くすべきもの”がある。
『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。』(コロサイ3:5-11)

イスラエルの民が、もしあの時、滅ぼし尽くすべき者をしっかり取り除いていたなら、どんなに妨げ無く祝福されていただろうか。
私達も、生活の場の中から、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを引き起こすようなものは、すっかり取り除くべきであり、そして、キリストという新しい人を”着”続けるべきである。
キリストという新しい人を”着”続ける人は、ますます新しくされ、真の知識に至り、そして、あらゆる死は勝利に飲まれるのである。
『朽ちるものは、必ず朽ちないものを”着”なければならず、死ぬものは、必ず不死を”着”なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを”着”、死ぬものが不死を”着”るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」』(1コリント15:53-55)

生活の中から、主の忌み嫌われるものを滅ぼし尽くすし、新しい人であるキリストを着て、ますます造り替えられ、清められ、あらゆる死を、勝利へと飲み尽くす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の戦いにおいて最も邪魔するもの(申命記20:1-9):右クリックで保存

申命記二十章は、戦いに出る時のおしえである。
『あなたが敵と戦うために出る時、馬と戦車と、あなたよりも大ぜいの軍隊を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの国から導きのぼられたあなたの神、主が共におられるからである。』(申命記20:1)
私達にも、日々、諸々の戦いがある。病や貧困、将来についての問題や課題、超えるべき壁など。

戦いに際して、真っ先にアドバイスを伺うべきは、将軍ではなく、祭司であると、モーセは命じているが、私達も同様である。
私達が真っ先にアドバイスを伺うべきは、まことの大祭司、イエス・キリストである。
『あなたがたが戦いに臨むとき、祭司は進み出て民に告げて、彼らに言わなければならない、「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである。」』(申命記20:2-4)

人は、軍勢の多い事によって救われない。馬や装備などによっても、救われるものではない。主は、馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。ただ、主を恐れる人と、御恵みを待ち望む人とを、主は喜ばれる。(詩篇147:10-11)
だから、あらゆる戦いの勝利の鍵は、いかに主を喜ばせているか、である。
数は多いけれど主の御心に反している軍と、人数は少なくても主の御心に適っている軍とが、戦った場合、必ず後者が勝つ。(創世記14章、民数記31章、士師記7章、1サムエル14章、2歴代誌20章、他多数)
神の民にとって、戦いは、人数や知恵、力よりも、主にまっすぐにより頼んでいるかどうかが大事なのだ。

それ故、戦いに際して排除しなくてはならないものは、「恐れ」であり、「未練」である。
『次につかさたちは民に告げて言わなければならない。「新しい家を建てて、まだそれをささげていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれをささげるようになるであろう。ぶどう畑を作って、まだその実を食べていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人がそれを食べるようになるであろう。
女と婚約して、まだその女をめとっていない者があれば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ彼が戦いに死んだとき、ほかの人が彼女をめとるようになるであろう。」』(申命記20:5)

神の国の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
手勢の少なさや、装備の無さは、主の戦いの妨げとなるものではない。
むしろ、気後れや恐れ、おくびょうこそ、有害である。

イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、何だったか。
それは、わずか十名の斥候の、「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)
十人の恐れが百人の恐れとなり、千人の恐れとなり、万人に、そして六十万人にまで膨れ上がって、収集がつかなくなってしまった。

地獄の火の池で永遠に苦しむ者の、筆頭たる者は、どんな者かご存知だろうか。
それは、「おくびょうな者」である。
『しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙示録21:8)
人殺しや姦淫を行う者より、なぜ、おくびょう者や、信じない者のほうが、地獄を受け継ぐ者の筆頭に来るのか。
それは、イスラエル六十万を荒野の四十年へ導いたのは、人殺しや姦淫を行う者ではなく、おくびょうな者や信じない者だったからである。

『つかさたちは、また民に告げて言わなければならない。『恐れて気おくれする者があるならば、その人を家に帰らせなければならない。そうしなければ、兄弟たちの心が彼の心のようにくじけるであろう。』(申命記20:8)
恐れは火のように飛び火すると、多くの人の心を汚染してしまう。
それは「気後れ」も、「不信仰」も、「なまけ心」も同様である。
だから私達は、信仰の戦いにおいては、まずそのような心を、まず取り除かなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:不正な者に対抗される主(申命記19:14-21):右クリックで保存

『あなたの神、主が与えて獲させられる地で、あなたが継ぐ嗣業において、先祖の定めたあなたの隣人の土地の境を移してはならない。』(申命記19:14)
受け継ぐ事の出来る相続地の広さは、荒野での第二回目の人口調査の時の部族の人数によって、永遠に決定づけられ、この時に決定された相続地の境界線は、後代もずっと変えてはならないと、主は定められた。(申命記27:17、箴言22:28、23:10)
荒野で過ごした期間は、いかに良き地を継げるか、という、査定期間のようなもので、その期間、主に喜ばれ祝福されるように過ごした部族には多くが与えられ、主の怒りを買って人数を減らしてしまった部族には、少ししか与えられなかった。

同じように今、私達が生きているこの人生は、天の国という永遠の相続というボーナスを得るための、ボーナス査定期間みたいなものだ。
天には、キリスト者が永遠に住まうマンションが、相続地として用意されており、いかに良いグレードのマンションに住まう事が出来るかというのは、この、地上での人生という査定期間にかかっているのである。(2コリント5:10)

『どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。』(申命記19:15)
約束の血において、不正な事が行われた場合、それを罰すべき罪として定めるには、必ず二人以上の証人がいなければならない事は、既に17章で学んだ通りであるが、この制度を悪用する者が出てくる事も、当然考えられる。
証人が二人以上いれば、それで罪定めが成立してしまう、という事は、偽りの証人を二人立てるなら、無実の罪を着せる事も可能である、という事だ。

『もし悪意のある証人が起って、人に対して悪い証言をすることがあれば、その相争うふたりの者は主の前に行って、その時の祭司と裁判人の前に立たなければならない。』(申命記19:16-17)
もし、証人が偽りを言っている疑いがある場合は、係争中の二者は主の前に出て、この事を時の祭司と裁判人の元に持って行かなくてはならない。

『その時、裁判人は詳細にそれを調べなければならない。そしてその証人がもし偽りの証人であって、兄弟にむかって偽りの証言をした者であるならば、あなたがたは彼が兄弟にしようとしたことを彼に行い、こうしてあなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば他の人たちは聞いて恐れ、その後ふたたびそのような悪をあなたがたのうちに行わないであろう。あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。』(申命記19:18-21)
このように、偽りの証人に対しては、その者がたくらんだ訴えた罪状に対する処罰が、そのままその者に返される。
相手の財産を取るための偽りの訴えなら、その金額をそのまま相手に渡す事となり、相手を亡き者にしようという偽りの訴えなら、その者が、亡き者とされてしまうのだ。

ダニエルを陥れるために、「王以外を礼拝する者は死刑」という法律をわざわざ作り、潔白なダニエルを亡き者にしようとする者達があった。
そしてダニエルは「主を礼拝した」かどで捕らえられ、ライオンの穴に投げ込まれたが、主は御使いを送り、ライオンの口を塞いで、主ご自身が、ダニエルの潔白を証明して下さった。
それで、ダニエルを陥れようと企んでいた者達が、自分達が計ったとおりに計り返され、妻子もろともライオンの穴に投げ込まれる事になり、彼らが穴に落ち込む前に、ライオンに食い尽くされた。
このように、主の御前に、いつも正しく歩もうとする人は、主ご自身が潔白を証明され、守って下さるのである。

聖書の考え方に、現代蔓延している「言った者勝ち」という概念は無い。
むしろ、訴える事はサタンのする事であり、不当な「訴え」をする者には、それ相応の報いがそのまま返って来るものだ。
聖書はむしろ、「主に委ねた者勝ち」なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:のがれの町(申命記19:1-13):右クリックで保存

申命記19章では、モーセは再び「のがれの町」について指示をしている。
主がイスラエルにカナンの地を得させて、そこに住むようになった時には、あやまって人を殺してしまった人が逃れるための「のがれの町」を備えるよう命じている。
その町は、どこからでも行きやすい距離とし、その町への道も備えるようにしなければならない。(申命記19:1-3)

この町に逃れる権利があるのは、人を殺してしまったのが「意図的ではない場合」であって、故意に、殺意をもって人を殺してしまった場合は、そこに逃れる権利は無く、たとえ、その町に逃げて来たとしても、その者は復讐者の手に強制的に戻される。
『彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流したとがを、イスラエルから除かなければならない。そうすればあなたにさいわいがあるであろう。』(申命記19:11-13)

逃れの町に関する主の指示は、民数記35章で詳細に見ることが出来る。
この町は、専属的に主に仕える奉仕者・レビ人達の町のうちから選ばれるものであり、誰かが意図せずして人を殺めてしまった場合、時の大祭司が死ぬまでその町の中にいるなら、復讐者の手から守られるよう保証されているが、大祭司が死ぬ前に、その町から出歩いているのを復讐者に見つけられた場合、その復讐者に殺されても仕方ないとされている。
しかし、大祭司が死んだ後にはその人は自由となり、自分の所有地に帰ることが出来るようになる。(民数記35:25-28)

この「のがれの町」は、イエス様のご性質をよく表している。
のがれの町には、意図せずして人を殺めてしまった者が逃げ込むべき町であるが、私達も、意図せず人を傷つけたり、知らない間に罪をおかしたりしてしまうため、何らかの保護措置が無いと、自らの罪のゆえに、滅ぼされてしまう。
イエス様は、そんな私達のために「のがれの町」となって下さった。

人はイエス様を、寄ってたかってばかにし、傷つけ、十字架につけたが、それがどんなにおそろしい罪か、わかっていない。
もし霊的な目が開かれたなら、神の子である聖なるお方をばかにし、傷つけ、一切の罪なきお方を十字架刑に処するなど、どれ程重い罪であるかを知るだろう。
しかし、イエス様は次の祈りをされ、御父に執り成して下さった。
『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』(ルカ23:34)

イエス様は父なる神に、彼ら(私達人間)は意図してその罪を犯していない、と、主張された。
だから私達は、「のがれの町」へ逃れる権利を得たのだ。
私達は皆、罪人であり、私達の全員がイエス様を十字架につけたようなものである。
それなのに私達は、イエス様の執り成しの祈りによって、救われたのだ。

誤って人を殺した殺人者が、神の働き人であるレビ人の町へと逃れ、レビ人の食事によって養われ、レビ人の集いで共に交わり、開放の時までかくまわれた。
同じように私達も、元々は邪悪な者であったのに、イエス様というのがれの町へ逃れ、主の働き人の集いで共に食事し、共に養われ、開放の時までかくまわれるのだ。

イエス様こそ、真の「のがれの町」である。
イエス様に留まり続ける限り、安全であるが、イエス様から、のこのこと外に出てしまうと、私達を罪定めする者・サタンに対して無防備となり、サタンに捕らえられたなら、あっけなくえじきとされ、永遠の死へ至ってしまうのだ。
のがれの町に居続けていなければならないのは、大祭司が死ぬまで、と定められている。同じように私達も、世が改まるまで、あるいは私達が死ぬまで、キリストに留まり続けるべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:偽預言者の見分け方(申命記18:20-22):右クリックで保存

『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない。』(申命記18:20)
私達は、偽預言者には気をつけなければならない。
異教の神々の名によって預言する者もいれば、まことの神である「主(エホバ)」の名を用いて偽の預言をするも、そして、主イエスの名を用いて偽の預言をする者もいる。
一体、本物の預言者と偽預言者とは、どのように見分ければよいか。

預言者を見分ける第一の鍵は、その預言がちゃんと成就するか、しないか、である。
『あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が「主(エホバ)」の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。もし預言者があって、「主(エホバ)」の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは「主(エホバ)」が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。』(申命記18:21-22)
「この事が起こる」と預言しておきながら、それが起こらないような”預言”を頻発させる者は、レベルの低い偽預言者であり、その者を恐れる事はない。

しかし、偽預言者や異教の預言者の中でも、しるしや奇跡を示して、それを実現させる者もある。
終わりの時代には、にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとする。(マタイ24章)
そういった場合は、どのように見分ければよいか。

偽預言者を見分けるもう一つの鍵は、その預言者が「イエス様をあかしするかどうか」、である。
『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。』(1ヨハネ4:1-3)

使徒ヨハネは、霊は何でもかんでも信じる事をせず、「ためしなさい」と勧めている。
ある人が、イエス様の名前は乱発するけれど、どうも、イエス様の品性とはかけ離れているような、何かおかしい、と感じたなら、その人に聞くと良い。
あなたが言っているイエス様は、どんな方ですか、と。

もし、それを聞かれてあたふたしたり、曖昧な事を答えたりするなら、その人の内のイエス様が曖昧だ、という事である。
もしその人が、イエス様が「肉体をとってこられた事」を告白しないなら、すなわち、使徒信条にあるように、イエス様が人として来られ、十字架につけられ、死んで三日後に復活し、昇天し、全能の父なる神の右に座され、生きている人と死んだ人とを裁かれるお方である、という、イエス様のご性質と品性が一切無いようなら、その人からは離れたほうが良い。

預言者は、その人自身を証するのではなく、イエス様を証しするものである。
『そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。』(黙示録19:10)
あの、使徒ヨハネでさえひれ伏そうとした御使でさえも、「自分はあなたと同じ僕仲間である」「自分ではなく神を拝みなさい」と告白したのだ。
ましてや、イエス様より自分が高められて喜ぶような偽預言者に、一体何の分があるだろうか。
預言の霊は、イエスのあかしであって、決して、預言者本人を栄光化するようなものではないのだ。

また、預言者を見極めるもう一つの鍵は、その預言者に「秩序」があるかどうかである。
『預言者の霊は預言者に服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である。』(1コリント14:32-33)
預言者の霊は、預言者に服従するものであって、決して、その人の意志を乗っ取って、見境なく無秩序にさせるものではない。
もし、ある預言者が介入した事によって、そこの礼拝の秩序を乱したり、兄弟姉妹の交わりを混乱させるようなら、疑ったほうが良い。
神は無秩序の神ではなく、平和の神なのだ。

一体、偽預言者たちは、何を好きこのんで、偽預言をするのか。
それは、実につまらないもののためである。
『人の子よ、心のままに預言するあなたの民の娘たちに対して、あなたの顔を向け、彼らに向かって預言して、言え、主なる神はこう言われる、手の節々に占いひもを縫いつけ、もろもろの大きさの人の頭に、かぶり物を作りかぶせて、魂をかり取ろうとする女はわざわいだ。あなたがたは、わが民の魂をかり取って、あなたがたの利益のために、他の魂を生かしおこうとするのか。
あなたがたは少しばかりの大麦のため、少しばかりのパンのために、わが民のうちに、わたしを汚し、かの偽りを聞きいれるわが民に偽りを述べて、死んではならない者を死なせ、生きていてはならない者を生かす。』(エゼキエル13:17-19)

彼らは、少しばかりのパンを得るために、または、二束三文の名誉欲のために、主の御名を用いて、人の人生を左右するような言葉を言おうとするのだ。
自分は普通と違う能力を持っているぞ、と、霊的に見られたいがために、あるいは、霊的指導者として人々を思うまま支配したり、あがめられたりしたいがために、そのようにしているのだ。

偽預言者の報いは、死である。
『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない。』(申命記18:20)

そして、偽預言者の霊の、行き着く先は、永遠の火による苦しみの場所、ゲヘナである。
『そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10)
主の御名をみだりに用いて、主の栄光を横取りし、人の人生を身勝手に介入したり、ほしいままに操ったりしようとする者へのさばきは、非常に大きいのだ。

私達は、しっかり真理を見極め、騙されることなく、まっすぐに真理を歩んで行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:一人の預言者の言う事を聞け(申命記18:9-19):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。また占いをする者、卜者、易者、魔法使、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらの事をする者を憎まれるからである。そしてこれらの憎むべき事のゆえにあなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。』(申命記18:9-12)

主は、主以外の神を拝んだり、伺いを立てたり、占いや口寄せをする事を、忌み嫌われる。主の他に神は無く、それ以外の神を拝んでいるとしたら、その者は悪霊を拝んでいるのだ。
今の日本は、偶像礼拝は生活の一部となっている所が多く、また、占いについては、テレビや雑誌、インターネットなどで、簡単に目にする事が出来る。
この国は本当に、主の前に災いを積み上げている。
私達キリスト者は、この国を執り成さなくてはならない。

キリスト者は、そのような表立った偶像礼拝や占いはあまりしないであろうが、そうした表向きの偶像礼拝より、「本質的な偶像礼拝」こそ、気をつけるべきである。
「本質的な偶像礼拝」とは、御言葉に聞き従わない事、主の御声にそむく事である。
『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。』(1サムエル15:22-23)

サウル王は、表面上は占いや口寄せを国内から取り除いたが、主の御言葉どおりに行わず、御声にそむいたため、王位から退けられてしまった。
御声に聞き従わないで、あくまで自分の思うがままにし続けるなら、そのうち、どんなに主に求めても主は答えて下さらなくなってしまい、サウルは最後には、自分が追い出した霊媒を呼び寄せ、死んだサムエルに導きを求め、ついには、無残な最後を遂げるに至ってしまった。(1サムエル28-31章)

私達が唯一、導きを求めるべきは、まことの預言者であるイエス・キリストである。
『あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)
モーセは、彼の後の時代に現れるひとりの預言者に聞き従うよう命じた。
この「ひとりの預言者」こそ、イエス・キリストである。(使徒3:22)

神様が、神と人とを仲介する預言者を立てるのは、人は、聖なる神の前に直接立てないからである。
『これはあなたが集会の日にホレブであなたの神、主に求めたことである。すなわちあなたは『わたしが死ぬことのないようにわたしの神、主の声を二度とわたしに聞かせないでください。またこの大いなる火を二度と見させないでください』と言った。主はわたしに言われた、『彼らが言ったことは正しい。わたしは彼らの同胞のうちから、おまえのようなひとりの預言者を彼らのために起して、わたしの言葉をその口に授けよう。彼はわたしが命じることを、ことごとく彼らに告げるであろう。』(申命記18:16-18)

人が、全能なる主の聖なる有り様に直接触れてしまうなら、死んでしまう。大祭司でさえ、自らを贖う血を携えずに至聖所に行くなら、打たれて死んでしまった。
だから、神と人との間に立つ仲保者が、必要なのである。

神は、イエス・キリストをその役割とするために使わされた。
『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)

「あがないの供え物(ヒラステリオン)」とは、贖いの蓋の事であり、贖いの蓋とは、契約の箱(アーク)を覆っている蓋である。
インディー・ジョーンズの映画の中にもアーク(契約の箱)が登場したが、箱に蓋が被さっている間は何の害もなかったのに、蓋が取られた時、そこにいた人は打たれて死んでしまう、という場面が、映画の中にあった。
それと同じように、罪ある人間は、主の「聖」に直接触れるなら、死ぬしか無い。
そこでイエス様は、人が神の聖に打たれて死ぬという事の無いように、「贖いの蓋(ヒラステリオン)」となられたのだ。それが、ローマ3章23-26節の説明である。

イエス様は、神と人との間の覆いとなられ、それで私達は、キリストにあって、神の御前に出る事が出来るようになった。
もしイエス様抜きで御前に出るなら、死ぬしかないのだ。

『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』(申命記18:19)
私達も、神が認証された預言者であるイエス様に聞き従わないとしたなら、神に責任を問われる。
結局、私達は、キリスト抜きでは御前に何も出来ないのだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の働き人としての分(申命記18:1-8):右クリックで保存

『レビびとである祭司すなわちレビの全部族はイスラエルのうちに、分も嗣業も持たない。彼らは主にささげられる火祭の物と、その他のささげ物とを食べなければならない。彼らはその兄弟のうちに嗣業を持たない。かつて彼らに約束されたとおり主が彼らの嗣業である。』(申命記18:1-2)
レビ人や祭司は、相続地を受けてはならないという”禁止命令”が出ている。(民数記18:20)
彼らの相続は、主ご自身であり、全イスラエルの代表(身代わり)として、主の奉仕に専念しなくてはならないからだ。(民数記3:49)

彼らには土地などの目に見える相続は無いが、その代わり、一般の人々が主に捧げるものの中から、受けるべき分がある。
『祭司が民から受ける分は次のとおりである。すなわち犠牲をささげる者は、牛でも、羊でも、その肩と、両方のほおと、胃とを祭司に与えなければならない。また穀物と、ぶどう酒と、油の初物および羊の毛の初物をも彼に与えなければならない。あなたの神、主がすべての部族のうちから彼を選び出して、彼とその子孫を長く主の名によって立って仕えさせられるからである。』(申命記18:3)
現代も同様に、牧師や宣教師など主のために専念して働くフルタイム献身者がおり、彼らも、聖徒たちが主に捧げる捧げものの中から、受ける分があるが、彼らは金銭を得る事を当てにして働くのではなく、ただ「キリストの福音のために」働くのである。(1コリント9章)

パウロは「献金によって生活する権利」があるのに、人々の福音を伝える妨げられぬように、そして、人々には自らの手でしっかり働く事を示すために、その権利を手放し、自らの手で働きつつ、福音の働きをした。(1コリント9:11-12)
パウロは聖なるプライドの故に、その権利を投げうったのだ。(同15節)

献身者を目指す人の中には、厳しい社会で揉まれるのが嫌だから、比較的「優しい」人達が集うキリスト教業界の中から糧を得、ぬくぬくしようと、逃避的な動機で献身者を目指す人も、中にはいるが、世の働きという「小さな事」さえまともに出来ないよう人は、神の国の働きという「大きな事」を担うべきではない。
神の国の働きは、一般社会での働きよりも、より大きな信仰が必要であり、より多くの主に対する服従と忍耐が求められるし、世の事業における責任よりも、永遠のいのちに携わる責任のほうが大きいからだ。

世で働くキリスト者は、主への捧げ物をないがしろにしたり、主のために専念して働く働き人を、ないがしろにしてはならない。
これをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまくいかなくなってしまうからだ。
『あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた。』(ハガイ書1:9)

私達はフルタイム献身者でないとしても、主イエスにあって、王族の祭司であり、守り行うべき務めがある。
守り行うべき務めとは、週ごとに守るべき礼拝であり、周りの人々に福音を伝える事であり、子どもや家族に信仰を継承して行く事である。
この、自分の家という”聖所”のつとめをないがしろにしてしまうと、あらゆる事がうまく行かなくなってしまう。

『あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。』(ハガイ1:6-11)

しかし、再び主に立ち返り、家の中で崩壊してしまった信仰を建て直すなら、その後の栄光は、以前の栄光に、はるかにまさるものとなるのだ。(ハガイ2章)

礼拝説教メッセージ音声:王たる者のすべき事、してはならぬ事(申命記17:14-20):右クリックで保存

『あなたの神、主が賜わる地に行き、それを獲てそこに住むようになる時、もしあなたが『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば、必ずあなたの神、主が選ばれる者を、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞のひとりを、あなたの上に立てて王としなければならない。同胞でない外国人をあなたの上に立ててはならない。』(申命記17:14-15)

教会やクリスチャンホームなどの、神様を第一とする集いにおいて、支配者を立てる場合、人間的な判断で選んではならず、主の御心を求めなくてはならない。
また、神を恐れない外部の者を、自分達の支配者として立ててはならない。

現代の民主主義国家は「民主」の名の通り、民が主であるから、「選挙」という多数決の原理で、上に立つ権威を選出しているが、教会やクリスチャンホームなどの、神を主とする集いにおいては、そうではない。
常に神様の御心を求め、主を第一とし、それで家庭や教会を運営して行くのである。

モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。
『王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。』(申命記17:16-17)

王たる者がしてはならない事の、まず一つ目は、自分のために馬を集める事である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
実際、ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。
力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。
それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民がそれらを追求しすぎると、主から離れ、災いに遭ってしまう。
実際ソロモン王は、最も主に愛された父親を持ち、最も知恵が与えられたにもかかわらず、それらによって主から離れてしまった。(1列王記10-11章)
ソロモンの所に入ってきた金は、年間六百六十六タラントもあり、また彼は、エジプトから戦車や馬を大量に輸入した。
また彼には、七百人の妻と、三百人のそばめがいた。

そうして彼は堕落し、主の怒りを買い、彼以降のイスラエルは分裂してしまい、争いが絶えなくなってしまった。
『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

続いてモーセは、王たるものが、するべき事を示している。
『彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。』(申命記17:18-20)

王たるものがしなくてはならない事、それは、御言葉を手元に置き、いつも手放さない事。
御言葉に記されている事をいつも読み、主をおそれることを学び、それらを守り行う事である。

現代、私達キリスト者が、キリストにあって王であり、祭司である。(1ペテロ2:9)
私達も、力や金、女を追求してはならず、御言葉に記されている事を学び、それを守り行うべきである。

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