メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
主を慕ってついてくる人々に与えられる保証(2列王記4:38-44)
Youtube動画
メッセージ音声
4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。
ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は鞭であった。
彼は預言者のともがら達から非難を浴びたかもしれない。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、保証が与えられている。
マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
私達は御言葉に望みを置きつつ、生きる特権があたえられている。
パウロも、毒蛇にかまれても死なず、かえってそのしるしをもって、現地の人々を救いへと導いた。
この信仰のうすい、毒に満ちているこの国において「信じる者には・・・毒を受けても害を受けない」というしるしは、信じる私たちにとって大きな希望である。
4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。
この事も、イエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを置いて集まった群衆である。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして彼らの無計画ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。
6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。
弟子達が言った事は、エリシャの弟子が心配して言った事と似ている。
そして、主の保証の仕方は同じである。
6:38 するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。
6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
6:42 みんなの者は食べて満腹した。
6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
6:44 パンを食べた者は男五千人であった。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。
私達はこの事を信じるだろうか?信じる者には、その通りになるのである。
主に直接伺いに行き、主の直接の奇跡を得たシュネムの女(2列王記4:18-37)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-23 6:44
主に直接伺いに行き、主の直接の奇跡を得たシュネムの女(2列王記4:18-37)
Youtube動画
メッセージ音声
4:18 その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、
4:19 父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。
4:20 彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。
4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。
子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。
たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
4:25 こうして彼女は出発してカルメル山へ行き、神の人の所へ行った。神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもべゲハジに言った、「向こうから、あのシュネムの女が来る。
4:26 すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、『あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか』」。彼女は答えた、「無事です」。
「無事」と訳された語、シャロームというヘブライ語は、平安です、という意味のあいさつではあるが、子供は「無事」ではない。彼女は、不信仰な父親はスルーし、ゲハジにもとりあえずシャロームと応え、ともかく彼女は、一切の事を秘め、直接エリシャの所に行ってこの事を解決してもらおうと思っていたようだ。
4:27 ところが彼女は山にきて、神の人の所へくるとエリシャの足にすがりついた。ゲハジが彼女を追いのけようと近よった時、神の人は言った、「かまわずにおきなさい。彼女は心に苦しみがあるのだから。主はそれを隠して、まだわたしにお告げにならないのだ」。
ゲハジは彼女の尋常ではない行動だけを見て、振り払おうとした。
しかしエリシャは、彼女は何のために通常でない時期にここに来たのか、そして、どうしてこんな尋常ではない行動を取るのかを知ろうとした。彼女は、この事は誰にも告げず、ただ、彼女の胸に秘めており、また、エリシャにも神から何も告げられていない状態だった。
4:28 そこで彼女は言った、「わたしがあなたに子を求めましたか。わたしを欺かないでくださいと言ったではありませんか」。
エリシャは彼女のその言葉から、はじめて分かった。彼女が来た理由は、子供の問題だった、という事を。
彼女の言葉の「内容」だけ見ると、恩知らず、不信仰、に見えるかもしれない。
しかし、幼い息子が、つい今しがた死んでしまった状況下にある女性から発せられる言葉を、文字通りそのまま受け止めて、ゲハジのように彼女を引き離そうとすようでは、神の国の働き人として失格である。
ともかく彼女は、真っ先に預言者の所に問題を持って行く信仰は、あったのだ。
4:29 エリシャはゲハジに言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。
エリシャがここまで具体的な指示をゲハジにしたからには、主から「そうしなさい」と示されたのだろう。
4:30 子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。
4:31 ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。
言われた通りにしても何も起きない。果たしてエリシャの預言の力が衰えたのだろうか?そうではない。このような場合は、預言が与えられた人の側の信仰に問題がある場合が多い。
ゲハジは、信仰に問題があった。彼女をすぐに振り払おうとしたし、さらにこの後、彼は、彼自身の欲深さと偽りの行動ゆえに、呪いを被ることになる。
イエス様の時代も、弟子たちには悪霊を追い出せなかった事があったが、その時イエス様は「信仰が無いからである」「この種のものは祈りと断食によってでなければ追い出せない」と言われた。(マタイ17:14-21)
エリシャの弟子ゲハジが、杖を顔に置いただけでは、癒やされなかった。そこで彼の主人エリシャは、祈りに入る。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。
二人だけ、つまりエリシャと子供だけ、である。イエス様も、ヤイロの娘の生き返らせる奇跡を行った時、不信仰な者は外に出した。主の御言葉が語られても、何も起きないような状況なら、不信仰な者は外に出すのである。
それにしてもエリシャ、「子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ば」すという大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。
4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。
死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。
4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。
彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。
私達も、全ての問題をまことの預言者・イエス様に直接持っていく信仰があるなら、このような幸いを受けるのだ。
主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-19 8:30
主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
Youtube動画
メッセージ音声
主は、主を恐れ敬うしもべを貧しいまま捨て置かれるお方ではない。
邪悪な時代の中で、正統に扱われないとするなら、そして、主に泣きついて主にあるいは主の預言者に求めるなら、主は豊かに助けて下さる事が可能なお方である。
4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。
奴隷とする、奴隷として虐げる。それはイスラエルの民の間では、あってはならないことである。(レビ記25:39−43)
しかし時代が悪いので、このままだと、主を恐れ敬う人が身売りをして悲惨な目に遭わなければならない。その時、彼女は、主の預言者に泣きついて行った。
4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
エリシャは、からの器を借りなさい、それも一つや二つではならない、と行った。
彼女は、この言葉に何の言い返しも、混ぜ者もしなかった。
そんな子として何になるのですか、物理的に不可能です、とか。
しかし、そんな言い返しをする人は、主から何ももらえない。
また、エリシャはたくさん借りて来なさい、と言った。
それに対し、へんな謙虚を起こして、隣家に借りに行く時、ひとつだけでいいですから、などとは彼女は借りなかった。エリシャの言葉に望みをもって、たくさん、借りてきた。
結果、彼女は借りた器の分、たくさん油を得る事ができた。
4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。
神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。
しかしエリシャの言葉に、預言者の言葉に少ししか信頼せず少ししか借りなかったら、少ししか受けられなかった。
私達は大いに望みを持つべきであり、大胆に恵みの見座に近づき、お理にかなった助けを得るべきである。
うしろの戸を閉じて、とエリシャは言った。主の聖霊のみわざは、ひそかな所の信仰者の集いの中で行われるものである。
うしろの戸を閉じて祈る所に働くものである。
イエス様の復活の日、弟子たちは戸を閉じていたが、主は、聖霊の油を、からの器となった弟子たちに注いで下さり、そこから始まってその聖霊の油は全世界に広まり、今、私達にも届いた。
私達も、器をからにして、主から聖霊の油を注いで頂く望みを持って、御前に進み行くのである。
主からの救いが与えられない理由は、主にではなく自分にある(イザヤ50:1-4)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » イザヤ書
- 執筆 :
- pastor 2017-1-18 22:20
三国の王たちに示された主の憐れみ(2列王記3:21-27)
Youtube動画
メッセージ音声
主は憐れみ深い。イスラエル、勝手に始めた戦争なのに、状況が悪くなると、神のせいにする。
自分にみつぎを収めてくれなくなると、勝手に招集し、勝手に戦いを仕掛け、しかし無計画ゆえに勝手に自滅しそうになると、そこで初めて神の名を出して、神のせいにする。
人間にはそのような所がある。困った時の神頼み、ならまだしも、困った時の神のせいにする、性質が。
しかし主はヨシャパテのゆえに、憐れみをほどこされる。
それはエリヤの時代から、ずっと同じである。神はすぐに滅ぼすような事はされない。
3:21 さてモアブびとは皆、王たちが自分たちを攻めるために上ってきたのを聞いたので、よろいを着ることのできる者を、老いも若きもことごとく召集して、国境に配置したが、
3:22 朝はやく起きて、太陽がのぼって水を照したとき、モアブびとは目の前に血のように赤い水を見たので、
3:23 彼らは言った、「これは血だ、きっと王たちが互に戦って殺し合ったのだ。だから、モアブよ、ぶんどりに行きなさい」。
モアブは、水がないはずの所に、太陽の反射で赤く見える水を、勝手に血だと解釈し、勝手に同士討ちして流された血だと思い込んで、無防備に進み行く。
3:24 しかしモアブびとがイスラエルの陣営に行くと、イスラエルびとは立ちあがってモアブびとを撃ったので、彼らはイスラエルの前から逃げ去った。イスラエルびとは進んで、モアブびとを撃ち、その国にはいって、
新改訳では攻め入った、と訳されているが、ボウは「入る」の意味。つまりモアブは、無防備に、入って行ったのだ。
のこのことやられに行ったようなものだ。
3:25 町々を滅ぼし、おのおの石を一つずつ、地のすべての良い所に投げて、これに満たし、水の井戸をことごとくふさぎ、良い木をことごとく切り倒して、ただキル・ハラセテはその名を残すのみとなったが、石を投げる者がこれを囲んで撃ち滅ぼした。
イスラエル達は、何もしていない。向こうから勝利が舞い込んだのだ。
このようにして下さる主を褒め称えるべき、だが、あいにくその後主に栄光を捧げたのはヨシャパテだけだった。
3:26 モアブの王は戦いがあまりに激しく、当りがたいのを見て、つるぎを抜く者七百人を率い、エドムの王の所に突き入ろうとしたが、果さなかったので、
3:27 自分の位を継ぐべきその長子をとって城壁の上で燔祭としてささげた。その時イスラエルに大いなる憤りが臨んだので、彼らは彼をすてて自分の国に帰った。
このような人身御供は偶像礼拝の土地で行われる。この日本でも。
モアブの神はケモシュで、手を差し伸べたケモシュ像の上に子供を置いて、下から火を炊き、子供の叫び声はドラムでかき消して捧げる。そのような神の下に居たいだろうか。いのちの君なる神は、のような偶像礼拝システムの存在を許さない。
かつて太平洋戦争では、神風特攻隊による自分の命もものともしない戦いでアメリカは戦慄したが、しかし実際の戦果は、
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31
撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかった、ということだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50088?page=3)
無駄に命を散らしていった命が際立っただけだった。日本はそれを美談にしてしまったが、皆さんは犠牲を強いるような上司の下で働きたいだろうか。
神は、いのちの君である。そんな国は、残念ながら、勝利させない。
神の憐れみは注がれている。立ち返るべきである。
イスラエル、ユダ、エドムはまことの神の栄光を見た。しかし、ユダ以外は立ち返らなかった。
主に立ち返らないなら、ただ、滅びだけが待っている。それは、手を離せば落ちていく法則と同じである。ただ、無意思無情な法則と違う事は、神は憐れみの期間を設けられる所である。
勝手に行動し勝手に危機に陥って神のせいにした者に、憐れみを施して下さった神(2列王記3:1-20)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-16 9:10
大いなる主の預言者として活躍して行くエリシャ(2列王記2:19-25)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-13 8:50
大いなる主の預言者として活躍して行くエリシャ(2列王記2:19-25)
Youtube動画
メッセージ音声
エリシャはエリヤから受け継いだ預言者として活動を開始するが、多くの奇跡をする。
全ての奇跡は本人の栄光のためでなく、主の栄光のためであり、イエス様をあらわす。
エリシャの奇跡の数々は、イエス様の性質をあらわしている。
2:19 町の人々はエリシャに言った、「見られるとおり、この町の場所は良いが水が悪いので、この地は流産を起すのです」。
2:20 エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。
2:21 エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産も起らないであろう』」。
2:22 こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。
エリコの町はかつてヨシュアによって呪われた。呪われるべき事をカナン人たちがしていたからである。しかし、エリコの住人は、エリシャを「主」とした。
預言者を受け入れる者は預言者の報いを受ける。エリコの人々は、報いを受けた。
塩に何か特別な魔術的な力があるのではない。預言の言葉に従う事に力がある。
長道を患っている女は、イエス様の衣さえ触れるなら癒される事を信じ、後ろから気付かれないよう近づいてきて、イエス様の衣に触った所、血の源がかれて癒され、いのちの源の呪いが癒やされた。
信じて触れる者は、癒されるのである。
私たちこそ、地の塩である。
このいのちを生み出さない大地に、塩として出て行くなら、呪いの源は破壊される。
2:23 彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、
2:24 彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。
2:25 彼はそこからカルメル山へ行き、そこからサマリヤに帰った。
頭を乗ろう事、それも預言者の頭を呪いのは、赦されない。
42という数字は啓示六に、42ヶ月、あざける者はあざけり、預言者は預言する事が出てくる。象徴的である。
尊い者を乗ろう者は、呪われる。
エリヤの霊の二つを受けたエリシャの性質(2列王記2:1-18)
Youtube動画
メッセージ音声
1/12
2:1 主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。
エリヤは行きたまま天に上げられた。エノクのように。終わりの日、行きたまま天に上げられる聖徒達もいる。
「取られた」と訳されたヘブル語は「ラーカハ」第一テサロニケ 4章16〜18節「引き上げられ」と訳されているギリシャ語は「ハンパゾー」ἁρπάζωで、その意味するところは「一瞬にして、力づくで取り去る、かさらう」。
2:2 エリヤはエリシャに言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをベテルにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはベテルへ下った。
2:3 ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。
ともがらがいた。ヘブライ語ではベン、KJVは子達。
預言者の子供たちがいた。エリヤはかつて一人しか残されていないと嘆いたが、主は残しておられ、そして、見事エリヤは各地に預言者の子達を育て上げたのだ。邪悪な時代の中にあって。
ここで預言者のともがらは、知っていた。エリシャも、ともがらはあきらめた、けどエリシャはあきらめなかった。ついて行く事を。
エリシャは誰より主人に対して忠実。
彼はエリヤに召し出された時でも、父母に忠実だった。だから、主の目に留まったのだろう。
2:4 エリヤは彼に言った、「エリシャよ、どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをエリコにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはエリコへ行った。
2:5 エリコにいた預言者のともがらが、エリシャのもとにきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。
ここの預言者のとがらも全く同じことを言い、エリシャも同じく答えた。
2:6 エリヤはまた彼に言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをヨルダンにつかわされるのですから」。しかし彼は言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そしてふたりは進んで行った。
2:7 預言者のともがら五十人も行って、彼らにむかって、はるかに離れて立っていた。彼らふたりは、ヨルダンのほとりに立ったが、
2:8 エリヤは外套を取り、それを巻いて水を打つと、水が左右に分れたので、二人はかわいた土の上を渡ることができた。
エリヤに与えられている霊が、奇跡を行う力があるのだ。
2:9 彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。
いよいよ天にあげられる瞬間が近づいた。その時、エリシャはこのように求めた。
それは、彼が力強くなりたいからとか、有名になりたいから、ではない。
彼は、エリヤが挙げられる事を悲しんでいた。いつまでもついていった。
そして、エリヤが上げられた後、残される自分、残されるともがらたち、そして、邪悪なイスラエル。
それを前に、エリヤの霊が必要だ、と、誰より感じていたのだ。
彼はエリヤの後継者として定められていた。それなのに今の自分は、、、と、自身が無かったのかもしれない。
だから、エリヤの霊が必要だったのだ。ちょうど、若きソロモンが全イスラエルを治める知恵を求めたように。
これは正統な要求である。私たちも、さらに優れた賜物が、御霊が、与えられるよう祈るべきである。邪悪な時代に伝えていくために、主の聖徒達を導くために。
2:10 エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
これはエリヤのマターではなく主のマターだ。
エリヤは、いつ一瞬にして取り去られるか分からない。だからエリシャはずっとエリヤを見続けていなくてはならない。
「引き上げられ」と訳されているギリシャ語は「ハンパゾー」ἁρπάζωで、その意味するところは「一瞬にして、力づくで取り去る、かさらう」こと。
私たちも、いつ、主が来られるか、いつ、取り去られるか分からない。
だから、目を覚ましておれ、と、主は何度も命じられた。
霊が与えられるためには、その、いつも目を覚まして求め続ける必要があるのだ。
2:11 彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
2:12 エリシャはこれを見て「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、再び彼を見なかった。そこでエリシャは自分の着物をつかんで、それを二つに裂き、
彼は衣を裂いた。悲しかったのだ。そして、心細く不安だったのだ。
ヨルダンを裂いたのは、エリヤであってエリシャではなかった。そのエリヤはもういない。
目の前には、預言者のともがらが、邪悪なイスラエルがある。
彼は必死だっただろう
2:13 またエリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。
2:14 そしてエリヤの身から落ちたその外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言い、彼が水を打つと、水は左右に分れたので、エリシャは渡った。
エリヤの霊は、彼に注がれていた。
2:15 エリコにいる預言者のともがらは彼の近づいて来るのを見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言った。そして彼らは来て彼を迎え、その前に地に伏して、
2:16 彼に言った、「しもべらの所に力の強い者が五十人います。どうぞ彼らをつかわして、あなたの主人を尋ねさせてください。主の霊が彼を引きあげて、彼を山か谷に投げたのかも知れません」。エリシャは「つかわしてはならない」と言ったが、
2:17 彼の恥じるまで、しいたので、彼は「つかわしなさい」と言った。それで彼らは五十人の者をつかわし、三日の間尋ねたが、彼を見いださなかった。
2:18 エリシャのなおエリコにとどまっている時、彼らが帰ってきたので、エリシャは彼らに言った、「わたしは、あなたがたに、行ってはならないと告げたではないか」。
ともがらたちの目の前で公に、エリシャがエリヤにつぐ預言者となった。
そしてともがらたちは、逆の事をした。
エリヤがいる時はエリヤをあきらめたのに、エリヤがいなくなってから未練がましくしつこく。きっと会いたかったのだろう。見つけたかったのだろう。そしてエリシャは、無駄だと。
ここにエリシャとその他の違いがある。不信仰、不忠実、だったのだ。エリシャよりも。
エリシャはしっかり、主人が共に「いる」時に、尽くし尽くした。だから、未練は無かった。私たちも、いつ隣の友人が、肉親が、主人が、取り去られるか分からない。だから、忠実に、生きている間、隣にいる間、誠実を尽くすべきだ。
そして、今この時代、邪悪な時である。私たちも
求め続けるべきだ。そして主に忠実であり続けるべきだ。
主から与えられた立ち位置に留まるなら決して動かされない主の働き人(2列王記1章)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 2列王記
- 執筆 :
- pastor 2017-1-11 21:40
