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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主が露わにする時は必ず来る(創世記41:1-16):右クリックで保存

『朝になって、パロは心が騒ぎ、人をつかわして、エジプトのすべての魔術師とすべての知者とを呼び寄せ、彼らに夢を告げたが、これをパロに解き明かしうる者がなかった。』(創世記41:8)
神の御心は、人の知恵で計り知る事はできず、世のどんな知者もそこに到達する事はできない。
神が見させた夢を解釈できたのは、神の霊が宿る人・ヨセフのみであったように、御霊によって新しく生まれた人のみが、御心を悟る事が出来るのである。(ヨハネ3:8)

パロの献酌官長はこの時、二年越しにしてようやく、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフの事を思い出した。
ヨセフはあの時、神の知恵を語ったのに忘れ去られ報われなかった。
同じように私達も、神の国のことばを伝えた時、相手は表層的な事しか覚えてくれていなかったり、忘れ去ってしまったりして、落胆したり、その時は日の目を見なかったりする事がある。
しかし、神の言葉は決して地に落ちたままでいる事は無い。

神の言葉を伝えられた人が、たといそれを忘れたとしても、この献酌官長のように、否が応でも思い出させられ、王の御前で申し開きしなくてはならない時が、必ず来るのである。
ヨセフが献酌官長に伝えた言葉は、その時は実らなかったが、ずっと後に実ったように、私達が語った御言葉も、決して地に落ちたままでいる事なく、必ず後には実るのである。
『天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。』(イザヤ55:10)

ヨセフは今まで、良い事をしてもそれが悪い方向へ、悪い状態へと引きずられて行ってしまったが、今度は一転して、今まで受けてきた良くない事を全て償って余りある方向へと導かれる。
『そこでパロは人をつかわしてヨセフを呼んだ。人々は急いで彼を地下の獄屋から出した。ヨセフは、ひげをそり、着物を着替えてパロのもとに行った。』(創世記41:14)

御言葉のともしびは、人間がいかに器に隠そうとしても隠しおおせず、必ず主が燭台の上に置かれる。
ヨセフが牢屋という密かな狭い所で語った御言葉は、今度は公で広い所で語る事となり、彼が密かな狭い牢屋で行った忠実なわざも、今度は大きなステージで、公に為す事となる。
『あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。
隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。』(ルカ8:16-18)
良い事であれ、悪い事であれ、密かな所で言った事や行った事は、主が露わにするべき時には、必ず露わにされるのである。

『ヨセフはパロに答えて言った、「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう」。』(創世記41:16)
ヨセフは、夢を解き明かすこの特殊な能力の出処は、自分ではなく、神である事を公にした。
使徒パウロも同じように、牢獄から王の前に引き出されて行った時、そこで語った言葉は、自分に関する釈明ではなく、十字架につけられたキリストすなわち救い主についてであった。(使徒25章)

王や権力者の前に引き出されて行った時、何を語ろうかと、心配するには及ばない。
御霊に導かれているなら、語るべき言葉は与えられるからだ。(マタイ10:19-20)

『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

ヨセフは一時期低く、卑しくされたが、後には、彼を低く卑しくした全ての膝は、ヨセフの前にかがめられるようになる。
キリストも一時は低くなられたが、後には、全ての膝は彼の前にかがめるのである。
そして御言葉は、たとい一時期人から忘れされても、後にはその御言葉は、誰の目にも明らかな形で実を結び、神の御業は必ず成就するのだと、人々は知るようになるのである。

礼拝説教メッセージ音声:牢獄のような狭い世界で(創世記40章):右クリックで保存

その後、ヨセフが入れられている監獄に、献酌官長と調理官長が入れられてきた。
『侍衛長はヨセフに命じて彼らと共におらせたので、ヨセフは彼らに仕えた。こうして彼らは監禁所で幾日かを過ごした。』(創世記40:4)

ヨセフは、与えられた仕事なら奴隷仕事でも監獄でも誠実に実行し、やる事なす事全て祝福されたため、どこででも信頼を得、責任ある仕事をどんどん任された。
彼は、全ての仕事がうまくいくその与えられている特権を、脱獄したり暴動を起こしたりといった身勝手な方向には用いず、与えられている持ち場に留まり、与えられている権威に忠実に従うという方向に用いたため、後にはエジプト一国という大きな事を神様から任せられるようになり、イスラエルの全家族を救うという大役が任せられる事になる。

『さて獄屋につながれたエジプト王の給仕役と料理役のふたりは一夜のうちにそれぞれ意味のある夢を見た。』(5節)
彼は、牢屋という狭い世界にいたため、主から与えられている「解き明かし」の賜物を発揮する機会が無かった。
与えられている霊的な賜物(神様から与えられている能力)を、狭い世界に閉じ込められているが故に発揮できずにいる事を、人はもどかしく思い、自分はこんな所でこんな事をしているような器ではない、と、じたばたするものだが、彼はそんな事せず、忠実に仕えたのだ。

『彼らは言った、「わたしたちは夢を見ましたが、解いてくれる者がいません」。ヨセフは彼らに言った、「解くことは神によるのではありませんか。どうぞ、わたしに話してください」。』(8節)
ヨセフは、自分に与えられている賜物の源は神から来るものであり、その能力を用いるのは、自分が活躍して偉くなるためではなく、神の栄光を周囲の人達に現すためだと、彼は知っていたのである。
ヨセフが、牢屋という世界の狭い人間関係において、神の栄光を表していたように、私達も、変わらぬ日々のつまらない日常において神の栄光を現し、周りにイエス・キリストを伝えるべきだ。

献酌官長が夢の内容を語った時、ヨセフはその夢を見事に解き明かした。
すなわち、彼は三日目に開放され、元の地位に戻るのだ。
その時、ヨセフはお願いする。
『あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。』(14-15節)

彼は、自分の兄のせいでとか、あのポティファルの妻のせいでこうなった、等と人の事は言わず、ただ「わたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかった」からと、平和にお願いしている。
忘れてはならない。地を相続するのは、平和な者である。(マタイ5:5)

そしてまた、調理官長も自分の夢をヨセフに語るのだが、その解き明かしは調理館長にとって災いだった。
それでもヨセフは、偽りの慰めは言う事なく、神様から与えられた事を、正直に正しく伝えた。

預言者たる者は、神から与えられた事を正しく伝えなくてはならず、たとい滅んでいく事がわかっている者にであっても、そうするのである。
そして彼がこの時、正直に正しく伝えたからこそ、彼には確かに神の力が宿っていると、パロに伝えられたのだ。
世の中では「正直者はばかを見る」かもしれないが、神の国では「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)のである。

果たしてヨセフの解き明かし通りの事が二人に起こるのだが、献酌官長はヨセフに頼まれていた事を思い出さず、彼のことを2年も忘れてしまっていた。
それはヨセフにとっては災いだっただろうが、それも実は、神にあって重要な意味があったのである。

もしこの時、献酌官長がヨセフに言われていた事を忘れずに実行し、その時ヨセフが釈放されていたら、彼はきっと、かの問題だらけの父や兄達の元に帰り、全ての事を父に正直に伝え、一悶着起こし、一生を羊飼いで過ごしていたかもしれない。
人は何かと目先の事しか考えず、あまり良くない結果しか生み出さないが、天が地よりも遥か高いように、主の道は私達の道よりも高く、主の御思いは天のように高い。(イザヤ55:9)

もし今、目の前の現実において、牢獄のような狭い世界でつまらないと見られる事を任されていたり、賜物を発揮できないような状況にあるとしたら、全ての事を主にあって忠実に為してみてはどうだろうか。
神に対して罪を犯す事を強要されるなら、ヨセフのように断固拒否するべきであるが、罪を犯させない環境下であるなら、与えられている事がどんな事であっても、忠実に為すべきである。
そして、小さな事に忠実であり続けるなら、さらに大きなことが任されるのである。

礼拝説教メッセージ音声:牢獄に入れられた時には(創世記39:11-23):右クリックで保存

ヨセフは奴隷として売られた後は、無実の罪で監獄へ入れられてしまう。
『主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。』(創世記39:19-20)

人は時に、「なぜ正しい事をしているのに、どんどん不利になって行くのか」「神がいるのに、なぜ悪人は栄え善人は虐げられっぱなしなのか」と、不条理な世の理不尽さにあえぐ。
人は、未来は分からない。一年後どうなっているのかも、明日起こる事さえ見る事はできない。
それ故、きょう目の前で起こっている事の現実が、あたかも、いつまでも続くかのように錯覚してしまう。それが自分に栄光であろうと、自分に災いであろうとも。
しかし、主の御思いは人の思いを超えてはるかに高く、主が求める者に計画しておられるご計画は将来と希望を与えるものであり、備えておられる道は最善の道だ。

『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』(イザヤ55:8-11)

『こうしてヨセフは獄屋の中におったが、主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。』(創世記39:21)
主は牢屋の中でも、魚の腹の中であろうとも、共におられ、私達の祈りを聞き、恵み深く計らってくださる。

人は思うかもしれない。主がおられるなら、牢屋の中に共におられると言う以前に、初めからわたしを牢屋にぶち込まなかったほうが良かったのに、と。
しかし、主がなさる事には、必ず意味がある。
ヨセフがこの時代、この時、「王の囚人が入れられる獄屋」に彼が「いる」事が、後のイスラエル民族のためにとても重要で、どうしても外せない事だったのである。
同じように皆さんも、今この時この場所で、苦しい目に遭っている事は、実は将来の重要な事のための、主の布石だったりする。

『主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』(哀歌哀歌3:25-33)

主は何のために、あえて人を辛く苦しい所を通らされるか。
それは、私達の心の内が、神と人との前に明らかにされるためであり、結局、物事は人の手で成し遂げられるのではなく一方的に主が成して下さるのであり、主こそ全ての全てだと、私達が知るためである。

『あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
・・・
あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』(申命記8:2-16)

奴隷仕事の中でも、牢の中でも、主から来るマナ、すなわち主の慰めや必要の満たしは、必ずある。
そして主を頼りとしているならば、主はついには私達をしあわせにして下さる。
くびきを負わされ試練の中に入ったのであれば、一刻も早く自分を下ろし、主の御手の内に服従する事で、速やかにその試験をパスし、さらにさらに多くをまかされる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:総理大臣となる素養(創世記39:1-10):右クリックで保存

ヨセフは、イスラエルの12人の子の内で、最も数奇でドラマチックな運命をたどった人だ。
兄達の殺意のために奴隷に売られ、無実なのに監獄に入れられ、そこから一転し、エジプトの宰相(総理大臣に相当)とされ、その地位においてエジプトを栄えさせ、家族だけでなく、世界の多くの人の命を救った。
ヨセフのようになりたい、と、漠然と憧れるクリスチャンは多いが、私達はまず、ヨセフが若かりし頃に培った素養に、すなわち、兄に憎まれていた時期や奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、彼は何を基準に考え、何を口で告白し、行動したのか、という事にこそ、目を留めるべきである。

まずヨセフの第一の特徴は、正直者である事。
世の中では「正直者はばかを見る」と言われているが、神の国の法則は「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)である。
多くの人は空気を読みすぎてしまい、権力者の前で正直である事を躊躇するが、彼は、権力者の顔色に物怖じする事なく、正直に、真実を告白した。

『ヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。』(創世記39:1)

もし皆さんが、兄弟姉妹の陰謀によって、大好きな教会からある日いきなり遠く不法に満ちた所へと強制労働に売られ、一人ぼっちになってしまったら、どうするだろう。
自暴自棄になって汚れた価値観に染まってしまってもおかしくはないし、「自分は不当な目に遭っているのだから」と、仕事をだらだら手を抜いても、仕方ないと思うかもしれない。
しかしヨセフは自己憐憫に陥る事なく、奴隷仕事さえ忠実に行い、そこの主人に認められ、さらに大きな事を任されるようになったのだ。

『小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。』(ルカ16:10-12)

立てられている権威は全て、神から来たものである。
ヨセフは、不正な国エジプトの、不正な主人に仕える奴隷仕事にさえ、忠実であった。
それだから彼には多くのものが任され、主人の全財産を管理するまでになったのだ。

もし、神の国という大舞台で活躍したいのなら、まず、不正と思える世の中において、小さな社会常識を忠実に守る所から、である。
小さな事に忠実でない者が背伸びして大きな仕事を手繰ろうとしても、周囲から無理やり降ろされてしまうだけだ。
しかし、小さな事に忠実な者は、周囲が無理やりにでも大きな仕事を任せるようになる。

ヨセフが祝福されたのは、神が気まぐれにえこひいきしたからではなく、彼が小さな事に忠実で、正直であったからである。
ヨセフは忠実であった結果、主がその家全体を祝福され、そこの主人は、自分の食べる食物以外には、何も気を使わないまでになったように、主ご自身がその持ち場全体を祝福して下さり、そこの人達から尊敬されるようになるのだ。

そしてヨセフは、女性関係においてクリーンだった。
『これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。』(創世記39:7)

エジプトの高官の妻であるからには、相当に美しく、女性としての魅力もあった事だろう。
ヨセフがこの誘惑を受けた時は20歳前後、男性として最も性欲盛んな時期である。
真の神を知らぬ、不品行のはびこる異邦の国であり、不倫など珍しくもない所である。
そのような状況で、ヨセフは誘惑を穏やかに拒否し、神の国のスタンダードを貫き通したのだ。

「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(9節)
異邦の女や人妻と寝る事には、死の罠が潜んでいる。(箴言2:16-19、箴言5章)
ヨセフには神への恐れがあり、霊的本能に導かれていた彼には、異邦人の人妻と寝るなど絶対にNGだったのである。
まったく、ユダとは大違いである。

こうしてヨセフは、エジプトに売られた当初から正直であり、小さな事に忠実であり、性的誘惑に妥協せず、清さを保ち、そのようにして宰相たる素養を培ったのである。
そのような性質は、世の人から見れば真面目過ぎる、固すぎて損する道に見えるかもしれない。
確かにヨセフは、その特徴ゆえに、13年奴隷にされ、牢獄にも入れられた。
しかし、後の80年という長い年月は総理大臣として誰よりも栄えた。

多くの人は、13年の奴隷や牢獄を避けたいが為に、空気を読んで正直さを控え、小さな事をぞんざいにし、世に流されて誘惑や異性関係に妥協してしまい、そうして、80年の長きの栄光を逃してしまうのだ。
思うように行かない時こそ訓練の時として、ヨセフのように正直に、忠実になり、誘惑に妥協せず、清さを保ちつつ過ごすなら、やがて大きな事が、神様から委ねられるようになるのである。

礼拝説教メッセージ音声:王族としての整え(創世記38:24-30):右クリックで保存

『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(創世記38:24)

この場面は一見、タマルのいのちの危機だが、実は、危機一髪だったのはユダのほうであった、というのは、前回見た通りである。
ユダ自身、3ヶ月前に密かに遊女を買い、その事を隠そうとしたが、主は、そうは行かせない。
いのちの光は、人が隠そうとしても隠せないし、いのちを殺そうとしても主は守り、また、人のいのちを粗末にする者は、主がその者のいのちを粗末にされる。

ユダは、自分も同じ罪を犯しておきながら、タマルに死刑判決を下したが、彼の子孫・ダビデも、同じ事をした。(2サムエル12章)
預言者ナタンがダビデの元を訪れた時、羊一匹しか持っていない貧しい者からそれを取り上げた金持ちの話をナタンが話したが、ダビデはその金持ちに死刑判決を下した。
しかし実は、その金持ちとは、ダビデ自身の事だったのである。

ダビデは隠れてバテシェバと姦通し、彼女の夫ウリヤを暗殺し、物事を闇に葬り去ろうとしたが、主は、それを白昼公然と晒す事を預言された。
ダビデはそれを聞いた時、「わたしは主に対して罪を犯した」と言って自分の非を認め、正しい判断をした故に、主はダビデの罪を見過ごして下さった。
もしこの時、ダビデがかたくなになり、あくまで自分のしたい事を強引に押し通そうとしていたら、サウルのように悲惨な死を遂げ、子孫は廃れていた事だろう。

『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』(創世記38:25)

ユダは、自分が遊女を買うために一時手放してしまったその印形とひもと杖を見た時、恥じ入った事だろう。
彼もダビデのように自分のした事を闇に葬ろうとしたが、主はそれを白昼公然と晒した。

その時、彼は「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」と言って自分の罪を認め、もはやタマルと肉体関係を持とうとはしなかった。
もし頑固に怒り狂ってタマルを焼き殺し、3つのいのちを奪っていたとしたら、きっと彼も、オナンのようになっていただろう。
自分には罪がある事を正直に認め、主に立ち返り、正しい事をする事。
それこそ、王族の者の対応である。

ユダは父ヤコブの臨終の時、父から祝福の預言を受ける。
『つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(創世記49:8)
彼は肉欲のため、遊女を買うために、支配者の杖を一時手放してしまったが、もはや、支配の杖は彼から離れる事は無い。

ユダの家系は女性関係で失敗しやすいが、父祖の代で、このような失敗と恥を受けた事によって、逆に益となった。
彼らは、ことさら女性に対し、伴侶選びに対し、子孫を生み残す事に関して、特に気をつけるようにと、子孫達を教育して行った事だろう。
こうしてユダ族は、支配者として整えられたのだ。

『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に生まれようとしていた赤子の手に、真っ赤な糸を結びつけたが、その子はお母さんのおなかのほうが居心地が良かったのか、戻ってしまい、もう一方のほうが、先に生まれ出てきた。
この、割り込んで先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、真っ赤なしるしをつけられながらも、後から出てきたほうの子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。

真っ赤な糸といえば、ヨシュア記2章の遊女ラハブを思い出す。
彼女はイスラエルの斥候に言われた通り、真っ赤な糸のしるしを窓に結びつけた事によって、家族もろとも救われ、後にはユダの家系へと嫁ぎ、王族の家系に加えられた。
しかしゼラフは、先に生まれかけて赤いしるしも付けられたのに、再びお母さんの胎内に戻ってしまった。
その故に長子の権利は奪われてしまい、王族はペレヅから出ることとなった。

いかに王族の赤い印がつけられても、再び生来の生き方に戻ってしまうなら、神の国の権利は、それを奪おうとする者によって奪われてしまうという事を、私達は忘れてはならない。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 」(ヘブル10:26-29)

ヤコブの兄・エサウのニックネームもエドム(赤い)であったが、彼も長子の権利を軽んじ、それを奪わんとする弟によって、長子の権利も祝福も奪われてしまった。
イエスの血潮という救いの赤い印が与えられたなら、それを決して離さず、神の国をさらに求め、さらに祝福が与えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:いのちによって死を飲み込む主(創世記38:12-23):右クリックで保存

『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。』(創世記38:12)

主に逆らって怒りを買った二人の息子・エルとオナンは主に打たれて死に、カナンの女もまた死んでしまった。
主は、神を中心とした家庭を築きあげる際、主に逆らって家全体を災いと導いて止めない者を、家族の中から取り除かれる。

12節の「喪を終って」と訳された言葉(nacham)には、「慰められる」という意味もあり、実は「妻が死んで、ユダは慰められた」と訳すことも出来る。
家族の死は確かに痛く悲しい。しかし、主に逆らう者が取り除かれるなら、後々、家全体が慰めを受けるのだ。

『時に、ひとりの人がタマルに告げて、「あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにテムナに上って来る」と言ったので、彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。』(創世記38:13-14)

ユダは、シラが成人したのに、彼が主に打たれるのを恐れて、タマルをシラの嫁にやらずにいた。
オナンはタマルと夫婦の営みをする時、子が出来ないよう外に出し、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らって殺されてしまったが、ユダのやっている事は、オナンと同じ罪である。
それでタマルは、義理の父・ユダが通りそうな所へ行って遊女の格好をし、ユダの子種を得ようと計ったのかもしれない。

なにしろタマルは、前夫が主の怒りを買って打たれたのを、二度も生々しく見ている。
ユダと共におられるいのちの主に逆らう事が、いかに恐ろしいか、人の良し悪し判断で子を生まない事が、いかに災いを招くかを、目の前で二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それがどんな災いを招いてしまう事だろう。
だから命がけの大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、遊女を買うための交渉を始める。
『彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。ユダは言った、「どんなしるしをあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。』(創世記38:17-18)

彼がしるしとして与えた3つの品は、いずれも大切なものである。
「印」は、指輪のように指にはめられる印鑑で、権威の象徴であり、「紐」は英語ではブレスレットと訳され、腕や首を飾るものであり、また、「つえ」は支配の象徴の道具である。
そんなに大切なものを、ユダは、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。
彼女は中身はタマルではあるが、ユダにとっては異邦の遊女である事には変わりない。
遊女と寝るために、権威と支配の道具を手放してしまうとは、一体どうした事だろうか。
彼が異邦人の国に、異邦の妻の価値観に、どっぷりと漬かってしまったのが、伺える。

しかしこの章を見ていると、人は、罪の行いをしたら主に打たれる、というより、主に逆らい続ける時、打たれるようである。
人は元々、罪に染まっていない者は無い。
そんな人が主に向かうなら救いはあるが、救って下さる主に背を向けるなら、救いは無いのだ。

彼女は、このたった一度の逢瀬で、身篭った。
主はいのちの主であり、子を宿すも宿さないも、主が支配しておられる。

ユダも、その子孫のダビデも、たった一度の逢瀬で、しかも、誰にも知られたくない状況で、いのちを宿された。
そして彼らの誰にも知られたくないような行いは、イエス・キリストの系図の中に、永遠に記録される。(マタイ1章)

結局、人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。
そして、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪は犯されなかったものの、人としての悲惨さを全て味わいつつ、人と共に生き、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の欲望に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良いお方であることのご性質だけが、ただひときわ際立つ。
人は、憐れみ深く聖くあられる主を前に、ただ感謝してひれ伏すしか無く、このお方に逆らい続ける事は、極めて罪深いのだ。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類もみな、主の御前に最低である。
しかし、いのちの主は、いのちによって全ての死を勝利へと飲み込むのである。

礼拝説教メッセージ音声:メシヤの父祖の成り立ち(創世記38:1-11):右クリックで保存

37章からヨセフを中心とした物語が始まったばかりなのに、38章では唐突にユダの結婚と子供の話に入る。
ユダは、イスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系でもあるので、この一族の成り立ちは聖書からは外せない。
しかし、そのような重要な一族生成の初期段階においても、人間の罪と欲望の渦巻くドラマがある。

ユダは兄弟達から離れ、アドラム人ヒラの所で住んでいた。
『ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった。』(2節)
今まで学んで来た通り、神に属する家系は、異邦人から妻を迎え入れると、必ず災いとなる。
ユダは兄弟達から離れて住んでいたので、仕方なくカナン人から妻をめとったのであろうが、その、ちょっとした妥協が、後に多くの悲しみと、時間やエネルギーの浪費を生み出す事となってしまう。

最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けた。
この異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなって行き、シュアの娘の影響力が次第に大きくなって行ったのだろう。
長男は、主を恐れる父親より異邦人の母の影響を受け、主をおそれるのではなく怒らせるようになって行き、ついには主に殺されてしまった。

『そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。』(創世記38:8-10)
イスラエルには、生んで増えて地に満ちるという祝福の命令が与えられているのに、オナンはそれに逆らい、そして父の意向にも逆らったため、彼もまた、主に殺されてしまったのだ。

主の怒りを招いた、と言えば、ヤコブの12人の子達も負けず劣らず行状が悪いが、少なくとも彼らは神を恐れ、意図的な「反逆」はしていない。
しかし、一家に偶像を持ち込んだラケルは早死してしまったように、妻も子供たちも偶像礼拝など主への「反逆」をしてしまったために短命だったのかもしれない。
列王記や歴代誌には、ユダのさらなる子孫たちの有様が記されているが、主を捨てて偶像礼拝に走った王達は、必ずと言っていい程、短命で災い多き人生である。

『そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。』(創世記38:11)

ユダの妻であるシュアの娘は、出所は「カナン人」であるが、明確な名前は記されておらず、歴代誌にもカナン人シュアの娘と記されている。
しかし、このタマルという女性は、名前は明確に記されているのに、出所は記されていない。
という事はタマルは、もしかしたらアブラハムの家系なのかもしれない。
いずれにせよ、彼女は、ユダ一族の子孫を残す事がいかに大切かをユダよりも意識しており、彼女が主を恐れている事を伺わせる。

ユダは息子が二人も死んでしまったので、タマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、一体誰の責任だろうか。
それは書かれてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男も「兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思った」と書いてある以上、彼も主に打たれて死ぬ要素が十分にあった事を、ユダ自身が認めていたのだろう。

ユダは、タマルを遠くにやるよりも、自分たちの主に対する態度に間違いがあった事を認め、悔い改めるべきだった。
それなのに彼はそれをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやり、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとしたのだ。

しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神への果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に人々の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。

ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん大きくなっていく。
主の御声には、どんなささやかなものでも正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って、時間もいのちもロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:人の愛情(創世記37:29-36):右クリックで保存

『彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。 』(31-32節)
ヤコブ自身が愛情を込めて特別にこしらえ、ヨセフに贈った長服が、ぼろぼろに、血に染まって帰って来た。
それを手に取った時の彼の悲しみは、どれほどだったろう。

しかし、彼自身が行った「偏愛」という行いの実を、彼自身が刈り取ったのである。
ヤコブはかつて、「やぎ」の毛皮と、兄の「晴れ着」を用いて「父親騙し」を実行し、父が愛した兄から祝福を奪ったが、今回、彼の息子たちに「やぎ」の血とヨセフの「長服」を使って「父親騙し」を実行され、愛するヨセフを奪われたのだ。
自分がかつて行った「父親騙し」の実も、その身に刈り取ったわけである。

「そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。」(34節)
ヤコブのその後の言動からは、以前のような覇気は無くなってしまい、何事にも神経質で、失う事を非常に恐れている事から、悲嘆にくれつつ余生を送っていたのを伺う事ができる。

人間の愛情。
それは良いものに見えて、実にやっかいである。
ヤコブがヨセフに寄せていた「愛情」は、兄弟に憎しみを芽生えさせ、ヨセフを命の危険に晒させ、ヤコブ自身に、大きな悲しみを招いてしまった。
人の愛は、利己的で、時に不純で、気まぐれであり、愛憎が強ければ強いほど、自分や周りに対して破壊力を生み出すものだが、主の愛は純粋で完全、永遠である。

彼は時にイスラエルと記されたり、時にヤコブと古い名で記されたりしているが、今回の箇所では、ヤコブの名で記されている。
ヤコブという名前からは、人を掴み、人の祝福を奪い取る、以前の古い生き方を連想させる。
彼は神からイスラエル(「神に支配される」の意)という新しい名が与えられたのに、しばらくは「ヤコブ」と「イスラエル」との間を、行ったり来たりしていたのだ。

ヤコブの生き方、すなわち自分で掴み取る生き方は、失うのみである。
彼はヨセフを手の内に「掴んで」寵愛した結果、失ってしまった。
自分のものとして握り締めていたもろもろが、指の間からこぼれ落ちていくたびに、「あなたはまだ手放さなくてはならない」と言われているのであり、どんどん手放して身軽になっていく内に、ますます主の御前に有用になって行くのである。

一家の中からヨセフが消えた事によって、この一家は変えられていく。
父親は、偏って愛する事がいかに愚かな事だったかを悟り、父親がこんなに悲しんだのを見た兄たちも、自分達のしてきた事がいかに愚かだったかを知った。
しかし、主にあって一度失ったものは、遥かに優れた形で取り戻すのが、十字架の原則である。
ヨセフはまだ生きており、そしてやがて、遥かに優れた形になって父親の懐に帰ってくるのである。

礼拝説教メッセージ音声:最低人間から栄光の家系へ(創世記37:12-28):右クリックで保存

ヨセフの兄たちは、父ヤコブの住むヘブロンの北方80km程に位置するシェケムに移動して、そこで羊を飼っていた。
そこは以前、妹ディナが陵辱された事でシメオンやレビによって虐殺が行われ、兄弟達がそこに入って略奪した所である。(34章)
ヤコブは兄たちの安否を確認するために、ヨセフを使いに出した。

兄たちは、遠くから近づいて来るヨセフを認めた時  互に言った。
「あの夢見る者がやって来る。 さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。 (19-20節)

兄たちのヨセフに対する憎しみは既に殺意に変わり、ほぼ全員が弟を「殺そう」と言う事で一致したのだが、長男であるルベンは彼を救い出そうとする。
『「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。』(22節)
シメオンやレビは、かつてシェケムで多くの血を流したが、ルベンはさすがに、兄弟の血を流す事はしてはならないと感じたようである。

『さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。 こうして彼らはすわってパンを食べた。』(23-25節)
殺意の兄たちに穴に投げ込まれ、ヨセフはとても恐ろしくショックであったろう。
彼は穴の中から憐れみを求めたのに、兄たちはそれをさかなにして、座って食事し出したのだ。

ずいぶんひどい話であるが、憐れみを閉ざす者に待っているのは憐れみの無いさばきである。(ヤコブ2:13)
彼らは20数年後、その報いを受け、ヨセフから苦しい目に遭うのだが、その時彼らは述懐する。

『彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。ルベンが彼らに答えて言った、「わたしはあなたがたに、この子供に罪を犯すなと言ったではないか。それにもかかわらず、あなたがたは聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」。』(42:21-22)

彼らは後に、自らの行いの報い受けた時、後悔した。ヨセフの苦しみを見ながら、ルベンの忠告を聞き入れて憐れみを示さなかった事を。
しかし、彼らがヨセフを穴に投げ込んだその時、彼らは憎しみを殺意になるまで互いに増幅させ、弟を殺せ、という熱狂的・異常な雰囲気の元に、弟の血を流そうとしたのは、確かである。

しかし、主が計られたいのちの日数は、主が定めたその時が満ちるまで、人も、御使いも、それに触れる事は出来ない。
いかにヨセフが絶体絶命のピンチでも、いかに集団で殺意を燃やし、今にも殺そうとしていても、主がヨセフに立てていたご計画が揺るがされる事は決して無いし、主の許しが無ければ、いのちが取られる事は決してない。
それは、私達にも同じ事が言える。

兄たちがヨセフを穴に投げ込んだ時、ちょうどイシュマエル人の隊商が通りかかった。
『そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。』(26-27節)

ユダが再び「血を流してはならない」と言わなくてはならなかった所を見ると、皆は最初のルベンの忠告を聞かず「ヨセフを殺せ」という方向へと再び戻ってしまったようである。
ユダはこの時、ヨセフ助けようとしたと言うより、どうせなら売って厄介払いしたほうが、少しでも益が残る、とでも思っていたのだろう。

ちなみに、イエス様を銀30枚で売った12弟子も、同じユダという名前である。
ユダの子孫からは、後に王族が生まれ、イエス・キリストもその家系から出るのだが、この時点では、とてもそうとは思えない。
これまでの兄達すべての所業を見ていると、とてもイスラエル12部族の栄光ある父祖たちとは思えないほど、最低人間達である。
自らの手を弟の血に染める事からは免れたが、異邦人よりもたちが悪いのでは、と思える程の、邪悪な思考パターンに、邪悪な行動パターンである。

しかし実は、イスラエルの子らは、このヨセフを通して品性が練られ、一族のいのちが救われ、後には、イスラエル12部族の栄光の父祖らしく整えられていくのである。
もっとも、そこに至るには、さらに多くの月日と、火のような試練をくぐらなくてはならない。

「時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。」(28節)
ヨセフはこうして、エジプトへと売られて行ってしまった。
それは、人間の目から見れば絶望に映るかもしれないが、神の視点から見れば、さらに優れたいのちへの第一歩を踏み出したばかりである。

人間は最悪しか生み出さないが、主に信頼するならば、主はそこから最善を生み出して下さる。
私達も今いかに悪どく、弱く、どうしようもなくても、主イエスに拠り頼むのであれば、主は私達を、キリストに似た者へと造り変え、栄光の神の家族へと加えて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:一族で最も正直者のヨセフ(創世記37:1-11):右クリックで保存

37章以降は、イスラエル一族全体の歴史であるが、特にヤコブの11番目の子・ヨセフを中心に話が進む。
ヨセフは兄弟達から憎まれていたが、それには色々な原因があった。

「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。 」(2節)
ヨセフは兄弟達に憎まれる事に恐れる事無く、正確に父に報告した。
アブラハムやイサクは周囲を気にする余りに妻を妹だと偽ったり、ヤコブは兄の祝福を「騙し」取ったが、ヨセフのあくまで正直な性質は、そんな父たちとは逆である。

「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。」(3節)
かつてヤコブがラケルを偏愛したために、妻たちの中に争いを引き起こしたが、ヤコブの偏愛癖もまた、ヨセフが憎まれる要因となってしまい、子供達の中に不穏な空気を生み出してしまった。
「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 」(4節)

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したため、彼らは、ますます彼を憎んだ。
『ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 』(6-7節)
こんな事を言ったら兄に憎まれるのは目に見えているのに、それは主が見せて下さった、意味のある夢であったから、伝えずにはおれなかったのだろう。

事実、20年以上も後の未来に、彼の夢の通りの事が起こる。
誰もその時、想像し得なかった事だが、ヨセフは30歳でエジプトの宰相になり、40歳くらいの時には全世界を相手に穀物の振り分けをしてしている中で、兄弟達が彼の元に来ておじぎをし、穀物を分けてくれるようヨセフにお願いしたのだ。(創世記42:6)

17歳の彼はまた、先の夢がさらにスケールアップした形で、夢を見た。
『「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 』(9-11節)

夢が二度くり返されたのは、このことが神によって定められ、神は確かにこれをなさるしるしである。(創世記41:32)
父ヤコブはヨセフの見た夢をとがめ、父である自分も、母も、おまえを拝むのか、と言って怒るが、彼はその事を心に留めた。

イスラエルの父祖達や12部族は、将来、彼らに後の世代に生まれ出る、ヨセフのような性質を持つ一人の子孫、すなわち、イエスキリストを、拝む事になる。
イスラエルという国は、現在はまだイエスをメシヤとして受け入れていないが、やがて、イエスが主であると告白し、ひざまずく時が、必ず来るのだ。

ヨセフは、色々な面において、イエスキリストの性質を帯びている。
ヨセフは、父からの寵愛を受け、父から特別な服が着せられ、それ故に兄弟達から妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、偽りの罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、どんな相手にも正直に、神から託された事を語った。
彼は兄弟達や父からは死んだ者と見なされていたが、実は彼はイスラエル全家を救うために、神によって先にエジプトへ遣わされ、エジプトの統治者とされた。(創世記45:7-8)
イエス様の次の御言葉が思い起こされる。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(ヨハネ14:1-4)

ヨセフは救いを得させるために、場所を備えに遣わされた。
同じように、イエス様も私達が天で住む住まいを用意するために、私達に先駆けて天に昇られたのだ。

また、ヨハネは黙示録にて、ヨセフの夢と似た幻を見ている。
「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。・・・女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」(黙示録12:1-2,5)

この女は、イスラエルを指しており、私達霊的イスラエルを表していると言われている。
イスラエルから生まれた、ヨセフの性質を持つ一人の子孫、イエスキリストはやがて現れ、彼は鉄のつえで諸国を治め、全ての膝は彼の前に屈まれ、ひれ伏され、彼が全てを支配し、統治される時が、やがて来るのだ。

ヨセフは正直であるが故に憎まれ、一時期卑しめられ、苦しんだが、それでも正直を貫き通したから、祝福を栄誉を得た。
ヨセフのように、人に対して恐れず、正直に主から与えられた御言葉を語り、たといそれによって困難に陥っても、忍耐して、後には栄光と祝福を受ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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