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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

イザヤ書 講解説教メッセージ
しもべとなられた主に倣う「主のしもべたち」の権威と使命(イザヤ42:1-13)
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やもめへと遣わされたエリヤと、エリヤを養うよう命じられたやもめ(1列王記17:7-16)
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不従順なイスラエルへの審判として、主から干魃が送られた時、エリヤは主の命令によって、ケリテ川のほとりに住み、そこでカラスによって養われていた。

『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』(1列王記17:7-9)
シドンといえば、イスラエルに災いをもたらした、あの邪悪な女・イゼベルの出身地である。
しかし、シドンには邪悪な者しかいない訳ではなかった。エリヤを養うようにと、主から命令を受けたやもめもいたのだ。

『そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。』(1列王記17:10-12)
彼女は、当時の人々の罪の結果のとばっちりを受け、最後のわずかな食料を食べて、彼女も、彼女の子も、死のうとしていた。
そして、その最後の料理するために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる・・・。

本当に不思議である。
どう見ても、彼女は誰かを養う能力も資力も無い。
なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく、追いつめられているのか。
なぜエリヤが遣わされる先が、イスラエルの誰か、ではなく、シドンのこのやもめなのか。
イエス様はその故郷において、この第一列王記を引用し、メッセージしている。

『「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。』(ルカ4:24-26)
イエス様は「預言者は故郷では歓迎されない」事を伝えるために、イエス様はこの箇所を引用した。
つまり、エリヤの時代、イスラエルにも沢山、やもめはいたものの、この偉大な預言者エリヤを歓迎するやもめはイスラエルの中において、一人もいなかったという事だ。

不信仰な時代、預言者を誰も受け入れようとせず、むしろエリヤは指名手配が出されているような状態で、彼を見つけたなら、即アハブ王に報告するよう命令が出されているような状況であった。
それでエリヤは、イスラエルの誰にも遣わされる事なく、異邦の国・サレプタのやもめへ「遣わされた」のだろう。

主はサレプタの「やもめ女に命じてあなたを養わせよう」とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。
もし彼女が、主から命じられたという意識があったなら、エリヤを見るなり「お待ちしておりました、さあどうぞこちらへ」と言いそうなものだが、そうではないし、それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。

主は、当人にその意識があるにしろ無いにしろ、資力があるにしろ無いにしろ、その人の心に、その人の信仰に応じたミニストリーを「命じる」事がある。
なぜなら主は、全世界を見わたし、一人一人の生活の中における主への従順やこころざしを常日頃ご覧になっておられ、それぞれに対し、この時代のこの時、この事をするようにという志を立てさせて下さるのだ。
『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』(ピリピ2:13)
その時、たとえ主から命じられた「記憶」は無くても、持ち物や時間、お金が無くても、これこれの主の働きをしなくては、という意識が湧き上がり、その使命感に突き動かされて行く。
そうして信仰によって突き動かされて行った時、必要な志も、持ち物も、時間も、お金も、主が用意して行くものである。
サレプタのやもめには、日頃の信仰や従順から、信仰によって預言者を養う素地が出来上がっていたのであり、決して、宝くじに偶然当選するかのように、ききんの時代に生き残れる事に選ばれたのではなかったのだ。

エリヤが彼女に一口のパンを求めた時、彼女は「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と言った。
この言葉は、「これから私が言う事は偽りなき真実です」という意味の、イスラエル風の独特の言い回しではあるが、ともかく彼女はエホバなる主の御名を用いている。
つまり彼女は、元々、主を敬う信仰の持ち主だったのであり、だからこそ主はエリヤに彼女の所へ行くように示されたのだ。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(1列王記17:13-14)
ある人がここを読むと、エリヤは、とても「人でなし」な事を言っていると見なす。
やもめと子供の最後の食料を、まず自分に差し出せ、と。もしそれでエリヤが食べて終わりなら、それほど酷い話はない。
しかし、信仰ある人は「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という言葉に、大きな希望を見出す。
自分も、子も、そして預言者も、主からの直接の養いを受けるのだ、と。
その希望の根拠は、『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』という、イスラエルの神、主の言葉だ。
エリヤの言葉を、非道いと取るか、それとも希望に取るか。
それは、その人の信仰次第である。

彼女はエリヤを通した主の言葉に、ただ、行いをもって答えた。
『彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』(1列王記17:15-16)
主の偉大な栄光が、ここに現れた。
それは、彼女が主の言葉の通りにしたからだ。
主の偉大な栄光が現れるためにはどうすればいいか。それは単純に、主の御言葉どおりに行動する事であり、それ以上でも以下でもない。
こうして彼女は、エリヤの言葉どおり実行した事で、本当に粉は尽きず、油も尽きず、自身も、子供も、預言者も、ききんの間それによって養われた。

牧師を何年かしていると、彼女のように、最後の粉や油を差し出されるような事がある。
その時、彼らのその状況と心を見るに、人情としては、とても受け取れるような心境にはなれない。
ダビデが、三勇士が命がけで持ってきた水を、自分が飲む事は出来ず、そのまま主へ注いだように(2サムエル記23:17)、ただ主に差し出して「主よ、絶対彼らを養って下さい」と、深く祈る以外には無い。
エリヤはカラスの手で養われていたが、そのように、一人ひっそり養われているほうが、よほど心苦しい思いをしなくて済む、と思った事もあるが、それは間違いであった。

主は、信仰ある彼女が、飢えて死なないようにするために、彼女のために預言者を「遣わされた」のだ。(ルカ4:24-26)
そして預言者からすれば、主は預言者を養うために、彼女を主から命を受けたミニスターとして用意されたのだ。(1列王記17:9)
双方とも、はじめはその事が分からなくても、双方が御言葉どおり行った時、はじめてその事が分かるのだ。
これらの事は、信仰ある兄弟姉妹、共々、主への感謝が増し加わるためであり、互いに与え合う事によって、全てのものを惜しみなく分け与えて下さる方への感謝が、それぞれが捧げる事を通して、増し加わっていき、互いに豊かになって行くためである。
もし、カラスがただ必要を運んで来るだけでは、主の栄光も、信仰者達が受けるべき冠も、決して味わえないままだ。

『神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:8-12)

主に心から捧げる人には、主はこのようにして、決して尽きない主の栄光を見る事が出来、そしてききんの時代にあっても、物質的な養いを受ける事が出来る。
この、霊的ききんとも呼べる時代、働き人を養い、あるいは養われ、こうして双方とも主からの豊かな養いを受け、栄光をあらわす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エリヤ - 最も暗い時代に遣わされた、最も偉大な預言者(1列王記17:1-6)
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北イスラエル王国が主の目の前に悪を行い、それによる諸々の災いによって荒れすさんでいく中、主はなおも、北イスラエル王国を愛され、立ち返らせようと、度々預言者を遣わして来られたが、彼らは尽く、立ち返らなかった。
そして、闇が最も深くなった時、主は、偉大な預言者・エリヤをその時代に遣わされる。

エリヤは、預言者の代表格的存在である。
ユダヤ人達は、以下のマラキ書の預言を元に、エリヤが来るのを今でも待ち望んでいる。
『見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。』(マラキ書4:5-6)

ユダヤ人達は過ぎ越し祭ではエリヤが来た時のための、空の盃を用意し、一連の祭りの最後で皆で盃にあずかる時、外にエリヤが来ていないかどうかを、子供に確認させに行く。
子供が扉を開けて、エリヤが来ていない事を確認すると、祭りの司式者である父親は「来年は必ず来る」と言って、家族皆で、以下の歌を歌うの習わしとしている。
「エリヤが来る。エリヤが来る。来年は必ず エリヤ来る。その後、ダビデの家にメシヤが来る。その後ダビデの家にメシヤが来る。」(キムヒョンジョン博士著 テフィリン P119)この伝統は今日でも続けられている。
それは、エリヤが来て、その後にダビデの子孫であるメシヤが来るとするなら、イスラエルが代々舐めてきた民族的な苦しみから解放される、という、神の約束を信じているからである。
しかし、それらはとんでもない思い違いである。

エリヤも、メシヤも、とうの昔に来たのだ。
『弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。』(マタイ17:10-13)

バプテスマのヨハネこそ、人々の心をメシヤであられるキリストへと向けさせるエリヤの役割を果たした。(マタイ11:14)
そして、メシヤなるキリストが来られたのに、当時の主だった人々は、バプテスマのヨハネも、イエス・キリストも否定してしまったのだ。
それでユダヤ人達は、今でも頑なにキリストがメシヤであられる事を否定し、エリヤの来るのを頑なに待ち望んでいる。

やがて、イスラエル民族は、自分たちが突き刺したお方であるキリストを受け入れる時が、必ず来る。その事も預言されている。
「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」(ゼカリヤ12:10)

その偉大な預言者エリヤはどのような働きをしたのか。
それが、第一列王記17章から、第二列王記の2章に至るまで、詳細に記されている。
この章以降、あたかも物語の主人公の座を彼が奪い、彼を中心にイスラエルの王が、そして王国全体が、彼を通して語られる主の言葉に振り回されて行く展開となって行く。

『ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。』(1列王記17:1)
この言葉が発せられて以降、3年半の間雨は降らないのだが、この時はイスラエル人々も、またエリヤ自身さえ、いつまで雨が留められているのかを知らなかった。
イスラエルの民は、エリヤの言葉どおりに起きた事の実体験をしたが、アハブは悔い改めず、逆にエリヤこそイスラエルに災いをもたらすものとして、彼を見つけ次第、捕らえるようにと、イスラエル全体におふれを出した。

主に失礼を犯した自分が悔い改めるのではなく、悪いのは御言葉を語った者だとし、神に心を向けず、また、自分の悪にも向けない。そのような人からは、災いがいつもつきまとって離れない。
御言葉によって戒めを受け、そして実際に望ましくない状況へ落ち込んでいったなら、その状況は主がご自身の立ち返らせようとして起こされたのであって、自分が悔い改めるべきである。
それをせず、逆に御言葉を伝えた人や、御言葉どおりの事が起きた状況を「逆恨み」するとするなら、それはアハブの道である。

エリヤは、最初から宣言している。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」と。
つまり、イスラエルに雨が降らないのは、、エリヤのしわざではなく、彼が仕える主が為される事なのだ。
そして主は彼がアハブに捕らえられないように守り、その間の養いを与えられる。

『主の言葉がエリヤに臨んだ、「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。』(1列王記17:2-6)
主はエリヤを養うために、まず、ヨルダンの東に行けと指示された。
エリヤは、そこにかくまわれるのだが、この偉大な預言者を養うよう命じられたのは、なんと、カラスである。
カラスは律法では汚れた動物であり、カラスが運んできたものを食べるのは、律法を持たない私達でも嫌だが、それでも主はカラスに命じ、朝夕ごとにパンと肉を運んできた。
こんな時代であるからこそ、主は、その御言葉を忠実に伝える人を「宝」のように守り、カラスを用いられてでも、その人を養われる。
その時、主は、「ちょっとこの人は神様に用いられないだろう」というようなカラスのような人さえ用いられることがあるのだ。

この時代、主の目には、偉大な預言者をかくまい養う為に、不信仰なイスラエルの誰かを用いるよりは、カラスを用いたほうがましだ、と映ったのだろうか。
まさに、当時のイスラエルがどんなに情けない霊的状況であったかを示す、主からの大いなる「皮肉」である。

北イスラエル王国は、この干魃の間も、主に立ち返る事をしない。
しかし、どんな暗黒の時代でも、主は備えておられる。エリヤのような預言者を、そして、バアルに膝をかがめない七千人を。(1列王記19:18)

今のこの暗闇の時代、私達がイエス様を主とし、信仰を保って働くなら、私達こそ、主に備えられた「バアルに膝をかがめない七千人」であり、干魃のような時代であっても、主から養いを頂く保証を頂けるのだ。

 

イザヤ書 講解説教メッセージ
天地を創られた主による、神々に対する訴訟(イザヤ41:17-29)
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アハブとイゼベル - イスラエル最悪の王の時代へ(1列王記16:29-34)
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『ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。』(1列王記16:29-30)

アハブは、イスラエル最悪の王として有名である。
彼の統治は22年、統治期間としては決して長いとは言えないが、彼の統治中の出来事について、聖書は、詳細に記しており、第一列王記の16章から終わりの22章まで続いている。
それは彼と、彼の妻の悪業にまみれた暗い時代に対し、主が、預言者エリヤを通して為されるめざましいわざを通してイスラエルを立ち返らせようとする重要な出来事があったためだ。

『彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。』(1列王記16:31-32)
彼が「彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った」と称され、彼に比べればヤロブアムはまだ軽いとまで言われた理由は、彼は、シドンの王の娘・イゼベルをめとった点と、バアル礼拝を導入した点である。

ヤロブアムは、金の子牛を造ったものの、それでもイスラエルの神の御名は保っていた。(12:28)
しかしアハブは、イスラエルの神を退け、全く異教の神であるバアル礼拝を導入した。
サムエルの改革以来、イスラエルの中でバアル礼拝は途絶えていたのに、それをわざわざ復活させたのだ。

アハブ王は、イスラエル全体を、バアルにひざをかがめるようにさせてしまったが、アハブ王をそのように仕向けたのが、彼の妻イゼベルである。
新約には、アハブの名は登場しないが、イゼベルの名は、主のしもべや民を惑わし、偶像礼拝や不品行へと導く女として登場する。(黙示録)

女の惑わしによって破滅してしまう出来事は、聖書でも、世界史でも枚挙にいとまがない。
最初の人・アダムがそうだったし、ノアの時代の神の子達も、サムソンも、ソロモン王も、みんな不信仰な妻によって惑わされ、滅びを招いてしまった。
「あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。」(箴言31:3)
どんな人と結婚し、また連合するかについては、よくよく注意すべきである。

『アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。』(1列王記16:33)
主はあらかじめ言われていた。異邦の神々に従うなら、かならず滅びる、と。(申命記8:19)
『あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって、わなとなるであろう。むしろあなたがたは、彼らの祭壇を倒し、石の柱を砕き、アシラ像を切り倒さなければならない。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。』(出エジプト記34:12-14)
アハブはアシラ像を造り、主のねたみを引き起こしてしまった。

アハブは確かに主を怒らせる事を行なったが、主はすぐに彼らを滅ぼすわけではない。
「ねたみ」は、愛しているが故に沸き起こる感情である。
主はイスラエルを愛しているからこそ、立ち返るための機会と、そのための期間とを設けて下さる。

『彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:34)
ここに唐突にエリコが再建された記事が挿入されているが、アハブが行なった事と関連がある。

ヨシュアの時代、主はエリコの町を聖絶し尽くしなさいと言われ、一度、聖絶された。(ヨシュア記6:26-27)
しかしエリコの聖絶すべき物を惜しんで、それを隠し持っていたアカンは、イスラエル全体に災いを及ぼし、彼は家族もろとも滅ぼされてしまった。
主が「滅ぼし尽くせ」と言われたものを、復活させるのは、アルコール依存症だった人が、一度はアルコールを飲むのを止めたのに、再び飲む習慣を復活させてしまうようなものである。
それをするなら、以前よりももっと悪くなってしまう。
滅ぼし尽くす性質のものは、真剣に滅ぼし尽くし、それをしたなら、もうそれを「再建」してはならないのだ。

アハブは、滅ぼし尽くすべきものを再建させ、主のねたみを買い、災いを起こされてしまう。
主は、そんな彼と彼の時代を立ち直らせるために、素晴らしい預言者を遣わされる。

ジムリとオムリ - 御前に悪を行う王たちの戦乱の時代(1列王記16:15-28)
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北イスラエル王国の荒んだ時代の話が続いているが、その荒れ様は、さらにひどくなって行く。

『ユダの王アサの第二十七年にジムリはテルザで七日の間、世を治めた。民はペリシテびとに属するギベトンにむかって陣取っていたが、その陣取っていた民が「ジムリはむほんを起して王を殺した」と人のいうのを聞いたので、イスラエルは皆その日陣営で、軍の長オムリをイスラエルの王とした。』(1列王記16:15-16)
ジムリは主君バシャに謀反を起こし、王になりはしたものの、その統治はわずか七日、列王記の中で最も短い期間であった。
彼は「主君殺し」の代名詞にもなったようである。(2列王記9:31)
彼は謀反によって王となったが、その次の王・オムリは、人に選ばれて王とされた。

『そこでオムリはイスラエルの人々と共にギベトンから上ってテルザを囲んだ。ジムリはその町の陥るのを見て、王の宮殿の天守にはいり、王の宮殿に火をかけてその中で死んだ。これは彼が犯した罪のためであって、彼が主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させたその罪を行ったからである。ジムリのその他の事績と、彼が企てた陰謀は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:17-19)
王宮のあったティルツァは、とても美しい所である。(雅歌6:4)
彼は、それまでの王たちが悪の飲み食いをして来た、美しい地・ティルツァの王宮では七日しか楽しめずに包囲され、その最後は、王宮に火を放って自害するものだった。

彼のわずかな統治期間中にした事は、主の目に悪と見られる事であった、と記録されている。
彼の実績を一言で表すなら、以前のものを破壊しつくす事であった。
彼はまず、バシャという罪深い血筋を絶やすために用いられ(1列王記16:10-11)、そして彼が死ぬ時は、長らく罪の飲み食いが為されてきた王宮もろとも、火で焼かれた。

『その時イスラエルの民は二つに分れ、民の半ばはギナテの子テブニに従って、これを王としようとし、半ばはオムリに従った。しかしオムリに従った民はギナテの子テブニに従った民に勝って、テブニは死に、オムリが王となった。』(1列王記16:21-22)
ジムリが自殺した後も、イスラエルは平和ではなく、二つに分裂し、戦国時代のような様相であった。
主をないがしろにするなら、身内同士で敵対し、怒り憎しみあい、実体なき恐れに支配されて、安息が無い。
主を主としない事、強情に傲慢になって自分の道を曲げない事は、ただただ災いしかもたらさない。

『ユダの王アサの第三十一年にオムリはイスラエルの王となって十二年世を治めた。彼はテルザで六年王であった。彼は銀二タラントでセメルからサマリヤの山を買い、その上に町を建て、その建てた町の名をその山の持ち主であったセメルの名に従ってサマリヤと呼んだ。』(1列王記16:23-24)
それまでの行政の中心・ティルツァの王宮は焼かれ、そして首都は、サマリヤに移る。
こうしてヤロブアム以来、ティルツァで行われてきたあらゆる悪に終止符が打たれ、首都も変わって、北イスラエルは新しく出発するはずだったが、残念な事に、その再出発の方向は、良い方向ではなく、もっと悪い方向だった。

『オムリは主の目の前に悪を行い、彼よりも先にいたすべての者にまさって悪い事をした。彼はネバテの子ヤラベアムのすべての道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたその罪を行った。オムリが行ったその他の事績と、彼があらわした勲功とは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:25-27)
オムリは、彼以前の誰よりも悪を行い、北イスラエル王国を、さらに災いのスパイラルへと落としていってしまう。

主の道を外れた国は、栄える事も、心休まる事もない。
紛争やききん、地震など、天からの災害が絶えず、政権は短期間で何度も交代し、裏切り・下克上がはびこり、人の心は荒んでいく。
その中で、主の道に帰ったアサが統治する南ユダ王国が祝福されている様を見て、南ユダ王国へと移ってきた人々も大勢いた。(2歴代誌15:9)
頑なな心をもって主を主とせず、神ではないものを神とし続けるなら、自然災害や人災が絶えない。
それにひきかえ、主の道を歩んでいたアサは栄え、名声は高まって行った。

南ユダ王国の王・アサは、北イスラエル王国の初代王・ヤロブアムの統治が終わる2年前に王になった。
アサが正しく統治している間、北王国は、何度も王朝・王権が交代した。
アサの統治の2年目、南王国はナダブが王となり、その二年後、バシャが謀反を起こしてヤロブアムの血筋の者を全員殺して王朝が変わり、バシャの子エラに王が引き継がれると、その二年後にジムリが謀反を起こしてバシャの血筋の者を全員殺して、ジムリが王権を握るも、たった七日で王権は終わってしまった。
暫く分裂時代が続いた後に、アサの統治31年に、オムリが王となった。
このように、南ユダ王国のアサ王が統治した一代の間に、北イスラエル王国は、実に5回も王が変わり、3回も王朝が変わった。

神様は、北王国の有様に心を痛められ、時代時代に預言者を遣わし、主の道に引き戻そうとされる。
闇の時代に入っていけば、行くほど、神様は素晴らしいわざをおこして人々を立ち返らせようとされ、その憐れみの光は、闇の中に一層輝く。

イザヤ書 講解説教メッセージ
「恐れるな、わたしがあなたを助ける」主からそのように言われる人とは(イザヤ41:1-16)
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バシャとエラ - 懲りずに主の忌み嫌われる道を歩み、二代で終わってしまった王朝(1列王記15:32-16:14)
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主の道に歩まなかったソロモンへの反対勢力として、主はヤロブアムを反逆者として起こし、もし彼が主の道に歩むなら、ダビデの家のような長く続く家とする事を約束されたが、彼は主の道を捨て、不思議なしるしを通して警告を与えられても、頑なにその道を改めなかったため、ついには警告どおりの滅びが追いついてしまい、謀反者バシャによって、一族郎党、全員殺されてしまった。
こうしてヤロブアム王朝はわずか二代で終わり、王朝は、バシャへと移る。

『ユダの王アサの第三年にアヒヤの子バアシャはテルザでイスラエルの全地の王となって、二十四年世を治めた。彼は主の目の前に悪を行い、ヤラベアムの道に歩み、ヤラベアムがイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:33-34)
ヤロブアムの統治は22年続であったのに対し、バシャの統治は、それより2年長い。
しかし彼はヤロブアムと同じ道を歩み、そして、ヤロブアムと同じ運命を辿る事になってしまう。
それは、彼も主の言葉を無視し、偶像礼拝に邁進してしまったからである。
「ヤロブアムの道」に歩む者には、ヤロブアムと同じ運命が待っている。これは列王記では何度も繰り返されるパターンである事は前にも見た通りだ。

『そこで主の言葉がハナニの子エヒウに臨み、バアシャを責めて言った、』(1列王記16:1)
バシャを戒める預言者・エフーの父は、ハナニである。
彼はかつて、南ユダの王・アサに警告の預言をしたが、アサ王は悔い改めるのではなくその預言者に怒り、彼に足かせをかけてしまった結果、アサは足の病気にかかり、それでも悔い改めなったので、その足の病が元で死んでしまった。
そのような実績のあるハナニの子、エフーが、バシャに警告する。
『「わたしはあなたをちりの中からあげて、わたしの民イスラエルの上に君としたが、あなたはヤラベアムの道に歩み、わたしの民イスラエルに罪を犯させ、その罪をもってわたしを怒らせた。それでわたしは、バアシャとその家を全く滅ぼし去り、あなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにする。バアシャに属する者で、町で死ぬ者は犬が食べ、彼に属する者で、野で死ぬ者は空の鳥が食べるであろう」。』(1列王記16:2-4)

王が道を誤る事の何よりも罪深い点は、「わたしの民イスラエルに罪を犯させ」た事である。
もし臣下の民が、何百万かいるとしたら、その何百万全員を滅びへと向かわせてしまうからだ。
つまづきを与える指導者の罪は、重い。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」(ヤコブ3:1)

しかし、主の恵み憐れみは、バシャにも注がれていた。
もし、彼が警告に従って悔い改めていたなら、歴史は当然変わっていたであろうが、結局彼は改めなかった。

『バアシャのその他の事績と、彼がした事と、その勲功とは、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。バアシャはその先祖と共に眠って、テルザに葬られ、その子エラが代って王となった。
主の言葉はまたハナニの子預言者エヒウによって臨み、バアシャとその家を責めた。これは彼が主の目の前に、もろもろの悪を行い、その手のわざをもって主を怒らせ、ヤラベアムの家にならったためであり、また彼がヤラベアムの家を滅ぼしたためであった。ユダの王アサの第二十六年にバアシャの子エラはテルザでイスラエルの王となり、二年世を治めた。』(1列王記16:5-8)

バシャの子・エラに王権が移った時、その治世は、わずか二年であった。
ヤロブアムと全く同じパターンである。ヤロブアムの子・ナダブの時もまた、統治はわずか二年であった。
されど二年である。
その二年は、父の罪を見て、そこから離れるための猶予としては、充分であった。
しかしエラは、その二年という”猶予期間”を用いて、何をしたか。
彼はその憐れみ期間、あらゆる悪を行う事によって費やし、そうして悔い改めるべき時間を食いつぶし、ついには、滅びが追いついてしまったのだ。
私達も、憐れみの期間が与えられているのであれば、その尊い時間を食いつぶしてはならない。

いくら注意されても、悪事を止めない人がいる。
主の目に悪とされる事をどんなに行っても大きな罰が下った事は無い、と言って、あたかも主がおられないかのように、平気で罪の飲み食いをする。
信仰の人から「そんな事していたらやがて滅びが追いついてしまう」と、どんなに言われても、「今まで滅びなど来なかった、この道を続けても大丈夫だ」と言って、罪のブランコでブラブラと遊んでいるとするなら、やがて必ず、罪の刈り取りをする事になるのだ。
この事は、列王記のみならず、サムエル記でも、いや、聖書全体を通して、そのパターンを見ることができる。

バシャの滅びは、ある日突然来た。
『彼がテルザにいて、テルザの宮殿のつかさアルザの家で酒を飲んで酔った時、その家来で戦車隊の半ばを指揮していたジムリが、彼にそむいた。そしてユダの王アサの第二十七年にジムリは、はいってきて彼を撃ち殺し、彼に代って王となった。ジムリは王となって、位についた時、バアシャの全家を殺し、その親族または友だちの男子は、ひとりも残さなかった。こうしてジムリはバアシャの全家を滅ぼした。主が預言者エヒウによってバアシャを責めて言われた言葉のとおりである。』(1列王記16:9-12)
結局、バシャの王朝はヤロブアムと全く同じ運命を辿ってしまい、謀反によって成り上がったバシャの家は、同じく、自分の家来の謀反によって滅んでしまった。

『これはバアシャのもろもろの罪と、その子エラの罪のためであって、彼らが罪を犯し、またイスラエルに罪を犯させ、彼らの偶像をもってイスラエルの神、主を怒らせたからである。エラのその他の事績と、彼がしたすべての事は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。』(1列王記16:13-14)
彼らが滅んだ原因は、ヤロブアムと全く同じだ。
主を怒らせる行いを続け、それを指摘されても改めないという、滅びのパターンを歩んだからだ。
こうしてバシャの王朝も、たった二代で終わってしまった。

いのちの道から右にも左にも逸れる事なく、御言葉から離れず、何をしても栄える祝福のパターンを歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ナダブ - わずか二代で終わってしまったヤロブアムの家(1列王記15:25-32)
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25節以降は、北イスラエル王国の話に切り替わり、北王国・最初の王朝となったヤロブアムの子、ナダブの話である。

『ユダの王アサの第二年にヤラベアムの子ナダブがイスラエルの王となって、二年イスラエルを治めた。彼は主の目の前に悪を行い、その父の道に歩み、父がイスラエルに犯させた罪をおこなった。』(1列王記15:25-26)
ナダブの父・ヤロブアムは、北イスラエル王国を22年統治したが、彼はたった2年しか統治できなかった。
その理由は、彼が主の目の前に悪を行い、主の道にではなく彼の父の道に歩んだからである。

彼の・父ヤロブアムには、主から何度も預言者が遣わされ、主の道に帰るよう警告を受けていた。それなのに彼も、彼の子も、結局主の道に帰らなかった。
主は侮られる方ではない。
もし、主から御言葉によって警告が与えられているのにそれを無視し、敢えて好き勝手な道を選び歩むなら、遅かれ早かれ必ずペナルティが待っている。

ただ主は、悔い改めの機会を与えずにすぐに滅ぼしてしまわれるお方ではない。
悔い改めて立ち返るための「憐れみの期間」が、必ず与えられる。
その期間は、主が一方的に計り与えて下さるものであり、どのくらいであるのかは人には分からない。
ナダブの場合は、それは2年だった。
もし彼がこの期間、父の悪の道を離れ、主の道に帰っていたなら、当然、歴史は変わっていただろう。
しかし結局、彼は父ヤロブアムの道を改めず、その憐れみの期間を食いつぶしてしまい、滅びの目盛りが満ちてしまった。

『イッサカルの家のアヒヤの子バアシャは彼に対してむほんを企て、ペリシテびとに属するギベトンで彼を撃った。・・・こうしてユダの王アサの第三年にバアシャは彼を殺し、彼に代って王となった。彼は王となるとすぐヤラベアムの全家を撃ち、息のある者をひとりもヤラベアムの家に残さず、ことごとく滅ぼした。
主がそのしもべシロびとアヒヤによって言われた言葉のとおりであって、これはヤラベアムがみずから犯し、またイスラエルに犯させた罪のため、また彼がイスラエルの神、主を怒らせたその怒りによるのであった。』(1列王記15:27-30)
ナダブは、家来の謀反によって殺され、こうしてヤロブアム一族は、郎党もろとも根絶やしにされてしまった。
その事は、あらかじめ前章で預言されていた事だった。

元々、預言者アヒヤを通して主から約束されていた事は、ヤロブアムの家は、ダビデの家にような長く続く家を建てよう、という事だった。
それなのに、たった二代で、滅ぼされ尽くしてしまった。
それは彼らが、祝福を受け続けるための条件を、破り続けたからである。
祝福であれ、呪いであれ、預言には「もし**なら」という条件がつきものである。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。』(1列王記11:38)

主の約束は、一貫してシンプルであり、そして最初から全く変わっていない。
それはすなわち、主の道に歩むなら、必ず祝福される。主を軽んじ主の禁じられた道を行くなら、必ず呪われる、という事である。
しかし主は、コンピュータープログラムのように条件分岐のように、杓子定規に裁かれるお方ではなく、愛、憐れみ、うめきの感情をもって、人を救いたいと願っておられる主である。
『それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。』(エゼキエル33:10-11)

主は、悪人の死を喜ばれるのではない。
悪人が打ち叩かれて苦悶の表情をしている様を見て喜ぶようなお方ではない。
むしろ悪人が立ち返って、いのちの道を歩む事をこそ、喜ばれる。

悔い改めには、遅すぎる事は無い。
十字架という極刑が確定し、それが執行されている真っ最中の凶悪犯でさえも、イエス様を受け入れたなら、パラダイスへ行く事が許されたのである。
主はいつでも、人が悔い改める事をこそ、喜ばれる。

それでは死ぬ間際に悔い改めさえすれば、あとは好き勝手に生きても、強盗さえしてもいいのか、と思うのは、お門違いである。
人は、いつ死ぬか分からないものであり、そして人は、日常的に考え信じ行なっているものがとっさに出てしまうものだから。
御言葉であられる主との交わりは、日毎に、今、この時にするべき事である。
悔い改めも、主の目に適う事をするのも、御前で悪である事を止めるのも、きょう、今、この時に開始すべき事であって、それらは明日あるいは「いつか」に引き延ばすものではない。
信仰生活とは、主と共に歩む「今」という時間の積み重ねなのだ。

アサ - 祝福されたゆえに驕り高ぶってしまった後半人生(1列王記15:16-24)
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『アサとイスラエルの王バアシャの間には一生の間、戦争があった。イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:16-17)

アサは、主の目に適った良い王として記され、その名声は当時鳴り響いたが、勝利し、成功し、栄えた人生を暫く送った時こそ、特に気をつけなくてはならない事がある。
「傲慢」という、成功者の誰にも訪れる敵がひそかに忍び寄り、いつのまにそれに飲まれてしっているかもしれない。
この「傲慢」という敵に対処しなかった故に、せっかく成功したのに大きく落ちぶれてしまった王たち、牧師たちは、沢山いる。
アサも、その例にもれなかった。
第二歴代誌16章に、その詳細が記されている。

『アサの治世の三十六年にイスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所にだれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(2歴代誌16:1)
彼の治世は41年だったので、36年目は、彼の治世が終わる5年前である。
その時に、事が起きた。

『イスラエルの王バアシャはユダに攻め上り、ユダの王アサの所に、だれをも出入りさせないためにラマを築いた。』(1列王記15:17)
ラマはベテルからエルサレム、ベツレヘムへ至る街道沿いの要所であり(士師記19:13)、そこに要塞を築かれ封鎖されるなら、南ユダにとってかなり不利な事になる。
アサはどう対処したか。

『そこでアサは主の宮の宝蔵と、王の宮殿の宝蔵に残っている金銀をことごとく取って、これを家来たちの手にわたし、そしてアサ王は彼らをダマスコに住んでいるスリヤの王、ヘジョンの子タブリモンの子であるベネハダデにつかわして言わせた、「わたしの父とあなたの父のとの間に結ばれていたように、わたしとあなたの間に同盟を結びましょう。わたしはあなたに金銀の贈り物をさしあげます。行って、あなたとイスラエルの王バアシャとの同盟を破棄し、彼をわたしの所から撤退させてください」。』(1列王記15:18-19)
アサは、かつてのように主に伺ったり寄り頼んだりする事ではなく、持てる資産や手腕を用いて解決しようとした。
それも、「主のもの」として以前聖別したはずの金銀宝蔵を、主の宮から持ちだして、それをダマスコのシリヤの王、ベン・ハダデに贈って、外交交渉をするのだ。

その交渉は成立し、バシャはシリヤと南ユダからはさみうちされる形となったので要害を築く事をやめ、アサは、その素材を流用して近くにゲバ、ミツパの要害を築いた。(1列王記15:17‐22)
しかし、彼が主に寄り頼まず、聖別された主の宮の宝物を、世的な外交手段へと流用した事について、主から警告を受ける。
『そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。』(2歴代誌16:7-8)

ダビデは預言者からの警告を受けた時、素直に自分が罪を犯した事を認め、主に赦しを乞うた。その本気度は、詩篇51篇を見れば分かる。
しかしアサは、ダビデとは違った。
『するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。』(2歴代誌16:10)
彼は自分を省みるのでなく、その先見者に対して怒りを燃やして、彼に「足かせ」を課した。
その事で、アサは、「足」に災いが降される。

『アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。アサは先祖たちと共に眠り、その治世の四十一年に死んだ。』(2歴代誌16:12-13)
病気になったら医者に頼るのは当然と思われるかもしれないが、この時ばかりは、そうではない。
主の言葉を届けに来た人に怒りを燃やし、「足かせ」をした結果、「足」の病が激しくなった。そうであるなら、これは主からの警告である事は明確であり、主の前に出て、自らの罪を悔い改め、赦しを乞うべきなのに、逆に頑なになって、これは普通に病気になったのだとばかりに、医者に助けを求めたのだ。
しかしそれを続けた結果、二年後に、その病が元で死んでしまう。

『主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。彼は荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない。荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。』(エレミヤ17:5-6)
ここには、心が主から離れている人が、いかにむなしくなってしまうかが、記されている。
医者に頼るとか、自分の腕を頼りとするとかは、問題ではない。問題は「心が主から離れている事」であり、その状態であるなら、主はその人に、ご自身を頼りとさせるために、病や災いなど、あらゆる事を起こされる。

心が主から離れてしまっていて、世的な方法に解決を求める人は、荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない、と書いてある。
その人は、幸せが戸口に近づいて来てノックしていたとしても、無視してしまう。
そのノックの音に応え、扉を開きさえすれば、幸せが入って来るというのに、心が主から離れてしまっている人は、そういう事が分からず、そうしてやがては、幸せは扉を叩くのを止めて、去って行ってしまう。
そして、後で気づくのだ。
ああ、あの時、ノックされていたのだ、主の御声に聞き従っていればよかった、と。
あの時、あの預言者の声に、あの信仰の先輩のアドバイスに、聞き従っていればよかった、と、後になって悔やんでも、既に遅かった、というケースは、聖書から幾らでも見つける事ができる。

私達は、いつも主に向かって心を開き、御声に耳を傾け、その御言葉を頼るべきだ。
『おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。彼は水のほとりに植えた木のようで、その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。』(エレミヤ17:7-8)
いつでも御声に聞き従い、幸せが扉をノックしている時は、すぐに開けて迎え、いつでも幸せな人生を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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