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礼拝説教メッセージ音声:どうして私が神の代わりでしょうか(創世記50:15-21):右クリックで保存
創世記50章でヨセフは、2回泣いている。
まずは父が死んだので泣いた(1節)が、17節では、兄達の「過去の事を赦して欲しい」という言葉を聞いて泣いた。
『ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。』(創世記50:15)
ヨセフはもはや兄達の故に負った苦労の日々は、神が忘れさせて下さったのに、兄達は、何十年も前にヨセフにしてしまった事を、未だに引きずっていたのである。
誰かから受けてしまった災いは、神が慰めて下さる事で忘れられるが、自分が誰かにしてしまった災いは、その人が目の前にいる限り、良心の呵責に悩まされ続ける事になってしまう。
キリストが十字架で裂かれた手足の傷跡は、永遠に残っている。
私達が天の御国でキリストを見、私達がつけたその手足の傷跡を見る度に、主の驚くべき赦しと恵み故、永遠に頭が上がらないのである。
『ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。』(創世記50:19)
裁きは神の領域である。
そもそも、神がヨセフを総理大臣の地位に着かせた理由は、大いなる救いによって父イスラエルの全家族を救うためであった。
それなのに、どうして父が死んだ途端、その父の家族たちを滅ぼすような事ができるだろうか。
それは、神に対する大いなる反逆である。
ヨセフは、豊かに赦した。
ヨセフは、そのような品性であったからこそ、大きな権威と力が与えられたのだ。
もし赦さない者だったら、神が祝福し生かそうとしている兄達とその家族を、その権威でもって滅ぼしていたであろう。
そのような、赦さない者に、どうして神は、御心を行使するための権威を与えられるだろうか。
憐れみの無い者に、どうして神は力を与えるだろうか。
赦す事、それが御国の子の品性である。
赦す事によって、怒りや憎しみの束縛から開放され、より人生を有意義に過ごせる。
『むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ 12:20-21)
赦す事には多くのメリットはあるが、赦さない事は百害あって一利なしである。
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は、一生働いても返し切れない罪の負債を、主に赦してもらった。(マタイ18:21-35)
多くを赦されたからには、私達も、兄弟姉妹を赦してやるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存
『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。
「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。
ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)
パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。
本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。
七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。
エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。
それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
建て直しを邪魔する者への対処(ネヘミヤ記2-3章):右クリックで保存
【概要】
崩された城壁のような人生の状態から、神の慰めによって再建される希望について。ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したように、主イエス様は私たちの人生を立て直してくださる。
【聖書箇所】
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ネヘミヤ2:4
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ネヘミヤ2:9-12
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ネヘミヤ2:17-19
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ネヘミヤ2:20
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イザヤ62:4-5
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マタイ4章
【慰めの言葉】
皆さんの城壁が崩されたままであっても、主は皆さんを慰めてくださいます。ネヘミヤという名前の意味は「神の慰め」です。崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。
【励ましの言葉】
天と地を作られた神である主は、皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を惜しみません。主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。
【勧めの言葉】
唇で告白するべき時が来ております。「さあ、再建に取り掛かろう」と。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。しかしエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるのです。
【***詳細***】
今日は、ネヘミヤ記の2章、9節から12節までです。ネヘミヤ記は、先週の水曜礼拝の時、1章やりましたね。ネヘミヤは、バビロン捕囚の後の時代、イスラエルに戻って、そして、このイスラエルの城壁を建て直した人です。
ネヘミヤは、元々、アルタシャスタ王という異国の王様の、そこの献酌官をしておりました。ネヘミヤはとても気分が沈んでいたんですけれども、しかし王様がそれを見て、あなたなんでそんなに気分が沈んでいるんだと尋ねました。
当時の王様はとても権力がありましたので、気分次第で献酌官を殺したりとか、そういったことをするほど結構身勝手な王様もおりましたし、権力もありましたので、彼はとても恐れました。そこで彼は天の神に祈ってから、この2章の4節に、「ではあなたは何を願うのか」と聞かれたとき、そこで私は天の神に祈ってから王に答えたと書いてあります。
「王様、もしよろしくてこの僕を憐れんでくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」と祈りました。祈ってから王様に答えました。王様は非常に良い返事をくださるんですね。
皆さんが遣わされている職場、あるいは遣わされている家庭の場所において、本当に気分次第で人を平気で落としたり打ち叩いたり、そういった厳しいところに遣わされている兄弟姉妹もいるかもしれませんけれども、しかし天の神様に祈ってから望むとすれば、主が皆さんのそのことを必ず願いを聞いてくださり、そして皆さんにそこで悪いようにはなさらず、また例えば皆さんがそこの場所において退けられるとしても、それは神様の御手の支配のうちにあることですので、心配するに及ばないことです。
では、ちょっと前置きが長くなりましたけれども、2章の9節から読んでいきます。
ネヘミヤ2:9-12「私は川向こうの総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。それに王は将校たちと騎兵を私につけてくれた。ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤはこれを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。こうして私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。あるとき私は夜中に起きた。他に数人の者も一緒にいた。しかし私の神が私の心を動かして、エルサレムのためにさせようとされることを私は誰にも告げなかった。また私が乗った獣のほか、その中には一頭の獣も連れて行かなかった。」
いよいよネヘミヤがこのエルサレムに到着しました。エルサレムは非常にひどいありさまでした。城壁が崩されて、その門は火で焼き尽くされておりました。この12節の方から16節までの方を読んでいきますと、そのエルサレムは非常に凄まじく恥ずかしめられたありさまが書いてあります。
門が火で焼かれ、城壁が崩され、また乗っている動物が通れないような、そこまで崩され方がひどい瓦礫の山と化しているところもありました。
皆さんもですね、皆さんの成り立ちもある時、皆さん自身の悪い行動、皆さん自身のこの取った行動のゆえに、皆さん自身がこの崩された城壁のように徹底的に痛めつけられて崩されてしまうようなことがあるかもしれません。それどころか、まだ未だにその城壁の崩された跡という状況が皆さんの状況だという人もまたいるのかもしれません。
このネヘミヤの時代、エルサレムは廃墟と化して城壁がない状況でした。他の国が侵略しても侵略し放題、守るものがなかったんですね。皆さん自身でこの守る防護壁がない状態ですと、本当に敵は好き放題に皆さんにやって来て、皆さん盗んでいったり、好き放題してしまったりします。
先週の水曜日にお話ししましたが、もしお家でですね、コンセントが、いつの間にか見失ったコンセントがあって、それでなんだこのコンセントってたどって見ていくと、なんか上の家の方にまでコンセントが通じてて、勝手にいつの間にか電気が泥棒されていたとしたらどうしますかっていう話をしましたね。
城壁が崩されているということ、このように境界線が侵入されて、自分たちの内側にある守るべきリソースが好き放題ぶんどられて盗まれているような状態、それがこの当時のネヘミヤの時代だったんですけれども、このような状況は改善されなくてはなりません。
崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。ネヘミヤという名前の意味は、神の慰めという意味でした。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。皆さんがぐちゃぐちゃに崩されて、敵が好き放題、恥ずかしめられ放題のありさまは、まず慰められなくてはなりません。
ネヘミヤはこのエルサレムのところに来て、彼らは夜中起きて、そして他の数人の人たちと一緒にその崩されたありさまを視察しました。夜の暗闇の、月が照っていたかもしれませんけれども、その明かりの下で、おそらく彼らは秘密裏に行動したんでしょう。ですから、獣もたった一頭しか連れて行かずに、また数人のもと、夜中に行きました。
これは本当に暗闇の中に崩されている状況、エルサレムのこの状況は、なんとこれを見てネヘミヤは心を痛めたことでしょうかね。なんで彼らがこの暗闇の中で隠密に行動しなければならなかったかというと、それを面白がらない敵がいたからです。
10節の方に書いてありますが、好き放題ぶんどれる、好きなことし放題。この役人たちにとって、彼らにとって都合が良かったんですね。ぶんどれるから。
皆さん自身もですね、立て直される段になると、それを面白がらない人がおります。攻撃を受けます。皆さん自身が自分の城壁を立て直そうとアクションを起こした途端に攻撃が来るのは、これは覚悟しておいた方が良いでしょう。
敵はですね、皆さんが立て直されるのを面白がらないんです。皆さん自身、それまでの人生でサタンにぶんどられ続けてきた。悪しき者たちにぶんどられ続けてきた。としたら、その悪しき者たち、サタンがそれを嫌がるんです。皆さんが立て直されるのを。
ここにおいては、サヌバラテとかトビヤとか、それを聞いて不機嫌になりました。ネヘミヤが来た。奴はイスラエル人の利益を求める。
そういうわけで、ネヘミヤはこの敵に知られずに、隠密に行動したんですね。皆さん自身もですね、何でもかんでも正直に、あけっぴろげで皆さん自身の秘密を全部明らかにしていれば良いというものではありません。皆さんが隠すべきところはしっかり隠すべきなんです。皆さんの実情を知られてはならない敵がいるんですよ。
皆さん自身のあることを知ってしまうと、ある日、兄弟姉妹にとっても非常に厄介なことになってしまうようなことは、そういう人をですね、混乱に陥れたり、あるいは兄弟姉妹の中でそういう混乱を起こすような情報はわざわざ言わなくていいんです。いや、言うべきではないんですね。
イエス様もある人は、ある人を癒したときに、その人に対して、このことは誰にも知らせてはならないと固く口止め、ある人たちに対してはしました。不思議ですね。ある人に対しては、言って、あなたの身に起こったことをその地方の人たちに知らせなさいと言って、ある人に対しては、このことは誰にも話してはならないと。
例えば、イエス様がそういう口止めをしたケースの場合だと、だいたいその人はその約束を破るんですね。言いふらすんです。言いふらした結果、イエス様がもはやそこで行動を取れなくなってしまうほど、人々がイエス様のもとを押し寄せたり、きっとイエス様のことをある面だけ語って、ある面だけ語らなかったんですね。
例えば、イエスという男のところに行くと、パンがもらえるぞ、とか、イエスというところに行けば、病気が癒してもらえるぞって言って、それでイエス様は罪を許してくださるお方だとか、イエス様は永遠の王であるとか、天と地を造られた神、主のメシアだとか、そういった非常に重要なところを除いて、ある面を語って、ある面を語らずということがある。
だから人によってですね、明らかにしていい情報と隠すべき情報があるんです。そこもしっかりと見極めるべきですね。このネヘミヤは、このイスラエルの敵に対しては、隠密に行動をとりました。
そして一通り見終わった後ですね、ネヘミヤはそこのイスラエルの困難のうちにある人たちに言うんです。17節以降です。
ネヘミヤ2:17-18「それから私は彼らに言った。あなた方は私たちのことを知っている。私の当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上恥辱を受けないようにしよう。そして、私に恵みをくださった私の神の御手のこと、また、王が私に話した言葉を彼らに告げた。そこで彼らは、さあ、再建に取り掛かろうと言って、この良い仕事に着手した。」
このネヘミヤはですね、そこの困難の状況うちにある神の民、イスラエルの人たち、エルサレムの住人に対して、良い知らせを告げ知らせるんですね。アルタシャスタ王は、このエルサレムの再建に対しては意欲的だと、助けをしてくれる。
そしてまた、その王の上におられる天と地を造られた神である主が、このすべてのことをここに至るまで、一献酌官がお暇をもらってお国のために仕事をさせてくださいという言葉に本当に心よく承諾して、しかもその援助の物資も送って、また手紙を書いてくれる。
そのような状況だから、我々はこのエルサレムの城壁を建て直して、もうこれ以上、恥辱を受けないようにしようと言うんです。そしてこのエルサレムの人たちは、神の御手のこととまた王様が話してくれた言葉に励まされて言うんです。さあ、再建に取り掛かろう。
皆さん自身には、主はどのように語っておられるでしょうか。皆さんは、崩された城壁のままでしょうか。門は火で焼かれているでしょうか。敵は皆さんの内側に入りたい放題しているでしょうか。
でも、主は天と地を造られた神である主は、皆さんに良くなってほしい。そして皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を天地を造られた神である主は惜しみません。
皆さんもですね、唇で告白するべき時が来ております。さあ、再建に取り掛かろうと。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。
しかしこのエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるんです。
この3章の方はですね、本当にいろんな人が出てきます。いろいろな人がここの城壁の区画をどこからどこまで取り付けて修復したというそのリストがこの3章です。結構32節までずっと続きますけれども、本当にいろんな人がいろんな区画をそこを修理している様が記されておりますけれども、でもそのままにですね、やっぱり邪魔が入るんですね。
面白く思っていない人たちは、この2章の19節の方で言っています。
ネヘミヤ2:19「ところが、ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちをあざけり、私たちを侮って言った。お前たちのしているこのことは何だ。お前たちは王に反逆しようとしているのか。」
城壁というのは、外部の敵から身を守るための道具です。城壁を建てるということは、何か戦争的な、軍事的な連想をさせるから。だから、もしこのことを面白く思っていない人たちが、王に歯向かうという口実を、王に偽の情報として、それはちょっと厄介なことですね。
皆さん自身も、皆さん自身が、自分で強くなろうとしているときに、「なんで強くなって、人を傷つけたりするのか、そんな強い言葉を身につけたら、人をもっと傷つけやすくなりますよ」というような、そういう讒言に引っかかってはなりません。
ネヘミヤは、こういうとき、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」と言われた言葉に対して、「いえいえ、滅相もない。王に反逆しようとなどしておりませんよ」なんていうふうに、そんなベタな言い訳をして、まさにドツボにハマるようなことはしません。
いちいちですね、「いや違いますよ、王に反逆しようとなんかしてませんよ」とか、「これは戦争のために使うものではなく、平和のために使うものですよ」とか、そういった、相手が言ったことに対して、こう、そのまま返すやり方は、それは下手なやり方です。
ネヘミヤはどういうふうに答えたでしょうか。20節です。
ネヘミヤ2:20「そこで私は彼らに言葉を返して言った。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だから、その僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだ。しかし、あなた方には、エルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」
アーメン。まずですね、ネヘミヤは自分の立場を宣言しました。自分は、天の神ご自身が私たちを助けてくださる。天の神、主に仕えるものだから、私たちはこの神の都であるエルサレムの再建に取り掛かっているのだと。
自分たちを僕であると告白してますね。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だからその僕である私たちは再建に取り掛かっているのだと。
サタンのですね、こういう攻撃の唇の火の矢に対しては、そのまま返してはなりません。皆さんをあざけるもの、皆さんを言葉によって引き落とそうとするものは、だいたいこういうふうにですね、そのまま答えてしまったら罠に陥るタイプの質問をしてきます。
例えばね、パリサイ派の人たちはイエス様に「カエサルに税金を納めるのは律法にかなったことでしょうか、そうでないでしょうか」と質問したとき、もしイエス様がそれに対して「かなったことである」と答えても、「そうではない」と答えても、「お前はローマに反逆するのか」と言われます。
そういう時イエス様は何て答えたか。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と真実を告白しました。
また、姦淫の現場で捕らえられている女を連れてきたパリサイ派の人たちがイエス様に質問しました。「この女は姦淫の現場で捕らえられた。こういう女は律法では石打ちするように命じられている。ところでイエス様、あなたは何と言うか。」
イエス様はその質問に対しても、女を許せと言ってもドツボにハマります。じゃあお前律法を無視しているんだなと、口実にされてしまいます。この女は石で打ち殺せとイエス様が言っても、お前が今まで説いてきた愛の教えは一体何なんだと、これまた訴える口実になります。
皆さん自身ですね、イエスと答えてもノーと答えてもドツボにはまる質問があります。また皆さんが、右に行っても左に行っても、どちらのルートをとってもドツボにはまる、そういう人生の選択の場面があります。そういう時皆さんどうするべきかというと、皆さん真理を告白するべきです。
私は神の子である。ここでネヘミヤは、天の神ご自身が私たちを成功させてくださると。だからその僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだと言いました。
イエス様は、その姦淫の現場の女の時は、そのイエスの質問に答えることなく、その群衆に対して真理を突きつけました。その群衆たちの、その状況。イエス様はこう答えただけです。「あなた方のうちで、罪のない者が最初にこの女に石を投げなさい。」つまりイエス様は、群衆のイエスの質問ではなく、その群衆に対して群衆の罪の状況をあらわにしたんですね。その人自身がいかに厄介か。
このネヘミヤが答えた言葉も、この、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」という、この世の正義において罠にはめようとした言葉に対して、「いや違う、私たちは天と地を造られた神様の僕であり、その神様に従っているだけだ」と。何の引っかかりもないですね、王に対して。このことを言っても反逆をしているような、ことを匂わせるニュアンスは一切ありません。
皆さん、相手を見たら罠に陥ります。イエスの質問、サタンが投げかけるイエスの質問に、そのままイエスと答えてはならないし、ノーと答えてもなりません。御言葉にはこう書いてあると答えるべきです。
イエス様は、荒野でサタンの誘惑を受けた時、サタンの誘惑に対して「御言葉にはこう書いてある」と3回返しました。マタイ4章でした。
皆さん自身も、人生のあらゆる場面において、サタンからの攻撃を受けた時は御言葉で返してください。
天と地を造られた神様は、皆さん自身が城壁が崩されたまま、皆さん自身の成り立ちが、この時代のエルサレムのように、ズタズタで、瓦礫に埋もれて、動物も通れないような、そのような成り立ちを主は慰めてくださいます。ネヘミヤは神の慰めという名前の意味でした。主は皆さんの城壁を建て直してくださいます。
最後に、イザヤの62章の方を、イザヤ62章の4節と5節。
イザヤ62:4-5「あなたはもう、見捨てられているとは言われず、あなたの国はもう、荒れ果てているとは言われない。かえってあなたは、私の喜びは彼女にあると呼ばれ、あなたの国は、夫のある国と呼ばれよう。主の喜びはあなたにあり、あなたの国は夫のある国となるからだ。」
5節の方ですね。「あなたの子らがあなたをめとり」とあるんですが、このあなたの子らというのは、ここは新改訳では、「あなたを再建する者があなたをめとり」と書いてあります。「そして花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」
皆さんがですね、皆さんを再建されるお方である主イエス様を花婿として迎えるのであれば、花婿なるイエス様は皆さんを再建してくださいます。建て直してくださいます。そして、主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。
なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。旦那さんにとって、妻が皆さんのもとに保護を求めてくるのは、それは男にとってやりがいでしょう。男にとって喜びでしょう。女性を自分の手で守る。
それと同じように、イエス様も、皆さんがイエス様のもとに助けを求めてくるのを、イエス様はそれを誇りとするんです。誇りを持って皆さんを守ることを喜びとされます。
どうか皆さん自身が、主を迎えて、イエス様を主として、そしてこのお方に助けを求めて、皆さん自身に、もし、ネヘミヤの時代のような状況であるのであれば、皆さんを再建してくださる方が皆さん自身をめとって、そして皆さんの内で立て直しの業を行われることができるように皆さん自身が、どうか主をお迎えしてください。
そうすれば主は皆さんの内に入ってこられて、皆さんと共に食事をし、また皆さん自身の内で再建の業を果たしてくださいます。どうか主をお迎えして、いつでも主を主として、そしていつでもこの主から守っていただき、皆さんの城壁が完全に癒されて、そしてこのお方とその城壁の内で親しく喜ばしく主と共に生活していく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
崩された城壁のような人生の状態であっても、主イエス様を花婿として迎え、主に助けを求めるなら、主は皆さんを再建してくださいます。「さあ、再建に取り掛かろう」という告白から、立て直しの業が始まります。サタンの攻撃に対しては、御言葉で答え、真理を告白することが大切です。主は、皆さんが主を頼りとすることを誇りとし、花婿が花嫁を喜ぶように皆さんを喜んでくださいます。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言3(創世記49:22-27):右クリックで保存
前回同様、イスラエルの子達への預言が続き、今日はラケルの二人の子達への預言である。
『ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。』(創世記49:22)
ヨセフの結んだ実は、実際に垣根を越えて広がる枝のように、イスラエルの子達家族全てを養い、それだけでなく、神を知らない異国の多くのいのちをも救った。
祝福されたヨセフは攻撃も受けたが、それでも神は守られた。
『射る者は彼を激しく攻め、/彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、/彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、/イスラエルの岩なる牧者の名により』(創世記49:23)
ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。
まさしく詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』
『あなたを助ける父の神により、/また上なる天の祝福、/下に横たわる淵の祝福、/乳ぶさと胎の祝福をもって、/あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』(創世記49:25-26)
ここでヤコブはヨセフに「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり」と、言葉上はアブラハムやイサクに勝る祝福を与えているわけだが、ヨセフの子達が果たしてその通りの祝福を実際受けたかというと、そうでもない。
その人が実際に祝福されるかどうかは結局、祝福を父から受けた後、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているからだ。
さて、末っ子のベニヤミンである。
『ベニヤミンはかき裂くおおかみ、/朝にその獲物を食らい、/夕にその分捕物を分けるであろう」。』(創世記49:27)
ベニヤミンは戦いにおいて非常に強くなる祝福が与えており、実際にそうだった。
どれほど強かったかというと、士師記の時代、イスラエル他の11部族を相手に戦って、2度も勝利する程だった。(士師記20章)
なぜイスラエル部族同士が喧嘩するようになってしまったのか。
それは、ベニヤミン族は自分達の中にソドムと全く同じ罪を犯す邪悪な者達がいたのに(士師19章)、その者達を罰して悪を除き去るどころか、逆に自分達の強さに驕り高ぶり、その者達を守るためにイスラエル全体を相手取って戦ったからだ。(士師20:13-14)
士師記の時代のイスラエルは、御言葉に従わず、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていたが、そのためにこの時代は祝福を受けず、他国から侵略され分捕られる事の多い、非常に殺伐とした時代だった。
自分の目に正しいと見える事を行う事、それは諸悪の根源である。
結局、自らの力に驕り高ぶって、自分達の怒りや欲望の赴くままを行なっていたベニヤミン族は、女子供は全て殺されてしまい、民数記の時代は男子45,600人を誇っていた一族も、たったの600人のみとなってしまった。
「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15)
ベニヤミンは、自分の牙に頼った結果、自分自身を裂き、兄弟達をも深く切り裂いてしまったのであった。
いただいた祝福は祝福として、神のために、兄弟姉妹のために用いるべきであって、決して自らの心の赴くままに驕り高ぶってはならないのだ。
ヤコブはこの章で、ある兄弟を祝福し、ある兄弟を呪い、ある兄弟を叱責したが、必ずしも父が願った人が祝福されたり呪われたり、とは限らない。
結局のところ、祝福を実際的にその人のものとできるかどうかは、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言(創世記49:1-12):右クリックで保存
ヤコブは自らの死を目前にして、子たちを、すなわち、イスラエル12部族の父祖たちを呼び寄せ、彼らの今後を預言した。
その内容は、今を生きる私達にも関係があり、これこれのタイプの人はその後どうなっていくのかを知る上で、有用な手がかりとなる。
まずは長男のルベンから。
『ルベンよ、あなたはわが長子、/わが勢い、わが力のはじめ、/威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。』(創世記49:3)
彼は長男であったが、気まぐれで、中途半端であり、ヨセフやベニヤミンを長男として守ろうとしたものの、最後まで責任を持つ事はせず、途中で放棄してしまった。
「しかし、沸き立つ水のようだから、/もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。」(4節)
彼は水のように奔放で、父のそばめビルハと寝た(35:22)ため、長子の権利を剥奪されてしまった。
父の寝床に上るような不品行で奔放な者は、呪われてしまう。(申命記27:20、1コリント5:1)
ルベンのように、性的にも感情的にも奔放で、気まぐれで、最後まで責任を負わない者は、一見、得な性格に見えるかもしれないが、他を凌ぐことは有りえない。
たとい長子の座にいたとしても、剥奪されてしまうのだ。
「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。」(5節)
この二人はかつて、シェケムの男達を「割礼」をネタにして虐殺し、略奪した。
ヤコブはそんな彼らに厳しい。
「わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、/ほしいままに雄牛の足の筋を切った。」(6節)
彼らのように、怒りに身を任せるような者は、人々がその”つどい”いに連なることはなく(箴言1:15-16)、そして呪われてしまう。
「彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、/彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。」(7節)
事実、彼らの部族は後にカナンの中で散らされてしまう。
シメオン族はユダ部族の相続地中で散らされ(ヨシュア19:1,9)、レビ族は祭司の一族として色々な所に分散して住む事となり(ヨシュア21:1-45)、いずれもヤコブの言葉どおりになった。
ユダという名は「ほめたたえる」という意味だが、その名の通り父に褒め称えられている。
「ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、/父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。」(8節)
彼は、長男ルベンが為すべきだった事、すなわち、父が愛した弟を守り、ベニヤミンの保証人として彼が身代わりとなったため、父にたたえられ、祝福された。
その祝福のとおりに、彼の子孫から王家が生まれ、敵は彼の手中へと渡され、兄弟達は彼に膝をかがめられるようになった。
「ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、/雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。」(9節)
ユダはライオンのように強く、権威があり、その子孫から王族が生まれ、メシヤであるイエスキリストが生まれ、イエスがサタンを筆頭とするこの世のあらゆる悪に、死に対しても勝利し、人には誰も解く事の出来なかった封印を解く事になる。
「見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙示録5:5)
「つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。」
ユダの杖は、一度は遊女の報酬の抵当のために手放してしまったが、タマルとの一件でしっかりと学び、もはや彼は欲望のためではなく、イスラエル一族を守るために、支配の杖を用いるようになった。
彼の家系から代々の王族が生まれ、後にはシロ(平和、メシヤの意)が現れ、メシヤであるキリストによって永遠の支配が確立される所まで、イスラエルは預言した。
「彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、/その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。」(11節)
イエス様は雌ろばの子の子ろばに乗り、王として、エルサレムに迎えられた。(ゼカリヤ9:9、ヨハネ12:15)
イエス様をお乗せする私達は、まことのぶどうの木であるイエス様につながれるのである。
「彼はその衣服をぶどう酒で洗い、/その着物をぶどうの汁で洗うであろう。」(11節)
主は、ろばの子を用いられる柔和で憐れみに満ちたお方であるが、来るべきさばきの時には、力強く、敵に対しては恐ろしい有様で来られる。(黙示14:17-20)
ユダの性質は、兄弟のために弁護者として立ち、身代わりとなって罪の責を負う、イエスキリストの気高く尊い性質である。
この性質を持つ者は、ほめたたえられ、祝福され、王権と支配が約束される。
私達はルベンでも、シメオンやレビのようでもなく、ユダのようでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:実際に祝福される者とは(創世記48:8-22):右クリックで保存
『ところで、イスラエルはヨセフの子らを見て言った、「これはだれですか」。ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。』(創世記48:8)
ヨセフとしては、長男マナセに、より大きな祝福を与えたいがため、マナセを父の右手側に連れて来たのだが、父は意外な行動を取った。
『すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。』(創世記48:14)
なんと父は、わざわざ手を交差させて、長男マナセを左手で祝福し、次男エフライムを右手で祝福した。
右手は力や権力をあらわすため、普通なら長男を右手で祝福するものだが、イスラエルは意図的にそのようにしたのだ。
『そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。』(創世記48:18)
イスラエルの父・イサクも、老齢で目がかすんだ時、彼が愛した子エサウを祝福しようとしたが、彼が祝福を受けて欲しいと願った子の祝福は、弟ヤコブによって奪われてしまった。
ヤコブもまた老齢となり、目がかすみ、死を前にして子を祝福したが、彼が望んだ通りに、エフライムがその後祝福されていったかというと、そうでもなかった。
民数記には、1章と26章にて2回の人口調査が行われたことが記されているが、第一回目の人口調査では、マナセ部族は32200人、エフライム部族は40500人で、ヤコブの祝福どおり、エフライムのほうが多かった。
しかし、2回目の人口調査(26章)では逆転し、マナセ部族は52700人、エフライム部族は32500人。
エフライム部族の数は、12部族中、ワースト2位になってしまう程、荒野で減ってしまった。
エレミヤ書を見ると、エフライムは早い時代に主に背き、懲らしめを受け、恥じて後悔い改め、その後、主の憐れみを受けたようだ。
『わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。
エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――』(エレミヤ31:18)
必ずしも、父が願った人が、祝福されるとは限らない。
また、聖書では、長男が衰え、末っ子が栄える、というパターンが多いが、だからといって、長男は宿命的に祝福を受けられない、とは限らないし、末っ子なら自動的に祝福されるわけでもない。
元々、イスラエルの長男はルベンだが、彼は奔放過ぎた行動の故にその権は剥奪され、父はヨセフに長子の権を与えたが、実際は、兄弟達の長となり王達が生まれたのは、ユダ族だった。
『イスラエルの長子ルベンの子らは次のとおりである。――ルベンは長子であったが父の床を汚したので、長子の権はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。それで長子の権による系図にしるされていない。またユダは兄弟たちにまさる者となり、その中から君たる者がでたが長子の権はヨセフのものとなったのである。――』(1歴代5:1-2)
結局のところ、その人が実際に祝福されるかどうかは、祝福を受けた後、どのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7)
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- 執筆 :
- pastor 2012-10-11 22:58
礼拝説教メッセージ音声:エジプトではなくカナン、世ではなく天(創世記47:27-48:7):右クリックで保存
『さてイスラエルはエジプトの国でゴセンの地に住み、そこで財産を得、子を生み、大いにふえた。』(創世記47:27)
イスラエル全家は、ゴシェンの地にてヨセフに養われ、この一族はそこで大いに栄え、増えて行った。
イスラエルの息子・娘達が生んだ孫やひ孫も数を増していき、愛する息子ヨセフもここエジプトで盤石の地位にいる。
もはや十分に生き、この世界で思い残す事は無い、とも思えるようなイスラエルであるが、彼の心には焦燥させられるものがあり、ヨセフを呼び寄せて、ある事を誓わせた。
『もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか手をわたしのももの下に入れて誓い、親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください。どうかわたしをエジプトには葬らないでください。』(創世記47:29)
手を腿の間に入れての誓いは、最も厳粛な誓いで、かつてアブラハムも、イサクの嫁探しの時、しもべに誓わせた。(創世記24:2)
この厳粛な誓いをさせた、イスラエルにとっての最重要事項とは、彼をエジプトには葬らせない事。
彼が眠りについたなら、先祖達の墓に葬ってもうらう事である。
イスラエルはエジプトで増え、ヨセフもエジプトで地位を得たのに、彼らの思いは、富と権力の頂点を取ったエジプトには、無かった。
彼らにはエジプトの栄華は一切眼中に無く、思いはいつも神に向けられ、心の置所はいつも、神が示された地・カナンにあった。
イスラエルは死期が近いと悟った時、彼の信仰の原点であり、神が初めて彼と出会ったルズ(ベテル)で語られた事を、ヨセフに話した。
『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる。』(創世記48:4)
あの時神が言われた通り、今やイスラエルはまさにここエジプトで、数多く増えようとしている。
しかし、神があの時言われた「この地」とはエジプトではない。カナンである。
『エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。』(5節)
エフライムとマナセをイスラエルの直接の子とするという事は、彼らを「イスラエル12部族」として、カナンに相続地を得る権利を与える事を意味する。
イスラエルは、エジプトで満ち足りて大往生しようとしているのに、ヨセフとの会話では、エジプトの栄光は全くもって話題になっておらず、あたかも、これからカナンで歴史の続きが始まるような話しぶりである。
彼の思いはエジプトには一切無く、地上の富や栄光にも無く、ただカナンに、神が示された約束の地にあった。
私達も、思いは地上に向けるのではなく、天に向けるべきである。
『自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。』(マタイ6:19)
『こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。』(コロサイ3:1-3)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
城壁を立て直せ(ネヘミヤ1章):右クリックで保存
ネヘミヤ記1章からのメッセージ
【概要】
ネヘミヤ記1章を通して、崩された城壁の再建について学びます。城壁は私たちの内側と外側を区別し、大切な時間、エネルギー、尊厳を守るために必要なものです。ネヘミヤのように祈り、悔い改め、御言葉に従順することで、神の慰めによって城壁は再建されます。
【聖書箇所】
ネヘミヤ1:1-11
【慰めの言葉】
ネヘミヤという名前は「神の慰め」という意味です。皆さんの城壁を建て直すのは神の慰めによるものです。神様が皆さんを慰めてくださるからこそ、崩された城壁を建て直してくださいます。
【励ましの言葉】
主と共に歩んでいくのであれば、皆さんの城壁はしっかりと再建されて、もはや敵の好き放題、攻め入られ放題にはなることはありません。
【悔い改めの促しの言葉】
城壁が崩されたのは罪の結果です。城壁を建て直したいのであれば、罪を告白して、それに対して悔い改めるべきです。主に立ち返って、主の命令を守り行うということを徹底しないのであれば、城壁はまたしても崩されてしまいます。
【勧めの言葉】
御言葉をこれからしっかりと従順しますと告白して、実際にこれから生活の中で御言葉に従順していないところに気づいたのであれば、そこを徹底して改めて、城壁を築き直していくことが必要です。
【***詳細***】
今日の箇所は、ネヘミヤ記の1章です。ネヘミヤ記はですね、聖書の3分の1ぐらいめくったところにあります。私がネヘミヤ記からメッセージするのは初めてだと思います。
ちょっとですね、開く前に、このネヘミヤ記はどういう書かというのをご説明したいんですが、まずネヘミヤというのは、イスラエルがバビロン捕囚に連れて行かれて、イスラエルが崩壊した70年後、イスラエルにクロス王の命令によって、捕囚の地からイスラエルにどんどんどんどん帰ってきている、その時代の人で、で、まだイスラエルがですね、城壁も崩されたまま、神殿も崩れたまま、また捕囚の地からやっと帰ってきて、その人たちの有様はまだまだ悲惨な状態だった。
そういう時代に、このイスラエル、エルサレムの城壁を築き直した人です。そのネヘミヤ記は10章くらいあるんですけれども、ずっとその中で、このエルサレムの城壁をいかにして築き直したかということが書かれてあるんですけれども、じゃあ一体なんで、その城壁がそんなに大事なのかというところですけれども、皆さん、城壁は大事です。
皆さん自身の囲いの内側と外側、外側の区別は皆さんちゃんとできているでしょうか。このエルサレムの城壁は、城壁がまだ崩されていたので、囲いの内と外の区別がない。だから敵は入り放題だったのです。悪いものは入り放題でした。例えば、みずほさんのお部屋ありますね。3-Aの部屋ですね。皆さんにも部屋があるかと思います。
ある時、皆さんがその部屋のところに、窓がちょっとだけ開いていて、その窓の隙間からコンセントの線が伸びていた。みずほさんのお家の壁のコンセントにそのコンセントが刺さっていて、窓の外をたどってみたら、上の階の住人のところにそのコンセントがビーッと伸びていて、みずほさん家の電気が盗まれていた。そういった場合、どうしますか?怒りますよね。電気が泥棒されていたんですね。
電気料金をこっち持ちで使われるのも困る。そうですね。これが城壁が侵害されている場合のことです。皆さん自身の中にですね、いろいろな大切な資源があります。今の話は電気だったんですけども、皆さん自身の、例えば、時間だとか、エネルギーだとか、そういったものは侵害されてないでしょうか。敵はですね、皆さんのその諸々の大切な、皆さんの大切な城壁の内側にて守られるべきものを侵略してこようとするんですね。
例えば、皆さんが寝るべき時間、夜中の2時とかに、突然なんか電話とかで、ねちねちねちねち電話してきて、夜中の2時とか3時とか寝るべき時間に電話してくる、それは時間が侵略されて、そういったケースです。子供たちを育てるときに、子供たちがお母さんのことをデブとか、お母さんのことをノロマーとか言う場合、これは親の尊厳が侵略されているケースですね。
非常に心当たりがある方がいるみたいですかね。そうです。とにかく城壁をしっかりと築いてですね、皆さんの大切な資源、守るべき尊厳を守らなきゃいけないですし、また時間も守らなきゃいけない、エネルギーも守らなきゃいけないんですね。だから城壁を築くということが大事なんです。城壁の概念がないともうやられっぱなしです。
だから2階からコンセントが伸びてくる、言われてきて、部屋の中に電気が刺さっていても、それを、あ、コンセントが刺さって電気が盗まれている。あ、でもちょっと厳しいことを言うのは、ちょっとはばかれるなとか、右の頬を叩かれたら左の頬を差し出しなさいと言われているから、これは盗まれっぱなしのままがいいのかなとか、だめです。皆さん自身には、聖なるもの、守るべき聖なるものがあるんです。
ネヘミヤは、その守るべき聖なるものを、城壁、それが守る壁なんですが、それが崩されていることを大いに悲しみました。
じゃあちょっとネヘミヤの1章を読んでみましょうか。
「ハカルヤの子ネヘミヤの言葉。第20年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類の一人、ハナニがユダから来た数人の者と一緒にやってきた。そこで私は、捕囚から残って逃れたユダヤ人と、エルサレムのことについて彼らに尋ねた。すると彼らは私に答えた。あの州の捕囚から逃れて生き残った残りの者たちは非常な困難の中にあり、また、そしりを受けています。その上、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。私はこの言葉を聞いたとき、座って泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の御前に祈っていった。ああ、天の神、主、大いなる恐るべき神、主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、慈しみを賜る方。どうぞあなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯したイスラエル人の罪を告白しています。誠に私も、私の父の家も、罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになった言葉を思い起こしてください。『あなた方が不信の罪を犯すなら、私はあなた方を諸国民の間に散らす。あなた方が私に立ち帰り、私の命令を守り行うなら、たといあなた方のうちの散らされた者が天の果てにいても、私はそこから彼らを集め、私の名を住まわせるために、私が選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ、どうぞこのしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬う、あなたのしもべたちの祈りとに耳を傾けてください。どうぞ今日、このしもべに幸いを見せ、この人の前に憐れみを受けさせてくださいますように。」その時、私は王の献酌官であった。
彼はこの時、王の献酌官をしておりました。イスラエルのことは、しかし彼の頭の内にはいつもあり、そしてそのエルサレムがどのようになっているか、その状況を聞きたいと思っていたのですが、たまたまその時、イスラエルに行って、そしてこのネヘミヤのところ、その人に聞きました。
あの、エルサレムはどういう状況になっていますかと。すると、3節ですね。非常な困難の中にあって、そしりを受けている。エルサレムの城壁は崩されたままで、門は火で焼き払われたままですと。この言葉を聞いて彼は座って泣いて、喪に服して断食して祈るんです。城壁が崩れているということは、そこまで悲しむべきことなんです。
皆さん自身の城壁はあるでしょうか。崩されたままになっていないでしょうか。敵が来て、やられっぱなしになっていないでしょうか。敵が皆さんの大事な領地の中に手を突っ込んできて、土足で踏みにじって、そして入ってきて、皆さんはどうでしょうか。皆さんの大切な聖なる、本来聖なる神様に捧げるべき時間やエネルギーなどなど侵略されていないでしょうか。
例えば、もし皆さん自身のエネルギーや時間、あるいは皆さんの思い、心が礼拝するべき時間に、それが、例えば、礼拝すべき時間に疲れて、もうこっくりこっくり眠ってしまうとか、あるいは礼拝すべき時間に、皆さんの頭で、あいつちょっと憎たらしいんだけどどうしようかとか、あるいは礼拝の中で、なんか別のこと、仕事のこととか、思い煩いにふけったりしないでしょうか。その時は、この城壁を皆さん自身が意識するべきです。
しっかり、例えば、時間の概念がない人に対しては、夜中の2時とかに電話がかかってきたら、今は寝るときなので、すみませんって言ってガチャって切る勇気を持つべきです。それが3度4度続けば、もうこの人にはこの時間電話かけても無駄だなっていう、もうその人にはわかりますし、また例えば子供に対しても、そういうことを言うとお母さん、とても気分が悪くなるとか、子供に相手に自分がそういうことをされたら不快であることを明確に伝えるべきです。
相手がどういうふうに、例えば相手が心がしおれるんじゃないかと思って、それをとどめていたりしてはならないんです。もし皆さん自身の城壁が崩れているとしたなら、このネヘミヤのようにまず悲しんで、そして祈るという概念をまず持ってください。城壁を持つという概念。それが大事なんですよ。ネヘミヤその人でした。
ちなみにネヘミヤという名前の意味なんですが、このネヘミヤ記のネヘミヤ、神の慰めという意味です。神の慰め。それでネヘミヤ記の1章から十何章かまではずっとその城壁の再建について書かれてあるんですが、皆さんの城壁を建て直すのは神の慰めによるものです。神様が皆さんを慰めてくださるからこそ、皆さん自身の城壁はこのネヘミヤという神の慰めの代理人がこのエルサレムの城壁を直しましたし、そして皆さん自身の崩された城壁もそれを建て直してくださるんです。
まずネヘミヤの祈りが4節、5節以降あるんですけれども、その祈りはですね、大きく4つに分かれます。まず第1が、この5節ですね。彼はまず、主がどういうお方であるのかを告白しております。ヨシャパテの祈りと同じパターンです。このネヘミヤの祈りも。まず、天の神、主がどういうお方であるのか。
その神は、天の神であり、大いなる恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、慈しみを賜る方。まず主がどういうお方か告白します。そして第2に、自分自身の罪の告白ですね。この6節の後半の方を。私たちがあなたに対して犯したイスラエル人の罪を告白します。
誠に私も、私の父の家も罪を犯しました。城壁が崩されたのは罪の結果です。エルサレムが陥落したのは、エルサレムの中にいる人たちが罪を犯したからに他なりませんね。彼らが罪を犯したから、だから城壁が壊されて、そして敵が侵入していって、そして大切な宝物とかを奪い取っていったわけです。だから城壁を建て直したいのであれば、だから第2に罪を告白して、そしてそれに対して悔い改めるべきです。
そして3番目として、8節以降、御言葉で祈るということです。御言葉を盾にとって祈る。ヨシャパテも全く同じでした。御言葉を盾にとって祈ってますね。8節では、モーセにお命じになった言葉を、思い起こしてくださいと。
この二重鍵括弧の中が、これは申命記の中、神様がイスラエルのために約束してくださったことを、それをそのまま御言葉に対して祈っています。ここで、「あなた方が不信の罪を犯すなら、私はあなた方を諸国民の間に散らす。あなた方が私に立ち帰り、私の命令を守り行うなら、たといあなた方のうちの散らされた者が天の果てにいても、私はそこから彼らを集め、私の名を住まわせるために、私が選んだ場所に彼らを連れてくる」と。
この言葉を盾に取ったからには、この言葉の内容をそのままネヘミヤたちが守り行うべきなんです。つまり、9節に書いてあります。あなた方が私に立ち帰り、まず主に立ち帰り、立ち返るということなしには、城壁の立て直しはないです。そして命令を守り行うのだ。もしそうであるなら、散らされた者が天の果てにいても、そこから彼らを集めると。
この言葉を盾に取ったからには、ネヘミヤはその行動をしなくてはなりません。で、事実ですね、ネヘミヤ記の9章とか10章の方を見ると、ネヘミヤの前に、ネヘミヤが不在だった時にイスラエルの民が、結婚のことで罪を犯したりしているのを、徹底的に彼は悔い改めを促すんですよね、イスラエルのために。主に立ち返って、主の命令を守り行うということを徹底しないのであれば、城壁はまたしても崩されてしまうとネヘミヤは分かっていたからです。
だから、彼は結構徹底的にイスラエルの人たちを導くんですね。そうしてネヘミヤは最後に11節のところで、やっと自分のこと、願いを主の御前に申し述べます。11節。「ああ主よ、どうぞこのしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに耳を傾けてください。どうぞ今日このしもべに幸いを見せ、この人の前に憐れみを受けさせてくださいますように。」
ネヘミヤ自身がエルサレムに行って、そして城壁を建て直す仕事に取り掛からせてくださいと、本当に切にこの時最後に祈るんです。その時彼は王の献酌官で、アルタシャスタ王に仕えていなくてはならなかったんですけども、しかしその祈りが聞かれました。
彼は主の御前に出て、まず主の前に、主がどういうお方であるかを告白し、自らの罪、そして先祖たち、同胞たちが犯してきた罪を告白して悔い改め、そして御言葉で御言葉を盾にとって祈り、そして最後に彼自身の祈りを祈ったから、だからその祈りが聞かれました。2章の方では、彼の王がそのネヘミヤの願いを聞いてくれるんですね。
王はしかも、彼のためにいろいろな支援をして、そして無事にイスラエルまでの道のりを守って、そして手紙も書いて、無事に彼が仕事をしやすいようにと、とりはからってくれるんですね。2章以降、3章とか4章とか見ていくと、確かにいろいろな迫害や邪魔も入ります。
またイスラエルの中からも、この土くれの山を一体どうしようという、そういう心の内部からの気落ちもあります。内部からの攻撃もありますし、外部からの攻撃もあります。でもそうすると、このネヘミヤは心を奮い立たせて、そして主に祈って、主から力をいただいて、そしていよいよその仕事が完成します。結構早い後期で完成するんですね。
そうしてイスラエルの城壁はしっかりと建つことになります。私たちも自分の城壁が、どこかが破れているとわかったのであれば、あるいは崩されている敵が、もしそういうことであるのであれば、皆さん自身もこのネヘミヤのようにまず祈ってみてください。そして、まずどこから失敗したのか。
このエルサレムの城壁が破壊されたのは、その先祖の罪のゆえでした。その先祖の罪のために、罪を告白して、そして悔い改めて、そして御言葉をこれからしっかりと従順しますと告白して、実際にこれから生活の中で御言葉に従順していないところに気づいたのであれば、そこを徹底して改めて、そして城壁を築き直していくこと。
もちろん敵の妨害もあります。また内部からの気落ちなどもあります。私は果たして大丈夫だろうか。でも、主と共に歩んでいくのであれば、皆さんの城壁を知ってください。城壁がしっかりと再び再建されて、もはや敵の好き放題、攻め入られ放題にはなることはありません。
どうか皆さん自身も、このネヘミヤのように主の御前にまず祈って、そしてそれから直すべきところが示されて、そして、もはや敵が皆さん自身の人生や時間や、あるいは大切な家族、皆さんのお金、そういったものがもはやこれ以上奪われるようなことがないように、無駄な浪費をしたりすることもないように、サタンに無駄に見つぶようなことがないように、しっかりと皆さんの城壁を再建して守られて、そして生活していく皆さんでありますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ネヘミヤは「神の慰め」という意味です。主が私たちの城壁を再建してくださいます。そのためには、まず主がどのようなお方であるかを告白し、自らの罪を告白して悔い改め、御言葉を盾にとって祈り、そして主に願い求めることが必要です。御言葉に従順し、城壁をしっかりと再建して、もはや敵が私たちの大切な時間、エネルギー、家族、お金を奪うことがないように守られて生活していきましょう。
