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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

ガールズソプラノによる力強い信仰告白
(詩篇46篇)
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詩篇46:1 聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

コラの子達は、この詩篇46篇を「女の声のしらべに(アラモテ)」合わせて歌わせた。
男声がない、ガールズソプラノであるが、この詩篇の内容は、世界的な戦争を前にしても動じないという力強い信仰告白があり、また、黙示録をも思わせるかのようなスケールの大きな事件も言及されている。
このような内容は、男声にこそ相応しく思われるかもしれないが、主が助けてくださるのは、人間の、男性的な力強さによって、ではない。
たとえ、かよわい女性であっても、主を避け所とする人をこそ、主は助けて下さる、というのが、この詩篇が示す所であり、主の救いが美しい女声ソプラノで歌われ、力強く美しい主の栄光が讃えられる。

詩篇46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。

主は私達の「何」であるのか、私達は主を、どのように評価するのか。
主は、その個人個人の、主に対する評価、すなわち信仰を受け取って下さる。

詩篇18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

その結果、主はまことにダビデが宣言したとおりに助けてくださり、力を帯びさせてくださった。

詩篇18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実(ツァラァフ)です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。
18:35 あなたはその救の盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしをささえ、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。
18:36 あなたがわたしの歩む所を広くされたので、わたしの足はすべらなかったのです。

主の言葉はツァラァフである、と言っている。ツァラァフは(金属などを溶かして)純化させた、ためした、純粋な、という意味である。
私達が救われる根拠は、神の完全さであり、主の言葉の純粋さである。
その御言葉の純粋さこそが、戦いにおける鋭さであり、私達の歩みを助け、私達に力を帯びさせ、安全にし、敵に勝利させ、そして、終わりの日に私達を守るのである。

詩篇46:2 このゆえに、たとい地は変り(KJV: the earth be removed)、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。〔セラ

これ以降の箇所は、あたかも、黙示録を思わせる内容だ。
黙示録には記されている。やがて聖なる都はサタンの勢力によって取り囲まれ、しかし主はその勢力に天から火を降して滅ぼし、そして地は取り除かれ、山は移される。聖徒たちは新しい天と地に入り、永遠にいのちの水の流れによって養われる。
この地上においては確かに戦争のうわさがあり、主に敵対する者達の武力によって強制的な統治がなされる事がある。
しかし、純粋なる御言葉を拠り所とする私達は、恐れることは無い。たとえ黙示録のように、天も地も巻き去られようとも。
天地は滅び失せても決して変わる事の無い御言葉により頼む者は、安全なのだ。状況がどんなに変わろうとも、あるいは、良くない状況がいかに変わろうとしないとしても、純粋なる御言葉により頼んでいる人達は、守られ、養われ、そして救われる。

詩篇46:4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。

セラで区切られた後、「川」、が登場する。
川が、神の都を潤す有様は、エゼキエル書にも黙示録にも出てくるし、黙示録にも登場する。

黙示録22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

この川の源は、神と小羊との御座だ。
主を拠り所としている人は、水路のそばに植わった木のように、いかに旱魃のような状況でも潤され、時が来れば実が実り、その葉は枯れず、何をしても栄える。
それは、主の御座からこんこんと途切れなく流れてくる、いのちを潤す水によっていつも養われているからだ。

詩篇46:6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

終わりの時代、神に逆らって立つ国々が起こり、武力や経済力をもって聖徒に戦いを仕掛けるようになって行く。
しかし、主を避け所とするなら、決して揺るがされない。
黙示録20:9 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
20:10 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。

以下、聖徒が為すべき事が示されている。

詩篇46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。

聖徒たちが為すべき事は、まず「来て」、そして「見て」、学ぶ事だ。
主は、良くない人、事、モノには、荒廃をもたらし、「こうなるぞ」と示され、そのような主と主の言葉に逆らった者達が荒廃した様を見て、わたしを覚えなさい、と。

詩篇46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
46:11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。〔セラ

主は、世と聖徒を分けられる。
世は、弓や槍、戦車で強くなろうとして行くが、私達信仰者は、それよりも遥かに強力な武器、御霊の与える御言葉の剣を持っている。
そして、万軍の神、主が軍配を上げて下さるのは、必ず、主の御言葉に聞き従う人に対してである。

わたしの舌は、麗しき主をなめらかに語り告げる、巧みな書記の筆(詩篇45篇)
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詩篇45篇表題「聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせてうたわせたコラの子のマスキールの歌、愛(イェディド)の歌」

愛の歌と日本語で訳された語イェディドは「愛された人」、KJVでは A Song of lovesと訳されている。
詩篇45篇は、王に愛された女性の歌であるが、ここに記されている女性たちと王との関係は、王の王・真の花婿であるキリストと、その花嫁である教会、すなわち私達との関係として読んで行く時、私達と私達の主人・イエス様との関わりを読み解く事ができる。

詩篇45:1a わたしの心はうるわしい言葉であふれる(ラハシュ)。
「あふれる」と訳された語ラハシュは、スープなどがぐつぐつと煮えたぎっている状態であり、彼の唇からは、彼の心に、王を褒めそやす気持ちがぐつぐつと煮えたぎって、充満されたうるわしい言葉が、今にも飛び出しそうな状態である。

詩篇45:1b わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。「わたしの舌はすみやかに物書く人の筆のようだ(レショニー・エット・ソフェル・マヒィル)」。

レショニーは舌、エットは筆あるいはペン、マヒィルは素早い、あるいは巧みな、精通した、という意味であり、そしてソフェルは、書記官の意味である。
ユダヤの会堂で用いられる聖書は、印刷された本ではなく、手書きされた巻物であるが、書記官とは、その巻物を記す者である。
書記官は、御言葉を誤りなく子々孫々へ、時代時代へと伝えて行く者であり、御言葉を暗唱した者でなくてはならず、御言葉を教える者である。旧約ではエズラがソフェル・マヒィルであると記されている。(エズラ7:6)

イエス様は弟子たちに幾つかのたとえ話とその解き明かしを話された後、言われた。

マタイ13:51 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
13:52 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。

弟子とは、イエスさまについて行き、彼の御言葉全てを負って、見習っていく人であるが、弟子となった人が目指すべきは、天国の事に精通した学者(ソフェル)である。
イエス様の言葉を心の蔵に蓄えた(すなわちテフィリンされた)者となり、新約からも旧約からも、いつでも折にかなった言葉を出し入れできる、巧みな書記となる事を目指すのだ。

2節以降は、王への賛辞が続くが、私達にとってのイエス様は、このような有様である。

45:2 あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。

「とこしえにあなたを祝福された」という言葉を得たの人といえばダビデを思い起こすが、ダビデの子孫として来られたイエス様にこそ、相応しい言葉である。
王の王であるイエス様は、世の何者にもまさって麗しく、彼の唇からは、恵みの言葉が流れ出て、人々を癒やす。

45:3 ますらおよ、光栄と威厳とをもって、つるぎを腰に帯びよ。
45:4 真理のため、また正義を守るために/威厳をもって、勝利を得て乗り進め。あなたの右の手はあなたに恐るべきわざを/教えるであろう。
45:5 あなたの矢は鋭くて、王の敵の胸をつらぬき、もろもろの民はあなたのもとに倒れる。

花嫁は花婿に、強く、雄々しく、凛々しくあって欲しいと願う。
私達もイエス様が、真理のため、また正義を守るために威厳をもって治め、悪魔サタンを倒して下さるように、願い求めるものである。

45:6 神から賜わったあなたの位は永遠にかぎりなく続き、あなたの王のつえは公平のつえである。
45:7 あなたは義を愛し、悪を憎む。このゆえに神、あなたの神は喜びの油を/あなたのともがらにまさって、あなたに注がれた。

イエス様は忠実また真実なるお方として、父なる神様は油を注いだ。
このイエス様こそ、永遠に、鉄の杖をもって統べ治めるお方である。

黙示録19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
19:15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。

このように、悪魔サタンの勢力に対して圧倒的に強い私達の主は、私達にはうるわしく慕わしいお方である。

45:8 あなたの衣はみな没薬、芦薈、肉桂で、よいかおりを放っている。琴の音は象牙の殿から出て、あなたを喜ばせる。
45:9 あなたの愛する女たちのうちには王の娘たちがあり、王妃はオフルの金を飾って、あなたの右に立つ。

10-11節は、この王家に嫁いでいく花嫁に対する訓戒の言葉であるが、これはそのまま、私達がキリストを前にいかなる有様であるべきかを示している。

45:10 娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。
45:11 王はあなたのうるわしさを慕うであろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。

動詞に注目すると「聞け」、耳を「傾けよ」父の家を「忘れよ」、彼を「伏しおがめ」。
私達がまことの夫であるキリストに対する立ち居振る舞いは、このようにあるべきである。

聞く事、耳を傾ける事は、何にもまさるいけにえであり、私達は、信仰の先祖アブラハムが、父の家を出て神様が示される地へと行ったのにならい、世を、罪を離れ、それを忘れ、嫁いでいくべき天の栄光の家を目指して進んでいく者達である。
そしてまことの主人であるイエス様に対しては全面的にひれ伏す事、それこそ私達に相応しい行動である。

エペソ5:22 妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
5:24 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

夫に「仕える」と訳されたギリシア語フーポタッソーは、軍隊用語で、自分を下位に置く事、みずからを上なる方へと服従させる事だ。
私達はキリストを上に、自分を下に置いて、御言葉に服従させる時、キリストが主人として私達を守り、養い、飾らせ、さらに奥の間における愛の交わりへと招いて下さる。

45:12 ツロの民は贈り物をもちきたり、民のうちの富める者もあなたの好意を請い求める。
45:13 王の娘は殿のうちで栄えをきわめ、こがねを織り込んだ衣を着飾っている。

キリストを主人とした私達は、神の家の中でも、奥のほうで、着飾らされ、栄華を極めるのだ。
キリスト者は、神の家の外では、栄える事は出来ない。ただ放蕩息子のように、わけもわからず放蕩した末に、いなご豆食べるしかない。
だから私達がいるべき場所は、神の家の、奥の間である。
日本語に「奥様」という言葉があるように、私達はキリストの花嫁としてキリストのふところ奥深くにとどまっているべき者達だ。

45:14 彼女は縫い取りした衣を着て王のもとに導かれ、その供びとなるおとめらは/彼女に従ってその行列にある。
45:15 彼らは喜びと楽しみとをもって導かれ行き、王の宮殿にはいる。

私達もやがて、大勢の群衆と共に、キリストによって白い衣を着せられて、地上で流した一切の涙は拭われ、慰められる。
そして彼ら共々、神の小羊キリストを賛美し、栄光の御国に入るのだ。

45:16 あなたの子らは父祖に代って立ち、あなたは彼らを全地に君とするであろう。
45:17 わたしはあなたの名をよろず代におぼえさせる。このゆえにもろもろの民は世々かぎりなく/あなたをほめたたえるであろう。

王族に嫁いで行った花嫁が生み出す子供たちは、王となって行く。
私達も、宣教や伝道によって生み出した霊的な子供たちは、やがて王族の祭司となって、地上を治める者へとなって行く。
そして彼らがさらに伝道へと出ていき、キリストのいのち達を産み出して行く。
私達は、その栄光のサイクルへと組み込まれたキリストの花嫁である。それはなんと、幸いな事だろう。

苦しめられている最中にあっても、圧倒的勝利者となる私達キリスト者(詩篇44篇)
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詩篇44篇は、三つのパートに分けられる。
第一のパートでは、トーラーと先祖達からの口伝から聞いた、主の御力の宣言と信仰告白であり、第二のパートでは、自分たちが苦しめられ卑しめられている事を主に訴えており、第三のパートでは、そのような現状から救い、購って下さる事を願い求めている。

今、災いに遭って苦しんでいるとするなら、その原因は即座に「その人の罪のゆえだ」、と、ヨブの友人たちのように思いがちであるが、必ずしもそうとは限らない。
正しい事をしているのに、主との関係は良好であるにもかかわらず、迫害され苦しめられる事がある。そして、その事が起こるとするならば、それは、主の許可の元で行われているのだ。
特に黙示録にその記述がある。

終わりの時代、サタンの配下の獣に権威が「与えられ」、また聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを「許され」、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威も、「与えられる」。
このような、神の民からすれば望ましくない権威は、神が許可されるからこそ、彼らにそれが可能なのである。(黙示録13章)

これは決して、神がいたずらにサタンの勢力を用いて、聖徒達を苦しませる事が目的ではない。
人には全て、自由意思が与えられている。
その自由意思を用いて、イエス・キリストを主として認め、神の側につく事が出来るし、あるいは、イエス・キリストが主である事を拒否し、自分の欲望のままを生き、結果的に、サタンの側につく事もできる。

サタンの配下につく者達は、その自由意思を活用しなければ、聖徒に戦いは挑まないし、彼らを殺す事もしない。しかし、もし彼らが聖徒達に戦いを仕掛け、殺そうとするなら、それは神から「許されている」事なので、それは成功する。
しかし、こうして与えられている自由意志を用いて、敢えて、聖徒達に戦いを仕掛け、聖徒達を意図的に殺したとするならば、もう彼らには弁解の余地はなくなる。
彼らが悪い実を結んだ「毒麦」である事が明らかにされたのであり、それによって、彼らが永遠の業火へ投げ入れられる事が確定するのである。
そして、死に至るまでも忠実を尽くした聖徒には、永遠のいのちと決してしぼむ事の無い栄光の冠の報いが確定するのである。

詩篇44:1 神よ、いにしえ、われらの先祖たちの日に、あなたがなされたみわざを/彼らがわれらに語ったのを耳で聞きました。
44:2 すなわちあなたはみ手をもって、もろもろの国民を/追い払ってわれらの先祖たちを植え、またもろもろの民を悩まして、われらの先祖たちをふえ広がらせられました。
44:3 彼らは自分のつるぎによって国を獲たのでなく、また自分の腕によって勝利を得たのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたのみ顔の光によるのでした。あなたが彼らを恵まれたからです。

作者はまず、出エジプトの時代に主がなさった不思議を引き出して、主が成されたみわざに思いを馳せている。
そして3節では、この救いが成就したのは、自分の手によるのではなく、主の御腕のわざである、と告白している。
そう、主は力強きお方である。

詩篇44:4 あなたはわが王、わが神、ヤコブのために勝利(イエシュアハ)を定められる方です。

ここで「勝利」と訳されたヘブライ語は「イエシュアハ」、「主は救い」という意味であり、同時にイエス様の名前そのものである。
ここに、イエス様がいるのだ。
ヤコブは、他人のかかとを掴んで人から奪いながら生きる者だが、彼の名は後にイスラエルになった。
神は、ヤコブのためにイエシュアハ(イエス様)を定められる方である、と書いてある。それ故、ヤコブを祝福しイスラエルの名を与えたのは、イエス様だと思われる。

詩篇44:5 われらはあなたによって、あだを押し倒し、われらに立ちむかう者を、み名によって踏みにじるのです。
44:6 わたしは自分の弓を頼まず、わたしのつるぎもまた、わたしを救うことができないからです。
44:7 しかしあなたはわれらをあだから救い、われらを憎む者をはずかしめられました。
44:8 われらは常に神によって誇り、とこしえにあなたのみ名に感謝するでしょう。〔セラ

私達も、イエス様の御名によって敵を倒し、イエス様の御名によって悪魔サタンを踏みにじるのである。
私達は、自分の力や経験、ことばの力、世的なやり方によって、自分を救う事は出来ない。
ただイエス様にあってこそ、救いが確定している。ここを離れては、罪に対し、サタンに対し、勝利者として生きる事ができない。

神は確かに力ある御方だ。圧倒的な力をもって敵を根絶やしにする事は、神にはいつでも出来るが、9節以降は、厳しい現状が記されている。

詩篇44:9 ところがあなたはわれらを捨てて恥を負わせ、われらの軍勢と共に出て行かれませんでした。
44:10 あなたがわれらをあだの前から退かせられたので、われらの敵は心のままにかすめ奪いました。
44:11 あなたはわれらをほふられる羊のようにし、またもろもろの国民のなかに散らされました。
44:12 あなたはわずかの金であなたの民を売り、彼らのために高い価を求められませんでした。
44:13 あなたはわれらを隣り人にそしらせ、われらをめぐる者どもに侮らせ、あざけらせられました。
44:14 またもろもろの国民のなかにわれらを笑い草とし、もろもろの民のなかに笑い者とされました。
44:15 わがはずかしめはひねもすわたしの前にあり、恥はわたしの顔をおおいました。
44:16 これはそしる者と、ののしる者の言葉により、敵と、恨みを報いる者のゆえによるのです。

敵が力を増して聖徒達を圧倒する。もし自分たちに神の御前に非があるとするなら、災いは受けて当然であるが、詩篇44篇は、このパターンに当てはまらない。
主に対し誠実であっても、苦難を受け、災いに遭ってる。そういう事が、あるのだ。
コラの子たちは、災いに遭ってはいても、「われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。」と告白している。

詩篇44:17 これらの事が皆われらに臨みましたが、われらはあなたを忘れず、あなたの契約にそむくことがありませんでした。
44:18 われらの心はたじろがず、またわれらの歩みはあなたの道を離れませんでした。
44:19 それでもあなたは山犬(タニーム)の住む所でわれらを砕き、暗やみをもってわれらをおおわれました。

ここで「山犬」と訳された語タニームは、KJVではドラゴンと訳され、他にも蛇、モンスター等の意味もある。
すなわち詩篇44篇の彼らは、ドラゴンの住む所で苦しめられている状況だ。
まさに、黙示録13章と同じ状況であり、そして主はそのような状況を許可する事がある。
その状況で求められる事は、忠実である。

黙示録2:13 わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。

神の民が、神の許可の元、サタンに苦しめられる時は、必ず期間が定められている。
サタンとその勢力は、永遠に好き放題できるわけではない事は、先に説明したとおりであり、主は必ずその後、聖なるものには永遠にしぼむ事のない報いを、サタンに属する者達には、永遠のさばきを降される。

詩篇44:20 われらがもしわれらの神の名を忘れ、ほかの神に手を伸べたことがあったならば、
44:21 神はこれを見あらわされないでしょうか。神は心の秘密をも知っておられるからです。

20−21節は仮定法で書かれている。
という事は、彼らは神を忘れたり、他の神へと裏切った事はなかった、という事だ。

詩篇44:22 ところがわれらはあなたのためにひねもす殺されて、ほふられる羊のようにみなされました。

彼らは、「あなた(神)のために」このような災いを受けている、と告白している。
神のために、四六時中悩まされ、ほふられる羊のように見なされる。
それは私達の主イエス様が体験され、そして私達キリスト者にも起こりうる事だ。

しかし、望みを失う必要は一切ない。
そのような困難にあったとしても、新約を生きる私達は、キリストにあって圧倒的勝利者となる希望がある。

ローマ8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

キリスト者が患難に、苦悩に、迫害に、飢えに、裸に、危難に、剣に悩まされる事は、確かにあるが、たとえその最中にあったとしても、圧倒的勝利は私達の側にある。
私達を愛してくださった方の故に。
何者によっても引き離されない、主キリスト・イエスにある神の愛故に!

詩篇44:23 主よ、起きてください。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。われらをとこしえに捨てないでください。
44:24 なぜあなたはみ顔を隠されるのですか。なぜわれらの悩みと、しえたげを/お忘れになるのですか。
44:25 まことにわれらの魂はかがんで、ちりに伏し、われらのからだは土につきました。
44:26 起きて、われらをお助けください。あなたのいつくしみのゆえに、われらをあがなってください。

詩篇の作者は、最後に、われらを購って下さい、と締めている。
私達は、キリスト・イエスにあって、既に贖われている。

1コリント6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
6:20 あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。

私達のいのちは、イエス様によって買い戻された。という事は、私達のこのからだ、このいのちは、もはや私達のものではない、という事である。
そうであるからには、この体を、時間を、能力を、エネルギーを、経済を用いて、神の栄光を表すべきである。
このサタンに支配されてしまっている地上に、神の栄光と支配をもたらして行くために。

あなたの光とまこととでわたしを迎え、聖なる山へ連れて行ってください(詩篇43篇)
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詩篇43篇の内容は、42篇と同様、悪しき者の支配で礼拝が遠ざけられ苦しんでいる人の祈りである。
42篇の祈りの内容は、悪しき者に虐げられ礼拝が妨げられた状態のうめき、あえぎを主に訴える祈りであったのに対し、43篇になると、そのような悪しき者を主に訴える「攻撃的な祈り」に転じている。

詩篇43:1 神よ、わたしをさばき、神を恐れない民にむかって、わたしの訴えをあげつらい、たばかりをなすよこしまな人から/わたしを助け出してください。
43:2 あなたはわたしの寄り頼む神です。なぜわたしを捨てられたのですか。なぜわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか。

悪しき者によって大上段から虐げられる時、あたかも、彼らの方が分があって私達の側に非があるかのように思わせられるが、欺かれてはならない。
「神の民」は、「神を恐れない民」「たばかりをなすよこしまな人」からの、不当な虐げに対しては立ち向かうべきであり、礼拝から離れさせる状況、あるいは人は、主へと訴えるべきだ。
しかしこのような悪しき者が力を奮って支配している状況で、悪しき者をじっと見続け、その事を思い巡らし続けているなら、どんどん心が病んでしまう。

詩篇73:1 神は正しい者にむかい、心の清い者にむかって、まことに恵みふかい。
73:2 しかし、わたしは、わたしの足がつまずくばかり、わたしの歩みがすべるばかりであった。
73:3 これはわたしが、悪しき者の栄えるのを見て、その高ぶる者をねたんだからである。

詩篇73篇の作者・アサフは、悪しき者が豪勢な暮らしぶりをして栄えている様を、じっと見た結果、どんどん心が病んで行ってしまった。
私達も、悪しき者に目を留め続けるとするなら、そのようになってしまう。

詩篇73:4 彼らには苦しみがなく、その身はすこやかで、つやがあり、
73:5 ほかの人々のように悩むことがなく、ほかの人々のように打たれることはない。
73:6 それゆえ高慢は彼らの首飾となり、暴力は衣のように彼らをおおっている。
73:7 彼らは肥え太って、その目はとびいで、その心は愚かな思いに満ちあふれている。
73:8 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高ぶって、しえたげを語る。
73:9 彼らはその口を天にさからって置き、その舌は地をあるきまわる。
73:10 それゆえ民は心を変えて彼らをほめたたえ、彼らのうちにあやまちを認めない。
73:11 彼らは言う、「神はどうして知り得ようか、いと高き者に知識があろうか」と。
73:12 見よ、これらは悪しき者であるのに、常に安らかで、その富が増し加わる。

世の中に目を向けると、確かに、悪しき者がはびこって、何ら罰を受ける事なく、栄えているのを見る。
アサフはそれをじっと見、思い巡らし、研究した結果、それをすればするほどに、心が病んで行った。

詩篇73:13 まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。
73:14 わたしはひねもす打たれ、朝ごとに懲らしめをうけた。
73:15 もしわたしが「このような事を語ろう」と言ったなら、わたしはあなたの子らの代を誤らせたであろう。
73:16 しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはわたしにめんどうな仕事のように思われた。

アサフは、自分が主の御前で正しくきよく歩み続けた事を、「いたずらに」「めんどうな仕事」と言って、子らの代を誤った道へ導いてしまう危険もはらむほどになった。
しかし17節で、アサフは転換点を迎える。

詩篇73:17 わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうであった。

アサフの転換点、それは、神の聖所へ入った事だ。
神の聖所、すなわち礼拝を捧げる所に入り、神の視点の理解に至る時、全ての煩いがクリヤされる。

詩篇73:18 まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。
73:19 なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。
73:20 あなたが目をさまして/彼らの影をかろしめられるとき、彼らは夢みた人の目をさました時のようである。

彼は、神の聖所における神との交わりにおいて悪しき者の最後をさとり、健全なる神の道を歩んでいた自分は正しかったのだと、一瞬で悟ったのだ。
そして、悪どい者に目を向け続けていた自分こそ、獣のような者であったと気づき、告白している。

詩篇73:21 わたしの魂が痛み、わたしの心が刺されたとき、
73:22 わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。
73:23 けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。
73:24 あなたはさとしをもってわたしを導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。
73:25 わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。
73:26 わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。
73:27 見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。
73:28 しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。

このように神の聖所へ入り、主を礼拝する事によって、悪しき者に心乱される事から救われ、主の栄光に預かり、そして天においても地においても全てを超えておられる主こそが自分のゆずりである、と、霊において一瞬にして癒やされ、健全にされた。

私達は、悪しき者を見つめたり研究したりしてはならない。
ソロモンは「人の悪や愚かさ」を研究し、分類し、調べ見極めようとした結果、悪や愚かさに飲み込まれてしまった。(伝道者の書7:21-25)
彼が植物や自然を研究している内はまだ良かった。それらは主が創られたものであり、じっくり見るなら見る程癒されるものだが、罪深い人や愚かな人は、一緒に居れば居る程、調べれば調べる程、病むものだ。
私達がじっと目を留め続けるべきは、進行の創始者であり完成者であられるイエス様であり、そして主の御言葉をこそ研究すべきである。

詩篇43:3 あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に/わたしをいたらせてください。(O send out thy light and thy truth: let them lead me; let them bring me unto thy holy hill, and to thy tabernacles. )

詩篇43篇の作者は祈っている。
あの聖なる山へ、主の住まいへと、私を連れて行ってください、「主の光とまこと」という車で迎えに来て、神とわたしとが出会うあの聖なる山まで、わたしを連れて行ってくれますように、と。

43:4 その時わたしは神の祭壇へ行き、わたしの大きな喜びである神へ行きます。神よ、わが神よ、わたしは琴をもってあなたをほめたたえます。

神の祭壇は、犠牲を捧げる所、自分を捧げる所である。
神は霊とまことをもって礼拝する礼拝者を求めておられ、からだ全体(ソーマ:肉体、魂、霊)を捧げる礼拝を捧げるべきである。(ローマ12:1-2)

そして、自分のたましいに向かって、言い聞かせるのである。

43:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

健全なる主から目を離し、悪者に目を向け続けるなら、どんどん病んで行ってしまう。
しかし、いかなる状況であっても、聖所に入り、主との交わりに入るなら、全てを超越しておられる主から、全てを超越した助けと解決をいただけるのである。

雅歌書講解説教
まことの主人からさらに優れた飾りで飾られるために(雅歌1:10-17)
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雅歌書には男女の愛が記されており、特に1章では、新婚の若者らしい本当にみずみずしい愛が記されている。
前回は、花嫁は自分がぶどう畑の見張りに無理やりにさせられ、黒くなってしまった、と嘆いたが、しかし花婿の評価は「美しい」、と言うものだった。
そして、わたしがどこにいるかを知りたいなら、羊達の足跡についてきなさいと。
私たちもイエス様の羊たちの後について行って、まことの羊飼いイエス様の傍で、イエス様に言われた通りに雌やぎを飼う。そのように、御声に聴き従って従順して行くなら、ますます花婿との関係は良好になって行き、花婿はますます良いものをプレゼントしてくれるようになる。
花嫁が、花婿の御声について言ったならば、9節の言葉が与えられる。

雅歌1:9 わが愛する者よ、わたしはあなたをパロの車の雌馬になぞらえる。
自分の愛する女性を、とてもたくましく、筋肉が隆々としているパロの戦車馬になぞらえるのは、ちょっと不思議に聞こえるかもしれない。
この「パロの戦車」は、よく訓練され、とても従順である。出エジプト記を見ると、パロの戦車馬は、火の柱が立っていても、紅海の水が割れても、それでも、パロの命令に従って飛び込んでいった。
主人が「行け」と言えば行き、飛び込めと言えば飛び込んでいくほどに、よく訓練され、いらない身勝手さも削ぎ落とされ、忠実に主人の声の通りに行っていくのが、パロの馬である。
この花婿が「パロの雌馬になぞらえよう」と言ったのは、この女性は、よほど主人に対する従順さが成長している様を褒めそやしたのだろう。

女性が筋肉隆々でたくましい事も、ある種の美しさはある。
腹筋、背筋を鍛える事にはいくらかの有益はあるが、男性である主人に喜ばれる筋肉は、「聞き従う筋」のたくましさである。
「主人の声に従順であること」において鍛えられて行く事こそ、私達の主人イエス様が、私達・花嫁へ求めておられる事である。
主の御声によく聴き従う、主人に服従することにおいて鍛えられて行くなら、どんどん主からの寵愛を受けるようになっていく。しかし従順さが衰えてしまっているなら、どんどん主の寵愛から離れて行ってしまう。

従順である花嫁に対し、花婿はさらに優れたアクセサリーをプレゼントをする。

雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
1:11 われわれは銀を散らした金の飾り物を、あなたのために造ろう。

彼女は、黒かっただろうし、ある程度の筋肉がついていただろう。しかし花婿は、そんな彼女を、オーダーメイドの飾りで、飾らせてくださった。
従順の度合いが進んで行くにつれて、さらにさらに優れたプレゼントが与えられるのだ。

女性が、男性にとっての喜びとなるためには、自分の好きな飾りを身につけるのではなく、相手の男性から贈られたアクセサリー、男性の好みに合ったアクセサリーを、身につける事だ。
もし贈られても、それを身に付けないなら、相手の男性を重んじていない事になる。

主が私たちに下さるアクセサリーは、皆、主の目に慕わしくなるための「御言葉」の飾りである。

1テモテ2:9-10 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。

私たちは、御言葉で飾るべきであって、世の言葉を飾るべきではない。
私達が御言葉によって飾られるならば、次はますます素晴らしいプレゼントを用意し、どんどん飾りをつけさせてくださる。もし、世の癖、手癖、悪い癖を身につけるならば、そんなものを身に付けたものを、主は、喜ばれない。
もし主が私たちに「御言葉を覚えなさい」と言う「首飾り」が与えられたならば、それを身に付けるべきであり、この行いをしなさい、と言う飾り輪が与えられたなら、それを身に付けるべきだ。

私達が主の御言葉を、どこに飾るべきかが、申命記に記されている。

申命記6:6 きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、
 6:7 努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。
 6:8 またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、
 6:9 またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。

すなわち、主から与えられた御言葉という飾りは、心に、子どもたちに、手に、目の間に、そして家の入り口の柱、門に置くのであり、そしてその飾りは、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、身に着けておくべきものである。

花婿は花嫁の何を慕っているか。
雅歌1:10 あなたのほおは美しく飾られ、あなたの首は宝石をつらねた首飾で美しい。
花婿は、あなたの頬や首は、自分が贈った飾りがついてあるから、美しいと言っている。男性の喜びとは、相手の女性が、自分が贈った飾りを身に着けている事である。
私達も、花婿である主の御前で、自分好みの自前の飾りは外し、主が飾らせてくださる「良き技」「従順」と言う飾り輪を身につけて行くならば、どんどん整えられ、美しく、主から仕立て上げられていく。
続いて、12節以降は、花嫁の側の言葉である。

雅歌1:12 王がその席に着かれたとき、わたしのナルドはそのかおりを放った。
1:13 わが愛する者は、わたしにとっては、わたしの乳ぶさの間にある没薬の袋のようです。

女性の乳房の間は、何人たりとも侵入を許さないところである。
ただ、本当に愛する男性へ、あるいは、本当に愛らしい赤ちゃん以外には、決して明け渡さないところである。
良くない女性は、平気で乳房を他にあらわにしたりする。しかし神の民はそうではない。本当に守るべきところは、守るのだ。
この乳房の間に宿るナルドは、何人たりとも手出しのできない尊い香りで、わたしの愛する方はそのように、何者にも嗅がせたくない尊い香りだ、と言っている。

また没薬とは、物を腐らせないようにする薬であり、良い香りを放つ。
自分の、愛する方へ捧げる愛を、没薬によって腐らせず、いつでもみずみずしい、新鮮な、状態に保っていたい。
そのような願いをもって、彼女は没薬の袋を、乳房の間に忍ばせていて、私の愛する方は、このようなお方です、と言っている。
本当に大切な大切な、他の物には侵入生中さらないところに入れて、あなたに対する愛は、いつまでも腐らないようにしておきたい、と言う願いが込められているのだ。

雅歌1:14 わが愛する者は、わたしにとっては、エンゲデのぶどう園にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。愛する方は、この乳房の間に宿る、物薬の袋のよう。
私たちも、主に対する従順を、服従、愛を、いつまでも新鮮に保ち、それを、何人たりとも侵入を許さない状態に保つようにするべきだ。
主人が飾ってくださる贈り物を、しっかりと身に付ける歩みをしていくならば、主との愛し愛される関係はどんどん成熟し、どんどん親密になっていく。

雅歌1:15 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ。
花婿は感嘆詞をもって花嫁を褒め讃えている。目は鳩のようだ、と。
他の箇所では「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい」とあるが、鳩は素直さの象徴である。
私達は主に対し、鳩のような愛らしい素直な瞳をもって見つめ、聴き従う心を持つべきである。

花嫁は、この褒めそやす声に対し、16節と17節で言っている。

雅歌1:16 わが愛する者よ、見よ、あなたは美しく、まことにりっぱです。わたしたちの床は緑、
1:17 わたしたちの家の梁は香柏、そのたるきはいとすぎです。
この長椅子(エレス:床)とは、カウチのような、ベッドのようなところである。
青々としている(ラアナン)とは、強く盛んな、あるいは、みずみずしい、春の木々のようによく茂っている事である。

新婚の夫婦のベッド、そこは夫婦が一つとなり、産んで増えて地に満ちていく営みをする所である。
そこが、春の木々のように茂っていくかのように。
私達も、イエス様とますます一つとなり、十字架のイエス様の懐深くにおさまって、イエス様の死と一つとなり、イエス様の復活と同様に復活され、主イエス様のいのちを、産んで増えて地に満ちていくための活動をしていくのである。

確かに新婚の男女にとっては、世界の全てのものがバラ色のようになったような気もするが、これは、私達と主との関係においても同じである。
主に愛し、主に愛されている関係であるなら、世界がとても変わったものに見える。
何もかも美しく、みずみずしく、若々しく育っていく。

主の御声に聴き従って歩んでいくならば、どんどん主から飾らされ、美しくされ、鷲のように若々しくされていく。
アブラハムとサラの夫婦は、100歳と90歳であったが、しかし子供を生み出す力が与えられ、また、サラは89歳であったにもかかわらず、美しさのゆえに、異邦の王に略奪結婚させられてしまった。
そのようなことが実際に起きる。

イエス様との関係が、結婚したばかりの男女のようにみずみずしく、若々しくなっていき、ますます主から飾られ美しくされていく皆さんでありますように!
主から与えられた言葉を、喜んで自分の心・思い・手のわざへと飾りつけ、主の喜びとされて、ますます優れた飾りで飾られていく皆さんでありますように!
麗しい方、イエス様のお名前によって祝福します!

鹿が水の流れを慕うごとく(詩篇42篇)
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詩篇42篇からは詩篇の第二巻にはいる。
詩篇の第二巻のテーマは、開放と贖いについてであり、モーセ五書の出エジプト記に当たる。
モーセ五書は神の命令の書であるが、それに対し詩篇五巻は、律法の生活適用篇で、いかに具体的に日常生活の中で神との関わりを持っていくべきか、このようなケースではどう祈って対処して行くべきか、記されている。
出エジプト記の最初は、奴隷状態にあるイスラエルから始まった。
それと同様、詩篇第二巻も同様に、神の宮から遠く離れて敵に好き放題されている状況から、主を慕いあえいでいる作者の心情吐露の詩によって始まる。

詩篇42篇表題「聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌」

マスキールとは、32篇8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり、またアモス書5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある。(聖書注解)
コラの子による、と表題にあるが、学者達の間では、作者はダビデで、サウル王あるいはアブシャロムによって追い回されている状況、とも考えられている。

詩篇42:1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。

作者は、何らかの理由で、主を礼拝する場所・エルサレムから、かなり地にいて、礼拝が出来ない状況の中から、主を礼拝したいという切望があらわれている。
ダビデがアブシャロムに追われている場面であるとするなら、ちょうど第二サムエル記15章の状況であろう。

2サムエル記15:24 そしてアビヤタルも上ってきた。見よ、ザドクおよび彼と共にいるすべてのレビびともまた、神の契約の箱をかいてきた。彼らは神の箱をおろして、民がことごとく町を出てしまうのを待った。
15:25 そこで王はザドクに言った、「神の箱を町にかきもどすがよい。もしわたしが主の前に恵みを得るならば、主はわたしを連れ帰って、わたしにその箱とそのすまいとを見させてくださるであろう。

ダビデはアブシャロムにエルサレムを明渡して都落ちして行くが、彼は信仰によって、必ずこの場所に再び戻り、再び主の箱の前で礼拝が捧げられる事を信じて、箱をエルサレムに戻すように指示した。
彼は、絶望はしていなかった。ただ、全て自分の状況を、全面的に主に委ね、主に望みを置いたのだ。

詩篇42:2 わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。
42:3 人々がひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は/わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。

ダビデは、アブシャロムから逃げる道すがら、ずっとシムイという者に呪いの言葉を浴びせ続けられ、石を投げられ続けた。
ダビデはその中でも告白している。

2サムエル記16:11 ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。
16:12 たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」

ダビデは、自分が好き放題に呪われている状況にあっても、全てを見て聞いて知っておられ、そして、やがて正しく報いて下さる主に、全てを委ねた。

詩篇42:4 わたしはかつて祭を守る多くの人と共に/群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、わが魂をそそぎ出すのである。

主を喜ぶ兄弟姉妹と一緒に、主の宮にのぼる時のうきうき感は、本当に、主を慕い求めている人にはよくわかる喜びの感覚である。ダビデもまさにそうだったし、全て礼拝する事に喜びを見出す人にはそうである。
そして、その慕い求める主が、礼拝できない時の飢え渇きがいかほどであるか、ちょうど、鹿が、水が無くて谷川を慕い求めるかのような感覚である事も、聖徒達が共有できる感覚である。

42:5 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

彼はうなだれ、心は思い乱れている状況であるが、彼自身ではその心の状況を、そのまま放置する事はしていない。
自分のたましいに向かって「神を待ち望め」と言い聞かせている。
確かに心配やいらだちで心乱れている状況では、賛美は到底自分からは出てこない状況だが、そんな状況だからこそ主をほめたたえよう、と、彼は絞り出すように告白している。

私達も自分のたましいを、主にあって支配していくべきである。
乱れた心は、そのまま放置するのではなく、自らのたましいへの言い聞かせによって支配する事が、信仰者には必要だ。なぜなら、信仰告白した内容によって、状況は動くからだ。

詩篇42:6 わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
42:7 あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は/ことごとくわたしの上を越えていった。

この詩篇の作者は、体は宮からはなれ、礼拝に参加できないが、彼がいるヘルモンの山々に流れる川や滝から、また昼と夜の諸々の自然現象の中から、主の御手によるわざを見出して、主に心を向け思いを馳せている。

詩篇42:8 昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神にささげる/祈がわたしと共にある。
42:9 わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。何ゆえわたしは敵のしえたげによって/悲しみ歩くのですか」と。
42:10 わたしのあだは骨も砕けるばかりに/わたしをののしり、ひねもすわたしにむかって/「おまえの神はどこにいるのか」と言う。

敵は相変わらず彼を悩ませている状況である。
しかし彼は、昼には主の恵みを覚え、夜には主へと捧げる歌をささげ、主を「わが岩なる神」と言って切に求めている。

主が必ず礼拝の場へと戻してくださる。
その確信を奮い立たせ、そして信仰の宣言で祈りを終わらせる。

詩篇42:11 わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

主は、主を呼び求める神の民が虐げられたまま放って置かれる事は、なさらない。その祈りを聞き、必ず御手を伸ばして助けてくださる。
出エジプト記がまさにそうであった。
出エジプト記は、主へ叫び求める声を主は聞いてくださり、神の民の敵にさばきを降し、礼拝へと導き、そして、礼拝する場所が建設されて終わった。

神の民は、礼拝する民である。
礼拝の場で、神との出会うことを切望する神の民の呼び声を、主は必ず聞いてくださる。

真っ黒なぶどう畑の見張りから栄光の花嫁へのシンデレラ・ストーリー(雅歌1:5-8)
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1:5 エルサレムの娘たちよ、わたしは黒いけれども美しい。ケダルの天幕のように、ソロモンのとばりのように。

彼女は、自分が黒くなってしまったと言っている。その理由が6節。

1:6 わたしが日に焼けているがために、日がわたしを焼いたがために、わたしを見つめてはならない。わが母の子らは怒って、わたしにぶどう園を守らせた。しかし、わたしは自分のぶどう園を守らなかった。

日に焼けて黒い。なぜそうなったか。それは自分の肉親の子達、すなわち兄や姉がいきりたって、無理矢理彼女に、彼らの葡萄畑の見張り人に仕立てられたからだ。
「しかし彼女は自分の葡萄畑たちを見張ることができませんでした。」と言っている。
畑が複数形、という事は、兄や姉たちの畑たちを見張らなくてはならなかった。
それでいて、自分の(単数形の)葡萄畑の面倒を見る事はできなかった。
それで彼女が黒くなってしまった。というのが、彼女の状況。

日に焼けて黒くなって、女性としての魅力がなくなってしまった、と彼女は思って、それで、私のことをそんなに見つめないでください、と言っているのかもしれない。

しかし「日がわたしを焼いた(シャザフ)」は、直訳すると、わたしは太陽に見つめられた、と訳せる。
本来、自分の葡萄畑を見張って面倒を見るべきが、無理やり他人の葡萄畑を見張るようにされてしまった。自分のぶどうは面倒を見ることも、実らせることもできないまま、ただどんどん黒くなっていくだけ、というのが、彼女の今までだった。

しかし彼女は、黒いけれども美しいと言っている。
美しいとは「似合っている」という意味である。

彼女は、自分のぶどうの面倒を見ることができなかったかもしれない。ただ黒くなってしまったかもしれない、しか少なくとも彼女は、ずっと太陽に見つめられつけていた。
義の太陽であられるイエス様は、彼女をずっと見つめて続けておられた。あの間も、この間も。
そして彼女は、ついに、将来の夫の目に留まり、そこへ嫁いでいく。

まさにシンデレラストーリーである。シンデレラは元々、過酷な継母の元で灰をかぶる程に強制的に働かされ、真っ黒になったのと、意地悪な継母が「cinder(灰)」の娘、シンデレラ、と揶揄したのが元々であるが、やがて王子様に見初められ、王家へと嫁ぎ、素晴らしい王宮に入り、以前の古くて汚い、せまい働き場は全くもって過ぎ去る。
地上で神のために働く全ての「僕(ディアコノス=ディア(くぐる)+コノス(灰))」達は、皆、この壮大なシンデレラストーリーにあずかるのである。

花婿は黒くなった彼女のことを、女性の中でも最も美しい、と言う。
彼女は自分で自分のことを黒い、恥ずかしい、と思ったが、それは花婿とは違う価値観だった。

私たちも同様である。
自分で自分を見つめる評価は重要なのではない。むしろ、真の花婿にどう見られているか、彼がどう私たちを評価するのかこそ大事である。
私たちはいつまでも、他人の葡萄畑を見張り続けているわけではない。
やがて王の王であられるお方、まことの夫であられるお方が、より素晴らしい所へと導いて下さるのだ。

以前は、彼女の母の子供たちが、彼女よりも上の立場、力強い立場だったかもしれない。それで彼女の時間やエネルギーを搾取する事ができた。
しかしそれよりもさらなる上なるお方、王の中の王であられるお方に見初められ、嫁がれて行くなら、もはや以前の支配者たちは、手放さざるを得ない。

だから私達は、まことの夫へと引き寄せられる日に備え、日々しっかりと与えられたことをなすべきである。
私たちも世の中において、あるかもしれない。
世の人たちが、いきり立って、神の子達をこき使い、肝心の自分の畑、自分の家庭を全然見張ることができず、ただ無理やり他の兄弟姉妹の畑の面倒ばかりを見せられ、ただ黒くなってシミやそばかす、シワの類だけが増えて、あたかも無駄に時間をつぶしているかのように感じる事が。
しかしイエス様は変わらず、全部を、ずっと見つめ続けておられる。
主が私たちを呼び出し、召し出して下さるなら、もはや誰かに身勝手に押し付けられる労働や苦労から解放され、愛する方に召し出され、奥の間の交わりへと導かれて行く。

そのために私達がなすべき事が一点ある。
それは、夫なる方に、呼びかける事である。

1:7 わが魂の愛する者よ、あなたはどこで、あなたの群れを養い、昼の時にどこで、それを休ませるのか、わたしに告げてください。どうして、わたしはさまよう者のように、あなたの仲間の群れのかたわらに、いなければならないのですか。

私の愛する方、イエス様、どうか教えてください、どこであなたは羊を飼い、どこで休ませているのですか、なんで私だけさまようような事をしなくてはならないのでしょうか、と。

呼び求めるなら、主は教えて下さる。
私たちを罪の飲み食いから、黒くならざるを得ないところから解放される方法を、そして、花嫁として整えますます美しく仕立てられて行く術を。

黙示録に書いてある。夫のために飾られる花嫁は、天から降って来た、と。
花嫁が整えられる場所は、天である。私達のこの身は地上にいるかのように見えても、主に導かれるなら、私達の霊は天にあり、そこでは世の者は決して触れる事はできない。
この身は地上に居ながらにして、霊は御国におり、御国の平安、安息の内に、主に養われ、御国へと嫁いで行く花嫁として整えられ、飾られて行くのである。

何も私たちが、主に気に入られるために宝石やゴールドを買って飾るのではない。
私たちは主にあって、天的な養いを受け、宝石や首飾りなどで花嫁として美しく
飾られていくの。

そのためには、花婿に呼び求め、その言葉に聞き従っていかなければならない。

1:8 女のうちの最も美しい者よ、あなたが知らないなら、群れの足跡に従っていって、羊飼たちの天幕のかたわらで、あなたの子やぎを飼いなさい。
 
主は語られる。羊の群れの足跡に従ってついてきなさい、と。
私達も、主の羊たちが歩んだ道、すなわち、信仰の先輩たちの足跡ならい、まずついていくことから始まる。
4節にある通り、私を引き寄せてください、私はあなたの後から急いで参ります、と言う姿勢で。
イエス様、私の後についてきて困った時に助けてね、と言う姿勢ではなく、私たちの側が、主のあとについていく、という歩みをしていくべきなのだ。

主について行って、その場所に到達したなら、羊飼いの住まい(ミシュカン)の傍らで、あなたの子山羊を買いなさい、と言われる。
山羊は羊よりもグレードが低いような、角が生えていた逆らう性質があり、前か悪かと言えば、どちらかというと悪に思えるような気もするが、しかし、その子山羊を飼いなさい、と言われる。羊飼いのミシュカンの傍らでう。

ミシュカンとは幕屋、テントの意味だが、モーセの時代以降の礼拝する所もミシュカンという。
私たちが子山羊を買うようなことがあっても、主の天幕(ミシュカン)のそばでそれを飼っているならば、主は私たちを、子山羊飼いから羊飼いにして下さる。
山羊は成長すれば、目がきつくなっていき、 あばれたり突進して来たりするが、子山羊のうちであるならば、主への捧げ物になる。

私達はまず、まことの羊飼いであられる主の羊たちの群れの足跡に、ついていかなくてはならない。ダビデは、主がまことの羊飼いで、私達はその羊だと言った。
だから私達も、ダビデやヨシュア、カレブのような信仰の先輩たちという主の羊達の足跡について行き、まことの羊飼いの幕屋、すなわち礼拝場所の傍らで、主が言われる通りに、子山羊を飼うのだ。それをしっかりとしていくならば、主はさらなる次の整えへと入らせていく。

どうか、ますます世の罪の飲み食いから離れ、キリストの花嫁として整えられ、飾られ、美しくされ、主の麗しい交わり、奥の間での交わりへと導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前よって祝福します!

病の時の祈り(詩篇41篇)
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聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
41:1 貧しい者をかえりみる人はさいわいである。主はそのような人を悩みの日に救い出される。

詩篇41篇は、詩篇第一巻の最後であるが、その最初である詩篇1篇と同じ書き出しである。
1篇の幸いな人は、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人で、あったが、41篇の幸いな人は、貧しい人をかえりみる人である。
1篇では能動的な祝福が、すなわち、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまず、そのなすところは皆栄えるという祝福が約束されていた。
しかし41篇では、悩みの日や病の時に守られる、という、受動的祝福が約束されている。
貧しい人をかえりみる事は、主に貸すことであり、主がその善行に報いてくださるのだ。(箴言19:17)

申命記15:7 あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。
15:8 必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。
15:9 あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。
15:10 あなたは心から彼に与えなければならない。彼に与える時は惜しんではならない。あなたの神、主はこの事のために、あなたをすべての事業と、手のすべての働きにおいて祝福されるからである。
15:11 貧しい者はいつまでも国のうちに絶えることがないから、わたしは命じて言う、『あなたは必ず国のうちにいるあなたの兄弟の乏しい者と、貧しい者とに、手を開かなければならない』。

ヨベルの年になると、負債を免除してやらなくてはならないのだが、それが近づいたと言って、惜しんではならないと主は命じられる。
なぜなら貧しい人を助けるという神の働きに参加するためであり、そして主は、その、施しによって失った分を、補填してあまり余らせて下さるからだ。

41:2 主は彼を守って、生きながらえさせられる。彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。
41:3 主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる。
41:4 わたしは言った、「主よ、わたしをあわれみ、わたしをいやしてください。わたしはあなたにむかって罪を犯しました」と。

人は、弱い。
罪の楽しみへの誘惑に負けて、罪を犯したゆえに、サタンが追いつき、病が災いが追いつく事がある。
敵であるサタン、あるいは悪辣な者達に、あざけられてしまうきっかけを作ってしまう事がある。
ダビデもそうであった。

ダビデはこの詩篇を記した時、病んでいたが、この病の原因は、罪にある、と、ダビデは真っ先に告白している。

41:5 わたしの敵はわたしをそしって言う、「いつ彼は死に、その名がほろびるであろうか」と。
41:6 そのひとりがわたしを見ようとして来るとき、彼は偽りを語り、その心によこしまを集め、外に出てはそれを言いふらす。
41:7 すべてわたしを憎む者は/わたしについて共にささやき、わたしのために災を思いめぐらす。
41:8 彼らは言う、「彼に一つのたたりがつきまとったから、倒れ伏して再び起きあがらないであろう」と。
41:9 わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも/わたしにそむいてくびすをあげた。

ダビデは王である故に、彼の周りには、表向き彼にへつらっているものの、心では全く敬っておらず、ただ利益を得るために利用しようとして来る者がいる。
イスカリオテのユダも、イエス様に対してそうだった。事実、9節は、ユダの事を預言した言葉である。(ヨハネ13:18)
そしてそのような者達は、いざという時に裏切り、敵となって責め立てて来るものである。

しかし、普段からの主に対する信頼と、貧しい人への憐れみが、御前に貯金となって積み立てられており、災いの時、主に呼び求めるなら、主は助けてくださる。

詩篇91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

また、8節で「たたり」と訳された語は、ヘブライ語でベリヤアル、元の意味は「価値がない者」である。
私達は、主イエス・キリストにあって、高価で尊い者であるが、それにひきかえ、裏切る者達や責め立ててくるサタンは、まったくもって「価値が無い者」である。
私達は御言葉に立つ時、キリストにあって価値ある者となり、価値が無いベリヤアル、サタンごときが、どうして責め立ててくるのか、と、正統に対抗できる。

41:10 しかし主よ、わたしをあわれみ、わたしを助け起してください。そうすればわたしは彼らに報い返すことができます。
41:11 わたしの敵がわたしに打ち勝てないことによって、あなたがわたしを喜ばれることを/わたしは知ります。
41:12 あなたはわたしの全きによって、わたしをささえ、とこしえにみ前に置かれます。

12節でダビデは「わたしの全き」と言ったが、私達すべての人間には、全き所は、まったく、無い。
この「全き」は、どういう事だろうか。

私達に罪がある時は、私達の罪をはるかに上回る主のゆるしへと、また病の時は、病から起こして床を畳ませて下さる癒やし主なる主へと、立ち返る事。
状況に関係なく、いつもわたしに与える恵みが常に大きい主を信じ、彼へと立ち返り、まことなる御言葉を信仰をもって宣言する事。
それこそ、「わたしの全き」であり、「わたしの義」である。

ローマ4:18 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。
4:19 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。
4:20 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、
4:21 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。
4:22 だから、彼は義と認められたのである。

詩篇第一巻の最後は、祝祷で終わっている。
同様に、詩篇のそれぞれの巻の終わりは、このような祝祷で終わる。

41:13 イスラエルの神、主は/とこしえからとこしえまでほむべきかな。アァメン、アァメン。

アーメンが反復されている。
アーメンとは、そのとおりです、それは真実です、そうなりますように、という意味であるが、これこそ、私達に御言葉が与えられた時の、正しい応答だ。

集会での詩篇(詩篇40篇)
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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。

主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。

40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。

主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。

そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。

詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。

詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)

詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。

詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。

口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。

11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。

詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。

「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。

詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。

私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。

詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。

ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。

誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。

詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。

主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

雅歌書の中に見出すイエス様との親密な愛の交わり(雅歌1:1-4)
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雅歌1:1 ソロモンの雅歌

雅歌(シール・ハ・シーリーム)は日本語の漢字では、雅やかな歌、と当てられているが、原意は「歌たちの中の歌」である。
花嫁と花婿の詩、娘たちの合唱が呼び交わされる形式で、男女の婚約した時から、結婚に至り、初々しい夫婦生活から、その成熟に至るまでの、男女間の愛の喜びに溢れた表現で描いている。
雅歌書は、聖書の中でも異色の本といえる。
聖書の他の書は、神と人との愛の関係が記されるのが多いものの、雅歌書のように、人同士の、それも男女の愛をうたっている箇所はほとんどないし、また他の書は、感情表現ぬきで淡々と真理が示されている箇所は多いものの、雅歌書に限っては、ふんだんに感情表現がされている。
また、聖書の他の箇所では、神を称え賛美する箇所は多いものの、雅歌書のように、誰か人を、それも、異性をほめ讃える表現は、他の書では皆無だ。
この雅歌書から私達は何を読み解いていくべきか。

日本語で言う所の「愛」は、ギリシア語には4種類がある。
すなわち、フィレオの「友愛」、エストロゲの「親子愛」、エロスの「男女の恋愛」、そして、アガペーの、「神の完全なる究極的な愛」。
フィレオの愛は友愛、エストロゲの愛は親子愛、エロスの愛は男女の恋愛、そして、アガペーの愛は、神の完全な究極的な愛であるが、この雅歌では、主に、エロスの愛を描いている。
このエロスの愛は、強く情欲を駆り立て、うきうきさせる力があるが、自己中心的で、自分が満足したり、自分が気持ちよくなったり、時には奪ったりするものである。
もし相手に性的な魅力を感じなくなってしまったら、いとも簡単に離れてしまう。

世の中には多くの歌があるが、おそらく半数以上は、男女の愛をテーマにしたものではないだろうか。
しかもその愛の歌の中には、心をうきうきさせるよりも、切なくさせたり、悲哀感情へと浸しこませたりするものも、たくさん見受けられる。
神の愛・アガペーは、それらとは方向性が真逆で、人のした悪を思わず、自分が得る事を思わず、ただ人を大切にする愛である。

このエロスの愛で満ちている雅歌書は、聖書的に意味が無いのかというと、そうではない。
この世の有様は、全て天の実体の陰であり、男女の愛も、そうである。
雅歌のこの愛の模様は、私たち教会、すなわち、キリストの花嫁と、キリストと言うまことの花婿との関係の雛形として見ていく時、雅歌書はキリストと教会の関係において、非常に豊かな示唆を与えてくれる。
しかしもしキリストなしにこの雅歌書を読むなら、ただの恋愛ドラマや、官能小説と変わりはなくなってしまう。

この書は、あまりに男女の愛の喜びを楽しみを赤裸々に散りばめているので、これが果たして聖書の一巻としてふさわしいのかどうかと言う議論も成された。
しかし、神の国には当然、愛し愛されるゆえの喜びがあり、楽しみが存在する。
世の宗教では、男女の愛を何か汚れたものとして見る所もあるが、キリストにあっては、捨てるべきものは何一つ無い。
キリストを交えて見るなら、この雅歌書はとても美しく、麗しい、好ましいものである。

雅歌1:2 どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。あなたの愛はぶどう酒にまさり、
1:3 あなたのにおい油はかんばしく、あなたの名は注がれたにおい油のようです。それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

最初から早速、官能的な表現で始まるように見えるが、この「口づけ(ナーカシュ)」、もともとの意味は結びつける、(武器などを)装着する所から、「口づけ」になった。
私たちはここから、キリストの花嫁としての立ち位置、キリストを装着し、キリストを着たい、キリストと一体化したい、という感情を共有する事ができる。
イエス様が、私とひとつになってくださったら良いのに、と感情として思うのは、正常なキリスト者の願いである。
そのイエス様の愛は、ぶどう酒よりはるかに優れた心地よさだ、という感覚を、理解できるだろうか。
私達が「イエス様」と呼ぶたびに、イエス様の愛を感じ、その麗しさ、甘さが、香り高い香油のように、喜ばしさをともなって心に満ち満ちていく。
その感覚は、正常なキリスト者の感覚である。それを理解できない、とするなら、単にキリスト教を宗教として生きているだけである。

雅歌1:4 あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。

ここに、私達とキリストとの正しい立ち位置が記されている。
私たちはイエス様のあとを従って行くものであり、決してその逆ではない。
イエス様が行ったなら、私達は彼から離れずに、急いで彼についていく。それがイエス様との正しい位置関係である。

普段は自分の好き勝手にやって行って、何か困った時だけ、神を取り出して助けてもらおうとしたり、あるいは自分が願う事を叶えてもらうためだけに神を持ち出すような、そんなふうに、神を何か便利な四次元ポケット的なものとみなすのは、イエス様を主とした歩みではない。
イエス様は、この雅歌書の乙女にとって大好きな男性のように、私達にとってうるわしい主人であり、私達はただ彼の後からついて行き、彼の願われる事を行い、彼がしてはならないと言われた事はしない、そして、彼がしなさいと言われた事を行う。
それが正しい私達の歩みであり、その歩みをするならば、イエス様は私たちを「奥の間」へとエスコートし、そこで親密な愛の交わりへと導いて下さる。

そこには、「楽しみ喜び」があり、それは、ぶどう酒に遥かにまさるものだと書いてある。
ここの「楽しみ」と訳されたヘブライ語ギール(あるいはグル)は、元の意味は「くるくる回る」、そこから嬉しさ、喜びのあまりに踊り上がる事をあらわし、「喜び」と訳されたヘブライ語サマハ(ク)は、顔が喜びにぱーっと輝く様をあらわしている。
子犬が主人に久しぶりに会った時、ぴょんぴょん飛び跳ね、くるくる回って喜び叫び踊るような感覚である。

女性が、慕い求めている男性に、エスコートされ、奥の間に親密な愛の交わりへと連れて行かれる時、まさに、このギールやサマクの感覚ではなかろうか。
私達がキリストに対して描く感覚も、同じである。
イエス様に伴われ、普段の人には到底入れない聖なる所での、聖なる親しい交わりへと導かれて行く事は、キリスト者にとって、この上もない喜びである。

神を礼拝する場所、神殿や幕屋には、至聖所と呼ばれる「奥の間」がある。
そこは絶対的に聖なる領域で、普通の人間は決して入れない。
しかしイエス様は、十字架の上で、ご自身のからだを裂かれる事により、私達にそこへの道を開いて下さった。

私達は「肉体」という外面を持っており、それに対し「霊」という「奥の間」を持っている。
神は霊であるから、私達は霊とまことによる礼拝をする事を求められている故に、私達はこの肉体だけを礼拝に参加させるのではなく、霊とまことをもって主を礼拝するべきである。

そうであるなら、たとえ体は礼拝する場ではない所に、例えば職場や不信仰に満ちた家の中にいたとしても、霊においては主と交わっていて、「奥の間」における主との交わりにある。
その時、どこでも主にある喜び、楽しみに入る事ができる。
たとえ、私達を殺そうとする迫害者に取り囲まれている時でも、決して揺るがされるものではない。
ステパノがまさに、殉教される直前、キリストとの霊における奥の間の交わりに入っていた。

イエス様との正しい位置関係を持ち、イエス様の後から急いでついて行って、奥の間へと導かれ、そこにで霊における親密な愛の交わりに入って、世の何者にも決して揺るがされない平安と喜びの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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