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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 安息日(レビ記23:1-3):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。』(レビ記23:1-3)

レビ記23章は、週ごと・年ごとの例祭の定めであり、その中で、最も先に命じられた事は、安息日の「聖会」についてだった。
ここで、「ふれ示す」「聖会とす」と訳されてた言葉「カーラー」は「呼ぶ、呼び集める」という意味で、新約では「教会」と訳されている語「エクレシア」、すなわち「呼び出された者達」「召しだされた者達」と同等である。
つまり、ユダヤ人が年ごと・週ごとに行う聖なる祭りや聖会は、新約では、教会での集いに相当する。

ユダヤの会堂では、安息日ごとに「聖会」がもたれ、そこでは律法が朗読され、賛美が捧げられ、祈りが捧げられた。
この日には一切の世の仕事をしてはならず、ただ安息し、主にのみ心を向ける日である。

安息日に守るべき定めは、既に出エジプト記で学んだ通りである。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)

パリサイ人たちは「働かない事」に重点を置き、大切な事を忘れてしまっていたが、主がここで重要なこととして言われている事は、主が定めた安息日を「覚え」、これを「聖」とする事である。
つまり、この日は、世の仕事をしない、と言うより、安息しつつ心を主にのみ向ける事、それこそ安息日の趣旨である。
パリサイ人は「働かない」事をきっちり守りながらも、心は主に向かず、サタンのようにじっとイエス様のあら探しをし、一番大切な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていたため、主から「災いだ」と言われたのだ。

モーセが十戒の内容を再確認している所が申命記にあり、その中でモーセは、以下のように命じている。
『あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。』(申命記5:15)
イスラエル民族は、かつて、エジプトで奴隷状態にあり、400年もの間働き詰めであったが、主が、その奴隷の国から開放して下さって安息を与えて下さった。
あなた方は安息日ごとに、その事を覚えなさい、という事である。

そして現代の私達も、主が特別に聖とされた「安息日」を覚える事は、とても大事なことである。
『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:8-9)
イスラエル民族は、ヨシュアの時代、約束の地に入った事によって、安息に入ったわけではなかった。
安息日の休みは、私達・キリスト者のために、まだ残されているのである。
それはすなわち、天の御国における、永遠の安息である。

神の民といえど、その安息に入れない可能性もある。そして、その安息に「入れない」コツは、「不信仰」である。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)

主が用意されている「安息」を求める人達、その「安息」を意識する民は、安息日を覚え、これを聖とする。
しかし、主が用意された安息を軽んじ、主が聖とされた安息日をも惜しんで、あえて世に出て、世の仕事をしたがる人は、天の御国よりも地上の事を思い、乳と蜜の流れる地よりも、エジプトでの奴隷生活を優先さていると、自分で証言しているような者だ。そういう人は、安息日を覚えて聖とする事を知らない。

神の安息は、私達のために、まだ残されている。
その安息から、ひとりも漏れる人がいないように、日々、互いに励まし合って、地上での信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!。

礼拝説教メッセージ音声:主に捧げてはならないもの(レビ記22:17-33):右クリックで保存

続いて主は、捧げ物における「してはならぬ」事を、祭司を含め、イスラエルの全ての人々に命じている。
『「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『イスラエルの家の者、またはイスラエルにおる他国人のうちのだれでも、誓願の供え物、または自発の供え物を燔祭として主にささげようとするならば、あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。』(レビ記22:18-20)
捧げ物は、傷のあるものや、病気持ちのもの、欠損のあるものなどを、主は嫌われる。

神は、目に見えないお方、耳でその話を聞けないお方である。
それ故、人は、あたかも神はいないかのように、神は見ておらず聞いていないかのように、そのように無意識的に振る舞いやすい。
もし神がいないとしたら、家畜を祭壇に持って行って捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、単純に自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為である。
どうせそうなら、健康で良い動物は自分のもとに残し、きず物や無価値のものを捧げるほうがエコで効率的だ、という事になる。
しかしあいにく、主は生きておられるお方であり、私達の一挙手一投足だけでなく、心の動機も見ておられる。
そのように、主を軽んじるいけにえを主は忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。

『今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:8)
主は問われる。どうでも良い傷ものを、あなたの上司や支配者などに捧げるのか、と。
主は、主を軽んじるような捧げ物にはうんざりで、そのような捧げ物を捧げる者がなくなるよう、戸を閉じる者があれば良いのに、とさえ言われる。(マラキ1:10)

このように戒められても、なお、その事を面倒くさく思ったり、ちゃんと捧げますと言いながら実体はそれと違う事を行う者に、主は、呪いを送られる。
なんと主は、そのような捧げ物を「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)

「汚れ」以外の理由でも、捧げてはならないパターンがある。
『「牛、または羊、またはやぎが生れたならば、これを七日の間その母親のもとに置かなければならない。八日目からは主にささげる火祭として受け入れられるであろう。あなたがたは雌牛または雌羊をその子と同じ日にほふってはならない。』(レビ記22:27-28)
生まれたばかりの子を、すぐさまその母から引き離す事や、親と子とを同じ時にほふる事は、残酷な行為である。
神へ捧げる捧げ物の中に、そのような「残酷」が含まれていてはならない事を、主は命じておられる。

最後に主は、主の戒めを守り行う事、主の聖なる名を汚すことなく、イスラエルの中で主の名は聖とされなくてはならない事を、命じている。
『あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。』(レビ記22:31-33)

ここで、主は何度も「わたしは主である」と言っている。
言うまでもなく、主こそ、主である。
すなわち、決定権や支配権は自分には無く、主の側にあり、私達は主従関係の「従」、主こそ「主」である事を、いつも忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる物にあずかれる人(レビ記22:1-16):右クリックで保存

21章では、祭司たる者がいかに「汚れを受けぬよう」歩むべきかが記されていた。
22章では、万一汚れを受けてしまった場合、いかに聖なるものを「汚さぬよう」努めるべきかが記されてある。
『「アロンとその子たちに告げて、イスラエルの人々の聖なる物、すなわち、彼らがわたしにささげる物をみだりに用いて、わたしの聖なる名を汚さないようにさせなさい。わたしは主である。』(レビ記22:2)

イスラエルの人々の聖なる物、それはすなわち、神の民イスラエルが主に捧げる、動物や穀物などの「いけにえ」であり、それは文字通り「聖なるもの」である。
祭司はその中から取り分があるが、だからと言って、祭司であるなら無条件にそれを受けられるわけではない。
祭司が「汚れを受けている状態」では、それにあずかれないのだ。

もし、主が聖とされたものを軽んじたり、汚したりする者がいるなら、主は次のように言われている。
『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。』(レビ記22:3)
『彼らがこれを汚し、これがために、罪を獲て死ぬことのないためである。わたしは彼らを聖別する主である。』(レビ記22:9)
つまり、主が聖とされた捧げ物を、汚したり軽んじたりする者は、絶たれたり、死んだりするのである。

私達キリスト者も、ふさわしくないままで「主の晩餐」にあずかってはならない事が、1コリント11章に記されている。
コリントのある聖徒が、主の聖徒たちのために、と、捧げてくれた食事や飲み物を、ある人達が我先にと飲み食いして、その人は満腹して酔っているのに、別の人は空腹のまま捨て置かれている、そのようなコリントの状況を、パウロは叱責している。
そのように、主への尊い捧げ物を、欲をもった手を伸ばして飲み食いし、そうして主の身体を軽んじると、どうなるか。
弱い者や病人、死ぬ者さえ出るのである。
『だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。』(1コリント11:27-30)
それ故、主へ捧げられた聖なるものは、いかに菓子折り一つたりとも、肉欲の汚れた手を伸ばして汚してはならない。

『すべて一般の人は聖なる物を食べてはならない。祭司の同居人や雇人も聖なる物を食べてはならない。』(レビ記22:10)
10節以降は、聖なるものを共に食してよい人・してはならぬ人の区別が、記されている。
『しかし、祭司が金をもって人を買った時は、その者はこれを食べることができる。またその家に生れた者も祭司の食物を食べることができる。』(レビ記22:11)
金を払って祭司の所有とされた「奴隷」は、祭司の食卓にあずかる事が出来る。つまり、祭司に「贖われた人」は、聖なる食卓を食べて良いのだ。
ここに、まことの大祭司キリストによる贖いの法則を見る事が出来る。
キリストの血の代価によって贖われ、神の所有とされた者は、天の聖なる食卓に、共に与ることができるのだ。

『もし祭司の娘が一般の人にとついだならば、彼女は聖なる供え物を食べてはならない。もし祭司の娘が、寡婦となり、または出されて、子供もなく、その父の家に帰り、娘の時のようであれば、その父の食物を食べることができる。ただし、一般の人は、すべてこれを食べてはならない。』(レビ記22:12-13)
祭司の娘が一般の人に嫁いだのであれば、その主人と一体となるため、もはや祭司の民族ではないとされる。
しかし、その夫が死んだり、あるいは離婚されるなりして祭司の家に戻ってくるなら、再びその食卓にあずかる事が出来る。

この事も、私達キリスト者に当てはめる事が出来る。
すなわち、キリストにつく者であった人が、世に嫁ぐなら、聖なる食卓には預かれない。
しかし、放蕩息子のように、悔い改めて戻ってくるなら、再び父の家のごちそうにあずかる事が出来るようになる。

『もし人があやまって聖なる物を食べるならば、それにその五分の一を加え、聖なる物としてこれを祭司に渡さなければならない。祭司はイスラエルの人々が、主にささげる聖なる物を汚してはならない。人々が聖なる物を食べて、その罪のとがを負わないようにさせなければならない。わたしは彼らを聖別する主である』」。』(レビ記22:14-16)
聖なるものは、それが食べることを許されている「祭司に属する人」以外は、食べてはならない。
聖なるものを、祭司でない者が食べた場合、その人は、聖なる者とされるのではない。罪のとがを負い、その償いをしなくてはならないのだ。
このように、聖なる食卓にあずかれる人と、あずかってはならない人との区別は、すべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言によって奮い立つ - ゼカリヤの預言(エズラ5:1-5):右クリックで保存

【概要】

エズラ記5章1節から5節を通して、預言者ゼカリアの預言に焦点を当て、神殿再建の意義と神の御言葉に従うことの重要性を学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記5章1-5節

  • ゼカリア書1章1-3節、1章12-17節、2章6-13節、3章1-7節、4章1-7節

  • ゼパニア書3章17-20節

【慰めの言葉】

神はエルサレムとシオンを妬むほど激しく愛し、彼らを慰め、再び選ばれると約束されました。

【励ましの言葉】

「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」と主は仰せられ、ゼルバベルを励まされました。

【戒めの言葉】

神の道に歩み、戒めを守ることが求められています。

【悔い改めの促しの言葉】

神に立ち返り、罪を悔い改めることが強調されています。

【***詳細***】

エズラ記5章1節から5節では、預言者ハガイとゼカリアがユダヤ人に神殿再建を促す様子が描かれています。ゼカリア書1章1-3節では、神が「私に帰れ」と呼びかけ、悔い改めを促しています。さらに、ゼカリア書1章12-17節では、神がエルサレムとシオンを激しく愛し、彼らを慰めると約束されています。

ゼカリア書2章6-13節では、神がイスラエルの敵を罰し、エルサレムを再び選ぶと宣言されます。ゼカリア書3章1-7節では、大祭司ヨシアが汚れた服を脱がされ、清い服を着せられる様子が描かれ、神の赦しと新しい始まりが示されています。

ゼカリア書4章1-7節では、ゼルバベルに対する神の言葉が記され、「権力によらず、能力によらず、私の霊によって」との励ましが与えられます。ゼパニア書3章17-20節では、神がイスラエルを喜び、彼らを救うと約束されています。

これらの預言は、神の愛と赦し、そして信仰に基づく行動の重要性を強調しています。神殿再建は、単なる建物の再建ではなく、神との関係の再構築を象徴しています。

【結論】

神の御言葉に従い、悔い改めて神に立ち返ることが重要です。神は私たちを妬むほど愛し、赦しと慰めを与えてくださいます。私たちは神の霊によって力を得て、信仰に基づく行動を起こし、神の祝福を受けることができます。イエス・キリストの名によって、私たちが神の御言葉を守り行い、祝福を得る者となるよう祈ります。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:大祭司に要求される聖の基準(レビ記21:10-24):右クリックで保存

続いて、大祭司に対する命令である。大祭司は、普通の祭司と比べ、より高い”聖”の基準が求められている。
『その兄弟のうち、頭に注ぎ油を注がれ、職に任ぜられて、その衣服をつけ、大祭司となった者は、その髪の毛を乱してはならない。またその衣服を裂いてはならない。』(レビ記21:10)

大祭司は、神の聖と美をあらわす特別な衣服を身に着けている。悲しい事が起きたからと言って、それを破ったりしてはならない。それは、神よりも自分の感情を優先させ、神の聖と美を台無しにしてしまう行為である。
大祭司カヤパは、イエス様が神の子キリストである事を宣言した時、冒涜の言葉を聞い、だから悲しい、という事で服を引き裂いたが(マタイ26:65)、彼は実は律法を破っていたのである。

また大祭司は、父や母が死んだからと言って、その死体に触れてはならないし(11節)、聖所から出てもいけない。(12節)
大祭司として特別な任職の油が注がれ、神の聖なるつとめを任じられたのに、それを放棄して、聖所から出て死人を弔いに行く事は、神よりも死人を優先させ敬う行為であり、神の聖所を汚す行為である。

また大祭司は、結婚についても、普通の祭司よりさらに高い基準が求められている。
『彼は処女を妻にめとらなければならない。寡婦、出された女、汚れた女、遊女などをめとってはならない。ただ、自分の民のうちの処女を、妻にめとらなければならない。そうすれば、彼は民のうちに、自分の子孫を汚すことはない。わたしは彼を聖別する主だからである』」。』(レビ記21:13-15)
普通の祭司の場合は、寡婦(夫に先立たれた女性)と結婚する事は禁じられていなかったが、大祭司の場合は、禁じられている。

一度結婚した経験のある女性や、処女ではない女性を妻に迎える事は、やはり、初婚の男性にとっては、嫌な事である。(創世記38:8-10)
大祭司は、そのように、夫婦生活の事で心煩わされて、聖なるつとめがおろそかになってはならないし、また、大祭司の母となる女性が、以前に性関係を持った男性の事で心煩わせたり、不必要なわだかまりを持ちつつ子育てをして、子孫を汚す事をしてはならないのだ。

続いて、神の食物(いけにえ)を捧げるという、祭司の特権的な務めにあずかれる資格について、主は命じている。
『主はまたモーセに言われた、「アロンに告げて言いなさい、『あなたの代々の子孫で、だれでも身にきずのある者は近寄って、神の食物をささげてはならない。』(レビ記21:16-17)
祭司として、神の食物を捧げる事のできる資格とは、その身に欠陥が無い事、である。

『すべて、その身にきずのある者は近寄ってはならない。すなわち、目しい、足なえ、鼻のかけた者、手足の不つりあいの者、足の折れた者、手の折れた者、せむし、こびと、目にきずのある者、かいせんの者、かさぶたのある者、こうがんのつぶれた者などである。』(レビ記21:18-20)
ここにはその具体例が書いてあるが、いずれも先天的あるいは事故の結果など、本人にとっては不慮に受けてしまった障害である。
このような人達はなぜ、神の食物を捧げる務めをしてはならないのだろう。

神は、障害者差別をしているのではない。事実、彼らは祭司の働きをしなくても、祭司だけが食べる事のできる食物にあずかる事ができる。
ただ神は、神への捧げものに関しては、完全を求められているのだ。捧げられるいけにえにも、それを捧げる祭司にも。

旧約の祭司は、キリストのひな形であり、キリストは、罪も、傷も汚れも無い、完全なる真の大祭司である。
『あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。』(1ペテロ1:18-19)

また祭司は、神と人との仲介者であり、祭司がつとめを行なっている姿は、どうしても人目に触れるものである。
人は、外見によって心が左右されやすい。
いけにえを捧げる祭司に、外見的な欠陥があると、どうしてもその事に目が行ってしまい、神の事に集中できないような、信仰の弱い人も、中にはいる。
この事から、牧師や奉仕者は、外見的にも、内面的にも、人のつまづきとなるものを取り除くよう、気をつけるべきである。

家庭環境や事件事故などから、不慮に受けてしまった心身の傷、汚れの行動パターンは、癒し清めていただく方法が、私達にはある。
『あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。』(コロサイ1:21-23)
ここに記されている通り、私達は、キリストにあって、聖く、傷なく、非難されるところのない王族の祭司として、御前に立たせて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:祭司達に要求される聖の基準(レビ記21:1-9):右クリックで保存

レビ記21章の命令は、祭司に対してのものである。
『主はまたモーセに言われた、「アロンの子なる祭司たちに告げて言いなさい、『民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。ただし、近親の者、すなわち、父、母、むすこ、娘、兄弟のため、また彼の近親で、まだ夫のない処女なる姉妹のためには、その身を汚してもよい。』(レビ記21:1-3)

イスラエルは神様から特別に選り分けられた民であるが、その中でも、祭司はさらに特別な存在とされている。
それ故、彼らに要求されている「聖なる者」としての基準は、一般のイスラエルの民よりも、さらに高度なものとなっている。
祭司という名誉ある職に就いたからには、それなりの責任も要求されるのだ。

『彼らは神に対して聖でなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の「食物(レヘム:パン)」をささげる者であるから、聖でなければならない。』(レビ記21:6)
祭司たちは、日ごと、主に「食物」を捧げている。すなわち火で焼いて煙にする脂肪がそれであり(レビ記3:11)、現代では祈りがそれであり、また、主の御心を行ない、その御業を成し遂げること、それも主の食物である。(ヨハネ4:34)

そんな祭司たちに「してはならない」と主が真っ先に命じられた事は、「死人によってその身を汚す」事であった。
すなわち、両親や子供、兄弟や姉妹(未婚に限る)が死んだ場合以外は、死体に触れてはならず、それによって身を汚し聖なる務めを疎かにする事の無いよう命じられている。

『彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。』(レビ記21:5)
これらの行為は、異教徒が行う事であり、それを真似てはならず、そのような考え方に染まってもならない。
死んだ人を過度に悲しんだり、誰かが死んだ事に、捕われ過ぎるのは良くない事だ。

異教の教えによく共通する事として、「死」に対して過剰なこだわりを持っており、度の過ぎた儀式や埋葬をして、多くの人を束縛したり、支配したりするケースがよくある。(エジプトの死者の書やピラミッド、仏教の幾多にも及ぶ法事など。)
むしろ私達は、肉体の死よりも永遠の死のほうをおそれるべきであり、永遠のさばきをされるお方と、どのように関わるべきかのほうが大事である。(マタイ10:28)

主は祭司に対し、結婚についても「聖である事」を求められている。
『彼らは遊女や汚れた女をめとってはならない。また夫に出された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖なる者だからである。』(レビ記21:7)
なぜならそれは、自分の子孫を汚すような事がないためである。(15節)
祭司の子は、将来やがて神に食物をささげる重要な務めをするようになるのだから、特に「子育て」については気をつけるべきである。
『祭司の娘である者が、淫行をなして、その身を汚すならば、その父を汚すのであるから、彼女を火で焼かなければならない。』(レビ記21:9)

『あなたは彼を聖としなければならない。彼はあなたの神の食物をささげる者だからである。彼はあなたにとって聖なる者でなければならない。あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである。』(レビ記21:8)
ここに出てくる「あなた」とは、イスラエルの民全体である。
つまり、祭司を「聖」として保ち続けるために気をつけるのは、祭司自身だけではなく、イスラエル全体の責任でもある。

今や、私達キリスト者こそ、王族の祭司とされた。(1ペテロ2:9)
故にキリスト者は、レビ記を読む時、神様が何を求めておられ、何を喜ばれ、何を嫌われるのかを知り、召しだされた王族の祭司として相応しく歩むべきである。

礼拝説教メッセージ音声:神の宝の民とされたからには(レビ記20:22-27):右クリックで保存

『あなたがたはわたしの定めとおきてとをことごとく守って、これを行わなければならない。そうすれば、わたしがあなたがたを住まわせようと導いて行く地は、あなたがたを吐き出さぬであろう。あなたがたの前からわたしが追い払う国びとの風習に、あなたがたは歩んではならない。彼らは、このもろもろのことをしたから、わたしは彼らを憎むのである。』(レビ記20:22)
主がカナン人をその地から追い出す理由は、主が示されてきた「主に忌み嫌われる事」をことごとく行なってきたからだ。
すなわち、子供をモレクにささげる事(現代風に言えば、堕胎する事)(2-5節)、口寄せや占い師の所へ行って伺いを立てること(6節)、父や母をのろう事(9節)、そして、姦淫や近親相姦、道ならぬ性行為など(10-21節)、カナンの地はこれらの行為で満ちていたため、、主は、その民を絶とうとされたのだ。
これらの行いは、主に忌み嫌われる事である。それ故、これらの行為で満ちている今の日本は、実に、滅ぼされるパターンに入り込みつつある。
それ故、私達キリスト者は、御言葉を正しく語る事によって、警鐘を鳴らすべきである。

主は、イスラエルが歩むべき道、すなわち、律法を示され、主に喜ばれる歩みを歩む事を命じられた。
主が命じられた通り歩むのであれば、イスラエルはその土地から吐き出されず、祝福される。

『あなたがたは清い獣と汚れた獣、汚れた鳥と清い鳥を区別しなければならない。わたしがあなたがたのために汚れたものとして区別した獣、または鳥またはすべて地を這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。』(レビ記20:25)
主がイスラエルに対し、実にに事細かく、聖と俗を、清さと汚れとを区別するようを命じられたのは、この民を特別扱いしているからに他ならない。

『今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの”宝”となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」』(出エジプト記19:5)
主は、主が召し出して下さったアブラハムの子孫、イスラエルを、特別な民、主の”宝”と言われたが、主の宝とされるのは、条件つきである。
すなわち、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」と書かれてある通りである。

律法には、実に事細かに、あれをせよ、これをするな、等の命令が記されている。
他の民が、平気で好き放題に行なっている事でも、イスラエルだけは、してはいけないない。
その理由は、主はイスラエルを、宝として特別に扱っているからである。

皆さんは、値高い真珠を、はさみやボールペンなどが雑然と入っている引き出しに、そのまま投げ入れて保管するだろうか。
あるいはそれを豚のエサ箱に投げ入れたりするだろうか。
値高くデリケートな真珠であるなら、文房具やゴミのように扱う事はせず、それなりの宝石箱にしまい、時に取り出してはそれを眺めて楽しみ、そして事細かなメンテナンスをするはずである。
それと同じで、神にとって宝の民であるからには、宝石を扱うように、丁重に、特別扱いするが故、主は事細かな指示をされるのである。
『あなたがたはわたしに対して聖なる者でなければならない。主なるわたしは聖なる者で、あなたがたをわたしのものにしようと、他の民から区別したからである。』(レビ記20:26)

私達も、キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫とされ、「神の宝の民」とされた。
そうであるからには、自らを汚れから遠ざけて、それなりに自分を管理するべきである。

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 性的な罪(レビ記20:10-21):右クリックで保存

死刑に相当する罪の内、今回の箇所では特に「性的な罪」が取り上げられている。

『人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。』(レビ記20:10)
基本的に、夫がいる身の女性と性的関係を持つなら、共に死刑、と定められている。
他にも、父の妻と寝る者(11節)、息子の嫁と寝る者(12節)、男同士で性行為をなす者(13節)、母とその娘とを一緒にめとる者(14節)、動物と寝る者(15節)は、必ず殺さなければならない、と定められている。

神様は、創世当初から男と女とに造られ、「ふたりは」一体となる事を定めとされた。
これらの箇所で、具体的に示されている行為は、「ふたりは一体となる」という「性」と「いのち」の尊厳を、踏みにじる行為である。

『人がもし、その姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘に近づいて、その姉妹のはだを見、女はその兄弟のはだを見るならば、これは恥ずべき事である。彼らは、その民の人々の目の前で、断たれなければならない。彼は、その姉妹を犯したのであるから、その罪を負わなければならない。人がもし、月のさわりのある女と寝て、そのはだを現すならば、男は女の源を現し、女は自分の血の源を現したのであるから、ふたり共にその民のうちから断たれなければならない。』(レビ記20:17-18)
これらの事をした場合、その者は「絶たれる」と言われており、「絶たれる」の言葉の意味は「捨て去る」「追放される」という意味もあるし、「抹殺される」意味もある。
そのような事をする者は、イスラエルの人々の目には全く触れぬよう、除き去ってしまうべきだ、という事である。

『あなたの母の姉妹、またはあなたの父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親の者を犯すことであるから、彼らはその罪を負わなければならない。人がもし、そのおばと寝るならば、これはおじをはずかしめることであるから、彼らはその罪を負い、子なくして死ぬであろう。人がもし、その兄弟の妻を取るならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なき者となるであろう。』(レビ記20:19-21)
「おば」を犯す者は、子なくして死ななければならないと定められている。
このような、近親の内部で情欲を燃やして生まれてきた子は、生涯、その近親からも、また自分自身からも、憎しみや蔑みを負って生きる事になってしまうし、また、親に姦淫の行動パターンがあると、それが子にも移ってしまう。
だから、そのような者は、子を残さないほうが良いのだ。

列王記や歴代誌を見ると、主の定めを忠実に守った世代のイスラエルは、必ず栄え、幸いになり、栄誉を増し加えたが、主の戒めを軽んじ、ことに偶像礼拝や姦淫の罪を持ち込んだ世代のイスラエルは、必ず衰えた。
レビ記で定められている主の戒めは、家庭に幸いをもたらす掟であり、悲惨な子は決して生まれない掟であり、性といのちが祝福される掟だからである。

では、そのような境遇で生まれてしまった子は、どうなるのだろう。
幸いな事に、キリストにあって、救いの道はある。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、「人の欲(直訳:男の欲望)」にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)

また、姦淫の現場で捕らえられた女に対するイエス様の行動も、私達には慰めである。(ヨハネ8:1-11)
姦淫の現場で捕らえられた女は、必ず殺さなければならない、と、レビ記に記されていたが、イエス様に「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた時、人々は誰も、彼女に石を投げられなかった。
姦淫に限らず、人は皆、罪があり、誰しも、律法の基準に達し得る者は、いない。

だから、私達には抜本的な罪の赦しが必要であり、その赦しへの飢え渇きによって、人はキリストへと導かれるのである。
『律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。』(ガラテヤ3:24-25)

『それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。』(ローマ6:15-16)
律法で「してはならない」と定められている事は、神様が忌み嫌う事である。
イエス様も姦淫の女に「もう罪を犯してはならない」と言われた。

私達は確かに、恵みの故に、信仰によって救われ、新しく生まれた者とされたが、そうであるからには、それに相応しく歩むべきであり、もはや死の向こう側へと逝ってしまった罪汚れを、恋い慕って歩んではならない。
『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)

礼拝説教メッセージ音声:死刑に処せられる罪 - 親子関係(レビ記20:1-9):右クリックで保存

レビ記20章には、「**する者は、必ず殺されなければならない」という言葉が幾度か出てくる。
すなわち、この章は、死刑に相当する刑法が記されている所であり、現代では「えっ、そんな事で死刑になるの?」と思えるような内容もある。
しかし、「**する者は、必ず殺されなければならない」という内容を見る時、神は何を忌み嫌われるかを、また、私達が聖とされる上で何をすべきで、何をすべきでないかを、知る事が出来る。

その中で、真っ先に禁じられている事が、モレクに子供を捧げる事である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。わたしは顔をその人に向け(KJV: set my face against that man)、彼を民のうちから断つであろう。彼がその子供をモレクにささげてわたしの聖所を汚し、またわたしの聖なる名を汚したからである。』(レビ記20:2-3)

モレクとは、自分の子供をその像の手に乗せ、下から火で焼き殺して捧げる、残酷な異教の神である。
それをする者は、石打ちの公開処刑に処せられ、主ご自身もその者に敵対して顔を向け、その者を断たれる。
しかし、イスラエルの歴史では実際、子をモレクに捧げるという事が起きてしまった。(詩篇106:34-43)
モレクに子供を捧げていた場所は、エルサレム近のく、ヘブライ語で「ゲーヒンノーム」(ヒンノムの谷)、ギリシア語で「ゲヘナ」と言われる所である。(2列王記23:10)

主は、そのような事をする者はもちろん、その事を知っていながら目をつぶり、その者を裁かなかった者に対しても、主は敵対される。
『その人が子供をモレクにささげるとき、国の民がもしことさらに、この事に目をおおい、これを殺さないならば、わたし自身、顔をその人とその家族とに向け、彼および彼に見ならってモレクを慕い、これと姦淫する者を、すべて民のうちから断つであろう。』(レビ記20:4-5)
また、死者に伺いを立てる者に対しても、主は敵対され、その者を民の内から絶たれる。(レビ記20:6)

『だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。』(レビ記20:9)
イスラエルにおいて、父母は神の掟を伝える役割が託されており、子供にとって父母は、神の代理で権威を行使する立場であり、その権威に逆らう事は、神である主に逆らう事と同じである。
また、父母は、人が従うべき権威の、最も身近、最も基本であり、それに逆らうとするなら、その人には「権威」という概念が無くなってしまい、そのような人達がはびこると、親子や社会、国家の、そして、神の権威という概念まで軽んじられてしまう。
父と母を「のろう」事は、それだけ大きな罪であると主は定められている故、私達はその事に拒絶反応を起こすのではなく、その事に心を留め、父や母を敬うべきである。なぜならそれは、末永く幸いな生活の約束が伴っている事だからだ。(エペソ6:1-3)

『ゆえにあなたがたは、みずからを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めを守って、これを行わなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。』(レビ記20:7)
この御言葉から分かるように、主こそ聖別「する」お方、私達人間は、聖別「される」側である。
私達も、主から聖別していただくには、まず、自分は聖なる民であるという自覚を持ち、自分の聖でない性質は悔い改めて捨て去り、主に清くしていただこうという意志をもって主に近づくならば、主がその人を聖別して下さる。
『あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。』(1ペテロ1:15-16)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
預言によって奮い立つ - ハガイの預言(エズラ5:1-5):右クリックで保存

※ 録音に不備がありましたため、ノイズが大きいです。

【概要】

エズラ記5章1節から5節における神殿再建の物語を通して、神の導きと預言者の役割について考察します。神の宮を建てることの重要性と、それに伴う神の祝福について学びます。

【聖書箇所】

  • エズラ記5章1-5節

  • ハガイ書1章1-15節

  • 第一コリント3章9節

【励ましの言葉】

神は私たちと共におられ、私たちの働きを助けてくださいます。神の宮を建て上げることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。

【戒めの言葉】

神の宮をないがしろにすることは、私たちの生活において多くを労しても少ししか得られない結果を招きます。

【勧めの言葉】

神の宮を建て上げるために、私たち一人一人ができることを行いましょう。神の宮とは私たち自身であり、神の栄光を表すために日々の生活を捧げましょう。

【***詳細***】

エズラ記5章1節から5節では、預言者ハガイとゼカリアが神の名によってユダヤ人に預言し、神殿の再建を促しました。シェアルティエルの子ゼルバベルとエホサタクの子ヨシアは、預言者たちの助けを受けてエルサレムの神の宮を建て始めました。神の目がユダヤ人の長老たちに注がれていたため、彼らの働きは止められることなく続けられました。

ハガイ書1章では、神殿が廃墟となっていることを神が嘆き、民に神の宮を建てるように命じます。神殿を建てることを怠ると、労しても少ししか得られないという呪いがもたらされると警告されます。預言者ハガイは、神の宮を建てることが神の喜びと栄光をもたらすと語ります。

第一コリント3章9節では、私たち自身が神の宮であり、神の協力者であることが述べられています。私たちはイエス・キリストという土台の上に神の宮を建て上げるべきであり、その働きは神の火によって試されます。

神の宮を建て上げることは、私たちの生活において神を第一にすることを意味します。神の宮を建てるために、私たちは日々の生活を神に捧げ、神の栄光を表すことを心がけましょう。

【結論】

神の宮を建て上げることは、私たちの信仰生活において重要な役割を果たします。神の導きと預言者の言葉に従い、神の宮を建てることに専念するならば、神の祝福が私たちに与えられます。私たち自身が神の宮であることを自覚し、日々の生活を通して神の栄光を表しましょう。

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