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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民の聖なるプライド(エズラ記8:1-23):右クリックで保存

【概要】

エズラ記8章では、バビロンからエルサレムへの帰還を目指すエズラとその同行者たちの名簿が記されています。彼らは神の導きと守りを求め、断食と祈りを通じて信仰を示しました。

【聖書箇所】

エズラ記8章1-23節

【励ましの言葉】

神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。

【戒めの言葉】

神を捨てる者には、その力と怒りが下ります。

【勧めの言葉】

神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じましょう。

【***詳細***】

エズラ記8章は、バビロンからエルサレムへ帰還するエズラとその同行者たちの名簿から始まります。彼らはアルタシャスタ王の命令を受け、神殿の再建と立法の教えを広めるために帰還の旅に出ます。

エズラは、アハワ川のほとりでレビ人がいないことに気づき、レビ人を集めるために使者を送りました。神の恵みの御手が彼らの上にあったため、レビ人や宮に仕える者たちが集まりました。エズラは、神の立法を調べ、実行し、教えることを心に定めていました。

エズラは、道中の無事を神に願い求めるために断食を布告しました。彼は、王に護衛を求めることを恥じ、神の守りを信じることを選びました。エズラは、神の御手が彼らを守ると信じ、断食と祈りを通じて神に願い求めました。神は彼らの願いを聞き入れ、道中を守られました。

この箇所は、信仰を持って神により頼むことの重要性を教えています。エズラは、神の名誉を守るために、神の力により頼むことを選びました。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することが求められています。

【結論】

エズラ記8章は、信仰を持って神により頼むことの重要性を示しています。私たちは、神に属する者として、信仰を持って行動し、神の守りを信じることが求められています。神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下します。私たちも、神に証を立て、信仰を持って行動することを心がけましょう。

礼拝説教メッセージ音声:代表選手がした事は(民数記3:1-13):右クリックで保存

この章は、レビ族の務めと役割分担が記されているが、その、主が命令されている内容から、主の定められたルールの特徴と傾向を見る事ができる。

『主がシナイ山で、モーセと語られた時の、アロンとモーセの一族は、次のとおりであった。アロンの子たちの名は、次のとおりである。長子はナダブ、次はアビウ、エレアザル、イタマル。これがアロンの子たちの名であって、彼らはみな油を注がれ、祭司の職に任じられて祭司となった。
ナダブとアビウとは、シナイの荒野において、異火を主の前にささげたので、主の前で死んだ。彼らには子供がなかった。そしてエレアザルとイタマルとが、父アロンの前で祭司の務をした。』(民数記3:1-4)
祭司は民を代表して主の御前に立つものであり、その代表である大祭司が違ったことをするなら、イスラエル全体に罪を運んでしまうため、責任重大である。
主の前に異なった火を捧げたナダブとアビフは、主に打たれてしまったため、その弟達であるエルアザルとイタマルが代わりに祭司の務めを為す事となった。
しかし、彼ら祭司たちだけでは、天幕の務め全体を担い切る事はできない。
そこで主は、レビ族を特別に召しだされ、神の奉仕に当てるために召しだされた。(同9節)

『レビの部族を召し寄せ、祭司アロンの前に立って仕えさせなさい。彼らは会見の幕屋の前にあって、アロンと全会衆のために、その務をし、幕屋の働きをしなければならない。すなわち、彼らは会見の幕屋の、すべての器をまもり、イスラエルの人々のために務をし、幕屋の働きをしなければならない。・・・あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう』(民数記3:6-10)
この所から、主の御前に仕える事が許されているのは「主が定めた人のみ」であり、それ以外は、決してそれを為してはならない事が分かる。

『主はまたモーセに言われた、「わたしは、イスラエルの人々のうちの初めに生れたすべてのういごの代りに、レビびとをイスラエルの人々のうちから取るであろう。レビびとは、わたしのものとなるであろう。ういごはすべてわたしのものだからである。わたしは、エジプトの国において、すべてのういごを撃ち殺した日に、イスラエルのういごを、人も獣も、ことごとく聖別して、わたしに帰せしめた。彼らはわたしのものとなるであろう。わたしは主である」。』(民数記3:11-13)
ここからも、動物も人も、全ての「初物は主のもの」としなければならないという、主のルールがあり、そして、その初子はいわば「代表選手」で、代表選手がした事は、それに属する全部が「した」と見なされる、という主のルールも、ここから読み取る事が出来る。

罪は、私達人生全員の代表選手・アダムひとりによって罪が入り(最初に罪を犯しアダムを唆したのは妻エバだが、アダムが代表であり、彼が罪を犯した事になる)、こうして一人の人を通して人類全体に罪が入り込んだ。(ローマ5:12)
このアダムは、きたるべきお方・キリストの型である。

『しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか・・・。
もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか・・・。
このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。』(ローマ5:15-19)

イエス様を信じ、神の子とされた私達にとって、今や、イエス様が長男であり、代表選手である。
そのイエス様がして下さった事は、私達もした、と、見なされる。
すなわち、キリストが受けた裁きと罰も、キリストが死んで下さった「死」も、キリストがよみがえって下さった「よみがえり」も、キリストが律法を成就して下さったその成果も、キリストの義なる行いも、キリストの信仰も、キリストの愛も、全て、私達も「した」と、主の御前で見なされる。
私達は、十字架に架けられた記憶は無いし、罪が処罰された記憶も無い。律法を成就した記憶も、キリストが行った素晴らしい行いを行った記憶も無い。
しかし私達は、キリストにあって、神の御前には、私達も「した」と見なされているのである。
どれほど都合の良い話しであろうか!
そう、福音は都合が良すぎて、にわかに信じがたい事である。

『神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に”御子のかたちに似たもの”としようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で”長子”とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。』(ローマ8:28-30)

礼拝説教メッセージ音声:荒野を覆う巨大な生きた十字架(民数記2:1-34):右クリックで保存

『主はモーセとアロンに言われた、「イスラエルの人々は、おのおのその部隊の旗のもとに、その父祖の家の旗印にしたがって宿営しなければならない。また会見の幕屋のまわりに、それに向かって宿営しなければならない。 』(民数記2:1-2)

民数記2章は、六十万以上のイスラエルの部隊が荒野を行進して行く上で、どのように秩序立って進んでいくべきかが、命じられている。
この荒野の行軍は、誰もがが好き勝手に、無秩序に好きな所へ行って良い、というものではない。
主が定められた配置どおりに進み、主が定められた場所に留まらなくてはならない。
そして、この六十万以上の宿営の中心は、神の幕屋、すなわち、神を礼拝する所である。(17節)

現代を生きるキリスト者の歩みも、約束の地を目指して荒野を行軍して行くイスラエルの民のようなものである。
私達も、彼らと同じく好き勝手に進んではならず、それぞれが立つべき立ち位置につき、主が定められた所に住まい、導きに従って進退しなくてはならない。
主の臨在が進んだなら、私達も進み、主の臨在が留まったなら、そこに留まる、という、主を中心とした歩みをしていくべきである。

荒野を行軍して行く際は、それぞれの部族の旗印にしたがい、宿営すべき場所が主から定められている。
すなわち、神の幕屋を中心として、その東側にはユダ、イッサカル、ゼブルンの3部族、合わせて十八万六千四百人が宿営し、その南側にはルベン、シメオン、ガドの3部族、合わせて十五万一千四百五十人が宿営し、その西側はエフライム、マナセ、ベニヤミンの3部族、合わせて十万八千百人が宿営し、そして北側には、ダン、アシェル、ナフタリの3部族、合わせて十五万七千六百人が宿営する。

さて、この隊形は、天から見ると、どんな形になるだろうか。
それはちょうど、西側を頭とした十字架の形となるはずだ。
イスラエル民族は、普通に天幕生活したり、行軍したりしているつもりでいて、実は、彼ら全体で十字架を表現していたのだ。

私達キリスト者の歩みも、荒野の天幕生活のようである。
その日々の歩みには、キリストの十字架は見えにくいかもしれない。
しかし、天から見れば、そして永遠の視点から見れば、主があちらこちらに配剤されており、そして、私達の「人生」という綾織物が完成した時、実は、この人生の全体を通してキリストが表現されていた事に気づくだろう。
いや、今もすでに人生を振り返った時、人生のあの時この時でキリストが練り込まれていた事に、既に気づいている方が、おられるのではないだろうか。

そういうわけで、私達が人生という荒野の旅路を行軍して行く際、中心とすべきは、主を礼拝する事である。
主が定められた、それぞれの立ち位置につき、主の導きに従って行動すべきである。
主が「東を守れ」と言っているのに、自分の好き勝手で、南西を守っていたら、その人自身も、そして全体にも、支障が来される。
世に出て働く人は、与えられた場所でしっかり働き、主の奉仕が割り当てられている人は、しっかりその務めをなし、そうして私達おのおのは、キリストのからだの各部分として有機的に機能し、全体を通してキリストを表現して行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:レビ人の兵役免除(民数記1:47-54):右クリックで保存

イスラエルの成人男性は皆、戦いに出られる者として登録されたが、レビ人だけは、そうされなかった。
なぜなら、彼らには神の幕屋に関わる、特別な奉仕があるからである。
『「あなたはレビの部族だけは数えてはならない。またその総数をイスラエルの人々のうちに数えあげてはならない。あなたはレビびとに、あかしの幕屋と、そのもろもろの器と、それに附属するもろもろの物を管理させなさい。彼らは幕屋と、そのもろもろの器とを持ち運び、またそこで務をし、幕屋のまわりに宿営しなければならない。』(民数記1:49-50)

神の幕屋の事柄で働くレビ人は、その数を数える事は、許されていない。
人は何か仕事をする時、人数を数え、仕事の量を計算し、配分を決めてとりかかるものだが、主の奉仕に限っては、人間のそうした「計算」は必要ない。
主はちゃんと必要を満たし、働き人を備え、多すぎず、少なすぎずに、全てを配分して下さるのだ。

レビ族は、兵役が免除され、神様の御そば近くで仕えていられる。
その特権ともいえる立場に、皆さんもなりたいだろうか。
それなら、レビ族がその特権とも言える立場を主から任じられたきっかけを知るべきである。
彼らは実は、他の部族が断念した戦いに自ら参加し、そして、勝利したのだ。
すなわち彼らは、親や子に逆らってでも主の命令に従順せよ、との主の命令に、従い通した。(出エジプト記32:25-29)

モーセが世を去る前にイスラエル十二部族を祝福した時、レビについては、以下のように祈っている。
『「あなたのトンミムをレビに与えてください。ウリムをあなたに仕える人に与えてください。かつてあなたはマッサで彼を試み、/メリバの水のほとりで彼と争われた。彼はその父、その母について言った、/『わたしは彼らを顧みない』。彼は自分の兄弟をも認めず、/自分の子供をも顧みなかった。彼らはあなたの言葉にしたがい、/あなたの契約を守ったからである。
彼らはあなたのおきてをヤコブに教え、/あなたの律法をイスラエルに教え、/薫香をあなたの前に供え、/燔祭を祭壇の上にささげる。主よ、彼の力を祝福し、/彼の手のわざを喜び受けてください。彼に逆らう者と、/彼を憎む者との腰を打ち砕いて、/立ち上がることのできないようにしてください」。』(申命記33:8)

神の幕屋の奉仕は、私情を挟んではならない。親や兄弟よりも、主の命令のほうを、優先させなくてはならない。
彼らは、そのような特別な責任を果たしたからこそ、主の特別な栄光の奉仕が任されるようになったのだ。

それは、新約の今においても、同じである。
『大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。』(ルカ14:25-27)
私達も、世にあっては自分を捨て、自分の十字架を負い、そうしてキリストについて行くなら、主の幕屋にて永遠に仕える事が出来るのである。

「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。(黙示録7:14-17)

礼拝説教メッセージ音声:部族ごとの数(民数記1:20-46):右クリックで保存

『そしてイスラエルの人々のうち、その父祖の家にしたがって数えられた者は、すべてイスラエルのうち、戦争に出ることのできる二十歳以上の者であって、その数えられた者は合わせて六十万三千五百五十人であった。』(民数記1:45-46)

今回の箇所は、荒野の生活の第二年目に行われた、第一回目の人口調査の結果であり、イスラエル12部族それぞれの中から、軍務につく事のできる二十歳以上の男子の数が記されている。
尚、ヤコブが産んだ子たちの内、レビとヨセフは除外され、代わりに、ヨセフの二人の子・エフライムとマナセが12部族として名を連ねている。
それは、レビ人は、全ての十分の一が与えられている代わりにゆずりの地は無く、主ご自身が、彼らのゆずりだからである。(民数記18:20-21)
また、ヨセフの二人の子は、ルベンやシメオンのようにヤコブの直属の子とされたからである。(創世記48:5-6)

講解説教を創世記から順番に、一昨年からから続けているが、当初、イスラエル民族は、年をとって死んだも同然のアブラハムたった一人だった。
そのアブラハムが100歳の時、イサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、そして、ヤコブから12部族の父祖たちが生まれ、創世記の終わりにごろには、七十名にまで増えた。
それから四百三十年経った時は、男子だけで六十万を超えるまでになった。
主がアブラハムに与えられた約束、あなたの子孫を空の星のように、海辺の砂のように増し加える、という約束を、主はまさしく成就して下さった。
主は、約束の確かさを知らしめるために、数えなさい、と言われたのだろう。

主が、与えられた恵みを数えなさい、と言われた時には、数え、主がどんなに祝福して下さったかを喜び、感謝すべきであり、誇るべきではない。
そこまで祝福して下さったのは主であって、自分の何かによるものではないからだ。

ダビデはイスラエルの軍団の数を数えたが、主はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。(1歴代誌21章)
それは、この「数えたい」という願いは主からのものではなく、サタンからのもので(第1歴代誌21:1)、その動機が、主が祝福して下さった恵みを数えて主を褒め讃えるためではなく、自分に属するもののステータスを知りたいと、自分の栄光を誇るためであったからだ。
主は確かに祝福して下さる。しかし、その祝福が主からのものであり、主が祝福して下さった子孫や金銀、権威などが主のものである事を忘れ、身勝手に自分のものとして数えるのは、罪である。

最初の調査からおよそ40年後、イスラエルの民がいよいよカナンに入ろうとしている時、主は、二度目の人口調査を命じられたが(民数記26章)、その時の数も、最初の時と同じ、六十万台であった。
数としてはあまり増減していないが、その中身は、がらりと入れ替わっている。
民数記1章の時点で、二十歳以上だった人は六十万以上いたが、40年経った後にはなんと、わずか二人しか残っていなかった。
神に属する軍団に登録されたからといって、その全員が、約束の地に自動的に入れるわけではない。この事は、現代を生きる私達への警告である事は、以前学んだ通りである。

民の数を見てみると、最初の時点で既に民族の数には差が出ているし、二回目の人口調査の数値と比べると、増加した部族があれば減少してしまった部族もある事が分かる。
ユダ族は一回目も二回目もトップを誇り、マナセ族は最初の調査時点で最も数が少ないが、荒野の四十年におけるマナセ族の増加率は最も高く、プラス64%である。
また、シメオン族は、最初は59300人と結構多かったのに、後には37100人、マイナス63%の減少である。
シメオン族は、二回目の人口調査の直前の、ペオルの事件(民数記25章)で、長の一人であるジムリが率先して罪を持ち込んだが、部族の多くの者が主に打たれる要素を密かに育てていた故に殺されてしまったのかもしれない。

第二回目の人口調査の時の数によって、割り当て地の査定がなされた。
査定の直前まで、いかに数が多くとも、最後のほうに罪を犯すのであれば、あっという間に査定が減らされてしまう事も、ありうる。
今、私達が生きているこの世界は、永遠に受け継ぐべきものを、どれほど任せられるかという査定を受けている期間である。
だから、どんな小さな事でも忠実になり、全ての事を主に対してするかのように、心からするよう、日々、心がけたい。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
次から次へと降り注ぐ祝福の元(エズラ7:11-28):右クリックで保存

【概要】

絵面記7章11節から28節では、アルタシャスタ王が祭司であり学者であるエズラに与えた手紙を通じて、イスラエルの民がエルサレムに戻るための支援が描かれています。神の御手がエズラの上にあり、王の心を動かして特別な便宜を図らせたことが強調されています。

【聖書箇所】

  • 絵面記 7:11-28

【慰めの言葉】

神は時に応じて私たちに必要な助けを与えてくださいます。

【励ましの言葉】

信仰を持ち続けることで、神の計画が私たちの人生に現れることを信じましょう。

【戒めの言葉】

神の立法を知り、それを守ることの重要性を忘れないようにしましょう。

【勧めの言葉】

神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神の計画を信じられずにいたことを悔い改め、信仰を新たにしましょう。

【***詳細***】

絵面記7章11節から28節は、アルタシャスタ王がエズラに与えた手紙の内容を記しています。エズラは主の命令の言葉とイスラエルに関する主の掟に精通した学者であり、祭司でした。アルタシャスタ王は、エズラに対してエルサレムに戻ることを許可し、さらにイスラエルの神の宮のために銀と金を捧げるよう命じました。

この手紙は、エズラが神の立法に従ってユダとエルサレムを調査するために使わされていることを示しています。王とその義官たちは、エルサレムの神に捧げるための銀と金をエズラに託し、エルサレムの神殿のために必要なものを調達するよう命じました。

アルタシャスタ王は、エズラに対して神の知恵に従って裁判官を任命し、神の立法を知らない者には教えるよう命じました。また、神の立法と王の立法を守らない者には厳しい罰を与えるよう指示しました。

エズラは、これらのことが主の御手によるものであることを認識し、主を褒め称えました。彼は、主がエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、王の心を動かしたと理解していました。

【結論】

絵面記7章は、神の御手がエズラの上にあり、アルタシャスタ王を通じてイスラエルの民に特別な便宜を図らせたことを示しています。私たちも、神の計画が私たちの人生に現れることを信じ、信仰を持ち続けることが大切です。神の御手が私たちの上にあることを信じ、日々の歩みを続けましょう。

礼拝説教メッセージ音声:軍務につく者として登録する(民数記1:1-19):右クリックで保存

『人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、【主】はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。』(民数記1:1)
イスラエルの民は、エジプトの国を出て二年目の第一月から第二月までの間、レビ記という「学科授業」を主から受けた。
そして第二月の一日以降、危険な荒野を編隊を組んで進み行き、約束の土地カナンを占領するという「実地訓練」を受けなくてはならない。

約束の地は、ただ口を開けて待っていれば、棚からぼた餅が降ってくるかのように与えられるものではない。
荒野を進むにも、約束の地に入るにも、危険があり、戦いがある。
そこで、主が真っ先に命じられた事は、イスラエルの中から軍務につく事の出来る者達を、登録する事だった。
『イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。』(民数記1:3)

イスラエルの男子は、二十歳を超えたなら、自動的・強制的に、軍務につく者として登録される。
私達のこの世の信仰の歩みも、荒野を行軍して行くのと同じで、必ず、試練と戦いがあり、それは、信仰者であれば誰もが自動的かつ強制的に通らされるもので、それに対し、いつまでも逃げまわったり、安全な所でぬくぬくとしていられるものではない。

私達は、主キリストに対しては妻という立場で、イエス様を主人とすべきだが、世に対して、サタンに対しては、男子として、勇者として、立ち向かい戦うべきなのだ。
信仰を用い、御言葉に服従して進み行くのであれば、その戦いは、必ず勝利するものである。
「神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ4:7)
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。・・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:11-17)

そして、軍事行動は、個人プレーではなく、チームワークである。
誰か一部の人達だけが戦っていて、他の人は逃げまわったり兵舎で寝食してばかりしている、などという事は、ありえない。
イスラエルが荒野の行程の終わりに、ヨルダン川の東側を制圧した時、ガド族とルベン族は、既に得たこの東側の良き土地を下さいと言った時、モーセは言った。
「あなたがたは兄弟が戦いに行くのに、ここにすわっていようというのか。どうしてあなたがたはイスラエルの人々の心をくじいて、主が彼らに与えられる地に渡ることができないようにするのか。あなたがたの先祖も、わたしがカデシ・バルネアから、その地を見るためにつかわした時に、同じようなことをした。すなわち彼らはエシコルの谷に行って、その地を見たとき、イスラエルの人々の心をくじいて、主が与えられる地に行くことができないようにした。」(民数記32:6-9)

ある人が戦い、ある人は既に得たものに安穏とする。ある人は働き、ある人は安穏として、それを食いつぶす。それは、戦う人、働く人の意気を挫き、全体を良くない思いへと引っ張っていく事である。
教会も、キリスト者も、信仰をもって戦うよう召されたのであればみんな戦うべきであり、働くよう召されたのであれば、みんな働くべきである。
結局、ガド、ルベン族は、ヨルダン川を渡った先でも、先陣を切って戦った。
私達も、キリストにある群れ全体が安息を得るまで、共に戦うべきである。

礼拝説教メッセージ音声:民数記概要(民数記1:1-2):右クリックで保存

『エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた、「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。』(民数記1:1-2)
モーセ五書の第四番目の書、「民数記」は、ヘブライ語では、この書の冒頭の言葉、「ベミドバル(荒れ野に、という意味)」であるが、七十人訳ギリシア語聖書では「アリスモイ」、すなわち、「数」という意味、英語では「ナンバーズ」である。
「数」という言葉が名前に入るのは、主は真っ先にイスラエルの全会衆の数を数える事を命じられ、また、荒野での生活の終わりにも、主は人口の数を数えるよう命じられたからであろう。

この書には、エジプトを出てから二年目の二ヶ月目以降、荒野での生活を終え、いよいよ安息の地・カナンに入る直前の、ヨルダン川東に至るまでの、荒野での三十九年間ほどの長き行程が記されている。
一〜十章は、荒野の旅の準備の命令と記録で、一章の人口調査に始まり、荒野での行軍の各民族の配置や、レビ人のそれぞれの奉仕分担が記されている。
十一〜十二章は、イスラエルの民の不満と、アロンとミリヤムがモーセに反対する場面もあり、そして、十三〜二十章までは、安息の地にすぐに入るチャンスを失ってしまったあの大きな失敗、十二人の斥候によるカナン偵察の出来事あり、さらにイスラエル民族の中からの反逆と、荒野での放浪が記されている。
二十一〜二十五章には、バラムの事件が記されており、それから第二回目の人口調査(二十六章)、ヨシュアの任命(二十七章)、その間、諸々の規定の制定や事件などが記され、三十三〜三十六章は、荒野での全行程が記されている。

この書は、言ってみれば、安息の地・カナンへの歩みではあるが、その内容は、恐ろしさを感じるものである。
よく、旧約聖書は怖いという人はいるが、しかし結局、愛と憐れみに富んでおられる主を、怖くさせてしまった原因は、人の側にあり、人の不従順にある。
エジプトを出て約束の地へと向かったのは、男子だけでも六十万以上いたが、そこに入れたのは、たった二人のみ。
それは、イスラエル民族の失敗中の失敗と言え、彼らとしては、記録に残したくない事であろう。
しかし、それらの事が記されたのは、私達への教訓のためである。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:1-6)

民数記は、私達はどうすれば失敗するのか、どうすれば神を怒らせ、どうすれば安息の地に入れないか、それらが克明に記されており、中にはもしかしたら私達に当てはまり過ぎて、目を背けたくなる記事もあるかもしれないが、私達は決して目をそむけてはならない。
それは、私達も彼らにならって、失敗しないためにである。

『だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。』(ヘブル3:7-11)
ここに記されている通り、安息に入れない者とは、主の御業を見ておきながら、それでもなお心をかたくなにし、さらに主を試み、ためすような者である。
また、不従順な者、不信仰な者こそ、安息に入れない者の特徴である。(同18-19節)

『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)

礼拝説教メッセージ音声:主のもの(レビ記27:26-34):右クリックで保存

レビ記の最後で、主は、捧げ物としてはならぬ「主のもの」を示しておられる。
『しかし、家畜のういごは、ういごとしてすでに主のものだから、だれもこれをささげてはならない。牛でも羊でも、それは主のものである。』(レビ記27:26)
全てはじめに胎を開くものは主のものである、と、イスラエルがエジプトを出る直前で、主は既に言われていた。(出エジプト記13:2)
つまり、人も動物も、初子は元々主のものであるので、人が自ら進んで捧げる捧げ物とする事は出来ない。それだとダブルブッキングになってしまう。

『ただし、人が自分の持っているもののうちから奉納物として主にささげたものは、人であっても、家畜であっても、また相続の畑であっても、いっさいこれを売ってはならない。またあがなってはならない。奉納物はすべて主に属するいと聖なる物である。またすべて人のうちから奉納物としてささげられた人は、あがなってはならない。彼は必ず殺されなければならない。』(レビ記27:28-29)
ここは、必ず滅ぼし尽くさなくてはならないもの、いわゆる「聖絶のもの」についてのおしえである。

「聖」とは元々、主なる神の、絶対的かつ排他的な、決して犯してはならぬ性質のものである。
主が「聖絶すべし」としたものを、人がとやかくしてはならず、それを犯してしまうと、その人は必ず尋常でない死に方をした。
例えば、アカンは聖絶のものに手を出してしまい、自分のみならず、イスラエル全体に災いを招いてしまったし、サウル王も、聖絶のものを見て自分の善し悪し判断を混ぜ込んでしまい、主から見放され、王座を奪われてしまった。
主が聖絶すべきとしたものは、人はただそれを滅ぼし尽くすのみ、それ以外は災いをもたらすのである。

『地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一をあがなおうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。』(レビ記27:30-31)
地の産物の十分の一も、主のものであると主は主張されている。そうであるからには、人がことさら「進んで捧げる捧げ物」とする事はできない。
本来的には、「全地は主のもの」(詩篇24:1、詩篇95篇)であるはずだが、しかし主はあえて、人に、その十分の一を主のものとして捧げるよう命じられ、人の側がそれに従うのであれば、その人は、神と人との主従関係を行動をもって示した事になるのだ。

『牛または羊の十分の一については、すべて牧者のつえの下を十番目に通るものは、主に聖なる物である。その良い悪いを問うてはならない。またそれを取り換えてはならない。もし取り換えたならば、それと、その取り換えたものとは、共に聖なる物となるであろう。それをあがなうことはできない』」。』(レビ記27:32)
家畜の中で、どれを十分の一の聖なるものとして選別するか。
そのやり方は、家畜の群れに牧者のつえの下を通らせて、その十番目に通るものが、聖別すべきものである、と、主は定められた。
そして、その十番目に通るものについて、人は、とやかく言ったり判断したりしてはならない。
十番目に通ったものの善し悪しを見て、取り替えてはならず、取り替えようとするなら、両方を「聖なるもの」として、捧げなくてはならない。

『これらは主が、シナイ山で、イスラエルの人々のために、モーセに命じられた戒めである。』(レビ記27:34)
このレビ記において、主は私達に、何を求めておられ、どうなる事を望んでおられ、どのようになる事を忌み嫌われるか、そして、主の忌み嫌われる事を続けていると、どうなるか等を、はっきりと示され、イスラエルの民は、それを学習した。

レビ記で学んだ主の命令は、全て、法則である。
幸いを得る法則に従えば、必ず幸いになるが、呪いの法則に従えば、必ず呪われる。それ以上でもそれ以下でもない。
レビ記が学科であるなら、その次の民数記は、実技試験の記録である。
イスラエルの多くは、早くも学科で学んだ事を大いに違反し、災いを招いてしまったが、中には、少数ながらも主に従って幸いを得た人もいた。
主の法則にはシンプルに従い、幸いを得る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:土地の評価価値(レビ記27:16-25):右クリックで保存

『もし人が相続した畑(土地)の一部を主にささげるときは、あなたはそこにまく種の多少に応じて、値積らなければならない。すなわち、大麦一ホメルの種を銀五十シケルに値積らなければならない。』(レビ記27:16)
土地の価値をはかる上で、基準とするものは、広さではなく、立地でもない。
「蒔く事の出来る種の量」である。
つまり100ヘクタールのいばらや岩だらけの土地よりも、20ヘクタールのよく耕された土地のほうが、価値がある、という事も、十分有り得るのだ。
この事から、神の御前に価値ありとされるのは、その人の生い立ちでもなく、教会にいた年数でもなく、その人がいかに、御前に良き「実」を結べるか、であると分かる。

私達は、神の畑である。(1コリント3:9)
何年教会に通っていても、使う言葉がいかにもクリスチャンっぽくても、「実」が無いとしたら、御前に価値は無い。

私達は、ガラテヤ5:22-23 にある「実」を結んでいるだろうか。
兄弟姉妹や隣人への「愛」があるだろうか。
喜んでいるだろうか。
平安だろうか。
寛容だろうか。
親切だろうか。
善意にもとづいて行動しているだろうか。
誠実だろうか。
柔和だろうか。
自制があるだろうか。
これらの実が、少しずつでも実って来ているなら、その人は御霊にあって成長している人である。
しかし、何年たっても変わらず、それらの実が全然増し加わっていないなら、キリスト者としての根本的なあり方を見直さなくてはならない。

『もしその畑をヨベルの年からささげるのであれば、その価はあなたの値積りのとおりになるであろう。もしその畑をヨベルの年の後にささげるのであれば、祭司はヨベルの年までに残っている年の数に従ってその金を数え、それをあなたの値積りからさし引かなければならない。』(レビ記27:17-18)
土地を主の御用のために捧げるにあたっては、ヨベルの年までの年数も、関係して来る。
私達はあたかも、まことのヨベルの年、すなわち、全ての罪の負債が帳消しにされ、まことの故郷である天に還る日に向かい、日々、歩んでいるようなものである。
このまことのヨベルの年に至るまで、いかに御前に有用な実を結ぶか。そのような心がけで日々歩むべきである。

『もしまた、その畑をささげる人が、それをあがなおうとするならば、あなたの値積りの金にその五分の一を加えなければならない。そうすれば、それは彼のものと決まるであろう。しかし、もしその畑をあがなわず、またそれを他の人に売るならば、それはもはやあがなうことができないであろう。その畑は、ヨベルの年になって期限が切れるならば、奉納の畑と同じく、主の聖なる物となり、祭司の所有となるであろう。』(レビ記27:19-21)
約束のカナンの地で、主からゆずり受けた土地は、本来、その人とその子孫のものであり、いかに経済的に落ちぶれ、誰かに売ってしまおうとも、ヨベルの年には、その人の元に還ってくるのが基本だったが、ここに記されていたように、永久に、その人の手から放れてしまう、という事があるようである。
すなわち、その土地を「神様の御用のために」捧げた人が、ヨベルの年になってもその土地を買い戻さず、むしろ、その土地を他の人に金で売るとしたら、もはや、その土地は永遠に手放した事になってしまう。

ヨベルの年の前の年になっても、金を使い果たしてしまっていて買い戻しが出来ないのか、あるいは、主からゆずり受けた土地よりも、現金のほうが大切なのか、とにかく、その人の心が、主から受けたゆずりの地を軽んじて油断していると、永遠にそこを失ってしまうのだ。
エサウは、一杯の豆の煮物と引き換えに長男の権利を永遠に手放してしまった。
同じように、キリスト者の中にも、ひと度主に贖われ、主のものとされておきながら、世の一時的な金銭を得たいがために、ゆずり受けるべく神の国を、自ら永遠に手放してしまうような人がいるが、そういう事があってはならない。

『すべてあなたの値積りは聖所のシケルによってしなければならない。二十ゲラを一シケルとする。』(レビ記27:25)
神様のために捧げるものの値積もりは、私達に属する量りではなく、神に属する量りによって、量られなくてはならない。
人の量りでは重くても、神の量りには軽く値積もられ、その逆に、神の量りは重くても、人の量りでは軽く値積もられてしまうような事がある。
しかし私達は、世間の解釈や世間のはかりによってではなく、天の、神の国の、永遠に変わらぬ聖なる「はかり」によって、はかるのが本来である。

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