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礼拝説教メッセージ音声:王が神に逆らう法を発布する時(出エジプト記1:15-22):右クリックで保存
「またエジプトの王は、ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい。」」(出エジプト記1:15-16)
イスラエル人を過酷な労働で苦しめても、かえってどんどん増えて力を増す彼らを見たエジプトの王(パロ)は、直接的に「殺す」という手段に出て来た。
しかし助産婦達は、王の命令どおりにはしなかった。
なぜなら彼女たちは神を恐れる人だったため、神が祝福された民の男の子を殺すなど出来なかったからである。
『それで神は助産婦たちに恵みをほどこされた。そして民はふえ、非常に強くなった。助産婦たちは神をおそれたので、神は彼女たちの家を栄えさせられた。』(1:20-21)
パロの命令に背く事は命の危険を伴うが、それでも彼女たちは神を恐れる行いを実行したため、神は彼女たちを守り、祝福された。
神がかつて、アブラハムに『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、/あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、/あなたによって祝福される」。』(創世記12:3)と言われた通りである。
神の御言葉に反する法律が制定された時、信仰の故に神の言葉のほうを優先させるなら、神はその事で大きく御国を前進させ、そしてその人に朽ちる事の無い冠を授けられる。
ダニエルの時代、ダニエルは王の命令に従わず神を礼拝する事を止めなかったためにライオンの穴に投げ落とされてしまったが、ダニエル自身は御使いによって守られ、逆にダニエルを妬んで御言葉に反する法律を制定した者達がライオンに食われてしまった。(ダニエル6章)
また、ダニエルの3人の友人達(シャデラク、メシャク、アベデネゴ)も、王の作った偶像を拝まないことを明言したため、火の燃え盛る炉に投げ落とされてしまったが、御使いによって守られた。
『総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。ネブカデネザルは言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴの神はほむべきかな。神はその使者をつかわして、自分に寄り頼むしもべらを救った。また彼らは自分の神以外の神に仕え、拝むよりも、むしろ王の命令を無視し、自分の身をも捨てようとしたのだ。
それでわたしはいま命令を下す。諸民、諸族、諸国語の者のうちだれでも、シャデラク、メシャク、アベデネゴの神をののしる者があるならば、その身は切り裂かれ、その家は滅ぼされなければならない。このように救を施すことのできる神は、ほかにないからだ」。』(ダニエル3:27-29)
また、ステパノは、パリサイ人達に屈してイエス・キリストを捨てる事無く、かえって大胆にイエスがキリストである事を立証し、また、真理を貫き通してパリサイ人達の偽善を暴いたため、反感を買ってしまい、石打で処刑されてしまった。(使徒6-7章)
彼の場合、この世で報いは受けられなかったが、彼の一件によって福音は大きく前進し、彼の名前は永遠に栄光ある者として残る事になった。
人の権威に屈せず神を敬い通したダニエルも、彼の3人の友人達も、ステパノも、パロに逆らった助産婦シフラとプアも、その名前は永遠に栄光ある者として残る事となったのだ。
パロは、助産婦達が自分の命令どおり動かなかったのを見ると、さらに厳しい命令を下した。
『ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」』(出エジプト記1:22)
今度の殺害命令は、エジプト全国民への命令で、イスラエルの男の子の赤ちゃんは一人残らずナイル川にほうりこむというものである。
多くの男の赤ちゃんが、ナイル川に投げ込まれただろう。
しかし後に、神はモーセを通して、ナイル川を血に変わる災いをエジプトに降し、エジプト人は皆、血に変わった水と相対するはめになった。
血に変わったナイル川の水を見た時、エジプト人は自分が神の民にして来た事を思い出しただろう。
神の民に災いを下す者は呪われ、罪なき者の血を流す者は、その血が頭上に返るのである。
『第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、
「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」
わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。』(黙示録16:4-7)
イスラエルに災いをもたらしたエジプトは、その後、災いにつぐ災いに襲われ、徹底的に呪い尽くされてしまった。
ステパノを殺害したユダヤ人たちは、そのすぐ後のユダヤ戦争によって悲惨な死を遂げ、多くのユダヤ人を虐殺したヒトラーも凄惨な最後だった。
信仰を貫き通した神の民は、決して朽ちることの無い栄光を受け、神の民を苦しめ虐待する者達には、悲惨な最後が待っているのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
再建を邪魔する者の手口(ネヘミヤ記4章):右クリックで保存
# ネヘミヤ記4章に基づくメッセージ
## 【概要】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁を再建する過程での困難と、それに対する信仰と祈りの力を描いています。私たちの人生における「城壁」はどのような状態でしょうか。
## 【聖書箇所】
- ネヘミヤ記4章1-21節
## 【励ましの言葉】
「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)
## 【戒めの言葉】
「彼らの知らないうちに、また見ないうちに、彼らの真ん中に入り込んで、彼らを殺し、その工事をやめさせよう。」(ネヘミヤ記4:11)
## 【勧めの言葉】
「私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」(ネヘミヤ記4:20)
## 【悔い改めの促しの言葉】
「彼らの都がを許すことなく、彼らの罪を見前から拭い去らないでください。」(ネヘミヤ記4:5)
## 【***詳細***】
ネヘミヤ記4章は、エルサレムの城壁再建における困難と、それに対する信仰の力を描いています。サヌバラテやトビヤといった敵が、ユダヤ人たちの努力を嘲笑し、妨害しようとします。彼らは「この哀れなユダヤ人たちは一体何をしているのか」と嘲り、彼らの努力を無意味なものとしようとします(ネヘミヤ記4:2)。
しかし、ネヘミヤは神に祈り、敵の計画を神に委ねます。「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。」(ネヘミヤ記4:4)と祈り、神の助けを求めます。彼は、神が彼らの敵の計画を打ち壊してくださることを信じています。
ネヘミヤはまた、民を励まし、恐れずに戦うように促します。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ記4:14)と語り、神が共にいることを思い起こさせます。
敵の攻撃が続く中、ネヘミヤは防御を強化し、工事を続けます。「その日以来、私に使える若い者の半分が工事を続け、他の半分は槍や盾、弓、鎧で身を固めていた。」(ネヘミヤ記4:16)と記されているように、彼らは常に備えを怠りません。
この章は、私たちが人生の中で直面する困難や妨害に対して、どのように信仰を持って立ち向かうべきかを教えてくれます。私たちの「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが重要です。
## 【結論】
ネヘミヤ記4章は、信仰と祈りの力を通じて、困難を乗り越えることの重要性を教えています。私たちの人生における「城壁」が攻撃されるとき、神に祈り、信仰を持って立ち向かうことが求められます。神は私たちのために戦ってくださるのです。私たちもまた、神の助けを信じ、共に立ち上がりましょう。
礼拝説教メッセージ音声:エジプトでの艱難のはじまり(出エジプト記1:1-14):右クリックで保存
出エジプト記はモーセ五書の第二番目の書物、内容的には創世記50章からの続きであり、1〜18章がモーセによるイスラエル民族のエジプト脱出、19章以降はシナイ山における神と民の契約とその内容、それが授与された時の人々の反応が記されている。
イスラエル民族はヨセフ以降、エジプト・ゴシェンの地でおびただしく増えるようになり、エジプトを脱出する時には男子だけでも60万以上にまでなっていた。
神の民が祝福されれば、世の人はそれを妬んだり恐れたりするものである。
『ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。
そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。』(出エジプト1:8-11)
エジプトはイスラエル民族を「賢く」扱った。
すなわち、彼らに重い労役を課す事で、自分達の国益に叶うようにし、かつ、イスラエルを弱体化させる方策を取った。
エジプトはイスラエル民族のお陰で潤い祝福されていたのに、彼らはその恩を仇で返したのだ。
ヨセフは自分の民族がこの国を脱出するべき時が来る事を、まだエジプトで大いに栄え何もかもうまく行っている時に予見していたし、実は、イスラエル民族が異国で400年もの間虐待を受ける事は、その何百年も前から、まだイスラエル民族がその父祖である一人の老いた男だった頃から、神はその事を示していた。
『時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。」』(創世記15:13-14)
普通、虐待されて希望が持てなくなれば、人々は結婚して子供を産む事に意義を見いだせず、子供は減っていくものであるが、イスラエル民族は少子化になるどころか、逆に増えて行ったため、エジプト人はますます恐れた。(出エジプト1:12)
私達も以前はサタンに縛られ、肉に従って日々を過ごし、肉の思いの欲するままを行い、不従順な人々と同じく生れながら怒りを受けるべき者達であったが、憐れみ深い神は私達を愛して下さったその大きな愛によって、罪過の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし ――その救いは、恵みによる―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上の座につかせて下さったのである。(エペソ2:4-6)
世の支配者サタンも現在、人々を「賢く扱い」、労役で虐待し、命を減らす戦法に出ている。
人々はその圧政の支配下にあって、あえいでいる。
しかし、神の民はいかなる虐待の中にあろうと、その中でいのちを増え広がらせるのである。
神の民にとって、艱難はただの無益な苦しみでは終わらない。
『それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:3)
出エジプト記は約束の地に入る所までは記されてはいない。
彼らは約束の地に入る前に、神から与えられる諸々の試練をパスして行かなくてはならないのだ。
イスラエル民族は、この出エジプトの経験を通して、神の恵み深さを知り、救いの素晴らしさを噛み締め、神とともに歩む歴史的なアイデンティティを確立した。
同じように私達も、諸々の患難を忍耐して乗り越え、練達を生み出し、希望を生み出し、そして、永遠にしぼむことのない救いの希望へと導かれるのである。
礼拝説教メッセージ音声:より優れた故郷を目指して(創世記50:22-26):右クリックで保存
神はヨセフに多くの権威と力を任せたが、それは、彼は諸々の試練を通して神の民としての品性を豊かに持つ者となったからである。
ヘブル11章には、信仰の偉人達の列伝が記されているが、ヨセフが人生の中で信仰を最も顕著にあらわした時は、臨終の時だったとヘブル書の記者は記している。
「信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。」(ヘブル11:22)
ヨセフの生涯を学んて来た私達は、ヨセフが信仰を現した所は他にもっとあるだろう、と思うかもしれない。
なぜヘブル書の記者は、ヨセフの臨終の時を、最も顕著に信仰が現している、と判断したのか。
それは彼は、エジプトで為した偉業や人々からの栄光などは全く眼中に無く、それより神の民に加えられる栄光の方が、遥かに優れたものだと、行動を持って示したからである。
『ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。』(創世記50:24-25)
ヨセフはここで「顧みて」という言葉を二度使っている。
普通聖書で「顧みる」という言葉を使う時は、良くない惨めな状態を神様が「顧みて」、そこから救い出して下さる、というニュアンスで良く用いられる。
ヨセフが死のうとしている時のイスラエル民族は、エジプト・ゴシェンの肥沃な地に定住し、破竹の勢いで増え広がっている真っ最中で、欠ける所も顧みられる必要も、何も無かったはずである。
藤原道長が『「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)』(wikipedia)と詠んだ時のような状態であったはずだ。
しかしヨセフが「顧みて」と言ったのは、イスラエルの民が神の約束された地におらず、エジプトという異国の異教の地にいる事自体、救われる必要のある状態だったと知っており、いかに世の富に溢れ、自民族が強くなり、安泰であっても、神に顧みられてエジプトを脱出する必要があり、そして神は必ずそうして下さると確信していたのだ。
ヨセフはイスラエル民族繁栄の最大功労者であり、エジプトで偉大な功績を残したのに、そのようなエジプトの偉人として偉大な墓に葬られるなど、一切、眼中に無く、ただ彼の望みは、神の用意された約束の地にあったのである。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:16)
私達も真のふるさと、神の支配される天の王国に戻る事こそ、私達が何にも勝って求めるべきものである。
ヨセフに与えられた奉仕は”たまたま”エジプトの総理大臣だったが、便所掃除の奉仕も、ちり一つ拾うような事さえも、イエスキリストの故に為すなら、尊い奉仕である事には変わりない。
ただ、尊い事に用いられる器、卑しい事に用いられる器は、確かにある。
『神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』(2テモテ2:19-21)
もし神の御前に尊い事に用いられたいのであれば、不義を離れ、自分自身をきよめる事である。
いよいよ今回で、創世記の学びは最後である。
創世記の3章から黙示録までは、実に、神と人とが永遠に共に住めるまでに整えるための贖いの歴史であり、それは黙示録21章で完成する。
人が神の言葉に逆らって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった所から、いかに人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエスキリストである。
イエスキリストの預言は、人が堕落した直後、創世記3章15節にて早くから為されている。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
この「女の子孫」を世に送り出すために、一人の人すなわちアブラハムを神は選び、アブラハムから神に贖われた一つの民族を興し、その民族が、エジプトのゴシェンの地で大いに増え広がりを見せようとする所で、創世記は終わる。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。
すなわち、神の言葉に従順して神主体で生きるか、それとも、神の言葉を退け、自分主体で生きるか。
神の民は、自分を退け、神の御言葉を優先させて生きる民であり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフは、その性質へと整えられ、その品性に生きた。
私達も彼らのように、地上の事は思わず、天の故郷を目指しつつ、神と共にこの地上を生きるのである。
礼拝説教メッセージ音声:どうして私が神の代わりでしょうか(創世記50:15-21):右クリックで保存
創世記50章でヨセフは、2回泣いている。
まずは父が死んだので泣いた(1節)が、17節では、兄達の「過去の事を赦して欲しい」という言葉を聞いて泣いた。
『ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。』(創世記50:15)
ヨセフはもはや兄達の故に負った苦労の日々は、神が忘れさせて下さったのに、兄達は、何十年も前にヨセフにしてしまった事を、未だに引きずっていたのである。
誰かから受けてしまった災いは、神が慰めて下さる事で忘れられるが、自分が誰かにしてしまった災いは、その人が目の前にいる限り、良心の呵責に悩まされ続ける事になってしまう。
キリストが十字架で裂かれた手足の傷跡は、永遠に残っている。
私達が天の御国でキリストを見、私達がつけたその手足の傷跡を見る度に、主の驚くべき赦しと恵み故、永遠に頭が上がらないのである。
『ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。』(創世記50:19)
裁きは神の領域である。
そもそも、神がヨセフを総理大臣の地位に着かせた理由は、大いなる救いによって父イスラエルの全家族を救うためであった。
それなのに、どうして父が死んだ途端、その父の家族たちを滅ぼすような事ができるだろうか。
それは、神に対する大いなる反逆である。
ヨセフは、豊かに赦した。
ヨセフは、そのような品性であったからこそ、大きな権威と力が与えられたのだ。
もし赦さない者だったら、神が祝福し生かそうとしている兄達とその家族を、その権威でもって滅ぼしていたであろう。
そのような、赦さない者に、どうして神は、御心を行使するための権威を与えられるだろうか。
憐れみの無い者に、どうして神は力を与えるだろうか。
赦す事、それが御国の子の品性である。
赦す事によって、怒りや憎しみの束縛から開放され、より人生を有意義に過ごせる。
『むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ 12:20-21)
赦す事には多くのメリットはあるが、赦さない事は百害あって一利なしである。
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)
私達は、一生働いても返し切れない罪の負債を、主に赦してもらった。(マタイ18:21-35)
多くを赦されたからには、私達も、兄弟姉妹を赦してやるべきである。
礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存
『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。
「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。
ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)
パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。
本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。
七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。
エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。
それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。
礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存
イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)
彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。
『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。
「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)
私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。
パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)
私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。
信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)
信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。
『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。
百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
建て直しを邪魔する者への対処(ネヘミヤ記2-3章):右クリックで保存
【概要】
崩された城壁のような人生の状態から、神の慰めによって再建される希望について。ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建したように、主イエス様は私たちの人生を立て直してくださる。
【聖書箇所】
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ネヘミヤ2:4
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ネヘミヤ2:9-12
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ネヘミヤ2:17-19
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ネヘミヤ2:20
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イザヤ62:4-5
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マタイ4章
【慰めの言葉】
皆さんの城壁が崩されたままであっても、主は皆さんを慰めてくださいます。ネヘミヤという名前の意味は「神の慰め」です。崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。
【励ましの言葉】
天と地を作られた神である主は、皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を惜しみません。主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。
【勧めの言葉】
唇で告白するべき時が来ております。「さあ、再建に取り掛かろう」と。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。しかしエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるのです。
【***詳細***】
今日は、ネヘミヤ記の2章、9節から12節までです。ネヘミヤ記は、先週の水曜礼拝の時、1章やりましたね。ネヘミヤは、バビロン捕囚の後の時代、イスラエルに戻って、そして、このイスラエルの城壁を建て直した人です。
ネヘミヤは、元々、アルタシャスタ王という異国の王様の、そこの献酌官をしておりました。ネヘミヤはとても気分が沈んでいたんですけれども、しかし王様がそれを見て、あなたなんでそんなに気分が沈んでいるんだと尋ねました。
当時の王様はとても権力がありましたので、気分次第で献酌官を殺したりとか、そういったことをするほど結構身勝手な王様もおりましたし、権力もありましたので、彼はとても恐れました。そこで彼は天の神に祈ってから、この2章の4節に、「ではあなたは何を願うのか」と聞かれたとき、そこで私は天の神に祈ってから王に答えたと書いてあります。
「王様、もしよろしくてこの僕を憐れんでくださいますなら、私をユダの地、私の先祖の墓のある町へ送って、それを再建させてください」と祈りました。祈ってから王様に答えました。王様は非常に良い返事をくださるんですね。
皆さんが遣わされている職場、あるいは遣わされている家庭の場所において、本当に気分次第で人を平気で落としたり打ち叩いたり、そういった厳しいところに遣わされている兄弟姉妹もいるかもしれませんけれども、しかし天の神様に祈ってから望むとすれば、主が皆さんのそのことを必ず願いを聞いてくださり、そして皆さんにそこで悪いようにはなさらず、また例えば皆さんがそこの場所において退けられるとしても、それは神様の御手の支配のうちにあることですので、心配するに及ばないことです。
では、ちょっと前置きが長くなりましたけれども、2章の9節から読んでいきます。
ネヘミヤ2:9-12「私は川向こうの総督たちのところに行き、王の手紙を彼らに手渡した。それに王は将校たちと騎兵を私につけてくれた。ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤはこれを聞いて非常に不機嫌になった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである。こうして私はエルサレムにやって来て、そこに三日間とどまった。あるとき私は夜中に起きた。他に数人の者も一緒にいた。しかし私の神が私の心を動かして、エルサレムのためにさせようとされることを私は誰にも告げなかった。また私が乗った獣のほか、その中には一頭の獣も連れて行かなかった。」
いよいよネヘミヤがこのエルサレムに到着しました。エルサレムは非常にひどいありさまでした。城壁が崩されて、その門は火で焼き尽くされておりました。この12節の方から16節までの方を読んでいきますと、そのエルサレムは非常に凄まじく恥ずかしめられたありさまが書いてあります。
門が火で焼かれ、城壁が崩され、また乗っている動物が通れないような、そこまで崩され方がひどい瓦礫の山と化しているところもありました。
皆さんもですね、皆さんの成り立ちもある時、皆さん自身の悪い行動、皆さん自身のこの取った行動のゆえに、皆さん自身がこの崩された城壁のように徹底的に痛めつけられて崩されてしまうようなことがあるかもしれません。それどころか、まだ未だにその城壁の崩された跡という状況が皆さんの状況だという人もまたいるのかもしれません。
このネヘミヤの時代、エルサレムは廃墟と化して城壁がない状況でした。他の国が侵略しても侵略し放題、守るものがなかったんですね。皆さん自身でこの守る防護壁がない状態ですと、本当に敵は好き放題に皆さんにやって来て、皆さん盗んでいったり、好き放題してしまったりします。
先週の水曜日にお話ししましたが、もしお家でですね、コンセントが、いつの間にか見失ったコンセントがあって、それでなんだこのコンセントってたどって見ていくと、なんか上の家の方にまでコンセントが通じてて、勝手にいつの間にか電気が泥棒されていたとしたらどうしますかっていう話をしましたね。
城壁が崩されているということ、このように境界線が侵入されて、自分たちの内側にある守るべきリソースが好き放題ぶんどられて盗まれているような状態、それがこの当時のネヘミヤの時代だったんですけれども、このような状況は改善されなくてはなりません。
崩されている都、それは再建されなくてはなりません。崩された皆さんの成り立ち、ぶんどられ続けてきた皆さんの人生、それはネヘミヤによって立て直しがなされなくてはなりません。ネヘミヤという名前の意味は、神の慰めという意味でした。皆さんを立て直すのは、神の慰めです。皆さんがぐちゃぐちゃに崩されて、敵が好き放題、恥ずかしめられ放題のありさまは、まず慰められなくてはなりません。
ネヘミヤはこのエルサレムのところに来て、彼らは夜中起きて、そして他の数人の人たちと一緒にその崩されたありさまを視察しました。夜の暗闇の、月が照っていたかもしれませんけれども、その明かりの下で、おそらく彼らは秘密裏に行動したんでしょう。ですから、獣もたった一頭しか連れて行かずに、また数人のもと、夜中に行きました。
これは本当に暗闇の中に崩されている状況、エルサレムのこの状況は、なんとこれを見てネヘミヤは心を痛めたことでしょうかね。なんで彼らがこの暗闇の中で隠密に行動しなければならなかったかというと、それを面白がらない敵がいたからです。
10節の方に書いてありますが、好き放題ぶんどれる、好きなことし放題。この役人たちにとって、彼らにとって都合が良かったんですね。ぶんどれるから。
皆さん自身もですね、立て直される段になると、それを面白がらない人がおります。攻撃を受けます。皆さん自身が自分の城壁を立て直そうとアクションを起こした途端に攻撃が来るのは、これは覚悟しておいた方が良いでしょう。
敵はですね、皆さんが立て直されるのを面白がらないんです。皆さん自身、それまでの人生でサタンにぶんどられ続けてきた。悪しき者たちにぶんどられ続けてきた。としたら、その悪しき者たち、サタンがそれを嫌がるんです。皆さんが立て直されるのを。
ここにおいては、サヌバラテとかトビヤとか、それを聞いて不機嫌になりました。ネヘミヤが来た。奴はイスラエル人の利益を求める。
そういうわけで、ネヘミヤはこの敵に知られずに、隠密に行動したんですね。皆さん自身もですね、何でもかんでも正直に、あけっぴろげで皆さん自身の秘密を全部明らかにしていれば良いというものではありません。皆さんが隠すべきところはしっかり隠すべきなんです。皆さんの実情を知られてはならない敵がいるんですよ。
皆さん自身のあることを知ってしまうと、ある日、兄弟姉妹にとっても非常に厄介なことになってしまうようなことは、そういう人をですね、混乱に陥れたり、あるいは兄弟姉妹の中でそういう混乱を起こすような情報はわざわざ言わなくていいんです。いや、言うべきではないんですね。
イエス様もある人は、ある人を癒したときに、その人に対して、このことは誰にも知らせてはならないと固く口止め、ある人たちに対してはしました。不思議ですね。ある人に対しては、言って、あなたの身に起こったことをその地方の人たちに知らせなさいと言って、ある人に対しては、このことは誰にも話してはならないと。
例えば、イエス様がそういう口止めをしたケースの場合だと、だいたいその人はその約束を破るんですね。言いふらすんです。言いふらした結果、イエス様がもはやそこで行動を取れなくなってしまうほど、人々がイエス様のもとを押し寄せたり、きっとイエス様のことをある面だけ語って、ある面だけ語らなかったんですね。
例えば、イエスという男のところに行くと、パンがもらえるぞ、とか、イエスというところに行けば、病気が癒してもらえるぞって言って、それでイエス様は罪を許してくださるお方だとか、イエス様は永遠の王であるとか、天と地を造られた神、主のメシアだとか、そういった非常に重要なところを除いて、ある面を語って、ある面を語らずということがある。
だから人によってですね、明らかにしていい情報と隠すべき情報があるんです。そこもしっかりと見極めるべきですね。このネヘミヤは、このイスラエルの敵に対しては、隠密に行動をとりました。
そして一通り見終わった後ですね、ネヘミヤはそこのイスラエルの困難のうちにある人たちに言うんです。17節以降です。
ネヘミヤ2:17-18「それから私は彼らに言った。あなた方は私たちのことを知っている。私の当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上恥辱を受けないようにしよう。そして、私に恵みをくださった私の神の御手のこと、また、王が私に話した言葉を彼らに告げた。そこで彼らは、さあ、再建に取り掛かろうと言って、この良い仕事に着手した。」
このネヘミヤはですね、そこの困難の状況うちにある神の民、イスラエルの人たち、エルサレムの住人に対して、良い知らせを告げ知らせるんですね。アルタシャスタ王は、このエルサレムの再建に対しては意欲的だと、助けをしてくれる。
そしてまた、その王の上におられる天と地を造られた神である主が、このすべてのことをここに至るまで、一献酌官がお暇をもらってお国のために仕事をさせてくださいという言葉に本当に心よく承諾して、しかもその援助の物資も送って、また手紙を書いてくれる。
そのような状況だから、我々はこのエルサレムの城壁を建て直して、もうこれ以上、恥辱を受けないようにしようと言うんです。そしてこのエルサレムの人たちは、神の御手のこととまた王様が話してくれた言葉に励まされて言うんです。さあ、再建に取り掛かろう。
皆さん自身には、主はどのように語っておられるでしょうか。皆さんは、崩された城壁のままでしょうか。門は火で焼かれているでしょうか。敵は皆さんの内側に入りたい放題しているでしょうか。
でも、主は天と地を造られた神である主は、皆さんに良くなってほしい。そして皆さんが城壁を再建するのであれば、あらゆる援助を天地を造られた神である主は惜しみません。
皆さんもですね、唇で告白するべき時が来ております。さあ、再建に取り掛かろうと。城壁が崩されたままであれば、それに対して何もしないのではないでしょうか。それは10年20年と崩されたまま、火で焼かれたまま、敵に入りたい放題に入らせたままです。
しかしこのエルサレムの住人がネヘミヤの言葉を聞いて勇気を奮い立たせ、再建に取り掛かろうと言った時から再建の業が始まるんです。
この3章の方はですね、本当にいろんな人が出てきます。いろいろな人がここの城壁の区画をどこからどこまで取り付けて修復したというそのリストがこの3章です。結構32節までずっと続きますけれども、本当にいろんな人がいろんな区画をそこを修理している様が記されておりますけれども、でもそのままにですね、やっぱり邪魔が入るんですね。
面白く思っていない人たちは、この2章の19節の方で言っています。
ネヘミヤ2:19「ところが、ホロン人サヌバラテとアモン人で役人のトビヤ、およびアラブ人ゲシェムは、これを聞いて私たちをあざけり、私たちを侮って言った。お前たちのしているこのことは何だ。お前たちは王に反逆しようとしているのか。」
城壁というのは、外部の敵から身を守るための道具です。城壁を建てるということは、何か戦争的な、軍事的な連想をさせるから。だから、もしこのことを面白く思っていない人たちが、王に歯向かうという口実を、王に偽の情報として、それはちょっと厄介なことですね。
皆さん自身も、皆さん自身が、自分で強くなろうとしているときに、「なんで強くなって、人を傷つけたりするのか、そんな強い言葉を身につけたら、人をもっと傷つけやすくなりますよ」というような、そういう讒言に引っかかってはなりません。
ネヘミヤは、こういうとき、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」と言われた言葉に対して、「いえいえ、滅相もない。王に反逆しようとなどしておりませんよ」なんていうふうに、そんなベタな言い訳をして、まさにドツボにハマるようなことはしません。
いちいちですね、「いや違いますよ、王に反逆しようとなんかしてませんよ」とか、「これは戦争のために使うものではなく、平和のために使うものですよ」とか、そういった、相手が言ったことに対して、こう、そのまま返すやり方は、それは下手なやり方です。
ネヘミヤはどういうふうに答えたでしょうか。20節です。
ネヘミヤ2:20「そこで私は彼らに言葉を返して言った。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だから、その僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだ。しかし、あなた方には、エルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ。」
アーメン。まずですね、ネヘミヤは自分の立場を宣言しました。自分は、天の神ご自身が私たちを助けてくださる。天の神、主に仕えるものだから、私たちはこの神の都であるエルサレムの再建に取り掛かっているのだと。
自分たちを僕であると告白してますね。天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。だからその僕である私たちは再建に取り掛かっているのだと。
サタンのですね、こういう攻撃の唇の火の矢に対しては、そのまま返してはなりません。皆さんをあざけるもの、皆さんを言葉によって引き落とそうとするものは、だいたいこういうふうにですね、そのまま答えてしまったら罠に陥るタイプの質問をしてきます。
例えばね、パリサイ派の人たちはイエス様に「カエサルに税金を納めるのは律法にかなったことでしょうか、そうでないでしょうか」と質問したとき、もしイエス様がそれに対して「かなったことである」と答えても、「そうではない」と答えても、「お前はローマに反逆するのか」と言われます。
そういう時イエス様は何て答えたか。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と真実を告白しました。
また、姦淫の現場で捕らえられている女を連れてきたパリサイ派の人たちがイエス様に質問しました。「この女は姦淫の現場で捕らえられた。こういう女は律法では石打ちするように命じられている。ところでイエス様、あなたは何と言うか。」
イエス様はその質問に対しても、女を許せと言ってもドツボにハマります。じゃあお前律法を無視しているんだなと、口実にされてしまいます。この女は石で打ち殺せとイエス様が言っても、お前が今まで説いてきた愛の教えは一体何なんだと、これまた訴える口実になります。
皆さん自身ですね、イエスと答えてもノーと答えてもドツボにはまる質問があります。また皆さんが、右に行っても左に行っても、どちらのルートをとってもドツボにはまる、そういう人生の選択の場面があります。そういう時皆さんどうするべきかというと、皆さん真理を告白するべきです。
私は神の子である。ここでネヘミヤは、天の神ご自身が私たちを成功させてくださると。だからその僕である私たちは、再建に取り掛かっているのだと言いました。
イエス様は、その姦淫の現場の女の時は、そのイエスの質問に答えることなく、その群衆に対して真理を突きつけました。その群衆たちの、その状況。イエス様はこう答えただけです。「あなた方のうちで、罪のない者が最初にこの女に石を投げなさい。」つまりイエス様は、群衆のイエスの質問ではなく、その群衆に対して群衆の罪の状況をあらわにしたんですね。その人自身がいかに厄介か。
このネヘミヤが答えた言葉も、この、「お前たちは王に反逆しようとしているのか」という、この世の正義において罠にはめようとした言葉に対して、「いや違う、私たちは天と地を造られた神様の僕であり、その神様に従っているだけだ」と。何の引っかかりもないですね、王に対して。このことを言っても反逆をしているような、ことを匂わせるニュアンスは一切ありません。
皆さん、相手を見たら罠に陥ります。イエスの質問、サタンが投げかけるイエスの質問に、そのままイエスと答えてはならないし、ノーと答えてもなりません。御言葉にはこう書いてあると答えるべきです。
イエス様は、荒野でサタンの誘惑を受けた時、サタンの誘惑に対して「御言葉にはこう書いてある」と3回返しました。マタイ4章でした。
皆さん自身も、人生のあらゆる場面において、サタンからの攻撃を受けた時は御言葉で返してください。
天と地を造られた神様は、皆さん自身が城壁が崩されたまま、皆さん自身の成り立ちが、この時代のエルサレムのように、ズタズタで、瓦礫に埋もれて、動物も通れないような、そのような成り立ちを主は慰めてくださいます。ネヘミヤは神の慰めという名前の意味でした。主は皆さんの城壁を建て直してくださいます。
最後に、イザヤの62章の方を、イザヤ62章の4節と5節。
イザヤ62:4-5「あなたはもう、見捨てられているとは言われず、あなたの国はもう、荒れ果てているとは言われない。かえってあなたは、私の喜びは彼女にあると呼ばれ、あなたの国は、夫のある国と呼ばれよう。主の喜びはあなたにあり、あなたの国は夫のある国となるからだ。」
5節の方ですね。「あなたの子らがあなたをめとり」とあるんですが、このあなたの子らというのは、ここは新改訳では、「あなたを再建する者があなたをめとり」と書いてあります。「そして花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」
皆さんがですね、皆さんを再建されるお方である主イエス様を花婿として迎えるのであれば、花婿なるイエス様は皆さんを再建してくださいます。建て直してくださいます。そして、主は、皆さんのことを、花婿が花嫁を喜ぶように喜んでくださいます。
なぜなら、皆さんが主を頼りとするからです。旦那さんにとって、妻が皆さんのもとに保護を求めてくるのは、それは男にとってやりがいでしょう。男にとって喜びでしょう。女性を自分の手で守る。
それと同じように、イエス様も、皆さんがイエス様のもとに助けを求めてくるのを、イエス様はそれを誇りとするんです。誇りを持って皆さんを守ることを喜びとされます。
どうか皆さん自身が、主を迎えて、イエス様を主として、そしてこのお方に助けを求めて、皆さん自身に、もし、ネヘミヤの時代のような状況であるのであれば、皆さんを再建してくださる方が皆さん自身をめとって、そして皆さんの内で立て直しの業を行われることができるように皆さん自身が、どうか主をお迎えしてください。
そうすれば主は皆さんの内に入ってこられて、皆さんと共に食事をし、また皆さん自身の内で再建の業を果たしてくださいます。どうか主をお迎えして、いつでも主を主として、そしていつでもこの主から守っていただき、皆さんの城壁が完全に癒されて、そしてこのお方とその城壁の内で親しく喜ばしく主と共に生活していく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
崩された城壁のような人生の状態であっても、主イエス様を花婿として迎え、主に助けを求めるなら、主は皆さんを再建してくださいます。「さあ、再建に取り掛かろう」という告白から、立て直しの業が始まります。サタンの攻撃に対しては、御言葉で答え、真理を告白することが大切です。主は、皆さんが主を頼りとすることを誇りとし、花婿が花嫁を喜ぶように皆さんを喜んでくださいます。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言3(創世記49:22-27):右クリックで保存
前回同様、イスラエルの子達への預言が続き、今日はラケルの二人の子達への預言である。
『ヨセフは実を結ぶ若木、/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。』(創世記49:22)
ヨセフの結んだ実は、実際に垣根を越えて広がる枝のように、イスラエルの子達家族全てを養い、それだけでなく、神を知らない異国の多くのいのちをも救った。
祝福されたヨセフは攻撃も受けたが、それでも神は守られた。
『射る者は彼を激しく攻め、/彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、/彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、/イスラエルの岩なる牧者の名により』(創世記49:23)
ヨセフは、兄弟達の悪意に対して悪を返すことをせず、ポティファルの妻に陥れられ牢に入れられても、その先々で権威に忠実に従うスタンスを捨てたりしなかった。
彼はいつでも「神は」が口ぐせで、どんな事があっても自分の手柄にはしなかった。
そのヨセフの性質の故に、神が彼を守り、彼の敵に神が弓を射返し(詩篇64篇)、流れのほとりに植えられた木のように、時が来た時には垣根を越えて広がる程の、豊かな実を結ばせるに至ったのだ。
私達も、イスラエルの岩なる牧者・イエスキリストに拠り頼む事によって、あらゆる悪から守られる。
まさしく詩篇1篇にある通りである。
『悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。』
『あなたを助ける父の神により、/また上なる天の祝福、/下に横たわる淵の祝福、/乳ぶさと胎の祝福をもって、/あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。』(創世記49:25-26)
ここでヤコブはヨセフに「あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり」と、言葉上はアブラハムやイサクに勝る祝福を与えているわけだが、ヨセフの子達が果たしてその通りの祝福を実際受けたかというと、そうでもない。
その人が実際に祝福されるかどうかは結局、祝福を父から受けた後、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているからだ。
さて、末っ子のベニヤミンである。
『ベニヤミンはかき裂くおおかみ、/朝にその獲物を食らい、/夕にその分捕物を分けるであろう」。』(創世記49:27)
ベニヤミンは戦いにおいて非常に強くなる祝福が与えており、実際にそうだった。
どれほど強かったかというと、士師記の時代、イスラエル他の11部族を相手に戦って、2度も勝利する程だった。(士師記20章)
なぜイスラエル部族同士が喧嘩するようになってしまったのか。
それは、ベニヤミン族は自分達の中にソドムと全く同じ罪を犯す邪悪な者達がいたのに(士師19章)、その者達を罰して悪を除き去るどころか、逆に自分達の強さに驕り高ぶり、その者達を守るためにイスラエル全体を相手取って戦ったからだ。(士師20:13-14)
士師記の時代のイスラエルは、御言葉に従わず、めいめいが自分の目に正しいと見える事を行っていたが、そのためにこの時代は祝福を受けず、他国から侵略され分捕られる事の多い、非常に殺伐とした時代だった。
自分の目に正しいと見える事を行う事、それは諸悪の根源である。
結局、自らの力に驕り高ぶって、自分達の怒りや欲望の赴くままを行なっていたベニヤミン族は、女子供は全て殺されてしまい、民数記の時代は男子45,600人を誇っていた一族も、たったの600人のみとなってしまった。
「民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。」(士師記21:15)
ベニヤミンは、自分の牙に頼った結果、自分自身を裂き、兄弟達をも深く切り裂いてしまったのであった。
いただいた祝福は祝福として、神のために、兄弟姉妹のために用いるべきであって、決して自らの心の赴くままに驕り高ぶってはならないのだ。
ヤコブはこの章で、ある兄弟を祝福し、ある兄弟を呪い、ある兄弟を叱責したが、必ずしも父が願った人が祝福されたり呪われたり、とは限らない。
結局のところ、祝福を実際的にその人のものとできるかどうかは、その人がどのような信仰で歩み、どのような行いを積み重ねて行くかにかかっているのだ。
礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの子達への預言2(創世記49:13-21):右クリックで保存
前回に続き、イスラエルの子達への預言の箇所である。
「ゼブルンは海べに住み、/舟の泊まる港となって、/その境はシドンに及ぶであろう。」(創世記49:13)
ゼブルン族は、海に近い所に相続地を得た。
ゼブルン族の中には、この祝福の通りに、海洋貿易で富を得た人はいたのかもしれないが、結局その領地は、海にもシドンにも、至らずじまいだった。(ヨシュア記19章)
モーセは後の時代に次のように祝福している。
『ゼブルンについては言った、/「ゼブルンよ、あなたは外に出て楽しみを得よ。イッサカルよ、あなたは天幕にいて楽しみを得よ。』(申命記33:18)
キリスト者の中にも、世に出て行って商いをし、富を得、教会に富をもたらす賜物を持った兄弟姉妹がいるのと同じである。
「イッサカルはたくましいろば、/彼は羊のおりの間に伏している。」(創世記49:14)
イッサカル部族は豊かな土地の相続地を得たが、なまけて安逸をむさぼった。
「彼は定住の地を見て良しとし、/その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、/奴隷となって追い使われる。」(同15節)
この言葉の通り、後にはカナン人やアッシリアなど他国に税金を収めたり、ろばのように苦役を課せられる事になってしまった。
キリスト者の中にも、富を得て油断し、信仰になまけ癖がついてしまい、安逸をむさぼった結果、敵に蹂躙され、奴隷としてこきつかわれてしまう者もいる。
祝福を受けたからと言ってなまけ者になってはならない。怠けてしまうと、すぐに以下の箴言の御言葉どおりになってしまうからだ。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
『ダンはおのれの民をさばくであろう、/イスラエルのほかの部族のように。』(創世記49:16)
ダンの名前は「さばく」という意味であり、ヤコブは、さばく人は道に隠れたへびのようだと、たとえている。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。』(同17節)
「悪魔」のギリシヤ語「ディアボロス」の原意は、元々、中傷する者、けなす者の意味であるが、兄弟姉妹をさばく人は、へびやまむしのようであり、それは悪魔の性質である。
ヤコブは、裁く人について、「主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。」(18節)と、主に助けを求めている。
『ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。』(同19節)
ガド部族は戦いに強い部族で、エリコを攻略する前にヨルダン川の東に相続地を先に得たが、ガドの勇士達は民の先頭に立ってカナンを侵略した。(民数記32章、申命記33:20)
兄弟姉妹の先頭に立って戦い相続を得させる役割が与えられたキリスト者もいるが、ガド部族はそのようである。
『アセルはその食物がゆたかで、/王の美味をいだすであろう。』(創世記49:20)
アシェルの名は幸いという意味である。
神から食料を豊かに提供され、それを兄弟姉妹に、そして王なるキリストに、豊かにごちそう提供する人は、幸いである。
キリストの食物とは、神の御心を行い、それを成し遂げる事である。
『イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。』(ヨハネ4:34)
『ナフタリは放たれた雌じか、/彼は美しい子じかを生むであろう。』(創世記49:21)
ここの「美しい子じかを生むであろう」は「美しいことば(歌)を生むであろう」とも訳す事ができる。
ナフタリはガリラヤ湖北の山地に相続地を得、他から解き放たれた雌鹿のように自由であり、士師デボラとバラクはイスラエルに勝利をもたらし、美しい歌を歌った。(士師記4,5章)
主を賛美する事は私達の力であり、勝利をもたらすものである。
このようにヤコブの子らは、色々な役割が与えられバラエティに富んでいた。
同じように、キリスト者にも色々な賜物を与えられた兄弟姉妹が、それぞれ、バラエティに富んだ役割を果たす。
祝福されて怠け者になったり、目を凝らして裁いたりする者にはならず、有用でいのちを増やす働きをする皆さんでありますように!
