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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

主の助けは遥か上を行っていた(2サムエル記22:10-20)
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『彼は「天(複数形)」を低くして下られ、/暗やみが彼の足の下にあった。』(2サムエル記22:10)

主は、主に助けを叫び求める人を救うために「諸々の天」を押し曲げて、降りてこられる。
天には、三つの種類がある。すなわち、上を見上げると見える天(宇宙)と、暗闇の勢力の悪霊どもが棲家とする「空中」(エペソ2:2)と、そして、「第三の天」(2コリント12:2)すなわち天国である。

主は、主に助けを求める人の叫びを聞くと、諸天を押し曲げて、降りてこられる。しかも、暗闇を足の下にして。
主は天から降りて来られる時、主の敵である闇を足の下に踏みにじって下さるのである。

ダビデの目の前に迫り来る敵は、ゴリヤテのように強大あった事もあれば、サウル王のような国家の最高権威だった時もある。
また、アブシャロムのように愛するわが子だった時もあるし、地を満たすほどの大軍団だった事もある。
しかし主は、それら全ての遥か上を行っていた。
主は、天地を支配しておられる万軍の主である。
その素晴らしい主が、こんなにもちっぽけで取るに足りない自分に関わって下さるとは、なんと恐れ多く、そしてなんと素晴らしい事だろう。

『彼はケルブに乗って飛び、/風の翼に乗ってあらわれた。彼はその周囲に幕屋として、/やみと濃き雲と水の集まりとを置かれた。そのみ前の輝きから/炭火が燃え出た。主は天から雷をとどろかせ、/いと高き者は声を出された。彼はまた矢を放って彼らを散らし、/いなずまを放って彼らを撃ち破られた。』(2サムエル記22:11-15)
敵が矢によって攻撃して来るなら、主は、いなずまの矢を放って敵を撃ち破られる。
主は火も水も操作し、大地を動かし、天を押し曲げ、物理法則をも押し曲げ、助けて下さる。
主の助けは、人間の力の及ぶ範囲や、人間の想像できる範囲の、はるか上を行っている。

『主のとがめと、その鼻のいぶきとによって、/海の底はあらわれ、/世界の基が、あらわになった。』(2サムエル記22:16)
主の息吹は、塵のかたまりにいのちを与えるし(創世記2:7)、死の大水を過ぎ去らせ、全地を覆った洪水の水をも乾かす。(創世記8:1)
主が風を送られると、海は右左に壁となって立ち、神の民にはその間を渡らせ、神の民を追い迫ってきたエジプト軍には、水の壁をその前に砕かせ、彼らを水中へと沈めさせた。(出エジプト記14章)
いかに人が力や権威、技術を駆使しても、到底太刀打ちできないような形で、主は助けて下さるのだ。

『彼は高き所から手を伸べてわたしを捕え、/大水の中からわたしを引き上げ、わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを救われた。彼らはわたしにとって、あまりにも強かったからだ。彼らはわたしの災の日にわたしに、たち向かった。しかし主はわたしの支柱となられた。』(2サムエル記22:17-19)
私達もいつも主と共に歩み、そして助けを求めるなら、迫り来る敵はどんなものでも、全て、主の御前に無力となる。
鼻で息を吸う人間も、自然環境や社会的環境、物理的な相手でも、霊的な相手でも、そしてまた、私達自身の内に打ち込まれている罪、欲深さ、強情さ、自我なども。
それらは、私にとっては、到底押し倒す事のできない強敵であっても、主を拠り所とし主に助けを求めるなら、主が圧倒的に勝利をされ、その勝利の行列に私達をも連ならせて下さるのだ。

『彼はまたわたしを広い所へ引きだされ、/わたしを喜ばれて、救ってくださった。』(2サムエル記22:20)
主はなぜ、ダビデを喜びとされ、彼を「ひいき」にされたのだろうか。
主はどのような人を喜ばれ、ダビデのように守られるのか。

『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10)
すなわち主は、主を恐れる人(主を敬い重んじる人)、主のいつくしみを望み求める人を、喜ばれ、彼らを助け、ひいきにして下さる。

ダビデはまた、主は自分を広い所へ導き出して下さった、と告白している。
私達も、御言葉を守り行うなら、今まで私達の通った事の無い、「広々とした良き地」を、主は踏みゆかせて下さる。

その「広々とした良き地」とは、実際の土地かもしれないし、社会的なポジションかもしれないし、あるいは、心の領域かもしれない。
いずれにせよ、御言葉を守り行う度に、内側が清められ、力強くされ、開放されて行くため、心の内が、ますます広々となって自由になるのだ。
そして、今まで恐れや未熟さの故に「あれは出来ない」「これも出来ない」と、閉塞していた心が開放され、出来なかった事が出来るようになり、考えもしなかったよう領域へと、踏み込んで行く事が出来るのだ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)

ダビデの人生をあらわす象徴的な詩(2サムエル記22:1-9)
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ダビデ記とも言えるこの第二サムエル記の終わり近くに、サムエル記の筆者は、ダビデの代表的な詩を一つ紹介している。
この詩は、詩篇18編とほぼ一致している。
数多くあるダビデの詩の中から、筆者が特にこの詩を選び、サムエル記に挿入したからには、この詩は、ダビデの人生を象徴的に表す詩とも言えるのだろう。

『ダビデは主がもろもろの敵の手とサウルの手から、自分を救い出された日に、この歌の言葉を主に向かって述べ、彼は言った、』(2サムエル記22:1-2)
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だったが、それ以降の、彼の王としての四十年、ダビデにはサウル以外にも「もろもろの敵」が立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、あるいは、親しい友や肉親からの突然の敵対、そして、悪魔からの誘惑など、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。

皆さんは、主はどのようなお方ですか、と尋ねられて、すぐに答えられる言葉があるだろうか。
ダビデは、主がどのようなお方であるかを、次のような言葉で表現している。
『主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが岩。わたしは彼に寄り頼む。わが盾、わが救の角、/わが高きやぐら、わが避け所、/わが救主。あなたはわたしを暴虐から救われる。わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:2)

主がどのようなご性質であられるか、詩の冒頭から幾つも記されている。
ダビデは様々な敵が立ちはだかる都度、主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行く内に、この詩篇が練られて行ったのだろう。

ダビデはこれら一つ一つの主の性質に、主は「わが・・・」「わたしの・・・」と宣言し、主のそれらのご性質は、皆「わたしのもの」という告白を添えている。
私達も、それにならうべきである。
主は、アブラハム・イサク・ヤコブの主であるばかりでなく、ダビデの主であり、そして今現在、これを読んでいる「あなた」自身の主でもあるのだ。
主は人類歴史において、主を「私の主。私の神。」と呼ぶ、全ての人にとって「主」となって下さるのだ。(ヨハネ20:28)

『わたしは、ほめまつるべき主に呼ばわって、/わたしの敵から救われる。』(2サムエル記22:4)
ダビデは主を「ほめ讃えられるべき方」としている。
彼は、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせている。
ダビデが中で多くの苦しみと死の危険を通って来た事は、サムエル記から既に見てきた。
その都度、彼は主に呼び求め、主から助けをいただき、ここまで来れたのだ。

『死の波はわたしをとりまき、/滅びの大水はわたしを襲った。陰府の綱はわたしをとりかこみ、/死のわなはわたしに、たち向かった。苦難のうちにわたしは主を呼び、/またわが神に呼ばわった。主がその宮からわたしの声を聞かれて、/わたしの叫びはその耳にとどいた。』(2サムエル記22:5-7)
ここの箇所は、次のヨナの祈りによく似ている。

『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナは大魚に飲み込まれ、海の底の魚の腹の中、という絶望的な状況から、主を呼び求めた。
彼の場合、その苦しみは、彼の不従順によって来た。
しかし、その自らの不従順の苦しみの中からでも、ダビデのように主の宮を思い焦がれた。そして主はそれを聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再び彼のミニストリーに戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自分の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りさえ、漏らさず聞いて下さるのだ。

主は、待っておられる。私たちが主に立ち返り、主を呼び求める事を。
『それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれると”すぐ”、あなたに答えてくださる。たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。』(イザヤ30:18-20)
ここを見ると、主はあたかも私達に「主よ助けて下さい」と言う事を今か今かと待っておられ、呼び求めるなら、直ぐにでも恵みを与えよう、と、いつでも準備しておられるかのようだ。
主はいつでも、恵もうと待っておられるのだ。

肉体が衰えても全く問題がない人になるために(2サムエル記21:15-22)
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『ペリシテびとはまたイスラエルと戦争をした。ダビデはその家来たちと共に下ってペリシテびとと戦ったが、ダビデは疲れていた。』(2サムエル記21:15)
ペリシテ人はまたしても巨人を動員してイスラエルに戦争を仕掛けて来たので、ダビデは部下を引き連れて戦いに出た。

ダビデは若い時から戦士であり、戦いが起きるなら、いつも率先して戦いに出て行こうとした。
唯一、あのバテ・シェバの事件の時を除いて。
あの時だけは、ダビデは部下達に戦闘に行かせて自分は王宮に留まり、あの事件を起こしてしまったが、それに懲りて以降、ダビデはまた率先して戦いに出るようになった。
しかし、そんなダビデも歳をとり、昔のようには行かず、戦いに疲れるようになってしまった。

『時にイシビベノブはダビデを殺そうと思った。イシビベノブは巨人の子孫で、そのやりは青銅で重さ三百シケルあり、彼は新しいつるぎを帯びていた。しかしゼルヤの子アビシャイはダビデを助けて、そのペリシテびとを撃ち殺した。そこでダビデの従者たちは彼に誓って言った、「あなたはわれわれと共に、重ねて戦争に出てはなりません。さもないと、あなたはイスラエルのともし火を消すでしょう」。』(2サムエル記21:16-17)
ダビデは若かりし頃、この巨人が持っていた三百シェケルの青銅の槍よりも二倍重い、六百シェケルの鉄の槍を装備したゴリヤテを打ち倒した。
しかしそのダビデも年老いて、敵を倒す事は出来なくなり、逆に危険な目に遭って、部下たちに助けられるようになってしまった。
そして部下たちからは、もう戦いに出ないで下さい、と、強く念を押されてしまった。

ダビデとしては、肉体が衰えて昔のように戦えなくなってしまった事を、情けなく寂しい思いがしたかもしれない。
しかし、ダビデにとっては、それは全然残念な事ではない。
なぜなら彼には、彼を助ける信仰の勇士達がたくさん育ってくれたからだ。

私達も、子育てできる内に、あるいは部下を育てられる内に、しっかりと育てているとするなら、歳を取っても、全く残念な事にはならない。
家庭でも会社でも、いつも自分が活躍の舞台に立ち続け、若者の活躍できる舞台や新人の自主性を取り上げて、何も引き継がない人はいるが、当面はそれで良くても、やがて力を失ってしまった時、その一族は衰え果ててしまう。
どんなに若々しく力強い活躍をしていても、肉体は日々衰えて行くものであり、新しい時代の「戦い」は、子々孫々に順次委ねて行かなくてはならないからだ。

『これらの四人はガテで巨人から生れた者であったが、ダビデの手とその家来たちの手に倒れた。』(2サムエル記21:22)
ゴリヤテのような体躯や武器を持つ巨人や、イスラエルをそしる巨人達が、合計四回出て来たが、皆、ダビデとその部下達の手によって制覇された。

ダビデは、相手がいかに大人数でも、あるいは巨人であっても、主への従順と信頼によって戦いに飛び込んで行き、勝利を勝ち取って行った。
部下たちは、そんなダビデの背中を追いかけながら戦いに行っていたため、いかに相手が大人数でも、巨人でも、進み出て戦って勝利する信仰を養っていったのだ。
全く、サウルの時代とは比べ物にならない時代になった。

サウルは、巨人の体躯や装備を見て恐れをなし、部下たちも逃げ隠れしていた。
確かに、主を知らない価値観を持った人間なら、そうなってしまうかもしれない。
しかし、主にある信仰者は、巨人さえも、獣の一匹のように主が倒して下さる事を確信し、進み出て、勝利するのだ。
ダビデは若い時から進んでそれを為し、そうして巨人の子孫どもは、ダビデの育てた部下達・信仰の子孫達によって、滅ぼされていった。

私達も今、若者や部下達がついて来れるような、立派な背中を見せてやり、信仰の勇士たちを育て上げて行きたいものである。
キリスト教は、伝道はする事は頑張っても、信仰を子々孫々へと継承して行く事をおろそかにして来てしまったため、せっかくリバイバルが起きたとしても、残念ながら次世代へと中々つながらないケースが、世界各地に見られる。

それに引き換え、ユダヤ人は、離散してから2000年経っても決して信仰は廃れず、およそ二千年ぶりに失った国土を回復するまでになったのは、ひとえに主から頂いた御言葉を大切にし、信仰を子々孫々に継承する事を徹底して守り行って来たからだ。
『イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない。』(申命記6:4-9)

私達の戦いは、血肉によるものではない。御言葉や信仰を武具とした、霊の戦いである。
ダビデの体が老いて行ったように、私達の体も、日々衰えるが、主に信頼する者は、力を得、鷲のように登っていく事が出来、内なる人は日々、新たにされて行く。
パウロは最後まで「わたしにならう者となってください」と言って、彼について行った弟子たちに立派な”背中”を見せつつ、信仰の道を走り通し、義の栄冠を勝ち取った。
私達もパウロのように、生涯現役の信仰の勇士として信仰の戦いを果敢に戦い、子々孫々に信仰を継承して行く者でありたい。

イザヤ書講解説教メッセージ

執事シェブナと宮内長官エルヤキム(イザヤ22:15-25)
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【概要】

本日のお言葉は、イザヤ書22章15節から25節を中心に、神に完全に信頼する生き方と、世の力に頼ることの儚さを伝えています。神の戒めと慰めの中で、私たち自身の選択が未来を決定するという重いメッセージです。

【聖書箇所】

・イザヤ22:15-25

・イザヤ30:1-3

・イザヤ36:3

・黙示録3:7

【慰めの言葉】

神は、苦難と混乱の中にあっても、心を寄せる者を決して見捨てず、助けと慰めを与えてくださいます。絶望の時にも、その愛は変わらず、私たちを包み込みます。

【励ましの言葉】

どんなに困難な状況でも、主に信頼し歩む者には、希望と力が与えられます。自分の力だけに頼らず、神の助けを受け入れることで、真の安らぎと成長が実現されるのです。

【戒めの言葉】

誇り高く、現実的な力に頼ろうとする者は、神の御前に厳しい戒めを受けます。神のご意志を無視し、自己の利益や人間の知恵だけを信じる行いは、最終的に混乱と破滅を招くことを忘れてはなりません。

【勧めの言葉】

この御言葉は、私たち一人ひとりに、主の道を選び、謙虚に神に頼る生き方を勧めています。世の誇る力に目を奪われるのではなく、日々の信仰生活の中で神の導きを求める大切さを示しています。

【悔い改めの促しの言葉】

もし今まで、己の力や世の知恵に頼って生きてきたなら、今一度、心から悔い改め、主に寄り頼む決意を新たにしてください。神は常に、真に心を改める者に新しい恵みと再生の道を開かれます。

【***詳細***】

本日の説教では、まずイザヤ書22章15節から25節に記された、イスラエルの高官シェブナに対する神の宣告について語られました。神はその誇りに満ちた生き方を厳しく戒め、彼が自分のために高い墓を掘り、自己の地位や権威に誇りを抱いたことを非難されました。神はシェブナに対して、誇り高い行いが全く無意味であり、むしろそれが家の恥と堕落につながると告げます。ここには、どんなに豪勢な建築物や人間の力があっても、神の御心に逆らうならば、結局はその力は打ち砕かれるという厳然たる現実が示されています。

また、説教の中盤では、同じくイザヤ書30章の1節から3節を引用し、エジプトや他の国の力に頼ろうとする者たちへの戒めが語られました。イスラエルの民は、現実的な軍備や人間の知恵を頼りにしようとした結果、真の救いから遠ざかってしまう危険性を持っていることが指摘されました。神は、いかなる強大な世の力にも代えがたい、ただ主に対する信仰こそが確かな救いであると強調されました。実際に、イスラエルはその時代において、エジプトやアシリアといった外敵に頼るよりも、主に心を向けることで救いを得た歴史があるのです。

さらに、イザヤ書36章3節に記されるように、勇敢な士官たちであっても、神の前ではその傲慢さが打ち砕かれる運命にあるという点が示されました。具体的には、シェブナと対照的に、ヒルキヤの子であるエリアキムが神に従い、信仰によって国を支えた姿が描かれています。説教者は、エリアキムの謙虚な態度と、神の命令に忠実な姿勢が、たとえ小さな力でも大いなる結果をもたらすことの象徴だと説きました。

なお、説教の後半では、黙示録3章7節の御言葉が引用され、ダビデの家の鍵の権威についても触れられました。「彼が開くと閉じるものはなく、閉じると開くものはない」という約束は、真に信仰のある者には神の祝福が与えられ、また不信仰に陥れば王国失墜の危機があるという、重大な真理を示しています。ここで語られる「釘」の例えは、どれほど堅固に打ち付けられたものでも、信仰が腐ればそれ自体が脆くなり、支えていた全てのものが崩れてしまうという教訓として、私たちに深く語りかけています。

この説教全体を通しての核となるメッセージは、信仰によって生きることの大切さです。偉大な権威や豊かな物質的安全を誇示しても、もし主への信頼が欠けていれば、その基盤はいつか必ず壊れてしまいます。実際、イスラエルの歴史は、偽りの安全や人間の知恵だけに頼った結果、悲劇や捕囚を経験してきました。対照的に、真に主に信頼する者は、どんな困難な状況にあっても、神の守りと恵みによって守られ、永遠の祝福が約束されるのです。

説教者は、具体例として、古代イスラエルの高官シェブナとエリアキムの対比を取り上げました。シェブナは自らの有り余る権威と豊かな財産に安心を抱いていましたが、その結果、神の怒りを買い、家の栄光を失いました。一方でエリアキムは、たとえ小さな役職であっても、心から主に従い、その従順な信仰により神の恵みを受け、イスラエルの未来に希望を与える存在となったのです。この点は、私たち一人ひとりにも当てはまります。たとえ地上的には小さな立場であっても、主に心を寄せ、その導きに従うならば、真の意味での繁栄と祝福が与えられるのです。

また、説教では現代における「地下シェルター」や「迅速な逃走」といった比喩を用い、私たちが直面する現実の災厄や不安定な状況に対して、物質的な安全策ではなく、信仰に基づく心構えが最も重要であるという教えが説かれました。どれだけ最新の安全設備や防衛力があっても、人間の力に頼る限り、永続的な安心は得られません。むしろ、主にすがり、毎日の祈りと悔い改めを通して神との交わりを深めることこそが、真の守りとなるのです。

最後に、この御言葉は私たちに自由な選択を迫っています。世の中の誇る権力や知恵にとらわれるか、あるいは謙虚に神に従う道を選ぶか。その選択が、私たち自身の未来はもちろん、永遠の行く末をも決定付けるのです。説教者は、集まった皆さんに対し、「私たちは今、この瞬間に、心から神に従う選択をし、主の御名によって生きる決意を新たにしましょう」という強いメッセージを送っています。そして、主の祈りを通して、一人一人が新たな信仰の力を体験し、自らの生活の中で具体的に主の御旨を実現していくことを励ましています。

【結論】

この御言葉は、私たちに誇り高い現実の力に頼るのではなく、謙虚に主に従って生きることの大切さを教えています。シェブナの失墜とエリアキムの栄光を通して、どんな小さな信仰でも主により頼むならば、真の祝福と守りが約束されるのです。私たち一人ひとりが、この真実を心に刻み、日々の生活の中で主の道を選び取るよう、改めて祈り求めましょう。

飢饉をもたらしたサウルと、恵みの雨をもたらしたリツパ(2サムエル記21:7-14)
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サウル王は民族意識が昂じて平穏に信仰生活していたギブオン人を虐げた結果、ダビデの治世に飢饉がもたらされ、しかも、その罪がなだめられるためには、サウル自身の子孫七人が、主の前で木にかけられ、晒し者にされなくてはならなくなってしまった。

主の約束を軽んじ、ふにゃふにゃの民族意識を昂じさせ、手前勝手な熱心を振り回して善良に暮らしている民族を弾圧する者は、その累が自身の子孫へと及んでしまうのだ。

『しかし王はサウルの子ヨナタンの子であるメピボセテを惜しんだ。彼らの間、すなわちダビデとサウルの子ヨナタンとの間に、主をさして立てた誓いがあったからである。』(2サムエル記21:7)
ダビデはヨナタンに、彼の子孫には恵みを施す誓いを、主の前でしていたため、ヨナタンの子・メフィボシェテを守るために、別のサウルの子孫達を選別した。
『王はアヤの娘リヅパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメピボセテ、およびサウルの娘メラブがメホラびとバルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、彼らをギベオンびとの手に引き渡したので、ギベオンびとは彼らを山で主の前に木にかけた。彼ら七人は共に倒れた。彼らは刈入れの初めの日、すなわち大麦刈りの初めに殺された。』(2サムエル記21:8-9)

アヤの娘・リツパは、元々サウル王のそばめで、サウル王に二人の子・アルモニとメフィボシェテを産んでいた。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女をめとる事によって、自分に実権があるという事を全イスラエルにアピールしたが、アブネルも程なくヨアブによって殺されてしまった。(2サムエル3章)
そんなリツパにとって、この二人の子は、生きがいであっただろう。
しかし彼女の子達は、大麦の刈り入れの始め頃(過越祭の時期)、山の上で木に掛けられ殺されてしまった。

『アヤの娘リヅパは荒布をとって、それを自分のために岩の上に敷き、刈入れの初めから、その人々の死体の上に天から雨が降るまで、昼は空の鳥が死体の上にこないようにし、夜は野の獣を近寄らせなかった。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天からの雨を降らせる時まで、そこを離れず、猛禽や獣から息子たちの遺体を守り続けたのだ。

ここまで徹底した愛、子が死体となって晒されても、なお守ろうとする「母の愛」。
これ以上の愛は、人には無い。
子がぐれて悪くなり、皆からは「死人」のように見なされても、それでもその子をいつも想い、守り、執り成す。
母とは、そういうものである。

しかし、それよりももっとすごい愛が、この世に存在する。
それは、神の愛である。
『女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 』(イザヤ49:15-16)

世の中には、自分が産んだ子をあわれまないような母親は、滅多にない。
しかし、たとえ母が子を忘れるような事があっても、それでもなお私達をいつも気にかけ、「言いようもない深いうめき」によって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。
たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになったとしても、それでもなお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまで、執り成しておられる。

『アヤの娘でサウルのめかけであったリヅパのしたことがダビデに聞えたので、ダビデは行ってサウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシギレアデの人々の所から取ってきた。これはペリシテびとがサウルをギルボアで殺した日に、木にかけたベテシャンの広場から、彼らが盗んでいたものである。ダビデはそこからサウルの骨と、その子ヨナタンの骨を携えて上った。また人々はそのかけられた者どもの骨を集めた。』(2サムエル記21:11-13)
リツパのその行動は、ダビデ王の心を動かした。

『こうして彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のゼラにあるその父キシの墓に葬り、すべて王の命じたようにした。この後、神はその地のために、祈を聞かれた。』(2サムエル記21:14)
長年の間、忘れ去られていたサウルとヨナタンの骨も、また、この度主の前で犠牲となったサウルの子孫達の骨も全て、彼らの故郷・父キシュの墓へと葬るように、ダビデはさせた。

リツパが若い時にサウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。
しかし、彼女がその遺体を守り続けた事によって、ギブオン人はなだめられ、神はなだめられ、日照りと乾燥の中ずっと遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの、恵みの雨が降り注いだのだ。
その雨は全イスラエルを潤し、イスラエルの多くの民にパンをもたらした。

私達もまた、父アダムの罪の故に、呪いが定められてしまっていたが、キリストもまた大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者とされ、神と人との前で晒しものとされた事によって、父なる神はなだめられ、彼を通して、全人類に恵みと慰めの雨が降り注いだのだ。
大きな愛は、人の罪と弱さを覆い、人を回復させ建て上げ、多くの人を潤し、恵みへと導く。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至って広まりつつあるのである。

ギブオン人の故の呪い(2サムエル記21:1-6)
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2サムエル記は、一章から八章までは、サウルの死から、ダビデ王国の全盛に至るまでの記録が記されており、九章以降はダビデの罪とその刈り取りの災いの記録が記されている。

この災いは、クーデターを起こした息子アブシャロムの死によって、一旦収束を迎えた。それが前回・二十章までの所である。
そして、2サムエル記の二十一章以降は、ダビデ治世で起きた付録的な事が記されている。

『ダビデの世に、年また年と三年、ききんがあったので、ダビデが主に尋ねたところ、主は言われた、「サウルとその家とに、血を流した罪がある。それはかつて彼がギベオンびとを殺したためである」。そこで王はギベオンびとを召しよせた。ギベオンびとはイスラエルの子孫ではなく、アモリびとの残りであって、イスラエルの人々は彼らと誓いを立てて、その命を助けた。ところがサウルはイスラエルとユダの人々のために熱心であったので、彼らを殺そうとしたのである。』(2サムエル記21:1-2)
ここに登場するギブオン人は、本来、聖絶されるべきカナン人であった。
彼らは、ヨシュアがカナンに攻め込んできた時、他のカナン人達が徹底抗戦の構えを見せる中、ギブオン人だけはイスラエルとの和平工作を画策し、彼らはあたかも遠い国から来たかのように変装してイスラエルをだまし、和平の不可侵条約を結ぼうとした。

彼らはヨシュア(イエシュア)に、直接交渉している。
『「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

ギブオン人は屈強な戦士で、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)にもかかわらず、彼らは主の民イスラエルと戦おうとはせず、武具ではなく、ぼろぼろの服を身につけ、主と主の民の前に低くなった。
彼らがそのように自らを低くしたからこそ、主は彼らを救わせたのではないだろうか。(詩篇96:7-10)

結局、イスラエルはだまされた形でギブオン人と和平条約を結び、イスラエルの人々は三日後、それに気づいた。
欺かれたとはいえ、イスラエルは彼らに手を出さない、と、主の御前に誓いを立ててしまった以上、彼らはギブオン人に手出しできなくなった。
『そこでヨシュアは、彼らにそのようにし、彼らをイスラエルの人々の手から救って殺させなかった。しかし、ヨシュアは、その日、彼らを、会衆のため、また主の祭壇のため、主が選ばれる場所で、たきぎを切り、水をくむ者とした。これは今日までつづいている。」(26-27節)

彼らは確かに「うそ」によってイスラエルの中に入ってきたが、イスラエルに入ってきて以降、彼らは以前カナンで行っていた偶像礼拝や暴虐、不品行などは捨て去り、主の祭壇や主の会衆のために、たきぎを切ったり、水を汲んだりして奉仕して行く内に、清められて行ったのだろう。
もし、彼らがそのまま邪悪な生活を続けていたとしたなら、和平条約など関係なくイスラエルから即刻絶たれるはずであり、イスラエルの中で生き残る事は出来なかっただろう。
彼らは日々、神の家のために、イスラエルの会衆のために奉仕をし続けて行く内に、以前の邪悪な行いは捨て去り、悔い改め、主を愛する心が芽生えて行った、にもかかわらず、サウルは誤った熱心によって彼らを殺し、追い払おうとしたのだ。

『それでダビデはギベオンびとに言った、「わたしはあなたがたのために、何をすればよいのですか。どんな償いをすれば、あなたがたは主の嗣業を祝福するのですか」。』(2サムエル記21:3)
ダビデは、どう償えばあなた達ギブオン人は快くイスラエルを「祝福」してくれるのか、と聞いている。
つまりダビデ王は、ギブオン人の「イスラエルを呪いいたい心境」を恐れ、なんとかそれを「祝福したい心境」へと持って行きたいと思っているのだ。
なぜならこの事は、先代王のサウルがギブオン人の血を流し、イスラエルから根絶しようとしたのが原因だと、主が明らかにされたからだ。
私達も、兄弟姉妹から呪われるような事をしているなら、彼らが陰で呪ったその言葉によって主から呪いを受け、そして祝福されるような事をしているなら、彼らが陰で祝福したその言葉によって、主から祝福をもらえるのだ。

それにしても、なぜサウルの代に災いが起きるのではなく、ダビデの代に起きたのだろう。
サウルは他にも色々な罪を犯したが、その報いは彼自身が受け、死をもって刈り取った。
しかし、後の代になってから、主がわざわざ飢饉を起こされた、という事は、もしかすると、サウルの代でイスラエル人に埋め込まれたギブオン人への差別と偏見が根強く残り、ギブオン人のうめきがいよいよ切になって、祈りが天に届いたのかもしれない。

神の国の中においても、色々な成り立ちで、救いへと入ってきた人達がいる。
その中にはギブオン人のように、「うそ」が取っ掛かりとなって教会の集いに入って来た人達も、もしかしたらいるかもしれない。外面的には信仰を装っておきながら、実は、教会の中の女性が目当てだとか、善良な彼らをだまして何かするため、等など。
しかし、最初の動機がどうあれ、教会のため聖徒のために奉仕をしていく内に、ギブオン人のように清い性質へと造り変えられ、真に救われて行く人も、また多い。
重要なのは、以前どうであったかではなく、今、主の交わりの中においてどうであるかである。

以前、どんな性質の人であったとしても、もはや悔い改めて邪悪な性質を捨て去っており、神のために奉仕に勤しんでいるのなら、同じ主にある兄弟姉妹として、平和に接するべきである。
それをサウルは、身勝手な民族意識を振りかざしてギブオン人を殺し、そうしてギブオン人に、イスラエルを呪うような気持ちにさせてしまった。
私達は、このサウルの道を歩んではならない。

『ギベオンびとは彼に言った、「これはわれわれと、サウルまたはその家との間の金銀の問題ではありません。またイスラエルのうちのひとりでも、われわれが殺そうというのでもありません」。ダビデは言った、「わたしがあなたがたのために何をすればよいと言うのですか」。
かれらは王に言った、「われわれを滅ぼした人、われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人、その人の子孫七人を引き渡してください。われわれは主の山にあるギベオンで、彼らを主の前に木にかけましょう」。王は言った、「引き渡しましょう」。』(2サムエル記21:4-6)

世の中には、ちょっとした被害を”ねた”として、過度な金銭を求めたり、過度な暴力で仕返しをする人は多い。
それなのに、ギブオン人は”ちょっとした”どころではない被害なのに一切求める事は無く、この問題はむしろ、主・エホバの問題であると言った。
それ程までに彼らの信仰は純粋となっていたのだ。

彼らはサウルを、「われわれを滅ぼしてイスラエルの領域のどこにもおらせないようにと、たくらんだ人」と言った。
主を愛する人にとって、神を礼拝する場所から追い出される事や、神の臨在の領域から閉めだされる事は、何にも代えられない苦痛である。
その人が主に訴えるなら、主は、神の家全体を飢餓に陥れてでも、その訴えを聞き届けられる。

現代、神の家である私達・教会は、よくよく気をつけるべきだ。
以前がいかなる状態であったとしても、またいかに「うそ」によって救いに入って来たとしても、ギブオン人のように、罪深い行いを止め、悔い改め、新しく主に仕える聖なる生活をするなら、主から弁護される。
しかし、そのように悔い改めた彼らを、サウルのように、誤った熱心で虐げるなら、その人が主に叫ぶ時、主から呪われてしまう。

名も知れぬ知恵深い女とヨアブ(2サムエル記20:14-26)
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将軍の地位から降ろされヨアブは、新しい将軍であり上司であるアマサを殺してしまい、彼自身の強烈な指導力を発揮させ、たちまちにして人々をまとめて反乱者シバを追いかけた。


『シバはイスラエルのすべての部族のうちを通ってベテマアカのアベルにきた。ビクリびとは皆、集まってきて彼に従った。そこでヨアブと共にいたすべての人々がきて、彼をベテマアカのアベルに囲み、町に向かって土塁を築いた。それはとりでに向かって立てられた。こうして彼らは城壁をくずそうとしてこれを撃った。』(2サムエル記20:14)
ベテマアカのアベルは、ガリラヤ湖の北、イスラエルの最北端に近い町である。シバと彼に従う者達は、そこに入った。
ヨアブはそこに到着次第、力づくで崩そうとしたが、一人の賢い女が、話し合いで解決を図ろうとする。

『昔、人々はいつも、『アベルで尋ねなさい』と言って、事を定めました。わたしはイスラエルのうちの平和な、忠誠な者です。そうであるのに、あなたはイスラエルのうちで母ともいうべき町を滅ぼそうとしておられます。どうして主の嗣業を、のみ尽そうとされるのですか」。』(2サムエル記20:18-19)
アベルの町は、周囲で何か問題が起きた時には、知恵と平和による解決を尋ねに来られた「母ともいうべき町」だったようである。
彼女はヨアブに、そのような平和な町をなぜ滅ぼそうとするのか、と問いかけた。

『ヨアブは答えた、「いいえ、決してそうではなく、わたしが、のみ尽したり、滅ぼしたりすることはありません。事実はそうではなく、エフライムの山地の人ビクリの子、名をシバという者が手をあげて王ダビデにそむいたのです。あなたがたが彼ひとりを渡すならば、わたしはこの町を去ります」。女はヨアブに言った、「彼の首は城壁の上からあなたの所へ投げられるでしょう」。こうしてこの女が知恵をもって、すべての民の所に行ったので、彼らはビクリの子シバの首をはねてヨアブの所へ投げ出した。』(2サムエル記20:20-22)
こうして、シェバの反乱は三日天下で終わり、アベルの町もこの名も無き女の知恵によって救われ、多くの人の血が流されずに済んだ。
これら全ての手柄は、ヨアブの独占状態となる。

『そこでヨアブはラッパを吹きならしたので、人々は散って町を去り、おのおの家に帰った。ヨアブはエルサレムにいる王のもとに帰った。ヨアブはイスラエルの全軍の長であった。』(2サムエル記20:22-23)
結局、ダビデの決定した人事をあざわらうかのように、ヨアブは、腕づくで元の地位に復帰してしまった。
ダビデの治世の間、彼自身の力と剣によって、そして、多くの血を流しながら、ヨアブは自分の地位を守り続けていたが、やがては彼がした事全ての報いを受ける時が来る。
よこしまな男・シバは、野心を燃やしてイスラエルに災いを振りまいて成り上がろうとしたが、結局、その災いは、彼自身の頭上に返ってしまったように。

今回、名も記されていない知恵ある女が出てきた。
元々、シバを打ち取ったのは、彼女の知恵によるものだったが、ヨアブは彼女に何か報いたような事は記されていない。
彼女のその後も、その名も、記されずじまいである。

ソロモンは言う。
『ここに一つの小さい町があって、そこに住む人は少なかったが、大いなる王が攻めて来て、これを囲み、これに向かって大きな雲梯を建てた。しかし、町のうちにひとりの貧しい知恵のある人がいて、その知恵をもって町を救った。ところがだれひとり、その貧しい人を記憶する者がなかった。そこでわたしは言う、「知恵は力にまさる。しかしかの貧しい人の知恵は軽んぜられ、その言葉は聞かれなかった」。』(伝道者の書9:14-16)
ソロモンは、平和の偉業を為したこの人は「記憶する者がなかった」と、あたかも、虚しい事のように評価している。

人の目から見るなら、ヨアブのように手柄を独占したり、ソロモンのように偉大な知恵が賞賛されたりする人が幸いで、彼女のように、手柄も名も残らなかった人は、何か虚しいかのように見えるかもしれない。
しかし、天の評価は違う。
『自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。・・・隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。』(マタイ6:1-4)

天の査定は、この世で人から賞賛を受けたり褒められたりしたら、天では報いは残っていないが、人目に隠れて行った良い行いは、全て、隠れた所で見ておられる天の父が報いて下さる、というものだ。
シバにしても、ヨアブにしても、ソロモンにしても、彼らの知恵、力、出世力は、彼らを永遠のいのちへと導く事は出来なかった。
彼らのように、多くの人々の血や税金、労苦の上に成り立っているような、地位や名誉、財をこの世で受けるよりも、主のまなざしと、御言葉の確信と、天において用意されている報いの希望によって成り立っている「平和の土台」に立てられた道を歩む者でありたい。

純潔を貫き通すダビデと、流血で物事を通すヨアブ(2サムエル記20:3-13)
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いよいよダビデは、再びエルサレムへ入城する。
『ダビデはエルサレムの自分の家にきた。そして王は家を守るために残しておいた十人のめかけたちを取って、一つの家に入れて守り、また養ったが、彼女たちの所には、はいらなかった。彼女たちは死ぬ日まで閉じこめられ一生、寡婦としてすごした。』(2サムエル記20:3)

アブシャロムの場合、エルサレムに王として入城してから、真っ先にした事が、ダビデを辱かしめるために、この十人の妾と寝た事だった。
ダビデはそ全く逆で、彼が王宮に戻って真っ先にした事は、彼女たちとは一生「寝ない事」だった。
ダビデは彼女たちを保護し、一生その家に閉じ込めた・・・それはどういう事だろう。

彼女たちは「一生、寡婦としてすごした」と記されている。寡婦とは、夫に死なれた女である。
つまり彼女たちは「ダビデの妾」としてではなく、「アブシャロムの未亡人」として扱われたという事だが、ダビデはなぜ、彼女を再び自分の妾として戻さなかったのか。
それは、律法では「してはならない事」だったからだ。
『女がその家を出てのち、行って、ほかの人にとつぎ、後の夫も彼女をきらって、離縁状を書き、その手に渡して家を去らせるか、または妻にめとった後の夫が死んだときは、彼女はすでに身を汚したのちであるから、彼女を去らせた先の夫は、ふたたび彼女を妻にめとることはできない。これは主の前に憎むべき事だからである。あなたの神、主が嗣業としてあなたに与えられる地に罪を負わせてはならない。』(申命記24:2-4)

アブシャロムは父ダビデ王を侮蔑し、平気で律法を破ったが、ダビデはその全く逆で、死んだアブシャロムを侮蔑する事も、律法を破る事も、決してせず、自分自身も彼女たちも純潔を貫かせたのだろう。
そもそも、ダビデが彼女達を王宮の留守番にしなければ、そのような事は最初から起きなかったのだろうが、過ぎてしまった以上、もはや、こうする以外には無かったのだろう。
いずれにせよダビデは、バテ・シェバとの一件以降、性的な面において、純潔を貫き通すようになった。(1列王記1:4)

続いてダビデは、王宮に戻ると、シェバの反乱への対応を速やかに取らなくてはならない。
シェバのおかげでイスラエルは再び分裂状態になってしまったため、これは急を要する。

『王はアマサに言った、「わたしのため三日のうちにユダの人々を呼び集めて、ここにきなさい」。アマサはユダを呼び集めるために行ったが、彼は定められた時よりもおくれた。』(2サムエル記20:4)
アマサは、ヨアブに代わって新たに任命された将軍で、彼の初仕事は、三日以内にユダから兵を集め、追撃体制を整える事だった。
しかし彼は慣れていなかったのか、期限内にそれを達成出来なかった。

『ダビデはアビシャイに言った、「ビクリの子シバは今われわれにアブサロムよりも多くの害をするであろう。あなたの主君の家来たちを率いて、彼のあとを追いなさい。さもないと彼は堅固な町々を獲て、われわれを悩ますであろう」。こうしてヨアブとケレテびととペレテびと、およびすべての勇士はアビシャイに従って出た。すなわち彼らはエルサレムを出て、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:6-7)
アマサが達成できなかった事のフォローを、ダビデはアビシャイに命じた。
旧知の経験豊かなヨアブであったら、すぐに出来た事であろうが、ダビデは既に彼を将軍の地位から降ろしている。
ところが、である。

『ヨアブはアマサに、「兄弟よ、あなたは安らかですか」と言って、ヨアブは右の手をもってアマサのひげを捕えて彼に口づけしようとしたが、アマサはヨアブの手につるぎがあることに気づかなかったので、ヨアブはそれをもってアマサの腹部を刺して、そのはらわたを地に流し出し、重ねて撃つこともなく彼を殺した。こうしてヨアブとその兄弟アビシャイはビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:9-10)
なんとヨアブは、ダビデが任じた将軍であり、既に彼の上司となったアマサを、殺してしまったのだ。

ヨアブのこのような仲間殺しは、アブネルに続き、二度目である。
最初の時は、サウル家の将軍アブネルの尽力によって、サウル家とダビデ家が平和の内に政権交代しようとしていた所に、ヨアブはアブネルを今回のように殺し、平和な流れを、流血によって染めてしまったのだ。
口づけと平和の安否をしながら近づいて、殺す。このような、イスカリオテのユダのような者は、安らかな死ぬ方はできない。(1列王記2:32)

『時にヨアブの若者のひとりがアマサのかたわらに立って言った、「ヨアブに味方する者、ダビデにつく者はヨアブのあとに従いなさい」。』(2サムエル記20:11)
この若者は、ヨアブのあまりに強引で”わかりやすい”行為に恐れ、思わず叫んだのだろう。
ヨアブこそ、ダビデの将軍としてふさわしい者だ、と。

『アマサは血に染んで大路の中にころがっていたので、そのそばに来る者はみな彼を見て立ちどまった。この人は民がみな立ちどまるのを見て、アマサを大路から畑に移し、衣服をその上にかけた。アマサが大路から移されたので、民は皆ヨアブに従って進み、ビクリの子シバのあとを追った。』(2サムエル記20:12-13)
他の人々も、ヨアブのあまりに強引で力任せなやり方に、誰も逆らうことが出来ず、ヨアブに従って行った。

男性は、このように、ごちゃごちゃした物事を、単純明快な力わざで進める人に頼もしさを覚え、ついて行ってしまう所がある。
しかし、主君を軽んじ、平和ではなく流血で物事を解決して行こうとする人には、平和な最後は無い。
人の血を流す者は、人から血を流される。(創世記9:6)
剣を取る者は、剣で滅びる。(マタイ26:52)
私達は、ヨアブのような怒りと流血によって滅びる者ではなく、ダビデのように平和をつくる柔和な者として、地を相続する者でありたい。

よこしまな一言によって、簡単に分裂してしまったイスラエル(2サムエル記19:41-20:2)
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エルサレムへ帰還するダビデを巡って、既に、色々な人間模様があるのを見ている。
ある人は、保身や命乞いのために、ある人は、本心からダビデの無事を喜んでダビデを迎えに来ていたが、今回見るのは、そのどちらでもない群衆達である。
すなわち、しっかりしたアイデンティティを持たず、ただトレンドや流行を追いかけるかのようにして、ダビデを迎えに来た人達である。

『さてイスラエルの人々はみな王の所にきて、王に言った、「われわれの兄弟であるユダの人々は、何ゆえにあなたを盗み去って、王とその家族、およびダビデに伴っているすべての従者にヨルダンを渡らせたのですか」。』(2サムエル記19:41)
イスラエルの人々がダビデに問い詰めている内容は、ダビデ王が帰還するに当って、なんで自分達を呼ばずにユダ族だけにダビデの帰還を世話させて、ダビデを「盗み去り」「独り占め」にさせたのか、と。

ダビデは、ただイスラエルに平和を戻したかっただけだ。
それまで、全イスラエルが担いでいたアブシャロムが、あっけなく討たれてしまい、右往左往していたイスラエルを、ダビデは一つにまとめるために、まずは、身内のユダ族に「ダビデをエルサレムへと戻しなさい」と指示を与え、そこからイスラエルに秩序を回復させようとしたのだ。
もしダビデが、自分を裏切ってアブシャロムに与した全イスラエルと和解する気が一切無かったとしたなら、アブシャロムの将軍だったアマサを、わざわざ自分の将軍に起用するなぞ、しなかったはずだろう。
ダビデはただ、イスラエルに平和を戻したかっただけなのだが、やましさの残っている群衆達は、別の思惑に流されていた。

『ユダの人々はみなイスラエルの人々に答えた、「王はわれわれの近親だからです。あなたがたはどうしてこの事で怒られるのですか。われわれが少しでも王の物を食べたことがありますか。王が何か賜物をわれわれに与えたことがありますか」。』(2サムエル記19:42)
ユダ族は、ダビデが返事する機会を奪って、平和ではない言葉でイスラエルに答えており、肝心のダビデの意図が不在のまま、集団と集団の争いが起こりつつある。

『イスラエルの人々はユダの人々に答えた、「われわれは王のうちに十の分を持っています。またダビデのうちにもわれわれはあなたがたよりも多くを持っています。それであるのに、どうしてあなたがたはわれわれを軽んじたのですか。われらの王を導き帰ろうと最初に言ったのはわれわれではないのですか」。しかしユダの人々の言葉はイスラエルの人々の言葉よりも激しかった。』(2サムエル記19:43)
ここに、イスラエル10部族対ユダ族という構図の分裂が起こっている。
その構図は、ダビデの子・ソロモンの時代が終わって以降、顕著に現れるのだが、この時、この混乱に乗じて人々を自分に引き寄せようとする者があらわれる。

『さて、その所にひとりのよこしまな人があって、名をシバといった。ビクリの子で、ベニヤミンびとであった。彼はラッパを吹いて言った、「われわれはダビデのうちに分がない。またエッサイの子のうちに嗣業を持たない。イスラエルよ、おのおのその天幕に帰りなさい」。そこでイスラエルの人々は皆ダビデに従う事をやめて、ビクリの子シバに従った。しかしユダの人々はその王につき従って、ヨルダンからエルサレムへ行った。』(2サムエル記20:1-2)
シバはラッパを吹き鳴らして人々を引き寄せ、わずか二言三言で、全イスラエルをダビデから引き離れさせてしまった。
この時、ユダ族は最後までダビデに付き従ったのであるが、結局、全イスラエルがいとも簡単に突如現れたシバの言葉になびいて、ダビデから離れてしまったという事は、結局彼らにっとってダビデはどうでも良かったという事だ。

つまり、群衆にとっては、自分の思い通りに行くなら、指導者はダビデでも、アブシャロムでも、シバでも良かったのだ。
いつの時代でも、アイデンティティを持っていない群衆は、浮動する大衆心理の赴くままに流され、自分をそこそこ良い生活をさせてくれるなら別に支配者は誰でも良く、いとも簡単に、ある指導者を持ち上げたり、あるいはすぐに敵対したりするものだ。
イエス様のエルサレム入城の時も、群衆はイエス様を高々と持ち上げたのに、その一週間後には、イエス様を十字架につけろと叫ぶ側に一斉にまわってしまった。

心定まらない群衆が集まって、よく分からない主張で盛り上がったりすると、そのような危うさがつきまとうものである。
こうして、肝心のダビデが一言も発しないままに、ただ群衆のざわめきの波に揉まれるまま、イスラエルは、再び分裂状態へと流されて行ってしまった。
せっかくダビデが建て上げつつあった、尊い和解のわざを、シバはいとも簡単にひっくり返してしまった。

シバのように、人々に混乱させ分裂させている彼らは、結局、自分が目立って、人々を自分のもとに引き寄せたいだけで、ダビデの事も、イスラエルの平和も、全く考えていないのだ。
人々に分裂の兆しを見ると「自分が成り上がるチャンスだ」とわくわくして、いらぬ扇情を煽り立て、そうして人々が分裂している様を見て「自分の思い通りになった」と、ほくそ笑んでいるのだ。
『罪の誘惑が来ることは避けられない。しかし、それをきたらせる者は、わざわいである。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。』(ルカ17:1-2)

主に属する人は、和解のつとめを為し、いのちを建て上げるが、サタンの意図は、つまづきを起こさせ、分裂させ、尊いものを踏みにじる。
私達はその意中に、はまってはならない。
パウロは言っている。
『兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。なぜなら、こうした人々は、わたしたちの主キリストに仕えないで、自分の腹に仕え、そして甘言と美辞とをもって、純朴な人々の心を欺く者どもだからである。・・・平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。』(ローマ16:17-20)

神は平和の神であり、分裂の神ではない。
平和の神は、私達聖徒の足をもって、そのような兄弟姉妹に分裂を促すようなサタンの性質を、踏み砕かせて下さるのだ。
ただし、私達が踏みにじるのは、誰か人間ではなく、サタンである事も、間違えてはならない。

イザヤ書講解説教メッセージ

幻の谷に対する宣告 - 悲しみ悔い改めるべき時に宴会騒ぎをした都(イザヤ22:1-14)
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【概要】

本日のメッセージは、イザヤ書22章に記された「幻の谷」(エルサレム)への裁きの宣告です。神からの警告や幻を軽んじ、人間の力や武器、目先の快楽に頼ったイスラエルの民の姿を通して、真の悔い改めと神への信頼に立ち返ることの重要性を学びます。危機に際して自暴自棄になるのではなく、最後まで主に望みを置き、主の言葉に聞き従う生き方を促します。

【聖書箇所】

  • イザヤ22:1-14

  • Iコリント15:32-34

【戒めの言葉】

  • 神からの幻や預言の言葉を軽んじ、それに従わないなら、厳しい裁きが臨みます。

  • 危機が迫る時、武器や人間の知恵に頼り、それらを計画し備えた神ご自身に目を向けないことは愚かなことです。

  • 「どうせ明日は死ぬのだから」と享楽にふけることは、神の救いの力を軽んじ、悔い改めの機会を自ら放棄する行いです。

  • 悪い交わりは良い習慣を損ないます。神を恐れない者たちの言葉に耳を傾け、同調してはなりません。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 主が警告し、悔い改めを呼びかけられる時、泣き悲しみ、頭を丸め、荒布をまとい、心から罪を告白し主に立ち返るべきです。

  • どんなに絶望的な状況に見えても、自暴自棄にならず、最後まで主に望みを置き、助けを求めなさい。主は悔い改める者を決して見捨てません。

  • 過去の過ちを認め、主に赦しを請い、主の前に清く正しい生活を送る決意をしましょう。

【勧めの言葉】

  • 主の言葉に耳を傾け、それを心に留め、従順に生きることが大切です。

  • 目を覚まして正しい生活を送り、罪から離れなさい。神についての正しい知識を持ちましょう。

  • 交わる相手を選び、互いに励まし合い、信仰の道を歩む良い友を持ちましょう。

【励ましの言葉】

  • 主は、私たちが犯した罪のゆえに私たちを見捨てることはありません。悪人の一人も滅びることを願わず、私たちが悔い改めて立ち返るのを待っておられます。

  • 主の叱責を侮らず、速やかに悔い改めるなら、主は豊かに恵みを施してくださいます。

【***詳細***】

今日、恵みをいただくみ言葉はイザヤ書の22章1節から14節です。イザヤ書22章1節から14節。初めに5節までをお読みいたします。

「幻の谷に対する宣告。これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。お前のうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ、お前のうちの見つけられたものも遠くへ逃げ去る前に皆捕らえられた。それで私は言う。『私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。』なぜなら、騒乱と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び。」(イザヤ22:1-5)

お祈りいたします。愛する主よ、今日もあなたが直接御言葉を我らに語ってください。このしもべの唇と、またこれにあずかる一人一人の耳を開いて、天の御座から流れ来る命の水、愛、憐れみ、赦しの水が豊かに我らに注がれますように。それを飲み干すことができますように。どうかこれからが、ただ、あなたの愛、憐れみ、赦し、恵み、それに満ち満ちたひと時でありますように。イエス様、助けてください。これからの一切をあなたの御手に委ねて、私たちの貴き主、イエス・キリストの御名によってお祈りをいたします。アーメン。

今日のこの22章は、「幻の谷に対する宣告」と題されています。この「幻の谷」とは一体どこでしょうか。続く内容からして、これはエルサレムであることが明らかになります。エルサレムは三方を谷で囲まれており、そして非常に主からの幻が頻繁に示された都でもあります。北側以外の三方は、ケデロンの谷やヒノムの谷などに囲まれ、天然の要害となっていました。ですから、ヨシュアの時代からダビデの時代に至るまで、イスラエルはそこを異邦人から攻め落とすことができませんでした。エブス人が住んでいましたが、ダビデがそこを攻略し、それ以降は神の都、神の民の首都として、イスラエルを代表する都のような立ち位置でありました。

その幻の谷に対する宣告です。まず1節、「これは一体どうしたことか。お前たち、皆屋根の上に登って。喧騒に満ちた騒がしい街、おごった都よ。」あまり良い言われようではありません。人々が屋根の上に登って騒いでいる、そんな光景が描かれています。

そしてこの都に対する宣告ですが、2節には、殺された者たちがたくさんいるけれども、「剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない」とあります。そのような死体がたくさん転がっているのを、イザヤは幻の中で見ています。これは、敵の剣によって殺されたのではなく、飢饉や内紛によって互いに殺し合ったり、餓死したりした人々で都が満ち溢れることを示しています。

また3節を見ますと、「お前の首領たちはこぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕らえられ」とあります。指導者たちは戦いもせずに逃げ出すのですが、遠くへ逃げる前に捕らえられてしまう、そう預言されています。

イザヤがこの預言をしていた当時、イスラエルにとって最も脅威となる大国はアッシリアでした。しかし、このイザヤの預言は、アッシリアによって成就したのではなく、もっと後の時代、バビロンが大国になった時に、確かに成就しました。バビロンがエルサレムを包囲した時、この都の中では、バビロンの兵士の剣によって殺された者よりも、むしろ、わずかな食糧を奪い合って互いに殺し合った人々、あるいは飢え死にした人々で満ち溢れました。そして、3節の首領たちについても、バビロンが包囲した後、イスラエルの首領たちはこっそりと都を捨てて逃げ出しますが、すぐにバビロンの兵に見つかり、まだ遠くに逃げないうちに捕まってしまうという、このことも成就しました。

預言者イザヤはそのような、将来起こる悲惨な有様を幻で見て、それで4節でこう言います。「私から目をそらしてくれ。私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」当時のユダの人々にとっては、確かにアッシリアの脅威はありましたが、まさかここまで悲惨な崩壊が来るとは思っていなかったかもしれません。イザヤはその悲劇を前もって見て、深く嘆いているのです。

なぜなら、これらのことは5節にあるように、「万軍の神、主から来るからだ」と説明されています。「幻の谷では城壁の崩壊、山への叫び」。主からの幻、主からの預言、主の御言葉が何度も何度もこの都にあったのですが、しかしイスラエルはそれに従わなかった様子が、6節以降のところに書いてあります。

「幻のない民は滅びる」という箴言の言葉がありますが、幻が示されても、それに従順しないとするならば、なおさら厳しい戒めが臨んでしまいます。神が示してくださる幻や警告に従わず、自分たちのやり方で対処しようとしたイスラエルの姿が描かれています。

6節以降を見ますと、「エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾の覆いを取った。お前の最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門に立ち並んだ。こうしてユダの覆いは取り除かれ、その日、お前は『森の宮殿』の武器庫に目を向けた。」(イザヤ22:6-8)とあります。矢筒、戦車、騎兵、兵士、盾、武器…要するに、これらのものに頼ったのです。主からの幻が示され、主から預言が示されても、目の前に戦争の危機が迫ってくると、彼らは主の言葉ではなく、自分たちの武器に頼ったのです。

9節からはこう続きます。「お前たちはダビデの町の城壁の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。」この下の池は、ヒゼキヤ王がアッシリアの攻撃に備えて作った貯水池のことです。イザヤはヒゼキヤに助言を与え、王は主により頼みつつ、地下水路を掘って貯水池を造りました。さらに10節から11節前半には、「また、エルサレムの家を数え、その家を壊して城壁を補強し、二つの城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた」とあります。様々な防衛策を講じたのです。

しかし、11節の後半にはこうあります。「しかし、お前たちはこれをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。」ヒゼキヤ王の時代には、王はまず主に祈り、主により頼んでこれらの備えをしました。しかし、その後の時代の王たちや民は、これらの物理的な備え、つまり貯水池や城壁、武器といったものには頼りましたが、それらを備えるように知恵を与え、助けてくださった神ご自身のことはすっかり忘れてしまったのです。彼らは、城壁を直し、貯水池を造り、家々を数えた人間の努力は覚えていても、その全てを導き、可能にしてくださった神を覚えていませんでした。

ヒゼキヤ王の時代、彼はまず主により頼み、荒布をまとって断食し、主に祈願しました。その上で、必要な水の確保や城壁の補強など、戦争に備える措置を施しました。しかし、ヒゼキヤの後の王たちは、主により頼むことを全くせず、ただ目に見える武器や防衛設備に頼ったのです。彼らは、素晴らしい備えを「なさった方」、つまり主なる神に目を向けず、昔からこれらを「計画された方」である神を目にも留めなかったと、イザヤは嘆いています。

ヒゼキヤ王は、主にお伺いを立て、様々な指示をいただき、その通りに実行しました。その後の王たちは、ヒゼキヤが残した貯水池も城壁も武器も民の数も家々も、全て引き継ぎました。しかし、一つだけ引き継がなかったものがあります。それは、主に伺いを立てるという祈りの信仰、主に信頼する信仰です。これだけは引き継がなかった。だから、このような悲惨な結果になったのです。

どんなに多くのものを持っていても、どんなに多くの兵士がいても、どんなに自分が強いと誇っていても、主に伺いを立てる信仰を持たずに生きるならば、槍一本放つことなく負けてしまうのです。これが、不信仰に至った者の結末です。彼らは武器を集めましたが、2節、3節を見ると、その武器を一切使わずに、武器を放置して逃げたとあります。一生懸命かき集めた武器は全く役に立たず、ただ武器を集めるという骨折り損に終わり、逃げるという恥をさらしたわけです。神なしの力、神なしの武器、神なしの城壁は何の助けにもなりません。

バビロンに攻め囲まれる時、その日、主は本当に悔い改めなさい、と呼びかけられました。12節です。「その日、万軍の神、主は、泣け、悲しめ、頭を丸め、荒布をまとえ、と呼びかけられたのに」。主は、髪を剃り、荒布を身にまとい、断食し、罪を悲しんで泣き叫び、悔い改めるようにと命じられたのです。イザヤを通して語られたように、もしそのような危機が目前に来たならば、大声で「主よ、あなたの言われた通りのことが私たちに起こりました」と告白し、地にひれ伏し、自分の罪を悔い改めなさい、そうすれば何とかなる、と主は言われたのです。

なのに、13節には何と書いてあるでしょうか。「見よ、お前たちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、『飲めよ、食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから』と言っている。」主が悔い改めを呼びかけているまさにその時に、彼らは「どうせ助からないのだから、今のうちに楽しもう」と、やけくそになって宴会を開いたのです。家にある、今までもったいないと大切にしていた家畜を殺して食べ、飲んで騒いだのです。

この、人間の質の悪いところ、クリスチャンであっても質の悪い者は、大変なことがあった時に絶対に悔い改めません。手持ちのもので飲めや食らえやと、やけっぱちになるのです。これは、主の力を軽んじ、「どうせ私を救ってくださらないだろう、そんな力があるわけない」と、自分で自分を見限っているのです。しかし、イエス様は一度も私たちを、私たちが犯した罪のゆえに見捨てたことはありません。主は、私たちがどんなに罪を犯していたとしても、「もうこいつはダメだ」と見限って捨てたことは一度もありません。悪人の一人も滅びないことを願っているのが主です。ですから、どんなに大変なことが自分の目の前にあるとしても、自暴自棄になって自分の命を見捨ててはいけません。最後まで主に望みをかけ、悔いて主に立ち返り、助けをいただこうとする、この立ち返りの信仰が私たちには必要なのです。

主は、悔い改めなさい、泣き悲しみなさい、自分の罪を悲しみなさい、荒布をまとって、頭を丸めて、ただひたすら主に祈願しなさい、と語られました。預言者が神の言葉を預かって「悔い改めなさい。今知っている悪事をやめて、自分の好むことをやめて、ひたすら主に祈願しなさい」と叫んでいる時に、この幻の谷の民は、幻を聞くのではなく、「ごちそうだ!喜び楽しめ!どうせ明日は死ぬのだから!」と言ったのです。

だから、14節で主はこう言われました。「そこで万軍の主は私の耳に啓示された。『この罪は、お前たちが死ぬまでは決して赦されない』と、万軍の神、主は仰せられた。」神の言葉に耳を傾けず、悔い改めを拒否し続ける者たちに対する厳しい宣告です。

この「飲めや食らえよ。どうせ明日は死ぬのだから」という言葉は、第一コリント人への手紙15章にも出てきます。32節から34節をお読みします。

「もし私が、人間的な動機からエペソで獣と戦ったのなら、何の益があったでしょう。もし死者が復活しないのなら、『さあ、飲み食いしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。悪い交わりは良い習慣を損ないます。目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私は、あなたがたを辱めるためにこう言っているのです。」(Iコリント15:32-34)

パウロはここで、死者の復活の望みがないなら、人生は刹那的な快楽を追求するだけものになってしまうと警告しています。「悪い交わりは良い習慣を損なう」とは、まさにイザヤ書の民が陥った状況です。「どうせダメだ」「みんなやっている」と言う人々の言葉に流され、悔い改めから遠ざかってしまうのです。皆さんの周りにも、「そのくらい平気だよ」「大丈夫だよ」と罪を軽く見る人がいるかもしれません。しかし聖書は、そのような人は「悪い友」であり、むしろ「それはダメだよ、気をつけよう」と忠告してくれる人が「良い友」だと言っています。

目を覚まして正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持ちなさい、とパウロは勧めています。この34節の言葉は、当時のコリント教会の中に、不信仰な者たちの言葉に影響されて、「どうせ死ぬのだから」と投げやりな生き方をしている人々がいたことを示唆しています。主は、そのような者たちに「目を覚ませ!」と呼びかけておられるのです。

友達が悪ければ良い習慣が損なわれる。交わる相手に自分も染まっていくのです。この良くない悪い友達、彼らは「どうせ明日は死ぬのだ。さあ飲み食いしようではないか」と言います。そういう人々に交じっているならば、本当に断食して悔い改めなさいと言われても、その悪い方になぜか人間はなびいてしまうのです。悪い方へと平均化されてしまう。だから本当に友達、交わる相手には私たちは気をつけるべきです。

天国の望みもなく、復活の望みもない人は、この地上での望みが全て崩れると、刹那的な快楽に走ります。しかし、天国と復活の望みを持つ人は、地上での望みが絶たれても、その永遠の望みを捨てることはできません。だから、安易に悪い行いをすることができないのです。

神様から戒めを受けても、預言者から御言葉をいただいても、それでも自分の好むこと、「飲めや食らえや、どうせ明日は死ぬのだ。いや、もしかしたら死なないかもしれない。今までずっと死なないで来たから、たまたまあの預言者は厳しいことを言っているけれども、でもどうせ明日も同じだ」などと、そのような考えに同調してはなりませんし、また皆さん自身が、そのような不信仰な者になってはいけません。

クリスチャンの中にも、「御言葉、御言葉と言っても、あれは昔の言葉だよ。この時代に合わないよ」と言う人がいます。そのような人は、今日の聖書によれば、私たちに災いをもたらす「悪い友」です。

当時の幻の谷の民、エルサレムの人々は、主からの幻や御言葉がひっきりなしに示されていたにもかかわらず、そのような悪い影響に染まり、多くの人々が預言の言葉を聞きませんでした。「泣け、悲しめ、頭を丸めて、荒布をまとえ」という幻が示されたのに、それを無視し、軽んじました。愚か者は叱責を侮るのです。そのような人は打ち叩かれ、その都から退場させられてしまいます。

彼らは、「この言葉を無視しなさい。食べて飲んで楽しもう」と言い、その言葉に従った結果、エルサレムは陥落し、国は滅びました。この時、バビロン捕囚を逃れて散り散りになった人々がイスラエルの地に戻るまで、実に長い年月がかかりました。ある計算によれば、紀元前586年のエルサレム陥落から1948年のイスラエル建国まで、約2500年です。もしテキストで3500年とあるのは、さらに古い時代からの離散を含めているのかもしれませんが、いずれにせよ、非常に長い間、国を失っていたのです。

最後に主は「悔い改めなさい」と言われました。髪の毛をむしり取りながら「ごめんなさい」と悔い改めるべき時に、「いや、悔い改めたところで何ともならないよ。助かりっこないよ。どうせ死ぬんだから、飲めや食えや、それで死のう」と言っている者たちの言葉を聞いたために、助かるべきイスラエルが助かることができず、一人一人が助かることができず、国を失い、多くの民が捕囚とされ、あるいは離散していったのです。

「やめなさい」と言われたことをやめないで軽んじると、「どうせ」という言葉に甘んじていると、自分の身に何が起きるかということを、今イエス様は、聖書の御言葉を通して私たちに教えておられるのです。「もう少し寝よう、もう少し横になろう、もう少し居眠りしよう」。その「もう少し」が、自分の身を滅ぼすことになるのです。二度としてはいけないことは、してはいけないのです。

それをやってしまって、イスラエルは滅びました。いざという時になってからでは遅いのです。主の預言、主の言葉が与えられた時に、しっかりと悔い改めて立ち返るならば、主は豊かに恵みを施してくださるのですが、主の叱責をことごとく侮ったら、もう遅いのです。災難がつむじ風のように襲う時、主を呼び求めても何の答えもなくなってしまうのです。

【結論】

幻の谷、エルサレムは、主からの豊かな幻と御言葉をいただきながら、それを無駄にしてしまいました。どうか私たちは、主からの幻や戒め、宣告をいただいたならば、それを無駄にすることなく、しっかりと聞き従いましょう。断食すべき時は断食し、悔い改めるべきことは悔い改める。そのような、飲めや食らえやという愚かな性質を私たちのうちから全く抜き取ってくださるように、主に祈り求めましょう。悔い改めるべき時にしっかりと悔い改め、私たち自身の中にある滅ぼされるべき性質を、主の御前に差し出し、滅ぼし尽くしていただきましょう。そして、主の御前に清く正しく生きることができるように、祈り求め続けましょう。

(この後、祈りと主の祈り、祝祷が続きますが、設問の指示に従い、説教内容の結論までとします。)

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