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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:汚れを受けた場合の対処(レビ記11:24-38):右クリックで保存

『あなたがたは次の場合に汚れたものとなる。すなわち、すべてこれらのものの死体に触れる者は夕まで汚れる。』(レビ記11:24)
レビ記では「汚れ」や「死体」に触れれば、「洗わなければならず」、「夕方まで汚れる」という指示が、度々出てくるが、「汚れ」という望ましくない状態に陥ったなら、定められた手順をきちんと踏んで対処し、努めて脱却すべきである事を、主は教えている。
汚れを受けたなら「日が沈む前に」「その日の内に」対処しなくてはならない。対処せずに日をまたぐと、汚れた状態をそままずっと持ち越してしまう事になる。

私達も以前は汚れた者としてサタンに支配され、罪と罪過の内に死んだ者、「汚れた者」であった。
しかし、憐れみ豊かな神の、私達を愛するその大きな愛によって、救いの手が差し伸べられ、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われ、神にあって生きたもの、「きよい者」とされた。(エペソ2:1-6)

しかし、もし私達が再び、世のならわしへと入って行き、罪の内へと入るなら、汚れた者となり、神の御前に、死んだ者となってしまうのだ。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は「死んでいる。」・・・しかし、サルデスにはその「衣」を汚さない人が、数人いる。彼らは白い「衣」を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(黙示録3:1-4)

世俗の人達の、罪の行いに関わったり、触れたりして、その衣を汚したなら、対処が必要である。
レビ記では、衣を水で洗わなければならない、とあるが、私達の罪に汚れた衣を清めるものは、何だろうか。
それはまず、イエスの血である。

『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた「キリストの血」は、なおさら、わたしたちの「良心」をきよめて「死んだわざを取り除き」、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)
まず、イエスの血潮によって、汚れた良心を清められ、死んだわざが取り除かれ、生ける神に仕えるものとされる。

そして、罪を洗い清める「水」は、御言葉である。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)

私達が世から汚れを受けたなら、イエスの血潮によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのである。
「その人は夕方まで汚れる」とある通り、御言葉の水で洗えば、すぐに気持ちが晴れるかといえば、そうではないかもしれない。
思いも晴れ晴れするまでに、ある程度の時間がかかるかもしれないが、続けてイエスの血で上塗りし、御言葉の水ですすぎ続けるのである。

『またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ「仕事に使う器」はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。』(レビ記11:32)
私達は世に出て仕事をする時、世から汚れを受ける事を免れないが、汚れを受けた都度、御言葉の水の中に入れるのである。

『またそれらのものが、土の器の中に落ちたならば、その中にあるものは皆汚れる。あなたがたはその器をこわさなければならない。』(レビ記11:33)
土の器は、染みこむものである。
もし罪がその身に染み込んでしまったら、粉々に割るくらいの思い切りで、その罪から離れたほうが良いのだ。

『またすべてその中にある食物で、水分のあるものは汚れる。またすべてそのような器の中にある飲み物も皆汚れる。またそれらのものの死体が落ちかかったならば、その物はすべて汚れる。天火であれ、かまどであれ、それをこわさなければならない。これらは汚れたもので、あなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:34-35)
ここは、食料として口に入るものを入れる器や、食料をるくる「かまど」についてであるが、世の罪や汚れが、家の中、ことに台所にまで入り込んだら、かまどを割るくらいに、徹底的に取り除いたほうが良いのだ。
特に口に入るもの、食卓の中に汚れが入り込んでしまうなら、それほど徹底して対処しなくてはならない。

『ただし、泉、あるいは水の集まった水たまりは汚れない。しかし、その死体に触れる者は汚れる。』(レビ記11:36)
イエスこそ、まことの命の泉である。
12年長血を患った女は、律法上は汚れていたが、信仰をもって命の泉なるイエス様の衣に触れた時、汚れは清められた。

『それらのものの死体が、まく種の上に落ちても、それは汚れない。ただし、種の上に水がかかっていて、その上にそれらのものの死体が、落ちるならば、それはあなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:37-38)
「種」は御言葉そのものであり、御言葉に汚れが落ちた所で、なんともないが、人の心に御言葉の種が蒔かれ、水がまかれ、根が出た状態で、その蒔かれた御言葉の上に汚れが落ちるとするなら、対処しなくてはならない。
私達は汚れを受けた場合、イエスの血によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
昔からの主のご計画の通りに(エズラ記1章):右クリックで保存

【概要】

 

エズラ記1章の解説。ペルシャ王クロスによるユダヤ人帰還許可の背景と意義。

 

【聖書箇所】

 

エズラ記1章、エレミヤ書29:10-14、ダニエル書9章、イザヤ書44:24-28, 45:1-2

 

【励ましの言葉】

 

主の予言は必ず成就する。たとえ困難な状況にあっても、主を心から求め続ければ、主は必ず見出される。

 

【***詳細***】

 

エズラ記1章は、ペルシャ王クロスがユダヤ人の帰還と神殿再建を許可する場面から始まります。これは、預言者エレミヤが予言した70年の捕囚期間の終わりを示しています。

 

重要な点は、この出来事が単なる偶然ではなく、神の計画の成就であることです。**「主はペルシャの王クロスの霊を奮い立たせた」**(エズラ1:1)という表現は、神がクロスの心を動かしたことを示しています。

 

さらに驚くべきことに、イザヤ書では、クロスの名が150年以上前に預言されていました。**「私はクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望むことを皆成し遂げる』と言う」**(イザヤ44:28)。この預言は、クロスがバビロンを征服する方法まで詳細に描写しています。

 

この状況の背景には、ダニエルの祈りがありました。ダニエルは捕囚の70年が満ちようとしていることを悟り、**「私は顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって願い求めた」**(ダニエル9:3)と記されています。彼の熱心な祈りと悔い改めは、神の計画の成就を促進したと考えられます。

 

このエズラ記の出来事は、エレミヤの預言の成就でもあります。**「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、わたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」**(エレミヤ29:10)。この預言は、イスラエルの民が苦難の中にあっても、神が彼らのために将来と希望の計画を持っていることを示しています。

 

この出来事から学べる重要な教訓は、どんな状況にあっても神を求め続けることの大切さです。**「もしあなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう」**(エレミヤ29:13)という約束は、今日の私たちにも適用されます。

 

ダニエルの例は、異国の地にあっても信仰を保ち続けることの重要性を教えています。彼は高い地位にありながらも、**一日に三度、エルサレムに向かって祈る**習慣を守り続けました。この忠実さが、神の計画の成就に大きな役割を果たしたのです。

 

【結論】

 

エズラ記1章の出来事は、神の予言の確実な成就を示しています。私たちも、どんな状況にあっても神を求め続け、御言葉に忠実であることの重要性を学ぶべきです。そうすれば、神は必ず私たちを見出し、その計画を成し遂げてくださるでしょう。

礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存

今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。

まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。

「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)

また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。

また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)

主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。

創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。

『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)

この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:私たち異邦人と律法との関わり(レビ記11:1-12):右クリックで保存

11章以降は、聖なるものと俗なるものの区別、きよいものと汚れたものの区別が示されており、いかに自らを清く保って主の民として歩むかというガイドラインが示されている。
そして、この11章では、食物に関する規定が示されている。

『「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。』(レビ記11:2)
『水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。』(レビ記11:10-12)

ここを読むと、私達日本人が普通に食べているものの中で、多くのものは、律法上では汚れたもの、食べてはならぬもの、と分かる。
では、私達日本人を含む「全異邦人」は、これらの規定と、どのような関わりがあるのだろうか。

そもそも、律法が特別にイスラエルの民に授けられた意義は、イスラエル民族がまだ一人の人だった頃、すなわち、アブラハムの時代にさかのぼる。
アブラハムがまだ、子供の無い75歳の一老人だった時、はじめて神から召命を受け、その時、子孫が与えられる約束がアブラハムに与えられた。
そして、その子孫を通じて、全人類を祝福へと入る約束が、与えられた。(創世記12:1-3)
つまり、神はアブラハムを特別に選び、彼の子孫、すなわち、イスラエル民族に神の規定を与え、神の基準を示し、神の存在と、神の聖なるご性質、そして、人類の救いの道を、全人類に表明するよう、祭司の民族として特別に定められたのだ。

祭司は自らを清め、世俗と分離する必要があるように(レビ記10:9-11)、祭司たる民族・イスラエルも、神が「汚れている」とされるものは摂ってはならず、そうして神の定めた律法を尊守し、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そしてそれは、イエス・キリストのあらわれによって成就し、キリストを信じた者は、いかに「汚れている」とされている民であっても聖霊が与えられ、新しく造り変えられ、きよい、と宣言されるのだ。(使徒10章)
そして、エルサレム使徒会議にて、異邦人には、イスラエルの先祖たちさえ負いきれなかったくびき、すなわち、律法の数々の規定を、負わせない事が決議された。(使徒15章)

律法のもろもろの規定は、私達異邦人には適用されないものではあるものの、律法は、聖なるものと俗なるものの神の基準を知る事が出来、そして、これを守り行う人は、確かに祝福を受ける。
実際、これらを注意深く守り行ったイスラエル民族は、他と比べて伝染病にかかりにくく、平均寿命も長く、学力も社会ステータスも高かった。
ただ、律法を守り行う事によっては、いのちを得る事は出来ない。
結局、律法はあくまでキリストへと導く養育係であり、キリストを信じた事によって、私達も信仰によるアブラハムの子孫とされ、キリストがあらわれた以上、もはや「養育係」の下にいる必要は無いのだ。(ガラテヤ3章)

今や私達にとって、大切なのは、愛によって働く信仰である。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:1-6)

礼拝説教メッセージ音声:違反しても赦される人の特徴(レビ記10:12-20):右クリックで保存

『モーセはまたアロンおよびその残っている子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは主の火祭のうちから素祭の残りを取り、パン種を入れずに、これを祭壇のかたわらで食べなさい。これはいと聖なる物である。』(レビ記10:12)

あの恐ろしい事件の後、モーセは、アロンとその子達に、祭司たちが受けるようにと定められていた分を食べるよう言ったが、彼らはこの時、規定どおり行わなかった。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)

モーセが、エレアザルとイタマルに怒ったのは、彼らが食べるべきだったものは、「いと聖なるもの(most holy)」であり、祭司たちは、これを食べる事によって会衆の罪を負い、主の前にあがないをするものだから、である。

祭司たちは、その動物がほふられる様を見、血が流れる様を見、その上で食べ、味わうべきものなのだ。

罪祭は、キリストの予表である。
何の罪も無い動物が、会衆の罪を背負い、身代わりに命を絶たれたのと同じように、私達も、キリストが十字架上で裂かれた肉を、流された血潮を、しっかりと覚え、尊びつつ、感謝をもって頂かなくてはならないのだ。

『アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。モーセはこれを聞いて良しとした。』(レビ記10:19-20)

モーセは、アロンのこの言葉で、良しとした。
アロンとその子らも、主の言われた事を厳密には守らなかった。なのに、赦された。
ナダブとアビフとは、主に火で焼き滅ぼされてしまった。
一体、滅ぼされた者達と、赦された者達の違いは何だろう。おそらく、次の事によるのではなかろうか。

モーセが怒った対象は、二人の子に、であり、アロンに、ではなかった。つまり、咎めを負っていないアロンが、子達のために、執り成した形になる。
義人による執り成し。それによって滅びを免れたケースは聖書に多い。

また、アロンの言葉からは、自分たちは「分からないで」事を起こしてしまった事を伺う事ができる。
もしかしたら、あまりに恐ろしい出来事の直後で、気が動転していて、命じられた事をつい忘れてしまっていたのかもしれない。とにかく、彼等は故意に命令に逆らったのではなかった事は、確かである。
主は、知らないで犯してしまった罪を、執り成して下さる。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、知らないで犯す恐ろしい罪について、執り成してくださった。(ルカ23:34)
しかし、罪だと指摘され、知りつつも、なお主への捧げものを軽んじた、ホフニとピネハスは、主から下る災いによって、一日にして滅んだ(1サムエル2章)。
また、初代教会において、夫婦で共謀し、意図的に捧げものを偽った夫婦も、たちどころに主に打たれた。(使徒5章)
主は、知らずに犯した罪は憐れんで下さる。しかし、知りつつ意図的に主に逆らう者には、憐れみは無い。

そしてまた、祭司アロンは、自分達の側に非があった事を、認めている。
ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯した事を、預言者ナタンに指摘された時、「わたしは罪を犯した」と素直に認めた。
罪を指摘されても、言い訳と自己義を貫き通すような者は、サウル王のように、地位を剥ぎ取られ悲惨な末路を辿る。
罪を指摘されても、開き直って、神に反抗するような者は、カインのように追放され、人々から忌み嫌われ、さすらい人とされてしまうのだ。

罪を正直に告白し、言い表す人に対しては、神は真実で正しいお方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする者である。(1ヨハネ1:7-9)
私達も、自分の罪を認め、告白し、悔い改めて赦していただき、そうして、末永く祭司として主に仕える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存

『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。

なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。

酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。

『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。

『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。

『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。

『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)

髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。

イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。

『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)

清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)

礼拝説教メッセージ音声:コンシューマー・サービス(レビ記9:15-14):右クリックで保存

自分自身の贖いを済ませた祭司アロンが、次に為す事は、民のための贖いであり、そのために主から命じられている事は、罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事である。

真っ先に罪祭(罪のためのいけにえ)を捧げる所は、祭司の贖いと同じである。
民も、まず罪を取り扱わなくてはならない。
なぜなら、罪は神と人との隔たりとなってしまうからだ。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、あなたがたの舌は悪をささやき、ひとりも正義をもって訴え、真実をもって論争する者がない。彼らはむなしきことを頼み、偽りを語り、害悪をはらみ、不義を産む。』(イザヤ59:1-4)

続いて捧げられるのが、燔祭(全焼のいけにえ)である。
燔祭は、自らを捧げる献身を意味し、献身なくば、祝福はいただけない。
「この時代において幾倍もの祝福を受け、来るべき世で永遠のいのちを受ける」者とは、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者」であり(ルカ18:29-30) 、食べ物や着る物などがすべて添えて与えられる者とは、「まず神の国と神の義とを求め」た者である。(マタイ6:33)
主から祝福をいただくには、必ず、それなりの「献身」が必要だという事ある。

それに続いて捧げられるのは、素祭(穀物の捧げもの)である。
祭司の場合は、罪祭と燔祭のみだったが、祭司には土地の相続が与えられていない。
それ故、一般人は、自分達の相続地から得られた、勤労の実である穀物を捧げるのだ。

そして、最後に捧げられるのが、酬恩祭(和解のいけにえ)である。
酬恩祭は、以前も学んだとおり、神と、祭司と、捧げた人とが、共に同じ食物からいただくごちそうであり、同じテーブルに座って共に宴会をするかのような、神と人との楽しい交わりである。
これを捧げる事によって、神と人との平和が実現する事になる。
そして今や、キリストこそ、まことの和解のいけにえである。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)

以上、これら全てのいけにえを捧げた後、アロンは祝福した。そしてアロンの祝福は神に受け入れられ、神の元から火がくだり、いけにえを受け入れられた。
『モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。』(レビ記9:23-24)

主は、焼きつくす火である。(ヘブル12:29) 英語の聖書では、コンシューミング・ファイアーである。
最近、ビジネス用語でコンシューマーという言葉を良く耳にする。
コンシューマーとは、お客様、消費者であり、コンシューマーを意識したビジネス展開が重要であるが、神こそ、真に私達のコンシューマーである。
人々の中には、色々な教会の礼拝を物色し、あっちの礼拝(サービス)は甘い、こっちのは辛い、などと、自分をコンシューマーとし、教会をサービス提供者のように思っている人がいるが、そのような人は、自分の立場が分かっていない。
神こそコンシューマーであり、私達はサービス(礼拝)を捧げる側である。

主を敬う心をもって正しく礼拝を捧げるなら、主は炎をもってその礼拝を受け入れて下さるが、身勝手に捧げるならば、主は、その人自身を焼きつくす火として現れる。
その事については、次回見て行きたい。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
一時期低くされても(エステル9:20-10:3):右クリックで保存

以下AIによるメッセージ概要

【概要】

本日はエステル9章20節から10章3節および1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を通して、神の救いの計画と、謙遜・信仰・忍耐の大切さについて学び、日々の生活にあらわれる御業を振り返ります。

【聖書箇所】

・エステル9:20-10:3

・1ペテロ5:6-11

【慰めの言葉】

苦難や敵の陰謀の中でも、神は決してあなたを見捨てず、必ず良い時に高く引き上げ、平和と喜びへと導いてくださいます。

【励ましの言葉】

恐れや不安が襲ってくる時、イエス・キリストの御名にあって、あなたは必ず信仰による勝利と慰めを得ることができます。神の恵みは絶えることがありません。

【戒めの言葉】

高ぶる者に敵対し、謙遜をもって生きることが求められています。どんな状況でも自己中心的な態度を改め、神の御心に従う生活を心がけましょう。

【勧めの言葉】

日々の暮らしの中で、聖書の御言葉・エステル記と1ペテロの教えに立ち返り、互いに支え合いながら信仰を実践し、平和と和解の証となるよう努めましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

過去に傲慢や自己中心的な行いによって御心から逸れてしまったことがあれば、今一度心を改め、神に立ち帰って悔い改めることこそが新たな祝福への第一歩です。

【***詳細***】

本日の説教は、エステル記の9章20節から10章3節までの御言葉と、1ペテロ5章6節〜11節の御言葉を中心に、神の御計画、イスラエルの民が受けた大いなる祝福、そして私たち一人ひとりに求められる謙遜と信仰についてのお話です。

冒頭、エステル記では、モルデカイがアハシュエル王の国内全域にわたって、ユダヤ人に向けた書簡を送る様子が記されています。「アハシュエル王のすべての州の近いところや遠いところにいるユダヤ人全部に手紙を送った」と記され、ユダヤ人にはアダル月の14日と15日が、かつて敵に虐げられていた悲しみの日が、今日では喜びと祝宴の日に変えられたことが告げられています。ここでモルデカイは、ユダヤ人がすでにその日を守り始めた事実と、かつて迫害の道具となった者ハマンへの報いが、神の御計画のもとにあることを強調します。「ユダヤ人を滅ぼそうと企んだ者の企みが、王の耳に入り、その悪い計略をその頭上に返す結果となった」という出来事は、単なる偶然ではなく、神が正義をもって働かれた証と捉えることができます。

 

このエステル記の記述は、当時のユダヤ人にとって絶大な慰めであり、また新たな希望の光でもありました。書簡により、彼らは毎年この祭日の慶びを忘れることなく、家族や親しい者たちと互いにご馳走を送り合い、貧しい者へも惜しみない贈り物がなされるように定められたのです。モルデカイは、「これを廃止してはならないと定め」と強く謳い、これが子孫に渡り絶えないようにする意志を表明しました。

 

さらに、説教は歴史的出来事だけに留まらず、現代に生きる私たちへの霊的なメッセージへと話は展開します。聖書の中で語られる、ハマンの悪計が逆に彼自身やその子どもたちに返された事実は、世における善と悪、正義と不正の戦いの中で、神が決して義人を見捨てないことの証です。実際、歴史上のユダヤ人が迫害や絶望の中からいかにして這い上がり、神の御加護を受けて幸運をつかんできたかを、私たちは今日の生活の中にも当てはめながら考えるべきです。

 

現代においても、私たちの周囲には常に「サタン」という名の霊的な敵が存在しています。説教では、これを「日々、日が攻め立てる敵」と例え、私たちはキリストにあって、恐れや不安という死に至る闇に対して、光と命に変える力を持っていると強調されました。具体的には、「恐れや恐怖といった死にかかわる勢力は、イエス・キリストの名前によって打ち消すことができ、結果として平安と休みが与えられる」と説かれています。私たちが心からイエスにあって信仰を保ち続けるならば、たとえどんな激しい敵対勢力が襲いかかっても、必ずや神の保護と導きを受けることができるのです。

 

また、説教は人間関係の中での妬みや争い、兄弟姉妹間での憎しみについても触れています。これらの悪しき感情は、まさに悪魔にとっての攻撃材料であり、私たちが内面で抱えるすべての否定的な感情は、霊的な平安を乱す要因となります。だからこそ、キリストにあってそれらを打ち消し、自己の自我や誇りを十字架に釘付けにすることこそが、神の国において高められるための最も確かな道であると教えています。

 

続いて、説教は1ペテロの御言葉に移ります。1ペテロ5:6-11では、「若い人たちは長老たちに従い、皆互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」と書かれており、ここからは謙遜と信仰の実践がいかに重要かが説かれています。説教者は、こうした御言葉を通して、常に「神の力強い見ての下にへりくだる」ことの大切さと、敵である悪魔が獅子のように獲物を狙っている現実を強調します。私たちは、霊的な目を覚まし、信仰に立ち続けることによって、悪魔の策略に決して屈してはならないという、戒めと励ましの両面のメッセージが込められています。

 

説教はその後、歴史上の偉人、例えばヨセフやモルデカイの例を引き合いに出し、低いところから神に守られ、ひたむきな誠実さゆえに高い地位へと導かれたその姿勢を紹介します。ヨセフが奴隷売られ、牢獄に送られた後に、神の計らいにより王の右にまで上り詰めたこと、そしてモルデカイが最初はささやかな役職であったにもかかわらず、最終的にはアハシュエル王の次に位するに至ったことは、どんなに苦しい状況の中でも真摯な信仰と正直な行いが報われることを、私たちに示しています。

 

ここで注意すべきは、世間の常識や、短絡的な手段に頼るのではなく、純粋な信仰と謙遜、そして神の御言葉に従う生活が、最終的に神様の大いなる祝福と平安へと導くという確信です。説教者は現代のユダヤ人がプリム祭を祝う様子にも触れ、その伝統が家族や地域、さらには異文化間の交流を通して生き続けていることに感嘆を示しています。一方で、同じ祭りの日に大人たちが過度に飲酒にふける現状もあり、このような習慣が本来の霊的な意味や感謝の念をかすめる危険性についても戒めがなされています。

 

更に説教は、日常生活における人間関係の葛藤や、不和が生じた際の和解の大切さについても触れています。過去に己の誤りを謝ることなく放置していた結果、関係に亀裂が生じた事例を紹介し、誠心誠意謝罪し、改めることで和解へと向かったエピソードは、私たち一人ひとりにとって大きな励ましであり、また悔い改めの動機となるべきものです。

 

最後に、説教は私たちが今日この場所において学んだエステル記や1ペテロの教えを、霊的なアブラハムの子孫としての責務と受け止め、全世界に福音の良い知らせを伝える使者となるよう呼びかけています。イエス・キリストがご自分を無にして人々に仕え、十字架の死に忍び従った後、天に高く引き上げられたことは、私たちにとっても大いなる希望であり、模範です。どんなに一時的に挫折や苦難の中にあっても、神の御計画の中では必ず「ちょうど良い時」に引き上げられると信じ、それに向かって謙遜と誠実をもって歩むことが大切です。

この説教を通して、私たちが学ぶべき点は、神が歴史・人の運命に働きかけ、あらゆる状況の中で救いと平安をもたらしてくださるという確かな御約束、そして私たち自身が日々の生活の中で謙遜に、真摯な信仰によってその祝福に応えるべきだということです。

 

改めて、エステル記にあるように、絶望の中にあっても神は救いの日、喜びの日を準備され、また1ペテロの御言葉は、私たちに常に「へりくだること」を求め、悪魔や世の迷いを退けるための忠告として語られています。今日の説教が、あなた自身の心に光をともすとともに、日常生活の中で勇気と決意を新たにする契機となることを、心から祈っております。

【結論】

エステル記と1ペテロの御言葉は、神の救いの計らいと、私たちに求められる謙遜な生き方、信仰の堅持を教えています。暗い時にあっても神は必ず光を差し、苦難の後に喜びと平安をもたらしてくださいます。私たちは、イエス・キリストにあって真摯な信仰を持ち、謙遜な心で日々を歩むことにより、いずれ神の大いなる祝福に導かれることでしょう。

礼拝説教メッセージ音声:主の栄光の歩みをするために(レビ記9:1-14):右クリックで保存

七日の任職期間を経、神と人との前に正式に大祭司となったアロンが、最初に為さねばならなかった仕事は、自分自身の贖いのために、祭壇でいけにえを捧げる事であった。
『八日目になって、モーセはアロンとその子たち、およびイスラエルの長老たちを呼び寄せ、アロンに言った、「あなたは雄の子牛の全きものを罪祭のために取り、また雄羊の全きものを燔祭のために取って、主の前にささげなさい。』(レビ記9:1-2)

今、キリスト者である私達が、自らの全てを捧げる「祭壇」は、十字架である。
キリストは、十字架の上で、自分の意思を尽く御父の前に降ろし、十字架の上で、完全にご自身を捧げられた。

任職式においては、七という完全数が満ちるまで、日々、祭壇の贖いと、その人自身の贖いとが、毎日なされたが、同じように、私達も、主が量られた期間が満ちる時まで、日々、自分の十字架を負い、その上で主イエスについて行くべきである。
『それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。』(マタイ16:24-25)

『あなたはまたイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは雄やぎを罪祭のために取り、また一歳の全き子牛と小羊とを燔祭のために取りなさい、また主の前にささげる酬恩祭のために雄牛と雄羊とを取り、また油を混ぜた素祭を取りなさい。主がきょうあなたがたに現れたもうからである』」。』(レビ記9:3-4)
自分自身の贖いが済んだ祭司が、次に為すべきは、民のための贖い、すなわち、民のために罪祭、燔祭、酬恩祭、素祭を捧げる事であった。
これについては次回見て行くが、これらの事を為さねばならない理由は、明確に、次のように言われている。
「これは主があなたがたに、せよと命じられたことである。こうして主の栄光はあなたがたに現れるであろう」(レビ記9:6)

皆さんは、自分の生活の中に、職場に、家庭に、主の栄光を見たいと思うだろうか。主が直々に、生き生きと、皆さんの家庭や職場において、働かれるのを見たいだろうか。
そうであるなら、その主の臨在を呼びこむためのエッセンスが、このレビ記に記されている。

主の栄光が現れるための、第一ステップは、まず、罪祭と燔祭であった。
祭司は、神と人との間に立って執り成し、祈り、いけにえを捧げる者である。私達もキリストにあって祭司とされたからには、真っ先に、自分自身の罪を対処する必要がある。
もし私達の中に罪が手付かずにそのまま残っているとしたら、その罪が、神と私達との間に隔たりとなってしまい、どんな良き犠牲を捧げても、主は受け入れて下さらない。(イザヤ59:1-4)
だから真っ先に、罪を取り扱う必要があるのだ。

罪を対処した後に、捧げるべき捧げものは、全焼のいけにえである。
現在、私達が捧げる「全焼のいけにえ」とは、「私達自身」である。
『兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』(ローマ12:1)

そのように、まず、私達の罪を、イエスの血潮によって、御言葉の水の洗いによって取り扱い、続いて、私達自身の思いも意思も感情もキリストに服従させ、自分自身を主に捧げるなら、私達の執り成す祈りを、主は聞いて下さり、人々のための贖いも出来るようになり、主の栄光が現れて下さるのだ。
主の栄光の内を歩む事、主が共におられる事、これこそ、私達が「神の民」と呼ばれるゆえんである。

礼拝説教メッセージ音声:任職のための七日という期間(レビ記8:14-36):右クリックで保存

大祭司の任職において必要なもう一つ過程、それは、動物のいけにえである。
最初に捧げられるのは「罪のためのいけにえ」、その次は「全焼のいけにえ」、そして、「任職のいけにえ」と続くが、この順番は、とても意義深い。
私達も、神と人との間に立つ祭司として主に用いられるには、まず「罪の清め」を経なくてはならず、それを経て後は「全焼のいけにえ」、すなわち、思い、意思、感情全てを主に服従させ、全身全霊をもって主に献身する事が必要であり、そうしてこそ、祭司として相応しく整えられるのである。

任職の雄羊の「任職(mil-loo)」という言葉は、成就、聖別、献身とも訳す事が出来る。
「聖」とは、分離を意味する。故に、祭司に「任職」されるとは、俗なるものから聖なるものへと分離され、神へ全き献身する事を意味する。

私達キリスト者は、キリストにあって王族の祭司とされた(1ペテロ2:20)。
という事は、キリスト者は世と分離し、神へ献身する者、もはや世のためでなく、天のため、自分のためでなく、キリストのために生きる者達である。

『彼はまたほかの雄羊、すなわち任職の雄羊を連れてこさせ、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置いた。モーセはこれをほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつけた。』(レビ記8:22-23)

祭司の任職式で特徴的なのが、血を、右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指とにつける行為だが、「右」は力と権威を象徴し、「耳」は聞き従う器官、「手」は行う部位、「足」は、歩む部位である。
祭司の耳は、手や足よりも重要である。なぜなら、祭司は神の御声を正しく聞き、民の声を正しく聞く必要があるからだ。

『あなたがたはその任職祭の終る日まで七日の間、会見の幕屋の入口から出てはならない。あなたがたの任職は七日を要するからである。』(レビ記8:33)
この七日の期間、任職のための特別なパンと肉を食べなくてはならない。それは特別なものであるため、他の人は食べてはならず、残ったら、火で焼き捨てなければならない。(レビ記8:25-32)
この七日という期間、世俗に戻る事は許されず、幕屋という聖なる場所にとどまり続け、主の庭に住み、主を思い続ける。
そして、思いも意思も感情も、体も、主の御用として用いられるにふさわしく清められる事に集中し、聖なる者とされる事に集中するのだ。

教会に住みたい、という人がいても、その理由が、さみしさを紛らわせたいとか、居ればなんとなく落ち着く気がするとか、あるいは、教会を何か慈善団体の簡易宿泊所のように思っているような人は、たとい何日教会に住んでも、何の変わる所は無い。
しかし、心のうちに、主を思い焦がれる思いがあるのなら、たとい、仕事などの事情で教会に来れない日が何日か続いても、その人は、どこにおいても主を認め、主に愛され、ますます霊的に成長して行く。
大事なことは、幕屋や教会といった「場所」よりも、その人自身の内に、主を慕い求める心、生ける神を喜ぶ心がある事である。
『なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。』(詩篇84:5-7)

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