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聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)
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- pastor 2021-10-19 19:11
エゼキエル書講解説教
聖なる任務を帯びる祭司に求められること(エゼキエル44:15-31)
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エゼキエル44:15 しかしザドクの子孫であるレビの祭司たち、すなわちイスラエルの人々が、わたしを捨てて迷った時に、わが聖所の務を守った者どもは、わたしに仕えるために近づき、脂肪と血とをわたしにささげるために、わたしの前に立てと、主なる神は言われる。
エゼキエル44:16 すなわち彼らはわが聖所に入り、わが台に近づいてわたしに仕え、わたしの務を守る。
通常のレビ人は、もはや、この新しい神殿の聖所での奉仕には預かれない事が、前回示された。
その理由は、彼らは本来、聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものときよいものとの区別を、教えなければならなかった、はずなのに、彼らはそれを教えず、むしろ、民の罪、民の俗っぽさに、染まってしまかったからだ。
しかし、ツァドクの祭司の子孫は、そのようでなく、主の前に誠実を尽くした。
それで、ツァドクの子孫が永遠に、主の御側近くで祭司の務めをするものとして、栄光の任務が与えられた。
今回の箇所は、ツァドクの子孫が、祭司として、聖所で仕える際に気をつけるべき事が定められている。
ここに記されている規定は、出エジプト記やレビ記からいくつかピックアップされているが、その内訳は、特に、祭司たる者は、きよさと聖を保つべき事、汚れを帯びないようによく気をつけるべき規定に、特化されている。
なぜなら、祭司たるものは、主の最も近くで奉仕する者であり、人々の前で、主の聖であられる事を表し、主の栄光を示さなければならないからである。
彼らはもはや、以前、レビ人達が犯した過ちを、もう繰り返さないようにしなくてはならない。
エゼキエル44:17 彼らが内庭の門にはいる時は、麻の衣服を着なければならない。内庭の門および宮の内で、務をなす時は、毛織物を身につけてはならない。
エゼキエル44:18 また頭には亜麻布の冠をつけ、腰には亜麻布の袴をつけなければならない。ただし汗の出るような衣を身につけてはならない。
祭司が務めに入るために、聖なる領域に足を踏み入れる際、その聖なるつとめ専用の服に着替えてから入るべき事が示されている。
そこでは、毛織物を、すなわち、世の方法で血が流されて作られた着物を、身に着けてはならない。
動物の血が流されるようになったのは、エデンの園において、人が主のたった一つの戒めを破って以来だった。
また、人が、汗を流して土地を耕さなければならなくなった、というのも、人が神のことばに逆らい、女の言葉に従った故だった。
祭司は、人の前には神の代理として立ち、また、人の代表として神の前に立つ故、エデンで犯した神の言葉に対する違反の刈り取りを、身に帯びて、その務めに入ってはならない。
彼らは、罪のいけにえによって、贖われ、清められた状態で、つとめに入るからだ。
エゼキエル44:19 彼らは外庭に出る時、すなわち外庭に出て民に接する時は、務をなす時の衣服は脱いで聖なる室に置き、ほかの衣服を着なければならない。これはその衣服をもって、その聖なることを民にうつさないためである。
神の民は、確かに聖なる民ではあるが、この祭司の服は、さらに聖なるものである。
「聖」とは「切り分けられた」事の意味がある。
神の民は、世から切り分けられた者たちであり、そして祭司は、その中からさらに切り分けられた者たちであり、特に、聖所における働きは、そうである。
その、聖なる服を身につける事によって、聖所に入ることが出来るほどの「切り分けられた」服を着たままで、世の、俗なる者たちの前に出て、民を聖なるものとしてしまうなら、どうなるか。
祭司のように、聖と俗をわきまえない者たちが、聖別されてしまったとしたら、彼らがその身で俗なる所に行き、罪を犯し、その聖さを冒すなら、彼らが咎を負う事になってしまう。
エゼキエル44:20 彼らはまた頭をそってはならない。また髪を長くのばしてはならない。その頭の髪は切らなければならない。
男子が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであると、自然自体が教えている。(1コリント11:14)
また、頭を剃る行為は、死人を悼む行為と直結している。(後述)
エゼキエル44:21 祭司はすべて内庭にはいる時は、酒を飲んではならない。
アロンの子ナダブとアビフは、おそらく、ぶどう酒に酔った状態で聖所に入って、主の前に異なる火を焚き、主の前で焼き殺されてしまった事が、レビ記10章から見る事ができる。
レビ記10:1 さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、
10:2 主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。
10:3 その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。
10:4 モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。
10:5 彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。
10:6 モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。
10:7 また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。
10:8 主はアロンに言われた、
10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。
以上のように、祭司は、聖なるつとめに入る際、「死ぬ事の無いように」、ぶどう酒や濃い酒を飲んではならない。
主は、「わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現す」と言われたからだ。
祭司は、聖なる油注ぎを受けた故、聖なる場、聖なる位置を離れてはならないし、また、死んだ行いや、死んだ者に、関わってはならない事が、レビ記10章に書かれてある。
エゼキエル44:22 また寡婦、および出された女をめとってはならない。ただイスラエルの家の血統の処女、あるいは祭司の妻で、やもめになったものをめとらなければならない。
この事は、レビ記21:7にも書かれている。
『彼らは淫行で汚れている女をめとってはならない。また夫から離婚された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖であるから。』
祭司は、神に対して聖(切り分けられた者)であるので、きよさを保たなければならない。
一般のやもめや、一般の離婚された女は、既に、以前の「一般の男」を知っており、すなわち、既に世俗と結合されてしまっているので、「聖」である事が要求される祭司には、嫁ぐ事はできない。
だから、もしそれが祭司のやもめであるなら、めとってもよい、と言われている。
祭司はなぜ、ここまで、きよさを追求しなければならないのか。
その理由が以下に示されている。
エゼキエル44:23 彼らはわが民に、聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない。
ここでは「教えなければならない」というキーワードが、2回繰り返し強調されている。
そう、祭司たるものは、神の言葉、律法を「教え」なくてはならないからだ。
祭司こそ、一番、聖なるものと俗なるものを切り分け、汚れたものときよいものとの区別しなくてはならない存在である。
前回の所では、それをしなければならないはずのレビ人が、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせ、そうして聖なる領域に汚れを持ち込んでしまった故に、彼らにはペナルティが課せられた。
本来、聖と俗を切り分け、汚れたものときよいものの切り分けを、教えるべき立場の者が、俗物となり、また汚れていたなら、会衆全体が、聖さを見失い、俗物となってしまう。
だから、祭司は、特に、きよさと聖を身に着けなくてはならないのだ。
エゼキエル44:24 争いのある時は、さばきのために立ち、わがおきてにしたがってさばき、また、わたしのもろもろの祭の時は、彼らはわが律法と定めを守り、わが安息日を、聖別しなければならない。
祭司が、世の裁判官の役割をする理由は、彼らが神の法律を一番知っているからである。
神の民は、世の仕方、世の裁判、人間の思考で、世の裁判官にさばきを委ねてはならないのだ。(1コリント6章)
エゼキエル44:27 彼は聖所に入り、内庭に行き、聖所で務に当る日には、罪祭をささげなければならないと、主なる神は言われる。
祭司は、罪のためのいけにえを捧げて、罪の問題を解決したからこそ、聖なる務めに入ることができるのだ。
エゼキエル44:28 彼らには嗣業はない。わたしがその嗣業である。あなたがたはイスラエルの中で、彼らに所有を与えてはならない。わたしが彼らの所有である。
祭司が受け継ぐ、相続の土地は、この地上には、無い。
主ご自身が、相続地であるからだ。
彼らは畑を耕したり、海に出て漁をして食料を得るものではない。
神の働きをして、食を得る者である。
エゼキエル44:29 彼らは素祭、罪祭、愆祭の物を食べる。すべてイスラエルのうちのささげられた物は彼らの物となる。
エゼキエル44:30 すべての物の初なりの初物、およびすべてあなたがたのささげるもろもろのささげ物は、みな祭司のものとなる。またあなたがたの麦粉の初物は祭司に与えよ。これはあなたがたの家が、祝福されるためである。
ここに、「あなたの家に祝福が宿るため」と書いてある。
祭司の食物を絶やさないなら、祭司は立派に務めあげる事が出来、心置きなく祝福を祈る事ができるからである。
イサクが心置きなく祝福できたのは、おいしい食で満腹したからだった。
エゼキエル44:31 祭司は、鳥でも獣でも、すべて自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べてはならない。
祭司が食べて良い動物は、ただ、主に捧げられるためにほふられたもの、である。
世の方法で血を流し、殺したものは、祭司は食べてはならない。
以上、主の御そば近くで仕えるべき者の標準は、世の標準とは全く違っていた。
私達もまた、王族の祭司とされた者として、自らをきよめ、聖別するべきである。
1ペテロ
1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。
主の働き人として採用される人と、そこから除外されてしまう人(エゼキエル44:1-14)
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- pastor 2021-10-18 11:55
前回までの所で、主は、新しい神殿の寸法や構成を示し、聖と俗とを切り分けるべき事を、示された。
その、聖と俗とを切り分ける領域は、外庭のさらに外側の、縦横五百さおの正方形の領域であった。(エゼキエル42:20)
それが定められると、東向きの外門から、神の栄光が入ってきた。(43章)
エゼキエル44:1 こうして、彼はわたしを連れて、聖所の東に向いている外の門に帰ると、門は閉じてあった。
エゼキエル44:2 彼はわたしに言った、「この門は閉じたままにしておけ、開いてはならない。ここからだれもはいってはならない。イスラエルの神、主が、ここからはいったのだから、これは閉じたままにしておけ。
エゼキエル44:3 ただ君たる者だけが、この内に座し、主の前でパンを食し、門の廊を通ってはいり、またそこから外に出よ」。
東向きの門(外庭の東向きの門)を、閉じたままにしておかなければならない理由は、イスラエルの神・主が、ここから入られたから、である。
そこでは、ただ、君主(民の上に立つ者)だけが特別に、主の前でパンを食べるために座る事ができる。
エゼキエル44:4 彼はまたわたしを連れて、北の門の道から宮の前に行った。わたしが見ていると、見よ、主の栄光が主の宮に満ちた。わたしがひれ伏すと、
エゼキエル44:5 主はわたしに言われた、「人の子よ、主の宮のすべてのおきてと、そのすべての規定とについて、わたしがあなたに告げるすべての事に心をとめ、目を注ぎ、耳を傾けよ。また宮にはいることを許されている者と、聖所にはいることのできない者とに心せよ。
神殿には、主の栄光が満ちている。
主の臨在があり、主の栄光がある神殿における「おきて」と「規定」について、主は、「心」に留め、「目」を注ぎ、「耳」を傾けて、「心せよ」、と言われたからには、私達も心するべきである。
続く節から、その内訳を要約すると、その神殿において、念入りに注意すべき事とは、汚れが入り込まないように、という事であり、その宮に入って奉仕ができる者と、宮に入れても、聖所には入れない者の区別が示されており、そして、なぜ「入れない」者が出たのかの理由が、以下に示されている。
エゼキエル44:6 また反逆の家であるイスラエルの家に言え。主なる神は、こう言われる、イスラエルの家よ、その憎むべきことをやめよ。
エゼキエル44:7 すなわちあなたがたは、わたしの食物である脂肪と血とがささげられる時、心にも肉にも、割礼を受けない異邦人を入れて、わが聖所におらせ、これを汚した。また、もろもろの憎むべきものをもって、わが契約を破った。
イスラエルの家全体は、神殿の中に、あらゆる忌み嫌うべき事を持ち込んで、主の怒りを引き起こした。
その様は既に、8章で示されていた。
そして、それらを持ち込んだ者とは、「心にも肉にも割礼を受けていない異邦人」であった。
その異邦人は、何が聖であり、何が俗であるのかもわきまえず、何が主に忌み嫌われるのか、という知識も無いため、主への恐れも無く、また御言葉に違反しているということも気づかないまま、大盤振る舞いして、神の忌み嫌うものを持ち込み、忌み嫌うべき事を行ったのだ。
しかも、異邦人が神殿で仕事をしてよいと許可したのは、最も神殿のきよさを守らなければならないはずの、レビ人だった。
現代の教会で、罠に陥りやすい事として、世の中では有能であっても、聖書の内容を知らず、神を恐れるという事を知らない人を、教会の要職につけてしまう、という事がある。
私達は、心の割礼を受けていない、肉に従って判断し行動する人を、教会の要職に据えてはならない。
そうでないと、なまじ「できる人」の説得力ある言い分によって、御言葉が阻害され、どんどん霊的にあさってな方向へ進ませ、気づいた時にはエゼキエル8章の状態になりかねないからだ。
神の国の事柄において、重要な事は、仕事のできる・できないではなく、神を恐れる心を持っているか・いないかである。
パウロは、肝心なのは「御霊による心の割礼」である、と書いている。
ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
現代の教会における奉仕において重要な事は、肉に従うのではなく、御霊によって突き動かされる奉仕である。
その誉れは、人に依らず、神から来る。
エゼキエル44:8 あなたがたは、わが聖なる物を守る務を怠り、かえって異邦人を立てて、わが聖所の務を守らせた。
本来、レビ人、すなわち、主の働き人が、果たさなければならない聖なる務めを、彼らは果たさず、その代わり、割礼を受けていない異邦人を、働きに据えてしまったのだ。
エゼキエル44:9 それゆえ、主なる神は、こう言われる、イスラエルの人々のうちにいるすべての異邦人のうち、心と肉とに割礼を受けないすべての者は、わが聖所にはいってはならない。
現代、私達は、御霊による心の割礼が無い人を、奉仕者に立てたりして、礼拝を汚してはならない。
以上のように、汚れた価値観の者を、取り締まらず、のさばらせて、聖なる領域に汚れを持ち込ませたレビ人に対してのペナルティが、続く節に記されている。
エゼキエル44:10 またレビ人であって、イスラエルが迷った時、偶像を慕い、わたしから迷い出て、遠く離れた者は、その罪を負わなければならない。
本来、神から迷い出た人を、真っ先に連れ戻すべきは、レビ人たちなのに、彼ら自身が、主から迷い出て、離れて行ってしまったのだ。
それでレビ人たちは、その罪を負わなければならなくなってしまった。
エゼキエル44:11 すなわち彼らはわが聖所で、仕え人となり、宮の門を守る者となり、宮に仕えるしもべとなり、民のために、燔祭および犠牲のものを殺し、彼らの前に立って仕えなければならない。
エゼキエル44:12 彼らはその偶像の前で民に仕え、イスラエルの家にとって、罪のつまずきとなったゆえ、主なる神は言われる、わたしは彼らについて誓った。彼らはその罪を負わなければならない。
彼らは本来、11節のとおり、主の宮の門を、汚れた者からガードしなければならない、はずだった。
しかし彼らはガードせず、汚れた者・無割礼のものを素通りさせ、その結果、主の宮は偶像礼拝だらけになり、8章のような惨憺たる有様になってしまったのだ。
私達は、教会という「主の宮」を、ガードしなければならない。
もし、ある兄弟姉妹が、教会や交わりに、汚れを持ち込もうとするなら、主の働き人である私達は、ガードするべきである。
そして、私達自身という「神殿」を、私達自身が、ガードしなければならない。
主の宮である私達自身の家庭や職場に、人間関係に、また、私達の電子機器の中に、汚れを持ち込ませてはならない。
そのガードをしないで、神殿を魑魅魍魎の温床にしてしまったレビ人に対するペナルティ内容が、以下にある。
エゼキエル44:13 彼らはわたしに近づき、祭司として、わたしに仕えることはできない。またわたしの聖なる物、および最も聖なる物に、近づいてはならない。彼らはそのおこなった憎むべきことのため、恥を負わなければならない。
エゼキエル44:14 しかし彼らには、宮を守る務をさせ、そのもろもろの務と、宮でなすべきすべての事とに当らせる。
レビ人は、主の宮の雑務に当ることは許されるが、祭司として、聖所で仕えることは出来ない。
私達も、汚れをガードしないままであるなら、主の働きの主要部分を任される事は、決して、無い。
たとえ人がそれを許しても、主が、その人を跳ね除けてしまわれるのだ。
神の国で、重要な働きを許可される人とは、たとえ、周囲がどんなに堕落したとしても、本人自身は、主に誠実を尽くし、忠実を尽くした人、のみである。
ツァドクの子孫であるレビの祭司が、まさにそうだった。
彼らは、イスラエル全体がいかに堕落しても、忠実に主に仕えたため、彼らだけは、聖所に入って重要な奉仕をする事ができる。(エゼキエル44:15-16)
私達は、時代がどうあれ、ツァドク一族のように、御言葉に記されている事を誠実に守り行うべきだ。
そうするなら、この終わりの時代、神の国を建て上げるために大いに、用いられる器として、用いられる用意が整うからだ。
詩篇講解説教
心底、主を慕い、あえぎ求めた、コラの子による詩篇(詩篇84篇)
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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
コラといえば、荒野で人々を扇動してモーセに逆らい、クーデターまがいの事をした者だった。
彼は巧みに多くの有力者を味方につけ、多くの人々が彼になびいた。
しかし、コラの天幕の下の地面は避け、彼は、天幕や持ち物もろとも、生きたまま地の底に下ってしまった。
結局、神ご自身が直接、彼らを退けた事を明らかにされたのだ。
しかし、コラの子たちは、生き残った。
なぜ、生き残れたのか?
いかに父親が、人々をそそのかす者であったとしても、彼らは心底、主を慕い求める心を持っていたため、その天幕に近づかなかったからである。
それで、コラの子の子孫からは、あの有名な預言者であり、キングメーカーであるサムエルが生まれた。
さらにコラの子たちは、素晴らしい数々の詩篇を生み出す。
鹿が水の流れを慕うごとく、私のたましいは主を慕います、という詩篇42篇や、
この舌は麗しき主をなめらかに語り告げる「巧みな書記の筆」です、という詩篇45篇、
また、「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と、ガールズ・ソプラノに歌わせた、力強い信仰告白の詩篇46篇など。
彼らが作った詩篇には、心の底から主をあえぎ、慕い求める事を歌ったものが多い。
この84篇も、彼の主を慕いあえぐ心が、ふんだんに表されている。
詩篇84:1 万軍の主よ、あなたのすまいはいかに麗しいことでしょう。
詩篇84:2 わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います。
彼は、魂、心、身をもって、すなわち、全身全霊で、主を慕い、喜び、賛美する志を持っている。
パウロは、これこそ私達も為すべき「理に適った礼拝」だ、と言っている。
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだ(ソーマ:肉体・魂・霊の全部)を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な(ロギコス:理に適った)礼拝である。
私達も、主の宮・教会に行く時、自分の思い・心・からだ・意思・感情、全てを、聖なる捧げものとして、携えて行く時、主はその礼拝者を、喜んで受け取ってくださる。
詩篇84:3 すずめがすみかを得、つばめがそのひなをいれる巣を得るように、万軍の主、わが王、わが神よ、あなたの祭壇のかたわらに/わがすまいを得させてください。
詩篇84:4 あなたの家に住み、常にあなたをほめたたえる人はさいわいです。〔セラ
彼は、雀やつばめが、主の家に巣を作っている様子を、うらやんでいる。
今も、嘆きの壁に行くと、アマツバメや鳥たちが巣を作っているのを見る事ができる。
嘆きの壁は、かつての神殿の壁の一部であった。
現在も、ユダヤ人は、その壁の修復工事において、アマツバメの巣の位置を損なわないよう考慮して、修復するようにしている。
つばめは、神殿の壁の隙間に巣作りして、卵を産み、子育てし、やがて成長すると、南国へと旅立って行き、そして、季節が巡って来ると、彼らが育った神殿に再び戻ってきて、巣作りし、卵を産み、、、という営みを、数千年も繰り返して来た。
コラの子たちは、そんなつばめを心底、羨ましい、と思った。
私達も、主の宮に巣作りし、子を産んだら、主の宮で育て上げ、そして成長したなら、遠くで身を立たせ、成功し、そして再び主の宮に戻ってきて、いのちの育みをする、そのような営みを、世々限りなく続けて行くべきなのだ。
詩篇84:5 その力があなたにあり、その心がシオン(צִיּוֹן)の大路にある人はさいわいです。
シオン(צִיּוֹן)とは、エルサレムの別名であり、特に神殿のある町を意識する事が多い。
なお、ヘブライ語から導き出される霊的意味は、私達・イエス様を信じる者である。
A צִיּוֹןのツァディצは「釣り針」、ユッドיは「手」、ヴァヴוは「釘」、ヌンןは「魚」を意味する。
A’ すなわち、イエス様の十字架の「釘」づけられた「手」という「釣り針」に引っかかった「魚」を、イエス様を信じる者と言う。
心にシオンへの大路がある人は、主の宮に礼拝に行こう、主の宮に戻りたい、と切望する思いが開通している。
すなわち、力の源を主に置いている人で、そのような人は、どんな時代になっても、どんな状況に置かれたとしても、大丈夫である。
詩篇84:6 彼らはバカ(בָּכָא)の谷を通っても、そこを泉のある所とします。また前の雨(モーレ:秋の雨)は池をもってそこをおおいます。
詩篇84:7 彼らは力から力に進み、シオンにおいて神々の神にまみえるでしょう。
バカ(בָּכָא)の元の意味は「バルサムの木(バーカー)」であるが、樹脂や水分をしたたらせる性質があるので、「泣く者」とも呼ばれるため、文語訳や古代訳(70人訳、シリヤ語訳)は、涙と訳している。
私達の人生も、涙の谷を通るような、つらい時期があるかもしれない。
しかし、心の中に、主の宮への、すなわち礼拝への直通通路がある人は、涙の谷さえ、泉が湧く所とし、そこを主が雨で潤して下さり、そして、力から力へと進まされ、ついには、シオンにおいて神とまみえるようになるのだ。
詩篇84:8 万軍の神、主よ、わが祈をおききください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。〔セラ
詩篇84:9 神よ、われらの盾をみそなわし、あなたの油そそがれた者の顔をかえりみてください。
「われらの盾」「油そそがれた者」とは、王の事であり、ユダヤにおける王とは、神から権威を代行して行う者として、油注がれた者である。
その自分たちを統治する王が、神様の御心にかなった、祝福された統治をしますように、という願いがある。
私達にとって王とは、イエス様であり、私達の王であるイエス様の名前によって祈る祈りを、主は、聞いてくださる。
詩篇84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。
コラの子たちの主な奉仕は、門衛であるが、門衛は神殿の中にではなく、ずっと外に立ち続ける奉仕ではある。
しかし、少なくとも主の近くにおり、そして、主の宮と礼拝者を守る役に立っている。
そうであるからには、世のいかなる所にいるよりも、遥かに有意義である。
彼は、「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさる」と言った。
つまり、主を慕い焦がれる心をもって、主の宮・教会にいる一時間は、世にいる千時間にまさるのだ。
私達は、どれくらい、主を慕い焦がれ、どれくらい、教会で過ごして来ただろうか。
ちなみに私は、10年以上、教会に入り浸って奉仕をして来たので、私は既に、一万年にまさる充実した日々を生きている、と、自負している。
彼は言った。
「わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。」
そう、悪の天幕には、災いがつきものである。
コラの天幕は、彼もろとも地面が裂け、落ちていってしまった。
しかしコラの子たちは、父の悪に加担せず、その天幕から離れていたから、生き残った、という事を、忘れてはならない。
詩篇84:11 主なる神は日です、盾です。主は恵みと誉とを与え、直く歩む者に良い物を拒まれることはありません。
日は、全ての生き物に恩恵をもたらしており、私達は、太陽が無ければ、生きられない。
主は太陽のように、私達を光で照らし、暖かさで照らし、必要を満たし、健やかにして下さるお方である。
そして主は、私達の盾である。
盾が無いなら、敵の攻撃をすぐに受けて、やられやすい。
しかし、主は完全な盾で、この御方に依り頼むなら、決してやられる事は無い。
詩篇84:12 万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。
主の民、主の奉仕者である事の「幸い」とは、何だろう。
確かに、主の民・主の奉仕者は、世において成功し、物質的・経済的にも祝福を受けるが、それにまさる幸いがある。
それは、主の御側近くにいる事、主ご自身がわたしの相続である事である。
詩篇講解説教
主の救いが来るまで黙っていてはならない(詩篇83篇)
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歌。アサフの賛歌
83:1 神よ、沈黙を守らないでください。神よ、何も言わずに、黙っていないでください。
状況としては、イスラエルに敵する者たちが、共に連合してイスラエルを包囲している状況である。(5-8節)
最も助けが必要な状況なのに、神様はあたかも「沈黙」を続けているような。
もしも、神が沈黙しているかのように感じるとしたら、ます私達の側に何か過ちは無かったかを探るべき時である。
神を慕い求めていない、という事が、ずっと続いていなかったか?
私達の中に、神との隔てとなっている罪が無かったか?
もし「罪」だと示されている事があるにもかかわらず、それをそのまま放置したままであるなら、どんなに「下さい、下さい」と連発しても、無駄である。
しかし、もし思いあたる罪は何もなく、御前で何ら”やましさ”が無いのに、突然、攻撃する者が襲って来たような時は、黙っていてはならない。
そのような時は、神様に、しきりに祈り求めるのだ。
イザヤも言った。
イザヤ62:1 シオンの義が/朝日の輝きのようにあらわれいで、エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、わたしはシオンのために黙せず、エルサレムのために休まない。
・・・
62:6 エルサレムよ、わたしはあなたの城壁の上に見張人をおいて、昼も夜もたえず、もだすことのないようにしよう。主に思い出されることを求める者よ、みずから休んではならない。
62:7 主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられるまで、お休みにならぬようにせよ。
イザヤが主に祈り続けると、主からんお答えがあって、その答えは、とても素晴らしい内容だった。
すなわち、もはや彼らが労して得た産物は、敵によって、決して奪われる事はなく(同8節)、確かに主の救いが来て、そして今までの働きの報いが確かに報われ(11節)、彼らは『聖なる民、主に贖われた者』ととなえられ、『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられるようになる(12節)。
人は、何か、危機的な状況に陥った時、条件反射的に、人や事、物に、頼りどころを探すものだが、私達・神の民は、そうあるべきではない。
真っ先に、主に求め、主の前で誠実であるべきだ。
アサフもまた、この危機敵状況を、主に訴えた。
83:2 見よ、あなたの敵は騒ぎたち、あなたを憎む者は頭をあげました。
83:3 彼らはあなたの民にむかって巧みなはかりごとをめぐらし、あなたの保護される者にむかって相ともに計ります。
83:4 彼らは言います、「さあ、彼らを断ち滅ぼして国を立てさせず、イスラエルの名を/ふたたび思い出させないようにしよう」。
主の民に敵対する者達は、悪賢いはかりごとを巡らし、主の民を消し去ろうとしている。
5-8節に、その色々な民族の名が出て来るが、それらに記されている者達は、まさに、イスラエルの東、西、南、北に位置する者達であり、彼らは心ひとつにしてイスラエルを破壊しようと、たくらんでいる。
まさに、四面楚歌の状態である。
なお、8節をみると、ロトの子ら(モアブとアモン)が、指揮を取っていたようである。
ヨシャパテ王の時代も、ロトの子らが共謀し、海の砂のような大軍を率いて攻め込んできた。
ヨシャパテ王は、当初、主の目に適う政治を行っていた。(2歴代誌17章)
しかし、北イスラエル王国と和を結ぶことを急ぐあまり、主の目にはなはだ悪を行っていたアハブ王の娘と、自分の子とを、結婚させてしまった。
神の民は、悪辣な者と、決して婚姻関係を結んではならない。
なぜなら婚姻とは、相手とひとつになる事であり、そして息子、娘、子孫たちは皆、その相手の血を半分いただいていく事になるからだ。
結局ヨシャパテは、アハブの身勝手な思惑に利用されて、散々目にあった後(同18章)、おびただしい大軍が彼の王国に攻め寄せて来る事になる。(20章)
彼はその時、断食の集会を開いて、信仰告白し、そして御言葉を盾にして祈った結果、主は救って下さり、しかも、ぶんどりに3日もかかる程、多くのものを得て、彼の名声は周辺諸国に鳴り響いた。
確かに、自分の罪ゆえに、災いに遭う事はある。
しかしその時、悔い改めて、主に切に祈り続けるなら、主はその災いを、幸いへと転じてくださった事例が、聖書には多々ある。
詩篇83:9 あなたがミデアンにされたように、キション川でシセラとヤビンにされたように、彼らにしてください。
83:10 彼らはエンドルで滅ぼされ、地のために肥料となりました。
83:11 彼らの貴人をオレブとゼエブのように、そのすべての君たちを/ゼバとザルムンナのようにしてください。
これらの出来事は、いずれも、士師記4‐8章に記された出来事である。
アサフは、かつての士師記の時代、主がなさったわざに思いを馳せ、その出来事をイメージしつつ、祈ったのだ。
私達も、聖書の出来事に、思いを馳せ、その御言葉と自分とを信仰によって結びつけて、祈るなら、その時代に起きた主のわざを、救いを、信仰によって今の私達へと引っ張ってくる事ができるのだ。
詩篇83:12 彼らは言いました、「われらは神の牧場を獲て、われらの所有にしよう」と。
昔も今も、「神の牧場」に汚い手を伸ばし、わがものにしようとする者たちは、確かに存在する。
神の民は、祝福される故に、妬まれて、その祝福を奪おうとして、企む者たちが。
そのような時、私達も、信仰の先人にならって、主が救いをもたらして下さるまで、黙ることなく、主を呼び続けるのである。
詩篇83:13 わが神よ、彼らを巻きあげられるちりのように、風の前のもみがらのようにしてください。
83:14 林を焼く火のように、山を燃やす炎のように、
83:15 あなたのはやてをもって彼らを追い、つむじかぜをもって彼らを恐れさせてください。
アサフは、風や火、炎、疾風などの、自然を支配される神が、敵にさばきを下してくださるように、と祈っている。
しかし、単に「敵を滅ぼして下さい」という事で、祈るべきではない。
詩篇83:16 彼らの顔に恥を満たしてください。主よ、そうすれば彼らはあなたの名を求めるでしょう。
確かに、神の民を蹂躙し、神の民の畑を奪おうとするような者達は、恥に満たされ、打たれて、然るべきである。
しかし主は、彼らが打たれた後、悔い改めて、主に立ち返る事をこそ、望んでおられる。
ヨシュアの時代も、滅ぼされるべきギブオン人が、主に立ち返った時、主は、彼らを救われた。
むしろ主は、彼らを救うために、太陽や月さえも止めて、敵を滅ぼし、そうして主の栄光が、大いにあらわれた。(ヨシュア記9-10章)
詩篇83:17 彼らをとこしえに恥じ恐れさせ、あわて惑って滅びうせさせてください。
83:18 主という名をおもちになるあなたのみ、全地をしろしめすいと高き者であることを/彼らに知らせてください。
今の時代も、主を恐れない者たちや、まことの神に敵対する国、王たちは、多い。
私達は、主の御名が侮られないために、また、神の民を蹂躙する罪を犯させないために、彼らが主の前で恥を見、懲らしめを受け、そうして、主はあなどられるようなお方ではない、という事を思い知り、そして、救いに導かれるように、と、祈る事も、また必要である。
詩篇講解説教
「あなたがたは神々(エローヒム)である。」これいかに?(詩篇82篇)
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この詩篇は、不正や悪を行っている権威者や指導者たちに対する警告であり、真の裁判官であられる神が真のさばきを行う事を示す内容である。
しかしこの箇所は、異端が「人も神になる」という強引な解釈をするための裏付けとするために引用される事も多々あるため、詳しく見て行きたい。
82:1a 「神(1)」は「神(2)」の会議のなかに立たれる。「神(3)」は「神々(4)」のなかで、さばきを行われる。
(1)の「神」の原語は、エロヒーム(אֱלֹהִים)である。
あの天地を創造した三位一体のまことの神、として用いられるのがメインだが、崇高な者達の意味があり、時には、行政を行う人に対し尊敬を込めて「エローヒム」と呼ぶ事もある。(ストロング辞書)
つまり、ユダヤでは、裁判する人が「エローヒム」(いわば「神々」)と呼ばれる事があるのだ。
なお、KJVでは、エローヒムをジャッジ(士師、裁判官)と訳した箇所は、5回ある。(Exo_21:6, Exo_22:8, Exo_22:9, Exo_22:9, 1Sa_2:25)
(2)の「神」の原語は、エル(אֵל)。元々は、力、強さ、という意味だが、そこから天地を創造した三位一体のまことの神と訳される。
(3)の「神」は、原文には無くて、日本語聖書の補助的意訳である。
(4)の「神々」は、エロヒームである。
つまり、ここで用いられているエローヒムという語は、全能の神の事をあらわすものではないし、天使たちや神に似た霊的存在の事でもない。
もしここのエロヒームが、そうした超人間的・霊的崇高な存在なら、7節の内容と矛盾する事になる。
そもそも、そのような存在は、3−4節に書かれてあるような、人の間で裁判なぞ、していない。今までの歴史で、人の裁判に、超人間的・霊的崇高な存在が裁判したなぞ、聞いた事は無い。
だから、1節のエローヒムは、必然的に「人間の裁判官」の事を言っており、1節は、次のように訳す事が妥当であろう。
「崇高な者達は、力強き集会の中に立ち、裁判官たちの間で裁判を行う。」
2節以降では、そのような「エロヒーム(裁判官)」と呼ばれている人間達が、不正な裁判をしている現状を、詩篇の作者が責めているのだ。
82:2 「あなたがたはいつまで不正なさばきをなし、悪しき者に好意を示すのか。〔セラ
82:3 弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。
82:4 弱い者と貧しい者を救い、彼らを悪しき者の手から助け出せ」。
ここでは「さばき(シャファット)」が頻出している。
すなわち、ここはエロヒーム(裁判官達)と呼ばれる者達に対する指摘である。
あなた方は、いつまで不正な裁判をしているのか、神の民をさばく裁判官たる者は、むしろ、公平な裁判をし、弱い人達を救い出すのが仕事ではないか、と。
82:5 彼らは知ることなく、悟ることもなくて、暗き中をさまよう。地のもろもろの基はゆり動いた。
彼らは、自分が悟りがなく、暗闇の中をさまよっている事さえ知らない。
しかし、彼らがしている不正な裁判によって、地は、揺れ動いているのだ。
82:6 わたしは言う、「あなたがたは「神(5)」だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。
82:7 しかし、あなたがたは人のように死に、もろもろの君のひとりのように倒れるであろう」。
(5)の「神」もエローヒムであるが、前後の内容から、人間の裁判官たちが自分たちはエロヒーム、いと高き者たちであるかのように振る舞ってはいても、結局は人のように死んで倒れる、という事を言っている事がわかる。
イエス様は、この7節を引用された事があり、その事も、異端がよく勝手な解釈している箇所である。
その箇所は、ヨハネ10章である。
ヨハネ10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」
10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
上記、34,35節で「神々」と訳されたギリシア語は、セオス(神)の複数形であるが、セオスの複数形の特殊用法として、「神の代理者、神を代表して裁きを行うさばきびと」と訳す事がある。(織田昭著 新約聖書ギリシア語小辞典)
この箇所は、イエス様の痛烈な皮肉が込められている。
そしてその皮肉の内容は、ヘブライ語・ギリシア語ではわかるが、日本語ではわかりにくく、訳し方によっては、多くの人の誤解を招きかねない内容である。
その「皮肉」とは、「エロヒーム」や「セオス」には、「神」と「裁判官」という二つの意味があるヘブライ語・ギリシア語圏の人にしか分からない「当て字的皮肉」であり、それ以外の原語では、その皮肉は通じにくい。
紐解いていこう。
イエス様は、まごう事なき、全能の父なる神の御子であり、「わたしと父は一つです」と、30節で示された。
そう、私達クリスチャンは、イエス様は生ける神の御子、キリストであると認め、信じている。
しかし、ユダヤ人の主だった人たちは、イエス様をキリストとは認めず、「自称」神の御子だと言って冒涜している、と言った。
そんな彼らに対し、イエス様は、くだんの詩篇82篇を引用して、痛烈に批判したのである。
すなわち。
あなたたちの「裁判官」でさえ、エローヒム(神々)と言われて、神扱いもされもしているが、それでいてあなたたちは、裁判の中においては、不正も働いている。
そんな現状なのに、あなたたちは、彼らエロヒームと呼ばれている裁判官には、「冒涜している」とは言わずに、かえって、何も悪い事をしていないわたしに、さらには、キリストである証拠のしるしや奇跡を示した、このわたしに対しては「冒涜」と言っている、と。
事実、イエス様は石打にされるような悪い事は何一つ行っていない事を、彼らは認めているし(33節)、またイエス様は、キリストである事を示すために、多くの証拠のしるしや奇跡を起こし、多くのよいわざを為した。
そういうわけで、イエス様は、まさに今この場面において、彼らが行っている「不当な裁判」について、
そのまんまの事が書かれてある詩篇82篇を引用し、彼らの欺瞞を暴いたのだ。
彼ら自身は、神に代わって正当な裁判をしなくてはならない、というのに、自分たちの不正には目をつぶっていて、それでいて、真に神の御子・キリスト・イエスには、冒涜罪を着せようとしている!と。
ところで、今までの歴史で、多くの異端は、これらの記事を自由に解釈し、人は神になる、と言って来たが、果たして聖書は、人間は、神と同等、あるいは同質になれる、という事が、言いたいのだろうか?
全く逆である!
聖書が、より多くの分量を割いて、命じている事は、そのように高ぶってはならない、という事だ。
むしろ、自分を低くし、神の御前にへりくだるように、という趣旨のほうが、多く書かれてある。
そのような中から、このような、わずかな箇所をフォーカスし、つまみ上げて、「人は神になる」と高々に言う者は、どこから来た者達であるのか。
聖書は指摘している。
自分を高く上げ、自分を神のようにしようとする者、賛美と栄光を自分に集めようとする者は、サタンに類する者である事を。
エデンにおいて、蛇(サタン)がエバを誘惑した内容は、「あなたは神のようになれる」だった。
サタンはまた、「自分は天に登ろう、はるか上に王座をもうけ、いと高き方のようになろう」と、心の中で言った故に、投げ落とされた。(イザヤ14:13-15)
パウロも言っている。
終わりの日には、背教を起こす者が起こり、その者は自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言するから、誰も騙されないようにしなさい、と。(2テサロニケ2:3-4)
私達は確かに、イエス様を信じて神の子とされた。
それは、私達が神のように高くなって、ふんぞりかえって、栄光と賛美を自分へ集めるため、では決してない。
むしろ、神の代理として、正しいお方から権威が与えられ、それを行使して、正しく世をさばき、弱い人達を救い出すのが、私達の仕事である。
神の子になる、とは、きよさにおいても、誠実においても、柔和さにおいても、キリストらしくなる、という事である事を、忘れてはならない。
ルカ6:35 しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。
エペソ5:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。
5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。
5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
講解説教
主に聞き従いさえすれば(詩篇81)
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聖歌隊の指揮者によってギテトのしらべにあわせてうたわせたアサフの歌
この詩篇は、3節に「新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ」、とあるので、第7月の新年の祭りの時に宣言されていた事が考えられる。
「祭り(モエド)」とは、主が約束された時間、主が約束された場所における、約束された会合の事、である。
レビ記は祭りに関する定めが詳細に示されており、そこから分かる事は、主が定められた時間、場所、定められた仕方に従って、主と出会うなら、主の祝福や罪のゆるしを正当に受けられる。
しかし、主の定められた時間や場所、やり方を蹴って、自分勝手な時間、場所、仕方を貫くなら、その人は主の保証は受けられず、あらゆる面で負け続ける人生となってしまう。
詩篇81:1 われらの力なる神にむかって高らかに歌え。ヤコブの神にむかって喜びの声をあげよ。
詩篇81:2 歌をうたい、鼓を打て。良い音の琴と立琴とをかきならせ。
詩篇81:3 新月と満月とわれらの祭の日とに/ラッパを吹きならせ。
詩篇81:4 これはイスラエルの定め、ヤコブの神のおきてである。
主の祭りや礼拝、すなわち、「主の前」という場におけるマナーは、「喜ばしく」ある事であり、主はそれを「おきて」として定めた、と4節にある。
主と出会う場においては、あらゆる歌や楽器、テクニックを駆使し、喜びつつ、主を褒め称えるべきなのだ。
私達には、主を喜ぶべき相当な理由がある。
続く節で示されている。
詩篇81:5 神が出てエジプトの国を攻められたとき、ヨセフのなかにこれを立てて、あかしとされた。わたしはかしこでまだ知らなかった言葉を聞いた、
ヨセフが、兄の暴虐によってエジプトに奴隷として売られ、ポテファルの妻の嘘によって牢に入れられた物語を見るに、多くの人は思う。
なんて運がなかったのだろう、まるで、かろうじて首がつながっている様子だ、と。
しかし、5節を読むと、全くそんな事ではないことが分かる。
実は、なんと、神があらかじめヨセフよりも先んじてエジプトへ行って、ヨセフの進むべき道を、用意しておられた、というのだ!
彼は奴隷として売られ、牢獄に入れ、しかしその後、エジプトの総理大臣となって、ヤコブの一家をイスラエル民族へと建てあげるシステムづくりをするために、彼を用いるために。
確かに、彼が奴隷になったのも、牢に入れられたのも、人の悪意によるものだった。
それは100%、悪い事である。
しかし主は、人が打ったあらゆる悪手も、あらゆる悪意も、最善へと変えて下さるお方なのだ!
もし私達も、ヨセフのように、人のした悪を思わず、主を信じ、日々、誠実を養うなら、主はヨセフのように用いて下さるのだ。
詩篇81:6 「わたしはあなたの肩から重荷をのぞき、あなたの手をかごから免れさせた。
ヨセフは最初、奴隷仕事で、他人の重荷を置い、他人の荷かごを運んでいた。
しかし主は、彼をそこから離させ、むしろ神の国の建てあげのために、人々に命令するものとされた。
主は彼をパロの父とし、エジプトの支配者として、主に用いられて、ヤコブの一家を、イスラエル民族として建てあげる者としてくださった。
主はヨセフだけでなく、イスラエルをも、奴隷仕事から開放し、他人の重荷を負う者から、主の重荷を負う者へと変え、エジプト人の荷かごを運ぶ者から、主の御言葉を運ぶ者としてくださった。
奴隷から総理大臣の地位になれば、すごいサクセスストーリーだと思うかもしれない。
しかし、総理大臣になる事がサクセスではない。
総理大臣になったとたん、好き勝手をして、主の御心を損ねる総理大臣になってしまっては、サクセスの「真逆」極まりない。
彼は、主から総理という地位に入れられた時、主の御旨を成す者となって、神の国を建てる事に、与えられた権威を用いてこそ、本当にサクセスである。
詩篇81:7 あなたが悩んだとき、呼ばわったので/わたしはあなたを救った。わたしは雷の隠れた所で、あなたに答え、メリバの水のほとりで、あなたを試みた。〔セラ
イスラエルが出エジプトした後、主は荒野で、彼らをためされた。
その荒野は、岩砂漠地帯で水が全く無い所、そこで1週間もさまよえば、確実に死んでしまいかねないような所である。
そこにおいて、彼らはためされたが、結局、主は彼らを助け、主の栄光をあらわして下さった。
詩篇8節は、これでもか、というくらいの強調宣言である。
詩篇81:8 わが民よ、聞け、わたしはあなたに勧告する。イスラエルよ、あなたがわたしに聞き従うことを望む。
「聞け(シェマー:シャーマアの命令形)」で始まり、「聞け(シャーマアの未完了態:継続して聞き続ける)」で終わる。
主のことばに「聞く」事、それは、神の民にとって最重要のたしなみである。
その、「聞け(シャーマア)」でサンドイッチされた中身は、「勧告する(オド:繰り返す:証する)」である。
だから8節は、
「聞け。明かしする。聞け。
であり、これから命じられる言葉は、最重要事項として心せよ、という事である。
詩篇81:9 あなたのうちに他の神があってはならない。あなたは外国の神を拝んではならない。
主の他に、他の神々があってはならない。
それは、十戒で真っ先に命じられている禁止事項であるが、この節に2回出てくる「神」のヘブライ語は「エル」、それは「力」「崇高なもの」という意味である。
つまり、あなたは、主なる神を置いて、他に力あるものや崇高なものを、主なる神以上のものとして存在させてはならない、という意味である。
今まで無かった、目新しい力や、テクノロジーなどを、神以上に、頼りどころとしてはならない、という事である。
なぜなら、私達を救って、永遠のいのちへと招き入れたのは、最新テクノロジーではなく、イエス様だからだ。
詩篇81:10 わたしはエジプトの国から、あなたをつれ出したあなたの神、主である。あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。
十戒本文も、「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」という言葉で始まった。(出エジプト記20:2)
そうである。
私達を、世というエジプト、サタンというパロの奴隷状態から救い出して下さったのは、まことに主である。
それを忘れてはならない。
主は言われる。
口を大きく開けよ、と。
私達が、主を賛美するために、また御言葉を口ずさむために、口を大きく開けるなら、主はそこに最良の甘いもので、満たして下さる。
しかし。
続く節に「しかし」、とある。
詩篇81:11 「しかし」わが民はわたしの声に聞き従わず、イスラエルはわたしを好まなかった。
詩篇81:12 それゆえ、わたしは彼らを/そのかたくなな心にまかせ、その思いのままに行くにまかせた。
彼らは、主を、好まなかった。
「好む」のヘブライ語アーバーは、同意する、意欲的に、喜んで、従う事の意味である。
彼らは、主の言葉に同意せず、意欲的に喜んで従わず、むしろ退け、ただ、自分の好む道に、行きたがった。
ちょうど、ナバルのように(1サムエル記25章)。
ナバルは、頑なさを捨てず、自分が進みたい愚かな道を貫き通した、ゆえに、彼の心臓は石になって、死んでしまった。
1Sa 25:37 his heart died within him, and he became as a stone. (KJV)
主の言葉に聞かず、従わず、自分の道に進む事を頑として止めない頑なな心の行き着く先は、石のように固くなって、滅びる事だ。
主は、人の自由意志を徹底して尊重しておられ、それを手出しする事はなさらない。
どこまで尊重されたか。
それは、神の御子キリストを、殺す自由意思さえも、尊重されたほどだった。
しかし、その与えられた自由を用いて、神の御子を受け入れ、自分の主とする人は、永遠のいのちが与えられる。
逆に、その自由意志を用いて、神の御子を突き刺すような人は、永遠の滅びに定められる。
ただ主は、人が滅びの道、負け組の道に歩む事を、嘆かれる。
主の意図としては、彼らをすぐにでも助けたいのに、意図して主の言葉を捨てるようでは、助けようがないからだ。
詩篇81:13 わたしはわが民のわたしに聞き従い、イスラエルのわが道に歩むことを欲する。
主が願っておられる事、それは、主の言葉に聞き従う事、主の道を歩む事である。
礼拝をして、教会から一歩外に出たとたん、心から主のことばをポーンと投げ去って、主と共に歩まないなら、その行く所々で、敵に、良いように打ち負かされてしまう。
詩篇81:14 わたしはすみやかに彼らの敵を従え、わが手を彼らのあだに向けよう。
詩篇81:15 主を憎む者も彼らに恐れ従い、彼らの時はとこしえに続くであろう。
主に従うなら、主はすみやかに、敵の手から救い出してくださる。
私達は、敵に、負かされ続けたりして、いないだろうか。罪という敵、欲望という敵に。
「負け続け」「負け組」になっている根拠は、聞き従わず、主とともに歩まない事であることが、本日の節から分かる。
なお、14節の 「わたしはすみやかに彼らの敵を”従え(カーナー)”」とあるが、「カーナー」は、ひざをつく、謙遜になる、という意味である。
だから、私達が主の御言葉に聞き従い、主と共に歩むなら、主は速やかに、敵のひざをつかせ、謙遜にさせて下さる。
のみならず、主は、良いものを食べさせてくださるのだ。
詩篇81:16 わたしは麦の最も良いものをもってあなたを養い、岩から出た蜜をもってあなたを飽かせるであろう」。
主に聞き従い、岩であられるキリストから流れ滴る御言葉の蜜で満ち足りて、最上のもので満ち溢れた、皆さんの人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
エゼキエル書講解説教
わたしが聖であるように、あなたも聖であれ(エゼキエル43章)
Youtube動画
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
エゼキエル43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
エゼキエルに再び、主の栄光の幻が示された。
エゼキエルが、最初にその幻を見た時の有様は、1章に記されている。
彼はその時、激しい風とともに、大きな雲と火が、ぐるぐるとひらめき渡りながら来たのを見た。
その火の中央には、青銅の輝きのようなものがあり、4つの生き物と、そのそばに車輪があるのを見た。
その火からは、いなずまが出ていて、一つの輪が、他の輪の中にあるようで、輪のわくの回りには目がいっぱいついていた。
最初の幻の時、このような圧倒的な臨在の幻の中から語られた内容は、イスラエルの罪を指摘するものであり、そして、警告であった。
エゼキエルは、その他にも、多くの警告が主から与えられ、それを伝え続けたが、結局、イスラエルはそれらを無視し、罪を離れず、好き放題の事をし続けた。
そのため、ついに、主の栄光が神殿から離れ、その後、エルサレム神殿は、悲惨なまでに、徹底的に破壊されてしまった。
それは、彼らの汚れが徹底的に拭い去られ、きよめられるためであった。
主の栄光が無い神殿は全く無意味であるのと同様に、私達という神の宮も、主の霊が宿っていないとするなら、全く無意味である。
だから私達は、聖霊を求めて祈るべきである。
しかし、彼らの汚れが、徹底して打ち砕かれ、清められた後、新しい神殿の幻が示され、そこに、主の栄光が戻って来た。
エゼキエル43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
それまでは、手に、はかりざおを持った「ある人」が、この神殿の”ツアーガイド”をしていたが、それ以降、彼ではなく、主ご自身がツアーガイドとなって下さる。
エゼキエル43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。
主に聞き従わないで、偶像礼拝や不正を持ち込んだ汚れた王たちの死体が、エルサレムに葬られたことによって、そこは汚されてしまった。
ここに記されている通り、神殿は、栄光の主の玉座がある所であり、そこは、主の足の踏む所であり、そして、主が永遠に住むべき所、である。
私達という神の宮も、そうである、という自覚を持つべきであり、淫行や、死んだ行いによって汚されないように、気をつけるべきである。
かつての神殿は、淫行や高き所の王たちの死体で汚され、その汚れをきよめず、むしろ、淫行と汚れに留まり続けたため、主の栄光が離れ、神殿は破壊し尽くされてしまったからだ。
汚れた者達の汚れた行いによって汚されてしまったそれらは、一度、徹底的に破壊されてから、清められる必要があった。
エゼキエル43:8 彼らはその敷居を、わが敷居のかたわらに設け、その門柱を、わが門柱のかたわらに設けたので、わたしと彼らとの間には、わずかに壁があるのみである。そして彼らは、その犯した憎むべき事をもって、わが聖なる名を汚したので、わたしは怒りをもって、これを滅ぼした。
ここに記されている具体的な内容、すなわち、イスラエルの民や長たちが、いかにして神の御住まいを汚したかの詳細が、8章で示されている。
8章で示された幻の中で、彼らは、北の祭壇の門の入口に、ねたみの偶像を置き、そこで女たちは、タンムズのために、泣きながら座っていた。
また、庭の入口の壁の中に入って行くと、そこには、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が回りの壁一面に彫られていて、イスラエルの七十人の長老が、その暗い所で礼拝していた。
さらには、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間にいた人々は、主の宮の本堂に対して背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。
それで主は言われた。
エゼキエル8:18 それゆえ、わたしも憤って事を行う。わたしの目は彼らを惜しみ見ず、またあわれまない。たとい彼らがわたしの耳に大声で呼ばわっても、わたしは彼らの言うことを聞かない」。
神殿が徹底的に破壊された理由は、これだけではなく、さらに多くの、汚れた事を彼らが行ったゆえだった。
エゼキエル43:9 今彼らに命じて姦淫と、その王たちの死体を、わたしから遠く取り除かせよ。そうしたら、わたしは永久に彼らの中に住む。
淫行と、死体を、取り除かなければならない、と言われたように、私達の中からも、死んだ行いと、主の御前における淫行を、取り除かなくてはならない。
取り除くなら、「わたしは永遠に彼らの中に住もう」と、9節で言われている。
エゼキエル43:10 人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ。彼らはその悪を恥じるであろう。
43:11 彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ。これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。
主が神殿を計らせ、その正確な寸法を示された理由が、ここに示された。
すなわち、彼らが、自分たちの不義を恥じ入るようになるためである、と。
実際、神殿の構造は、あらゆる点において、主の聖さが示されており、また、汚れた者は入れない事、そのガードがとても固い事が、示されていた。
私達も、きよく聖である主の宮を示されて、それに引き換え、自分自身の汚れた様も示され、恥じ入るとしたなら、それは、主の御心である。
それは、主の宮と神の臨在から、ますます離れさせるためではなく、むしろ、そこに近づくため、自分自身の不義を捨てさせるため、である。
43:12 「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである。山の頂の四方の地域はみな最も聖である。見よ、これは宮の「規定(トーラー)」である。
12節という節は、何気に、とても重要な事が書いてある。
『「宮(ベイト)」の「規定(トーラー)」はこれである』という宣言でサンドイッチされた、その中身は、「山の頂の四方の地域はみな最も聖である」。
「最も神聖」とは、「コデシュ(聖)」という語の反復強調である。
「宮」と訳された語ベイトは、元々の意味は「家」、あるいは「住む所」であり、すなわち、主の家、主のすみかである。
私達も、主が住まわれる宮であり、また、私達が住んでいる家やマンションについても、その場所やその周囲も、「聖」であるべき事が、強調されている。
13節以降には、祭壇のデザインと寸法が記されている。
祭壇は、神に受け入れられるべき犠牲を捧げる所であり、そこは、人の罪が清められ、神に受け入れられる者とされる所である。
また18節以降には、祭壇が建てられた際に、祭壇が「機能」するために、最初に為すべき7日間に渡るきよめの規定が、示されている。
そして、きよめのために必要なものは、傷のない動物の、犠牲の血である。
今、新約の時代における祭壇は、イエス様がかかられた十字架である。
罪や傷のないイエス様が、十字架の上で犠牲の血を流された事によって、私達は罪が清められ、神に受け入れられる者とされた。
43:27 彼らがこれらの日を満たしたとき、八日目から後は、祭司たちは、あなたがたの燔祭と、酬恩祭とを祭壇の上に供える。そうすれば、わたしは、あなたがたを受けいれると、主なる神は言われる」。
祭壇の贖いが済んだ後には、全焼のいけにえと、和解のいけにえが捧げるべきである事が示されている。
私達も、イエス様の十字架上での贖いを受けた後には、神との和解が成立し、その故に感謝をささげ、そして、私達自身を、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物として捧げるべきである。
1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
以上、神殿の構成が示されたのは、それまでの罪や汚れを犯してきた私達が恥じ入り、イエス様の贖いと和解を受け入れ、私達自身が、聖となり、聖なる民として、聖なる道を歩み続けるためである事がわかる。
エゼキエル書講解説教
聖と俗とを区別せよ(エゼキエル42章)
Youtube動画
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
42章では、祭司たちのための施設について、また、聖なる領域について示されており、聖と俗とを区別するべき事が、特に強調されている。
1-9節には、内庭の北側に配置するべき祭司のための建物の構成と寸法が示されており、10-12節は、南側の建物について示されている。
南側の建物も、北の建物と、寸法や構成は一緒である。
それらの建物は、北と南が通路で分断された三階建ての建物であり、これらの施設の用途は、13-14節に示されている。
42:13 時に彼はわたしに言った、「庭に面した北の室と、南の室とは、聖なる室であって、主に近く仕える祭司たちが、最も聖なるものを食べる場所である。その場所に彼らは、最も聖なるもの、すなわち素祭、罪祭、愆祭のものを置かなければならない。その場所は聖だからである。
42:14 祭司たちが、聖所にはいった時は、そこから外庭に出てはならない。彼らは勤めを行う衣服を、その所に置かなければならない。これは聖だからである。彼らは民衆に属する場所に近づく前に、他の衣服を着けなければならない」。
この建物の用途は、主に近づく祭司たちが、最も聖なるささげ物を食べる所、すなわち、穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえの、祭司の分を食べるべき所であり、また、祭司が装束を着替えるべき所でもある。
つまり、祭司たる者は、食物においても、着物においても、聖別された者として、自分自身をキープしなければならない。
神殿にて、神仕える祭司が食べる捧げものの肉は、単なる食物ではないし、また、その場所において食べる行為は、単なる飲み食いではない。
それは、主へ捧げられた犠牲を覚える、聖なる行為である。
そのために主は、わざわざ、聖なる敷地の一角に、祭司がそれをするための建物を指定されたのだ。
私達・キリスト者は、現代の祭司である。
パウロは警告している。
教会において、われ先にと飲み食いして、自分だけ満腹で酔っていて、他の人を、空腹のままにしておくような者に対して。
1コリント11:22 あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。わたしはあなたがたに対して、なんと言おうか。あなたがたを、ほめようか。この事では、ほめるわけにはいかない。
パウロは続いて、主が制定された聖餐を説明する。
旧約で、祭司は、犠牲の捧げものは定められた聖なる所で食べるように、と、指示されていた。
同様に、新約聖徒は、罪の犠牲となられ、和解のいけにえとなられたイエス様のみからだであるパンを共に食べ、イエス様の流された血であるぶどうの実で作った飲みものを、共に飲むのである。
11:25 食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。
ここでイエス様が繰り返し言われた、大事な事は、「わたしを覚えて、これを行いなさい」である。
聖餐をあずかるに「ふさわしくない」者とは、イエス様の尊い十字架でのみわざを覚えない者、みからだをわきまえない者である。
よく、自分は罪をたくさん犯したから、この聖餐にあずかるにふさわしくない、と、勘違いする人がいる。
もし罪をたくさん犯した、というのであるなら、なおさら、罪人の身代わりに十字架上でみからだを割いてくださったイエス様の肉にあずかるべきであり、罪を清める血にあずかるべきである。
だから、私達・新約聖徒は、教会における飲食は、キリストのからだを覚えつつ、わきまえて行うべきである。
そうでない者、すなわち、イエス様のみからだをわきまえないで飲み食いした者は、どうなったか。
1コリント11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
コリント教会の中には、みからだをわきまえない飲み食いによって、弱った人や、病気になった人が、大ぜいおり、また眠った(死んだ)者も少なくない、というのは、恐るべき事である。
キリストを覚えず、教会に、単に飲み食いだけのためだけに来ていたような人は、弱くなったり、病につきまとわれたり、さらには、死んでしまったのだ。
だから、パウロは注意している。
1コリント11:33 それだから、兄弟たちよ。食事のために集まる時には、互に待ち合わせなさい。
11:34 もし空腹であったら、さばきを受けに集まることにならないため、家で食べるがよい。
エゼキエルはさらに、聖と俗の境界を示される。
エゼキエル42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。
区別がある。
聖と、俗との。
主は、聖なるお方である。
だから、自分自身をきよくしようとしない者は、神を見る事はできない。
実際、黙示録で示される天国は、汚れた者は入れない、と書いてある。
また、レビ記には、みずからを清めないまま主の御前に出るなら、打たれてしまった事が、書いてある。
神殿は、主と出会う場所であり、汚れた者は、入れない。
エゼキエルに示された神殿は、特に、汚れに対しては、ガードが固かった。
私達も、主と出会いたい、という事であるなら、まず自分自身を清める必要がある。
2コリント6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
ここの14節で言われている事は、不信者とは一切出会うな、という事ではない。
「不信者と、つり合わないくびきを共にするな」である。
私達は、世に出て、信じていない人を、信じる人とするために、宣教へ出ていくつとめがあるが、それは、自分を不信者の側へと合わせたり、不信者といっしょくたになって、共同で罪を犯したり、不正に手を染めたりしてはならない、という事である。
自分をきよくしている人が、汚れた人に触れるなら、相手の汚れがk自分に移って汚されてしまうのである。
人は、罪や汚れに弱いものである。
アルコール依存症の人を救おうとして、彼らの気持ちを理解しようと自分もアルコールを飲むなら、やがて、自分もアルコール依存症になってしまうものだ。
唯一の例外は、イエス様である。
長血(不浄の病とされている)に12年もかかっていたある女が、イエス様ならきっと、わたしを救って下さる、という信仰をもちながら、イエス様の衣のふさに触れた。
通常なら、汚れた人がきよい人に触れるなら、触った相手を汚してしまう。
しかしこの時、逆の事が起きた。
イエス様に触れた女のほうが清められ、その不浄の病が癒やされたのだ。
イエス様が、この、汚れに満ちた人の世に降りて来られたのは、ただ、一方的な恵みである。
こんなにも罪に汚れて、きよい神とは、ほど遠いような、そんな私達に向かって、イエス様は、天を押し曲げて降りてこられた。
それで私達は、イエス様に出会い、イエス様を信じ、救われたのだ。
私達は、イエス様の名前によってこそ、父なる神とお会いする事ができるのだ。
それが示された以上、私達は、いつまでも汚れに留まっていてはならない。
イエス様は、つまずきを与える者や、不法を行なう「主のしもべ」を、御国の中からから取り集めて外の暗闇に追い出すので、彼らは泣いて歯ぎしりする、と言われた。
聖と俗とを区別し、汚れを捨てて、いつも自分をきよくし、聖なる敷地の中で、聖なる祭司としていつも主と出会い続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
エゼキエル書講解説教
天国を思わせる神殿(エゼキエル41章)
Youtube動画
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
41章は、いよいよ、神殿の本堂の中へと入っていく。
この度の箇所のように、神殿の詳細を読んでいく時、聖霊の助け無しに読むなら、自分とは何ら関わりのない、無機質な設計図を読んでいるかのような「つまらなさ」を覚えるだろう。
しかし、聖霊という”ツアーガイド”つきであるなら、その情景がありありと浮かび、あたかもそこが、自分がこれから入居する素晴らしい邸宅を内覧しているかのような、うきうきとした喜びに浸しこまれていく。
この箇所に限らず、私達は聖書を読む時、聖霊のガイドに従って読めるように、求めるべきである。
41:1 彼がわたしを拝殿に連れて行って、脇柱を測ると、こなたの幅も六キュビト、かなたの幅も六キュビトあった。
41:2 その戸の幅は十キュビト、戸のわきの壁は、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトあった。彼はまた拝殿の長さを測ると四十キュビト、その幅は二十キュビトあった。
神殿の戸の幅は、奥へ入っていくにつれ、どんどん狭くなって行く。
(玄関の幅は14キュビト、聖所は10キュビト、至聖所は6キュビト)
この神殿の構造自体が、礼拝者の心を整えて行く構成となっている。
神殿の階段も、外から内へ入るにつれ、どんどん段数が多くなって行ったよう。
階段を登るごとに、礼拝者の心を「上」へと向けさせられ、また、狭い戸をくぐって行くごとに、礼拝者の心は、どんどん低くへりくだらせていく。
41:3 彼がまた内にはいって、戸の脇柱を測ると、それは二キュビトあり、戸の幅は六キュビト、戸のわきの壁は七キュビトあった
至聖所の戸は、6キュビトと、今までの門の中では、一番狭い。
そう、聖なる領域へ入る門は、狭いのだ。
イエス様は、心して、せまい門から入りなさい、と言われた。(マタイ7:13)
滅びに至る門は広く、ラクであり、その道を行く人は多いが、その向こうは、聖なる場所ではないし、聖なるお方も、おられない。
その道は、滅びに通じる道だからだ。
しかし、イエス様は言われた。
『わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。』(ヨハネ10:9)
イエス様という、あまり人々が見いださない「狭い門」から入った向こうには、天国があり、神様との永遠の交わりがあり、永遠の喜びがある。
それ故私達は、イエス様にあって、永遠の祭司となるのである。
41:4 彼はまた拝殿の奥の室の長さを測ると二十キュビト、幅も二十キュビトあった。そして彼はわたしに、これは至聖所であると言った。
至聖所のサイズは、ソロモン神殿と同じである。
ソロモン神殿には、六百タラントに当たる良質の金がかぶせてあったが(2歴代誌3:8)、この神殿は、金や銀などの貴金属や宝石などの飾りについては、一切、触れられていない。
続いて聖所の外側の、脇間の説明に入る。
41:5 彼が宮の壁を測ると、その厚さは六キュビトあり、宮の周囲の脇間の広さは、四方おのおの四キュビトあり、
41:6 脇間は、室の上に室があって三階になり、各階に三十の室がある。宮の周囲の壁には、脇間をささえる突起があった。これは脇間が、宮の壁そのものによってささえられないためである。
神殿の外を覆う壁の厚さは、3メートル強で、かなり厚い。
モーセの幕屋の骨組みは、アカシヤ材の板が、基本的な構成物となっていて、板一枚につき2個の銀の台座で支えられていたが、それとは比べ物にならないほど、頑強だ。
脇間は、神殿をぐるっと回る回廊状にめぐらされ、1フロアごとに30あり、それが3フロアあるので、合計、脇間は90もある事になる。
そこは、色々なものを保管したり、あるいは、奉仕者が色々な用途に用いる事ができるだろう。
天国には、イエス様が用意された部屋が、たくさんある。
イエス様は、言われた。
『わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。』(ヨハネ14:2-3)
バビロン捕囚から帰還した民は、ゼルバベルを中心に、神殿を再建したが、総督であるネヘミヤが不在の時、代行していた者は、神殿の聖なる部屋を、トビヤという、神の民をあざける異邦人のために都合つけ、あてがっていた事が発覚した。(ネヘミヤ記13章)
神の民をけなす者の私物を、聖なる神殿の一室に置く・・・それは、相当根深く隠れたつながりでも無い限り、ありえない事である。
『わたしは非常に怒り、トビヤの家の器物をことごとくそのへやから投げだし、命じて、すべてのへやを清めさせ、そして神の宮の器物および素祭、乳香などを再びそこに携え入れた。』(ネヘミヤ13:8-9)
ネヘミヤは憤って、きよめを遂行したが、私達という神の神殿は、どうだろうか?
罪との隠れた、根深いつながりは、無いだろうか?
私達の心の部屋、頭の部屋には、トビヤの私物を、放置していないだろうか?
「ネヘミヤ」の名の意味は「主の慰め」、すなわち、慰め主・聖霊と同じ名である。
もし私達が、世と妥協し、この私達という宮に、あえて、汚れた情報や思考を取り入れ、蓄えるなら、聖霊は憤られる。
そして、宮をきよめるために、強制力を発動される。
私達も、自分自身という宮を見張る事を怠り、トビヤの私物のような汚らわしいものを、自分の中に蓄え、のさばらせているなら、ネヘミヤの時代にあったように、少々、手厳しい扱いを受けるだろう。
ものすごく恥ずかしい思いをするか、何か大きな損失を被るか、、、。
ともかく、大々的な「きよめ」という”霊的ガサ入れ”が入る。
41:7 脇間は、宮の周囲の各階にある突起につれて、階を重ねて上にいくにしたがって広くなり、宮の外部の階段が上に通じ、一階から三階へは、二階をとおって上るのである。
この脇間は、階を上がって行くにつれて、全体的に広くなっていった。
私達という神殿の内部屋、すなわち、私達の思いや心は、礼拝へと登るにつれ、すなわち、天に近づくにつれ、イエス様へと近づいて行くにつれ、どんどん広まって行く。
それまで、「狭い」と思っていた自分自身の心が、内側が、イエス様にあってどんどん解放され、どんどん広く、開放されて行くからだ。
41:8 わたしはまた宮の周囲に高い所のあるのを見た。脇間の基を測ると、六キュビトの一さおあった。
41:9 脇間の外の壁の厚さは五キュビト、あき地になっている高い所は五キュビトあった。宮の高い所と、
41:10 庭の室の間には、宮の周囲に、広さ二十キュビトの所があった。
神殿の脇間は、このように、高い基の上に据えられ、その周囲は広々としていて、開放感がある。
もし、私達がよく見張り、汚れたものを自分に入れず、聖なる様相を保ち続けるなら、私達という神殿の「心」という脇間も、どっかりとした土台の上に据えられ、広々と、開放感がある者となって行くのだ。
41:12 西の方の宮の庭に面した建物は、幅七十キュビト、その建物の周囲の壁の厚さは五キュビト、長さは九十キュビトであった。
この、西側の、すなわち、神殿の後ろ側の、結構大き目の建物は、モーセの幕屋や、ソロモン神殿には、無い建造物である。
41:13 彼が宮を測ると、その長さは百キュビトあり、その庭と建物と、その壁は長さ百キュビト、
41:14 また宮の東に面した所と庭との幅は百キュビトであった。
41:15 彼が西の方の庭に面した建物と、その壁の長さを測ると、かなた、こなたともに百キュビトであった。宮の拝殿と、内部の室と、外の廊とには、羽目板があった。
41:16 これらの三つのものの周囲には、すべて引込み枠の窓があり、宮の敷居に面して、宮の周囲は、床から窓まで、羽目板であって、窓には、おおいがあった。
この神殿の描写は、ソロモン神殿の描写に比べれば、飾りっ気が無く、非常にシンプルである。
41:17 戸の上の空所、内室、外室ともに、羽目板であった。内室および拝殿の周囲のすべての壁には、同じように彫刻してあった。
41:18 すなわちケルビムと、しゅろとが彫刻してあった。ケルブとケルブとの間に、しゅろがあり、おのおののケルブには、二つの顔があり、
41:19 こなたには、しゅろに向かって、人の顔があり、かなたには、しゅろに向かって、若じしの顔があり、宮の周囲は、すべてこのように彫刻してあった。
41:20 床から戸の上まで、ケルビムと、しゅろとが、壁に彫刻してあった。
天国には、2種類の木が登場する。
一つは、いのちの木であり、もう一つは、しゅろ(なつめやし)の木である。(黙示録7:9)
聖所の内側の彫刻には、若獅子と、人とが、しゅろの木のほうを向いている。
神殿内の飾りと言えば、ただ、それだけだ。
シンプルといえども、まことに、黙示録を連想させる彫刻である。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族の獅子、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:5)
『その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
』(黙示録7:9-10)
41:21 拝殿の柱は四角であった。聖所の前には、木の祭壇に似たものがあった。
41:22 その高さは三キュビト、長さは二キュビト、幅は二キュビトで、すみと、台と、壁とは、ともに木である。彼はわたしに言った、「これは主の前にある机である」
この、聖所の中の、いや、聖所と至聖所に見られる、唯一の器物は、主の前にある「机(シュルカーン:食事などを置くテーブル)」だけである。
その材質は木だけであり、寸法は、高さ150cm強、長さ・幅は、共に60cm強である。
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の聖所には、3つのアイテムがあった。
すなわち、供えのパンの机と、香の祭壇と、燭台(メノラー)が。
それに対し、この聖所に置かれたものは、いや、至聖所も含めて、この聖なる神殿の中に唯一、言及された器物は、これだけなのだ
まことに、私達の目には、謎の多い神殿だ。
41:23 拝殿と聖所とには、二つの戸があり、
41:24 その戸には、二つのとびらがあった。すなわち二つの開き戸である。
41:25 拝殿の戸には、おのおのにケルビムと、しゅろとが、彫刻してあって、それは壁に彫刻したものと同じである。また外の廊に面して、木の天蓋があり、
41:26 廊の壁には、こなたかなたに引込み窓と、しゅろとがあった。
聖所と至聖所の間の戸は、折りたたみ式の戸で、そこにも同様に、ケルビムと、しゅろの彫刻が為してある。
以上、この神殿を探索するに、謎と思える事が、いくつかあった。
モーセの幕屋や、ソロモンの神殿の、聖所内の香壇は、金が被せられていたのに、エゼキエルが見たこの神殿には、金や銀など高級品の記述は、一切見られない。
また、寸法と材料は書いてあっても、用途が書かれていないものも幾つかあった。
分かっている事は、この神殿は、ガードが非常に固いという事と、豪華絢爛なものは記されていないにしても、ゆったりとしていて、何か、天国を思わせる雰囲気がある。
主は言われる。
わたしはすぐに来る。あなたの冠を誰にも奪われないよう、あなたの持っているものをしっかり持っていなさい、勝利を得る者を、神の聖所の柱としよう、と。(同11-12節)
主イエスの血によって、御前に近付く者は、至聖所の本体に入るのである(ヘブル9:24-25,10:19-22)。
エゼキエル書講解説教
与えられた堅固な神殿の幻(エゼキエル40:5-49)
Youtube動画
※この度のメッセージでは、神殿の構造を説明するために、以下、BibliaPrintsの動画を参考にさせていただきました。
40章以降は、回復された神殿の完成形が、その用途や寸法まで示されており、まずは外側から内側へと進んで行く方向で、その神殿の説明が進んでいく。
5-16節は、神殿の外側を巡る壁と、東向きの門の説明である。
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
ここで使われているキュビトは、通常のキュビトに、一手幅加えられたもの、そのキュビトは、52cmほどである。
つまり神殿の外側は、およそ3.1mの高さと幅の壁によって、区切られている事になる。
神殿の原型は、荒野でモーセに示された幕屋であったが、モーセの幕屋と比べれば、随分、ゴージャスになっている。
モーセの幕屋は、内側と外側を区切る幕の高さは5キュビト、およそ2,25mなので(出エジプト記27:18)、少し背の高い人がジャンプすれば幕屋の内側が見えてしまう。
また、亜麻の撚糸の布製で、押し入ろうとするなら、押入れてしまいそうな材料でできている。
しかし、この神殿の外壁は3m以上の、高さと、幅で仕切られている。
ちょっとした城壁に匹敵するような高さと厚さだ。
またこの神殿には、東、北、南の指定された入口からしか入れず、門も、しっかりしたセキュリティの構造となっている。(後述)
40:6 彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その厚さは一さおあり、
40:7 その詰め所は長さ一さお、幅一さお、詰め所と、詰め所との間は五キュビトあり、内の門の廊のかたわらの門の敷居は一さおあった。
40:8 門の廊を測ると八キュビトあり、
40:9 その脇柱は二キュビト、門の廊は内側にあった。
40:10 東向きの門の詰め所は、こなたに三つ、かなたに三つあり、三つとも同じ寸法である。脇柱もまた、こなたかなたともに同じ寸法である。
神殿の正面は、東であり、神殿の外庭へと入って行くための玄関の両側には、それぞれ、3つの控え室、合計6つの部屋がある。
これは門衛の詰所であり、神殿に入る人は、そこでしっかりとチェックされる事になる。
40:11 門の入口の広さを測ると十キュビトあり、門の長さは十三キュビトあった。
40:12 詰め所の前の境は一キュビト、かなたの境も一キュビトで、詰め所は、こなたかなたともに六キュビトあった。
40:13 彼がまたこの詰め所の裏から、かの詰め所の裏まで、門を測ると、入口から入口まで二十五キュビトあった。
40:14 彼がまた廊を測ると二十キュビトあり、門の廊の周囲は、すべて庭である。
40:15 入口の門の前から内の門の廊の前まで五十キュビトあり、
40:16 詰め所と、門の内側の周囲の脇柱とに窓があり、廊の内側の周囲にも、同様に窓があり、脇柱には、しゅろがあった。
門という”建物”は、横25キュビト(13m弱)、奥行き50キュビト(25m強)、門柱は60キュビト(30m強。口語訳には記述なし)。
その門という建物の内側には、門衛の詰所が左右3つづつあるので、結構壮麗な門である事がわかる。
続いて17-19節に、外庭についての説明がある。
40:17 彼がまたわたしを外庭に携え入れると、見よ、庭の周囲に設けた室と、敷石とがあり、敷石の上に三十の室があった。
40:18 敷石は門のわきにあり、門と同じ長さで、これは下の敷石である。
40:19 彼が下の門の内の前から、内庭の外の前までの距離を測ると、百キュビトあった。
つまり、神殿の外庭をぐるっと囲む形で、合計30の部屋があるのだ。
また、外側の門から、内庭の外の端までの距離は、100キュビト(50m強)である。
という事は、この神殿の外庭の門から内庭までの間に、モーセの幕屋が、すっぽりそのまま入るような広さである。
(モーセの幕屋の外庭の寸法は、古いキュビトで長さ100キュビト(45m弱)、幅は50キュビト(22m強)。出エジプト記27:18)
また、北向きの門については、20-23節に、南向きの門について24-27節に、それぞれ記されているが、それらの門は、寸法も、成り立ちも、東の門と同じである。
外庭から内庭へと入るには、南、東、北にある「内庭の門」を通らなければならない。(28-37節)
その寸法も成り立ちも、外庭の門と同じであるが、階段の段数が違う。
外庭の門の段数は7段であるが、内庭の門の階段は、8段で、より高い所に内庭があるのだ。(31節)
内庭の東の門についての説明は、32-36節にあり、内庭の北の門についての説明は、35-37節にあるが、いずれも寸法は同じで、それぞれの階段の段数は、8段である。
38-43節では、北側の内門のところに、いけにえを捧げる際に用いる祭具についての説明が続く。
40:44 彼はまたわたしを、外から内庭に連れてはいった。見よ、内庭に二つの室があり、一つは北の門のかたわらにあって南に向かい、一つは南の門のかたわらにあって、北に向かっていた。
日本語の聖書には無いが、ヘブライ語の聖書では、これら2つの部屋は「歌うたい(ヘブライ語:シィール)」のための部屋、とある。
(KJVでは、chambers of the singers)
40:45 彼はわたしに言った、この南向きの室は、宮を守る祭司のためのもの、
40:46 また北向きの室は、祭壇を守る祭司のためのものである。その人たちは、レビの子孫のうちのザドクの子孫であって、主に近く仕える者たちである。
ツァドクの子孫こそ、正当な祭司の家系である。
ツァドクは、エルアザルの子ピネハスの子孫で(エズラ7:1-5)、ピネハスは、とても主に熱心であった。
イスラエルが、異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除した事によって、主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を、主からいただいていた。(民数記25:10-13)
ツァドクから生まれた子孫の中には、偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼は、バビロン捕囚から帰還した時、信仰伝授教育であるテフィリン教育を指導し、そのおかげで、ユダヤ人の信仰は、世界中に2500年も離散していたにもかかわらず、現代に至るまで、変わらず信仰が伝授され続けて来た。
このように、ツァドクの子孫は、主の聖所の任務を忠実に果たした、という賞賛をいただいた故(エゼキエル44:15)、彼らは祭壇のつとめが与えられ、主の近くで主に仕える栄誉にあずかったのだ。
40:48 彼がわたしを宮の廊に連れて行って、廊の脇柱を測ると、こなたも五キュビト、かなたも五キュビトであり、門の幅は十四キュビトである。門の壁は、こなたも三キュビト、かなたも三キュビトである。
40:49 廊の長さは二十キュビト、幅は十二キュビトであり、十の階段によって上るのである。脇柱に沿って、こなたに一つ、かなたに一つの柱があった。
いよいよ神殿の玄関口の寸法である。
口語訳と新共同訳では、そこの階段は10段、とあるが、それは七十人訳を元にしているもので、ヘブライ語聖書には「10段」という表記は無い。
いずれにしても、外庭の門に入るためには7段登り、内庭の門に入るのに、さらに8段登り、そして神殿へと入るには、さらに階段を登らなくてはならない。
神殿の階段が10段だとしたら、外界よりも、25段高い事になる。
今回の神殿は、城壁のような壁と、いくつもの門衛の詰所によってガードされていた。
ソロモン神殿を建築する箇所では、豪華絢爛さが強調されていたが(2歴代誌1-5章)、信仰のガードが甘かった。
それ故、彼らは、世の汚れた情報や、汚れた宗教の侵入を許して、それを手放さなかったため、ついに主は、神殿にバビロンの侵入を許可し、豪華絢爛なもろもろは、徹底的に破壊されてしまった。
この有様から、私達が受けるべき養いは、私達という神殿は、きよい、聖なるものとして、しっかり外界と境界線を引いてガードし、私達自身を、神に受け入れられる、生きた供え物として、捧げるべき事である。
金銀宝石といった豪華絢爛さを求めるよりも、むしろ、ガードする事をこそ、求めるべきなのだ。
私達の、目という門をガードし、耳という門をガードし、世の汚れた情報や言葉を、心の中への侵入を許さず、口という門からは、良い食べものを口に入れ、きよい、いのちの水のような御言葉を語りだす口とするのだ。
エゼキエルは、なぜ、こんなにも正確に、神殿の諸々の寸法や用途を、書き残す事が出来たか。
それは、彼が、神様から示されたまぼろしを、よく心に留め、それを頭に心に刻みつけるために、何度も口ずさんで、テフィリン(御言葉暗唱)していたからである。
私達も、主の御言葉を、そして、主から示されたまぼろしを、昼も夜も口ずさみ、それをよく心に留め、頭に刻みつけるべきである。
そのようにしてこそ、私達は神の神殿として、人々にいのちの水を流しだし、救いを流しだして行く事が出来るのだ。
